両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第57回定例会
発掘調査から見えてきた飛鳥京跡苑池のすがた

Vol.243(16.5.27.発行)~Vol.246(16.7.8.発行)に掲載





【1】 (16.5.27.発行 Vol.243に掲載)     風人

第57回定例会の咲読を開始します。担当は、風人が務めさせていただきます。

 第57回定例会は、飛鳥京跡苑池遺構を取り上げることになりました。講演会タイトルは「発掘調査から見えてきた飛鳥京跡苑池のすがた」です。講師には、苑池遺構の直近の発掘調査を担当された橿原考古学研究所主任研究員でいらっしゃいます鈴木一議先生をお迎えすることに致しました。

 直近の発掘調査と言えば、庭園遺構だとされる区画の門が検出された調査になります。当メルマガでは、特別寄稿として掲載した「苑池に開く門から、何がわかるのか -飛鳥京跡苑池の調査から-」あい坊先生(15.9.18.発行 Vol.224に掲載)の記事を振り返っていただければと思います。

 苑池に開く門から、何がわかるのか -飛鳥京跡苑池の調査から-

 また、下現地説明会の資料をリンクしておきます。

 苑池は、史跡の名称としては「史跡・名勝飛鳥京跡苑池」が正しい呼び名だと思われますが、当メルマガでは考古学的な視点を重視したいと思いますので、以後、「飛鳥京跡苑池遺構」あるいは「苑池遺構」などとさせていただきます。

 飛鳥京跡苑池遺構の発掘は、平成 11 年(1999)に始まり、現在10次に及ぶ継続的な調査が行われています。これまでの調査で、南北二つの様相の異なる人工的な池や渡堤・水路・中島・石造物などが複雑に配置された庭園であることが分かってきました。また、薬草に関連する木簡や苑池を観賞するためだと思われる掘立柱建物が発見されています。

 第57回定例会では、これまでの発掘成果を振り返り、苑池遺構の在りし日の姿を再構築できればと思っています。発掘調査では、新しい所見が新たな謎を呼ぶことがしばしばあります。苑池遺構もまた、新しい謎が誕生していますので、鈴木先生のなぞ解きが楽しみになりますね。

 10次に及ぶ発掘調査の間に、飛鳥遊訪マガジンの読者の方の中には、現地を訪ねられた方も多いと思います。苑池遺構は、吉野川分水路と現在の道路を挟んで、飛鳥宮跡第III期遺構の内郭と呼ばれる区画の北西直ぐのところに在ります。そこは飛鳥川に沿った場所になり、宮跡からは低地になります。遺跡全体の大きさは、南北に約280m、東西約100mにおよぶ大規模な庭園であったと考えられています。
 
 苑池の建造時期は、斉明天皇の時期だとされ、天武天皇の時代に大規模な改修工事が行われたことが分かっています。宮の名前を当てはめると、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮が該当します。そして、平安時代まで、苑池は維持されていたことも判明しています。日本の庭園史にも大きな一歩を残すことになった飛鳥京跡苑池遺構ですので、本当に講演が楽しみになりますね。

 話は変わりますが、実は、風人と飛鳥京跡苑池遺構は、奇妙な縁があります。本当に不思議な事なのですが、近年の調査担当者お二人と、住まいの最寄り駅が同じなのです! なんという偶然なのでしょうか。以前、担当されていたH先生は当時同町内にお住まいでしたし、鈴木先生も町境を挟むとはいえ同地区にお住まいです。苑池が私を呼んでいる! そんな感じがしてなりません。(笑)

 前任のH先生と駅でお会いして、いつまでも同道するので笑い合ったという思い出があります。鈴木先生とも、σ(^^)家の最後の曲がり角までご一緒だったという、エピソードが有ります。縁とは、不思議なものですね。事務局の担当にもなりましたので、この縁を大事にするためにも頑張ります。

 次回からは、飛鳥京苑池遺構の興味深さを、さらにお伝えできればと思っています。







【2】 (16.6.10.発行 Vol.244に掲載)   

 第57回定例会に向けての咲読、2回目をお届けします。

 今回は、苑池遺構の池そのものからは離れた話を紹介したいと思います。苑池遺構からは、とても興味を引く木簡や遺物が発見されています。まずは、木簡の話から始めましょう。

 苑池遺構からは、多量ではありませんが63点の木簡が発見されています。荷札木簡も有るのですが、薬草の類や処方箋と思われる木簡も有りました。まずは、その中から以下の1点を見てみましょう。

「・西州続命湯方/麻黄□〔六ヵ〕/石膏二両∥(他に石・命・方の刻書あり)・当帰 二両○杏人◆枚\乾薑三両○「其○□水九□〔升ヵ〕□」と判読されています。(◆=縦線4本に横線一本。40を表す)

 「西州続命湯」は、漢代の医学書にも名が見える生薬で、高血圧や脳卒中に効用が有るとされています。また、麻黄、石膏。木簡の裏面には、當帰、杏人、乾薑(カンキョウ)などという文字が見えることから、薬を調合する際の指示書として書かれた木簡だと考えられています。つまり処方箋木簡と言えるでしょう。この木簡は、現存する我が国最古の処方箋であるとされました。

 この木簡から、飛鳥時代の後半には組織的な医学への取り組みが行われていたことが確認されたとも言えます。大宝律令の医薬令には、医薬全般にわたる諸規定が定められていたようです。具体的には、医師・女医などの育成(医生・針生・按摩生・呪禁生・薬園生など)や任用などの規定、薬園の運営や典薬寮および諸国の医師の職掌について定められていました。
 (Wikipedia参考)

 大宝律令以前にも、この医薬令に近い規定が存在したのかも知れませんね。苑池に関して考えると、「薬園の運営」などが考えられますが、処方箋木簡は典薬寮の機能を担った施設が、苑池の近くに配置されていた可能性も示唆しているように思えます。

 また、苑池からは、桃、柿、梨、栴檀、梅などの種子が発見されているのですが、ひょっとすると、これらも薬用に用いられたのかも知れません。例えば桃の種ですが、桃仁と呼ばれ、今日でも漢方薬として知られています。この桃仁には、消炎・鎮痛や血のめぐりを良くする作用があって、便秘、肩こり、頭痛、そして高血圧や脳梗塞の予防にも効果的だそうです。

「西州続命湯」について、もう少し詳しく見てみましょう。
 この薬りに調合されている薬剤は、5つが判読されています。

「麻黄(マオウ マオウ科マオウ(エフェドラ属)」
 茎を刈り取り、日陰で乾燥させたものです。漢方では、鎮咳、解熱、発汗作用を持つとされます。現在、危険ドラッグや脱法ハーブの名で、またドーピング剤など負の面が表に出ています。

「石膏(セッコウ)」
 天然産含水硫酸カルシウムのことで、止瀉作用、利尿作用、血糖降下に薬効があるとされています。

「當帰(当帰=トウキ、セリ科シシウド属」
 根は血液循環を高める作用があり、充血によって生じる痛みの緩和に有効であるとされます。また、膿を出し肉芽形成作用があるとされています。

「杏人(キョウニン、薬剤としてはアンニンとは読まないそうです。)
 漢方では、麻黄と合わせて用いられ、鎮咳剤、去痰剤として多く用いられるそうです。

「乾薑(干姜=カンキョウ)、生姜」
 ショウガの根茎を乾燥させたもの。漢方で健胃、鎮嘔(ちんおう)、鎮咳(ちんがい)薬などに用いられます

 現代人から見ると、中には、これが薬剤なのかと思われるものもありますが、当時は薬効があると考えられていたのでしょうね。

 こうして処方された「西州続命湯」を飲んだのは、誰だったのでしょうか。極めて位の高い皇族や貴族なのでしょう。もしかすると、斉明天皇は高血圧に悩まされていたのかも知れませんね。

  もう1点、ご紹介しましょう。
 「・○□病斉下甚寒・薬師等薬酒食教▲酒」と書かれたものです。
 簡単に書くと、〇□病、臍下(下腹)が冷えたとて書いてあるわけです。で、その木簡の裏側には、「薬師等薬酒食教豆▲酒」豆▲(トウチ)酒を薬酒として飲めと書いてあります。これも、処方箋ですね。
 (▲=豆偏に支・異体字あり)

 トウチは、黒大豆を水で戻してから、蒸し、塩、麹と酵母の混ざったものを加え、発酵させた後、日陰で水分を減らして仕上げる現代の日本の浜納豆や大徳寺納豆などの寺納豆と言われる物によく似ており、これらは中国のトウチが奈良時代に日本に伝わったものとされているようです。(Wikipedia参考)

 苑池から出土した木簡に書かれていたのですから、トウチが奈良時代以前に入ってきたいたことになりますね。豆▲酒は、トウチを酒にしたものなのでしょうか? 私は若干気持ち悪いのですが、皆さんは如何です? 

 こうして、簡単に2点の木簡を見てきたのですが、典薬寮的な施設の存在が見えてきませんでしたか? 飛鳥京跡苑池遺構は池だけではなくて、その周辺にも興味が惹かれてきませんか?








【3】 (16.6.24.発行 Vol.245に掲載)   

 第57回定例会へ向けての咲読の3回目です。今回は、視点を変えて、飛鳥にやって来た珍獣の話をしたいと思います。苑池と確実に繋がる話かどうか断定は出来ないのですが、このように考えてみたら面白いかも知れませんねと言うレベルでお付き合いをお願いします。

 飛鳥時代に限定しますが、飛鳥には駱駝が3度やって来ました。最初は、推古7年9月、百済よりもたらされました。2度目は、斉明3年に同じく百済から送られています。3度目は、天武8年10月、新羅から到来しました。

 もちろん駱駝は、中央アジアや西アジアを原産とする動物で、ヒトコブ
 ラクダとフタコブラクダが居ます。日本にやって来た駱駝は、どちらだったのでしょうね。

 駱駝は、砂漠などの乾燥地帯に適応した家畜として知られています。瘤には、脂肪分が蓄えられており、エネルギーを蓄えるだけでなくて断熱材として働き、汗をほとんどかかないラクダの体温が日射によって上昇しすぎるのを防ぐ役割があるそうです。また、駱駝は血液中に水分をためることが出来るため、長期間にわたって水分を補給する必要が無いのが特徴です。草食でほとんどの草類を食べるのですが、日本に送られた駱駝は何を与えられていたのでしょうね。ひょっとして、駱駝博士なんて飼育係の人も付いてきたのでしょうか。その辺りを想像すると、とても面白いエピソードではあります。駱駝司なんていう役所も出来たりしたとか。(笑)

 初めてやって来た駱駝を、飛鳥人はどのように見たのでしょう。馬でもない大きな生き物は、まさに珍獣として目に映ったことでしょう。送った方の狙いは、まさにそこに有ったことでしょう。

 中国の禁苑では、禽獣を飼育するゾーンが設けられていました。それは、時の権力者・皇帝が、楽しむためでもありますが、支配地域や交易範囲を誇示する意図を持っていたと考えられています。我が国にあっても、それは同様であったのではないでしょうか。

 『日本書紀』によると、斉明14年、阿倍比羅夫が蝦夷討伐に派遣されるのですが、同時に粛慎(みしはせ)との戦闘が行われ、戦利品として2頭の羆と毛皮70枚を持ち帰っています。
 「是歳、越國守阿部引田臣比羅夫、討肅愼、獻生羆二・羆皮七十枚。」

 我々は、この国の北の端まで支配したのだ! それを具体的に示すための象徴として「羆」は連行されたのかも知れませんね。

 さて、ここからは、推論と言えるかどうかも分かりませんが、駱駝や羆はどうしたのでしょう? 中国の例を採り、飛鳥宮に付設された苑池で飼育されたのではないかと考えてみました。目立たないような所に置いてしまうと、意図が崩れてしまいます。賓客を饗するとき、苑池を見下ろす宴と共に、これらの珍獣を披露するということも考えられることではないかと思います。

 飛鳥時代にやって来た珍獣は、駱駝や羆の他に、驢馬(ろば)、羊、水牛、馬、騾馬(らば)、犬、孔雀、鸚鵡(おうむ)、鵲(かささぎ)、山鶏(きじ)、などが有ります。また、白い雉などの瑞兆と考えられたアルビノ種もいますが、これらは定例会配布資料にてご確認ください。

 一つの事例だけですが、ご紹介します。
 『日本書紀』白雉元年2月、宍戸国より白い雉が献上され、園に放つエピソードが綴られています。

「二月庚午朔戊寅、穴戸國司草壁連醜經、獻白雉曰、國造首之同族贄、正月九日、於麻山獲焉。・・・(中略)・・・是以白雉使放于園」

 ただ、白雉は孝徳天皇の時代ですので、難波宮の庭園のことであるようですが、珍獣が到来すると、宮の苑池に放すということが有ったことが分かるように思います。

 飛鳥京跡苑池には、薬草が植えられ、珍獣が放たれたり飼育されていたのかも知れません。そのように考えると、苑池の姿は私たちが考える以上に多彩な様相を呈していたのかも知れませんね。

 さて、今号までは、苑池の別の一面を取り上げてきましたが、次号では、南池にスポットを当てて綴りたいと思っています。














【4】 (16.7.8.発行 Vol.246に掲載)  

 第57回定例会の咲読4回目です。これまでは、苑池の考古学的な成果というより、『日本書紀』に書かれた史料から、苑池の様相について綴ってきました。そこからは、苑池は単なる池ではなく、薬草に関する施設の存在や禽獣類が飼育されていた可能性が見えてきました。さて今回は、南池の構造に関わる疑問や推測をご紹介したいと思っています。

 苑池の南池は、南北約55m、東西約65mの五角形を呈していますが、南の角はやや丸みを帯びた曲線状になっています。特に南東角では、曲線状の護岸を見せています。また、西側の護岸は高さ約1.5mであるのに対して、東側の護岸は高さ3.5m以上となり、高低差のある構造であったようです。池の底には、石が平らに敷き詰められていました。そして、池の中には、中島と島状の石積みがつくられていました。また、ご存知のように、南岸には石造物群が設置されていました。

 このような概観を呈する南池なのですが、第8次発掘調査の時でした。中島を中心にした柱穴列と思われる整然と並ぶ土坑群が発見されました。また、以前から石造物群の周辺や東西護岸付近にも柱穴列と思われる土坑が発見されており、木製の施設の存在が知られていました。木製施設は、橿考研のお馴染みのイメージイラストにも一部が反映されており、西岸では池の景観を楽しむ京都の夏の風物詩「床」のような存在ではないかと考えられてきました。また、東岸では、水際に下りられるような足場のように描かれています。


 第8次発掘調査現地説明会説明板より

 第8次調査の現説時には、中島の周辺に関しては調査中であったため、イラストには反映されなかったようです。

 さて、中島を取り囲むように検出された柱穴列は、長方形を示し、東西14間以上(約35m以上)、南北7間(約17m)の規模を持ちます。また、柱穴群が表す長方形は、長軸が東西で約9度南北に振れを持っています。(東で南に約9度振れる)

 柱穴群が造られた時期を考えてみましょう。
 第8次調査では、中島の全体を掘り出しています。それにより、規模は東西約32m、南北約15m、高さは池底から約1.3mであることが確認され、盛り土により構築されており護岸は4石程度の石を積んでいました。

 さらに、中島は2時期の変遷があることが分かりました。中島の下層には、一回り小さな島が造られていたようです。苑池の築造当初より造られていたと考えられるもので、改修により曲線をより強調した現在図面等で示される不定形な外観に改修されていると考えられました。

 調査の結果、柱穴列(木製施設)は、中島の改修とほぼ同時期に造られていることが分かりました。そして、程なく撤去されていることも分かっています。つまり、木製の施設は、短期間で役目を終えたことになります。

 苑池の変遷に関しては、資料でまとめたいと思っているのですが、この飛鳥京跡苑池、一筋縄では行かないようです。

 これまでの調査で、苑池が造られたのは、斉明朝(7世紀中頃)、改修が行われたのが天武朝(7世紀後半)と考えられています。つまり、木製施設も天武朝の改修期の直後に存在したことになります。

 中島を取り囲む柱穴列は、現在、テラスまたは舞台のような構造物であると考えられています。ということは、例えばこのような感じだったかもしれません。


 南東の高台に建つ建物から、池に浮かぶ舞台で行われる舞を楽しんだのかも知れないと想像してみるのは如何でしょうか。想像の翼を大きく広げてみると、飛鳥川を挟んだ西には川原寺が有り、このお寺には伎楽集団が居ました。彼らが賓客の前で演じたのかも知れません。苑池からは、「川原」・「川原寺」と墨書された土器が出土しているのも、なにやら関連めいていて面白いと思います。

 また、天皇の祭祀に関わっているのかも知れません。苑池は、藤本山(岡寺山)を借景としているのではないかとも考えられます。特に西側から見ると、宮の建物群は見えなくなっており、秀麗な山容を持つ藤本山が際立って見えます。また、妄想域に入りますが、舞台の長方形の長軸は藤本山山頂方向を向いているように見えます。三輪山や藤本山のように円錐型の山容は、信仰の対象となることがしばしばあります。なにか祭祀が行われたのではないかと・・・。(^^ゞ 構造物が短期間の使用に終わったのは、祭祀が行われたからと考えるのが分かりやすいかも知れませんね。

 最後は、いつものように妄想話で終わってしまいました。いよいよ、定例会実施日が近づいてきました。当日は、鈴木一議先生に飛鳥京跡苑池遺構の全てを語っていただければと思っています。直近の発掘調査担当者のお話を聞ける機会など、そうそう有るものではありません。きっと得るものは大きいだろうと、σ(^^)も楽しみにしています。











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