両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第57回定例会

主催講演会

発掘調査から見えてきた飛鳥京跡苑池のすがた






事務局作成資料

作製:両槻会事務局
2016年7月16日


  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
飛鳥京跡苑池遺構図 飛鳥京第Ⅲ期イラスト遺構図 飛鳥京跡苑池遺構 苑池の概観
南池の変遷 苑池遺構南池詳細 出土遺物
苑池の起源 古代中国・韓半島の苑の記録 苑池の構造分類と性格
飛鳥時代に到来した珍獣奇獣 飛鳥京跡苑池遺構出土木簡 飛鳥宮跡
飛鳥宮跡Ⅲ期内郭・エビノコ郭 飛鳥宮跡Ⅱ期 飛鳥宮跡Ⅰ期
鈴木一議先生ご寄稿 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


この色の文字はリンクしています。

飛鳥京跡苑池遺構 第10次発掘調査までのイラスト遺構図

 



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飛鳥京第Ⅲ期イラスト遺構図



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飛鳥京跡苑池遺構

苑池の概観


 飛鳥京跡苑池は飛鳥川右岸の河岸段丘上に立地し、飛鳥宮跡の北西に近接しています。大正5(1916)年には、この付近から「出水の酒船石」と呼ばれる石造物が2基存在していることも知られていました。平成11(1999)年、この石造物があった場所の北側で発掘調査が行われ、これまでに10次にわたる継続的な調査が行われています。
 その結果、幅約5mの陸橋状の渡堤をはさみ、周囲に石積みの護岸をめぐらせた南北2つの池と北に延びる排水路で構成された飛鳥時代の苑池(庭園遺構)であることが分かってきました。

 南池は、南北約55m、東西約65mの北に頂点を持つ五角形を呈しています。東岸は1m前後の大きな石を積み上げ高さ約3.5m以上になりますが、西岸の高さは約1.5mで、高低差を意識した造りになっています。
 池底には、平らな石が敷き並べられています。その中央付近には約6m×約11mの範囲で島状の石積みがあり、その北には東西長約32m、南北幅約15mの不定形な曲線をもつ中島があります。中島からは、松の根株が検出されており、植えられていた可能性が指摘されています。
南池には、4基の石造物が池中や南岸に設置されており、池への導水に使われていた可能性が指摘されています。
 また、池内では柱根や柱抜取穴が検出され、岸から張り出すテラス状の木製施設があったとみられています。さらに石造物周辺や東岸・中島周辺にも土坑群が検出されており、何らかの施設が設けられていた可能性があります。

 北池は、南北約46m~54m、東西約33m~36mの規模と推定され、深さは約3mと南池より約2m深く、直線的な形状を呈しますが、北東隅に階段状の施設を持ちます。池底には、平らな石が敷き詰められますが、石敷きは南池に比べやや乱雑な感があります。
 南池と北池を隔てる渡堤には、両池間の通水を図る木樋が2ヶ所で検出されています。

 北池からは、さらに北に幅約6mの石積みの水路が続き、約100m北で西折し、飛鳥川へ排水させる施設であると考えられます。

 南北池共に岸周辺は傾斜をもち、東側には礫敷が施されています。また、南東の池周辺の高台には、池の方向に影響された方位を持つ掘立柱建物が検出されています。
 さらにその東南では、苑池の東南隅を画する掘立柱塀が確認されており、苑池の範囲は南北約280m、東西約100mに及ぶとされています。

 南池の東岸、西岸、南岸は幅約2mの範囲で池底が約25cm高く段になっており、底石は2重になっていました。池が改修されたと考えられるようです。また、西岸は緩やかな傾斜を持っており、州浜状であったようです。

 苑池が存在した年代は、出土遺物から7世紀中頃(斉明天皇の頃)に造営され、7世紀後半(天武天皇の頃)に改修を加えた後、9世紀後半に至るまで維持・管理されたと考えられています。また、13世紀頃には、完全に埋没していたようです。

この飛鳥京苑池遺構は、『日本書紀』天武14(685)年11月条、「幸白錦後苑」と書かれる禁苑であるとする説が有力です。

 2012年12月8日に現地説明会があった第7次調査では、池の南岸から大正5年に発見された石造物の抜取穴が確認されました。
さらにその南側に石組暗渠が検出され、石造物への導水施設であることが判明しました。また、石造物の下部からは、それを支える台石が発見され石造物群の構成が解明されたかに思われました。

 しかし、左図のように石造物1への導水がこのままでは不可能であるため、実際の水の流れを解明するには、まだ時間を要することになりました。石槽の利用方法を含めて、今後の調査・研究に期待しましょう。



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南池の変遷

7世紀中頃
斉明朝
中島(古)東西約15m、南北約5m、高さ約1.3m。(上面盛土範囲からの推定) 地山削り出しの周辺に盛土。
石組護岸。
島状石組、石造物4石が配置された。
7世紀後半
天武朝
中島周辺の柱列の構築。
中島の改修(新)、東西および南岸付近の池底が段状に改修。
中島周辺の柱列の解体。
東西および石造物周辺に柱列の構築。西岸は、東岸と同様に北側まで施設されていたと推測される。
(西で1本、東で1本の柱が残存)
中島の北側に柱列が構築される。
(2本の柱が残存)
9世紀後半 南池廃絶 維持管理が停止し、埋没が始まる。
13世紀頃 埋没



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苑池遺構南池詳細

中島(古) 東西約15m×南北約5m 高さ1.3m 石組護岸
中島(新) 東西約32m×南北約15m 高さ1.3m 石組護岸
中島周囲柱列 東西14間以上×7間 35m×17m
柱穴深さ 0.45~0.55m
東・南・北は各3条
西は削平
中島北柱列 1間×1間 2.4m×2.4m
柱穴深さ 0.2~0.25m
西辺の2本が残存
南池水深30cmが判明
東岸柱列 東西1間×南北16間以上 1.5m×40m
柱穴深さ 0.85~0.9m
南端付近で1本残存
柱径20cm
西岸柱列 東西1間×南北5間 1.5m×12m
柱穴深さ 0.9m
北端で2本、南端で1本残存
柱径20㎝
石造物周囲柱列 東西7間×南北4間 15~17m×9m
柱穴深さ 0.2~0.4m
南池南東部建物等の特徴
掘立柱建物1 東西棟 7間×2間 21m×6m
柱穴深さ 1.0~1.2m
池に正対するかのように方位を振る
掘立柱建物2 東西棟 5間×4間 15m~17m×9m 西方位建物
掘立柱塀 東西塀約20m、南北塀推定約130m以上 延長線上に門の遺構
掘立柱建物(門) 東西2間×南北4間 5.4m×10.8m
総柱建物
苑池の門だと考えられる



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出土遺物

 出土遺物には土器、瓦、木製品、斎串、木簡等がありますが、木簡の内容は、薬に関するもの、荷札、文書木簡等多彩で、年代も7世紀中頃から8世紀初頭まで確認されています。
(参照:飛鳥京跡苑池遺構出土木簡一覧)

 苑池遺構からは、薬草園があったことを示す木簡が出土しています。発見されたのは、薬の処方を書いたと思われる木簡や庭園管理の役所を示す「嶋官」と書かれた木簡です。「嶋官」とは、後の律令制における宮内省に属する「園池司」の前身機関で、苑池とその付属施設を管理していた官庁と考えられます。

 また、木簡には、下記のような、病状と処方が書かれたものが有りました。
「□病齊下甚寒(やみてほそのしたはなはださむし)」(表面)
「薬師等薬酒食教〓酒(くすしらくすりざけをおせとのるくきざけ)」(裏面)

「西州続命湯方/麻黄□〔六ヵ〕/石膏二両∥(他に石・命・方の刻書あり)・当帰 二両○杏人卌枚\乾薑三両○「其○□水九□〔升ヵ〕□」

 さらに、「加ツ麻○」「波々支道草花」など薬草らしい植物名と配合量が書かれたものや「委佐俾」と書かれたものも出土しています。

 苑池の底の堆積土からは、桃や柿、梨など多彩な種子や花粉が検出されており、庭園には天皇に献上するための薬草園や菜園・果樹園が併設されていたと考えられます。

検出された植物の種子など
モモ、カキ、ナシ、センダン、ウメ、スモモ、アカマツ、チョウセンゴヨウ(松)、ハス、オニバス・センダン

 また、北池から延びる水路からは、ブリやスズキなど、海で捕れる魚類の骨がまとまって出土しました。ブリは60cm以上の成魚で、2枚か3枚に下ろした後、切り身にしたとみられる傷跡も残っていたとされます。他にも、ボラやスズキ、アジなどの骨があり、苑池で行われた宴に使われた海の幸を想像させます。


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苑池の起源

苑と園と嶋

 後漢時代の字書『説文解字』には、苑を「禽獣を養う所」、園を「樹木や植物のある所」とあり、それぞれが区別されていたことが窺えます。

 また、苑を垣などで囲ったものは囿(ユウ)と言われ、様々な珍しい禽獣が養われていたことが『史記』などの記録に残されています。苑囿・苑園などは皇帝の園林をさすとされています。

 中国では、苑は皇帝の季節的な狩猟儀礼などに起源を持ち、国を統治するため権力をより具象化するための道具のひとつでもあったようです。

苑に関する最も古い記録は、「酒池肉林」の故事の語源となった『史記』に記された殷の紂王の「沙丘苑」になり、秦代まで存続していたと伝えられています。

 同じく『史記』には、秦の始皇帝が渭水を引き込んで作ったとされる蘭池宮の記録があり、その大きさは、東西200里・南北20里と言われ、池には仙人が住むと言われる東方の神山のうち瀛州(えんしゅう)と蓬莱の築山が築かれたと記されています。

 漢の武帝もまた、建章宮の太液池、始皇帝の後を受け拡張した上林苑など多くの苑を造ったとされています。

 秦や漢の時代になって、苑の形態に不老不死の神仙思想が深く関わってくるようになり、苑内には宮殿や楼閣が置かれ、饗宴の場であるとともに軍事訓練の場としても重要であったとされています。この頃、中国におけるこのような苑の有り方が完成したと考えられています

 南北朝時代になると、北朝に比べ南朝の苑では三神山を模した築山が築かれることも少なくなっていき、より自然の風景に近い情景が好まれたとされています。これには、6世紀後半に南朝で受け入れられた老荘思想の影響で、古来の神仙思想への傾倒が希薄になっていった結果だと考えられています。

 その後、隋の煬帝の西苑、唐の三苑(東内苑・西内苑・禁苑)や杜甫の漢詩でも有名な唐・長安の曲江など多くの苑を挙げることが出来ます。


太明宮(唐)

長安城(唐)

 韓半島での苑と言えば、新羅の雁鴨池(がんおうち)が有名ですが、『三国史記』には、文武王7年(674)に、宮内に池を掘って山を造り、植物を植え珍しい鳥や動物を飼っていたと記されています。


雁鴨地 平面図
 復元された雁鴨池は、東西約200m・南北約180mの範囲におよそL字形の池の中に神山を表すとされる大小3つの島を配しています。
(蓬莱山、方丈山、瀛洲山)

 百済の苑の記録は『三国史記』によると、辰斯王7年(391)、東城王22年(500)、武王35年(634)などが見え、池や山を築いたことや珍しい動植物を飼っていたことが記されています。この中で、現在扶余にある宮南池が、泗泚時代の武王代のものであるとされています。これらの記録から、百済は新羅よりも古い時代から継続して苑が造られていたことが分かります。

 古代日本では、『日本書紀』推古34年(626)5月の「飛鳥河の傍に家せり。仍ち庭の中に小なる池を開れり、仍りて小なる嶋を池の中に興く、故、時の人、嶋大臣と曰ふ。」という蘇我馬子薨去の際に書かれた嶋大臣の名の由来記事に見られるように、池や中島を持つ庭園が「嶋」と呼ばれていたと考えられます。

 『日本書紀』の記述から、ここには「池」とその中に「小さな嶋」があったことが分かります。その後、嶋宮となったこの場所は、『万葉集』に詠まれた草壁皇子への挽歌の中に「上の池・まがり池」や「放ち鳥・鳥」「荒磯・磯」「たぎ」など池の様子を伺える言葉が多く見られます。
02-0170 嶋の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず
02-0172 嶋の宮上の池なる放ち鳥荒びな行きそ君座さずとも
02-0180 み立たしの島をも家と棲む鳥も荒びな行きそ年かはるまで
02-0181 み立たしの島の荒礒を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも
02-0182 鳥座立て飼ひし雁の子巣立ちなば真弓の岡に飛び帰り来ね
02-0184 東のたぎの御門に侍へど昨日も今日も召す言もなし

 『日本書紀』に登場する飛鳥時代の苑は、天武天皇14年(685)11月6日に「白錦後苑に幸す」と持統天皇5年(691)3月5日に「公私の馬を御苑に観はす」だけになり、これらの苑が、飛鳥京跡苑池をさすのではないかと考えられています。また、『懐風藻』には大津皇子の「春苑言宴」と題した漢詩が残されています。
『懐風藻』  五言春苑宴一首  大津皇子
 開衿臨霊沼  衿を開いて霊沼に臨み 
 遊目歩金苑  目を遊ばせて金苑に歩す
 澄徹苔水深  澄清苔水深く 
 晻曖霞峰遠  庵曖霞峰遠し
 驚波共絃響  驚波絃とともに響き 
 哢鳥與風聞  哢鳥風とともに聞ゆ 
 群公倒載帰  群公倒に載せて帰る 
 彭澤宴誰論  彭沢の宴たれか論ぜん 

 奈良時代になると、平城宮には、松林苑・南苑・西池宮・宮西南池亭・楊梅宮南池などが設けられたことが、『続日本紀』の記述や発掘調査結果から知ることが出来ます。


平城宮 平面図(奈良時代前期)

平城宮跡 東院庭園

 宮内の(朝廷の管理する)庭園が「苑」と呼ばれていたと考えられる一方で、個人の邸宅に付随する庭園は、『万葉集』や『懐風藻』に残された歌や漢詩から、飛鳥時代以降もシマ(山斎と書かれる)と呼ばれていたことが分かります。
『懐風藻』
五言山斎一絶  河島皇子
 塵外年光満  塵外年光に満つ
 林間物候明  林間物候明なり
 風月澄遊席  風月遊席に澄み
 松桂期交情  松桂交情を期す

五言山斎一首 大納言直大二中臣朝臣大島
 宴飲遊山齋  宴飲山齋に遊び
 遨遊臨野池  遨遊野池に臨み
 雲岸寒猿嘯  雲岸寒猿嘯き
 霧浦杝聲悲  霧浦杝聲悲し
 葉落山逾靜  葉落ちて山いよいよ靜かに
 風涼琴益微  風涼して琴ますます微なり
 各得朝野趣  おのおの朝野の趣きを得たり
 莫論攀桂期  攀桂の期を論ずること莫かれ

『万葉集』
03-0452 妹としてふたり作りし我が山斎は木高く茂くなりにけるかも
05-0867 君が行き日長くなりぬ奈良道なる山斎の木立も神さびにけり
06-1012 春さればををりにををり鴬の鳴く我が山斎ぞやまず通はせ
(天平宝字)二月、式部大輔中臣清麻呂朝臣の宅で宴する歌十首(うち4首 )
20-4498 はしきよし今日の主人は礒松の常にいまさね今も見るごと
20-4502 梅の花咲き散る春の長き日を見れども飽かぬ礒にもあるかも
20-4503 君が家の池の白波礒に寄せしばしば見とも飽かむ君かも
20-4505 礒の裏に常呼び来住む鴛鴦の惜しき我が身は君がまにまに

山斎(しま)を属目して作る歌三首
20-4511 鴛鴦の住む君がこの山斎今日見れば馬酔木の花も咲きにけるかも
20-4512 池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を袖に扱入れな
20-4513 礒影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも

 宮に付随する庭園を苑と呼ぶのであれば、飛鳥時代に属する苑池遺跡がもうひとつあります。

吉野宮復元ジオラマ(持統朝)

 宮滝遺跡の飛鳥時代以降の遺構は、4時期に分けられています。第1期は7世紀中頃(斉明朝)で、ほぼ正方位をとる中島を持つ池を中心とした庭園施設・掘立柱建物・長廊状の建物(?)などが確認されています。また、池への給水施設と考えられる長方形の土坑や長さ112cmを超える鍔付土管などが出土しています。池の規模は、東西50m、南北20m、深さ60cm程度で、出土遺物などから第3期の聖武朝まで存続していたと考えられています。第2期は7世紀後半から8世紀初頭(持統朝)で、第1期よりやや西に広がりを見せます。

 中島を持つ池の規模は小さくなりますが、吉野が古代から神仙思想と深い繋がりを持つ場所であるのを考えると、時代的にも興味深い事例ではないでしょうか。

 古代日本の庭園の様式は、中国や朝鮮半島の影響を受けているとされます。

 百済の造園技術が伝えられたエピソードと考えられる記事が、『日本書紀』推古20年(612)にみえます。

 百済からの渡航中に、置き去りにされそうになった人物が「我にはいささかの才能がある。丘や山の形を築くことができる。留め置いて用いればきっと役に立つ。(亦臣有小才、能構山岳之形。其留臣而用則爲國有利・・・)」と造園技術を持つことを自ら進言したとあります。無事、来朝を果たしたこの人物は、宮の前に須弥山や呉橋を築くことを命じられ、路子工と名付けられたと書かれています。

 このように韓半島から技術者が来朝した可能性は十分に考えられます。また、推古朝には遣隋使も派遣されています。 

 『日本書紀』には、『史記』『三国史記』のように庭園の造営に関して細かい描写がありませんが、白雉や白い亀などアルビノ種の動物が珍重され朝廷に献上されたのも、三神山(蓬莱 ・方丈・瀛州 (えいしゅう))に住む生き物は全て白だという神仙思想の影響を受けているとも考えられます。

 飛鳥時代に起こった韓半島三国と中国の興亡、古代日本と隋や唐、韓半島との交流を合わせて考えてみると、苑(庭園)に関わる技術や思想の背景が少しばかり浮かび上がってくるようにも思えます。



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古代中国・韓半島の苑の記録

≪中国≫
『史記』殷本記                  …殷 紂王・沙丘苑
 …民衆から多くの税を取り立てて金品穀物を蓄え、珍種の動物や珍品を集めて宮室を満たし、宮殿を拡張しては、様々な野獣や飛鳥を捕まえては放し飼いにした。鬼神を慢り、盛んに人々を集めては沙丘の地において楽しみ戯れ、酒池肉林をなし…
(…厚賦税以實鹿臺之錢,而盈鉅橋之粟。益收狗馬奇物,充仞宮室。益廣沙丘苑臺,多取野獸蜚鳥置其中。慢於鬼神。大聚樂戲於沙丘,以酒為池,縣肉為林…)

『史記』秦始皇本紀31年 張守節『史記正義』  …秦 始皇帝・蘭池宮
始皇帝は長安に都をつくった。渭水の水を引いて池を作り、蓬莱・瀛州の築山を築いた。石を彫って鯨を作り、その長さは二百丈であった。
(秦記云。始皇都長安。引渭水為池。築為蓬、瀛。刻石為鯨。長二百丈。)

『史記』》巻12孝武本紀             …前漢 武帝・建章宮
是に於て建章宮を作る。― 其の北に大池を治む。漸臺の高さ二拾丈余り、名づけて太液池と呼んだ。 池中に蓬莱・方丈・瀛州・ 壷梁有り。海中に神山や亀魚の属を象る。
(於是作建章宮。―其北治大池。漸臺高二十余丈。命名日泰液池。中有蓬莱、方丈、渡州、壺梁。象海中神山亀魚之属。)



『西京雑記』                    …前漢 武帝・建章宮
太液池の岸に彫胡・柴籍・緑節の類、草叢には鴨の雛や雁の子で満ち溢れ、亀や竈も多かった。
(太液池邊皆是彫胡、柴簿、緑節之類。―其間髭雛、雁子布満充積。又紫亀、紫竈。)
曲江 杜甫                 …唐 曲江池

朝回日日典春衣  朝に回りて日日春衣を典す
每日江頭盡醉歸  每日 江頭に醉を盡くして歸る
酒債尋常行處有  酒債尋常行く處に有り
人生七十古來稀  人生七十古來稀なり
穿花蛺蝶深深見  花を穿つの蛺蝶深深として見え
點水蜻蜓款款飛  水に點ずるの蜻蜓款款として飛ぶ 
傳語風光共流轉  語を傳ふ 風光共に流轉して
暫時相賞莫相違  暫時相賞すること相違ふこと莫かれと


≪新羅≫
『三国史記』巻6新羅本紀 第7文武王14年(674)
宮内に池を掘り、山を造り、草花を植え珍奇な鳥と動物を飼っていた。
(宮内穿池造山 種花草 養珍禽奇獸)


≪百済≫
『三国史記』巻第25「百済本紀」第3辰斯王7年(391)
正月に宮室を改修し池を掘って山を築き、珍奇な動物や草花を育てた。
(春正月 重修宮室 穿池造山 以養奇禽異卉)

『三国史記』巻第26「百済本紀」第4東城王22年(500)
春に宮の東側に臨流閣を建てたが、高さが五丈であった。さらに池を掘って珍奇な飛禽たちを飼った。
(春 起臨流閣於宮東 高五丈 又穿池養奇禽)

『三国史記』巻第27「百済本紀」第5武王35年(634)
3月に宮の南側に池を掘り、水を20余里にわたり引き入れ、池の端の 4つの丘に柳を植え、池の中に島を造り方丈仙山を模した。
(三月 穿池於宮南 引水二十餘里 四岸植以楊柳 水中築島嶼 擬方丈仙山)



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苑池の構造分類と性格

方形池A類-護岸が垂直壁。1m未満の水深、6m未満の規模と小さめのもの。
  (石神遺跡A・石神遺跡B・郡山遺跡)
方形池B類-護岸が垂直壁。水深が1m以上、8m以上の規模が大きめのもの。
  (島庄遺跡A・飛鳥池遺跡)
方形池C類-護岸が傾斜壁で水深の深いもの。
  (雷岡東方遺跡・坂田寺跡)
曲池A類-懸樋で水を上から落とす施設
  (上之宮遺跡・島庄遺跡B・古宮遺跡・宮滝遺跡B・出水酒船石)
曲池B類-曲線を多用した護岸を持ち、水深が浅く中島を持つもの。
  (宮滝遺跡A・飛鳥京跡苑池・飛鳥宮内郭の池)
その他-石敷のみで池が確認されていないもの。
  (平田キタガワ遺跡・雷内畑遺跡)


苑池の分類と系譜



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飛鳥時代に到来した珍獣奇獣(苑池で飼育された可能性のある動物)
年 月 到来元








推古6年4月 新羅(難波吉士磐金)
推古6年8月 新羅
推古7年9月 百済
大化3年 新羅
斉明2年 百済(西海使)
斉明3年 百済(西海使)
斉明4年 阿倍比羅夫
天智10年6月 新羅
天武8年10月 新羅
天武14年5月 新羅王

 『日本書紀』白雉元年2月条には、宍戸国より白い雉が献上され、難波園に放つエピソードが綴られています。白雉は孝徳天皇の時代ですので、難波宮の庭園になりますが、献上された珍獣を宮の苑池に放すということが有ったことが分かります。


飛鳥時代に到来したアルビノ種 (苑池等で飼育された可能性のある瑞兆動物)

年 月 到来元 白雉 瑞鶏 白鷹 白鵄 白鹿 赤鳥 赤亀 三本足雀
推古6年10月 越国
推古7年9月 百済
大化3年 新羅
白雉元年2月 宍戸国
天武4年1月 大和国
東国
近江
天武5年5月4年 大和国添下郡
天武6年11月 筑紫国
天武10年9月 周防国
天武12年1月 筑紫国


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飛鳥京跡苑池遺構出土木簡(63点)
  • 多支五十戸伊久知五十戸伊伎(裏面「大」「知々」など多くの習書あり)
  • 奉〈〉
  • 大夫前恐万段頓首白僕真乎今日国下行故道間米无寵命坐整賜
  • 病斉下甚寒薬師等薬酒食教豉酒
  • 丙寅年〈〉廿一日十八日子古鮑一列勅人奈十九日寅古鮑三井上女
  • 加ツ麻十波々支道花六加庖四草二知々三五百木部四
  • 都油加石史〈〉二人(裏面釈文に「」を刻書重書)
  • 坂田評歌里人錦織主寸大分
  • 佐評椋椅部
  • 三五十戸秦俵
  • 評丈部小止支〈〉俵
  • 高屋郎女蝮女非王
  • 委佐俾三升
  • 五石八斗
  • 中衣四
  • 三(刻書)下(刻書)
  • 于官干官波ツ閇〈〉
  • 日下部真次人大伯部多初
  • 山田肆二束
  • 百七束
  • 并十二
  • 伯女
  • 有嶋官
  • 宿祢三留末呂
  • 〈〉之之之此
  • 北一言知
  • 大山下「太」
  • 佐留陀首夫
  • 利須
  • 造酒司解伴造廿六人
  • 三分亡肖三分松羅斤
  • 十取廿取卅取五六七〈〉十一十二
  • 猪名部評宮→政人野廿甘万→
  • 安怒評片県里人田辺汙沙之「又宮守」『物部己二人知
  • 戊子年四月三野国加毛評度里石部加奈見六斗
  • 井手五十戸刑部赤井白米
  • 〈〉評丹生〈〉部
  • 丙戌年六〈〉
  • 許刃主寸可布知俵
  • 生海松
  • 阿支奈勢
  • 佐王
  • 春春春春春春(表裏とも他に習書あり)
  • 坐乎下徳徳天之下〈〉
  • 登天人〈〉委〈〉〈〉‖
  • 高侍連千足三処〈〉国
  • 西州続命湯方麻黄六石膏二両‖(他に石命方の刻書あり)当帰二両杏人卌枚乾薑三両○「其○□水九□〔升ヵ〕□」
  • 其水
  • 戊寅年十二月尾張海評津嶋五十戸韓人部田根春舂赤米斗加支各田部金
  • 尾治国春部評池田里三家人部〈〉米六斗入
  • 遠水海国長田評五十戸匹沼五十戸野具ツ俵五斗
  • 三野国安八麻評
  • 高志国利浪評ツ非野五十戸造鳥
  • 播磨国明伊川里五戸海直恵万呂俵一斛行司舂米玉丑
  • 大伯郡土師里土師寅米一石
  • 山田評
  • 前軍布
  • 大〓費直伊多◇大〓費直伊多◇
  • 丙子年六→見
  • 鳥養



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飛鳥宮跡

  現在、飛鳥宮跡は、複数の宮跡が重層して存在していると考えられています。3層4期に区分される宮跡の最上層はⅢ期と呼ばれますが、更に2区分され、Ⅲ期AまたはBと表記されます。各期は、以下のような諸宮に対応していると考えられています。
  • Ⅰ期  舒明天皇 飛鳥岡本宮      (630~636)
  • Ⅱ期  皇極天皇 飛鳥板蓋宮      (643~655)
  • Ⅲ期A 斉明天皇 後飛鳥岡本宮     (656~667)
  • Ⅲ期B 天武・持統天皇 飛鳥浄御原宮 (672~694)
 Ⅲ期A・Bの区分は、Aが内郭だけであったのに対して、Bはエビノコ郭や外郭を持つ点にあります。その新設に伴う変更が、内郭でも若干行われたようです。
現在、目にすることが出来る井戸遺構や復元されている柱跡は、Ⅲ期の遺構ということになります。

 各期の構造や重層の様子は、下図を参照してください。

飛鳥京跡 遺構重層関係 模式図
(規模を表す図ではありません)



飛鳥宮跡Ⅲ期AおよびBの内郭とエビノコ郭


南門
 飛鳥宮跡Ⅲ期に該当する建物群では、内郭の中心線上の最も南に南門があります。規模は、東西5間、南北2間で、両側から掘立柱塀が伸びます。南門の南には、飛鳥川を南限として三角形の土地になりますが、儀式の場(朝庭)としての石敷広場の存在が想定されます。

前殿
 南門の北には、前殿と呼ばれる建物が存在しました。東西7間、南北4間で、4面に庇を持っています。建物の周辺には石敷きが巡り、南では更にバラス敷の空間が広がっていました。また、北には幅3mの石敷通路が伸びており、天皇が儀式のために前殿に向かうための石敷通路だと考えられています。

南北棟掘立柱建物
 前殿の東には、二重の掘立柱塀を挟んで2棟の掘立柱建物があります。床束が検出されているために、床張りの建物だとされています。規模は、2棟ともに南北10間、東西2間とされ、前殿を挟んで、反対側にも同様な2棟の建物が存在すると考えられています。これらは、朝堂とも考えられますが、確定するには至っていないようです。

三重の塀
 前殿の北には三重の東西掘立柱塀があり、内郭の南北を分けています。これは天皇の公的な空間と私的な空間を分けるものだと考えられます。

南北正殿
  その塀の北側では、二つの同規模の大型建物が検出されています。それぞれ東西8間、南北4間の規模で南北に配置され、建物は南北に庇を持つ切妻の建物に復元されるようです。
 調査では建物の階段跡が検出されており、床の高さは約2mであったと推定されています。
 2棟の大型建物には、それぞれに東西3間、南北4間の建物が東西両側に配置され、南北2間の廊状の建物で繋がっていました。Ⅲ期B(飛鳥浄御原宮)の時代に入って、南正殿の西の小殿が廃され、小池に改作されています。このことは、内郭が天皇のより私的な空間になった事を物語るのかも知れません。

エビノコ郭
 飛鳥宮Ⅲ期Bには、内郭の東南に新たに造営された区画があります。その区画は、小字名をとって「エビノコ郭」、そこに建てられた大規模な建物は「エビノコ大殿」と呼ばれています。


エビノコ大殿復元図

 エビノコ郭は、周囲を塀で区画した東西約94m・南北約55mの空間で、区画の南側には門が無く、西側にのみ門が造られた空間になっていました。
 中央には、この区画の正殿である「エビノコ大殿」がありました。その規模は、9間(29.2m)×5間(15.2m)を数え、飛鳥地域では最大とされる建物になります。建物の周辺には、石敷きが施されていました。
 また、この建物は四面庇付の高床建物で、入母屋造に復元されます。これらのことから、この建物は『日本書紀』天武天皇10(681)年条に見える「大極殿」の可能性が高いと考えられています。



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飛鳥宮跡Ⅱ期


飛鳥宮跡Ⅰ期・Ⅱ期(飛鳥板蓋宮)遺構所在図

飛鳥板蓋宮構造推定図

 発掘調査では、Ⅱ期の遺構として、西・南・東の塀跡(SA)、南・東側の溝(SD)、石敷通路などが検出されていますが、建物の遺構は未検出です。宮の構造は、『日本書紀』の記述などから推定されるにとどまっています。


 飛鳥板蓋宮の宮名は、屋根に板を葺いていたことに由来するとされます。飛鳥時代の宮殿の屋根は、檜皮葺・茅葺などであったようで、板葺きの屋根が用いられたのは初めてのことであったのでしょうか。
飛鳥板蓋宮は、645年6月12日に起こった「乙巳の変」の舞台となった宮です。これにより皇極天皇は同月14日に退位し、孝徳天皇が即位します。その後しばらくは、宮は難波に置かれ、飛鳥を離れることになりました。(難波長柄豊碕宮)

 白雉5(654)年10月、孝徳天皇が崩御すると翌年皇極上皇は飛鳥板蓋宮において重祚して斉明天皇となりました。飛鳥板蓋宮は同年末に火災に遭い、焼失しています。



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飛鳥宮跡Ⅰ期

 発掘調査では、明確に宮跡を示す遺構は発見されていません。飛鳥宮跡Ⅲ期の図に示した部分的な遺構だけになります。立派な柱穴を持っていることや、柱穴に岡本宮焼失を示すかのような焼土が検出されているのですが、これとて宮跡だと断定出来るものではありません。検出された遺構の特徴は、正方位ではなく北で西に振る旧来の飛鳥の地割方位を示しています。正方位の遺構より古い遺構と判断されるため、現段階では舒明天皇の岡本宮ではないかと考えられています。

 舒明元(629)年1月、舒明天皇は即位し、同2(630)年10月、飛鳥岡の麓に遷宮し、飛鳥岡本宮を正宮としました。
その6年後の舒明8(636)年6月、飛鳥岡本宮は火災で焼失し、田中宮(橿原市田中町)へ遷ることになりました。

 第Ⅲ期は、調査が進み判明したことも多くなりましたが、下層は上層遺構の保護も有りますので調査・研究も進んでいないように思われます。

オレンジ色で示した建物が第Ⅰ期の遺構だと考えられた。


  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
飛鳥京跡苑池遺構図 飛鳥京第Ⅲ期イラスト遺構図 飛鳥京跡苑池遺構 苑池の概観
南池の変遷 苑池遺構南池詳細 出土遺物
苑池の起源 古代中国・韓半島の苑の記録 苑池の構造分類と性格
飛鳥時代に到来した珍獣奇獣 飛鳥京跡苑池遺構出土木簡 飛鳥宮跡
飛鳥宮跡Ⅲ期内郭・エビノコ郭 飛鳥宮跡Ⅱ期 飛鳥宮跡Ⅰ期
鈴木一議先生ご寄稿 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


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