両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第21回定例会
キトラと高松塚の壁画

若葉・もも
Vol.80(10.5.14.発行)~Vol.85(10.7.23.発行)に掲載





【1】 (10.5.14.発行 Vol.80に掲載)

 皆さんこんにちは♪ 今回の咲読は、毎回飛鳥資料館に何時間も並んでキトラ古墳の壁画を見に行った若葉が担当させていただきます。よろしくお願いします。

 第21回定例会は、講師を奈良文化財研究所飛鳥資料館学芸室・展示企画室長の加藤真二先生にお願いして「キトラ古墳の壁画について(仮題)」と題し、7月31日(土)に行います。いつもの第2土曜日の定例会ではありませんのでご注意下さいね。加藤先生は、東アジアの考古学や壁画をご専門に研究されています。現在飛鳥資料館では、春期特別展「キトラ古墳壁画四神」展が開催され、明日5月15日(土)から6月13日(日)の間は、初公開の朱雀を含む四神の特別公開が行われます。

(クリックで拡大)
四神壁画複製・明日香村埋蔵文化財展示室 展示品(無断転載転用禁止)

 その公開の熱気覚めやらぬ内に、特別展の図録なども作成された先生がご講演下さるなんて、何て贅沢な定例会なんでしょうか! ぜひ皆さん、この機会に加藤先生の講演にお申し込み下さいね。

 それに先立ち、壁画も古墳もよく知らず、聞いてもすぐに忘れてしまう私が、咲読の担当で読者の皆さんには申し訳ないのですが、せっせと調べて自分が解るようにまとめ、私の頭の中で浮かんだつぶやきなどを5回ほど書かせて頂きます。内容に偏りがあるかもしれませんが、しばらくお付き合い下さいませ。

 キトラ古墳は、奈良県高市郡明日香村大字阿部山字ウエヤマにあります。丘陵の南側斜面に造られていて、近くには、皆さんがよくご存じのようにキトラ古墳と同様に壁画を持つ高松塚古墳など、多くの終末期の古墳が残る土地です。また、渡来系の人々が多く移り住んだ場所で、近くには檜前遺跡群や観覚寺遺跡などもあります。


付近参考地図(クリックで拡大)

 キトラ古墳の墳丘は版築により造られていて、下段直径13.8m、上段直径9.4m、高さ3.3mの二段築成の円墳です。研究結果から壁画は676年~704年の間に描かれた可能性が高いと判るそうです。石室の大きさは長さ240cm、幅104cm、高さ114cmと、少々狭い感じがしますが、狭苦しさをちょっとでも解消する為か、はたまた天空をイメージさせる為か、天井石に深さ10cmの屋根形の彫り込みが造られています。石室は凝灰岩の切石で組まれ、床石が4枚、北側の壁石が2枚、東側の壁石が4枚(中央が上下の2枚)、西側の壁石が3枚、南側の壁石(閉塞石)が1枚、天井石が4枚の計18枚で造られていて、内面は床も全て漆喰が塗られています。

 と、ここで現在も使われていて我が家にもあるゾというこの漆喰、何なの?と興味が湧き調べてみました。

 貝殻や石灰石(炭酸カルシウム)を焼成すると、炭酸ガスが放散されて生石灰(キセッカイ:酸化カルシウム) になるそうですが、この生石灰は水と反応すると強い熱を発するので要注意だそうです。空気中の水分を吸収しようとする性質を利用し、海苔やお菓子などの乾燥剤の主原料として使われています。
 次に、生石灰を水と反応させ、消石灰(水酸化カルシウム)に変化させます。この消石灰ですが身近な物では、運動場のラインや、畑などで酸性土壌の改良に使われたりしています。
 この消石灰に、付着効果やひび割れ防止の為に糊やスサ(麻などの繊維質を細かくしたもの)を混ぜ、練って壁などに塗ると今度は空気中の二酸化炭素を吸収して、もとの固い石灰石の成分に戻ってゆくそうです。で、白くて固い漆喰の出来上がりです。年間を通じて快適な湿度が保たれ、強いアルカリ性の為カビや細菌の発生を抑える効果もあるそうです。(以上は、あくまで一般的な漆喰のことです。)

 キトラ古墳では、漆喰が乾いてから下絵に墨などを塗った“念紙”というカーボン紙のような紙を重ね、ヘラでなぞった後、墨で描線を引き彩色を施しているようです。(おまけ…「最後の審判」などで有名なフレスコ画っていうのは、この漆喰が乾かない内に塗料を塗り込んだものなんですって。)

 この漆喰で囲まれた石室をイメージする時、丁度三面に漆喰が塗られている我家の押し入れを大きく考えれば良い感じになります。触ればひんや
 り冷たいこの壁、この辺が四神かなぁなんて想像すると急に怖くなったり
 します。(押し入れですが…) 

 以前展示で見た高松塚古墳の石室のように、同じサイズの物が出来たらいいのになぁと思っていたら、今回の特別展では、キトラ古墳の石室が陶板で忠実に再現されたと分かったので見学に行ってきました。展示されている説明書きはとても解り易く、そして詳しく書かれていました。(これを全部覚えていたい…と熱心に読みますが、いつもそう成らず何とも悲しくなります。)で、お目当ての複製を見ると!!あれっ想像していたよりかなり大きいのです。南壁が付けられていないから?それとも少し高い位置に展示されているから? ん~、数字からイメージするのとでは随分違ってくるものなんですね。ここに棺台に乗せられた棺を置くと、獣頭人身像は隠れてしまう… いやいや、被葬者が主人公なんだから武器を持った十二支がすぐ横を囲んでいて良いんですね。そして、四神は棺の少し上の丁度良い辺りになりそう~。まっ白い部屋の美しい色の壁画と金箔、その中に置かれた煌びやかな装飾金具が付く漆塗りの木棺。綺麗だったでしょうね~と不届きな想像をしてしまう…。私は勿論、きっと他の多くの方々も複製を作って下さると、とってもイメージが掴みやすくて解り易いと思います。欲を言えば触らせて貰えればもっと嬉しいんですけどね。

 次回は、天井に描かれている星宿図ともいわれる天文図を見て行きます。お楽しみに~。



【2】 (10.5.28.発行 Vol.81に掲載)

 今回は、いよいよ壁画についてのお話です。天井に描かれている星宿図ともいわれる天文図を見てゆきたいと思います。キトラの壁画は剥落その他と状態が極めて悪いようですね。

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天文図(明日香村埋蔵文化財展示室展示品 無断転載転用禁止)
     注:星座名は、事務局が追記しています。

 天井中央の平坦面いっぱいには、コンパスを使って4つの朱色の円が描かれています。この内の3つの円は同心円で描かれていて、コンパスの穴はしっかり北極五星の近くに残っています。円は内側から内規 (直径約168mm) 、赤道 (直径約403mm)、外規(直径約606mm)といいます。
 キトラの天文図に見える内規線の内側は、北の空の地平線に沈まず常に見える範囲を示し、赤道は天の赤道を、外規線の内側は天空で見える範囲を示します。ずれて描かれた円は太陽の通り道である黄道(直径約405mm)で、赤道との交差の二点は春分点と秋分点になるそうです。

 皆さんご存じのように地球は自転していますが、まん丸でない上、太陽や月、他の惑星の引力によって自転軸がわずかにブレていっているので、春分点・秋分点も長~い年月をかけてズレてゆくそうなんです。(で、また長~い年月をかけて戻ってはゆくそうですが…難しそうなお話です。) 
 でも、かなりキトラ古墳に書かれている黄道はおかしいそうで、原本を写す際に裏表を間違えたのではないのかという意見が出たり、その他にも星座などのミスが指摘されています。

 天文図を描いた順番は、4つの円を描いた後、星座の位置を念紙を使って下書きし、星の位置に金箔を貼り星座線を朱で引いたと考えられるようです。星座線は定規が使われていない場所が多いそうなんですが、どうしてここで手を抜いちゃったんでしょうか。数人で描いた為の打ち合わせミスなのかな?それとも、そんな線は気にしないという事なんでしょうか。

 天文図では星座の数は68が確認されています。その中心(先程出て来ましたコンパスの穴の近く)には北極五星と呼ばれる星がありますが、古代の中国で北極・後宮・庶子・帝・太子と名付けられた天帝の一家の星達の事だそうです。それを大臣などとされる星が囲み、これらを天帝の居られる場所とみて紫微垣(シビエン)と呼んでいます。(天文図は金箔が無くなってしまい、あった場所に形だけが残っているなど星の位置が判りにくくなっているようです。)
 そして天帝が政治を行う太微垣(タイビエン)や、天帝が行幸する「市」を表す天市垣(テンシエン)のほか、二十八宿、北斗七星などが描かれているそうです。地上の帝が国土を治めるように、天の帝もまた全ての天空を治めていると考えたのですね。

 星の数は約350で、そんなにあったっけ?と思うほど多いそうです。金箔の大きさは直径約6mmですが、天狼(シリウス)などのいくつかは直径約9mmと大きく表わされています。南の地平線の低~い位置の為、めったにお目に掛かれないという事から、見た者は長寿になるという老人星(カノープス)も大きく表されています。
 おかしいぞと指摘されている黄道が間違いなく描かれていたり、漆喰の剥落なんかがなかったら、星や星座の位置から、この星宿図が作られた場所(見えた場所)が絞り込めたかもしれないなんて思うと…おっしいなぁ。

 先程出てきました二十八宿なんて、私全く初めて聞きましたのでちょっと調べてみました。

 月は27.32日で地球を一周するので、28の星座を設定して、今どの星座に月が宿っているか(月が一周の旅をしていて、今夜はどの星座に宿泊するのか)を見る事で、今日が一ヶ月の内のいつ頃なのかというのを解るように決めた目印となる星座の事だそうです。(それぞれの星座の大きさが違うので均等には分けられてはいないんですけど…)
 そして、二十八宿は東西南北の星座をそれぞれ7宿ずつ組み合わせて、青龍・白虎・朱雀・玄武に形付けられ大きな星座になるのです。
 これらは古代中国で興った五行思想というものに深く係わっているそうです。この思想は、万物を構成する五種類の元素、木火土金水が互いに影響を与え合い世界の動きが生まれるという思想だそうで、次第に方位・色彩・季節などにも当てはめられるようになって行きました。木は方位なら東で、色なら青、季節なら春というように当てはめられます。それぞれを示すと、木=東=青=春、火=南=赤=夏、金=西=白=秋、水=北=黒=冬、土=中央=黄=全ての季節となります。ここから青春や白秋という語が出来たそうです。お~!突然馴染みのある言葉が出て来てびっくりす。知らないだけで、私達は五行思想を利用して生活しているんでしょうね。

 以上のように天文図をご紹介してきましたが、皆さんは、初めてこの天文図を見られた時驚きませんでしたか?私は現在目にするようないくつかの円のある天文図は、近代に作られたものだとばかり思っていました。キトラの壁画で描かれているんですから、とにかくもっと古くから原画があって使用されていたという事なんですよね。夜は星が出ているから位置を決め易いでしょうけど、太陽の道筋の黄道などいったいどうやって決定したんでしょう?

 これらの円を描いた担当者は上向きで息を殺して描いたはずですから、出来上がった時はきっと大きく息を吐いて胸をなでおろしたに違いないと思うんです。そして、どんどん想像をたくましくして行きますと、漆喰にヘラの跡がしっかり残っている部分が多い事から、乾きが不十分なまま壁画の制作はとても急がされ次の工程へと進み、天文図の事をよく解っていない弟子が黄道を写し間違えた上、忙しい責任者のチェックも漏れてしまったんじゃないでしょうか?(もしかしたら、責任者も壁画を描く事は上手でも天文図の内容に付いてはよく解っていなかったとか…)
 彼らは、まさか立派に完成したこれらの壁画が再び人の目に触れ、ミじゃないかなどの指摘を受ける事になるとは夢にも思わなかったでしょう。っていうより、被葬者の為に描いた自分達の絵が、ダイヤモンドの粉を使ったカッターという物で剥ぎ取られ、日本中の人々がそれを並んで見学に来るだなんて、考えが及ぶ訳がないですよねっ。



【3】 (10.6.11.発行 Vol.82に掲載)

 前回の咲読では“(天文図の)星の数は約350”と書かせて頂いたのですが、2008年に行われた天文図のはぎ取り作業時に、実際に残っている星は277個(痕跡だけの98個を含む)と発表されていたようなんです。350個という数字は、星座などから推定された数として公表されている数字でしたので、天文図が描かれた時点では、星の数は最低277個から350個前後描かれたと考えるのがよいようです。
 今回は、読者の方よりご指摘を頂きました。ありがとうございます。これからも発表内容に気を付けて記事を書いて行きたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。


 3回目となりました今回は、日像と月像のお話です。しばらくお付き合い下さい。

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日像・月像(明日香村埋蔵文化財展示室展示品 無断転載転用禁止)

 前回ご紹介しました天文図の外規円に接する(天井の平らな面と壁の間の)東の傾斜面には、金箔が貼られた日像(直径5.3cm)が描かれていて、反対側の西の傾斜面には、銀箔が貼られた月像(直径5.3cm)が描かれています。少しだけしか残っていませんが、日像には黒いカラスの羽のようなものが見られるそうで、法隆寺の玉虫厨子の須弥座部や、唐代の墳墓の壁画などに描かれている例などから、太陽に住む3本足のカラスだと推定出来るそうです。このカラスは、黒点からの発想と考えられ、中国の神話では陽烏、金烏ともいわれており、3本足であるのは奇数が陽、偶数が陰である事からだ、との説もあるそうです。

 そして3本足のカラスは、最近では日本サッカー協会のシンボルマークに使われているので、すっかり有名になっていて、サッカーファンの友人は「あれはヤタガラスっていうんやで!」と教えてくれました。古代史ファンとしましては、ヤタガラスといえば、神武天皇(カムヤマトイワレヒコノミコト)の東征で熊野山中より宇陀に出る道案内をしたお話が思い出されるのですが、大きなカラスという意味らしく3本足とは書かれていないようなんですね。私はてっきり3本足のカラスだと思い込んでいました。(奈良県の宇陀には八咫烏神社があり、サッカーボールとヤタガラスの可愛い像があるそうです。)

八咫烏神社とサッカーバージョン八咫烏

 そして月像は剥落の為、その表面の図像は失われているので良く判らないようですが、日像でもご紹介しました法隆寺の玉虫厨子に、ウサギとカエル(蟾蜍:センジョ:ひきがえる)が描かれた月像があり、また漢代の墳墓の副葬品や、唐代の墳墓の壁画などの例から、このカエルやウサギ、桂樹が描かれていた可能性も考えられるそうです。

 これらの生き物達が、太陽と月に関わると思われるお話がありましたので少しだけご紹介しておきます。

 中国の神話に、「昔、空に10の太陽が昇り大地が焼けた為、帝が弓の名人に、1つを残して毎日1つずつ射落とさせたところ、落ちていたのはカラスだった」というものがあるそうです。このお話は、日本では『今昔物語集』や『注好選』という書物などにも紹介されています。(弓の名人の名前が変わっていますが…)
 また先程の続きバージョンで、「その弓の名人が褒美に貰った不老長寿の薬を、妻が盗んで月に逃げるが天罰で蟾蜍に変えられた」というものなど、日像のカラスや月像のウサギ・カエルに関する神話は探すと沢山あるようです。よかったら皆さんも調べてみませんか~。



【4】 (10.6.25.発行 Vol.83に掲載)

 今回は特別公開された四神に会う為、私が飛鳥資料館を訪ねた時のお話です。

 普段は遠くて飛鳥へなかなか来られない方でも、キトラ古墳壁画の特別展にはいらっしゃったという方も多いのではないでしょうか。
 私は以前、飛鳥資料館の玄武特別展でクタクタになる程並んでいますので、今回は平日の午後の少し遅い時間に行く事にしました。
 その日は朝からどんよりと曇り、昼からは雨というラッキーな(?)お天気! その為か待ち時間が0分で、丁度良い位の人数の見学者が、列を作って進んで行くという状態でした。

 おや? 以前の特別展とは違い、展示の順路が反対回りになっています。とても見易い感じがしました。列に並ぶ間に、キトラ古墳から出土した棺の金具や玉類、15回定例会に豊島先生がお持ち下さった、復元された黒漆塗銀装大刀などの展示品が見学出来ました。途中にはキトラ古墳などに付いて説明されているビデオも流されていましたので、しっかりとお勉強してから進みました。普段は常設展示がされている第1展示室もすっかり壁画の為の展示室となり、明りが落とされご対面の雰囲気を盛り上げてくれます。順番に巡って行きましょう。

 先ず青龍にお会いしました。青龍は頭や足の一部以外は泥土に隠されていますが、ちょっとでも見えないかとガラスケースにくっ付いて、泥土で隠れる際の辺りをジーーっと見てみます。この泥土の下には青い色がまだ残っているのでしょうか…。残念ながら全く見えません。「将来、青龍の体が確認出来るような技術が早く開発されたらいいなぁ~」と思いました。

 2007年に玄武が公開された時は、並び疲れて「やっとたどり着いた~」という感じで、「何だか黒っぽくて小さいなぁ、白虎の方がキレイやったわぁ」というのが本音だったのです。しかし今回は、ゆったりと独り占めで見学出来たからでしょうか、私には前回の玄武とは全く別な玄武に見えたのです。前より大きく鮮明で、そしてとても美しい玄武でした。こんなにキレイだったんだ~と、長くガラスケースにへばり付いていました。横に立つ係りの方がいらっしゃらなかったら、もっとガラスケースに貼り付いていたでしょう。

 仕方なく順路に戻りますと、さすがに今回初お目見えの朱雀は大人気!間近での見学は人数が調整されていましたので、順番が来るのをワクワクしながら待っていました。
 横に付かれた先生は、熱心な見学者の様々な質問にも丁寧に答えていらっしゃいました。

 飛鳥時代~奈良時代前期の朱雀や鳳凰には、長い尾羽が特徴的であまり飾り気がない山鳥タイプのものと、反り返る大きな尾羽が特徴的な孔雀タイプがあるそうで、キトラの朱雀は山鳥タイプに入るそうです。
 図像が近い物としては、薬師寺の薬師如来坐像台座や中宮寺の天寿国繍帳の鳳凰が挙げられるようですが、どの辺がどう似ているのか、私にはよく解りません。この辺のお話が加藤先生からお聞き出来るのではないかと定例会が楽しみです。

 「はじめまして!発見された時からお会い出来るのをずーっと待っていましたよっ。」
 やっと会えた朱雀は、乾燥の為か白っぽく、写真で見るのとは違ってハッキリしていませんでした。ちょっと残念…。
 私が朱雀で一番美しいと思うのは、尾羽がゆったりと後ろへ長くなびいている所です。羽を広げ片足で蹴る姿はのびのびとして、これまでの四神(三神?)とは違った華やかさを感じます。
 実際ご覧になった方は、どのようにお感じになりました?思ってた通りの朱雀でしたか?

 先日、橿原考古学研究所附属博物館の春季特別展「大唐皇帝陵」(6月20日で終了)に行って来たのですが、そこで、長さが何と!6mもある青龍と白虎の壁画(模写)が展示されているのを見ました。さすがに中国は規模が違います。おっきいです!(この壁画が描かれていた恵陵のお話は、メルマガの80号でアジクさんが解り易くご説明下さっていますので、是非ご覧下さい。) 
 我らがキトラの白虎は長さ41.7cmと随分小さいですが、丁寧に描かれ負けてはおりません。初めてお会いした時は繊細な感じを受けました。
 高松塚古墳では南向きに描かれていた白虎が、キトラ古墳では北向きになっているという違いはどうしてなんでしょうか。きっとそのお話もして頂けるのではないかと楽しみにしています。 

 最後に、盗掘者の一人になったつもりで勝手な妄想を…。

 土と汗で泥だらけになり、やっと開ける事が出来た穴から揺れる灯りを差し入れると、今まで真っ暗だった中の様子が浮び上がり、一瞬息を呑みます。小さな石室の中で、朱塗られた木棺の真っ黒い大きな影がゆれ、壁には気味の悪い絵が見えます。籠る匂いの中、手慣れていて強がってはいるものの、死者を冒涜するという畏怖の思いはやはり心の奥底からは消えません・・・。

  右手にはまだ青い青龍が見えたはずで、天井には星達が数百年ぶりに輝いた事でしょう。 彼等の様子を、壁画達は何も出来ずに見ていたのですね。絵師が気持ちを集中して描き、盗掘者も見た壁画を私達は見せて頂いたのですね。



【5】 (10.7.9.発行 Vol.84に掲載)

 7月31日(土)に行われる、第21回定例会の正式タイトルが『キトラと高松塚の壁画』と決まりました。講師の加藤先より、キトラだけでなく高松塚の壁画のお話もお聞き出来るようです。
 場所だけでなく制作時期も近い2つの古墳の壁画は、似ているようで全然違う所もあります。きっと皆さんもその違いや、不思議に思われている事が多いのではありませんか。
 壁画に携わってこられた加藤先生がお話下さり、直接質問も出来るチャンスですので、初めての方も是非!この機会に定例会にお申し込み下さいね。お待ちしております~。

 「ね~君達、一応武器らしい物を持って被葬者を守っている(?)んだったら、もっとキリリッというか、厳しい表情を見せるとか、睨みつけるとかしなくて良いの?」
 と、こんな言葉を掛けてみたくなる彼等は、壁ごとに衣装や武器をお揃いにしたのでは?と思われる十二支の獣頭人身像。
 2008年に開催された飛鳥資料館の『十二支 子・丑・寅』の特別展では、大勢の人が何日にも渡って訪れました。覗き込まれた時は「さぞかし恥ずかしかったんじゃないかな」と思います。照れて動いてしまう所を想像しちゃいましたよ。

 壁画というと、高松塚古墳の美人画や四神がすぐ思い浮かびますので、キトラ古墳から十二支とみられる獣頭人身像が発見された時は、「こんなかわいい壁画もあるんだ~」と驚きました。それも、いいお歳の男性のお墓になんですよね…。リアルに描かれた動物の顔ではなく、愛らしいというか、とぼけたというか(私が勝手にそう思っているだけですが)、そんな表情をした寅や午の像が、被葬者の木棺の周りで武器を持ち守っているなんて何だか似合わない感じがしました。

 もともと十二支は、古代中国において方位や時間などを表す手段として用いられ、長い年月をかけて現行の十二支の動物が揃ったそうです。
 隋代には頭が獣で、体が人間の獣頭人身の十二支の傭(焼人形)が副葬されるようになって行ったそうです。
 前回の咲読でご紹介しました『大唐皇帝陵』展に行った時に、完全な形で十二支が揃った唐代の獣頭人身像が展示されているのを見る事が出来ました。キトラでは、傭の代わりに壁画で役割を果たしたのですね。
 壁画と傭では使われる意味は同じでも、壁画の方が細かい部分なども描く事が出来て、顔の作りだけでなく表情も出す事が出来ます。(表情が必要かどうか解りませんが)見た感じは随分と違った印象を持ちました。

 ちなみに、十二生肖(せいしょう)と書かれている事がありますが、各十二支に当てられた動物を中国ではそのように言うそうです。(「生」は生き物、「肖」はかたどるの意)

 その彼等を見て、私が興味を持ったのは顔の表情なんですが、何故かわいく見えてしまうのか。
 高松塚の美人画の印象が余りにも強くて、それを基準としてしまっているからか?それも理由の一つかも…。描かれた当時は、今は見えない他の獣頭人身像も鮮明で勢ぞろいだから、もっと凛々しかったのかもしれないですね。

 絵師の有力候補に、黄文連本実(きぶみのむらじほんじつ)という方が挙げられるそうですが、その弟子達、又は全く別などなたであっても、被葬者の為にと描いた気持ちが像の表情に表われているのではないか、というかそうあって欲しいです。たとえそれがお仕事だとしても…。“描かれた顔は描いた人の顔に似る”と言いますので、きっと彼等の顔は担当絵師の顔にちょっと似ているんだろうと想像します。(その午、お前にそっくりだーとか言われてたりして)

 他にも私には「?」が沢山あります。
 キトラの少し後に同じ絵師達が高松塚の壁画を描いたのなら、何故図案が変わったのでしょう。それぞれの図案が持つ役割・意味があるのでしょうか。意識的に変えたのでしょうか。
 そして、同じ終末期の古墳で石室の構造などが似ている“マルコ山古墳”(明日香村)や、“石のカラト古墳”(奈良市~京都府木津川市)などには壁画が描かれていないのに、何故、高松塚古墳とキトラ古墳だけに壁画が描かれたのでしょう。薄葬令に対して壁画も意識されたりしたのでしょうか。
 など、どんどん溜まる「?」に、タイムスリップして造営中の責任者の方を捕まえ質問攻めにしてみたい思いに駆られます。
 そして、「壁画は陰陽、五行思想や風水などを基にして描かれた図案なんですよねぇ!」なんて知ったかぶりして尋ねたりして…

 私などには解らない地道な作業、調査がされていると想像するのですが、勝手な考古ファンとしては近日にも奇跡的に残っていた午の絵のように、“速報!午に続き、また泥の中から発見!”な~んていうニュースを期待しているのです。



【6】 (10.7.23.発行 Vol.85に掲載)

 咲読最終回は、ももが担当させて頂きます。が、前回までの咲読で既に四方の壁から天井に至るまでの壁画の話が終わっていまして・・・残った部分は、なんと地べただけ。ありゃりゃ(@_@) そりゃあ~、棺台が置かれた床の周囲に唐草文や飛雲文が描かれていたらいいなぁ~と、文様好きのσ(^^)は思いますが、無いものは無い。(笑)じゃ、壁画以外のキトラ古墳のお話でも調べて・・・と思っていたら、飛鳥検定2の解説で、これまた風人事務局長が既に簡潔に書いておりまして。 ((((o_ _)o

 壁画ではないキトラのお話

 という事で、最終回の咲読は、眉に唾を塗り塗り、要所要所で突っ込みを入れつつ、毎度のもも話に気楽にお付き合い頂ければ有り難いです。(^^ゞ

 さて、今回講師をしてくださる加藤先生が基調講演をされるということで、5月末に明日香村で行われた記念講演会に、σ(^^)も予習を兼ねて参加してきました。当日の加藤先生のお話は、とても分かりやすくニュースにもなったキトラ朱雀のデザイン的なお話から壁画の描かれた年代の推定、果ては関わったであろう人物のお話など、壁画が描かれた当時の模様を少しずつ解き明かしていく、まるで謎解きをお聞きしているようで、あっという間の45分でした。

 そんなお話の中で、アマノジャクなσ(^^)が興味を持ったのが「黄書本実(きぶみのほんじつ)」という人のお話。

 本実さんと言う人は、実際に絵筆を持つんじゃなくて、一大イベントがあると一括してそれを指揮すると言う感じのお仕事をしていたか?今で言うと企画・空間プロデューサーなんていうのになるんでしょうか。

 本実さんは、日本書紀推古12年(604)に「黄書画師・山背画師らをえらびきめた」とある「黄書画師」の血筋になるんだそうです。古代の絵の技術者と聞いてσ(^^)が思い出すのは、崇峻元(588)年に瓦博士や露盤博士と一緒に百済からやってきた画工百加(えたくみ・びゃくか)ぐらいですから(いつでもどこでも「基準は瓦」のももです。(^^ゞ)、それから約20年後の推古12年には、氏族単位で定め置かれるほどの人たちがいたんだぁ~・・というのが正直な感想でした。もう少し日本書紀を戻ると、雄略7年に上桃原・下桃原・真神原の三ヶ所に移された新漢(いまきのあや)の中にも、画部因斯羅我(えかき・いんしらが)という名があります。画部・画工・画師と呼ばれた人々は、他の技術者同様に渡来系の人々が多かったようです。

 で、ももは思うわけです。こういうプロデューサー的なことをしていたのは、本実さん一人だけだろうか?と。

 推古12年に選定された画師は、大宝元(701)年に「画工司(えたくみのつかさ・えしのつかさ)」という機関に組み込まれます。この「画工司」っていうのは、絵画彩色を管轄する中央官庁になるんだそうです。だとしたら、ここは実際に筆を執って絵を描く人だけの集まりではなく、「絵画一般その他関連業務全て承りますっ♪」とキャッチコピーを掲げて手広くお仕事しているデザイン事務所のようにももには思えます。

 画工司が設置された大宝元年は、キトラ古墳の壁画が描かれたと推定されている期間にほぼ当てはまります。このふたつ、どうもリンクしているようにももには思えて仕方ありません。

 キトラに描かれた壁画は、全てが当時最新のものと言うわけではないようです。古来様々な理由で渡来してきた画師の家には、お家伝来の秘蔵のデザインや独自の技術などもあったはずです。そこに遣唐使などによってもたらされた大陸経由のものも加えて、デザインや技術や人など全てを集めて、纏めて、使いやすくしようとしたのが、ちょうどこのあたりの時期だったんじゃないかと。

 キトラ古墳。ここには壁画制作に携わった人々は勿論、石を切り出した人、それを組み上げた人、朱塗りだとされる漆の木棺を作った人など、本当に沢山の技術と人が集まっているんですよね。いろんな角度から見たキトラ古墳は、きっと面白いと思うのです。今回の定例会のお題である壁画は勿論のこと。

 終末期古墳のうち、石室内に極彩色壁画を持つ高松塚古墳とキトラ古墳の2基は、石室解体と壁画剥ぎ取りと言う異なる方法でそれぞれ壁画保存への道を歩んでいます。盗掘で失われたり、書き記されることのなかった古代の風習などの情報を埋めるだけのものを、もしかしたらキトラの壁画は持っているのかもしれませんし、これらの壁画から当時を伺い知れるものは、まだまだ沢山あるのかもしれません。





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