両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第26回定例会
西飛鳥の古墳巡り2と紀路を歩く

Vol.104(11.4.1.発行)~Vol.107(11.5.13.発行)に掲載





【1】 (11.4.1.発行 Vol.104に掲載)

 今号から第26回定例会に向けての咲読を始めます。担当は風人が務めますので、よろしくお願いいたします。m(__)m 

 第26回定例会は、「西飛鳥の古墳巡り2と紀路を歩く」と題しまして、ウォーキングを企画しました。西飛鳥の古墳巡りは2度目になりますが、1度目は橿原市域を含める北よりの古墳を巡りました。小谷古墳・益田岩船・真弓鑵子塚古墳・牽牛子塚古墳・岩屋山古墳などをめぐり、稲渕の勧請綱掛神事と組み合わせた企画でした。詳細は、第6回定例会資料やレポートを参照してください。

 第6回定例会資料・レポート

 今回は、飛鳥駅から西と南に位置する古墳群を巡ります。お知らせのコーナーや両槻会サイトの予定ページなどにルートマップをリンクしていますので、参照してください。

 両槻会ブログ

 全長は約11kmになります。古墳を訪ねますので、山登りというほどではありませんが、前半にはアップダウンがあります。全体を通して、やや健脚向きになるかと思います。

 ご注意いただきたい点は、道中にはトイレがあまり有りません(途中1ヶ所は確認・もう一ヶ所可能性がありますが未確認)。特に女性の方はご了解の上でご参加くださいますようにお願いします。

 ルートマップでは、全コースを4つのパートに分けて描いています。

 パート1は、飛鳥駅から、昼食予定地の寺崎白壁塚古墳までになります。飛鳥の古墳として有名な「岩屋山古墳」「牽牛子塚古墳」「越塚御門古墳」など、近年の発掘調査によって話題となった古墳が続きます。これらの古墳は斉明天皇との関連でも大きく報道され、現説にたくさんの方々が列を作られたのも記憶に新しいところです。

 「真弓鑵子塚古墳」「カンジョ古墳」「与楽鑵子塚古墳」は、渡来系の首長墓ではないかとされる古墳です。天井が高く、持ち送り式のドーム状石室が特徴となっています。最後の「寺崎白壁塚古墳」は、訪れた方は少ないと思いますが、横口式石槨を持つ古墳で、現在、石槨内も見学が可能です。これまでに3次に亘る調査が行われており、三段に築成された方墳、または八角形の可能性があるともされますが、確たる事は分かりません。広大な墓域の造成と斜面に段々に築かれた墳丘は、桜井市の段ノ塚古墳(舒明天皇陵)と形態が似ているともされ、高取町教育委員会では、被葬者は舒明天皇に所縁の人物の可能性もあるとしています。

 この記事を書いています3月末時点で、真弓鑵子塚・与楽鑵子塚・越塚御門は、石室を見学することは出来ません。

 パート2は、昼食後、寺崎白壁塚古墳からマルコ山古墳までです。真弓丘陵に北から入っていくことになります。スズミ1・2号墳は、新しい道路建設に際して調査された模様で、現在は消滅しているようです。真弓地ノ窪の集落に入ると「カヅマヤマ古墳」「マルコ山古墳」があります。

 「カヅマヤマ古墳」は、飛鳥地域では珍しい磚積石室を持つ古墳です。丘陵の南斜面を東西約100m、南北約60mにわたって削り出した1辺約24mの2段以上に築成された方墳です。現在は見学できませんので、少し離れた地点から立地を見学することになります。

 「マルコ山古墳」は、飛鳥でも有名な古墳の一つですので、皆さんもご存知の古墳だと思います。7世紀後半の横口式石槨を持つ古墳で、内部からは漆塗木棺片や金銅製の飾り金具、そして人骨(30歳代の男性)などが出土しています。発掘調査の結果、対角長約24mの六角形墳の可能性が高まっています。

 今回のコース中、数少ないトイレ休憩場所になります。

 パート3は、マルコ山古墳から紀路に出るまでの真弓・佐田丘陵の古墳を巡るコースになります。

 私達が訪ねる有名な古墳としては、束明神古墳があります。ご存知の方が多いと思いますが、草壁皇子の墓である可能性が高い古墳です。対角長30mの八角形墳で、埋葬部の横口式石槨は50cm四方、厚さ30cmの石材を積み上げた家形になっています。橿原考古学研究所付属博物館の門を入った右側に復元されていますので、ご覧になった方も多いのではないかと思います。今回は訪ねませんが、南に300mほどの地点に宮内庁が定める「岡宮天皇陵」があります。(岡宮天皇=草壁皇子)
 このパートでは、出口山古墳を外観して、紀路に出ることにします。

 パート4は、古代の道路を出来るだけ踏襲するように紀路を南下します。途中、森カシ谷遺跡や薩摩遺跡のお話をしながら、「市尾墓山古墳」・「市尾宮塚古墳」を見学します。

 市尾墓山古墳は、今まで見てきた古墳とは違い古墳時代後期に属する前方後円墳です。周濠と外堤部を持つ全長約66m、高さ約9mの二段に築かれています。所在地から巨勢氏の有力者の墳墓である可能性が高いと指摘されています。

 市尾宮塚古墳は、全長44m、高さ7mの前方後円墳です。築造時期は6世紀中頃とされています。馬具などの豊かな副葬品が有り、鈴が出土していることでも知られています。

 また、全コースの最後の訪問地として「高台・峰寺瓦窯」跡を訪ねることにしました。遺構は見ることは出来ませんが、立地を見てみたいと思っています。この瓦窯は、飛鳥遊訪マガジンでも何度も登場しました藤原宮のメイン瓦工場の一つになります。

 今号は、コースをざっとご紹介しました。定例会当日までの残り3回を使いまして、それぞれにもう少し詳しく見て行きたいと思っています。次号は、パート1を紹介したいと思います。



【2】 (11.4.15.発行 Vol.105に掲載)

 第26回定例会の咲読2回目です。今回は、ルート前半のパート1をご紹介します。昼食休憩を予定しています寺崎白壁塚古墳までのご案内になります。

 パート1は、最初から第26回定例会のポイントとなる古墳が続きます。岩屋山古墳・牽牛子塚古墳・越塚御門古墳・真弓鑵子塚古墳・カンジョ古墳・与楽鑵子塚古墳・寺崎白壁塚古墳の順番になりますが、咲読にて全てを充分に案内するには文字数制限を軽くオーバーしてしまいます。極々簡単な案内になることをご了承ください。足りない部分は、当日の配布資料また口頭でお話したいと思っています。

岩屋山古墳
 飛鳥駅から僅か数分の場所に在るのですが、メインになる観光コースからは逆方向になるので、普段は訪れる人も少なく静かな場所です。
 墳丘は1辺約40m、高さ約12mの二段築成の方墳と考えられていますが、三段築成の上八角形下方墳だと想定する説もあります。

 埋葬施設については石英閃緑岩(飛鳥石)の切石を用いた南に開口する両袖式の横穴式石室で、非常に精緻な造りになっています。玄室の構造は、岩屋山式と呼ばれており、橿原市の小谷古墳や天理市の峯塚古墳等でも見られ、特に桜井市のムネサカ1号墳の石室は岩屋山古墳と同じ規格によって築造されたと考えられています。被葬者については、斉明天皇説や吉備姫王説がありますが、牽牛子塚古墳の被葬者が斉明天皇とすると、どのようなことになって行くのでしょうか。

外観(4月2日撮影)
石室内(4月2日撮影)

牽牛子塚古墳
 越の集落を抜け丘陵部にかかると、雑木林や雑草が伐採されたため南に開けた丘陵上に在る牽牛子塚古墳が見えてきます。2010年9月の現地説明会には、多くの人が詰めかけました。盗掘や掘削により崩れていた北西部が調査され、墳丘が正八角形であることが確認されました。このことにより斉明天皇の御陵である可能性が、より高くなったとされました。飛鳥近隣地域においては、正八角形の古墳は天皇、もしくはそれに順ずる皇族の陵墓であるとされています。
 7世紀の八角形の古墳としては、野口王墓古墳(天武・持統陵)、中尾山古墳(文武天皇陵)、束明神古墳(岡宮天皇=草壁皇子陵)、舒明天皇陵(段ノ塚古墳)があり、飛鳥地域を離れては、御廟野古墳(天智天皇陵)が知られています。

 墳丘は版築で築かれ、三段に形造られた対辺22m(バラス敷きを含めると32m以上)、高さ4.5m以上の正八角形墳です。墳丘裾部には、犬走状の石敷きがあり、その外側には二重のバラス敷きが施されていました。
 埋葬施設は、二上山の凝灰岩切石1石を用いた南に開口する刳り貫き式横口式石槨で、石槨内に間仕切りがあり、それぞれに棺台が造り出され二人分の埋葬空間が造られています。これらは、当初より合葬が予定されていたことを物語っています。
 今回の調査では、この石槨を石英安山岩の切石が取り囲むように設置されていたことが分かりました。石槨と石英安山岩の隙間や頂上部には漆喰が塗り込められており、非常に丁寧で頑丈な石室が造られたことが分かりました。
 出土遺物では、成人女性とされる歯や夾紵棺の破片・七宝亀甲形座金具・八花文座金具・六花文環座金具などがあります。これらは、高貴な身分の女性が被葬者であったことを示しているように思われます。

外観(4月2日撮影)
石室内(4月2日撮影)

越塚御門古墳
 昨年末、牽牛子塚古墳の南20mの地点から、新たな終末期古墳が発見され大騒ぎになったのは皆さんも良くご存知のとおりです。全く存在が知られていない古墳の発見であり、牽牛子塚古墳との関連から大田皇女墓ではないかと大きな注目を集めました。

 墳丘は消滅しており、現時点では円墳もしくは方墳と推測されるのみで、確実なデータは得られていません。
 埋葬施設は、貝吹山周辺で採取される石英閃緑岩(飛鳥石)で造られた南に開口する刳り貫き式横口式石槨です。石槨は、天井部と床部の2石からなる構造になっています。類似の石槨を持つ古墳としては、鬼の俎・雪隠1号・2号墳、竜田御坊山3号墳・石宝殿古墳、などがあるようです。
 石槨規模は内法長約2.4m、幅約90cm、高さ約60cmを測り、天井石は破壊されて不明ですが、残存部分からドーム状であったことが推定されています。
 石槨の前面には長さ4m以上、幅約1mの墓道が作られていましたが、石槨の中心軸からずれているため、築造後の改修時に付け加えられたと考えられるようです。
 出土遺物は、漆膜片、鉄製品などが少量出土したのみですが、これらは漆塗り木棺の存在を示しているように思われ、牽牛子塚古墳の夾紵棺を用いた被葬者との身分差を示しているように思われます。
 
 牽牛子塚古墳・越塚御門古墳の発掘調査成果は、日本書紀天智6年2月27日条「斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵に合葬する。その日、大田皇女を陵の前の墓に埋葬する。」という記事に符合するように思われます。

外観・埋め戻し(4月2日撮影)
現地説明会にて(2010年12月11日撮影)

真弓鑵子塚古墳
 さて、丘陵の細い道を進むと、真弓鑵子塚古墳が見えてきます。鑵子とは茶釜のことと思えば良いかと思うのですが、丸い感じの古墳に多く用いられた名前のようです。例えば近隣地域にも「与楽鑵子塚・掖上鑵子塚・近内鑵子塚」などがあります。
 2008年に行われた発掘調査現地説明会では、大雪の中長蛇の列が出来たのも記憶に新しい出来事です。

 墳丘規模は直径約40m、高さ約8mの二段築成の円墳とされ、築造は出土土器などから6世紀中頃とされています。
 石室は、石英閃緑岩の巨石を穹窿(きゅうりゅう)状と表現される自然石を持送りに積み上げたドーム状の横穴式石室になっています。石室内部は広く高く造られていて(石室の床面積が石舞台古墳を上回る事が大きく報道され話題になりました。)、当初より複数の死者を埋葬することを意識して造られたのではないかと考えられています。調査でも複数の石棺片や鉄釘が出土しており、それを裏付ける結果となっています。
 以前は、南北両側に羨道があるとされていましたが、調査の結果、北側は奥室だと判断されました。

 周辺にはカンジョ古墳や与楽鑵子塚古墳を含め同様の穹窿状の横穴式石室を有する古墳が点在しており、またミニチュア炊飯具など渡来系と考られる遺物が多数の古墳から出土しています。これらの古墳は、石室の構造や出土遺物から渡来系氏族の墳墓であるとされ、檜隈地域に居住していた東漢氏の首長墓である可能性が高いと考えられています。現在、石室内は見学できません。

外観(4月2日撮影)
石室内(2006年頃撮影)

与楽古墳群
 真弓鑵子塚古墳から細い道を西に進み、農免道路に出て更に西に進みます。進行方向右手(北)の貝吹山から派生する尾根には数百基の古墳が点在しており、与楽古墳群と呼ばれています。これらの古墳は、ミニチュア炊飯具(竈・甑・釜・鍋)や釵子(かんざし)を副葬しており、真弓鑵子塚・カンジョ・与楽鑵子塚などと同様に渡来系氏族東漢氏の墳墓群ではないかと考えられています。

カンジョ古墳
 半壊と書いても過言ではないほど墳丘は崩れています。墳丘は一辺35mの二段に築成された方墳だとされています。2008年に発掘調査が行われ、石室の高さは5.1mで石舞台古墳石室の4.7mを超える県内で最高い石室であることが分かりました。石室構造は穹窿状に築かれています。現在、この地域で穹窿式横穴式石室を見学出来る唯一の古墳です。

外観(4月2日撮影)
石室(4月2日撮影)

与楽鑵子塚古墳
 2010年に発掘調査が行われ、直径24mの二段に築かれた円墳と確認されました。石室内部の見学は出来ませんが、天井の高い様子が外からも窺えます。また羨道が短いのも特徴だとされ、カンジョ・真弓鑵子塚などと同様の渡来系氏族の首長墓とみられています。


外観(4月2日撮影)

寺崎白壁塚古墳
 与楽鑵子塚古墳から竹薮を抜けた丘の上部に位置しています。2000年の発掘調査によると、南斜面に築かれた45m規模の三段築成の方形墳と考えられるそうです。高取町教委によると、中世に貝吹山城に関連する施設や墳丘盛土の流失などにより現状が大きく変わっているが、復元すると南北に46m、東西前面60m、背面30mの台形の基壇(三段)に30m規模の台形の墳丘下段(二段)と16mの方形の墳丘上段(一段)からなる三段築成の古墳と考えられるそうです。また、広大な墓域と造成時の大工事、下から見上げた時のインパクトや斜面に段状に築かれた墳丘などから、桜井市忍坂にある段ノ塚古墳(舒明天皇陵)と形態が似ているとしています。

 埋葬施設は、花崗岩の切石を組み合わせた石槨に羨道がつく横口式石槨です。石槨床面は羨道より40cmほど高くなっています。
 副葬品や遺物は、盗掘や中世の2次利用で築造年代を確定できる物は有りませんでした。

外観(4月2日撮影)
内部(4月2日撮影)

 今回の咲読は、見学ポイントが多くて長くなってしまいました。次号は、パート2・3をご案内します。



【3】 (11.4.29.発行 Vol.106に掲載)

 第26回定例会に向けての3回目の咲読です。パート2・3は、真弓・佐田の丘陵に所在する古墳を北から順に訪ねることになり、最後は紀路に出るところまでを予定しています。ルートマップのパート2・3を参照してください。

 寺崎白壁塚古墳から下り、農免道路を東に戻ります。途中から南に進路をとり、真弓丘陵を登って行きます。定例会では旧道を歩きますが、現在その東側に新道が建設中で、それに伴う発掘調査が行われました。(真弓遺跡群)

スズミ1・2号墳
 貝吹山の南に位置し、与楽古墳群の主要地域としてご紹介した尾根筋とは谷を挟んだ反対側(南)に位置します。
 スズミ1・2号墳は共に消滅していますが、興味深い古墳ですので定例会では取り上げることにしました。

 スズミ1号墳は、一辺約10mの方墳で、南に開口する右片袖式の横穴式石室を持っています。調査時には既に石室は破壊されていましたが、石室は長さ6.5m以上、玄室長4m、幅2.1mに復元できるようです。石室内からは、土師器・ミニチュア炊飯具・鉄釘が出土しており、鉄釘の分布状況から二つの棺が埋葬されていたと考えられています。

出土ミニチュア炊飯具

 スズミ2号墳は、一辺7mの方墳で、石室を伴わない木棺直葬であるようです。この古墳で注目されるのは、木棺内から銅管に金を張って仕上げた円形の耳環や上あごの前歯1本が発見されていることです。歯は鑑定されており、被葬者は20歳代前半の女性と推定されるそうです。定例会当日の配布資料では、その復顔されたイラストをご覧頂こうと思います。
 被葬者は単独で埋葬されていることなどから、一族の中でも特別な存在だった可能性があるそうです。特別な存在と言うと、巫女のような者を指しているのでしょうか、想像が膨らみます。

スズミ古墳群

 写真の前方の山が貝吹山。この道路の上の辺りにスズミ1・2号墳が存在していたと思われます。定例会では、左端に写っている旧道を歩きます。

マルコ山古墳
 真弓丘陵に入ってまず訪れるのは、マルコ山古墳です。ルート上で最初にあるのはカヅマヤマ古墳になるのですが、現在は見学が出来ませんので順番を替えてご案内します。

マルコ山古墳

 真弓地ノ窪の集落内を下って行くと、史跡公園となったマルコ山古墳があります。東西に伸びた尾根の南の斜面に築かれ、眺望が開けています。
 墳丘は、対角長約24m、見かけの高さ5.3mの六角形で、二段に築成されています。北側には石敷きが巡り、その下部には礫を詰めた暗渠が設けられていました。
 飛鳥地域では六角形の古墳は他に無く、天皇陵が八角形であることからも、高貴な方が葬られている可能性が高いと思われます。具体的には、川島皇子や弓削皇子説があるようです。


マルコ山古墳横口式石槨模式図

 埋葬施設は、17石の凝灰岩切石を組み合わせた横口式石槨で、全面に漆喰が塗られていました。主な出土遺物は、漆塗り木棺片、釘、棺飾金具、大刀金具の他、人骨(30歳後半~40歳前半頃の男性)が出土しています。

カヅマヤマ古墳
 現在、石室の見学は出来ませんので、マルコ山古墳から少し引き返し南に向かいます。谷筋の反対方向から地ノ窪の集落を見ると、カヅマヤマ古墳の立地が良く分かります。当日の案内は、そこで行うことにしました。
 埋葬施設が明日香村内では確認されていない磚積石室であったことから注目を集め、現地説明会にもたくさんの人たちが訪れました。
 マルコ山古墳の所在する丘陵の西に位置し、南斜面を東西100m以上、南北約60m、高さ8~10mの大規模な範囲で削り、一端平坦に造成した後に版築によって墳丘を造り出しています。
 墳丘は、東西24m、南北18m以上、高さ4.2m以上の方墳で、二段以上に築かれていたとされています。

 埋葬施設は、吉野川で採れる結晶片岩を板状に加工し、ドーム状に積み重ねて造られた南に開口する磚積石室です。床面には切石が敷き詰められており、同じ磚を重ねて作った棺台が設けられていました。玄室は床面を除いて漆喰が塗られており、また磚を積み重ねる際にも接合面に漆喰が使われていました。

 出土遺物は、土師器、須恵器、漆片、鉄釘、瓦器の他、人骨も見つかっています。人骨は頭蓋骨や大腿骨の破片や歯など約50点で、鑑定が行われており、40~50歳代の男性とされています。
 また、カヅマヤマ古墳の墳丘の南側半分ほどが地すべりによって崩落しており、1361年に発生した南海地震の痕跡としても注目されました。
 被葬者は、天武天皇の皇子説や紀氏・百済王族説などがあるようです。

カヅマヤマ古墳(写真提供:ぷーままさん)

束明神古墳
 真弓地ノ窪(明日香村)から佐田(高取町)へ野道を進みます。佐田の集落に入ると幾度も折れ曲がりながら束明神古墳にたどり着きます。今回の定例会ルート中の最高地点です。

 束明神古墳は、皆さんご存知のように草壁皇子の陵墓である可能性が極めて高い古墳です。
 現在は春日神社の森の中に在るため見通しが無く分かりにくいのですが、丘陵の南斜面に築造されており、墳丘は八角形であることが確認されています。対角長約30mとされています。現存する盛土は径10mほどで高さ2mもありませんが、これは中世におこなわれた神社境内の整備によるものだそうです。本来の大きさは、神社本殿を除いてほぼ境内全域を含むほどの大きさになります。
 埋葬施設は、南に開口する横穴式石槨で、約50×50×30cmの凝灰岩を加工したブロックで家形に作られています。設計に当たっては唐尺が使用され、黄金比率(1対1.618)が用いられているとされています。床面には漆喰が塗られていました。また、石槨の南側に墓道が検出されています。
 出土遺物は、土師器、須恵器、棺飾金具、鉄釘、漆膜などで、これにより漆塗木棺が安置されていたと推測されています。また、歯牙6本が出土しており、鑑定によれば男女の性別は不明ながら、年齢は青年期か壮年期と推定されるそうです。

束明神古墳

佐田1・2号墳
 集落の中を再び抜けると、東に開けた場所に出ます。緩やかな丘陵を下って行くのですが、これらの細い丘陵上には、現在は消滅しているのですが、古墳が在りましたのでご紹介します。

 佐田1号墳は、通称「狐塚古墳」と呼ばれていたそうです。奈良県遺跡情報地図によれば、径15mの横穴式石室を持つ円墳と書かれているのですが、調査報告書によると径12m、高さ2.5mの規模だとされています。埋葬施設は、長さ2.8m、幅1.7mの右片袖式の横穴式石室と考えられるようです。調査時から上部は破壊されていたため構造は不明ですが、前半で見てきた様な窮窿状の石室であった可能性が指摘されています。

 佐田2号墳も、現在は消滅してしまっています。奈良県遺跡情報地図によると、「八角形墳・径8.4m、古墳時代後期に属する」とされており興味をそそります。「佐田遺跡群調査2報告書」によると一辺7mの隅丸方形の方墳だとされていますが、中世の削平のため墳形については結論が出せなかったと書かれていました。築造時期は、墳丘の立地から終末期だと考えられるようです。

出口山古墳
 紀路に沿うようにある丘陵上に在ります。径10m程度、高さ2mほどの円墳だとされています。発掘調査は行われていないようなのですが、明治32年に記された「奈良県名勝旧跡取調書」による「無明塚」に当たるとされ、凝灰岩の破片の発見や近くから見つかったとされる石造物(石櫃=骨蔵器を安置する物?)から、火葬墓の可能性もあるそうです。そうすると最終末期の古墳という事になり、大変興味深い古墳です。

写真の右の丘陵の真中辺りに出口山古墳が存在する。

 さて、次回は、定例会前日になりますが、紀路を南下して解散地点までをご案内します。



【4】 (11.5.13.発行 Vol.107に掲載)

 第26回定例会向けの咲読最終回です。いよいよ明日に迫った定例会ですが、今回はルートマップのパート4をご紹介します。

紀路
 出口山古墳の直ぐ脇を紀路が走ります。軽衢・飛鳥近郊から紀ノ川河口を結ぶ道路で、現在にもその痕跡を良く残しています。難波津がメインの港となるまでは、紀伊水門が大和政権には重要な水運の拠点であったと思われます。宮と港を結ぶ重要な道路が紀路であったと言えるでしょう。

 カヅマヤマ古墳などで使われた吉野川産の結晶片岩や、川原寺の瓦窯であった荒坂瓦窯、後に訪れる藤原宮の主要瓦窯であった高台・峰寺瓦窯で焼成された瓦も紀路を使って運ばれました。また、紀路沿いからは製塩土器も出土することから、塩の道でもあったのかも知れません。
 また、飛鳥時代に限っても、斉明天皇の紀の温湯への行幸、有間皇子の護送、持統天皇の紀伊行幸、文武天皇の宇智郡や紀伊行幸なども、紀路を辿ったものだと考えられます。

紀路(出口山古墳付近より飛鳥方向)

森カシ谷遺跡
 紀路に沿った丘陵上に物見櫓と見られる柱穴や、大型の高床式建物跡、周囲に巡らされた柵跡などが検出されています。7世紀後半に建てられたとみられ、古代幹線道路沿いの飛鳥の内外を分ける境界にあり、「飛鳥を守る砦」であるとされました。飛鳥の都の出入り口を監視する役目を果たしていて、望楼とされる建物跡の下部に生木を貯蔵する穴があり、狼煙台(烽)の役目を持たされていた施設ではないかと考えられるようです。
 また、壬申の乱に関連する砦説や、飛鳥藤原の大土木工事に徴発された人々の逃亡を取り締まる検問所だとする考え方もあるようです。

 これらの施設が遷都などにより不要となった後、丘陵南斜面に7世紀末頃円墳が築かれました。森カシ谷2号墳と呼ばれます。上部構造は破壊されていましたが、南に開けた丘陵上に版築工法で築かれ、石室下部に十の排水溝が設けられている点などから、終末期の古墳であると推定されるようです。墳丘は無くなっていますが、排水溝の長さから直径約14mの円墳であると考えられるようです。

森カシ谷遺跡(現況)

薩摩遺跡
 国道169号線バイパス建設工事に伴い、10次にわたる発掘調査が実施されてきました。初期の調査では、弥生時代中期の木棺墓、古墳時代前期・中期の古墳群、古墳時代中期の竪穴住居跡などが検出されています。
 中期の古墳は、円墳や方墳など5基がありましたが、周溝からは埴輪や朝鮮半島の様式をまねた土器などが見つかっています。1辺10mの方墳跡では、4ヶ所に獣の文様を配した類例のない銅鏡1面や漆塗りの櫛、鉄製甲冑、刀剣類などの副葬品が出土しています。
 古墳時代中期に大陸や半島から渡来した人々が、紀路を通って物や情報を大和へ運んだと考えられ、豊富な副葬品は被葬者がその恩恵を受けた有力首長であると考えられるようです。

 また、2009年には、高取町教育委員会により奈良時代(8C後半)の道路側溝とみられる溝2本と、掘立柱建物跡が検出され、建物は道路と方位が一致し、何らかの役所だった可能性があると発表されました。また、幅約9m間隔で並行して南北に延びる2本の溝が確認され、溝は道路に伴う側溝と考えられました。また、埋土から8世紀後半の土器が出土しています。紀路、または紀路に繋がる枝道ともされましたが、延長上からは道路痕跡は検出されていないのが疑問として残されました。

高取町教委発掘現場(2009年現説時)

 橿考研の2009年の調査では、古代の溜池の跡が検出されました。谷間に堤を築いて池を造り、排水調整の木樋を設置していました。前年の調査では、池の中から「波多里長檜前村主が池を作った」との内容を記した木簡が出土しています。

出土木樋(2009年現説時)


市尾墓山古墳
 今回のウォーキングも最終地点が近づいてきました。市尾の集落の外れに、整備された前方後円墳が見えてきます。平地に築かれており、樹木が生い茂っていないことから墳形が明確に分かります。


埴輪列(2004年現説時)

 墳丘は、二段に築成された前方後円墳で、墳長は約65mを測ります。くびれ部の両側には造り出しが見て取れます。周濠と外堤も明瞭に分かり、前方後円墳の外観が良く把握出来ます。葺石が貼られ、円筒埴輪・朝顔形埴輪・鳥型木製品他が墳丘を巡っていました。紀路を通る人々には、印象に残る古墳であったことでしょう。

 埋葬施設は、後円部の墳頂部に築造された南東に開口する右片袖式横穴式石室で、石棺は凝灰岩の刳抜家形石棺で、大きな四つの縄掛け突起を持っています。石棺内部には朱が塗られており、外側にも僅かに朱が残っています。出土遺物としては、鉄刀、刀子、鉄鏃、飾金具、馬具、玉類、須恵器、土師器などが残されていました。

石室内(2004年現説時)
石棺内(2004年現説時)


市尾宮塚古墳
 市尾墓山古墳から南西に約260mの丘陵上に、市尾宮塚古墳はあります。一度紀路に出て天満神社の階段を登ると、拝殿横北東側に墳丘が姿を見せます。
 墳丘は、全長44m、後円部径23m、高さ7m、前方部幅24m、高さ4.5mの前方後円墳です。前方部が東を向いているのですが森の中に在るため、墓山古墳に比べると墳丘は明確ではありません。


 埋葬施設は、後円部の墳頂部に築造された北に開口する両袖式横穴式石室があります。玄室内には、凝灰岩の刳抜式家形石棺がありますが、復元された物のようです。石室の壁面や石棺の内外には赤色塗料が塗られていました。石室内からは遺物として、大刀・馬具・鈴・耳環・金銀製の歩揺・鉄製小札・鉄鏃・水晶ガラス製の玉類など多数の副葬品が出土しており、中でも珍しい「鈴」が注目されます。金銅製の鈴の出土は、天理市のタキハラ1号墳に続いて奈良県内では二例目だということです。

豊かな副葬品から、被葬者は市尾墓山古墳と同じく巨勢氏の首長クラスとされていますが、墓山古墳の次世代の首長墓ではないかと考えられるようです。

高台・峰寺瓦窯
 いよいよ最後の見学ポイントです。といって、何かがあるわけではありません。今回、ここを訪れる目的は、立地を見学して古代の大瓦工場をイメージしてみようと言うことに尽きます。市尾宮塚古墳のあった丘陵の西側の高台瓦窯と、さらに道を隔てた曽羽神社のある丘陵北側の峰寺瓦窯が、そのイメージの対象となる遺跡です。

 藤原宮建設のために設置された瓦窯は、大和国内では高台・峰寺瓦窯の他に日高山瓦窯、西田中・内山瓦窯、牧代瓦窯、安養寺瓦窯などがあり、大和以外では近江・和泉・讃岐などの遠隔地にもありました。宮全体を瓦葺屋根にするには、寺とは比較にならない膨大な枚数の瓦が必要になります。そのため大規模な造瓦システムが広範囲に組まれたことが、これら多数の瓦窯の存在から伺えます。高台・峰寺瓦窯で生産された瓦は、特に大極殿や朝堂などに用いられました。


高台・峰寺瓦窯産軒丸瓦
 (大極殿院南門・南面回廊・朝堂院回廊・東楼などの所用瓦)

 どちらも正式な発掘調査はおこなわれていませんが、高台瓦窯は、登窯と思われる窯跡一基が昭和10年代まで残っていたことがわかっています。また散見・採取された瓦片などから、その範囲は少なくとも南北200mの範囲に及び、付近の小字名などを含めて考えると近鉄吉野線の線路を超えた南にも広がっていた可能性もあるようです。峰寺瓦窯は、数基の窯跡と窯に関わると思われる焼土、鬼瓦などが発見され、丸・平瓦、面斗瓦、須恵器片などが丘陵の北から東にかけて見つかっています。

 現地に立てば実感できると思いますが、高台瓦窯と峰寺瓦窯の距離は、100mほどしか離れていません。谷を挟んで向かい合うようにして在るのは、高台と峰寺が一つの瓦生産地として機能していたことを示していると思われます。

 明日は、いよいよ現地を訪ねます。咲読には書ききれなかった多くの事柄は、当日の配布資料や現地での説明で出来るだけ補えればと思っています。どこまでご案内が出来るかは分かりませんが、とにかく楽しい一日にしたいと思います。
 毎回長い記事をお読みいただきまして、ありがとうございました。
(第26回定例会は、終了しています。)




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