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あい坊

好評連載中の飛鳥・藤原の考古学番外編3
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41.都の下に、古墳のルーツが眠っていた



【41】 都の下に、古墳のルーツが眠っていた
     -藤原京右京九条二・三坊、瀬田遺跡の調査から-菖蒲池古墳の調査から-
                          (16.5.27.発行 Vol.243に掲載)

 奈良文化財研究所は、昨年末から、藤原京右京九条二坊西北坪・同三坊東北坪の調査を行っていました。ここは本薬師寺跡(右京八条三坊)のすぐ南にあたる坊で、藤原宮からはやや離れるものの、薬師寺との関係や立地からみて、京内でも一等地のひとつと考えられます。このことから、同坪の利用状況が判明することが期待されました。さらに2007年に橿原考古学研究所が周辺で実施した調査では、弥生時代終末期の土器集積土坑や縄文時代後期の遺物が出土していることから、今回も藤原京以前の遺構が確認される可能性がありました。この藤原京以前の遺跡を「瀬田遺跡」と呼んでいます。

 今回の調査の結果、藤原京期の大型建物群とそれより古い7世紀代の建物、さらにその下層から弥生時代終末期の円形周溝墓などが見つかりました。ここでは時代の古いものから、順番に見ていきましょう。


第187次調査地図面(現地見学会より)

 最も古い遺構には、円形周溝墓が1基、方形周溝墓2基があります。円形周溝墓は削平のため、埋葬施設や墳丘は残っていませんでしたが、周囲に周溝が確認できることから、その平面形がわかります。墳丘の直径は約19mで、周溝を含めた大きさは31mにもなります。周溝の幅は約6m、深さ50cm残っていました。周溝は一部が途切れており、墳丘から外側に向けて幅3~6mの陸橋状になっています。この他には、一部しか確認されていませんが、一辺5.4m以上と2.7m以上の方形周溝墓があります。これらは弥生時代終末期(2世紀後半~3世紀初頭)のものです。


周溝墓3と周溝墓1の周濠(北東から南西方向)

 これらの周溝墓が埋没して以降、藤原京が造営されるまでの間に、調査区の東半で約45度西に振れる小規模な建物が2棟確認できます。これらの正確な時期は不明ですが、周辺で確認されている同方位の建物群から、7世紀前半頃のものと推定できます。


小規模建物

 7世紀後半になると藤原京が造営されました。調査区の中央には南北に西二坊大路が通っています。残念ながら、削平のために西側溝は残っておらず、東側溝だけを確認しています。しかし、西側溝と平行すると考えられる南北塀があることから、幅16mの西二坊大路が復元できます。


東側溝と推定される南北溝(北から)

南北塀(塀1・塀2 北から)

 この条坊道路の設置時期は明確ではありませんが、本薬師寺下層の条坊が天武5年(676)に造られたと考えられることから、当地も同時期と推定できます。この大路の西側は右京九条三坊東北坪の宅地にあたります。坪内には一辺1m前後の柱穴の大型建物が3棟、80cm前後の柱穴の小型建物が4棟確認されています。大型柱穴の一群は、6×2間の南北棟の大型建物と、この建物の東側柱筋に揃う6×2間以上の東西棟建物、さらにこの西に柱筋を揃えた建物が推定でき、整然とした配置をしていたと考えられます。小規模な柱穴の建物群はいずれも3×2間の小型建物で、やや散在した配置をしています。両群の建物の建てられた前後関係は不明です。


南北棟の大型建物(建物1)

東西棟の大型建物(建物2)

小規模建物(建物5・6・7)

 一方、大路の東側は、右京九条二坊西北坪の宅地です。ここには二坊大路東側溝に接続する東西溝が2.7mの間隔をあけて、二条あります。これは坪を分割する東西道路と考えられます。建物は東西道路の北側に、4間以上×2間以上の小規模な柱穴の建物が1棟だけ確認されています。


東西道路(道路2)

 このように、今回の調査では、弥生時代終末期の墳丘墓から、藤原京の宅地まで確認されました。これらの意味について、少し考えてみましょう。

 まず、弥生時代終末期の円形周溝墓が見つかりました。今回の調査の西方では、これまでにも弥生時代の方形周溝墓や水田が確認されています。その立地や土質をみると、粘土質の地質をしています。今回の調査地の土質をみても、当時は粘土質の地質であることから、ほぼ同じような立地・地質をしていることがわかります。このことから、今回の調査地まで弥生時代の墓域や水田域が広がっていたことが推測されます。

 そして、円形周溝墓には陸橋が見つかっています。これまでの前方後円墳の出現過程の研究では、周溝墓の溝の一部を土橋状に残したものが、纒向型前方後円墳となり、これがさらに前方後円墳になったと考えられています。今回の陸橋をもつ円形周溝墓は、その最初の段階のものと位置づけられます。これまで陸橋のある円形周溝墓は、大阪や京都・兵庫などで確認されていたものの、奈良県内ではほとんど見つかっていませんでした。陸橋のある円形周溝墓が大和盆地の中で確認されたことは、続く纒向石塚古墳や箸墓古墳などの前方後円墳への変遷をより確かなものにするといえ、それが大和盆地内で確認されたことに意義があります。その重要性から、新聞でも大きく扱われました。

 一方、藤原京の宅地では、西二坊大路の西にあたる右京九条三坊東北坪では2時期の宅地遺構を確認しました。前後関係は明確ではないものの、大型建物群が条坊と共に建てられ、小型の建物群が後出すると考えています。建物には重複がなく、出土遺物からも前後関係は判明しません。これを推定する材料は、西二坊大路に沿う掘立柱塀です。この塀は2時期あり、大型柱穴が古く、小型柱穴が新しいことがわかっています。これを参考にすると、条坊施工と大型建物群が7世紀後半に造られ、小型建物が藤原京期頃に建て替えられたと推定できます。このうち大型建物は坪の東半に計画的に配置されていることから、東北坪は一町(約130m四方)規模の宅地の可能性があります。今後、調査区の西側の坪中心部の調査が実施されれば、その利用実態がわかるでしょう。これは本薬師寺のすぐ南隣接地としての立地が関係あるのかもしれません。

 一方、西二坊大路の東にあたる右京九条二坊西北坪は坪内道路によって二分されています。その位置は坪を南北に二分する位置にあたることから、西北坪は少なくとも二分の一町以下の宅地に分割されていたことがわかります。このように隣接する坪でも宅地規模や利用形態か異なることがわかりました。いずれにしても、藤原京の宅地利用を考えるうえで、新しい成果が追加されたことになります。


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