両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



ももと

飛鳥と三十一文字と



もも



 万葉集にはド素人の私・ももが、今更一語一句の解説をしても始まらん・・
と言う事で
ももにとってタイムリーな話題に歌を交えながらお話できたらと思っています。

春と秋 アサガオ
夢 1 夢 2
夢 3 海に会う寺
海に会う寺2 氷のお話
10 朝の原
11 神々の山 12 甚だ寒し
13 イハソソク? 14 タソカレ
15 こぼれ梅 16
17 言問はぬ木 18 坂上郎女
19 オママゴトの歌 20 黄葉
6号から51号までのももと飛鳥と三十一文字は、こちら♪
57号から103号までのももと飛鳥と三十一文字は、こちら♪


【1】 「春と秋」  (11.5.13.発行 Vol.107に掲載)

 既に五月も半ば。少しずつ季節は確実に春から夏へ進んでいます。
 さて、季節の中ではどれが好き?春夏秋冬の中では?夏と冬では?春と秋では?と、四季のある日本ならではのこの問いかけ。四季の優劣、特に春と秋の優劣が競われたりする趣向は、古来、歌や物語などにもみられるようです。

 万葉集に、次のような歌があります。

 冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山吾は(1-16)

 二つの季節を取り上げて優劣を競うというのは、歌としてはこれが最初、漢詩のように春と秋、花と鳥など対で詠まれた歌もこれまたこの歌が初見になるのだそうです。色々とお初尽くしになるこの歌は、天智天皇の御世に額田王が詠んだとされているものです。額田王が春と秋のどちらに軍配を上げたのかは、最後の一句で一目瞭然です。手に取ることができるかどうかを基準にして彼女が選んだのは、秋。何とも分かり易い。(笑)

 が、この歌を私が思い出すのは、大抵今頃の季節で、最初の「冬こもり 春去り来れば」のせいかもしれませんが、もとより歌をなかなか覚えきれない私ですから、この歌も「額田王が“春だ秋だ”と何か言ってた歌があったな~」と思い出す程度で、彼女がどちらを好んだかなんてこともよくわかっていませんでした。(^^ゞ 

 この歌が詠まれた時の様子が題詞に詳しく書かれてあります。

 「天皇、内大臣藤原朝臣に詔して、春山の万花の艶と秋山の千葉の彩とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて判る歌」

 何だかややこしいですが、ももの適当解釈によると、「天皇さんの言いつけで春の山と秋の山とを比べて漢詩の読み合いっこの宴(?)を鎌足さんが催した時に、額田王が歌をもって判じた」という感じでしょうか。
 ですが、題詞には肝心の宴(?)が、いつ、どこで、どれほどの規模で行われたのかまでは書かれておらず、披露されたと思われる他の漢詩も残っていないんだそうです。きっと、秋が良いとか春が良いとか、色んな人が色んなことをいったんでしょうね。締めに額田王が選ばれたのは、どこにも角を立てず、できれば天皇のご機嫌宜しく宴を終えるためなんじゃないかと思ったりもします。参加者が一通り詩を披露した後、「じゃ、最後に。額田。」と振られて、「では」と即興で歌を詠んだのかな?と。

 この歌の現代語訳は、やはり参考にするものによって微妙に違います。私が辞書をめくったところで所詮わからんことだらけです。(一冊ぐらい現代語訳の本を買うべきかと、今回シミジミ思いました。)意味が分からなくて、仕方なく何度も何度もこの歌を読み返しました。でも、なんとか自分なりに現代語にしないと先へは進めないということで、私が捻り出したのは、

 春山は、冬の間鳴いていなかった鳥もやって来ては鳴き、咲いていなかった花も咲く。けれど、山は草が深く繁っていて、入って行って花を手に取って見ることは適わない。秋山は、木々の葉を見、染まった葉を手にとっては思いを巡らせ、青いままで染まっていないものは、恨めしく思いつつ眺めたりもする。近くに感じることが出来る秋山が好き。

 この時、優劣を競う対象となったのは、山の春の艶と秋の彩。季節そのものではなく、それぞれの季節の山の風情が題材にされているんですよね。だとしたら、山って、遠くから眺めるものなんじゃないのかな?と。

 「入りても取らず 草深み 取りても見ず」で、直には感じられない春山の風情。じゃ、秋山には入って行けるのか?行くのか?そこのところは歌にはありませんが、秋山にも入っていかないんじゃないかと私には思えます。「取りてぞ偲」ばれる染まった葉は、川を流れてきたものか風に運ばれてきたもので、「置きてぞ嘆」かれた青い葉は、できれば染まるまで秋山に置いておきたかった同じ運命にあったものではなかったか。春山も秋山も、それぞれに花や葉で艶や彩を見せてくれる。けれど、離れて居ても、その風情が手元に届くのは秋山。だから私は秋山を選ぶ。・・・ということか?と、ももなりの決着を付けました。(^^ゞ

 この歌の解釈は、ネットでも色々と、図書館ならもっときちんとちゃんとしたものがご覧になれると思います。是非一度本などを手に取って確認していただければと思います。貴方は、額田王がどう思ったと思われます?

 天智に鎌足、加えて額田ということで、この歌の詠まれた時代は近江朝だともいわれるそうですが、額田王の手に取られたのは、飛鳥川を彩りつつ流れてきた紅葉ではなかったかと。いや、そうであるといいなぁ~と、思うももです。

 春の新緑があってこその秋の紅葉です。飛鳥の新緑に出会いに是非お出掛けになってみてください。(^^)




【2】 「アサガオ」  (11.8.5.発行 Vol.113に掲載)

 今年は、節電が言われている関係もあってか、「グリーンのカーテン」という言葉を例年以上に耳にするように思います。建物の外側を覆うように植えられるこれらの蔓性植物は、ゴーヤや胡瓜など食べられるものが人気で、近頃では収穫率の良いように改良されたものまで出回っているんだそうですね。ももが子供の頃の夏の蔓と言えば、朝顔かせいぜいヘチマでした。これも時代の移り変わりなんでしょうか。グリーンのカーテンをおうちで実践されて、心地よい日陰と稔りを手に入れられた方もいらっしゃるんでしょうね。

 さて、ゴーヤや胡瓜もしくはヘチマなどを万葉集から探すのは大変なので(笑)、今回はアサガオで許してやって下さい。(^^ゞ

 万葉集にはアサガオの詠み込まれた歌は五首あります。
 古代にアサガオと呼ばれた花は、今の朝顔ではないと言われていることは皆さんもよくご存知だと思います。古代のアサガオ候補としてはキキョウやムクゲなどがあげられているようです。
 では、とりあえずは、その五首を順番に見ていくことにしましょう。

 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花(08-1538)

 山上憶良が秋野の花を詠んだとする二首のうちの一首で、秋の七草の由来となったとされている歌です。これは、「秋野の花を詠む」として詠まれたものなので、低木であるムクゲは該当せず、キキョウ説の根拠のひとつともされているようです。

 朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ(10-2104)

 今の朝顔は、昼頃には萎んでしまいますので「夕影に咲き優る」ことは有り得ないと考えられ、こちらもキキョウ説を後押しすることになるようです。

 臥いまろび恋ひは死ぬともいちしろく色には出でじ朝顔の花(10-2274)
 言に出でて云はばゆゆしみ朝顔の穂には咲き出ぬ恋もするかも(10-2275)

 これらは、花になぞらえたよくみる歌と言ってもいいかもしれません。「アサガオの花のように目立って顔には出さない」とか「アサガオの花のように目立つ振る舞いはしない」というような意味でしょうか。
 この二首を眺めていると、古代のアサガオはかなり目立つ花だったようにも受け取れますよね。可能性として、キキョウかムクゲかそれとも今の朝顔かはたまた別の朝に咲く花か。朝に綺麗に花開くと考えると、これらの歌だけでは、どの花とも言い切れないように思います。

 さて、最後の一首ですがこれは東歌になるようです。

 我が目妻人は放くれど朝顔のとしさへこごと我は離るがへ(14-3502)

 「我妻と人が引き離そうとするけれど、私は離されるものか」とでもなるのでしょうが、4句目の「としさへこごと」が意味不明なんだそうです。この歌のアサガオが、簡単には離れないものの喩えで使われているのか、それとも簡単に離れてしまうものなのでそんな風にはならないと言っているのかが、私には分からず何だかすっきりしません。「アサガオの真似をして絶対簡単に引き離されるものか」と言う意味に取れるのだとすれば、このアサガオは、蔓で絡まる今の朝顔であってもおかしくないと思えてきます。こうなると難しいですねぇ。

 古代のアサガオがキキョウだとされるのには、朝顔が我が国の在来種ではなく、奈良時代末か平安時代に中国から薬として伝来したとする説があります。つまり、それまで「朝顔はなかった説」ですね。早くとも奈良時代末に薬として伝わったのなら、そうそう野山に咲いているわけもないですしね。この説を重視すると山上憶良の歌にあるアサガオは、今の朝顔ではないということになりますか。

 ただ、アサガオに限らず万葉集に出てくる草花の名は、今とは違う呼び名を持つものが多くあります。そういうものを一つずつ読み比べていくのも面白いかもしれません。
 朝顔を追いかけてみて思ったのは、実際に咲く花とその呼び名が一対一で対応していた可能性がどこまであるのか?と。五首あれば五種のアサガオがあっても良いと思うのは、これだ!と言う古代のアサガオに辿り着けなかったももの言い訳かもしれませんが。(^^ゞ



【3】 「夢 1」  (11.12.23.発行 Vol.122に掲載)

 12月に入ると気ぜわしい感じがしますね。今年も、毎年恒例の遣り残しをあれこれ考えたりしがちですが、この際そんなことは綺麗さっぱり忘れて、来る2012年にかけたいと思うももです。ということで、咲読に引き続きの“もも話”で恐縮ですが(^_^;)、万葉集に出てくる夢のお話をさせて頂こうと思います。2012年の夢、貴方は何かお持ちですか?(^^)

 万葉集で夢と詠み込まれた歌は、100首ほどあり、恋しい人への想いを詠んだ歌が多いようです。

 み空行く月の光にただ一目相見し人の夢にし見ゆる (4-710)
   綺麗な空を横切る月の光越しにたった一度だけお逢いした人を夢に見ました。

 恋しくて恋しくて、思い出そうにも一度きりの思い出しかなく時が経つにつれてぼやけていってしまう・・・そんな恋しい人の面影を夢に見たんでしょうね。夜の月の光がその人の格をあげたのか、はたまた月光の魔力で夢へと招き導いてくれたのか、どちらにしても「月の光にただ一目」がロマンチックです。

 古代、恋しく思って強く願えば相手の夢に出たり、相手がこちらを思ってくれていれば自分の夢にも現れると考えられていたようです。でもそのために、逆に疑われたり拗ねられたりということもあったようです。今なら、「そんな夢にまで責任が持てるか!」となりそうですが。(笑)夢は、それぞれの中にある虚構の世界ではなく、皆に共通し存在すると考えられていたのかもしれません。そして、現実に逢えないのなら、せめて夢で逢いたいと詠われることになります。

 夕さらば屋戸開け設けて我れ待たむ夢に相見に来むといふ人を (4-744)
   夕刻になったら、扉を開けて待っていましょう。夢で逢いに来るよと言った人を。

 わざわざ訪ねて行ったのに、扉が閉まっていて中に入れてもらえないと言うのは哀しいですよね。でも、この歌では「夢で逢いましょう」と約束した話であって、現実に生身の恋人が通ってくるわけじゃありません。現し身で来るわけじゃないんだから、門扉が開いていようが閉じていようが、それこそ二重ロックが掛かっていようが関係ないと思うんですが。(笑)この「開けておく」と言っているのは、文字通りの屋戸(門や扉)ではなく、お互いの心のありようを言っているんでしょうね。心を閉ざさないでね・・・って。

 ただ、人間ちゅうものは本当に勝手なもので、夢でいいからと思っていたくせに、夢に見れば見たで、それはそれでまた苦しいというこんな歌もあります。

 夢の逢ひは苦しくありけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば (4-741)
   夢で逢うのは苦しいものだね。
   目覚めてみれば、探しても探しても君の手に触れることも出来ないんだから

 夢はやはり夢。実像を伴わない逢瀬は、余計に苦しくなるんでしょうね。かと言って、夢にも見れないとなると、

 夢にだに見えばこそあれかくばかり見えずしあるは恋ひて死ねとか(4-749)
   夢でだけでも貴方に逢えればいいのに、こうまでも逢えないというのは。
   恋い焦がれて死ねということ?

 と、こんな風に思いつめたりします。ほんと、人間って勝手(笑)

 最後に違うパターンの夢の恋歌をもう一首。

 確かなる使をなみと心をぞ使に遣りし夢に見えきや (12-2874)
   確かな使いを是非にと思って、私自身の心を貴方への使いにやりましたの。
   そうしたらば、夢に見えたでしょ?

 この歌は、何も言ってこないし逢いにも来ない、そんな恋人に向けての歌なのかもしれません。ももは、この「確かなる使」と言うところが好きです。誰もあてにならない。それなら自らの心を使いとする。結局、頼れるのは、信じられるのは、我が心一つだけという事なのかもしれませんね。



【4】 「夢 2」  (12.2.3.発行 Vol.126に掲載)

今回は、前回とは少し趣きの違った夢の歌をご紹介しようと思います。

 天皇の崩りましし後の八年九月九日の奉為の御斎会の夜に、夢の裏に習ひたまふ御歌

 これは、万葉集巻2-162番の題詞になります。ここにある天皇は天武天皇、そして詠み人は持統天皇だとされています。『日本書紀』には、この斎会の記述はありませんが、持統7(693)年9月10日に無遮大会の記載があることから、その前日に斎会が行われたと考えられているようです。
 
 「夢の裏に習ひ」とは、夢で習い覚えたと言うような意味になるそうです。古代、夢は神が人に意思を伝えるための手段だと考えられていた節があります。言わば、ご宣託みたいなものでしょうか。夢を神の啓示だと捉え、大事な局面の行動を左右する記述が、記紀などにも登場することは皆さんもご存知だと思います。
 夢の裏は、予知夢のような意味合いも持っていたのかもしれませんし、一方で魂鎮めの意味があったとも言われているようです。困った時の神頼み・・・のようなものなんでしょうか。(笑)

 で、肝心の歌の部分はというと、

 明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国 沖つ藻も 靡みたる波に 潮気のみ 香れる国に 味凝り あやにともしき 高照らす 日の御子 (2-162)

 ・・・明日香の清御原宮をお治めになった我が大君はどのようにお思いでしょう。伊勢の国、沖の藻も靡く波に潮の香りばかりかぐわしい国にいらっしゃるのでしょうか。無性にお慕わしい。(もも訳)

 神の子である“天皇・スメラミコト”が亡くなって直には言葉を交わせなくなったため、神との通信手段である夢が登場することになったのでしょうね。亡き天皇の為の斎会に詠みあげられた夢裏の歌。こういった夢を見ることが出来る人間は、特別な存在であるというアピールもあったのかもしれません。σ(^^)は、良くも悪くも「さすが持統!」って思っちゃいました。(^^ゞ 

 さて、天皇崩御時の夢の歌といえば、天智天皇の殯の際に詠まれたとされるこんな歌もあります。

 うつせみし 神に堪へねば 離れ居て 朝嘆く君 放り居て 我が恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて 衣ならば 脱く時もなく 我が恋ふる 君ぞ昨夜の夜 夢に見えつる(2-150)

 ・・・うつつの身では神に寄り添うことは叶わずに離れてしまう。朝夕に嘆きつついまだお慕いする我が大君が、もし玉であれば手に巻いて持ち続け、衣であれば一時も脱がずにと、恋い慕う我が大君が、昨夜の夢に見えました。

 こちらの歌のほうが分かりやすいというか、素直と言うか、持統天皇御製と言われる先の歌とはやはり趣きが違うように思えます。詠み人の「婦人」は、宮廷に仕える女官などをさすそうですから、詠み人の立場の違いがそうさせているのかもしれませんが。

 夢の裏のウラは占とも書かれ、占とはもともと物事の裏であり、本心と言う意味も持つんだそうで、そういえば、心もウラと読みます。

 恋歌の題材として夢が頻繁に使われるようになる以前は、夢は神からもたらされる神聖なものとの考えがあったのかもしれません。夢は、目に見える現(ウツツ)を離れ、神との交流をはかる場所と言う考えが、「夢占」や「うけひ」と呼ばれる行為に現れているともされています。

 前回「夢は、それぞれの中にある虚構の世界ではなく、皆に共通し存在すると考えられていたのかもしれません。」と書きましたが、古代には「寝目・いめ」と言われていた夢は、意図的に見るものでなく自然と見えるものであり、夢を見るにもそれなりの資格がいったのかもしれません。

 淡く切なく遣り切れない思いを託せる唯一のものが夢。そして、その夢の大元は神様との交信だったと考えれば・・・今晩見る夢にも少しはアリガタミが増す?(笑)



【5】 「夢 3」  (12.3.16.発行 Vol.129に掲載)

 恋しく思っていれば相手の夢に出られると考えられていたことや、溢れる気持ちはあるのに、夢でさえ逢えないと嘆く歌があることは、前々回(122号)に書きました。夢とはいえ、現実同様叶わないこともあるようです。ということで、こんな歌をご紹介します。

 我妹子に 恋ひてすべなみ 白栲の 袖返ししは 夢に見えきや (11-2812)
 我が背子が 袖返す夜の 夢ならし まことも君に 逢ひたるごとし(11-2813)

 恋しくてどうすることもできないとき、袖を返して寝たという彼。夢に私は現れたかな?との問いかけに、貴方が袖を折り返して寝た夜だったのね。本当に逢ったように思えたのは、そのせいだったんだと応える彼女。袖を返して眠ると、愛しい人に夢で逢えると考えられていたんでしょうね。「夢に出た?」「うん、出た♪」と、楽しげに遣り取りしているようです。ま、真相はわかりませんが(笑)。どうしようもなく募ってくる気持ちの拠り所として、このオマジナイは信じられていたのかもしれません。

 いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞ着る(古今和歌集 554)

 このオマジナイは平安時代にも活きていたようで、小野小町がこんな風に詠っています。この歌には肝心の「夢」の文字がありませんが、前にある552番・553番と続けて読むと、物語のように話が繋がり「夜の衣をかへしてぞ着る」が、夢を見るために行われた行為だとわかります。

 思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを (古今集 552)
 うたたねに恋しき人を見てしより夢てふ物はたのみそめてき    (古今集 553)
 いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞ着る     (古今集 554)

 ・・・恋しいあの人を思いながら眠りについたから、夢にあの人が見えた?夢だと分かっていたのなら、目覚めなどしなかったものを。以前、うたた寝の夢に恋しいあの人を見てから、掴みどころの無い夢なんていうものにまで、頼みにするようになってしまった。もう本当にどうしようもなく恋しくなってしまったときは、そう、衣を裏返しに着て寝よう。(もも訳)

 小町の歌には、「袖」という言葉が出てきません。これは、分かりきったこととして省かれたんでしょうか。それとも、小町が袖だけではなく衣を全部を裏返しに着たということなんでしょうか。小町なら・・・「えぇい!袖だけ返すなんてみみっちいことせずに、衣全部を裏返しに着ちゃえ!」という感じがぴったりな気もするのですが。(笑)

 このオマジナイが、古代に本当に行われていたのかどうかは、勿論分かりません。歌の中での決まり文句や遊びの部分であったかもしれません。でも、行われていたと思った方が、それこそ夢があって楽しいですよね。(^^)



【6】 「海に会う寺」  (12.5.11.発行 Vol.129に掲載)

 「海に会う寺」と書いて「かいえじ」と読む寺の跡地が大阪の南にあります。今回のももの飛鳥話は、5月5日に開催した第32回定例会でも話題になりましたこの寺跡の話をさせていただこうと思います。ご参加くださった皆さんのご記憶にはあるかと思います。

 さて、σ(^^)がここ海会寺に興味を持ったのは、もう6年ほど前のことになります。そう、まだ両槻会が影も形も無かった頃の話です。その頃のσ(^^)は、飛鳥の主な寺院跡は殆ど行き尽くして、他の地域の寺跡へも行ってみたいと思い始めていました。ただ、地図もろくに見れないうえに、方向音痴なものですから、一人で行くとなると、そりゃあ下調べが大変でして、幾ら予習をして行っても必ず迷う。(笑)ま、それもまた楽しい♪(とでも思わないとやってられん!)という感じで、河内の寺院跡を幾つか訪ねたりしていました。

 先日両槻会でも紀路を歩きましたが、その頃のσ(^^)も、古道がマイブームでして、わけもわからないまま古道ウォーキングにくっ付いて行って、中ツ道や横大路などの古道も幾つか歩いていました。

 そんな中で、ふとひとつ気になる道がありました。それは茅渟の道。そんな名前の道は聞いたことがないと思われるでしょうね。でも、とあるところに出てくるんですよ。(^^)

 「自茅渟道逃向於倭國境」

 『日本書紀』孝徳5年の条にある記事の中の一文です。
 孝徳5年3月24日、右大臣にまでなった蘇我倉山田石川麻呂は、謀反の疑いを掛けられて山田寺で自害して果てるのですが、これはその記事の少し前に書かれています。訳すと「茅渟の道から逃れて大和の国の境に行った」となるそうです。偶然目にした「茅渟道」。この三文字に釘付けになりました。色々と古道の名前は聞くけど、この茅渟の道っていうのは、何処?死を覚悟で蘇我倉山田石川麻呂が最後に駆け抜けたであろう茅渟の道とは?

 難波から大和へ入るために使える道は、幾通りも考えられます。

  とりあえずは南下するだろうから、問題は何処で曲がるか?
  追っ手を避けるためには大きな道は避け、いわゆる地道を通るのか?
  河内や葛城の方にも勢力地を持っていたとしたら、そこを通るのか?
  急ぎ逃げ帰るのですから、当然馬で駆け抜けたはず・・・など。

 地図を眺めては、溜息をつくだけのももの茅渟の道探しが始まりました。そのうち、大阪湾から神戸辺りまでが茅渟の海と呼ばれたと言うことが分かると、海岸線を通る道を茅渟の道と言ったんじゃないんだろうかと思い始めました。飛鳥もろくに分からないσ(^^)が「道、みち、ミチ・・」とひたすら大阪湾の海岸線を思う日々(笑)。そしてちょうどその頃に、たまたま海会寺が史跡となっていることを知ったんです。

 海会寺は、茅渟の海に面した難波よりも南にある寺。今は熊野古道が近くを通っている。ここに行けば何かわかるかもしれない!なんとまぁ~良いタイミング♪

 ということで、海会寺跡に出向くことになりました。・・・今思えば、道を探して寺跡にいくというのが、なんともσ(^^)らしい話ですが (^^ゞ。

 結局、その時の目的だった茅渟の道に関しては、学芸員さんが苦笑いとともに「道は、起点終点の名前で呼ばれたりもしますからねぇ~」というお返事をしてくださったのが懐かしい思い出です。思えば、これがσ(^^)が自ら進んで学芸員さんに話しかけた最初です。学芸員さんに話しかけるのって緊張しますよね。(^^ゞ でも、たいていの場合、こちらのレベルに合わせて親切に分かり易く説明してくださいます。(^^)聞かなきゃ損♪損♪

 あら・・海会寺跡の楽しさまで行き着きませんでしたね。(^^ゞ 長くなりそうなので、つづきは次回ということで。m(__)m



【7】 「海に会う寺2」  (12.7.6.発行 Vol.137に掲載)

 前回(133号)に引き続き、海会寺のお話をさせていただこうと思います。(最近、タイトルに偽り有りの もも の飛鳥話になってますが。(^^ゞ)

 海会寺跡は、大阪府泉南市信達大苗代というところにあります。古道に興味のある方はご存知だと思いますが、近くを熊野古道が通っています。

 私の海会寺跡行きの第1の目的は、前回にも書いたとおり茅渟道探しでした。そして、第2の目的は「乱石積み基壇」の復元を見ること。

 これまた、土くれ・遺物の話で恐縮ですが、皆さんは「乱石積み基壇」をご存知でしょうか。寺の建物の土台が「基壇」ですから、それが「乱石」いわゆる切り石ではない石で積み上げられた基壇のことなんですが、この「乱石積み基壇」の実物(と言っても復元なんですが (^^ゞ)をどうしても見たくて。

塔跡

 海会寺跡では、この塔跡以外にも出来る限り堂宇の位置を確認してください!という意気込みのようなものを感じることが出来ます。(笑)門や回廊など視界を遮る建物跡は、地面に白線でその位置がしっかり示されていますし、「中門跡」「南門跡」などの位置も、地面に表示板が埋め込まれています。地面の白線に気付いたら、是非なぞるように歩いてみてください。辿っているうちに、自分で門や築地を発見したような気になれます♪あと、西面回廊の柱列が復元されてますので、間を歩いてみるのも楽しいです。

 跡地をぐるっと一回りして、それぞれの堂宇の位置や規模を確認したら、是非乱石積みで復元された塔跡の上に立ってみてください。高さも2mで復元されていますので、この上に五層の屋根があり軒先には風鐸が、そして屋根上には黄金色の相輪が輝いていたと考えるとなんだかワクワクします。

大きさ3分の1に復元された相輪

そうそう♪ここには、珍しい史跡の立体模型もあります。それも有田焼!平面の遺構図や伽藍図では分かりづらい周辺の地形もよくわかりますし、瓦窯跡も蒲鉾型に表されていて、これまた可愛いんです。(笑)

立体模型・窯跡

 一通り跡地で遊んだ後は、お向かいにある古代史博物館に立ち寄るのもお忘れなく。(^^)
 古代史博物館には、海会寺で出土した遺物が沢山並んでいます。瓦は勿論、橘寺や川原寺と同じ文様の三尊セン仏や、風鐸に露盤の破片、三分の一の大きさに復元された金ぴかの相輪に、接続の為の凸凹が見事に残ったセンなど、展示ケースの中で地味に並んでいるものにも結構面白いものがあります。σ(^^)がここの展示で良いなぁ~と思うのものは、展示品に付けられた説明に、「軒先に吊るされたベル」とか、「ベルの打棒」などと判りやすい言葉が添えられていること。説明パネルの漢字が難しくて読めなかったり、読めたとしても遺物の用途が分からないとテンションもイマイチ上がりませんよね。でも、こういう風に、分かり易く表現してくれていると、「ベルかぁ~♪」なんて、ぐんと身近に感じることが出来ると思うんですよね。些細なこと?いえいえ、結構大事なことだとσ(^^)は思っています。

 先に説明や遺物を博物館で見てから、跡地を訪れても楽しいかもしれません。あ、お勧めは、跡地→博物館→跡地って言うコースなんですが、そこまでする人はいないでしょうね。(^^ゞ

 海会寺は、瓦笵が吉備池廃寺から四天王寺を経てもたらされ、7世紀半ば過ぎに創建されたと考えられるようです。近辺にも古代寺院跡は存在しますが、それらの寺院跡は海会寺のような官の寺との関係は認められないようです。

 古代における寺院は、仏教を執り行い広める場としては勿論、要塞としての意味合いも濃かったとσ(^^)は思っています。国府や街道沿いの駅などが整備される以前、天を突くような塔や瓦葺き建物は、建立者に対して畏怖の念を抱かせるには充分ですよね。

 どうしてこんな辺鄙なところに?―ではなく、7世紀半ばに京から離れた辺鄙なところだったからこそ、と考えるのが海会寺建立の理由なのかな?と思ってみたりします。



【8】 「氷のお話」  (12.7.20.発行 Vol.138に掲載)

 7月も半ばを過ぎ、関東より西では梅雨も明けました。これから本格的な夏に向けてまっしぐら!なんでしょうね。(^_^;) 節電が煩く言われていますが、無理をして体調を崩さないように気をつけないといけませんね。

 万葉集などでは、七夕の歌が秋に分類されているように、7月は秋になります。ちなみに本日7月20日も、旧暦で換算すると6月2日なんだそうです。確かに夏です。。(^_^;)

 夏が来~れば思い出すぅ~♪ではないですが、σ(^^)の夏の思い出といえば、田舎で食べたカキ氷♪夏休みに入れ替わり訪れる孫のおやつ用にと大きな広口瓶に、毎年目一杯も蜜が用意されていました。祖母特製の蜜は、当事流行始めた赤や緑の鮮やかな色はしていませんでしたが、黄金色でトロリと滑らかでほんのり蜂蜜の味がしました。従兄弟たちと夏の午後、「誰それが多く掛けた!」「私のが少ない!」と、蜜の瓶を囲んで大騒ぎでした。

 さて、カキ氷の昔話といえば、『枕草子』にある「削り氷にあまづらを入れて新しきかなわんに入れたる。」が一番古いお話になるんでしょうか。「あまづら」は、蔓性植物から採取された古代の甘味料で、すっきりとした味わいだと何処かで読んだような記憶があります。ただ、採取には凄く労力がいるようです。『枕草子』では、品があるとか上品なものという味の「あてなるもの」の中のひとつにこの「削り氷」があげられています。キラキラ輝くまだ新しい金属製の器に少しばかりの削った氷とアマヅラの蜜だからこそ「あてなるもの」になるのでしょうね。ガーガーと削った山盛りの氷の上に原色の蜜の掛かった今時のカキ氷では、品があるとは言い辛いですもんね。(^^ゞ

 奈良時代には長屋王邸で氷が用いられていたことも、これまた有名なお話です。木簡には、「都祁氷室二具深各一丈・・・」と都祁の氷室や、また6月の後半から頻繁に氷が運び込まれたことなども記されているようです。長屋王が、オンザロックを飲んでいたなんて言う話もあるそうですが、そこら辺りはどうなんでしょう?(笑)

 記録や史料では遡るにも限りがあるようですが、古代から概ね氷は何かしらの形で王家や貴族には利用されていたんだと思います。

 カキ氷ではないですが、氷を模した和菓子で「水無月」というのをご存知の方も多いと思います。三角に切られた外郎や葛餅の上に小豆がのせられているもので、その形が氷の欠片を表しているんだそうです。
 じゃ、上にのる小豆は何?氷室の藁屑?^^;いえいえ!勿論そんなはずはなくて、この小豆は魔除けの意味を持っているんだそうです。実際に日本古来の風習のあちらこちらに「小豆=魔除け」の痕跡は残っていますし、飛鳥でとんど焼きの翌朝に食べられる小豆粥などの習慣もそれにあたるのかもしれません。小豆ってお目出度い時に使うものだと思っていたんですが、それは、「魔除けの裏返し」ってことなんでしょうね。関西に住んでウン十年になりますが、σ(^^)は水無月を食べたことがありません。和菓子屋の店先で、シゲシゲと眺めたことはありますが、外郎が苦手なもんで、なかなか購入にまでは至らない・・・・。

 「水無月」は、京都発祥のお菓子だそうですから、時代的にはそんなに古いものではなさそうです。でも、夏越の祓えの日に食べられるものだそうですから、食べるだけで厄払いになるのなら、やはり頑張って食べるべきですかね。(^_^;) 

 先日行ないました第33回定例会では講師の甲斐先生が、夏越の祓えや節目に食べられる節供(せつぐ)のお話をしてくださいましたので、参加くださった皆さんのご記憶にはあるかと思います。夏越の祓えは、夏の終わりの6月30日に行なわれる行事で、半年間の穢れを祓い後の半年の無病息災を祈り茅の輪を潜って厄災を落とします。

 夏越の祓えを7月末に実施されているところもあるようですし、茅の輪を暫くは設置したままにしている神社などもあるようですから、今からでも間にいますね!水無月もまだ売ってるかなぁ~?(^^ゞ



【9】 「鰻」  (12.8.31.発行 Vol.142に掲載)

 8月も終わりを迎え、僅かですが朝晩は過ごし易くなったように思います。とは言え、まだまだ日中の気温は30度を超える日が多く、これを夏の名残りというにはやはりちょっと辛いです。「暑い時にこそ熱いもの!」と、夏バテ防止には出来るだけ温かい物を食べるようにとも言われますが、これもなかなか難しかったです。(^_^;)
 暑い最中はもちろんのこと、少しずつ過ごし易くなるこれからの時期に夏の疲れが出ることがあるそうですから、体調にはまだまだ注意しないといけないようです。

  石麻呂に我れ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻捕り食せ(16‐3853)
  痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな(16‐3854)

 大伴家持が友人をからかって詠んだとされる歌です。鰻と言えば、夏の土用の丑の日に食べるイメージがありますが、この風習は江戸時代頃からだそうです。でも歌には、「夏痩せによしといふものぞ鰻取り食せ(夏痩せに良いという鰻を捕って食べなさい)」とありますから、鰻が栄養のある食べ物だということは、古代から知られていたようです。

 二首目の歌で「鰻を捕ると川に流るな(鰻を捕ろうとして川に流されるな)」とありますが、奈良時代の官人が自ら鰻捕獲の為に川に入ったとは思えません。この歌の題材にされた友人・石麻呂は、幾ら食べても一向に太らずその姿はまるで飢饉の時のようだと歌の左注(注意書き)には書かれています。飢饉という表現には、誇張があるのかもしれませんが、とにかく細くて非力に見えたんでしょうね。幾ら飲み食いしても太らない・・ダイエット流行りの昨今、羨ましい話でもあります。(笑)

 また石麻呂のお父さんは、家持のお父さんの大伴旅人と親交のあった吉田連宜か?と、手持ちの本には書かれてありました。(旅人と吉田連宜の交流は万葉集からも伺えます。(8-815から867)

 吉田連宜は、元はお坊さん。医術に長けていたことから還俗して朝廷に仕えたんだそうですから、もし息子であれば石麻呂もそれなりの知識・教養は持っていた可能性があります。医者の息子に「夏痩せに効くから鰻を食べろ!」何て家持さんって無謀な人!と、思ってしまうのは私だけでしょうか。(^^ゞ
 
 体型をネタに遠慮なく言い、笑いへと消化できるものが家持と石麻呂の間にはあったということなのかもしれません。もしかしたら、家持と石麻呂は幼馴染だったのかも?なんて、思ってみたりもします。

 教養溢れる歌や手紙で親交を深めた親世代と、友をネタに「痩人を嗤笑ふ歌」を詠むヤンチャな子世代。このギャップは、面白いと思います。

 「痩せてるから鰻を食べろ」とか「うなぎを取ろうとして流されるなよ」なんて、人を馬鹿にしたようなことを言いながら、実は、「痩す痩すも生けらばあらむ」というところが一番言いたかったのもしれません。痩せていようが友が元気でいてくれればそれで良い、と。
 皆さんも、体調にはくれぐれも気をつけて、秋を迎えてくださいね♪



【10】 「朝の原」  (12.10.26.発行 Vol.146に掲載)

 今回は、第35回定例会の準備中に もも が引っ掛かった歌のお話をさせて頂こうと思います。

  明日からは若菜摘まむと片岡の朝の原に今日ぞ焼くめる

 かなり季節はずれの歌になりますが、若菜を摘むために野焼きする早春の風景を詠んだものでしょうね。焼かれているのは、「片岡の朝の原(あしたのはら)」。これは片岡を詠んだ歌だとして、よく紹介されている人麻呂(人丸)の歌になります。第35回定例会で訪れる予定の芦田池のほとりにある案内板にもこの歌が書かれてありました。定例会の配布資料には、関連の万葉歌を載せるのが定番になっていますので、先日の下見でこの案内板を見た時は「ラッキー♪」と思いました。実はこの歌、万葉集には見当たらず、一体何処にどういう形で載っているのか分からずを調べる気力もなくて放置していたんですよね。けど・・・案内板にも肝心の出典が書かれていませんでした。 ((((o_ _)o


芦田池案内板

 人麻呂と書かれてあるということは、柿本人麻呂ですよね?観光用の案内板に載るほどの歌なんですから、きっと有名な歌なんですよね?でもこの歌、万葉集にはないんです。(T_T)

 σ(^^)が調べた範囲では、「片岡の」が詠みこまれた歌は万葉集には一首、後は平安時代以降のものばかり。両槻会は「飛鳥」をテーマにしていますので、平安時代となれば資料用の調べ物は、ここで終わり。・・・のはずなんですが。(^^ゞ

 万葉集を見ていると、山辺赤人の作だとされるよく似た歌が載っていました。

  明日よりは春菜摘まむと標し野に昨日も今日も雪は降りつつ(8-1427)

 でも、これは出だしの雰囲気が似ているだけで、片岡も出てきません。古今集には、詠み人しらずの異本の歌として、

  明日よりは若菜摘まむと片岡のあしたの原は今日や焼くらむ

 こちらは万葉集の赤人の歌よりは、ずっと人麻呂の歌に近いですよね。そして、お目当ての人麻呂の歌は『拾遺和歌集』という平安時代の歌集に載っていることが分かりました。柿本人麻呂は、平安時代には「人丸・人麻呂」と書かれるようになるんだそうです。「拾遺集」と言うのは呼んで字のごとく、今まで漏れていた名歌を拾い集めて残そうと編まれた和歌集だそうですから、この「片岡」の歌は、万葉集にも載らなかった人麻呂の名歌ってことになるんでしょうか。

 「朝の原」は、大和国の歌枕で「片岡の朝の原」と詠まれることが多く、「あした」との対比で「今日」と続けて詠まれることも多いんだそうです。
  明日・今日と続く歌と言われてσ(^^)が思い出すのは「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」ですが、こんな風に飛鳥川が使われるようになるのも平安時代頃になるようです。

 「歌枕」などのように、こういう風に使われる地名などの場所は名所・旧跡、今で言う観光地のようなものなんでしょうね。訪れたことのない者にも通じるからこそ使われたのだと思われます。

 片岡には葦が生い茂っていたと芦田池の案内板にも書かれていました。「朝の原」は「葦田の原」でもあるわけで、葦の穂が靡く場所として名所とされたのかもしれません。

 現在の芦田池が、いつの時代からのものかは分からないようですが、谷間を堰き止めて造られている感じは、古代の池の立地と似ているんだそうです。護岸から周辺にまで広がって葦が生えている様子を想像しながら、芦田池を眺めて古代を思い描くのも楽しいかもしれません。



【11】 「神々の山」  (13.1.25.発行 Vol.153に掲載)

 第3回飛鳥資料館写真コンテストのお題が「神々の山―大和三山のある風景―」に決まりました。大和三山である香久山・畝傍山・耳成山が最低一つは写っていることが条件だそうです。今回の写真コンテストは、両槻会も協賛することになりましたので、是非応募してください♪ということで今回は、コンテストの宣伝も兼ねて万葉集の三山歌のお話をさせて頂こうと思います。

  香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき (1‐13)

  香具山と耳成山と闘ひし時立て見みに来し印南国原 (1‐14)

 香久山・畝傍山・耳成山がうち揃って出てくるこの歌の詠み人は、中大兄皇子(後の天智天皇)。だからでしょうか、中大兄皇子と大海人皇子が額田王を争った歌というのが一番馴染みがあると思います。額田王が大海人皇子との間に十市皇女をもうけた後、中大兄皇子に嫁した記録は残っていませんが、額田王の「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(1-20)」と大海人皇子の「紫草のにほへる妹の憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも(1-21)」の相聞や、額田王と鏡女王が秋風について詠み交わした歌「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる(4-488)」「君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く(4-488)」などから、額田王が大海人皇子と別れた後に中大兄皇子の思われ人になったと考えられたようです。

 こんな風に取れば、万葉歌人・額田王を挟んだ面白い古代の恋愛譚が広がりますが、13番歌にはもう一首反歌が付いています。

  わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ (1‐15)

 これは、「海の上に雲がたなびいて日が射している。今夜は良い月夜だろう」と言う感じの歌になるようです。この歌は、「反歌らしくない」という注釈が付いているんですが、13番から15番までの3首をセットで考え、三山歌は新羅討伐の為に筑紫へ出向く途中に詠まれた歌であるという見方もあるようです。

 昔は、旅の無事を祈るため、土地ごとの神様にご挨拶がてらその土地を詠み込んだ歌が詠まれたんだそうです。古代に山や川など自然には全て神が宿ると考えられていて、これらに敬意と畏怖の念を抱き、あがめる事で厄災を回避しようとする気持ちがあったのでしょうね。

 長歌で自分達の出立してきた大和の山々を詠うことで話題を起こし、一つ目の反歌で現在地(もしくは通過してきた地域)の神様を称え、二つ目の反歌で船出に相応しい月の出を喜び在地の神様に感謝したと捉えると、歌全体の流れも綺麗だとσ(^^)には思えます。

 大和三山を題材にして詠まれた13番歌は、本当は何を言わんとしていたのでしょう。そんなことを考えながら、早春の三山を写すのも面白いかもしれません。飛鳥資料館の第3回写真コンテストは、2月28日締め切りです。

 香久山を詠った歌に次のようなのがあります。

  いにしへのことは知らぬを我れ見ても久しくなりぬ天の香具山(7-1096)

 はるか昔のことは知らないけれど、山は山としてそこにある。もしかしたら、ファインダー越しにこっそり昔話を囁いてくれる山がいるかもしれません。どの山が一番饒舌か・・・貴方のカメラで試されるのも一興かと思います。(^^)





【12】 「臍の下、甚だ寒し」  (13.3.8.発行 Vol.156に掲載)

 この冬、インフルエンザが大流行したようで・・・って、σ(^^)も十数年ぶりに罹りましてエライ目にあいました。(-"-) 以前は、インフルエンザって、確か40度近い熱が出て、最低三日ぐらいは意識が朦朧としていた記憶があるんですが、数年前から出だした吸引するタイプの粉薬のお陰か、今回は高熱で何日も唸らなくてすんだのが不幸中の幸いでしょうか。3月末の本格的に春が来るまでは、用心した方がいいそうですよ。皆さんも、まだまだお気を付け下さいね。

 古代に、インフルエンザや流行性感冒なんていう言葉はもちろんなかったでしょうけど、実際「風邪」はあったんだろうなぁ~と、インフル中の布団の中でぼんやりと考えたりしていました。風邪引きの記録なんてものが、σ(^^)に見つけられるのか?と思いつつ、そういえば、「お腹が寒いから・・・」と言うような内容のものを前に何か見たぞ!と、記憶を頼りに探してみました。勿論、元気になってからね。(笑)

 万葉集だったか?・・・と、色んな言葉で検索掛けたり、本を斜め読みしてみましたが、万葉集で「寒し」とあるのは、殆どが恋歌、もしくは望郷のような歌で、やはり歌の世界では風邪引きなんていう題材はあまり好まれないみたいです。(^^ゞ じゃ、何で見たんだっけ?と悩むこと暫し・・見つけました!(思い出したんじゃないところが、ももの記憶力の曖昧さ加減でして)

 飛鳥京跡苑池遺跡から出土した木簡でした。随分前にニュースにもなっていましたので、覚えてらっしゃる方も多いと思います。

 (表)   □病斉下甚寒
 (裏)薬師等薬酒食教■酒  (■=豆偏に支)

 「・・・病みて臍の下、甚だ寒し。・・・薬師等、薬酒を食せと教る。クキの酒を・・・」と訓めるんだそうです。「お腹が寒い」だけがσ(^^)の記憶とあってるだけでした。(^^ゞ

 「病」の字の前が判読不能なのようなので、もしかしたら何か病名が書かれていたのかもしれません。表は病気の症状、裏にはそれに対しての処置の仕方(いわゆる処方箋ですか)が書かれているとされています。

 「おへその下が寒い」っていう表現はどうなんだろう?と、σ(^^)などは悩むわけですが、「お腹が冷える」と取ればよいんだそうです。お酒を飲んだらそれだけで十分お腹は温まるやん♪なんて思うのは、呑み助の弁でしょうか?(笑)

 この処方されている「クキ酒」の「クキ」とは、古代の調味料だった醤(ひしお)なんかの仲間で、大豆製品になるんだそうです。漢字は、豆偏に支。(よく似た字の「鼓」っていう字で代用されていることもあるんだそうです。)料理をされる方なら、「トウチ」という中華の調味料をご存じだと思います。平たくいえば、これの漢方版というか生薬が、「香■(こうし)」と呼ばれるもので、発汗作用などがあって、おおよそ風邪の諸症状に効くようなことが書かれてありました。(これは、あくまで ももの理解ですので、そこのところヨロシクです。m(__)m)

 ということはですね、この木簡が「医学書」みたいなものではなく、誰か特定の人の症状に合わせて書かれた古代の処方箋だとしたら、この彼(彼女か?)は、「風邪ひきさん」。うん・・やっぱりあったんですね、古代にも風邪。(^^) 喜ぶようなことじゃないんでしょうが、なんとなく古代にお仲間ができたような気がしてちょびっと嬉しい もも です。(笑)

 ついでに、ちょっと検索を掛けると、「梔子■湯(シシシトウ)」「葱■湯(ソウシトウ)」なんていうのが、現代の漢方薬としてあるようです。こちらは、熱や咳などに効くそうで、古代と違って「酒」ではなく「湯」とありましたので、呑み助さんはちょっとガッカリかもしれませんね。(笑)
                  《文中の■は、すべて「豆偏に支」》





【13】 「イハソソク?」  (13.3.22.発行 Vol.157に掲載)

 本当に暖かくなるのか?と、不安になるような今年の天候。三寒四温っていいますけど、本当に少しずつでもいいから、春に近づいて欲しいと思います。このメルマガがお手元に届くころには、少しは春めいているといいなぁ~。

  石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも (8-1418)

 岩の上に勢いよく流れる瀧の傍らにワラビが芽吹く季節、春になったんだなあ・・なんていう感じの意味になるようですね。ま、今更訳す必要もないほど有名な志貴皇子の歌ですが、「“いわばしる!”ときたら、“垂水!”と覚えなさい」と、教わった記憶のある方もいるんじゃないでしょうか。皆さんは、この歌が「いはそそく垂水の上のさわらびの・・・」と訓まれることもあるのをご存じでした?古典の授業の記憶がほぼ無いσ(^^)には、「はぁ?」と言う話なんですが。(^^ゞ

 私がこの「いはそそく・・・」の訓読を初めて見たのは、今年初めに出版された岩波文庫の万葉集(一)の解説ページでのことですので、ホント見たて知りたてのホヤホヤになります。(^^ゞ
 そこには、これまでにも「いはそそく」と訓まれたことがあると書かれてありまして、今回どうして「いははしる」ではなく「いはそそく」を訓読としたのかの理由が丁寧に書かれてありました。試しにちょっと調べてみると(疑り深い性格なもんで(^^ゞ)、確かに「いはそそく」と訓読されたものもありました。万葉集は万葉仮名と言われる文字で書かれています。私たちがよく目にする平仮名交じりで書かれた「万葉歌」は、この万葉仮名を現代の言葉になおしてあるものになるので、そのなおされ方で、幾通りも異訳が存在する可能性があるんですねぇ。フムフム。。

 でも、この「そそく(=そそぐ)」の場合、なんだかチョロチョロと静かな(貧相な?)感じで、「石走る」とは、イメージがかなり違ってきません? 解説では、そこら辺りもきちんと説明されていて、昔は「そそく」は、勢いよく落ちるというような意味があったと考えられるんだそうです。

 こんな風に、同じ語句でも意味は勿論、そこから広がるイメージすらも、今と違ってくるんだとしたら、万葉歌を今使ってる言葉で解ろうとすること事態が無理なんじゃないのかと思えてしまいます。言葉は生きものだから、時代と共に移っていくものだと言われます。千何百年も前の言葉の正解を求めるのは、難しいことなのかもしれませんね。でも、詠われた当時の歌の本来の意味を追い求めて、出来るだけその姿に近づこうとするために、凄い研究がされているんだと言うことだけは今回よく分かりました。そういえば、「いまだ定訓なし」という注釈付きの歌も幾つかありますよね。恐るべし万葉仮名!

 ちなみに、この本では有名な柿本人麻呂の「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」の訓読も変わっています。この改訓に至る話も解説に詳しく書いてあるんですが、以前、飛鳥話に伏見さんがこの歌について書いてくれていますので、是非そちらをお読みになってみてください。

 伏見の飛鳥やぶにらみ「東野炎立所見・・・1」

 この文庫版の万葉集、解説や注釈の部分も結構面白く読めましたので、σ(^^)は二冊目も買ってみようかと思っています。某文庫の回し者ではありませんが(笑)、σ(^^)と同じように手元に文庫本しかなくて、万葉集に興味のある方は、気になる歌が出てきた時に見比べると楽しいかも♪と、思う もも です。(^^)





【14】 「タソカレ」  (13.8.9.発行 Vol.167に掲載)

 先日、陽が落ちてから買い物に出てみました。ま、要するに買い忘れがあったと言うだけなんですが(笑)。 お仕事帰りの子供連れの若いママさんに交じって、ちょっと場違いな気もしましたけど、これがね、結構良いんです。昼間の暑さが記憶にあるせいか、気温はそんなに下がっていないはずなのに涼しく感じます。小さい子を連れているわけでもないσ(^^)は、まだ白いままの雲が浮かぶ青とも藍とも紺ともつかない微妙な空を見上げながらポテポテと・・・黄昏時にのんびり外を歩くなんて、本当に久しぶりの出来事でした。

 「たそがれ」という言葉は、薄暗さのせいで、人の顔がはっきりとは見分けられず「誰(た)そ彼?(あれは誰?)」と尋ねることが語源だと言われ、万葉集にも次のような歌があります。

  誰そ彼と我をな問ひそ長月の露に濡れつつ君待つ我を 10-2240
  (あれは誰?なんて私に聞かないで。九月の露に濡れながらあなたを待つ私を:もも訳)

 陽が落ちた中でじっと待っている姿・・・ぼぉ~っと浮かぶ人影を想像するとちょっと薄気味悪い気もしますが、今は、街灯や夜遅くまで営業している店舗の明かりがありますから、本来の「誰そ彼」は、もう日常の風景ではないのかもしれませんね。

  でも、飛鳥にはあります、まだこの「誰そ彼」が。
 陽が傾いて行く飛鳥に滞在し続けるのは、少し勇気が要ります。借りた自転車の返却時間は迫る、徒歩だとバスも無くなってしまう、そのうえ、街灯も少ない。沈む夕陽と先を争うように駅までへの道を急がれた経験のある方もいらっしゃると思います。段々と暗く寂しくなってゆく飛鳥。 
 σ(^^)も薄暗くなっていく中、まるで競歩のように必死に歩いたことがあります。歩きなれた駅までの道が何だかとっても長く感じて、このままずっと着かないんじゃないかと・・・ホント心細いです。

 沈む夕陽を撮影するために、出向かれる方も少なくないと思いますが、黄昏時の飛鳥を一度はゆっくり経験してみるべきだと思います。ただ問題は、やはり帰りの足。薄暗い(いや、ほぼ真っ暗な)道をトボトボでは、洒落になりません。行くのなら、9月に行われる飛鳥光の回廊の期間にされるのが良いと思います。主な史跡や寺跡は、揺らめく灯りに彩られますので、薄暗い道を寂しく歩く必要はありません。この日ばかりは、街灯の少ないことに感謝しないといけない日。(^^) 噂によると、今年は光の回廊の各会場を巡る周回バスが例年よりも便数が増えるんだそうです。点灯時刻より少し早めに訪れて、黄昏の飛鳥を満喫してから灯り巡りをするのもお薦めです。

 σ(^^)も去年、陽が落ちて暗くなっていく飛鳥を初めて体験しました。それも夕陽狙いの丘の上じゃなく、飛鳥資料館の前庭という平地で。(笑)でも、これが結構綺麗だったんですよ。

 高いビルや電線で切り刻まれることなく何処までも続く空。真っ青だった空と真っ白の雲が少しずつ色と影を変え、陽の落ちた地上とは反対に温度が上がって行くように見える空。気が付けば自分の足元から伸びた長い影も闇に紛れていたり。

 さて、飛鳥での黄昏時をより一層心地よく楽しく過ごす方法を伝授しましょう。両槻会では、第40回定例会の第2部・3部として、光の回廊飛鳥資料館会場の点灯ボランティア及びナイトミュージアムサポートを募集しています。わいわいとみんなで一緒に一汗を流して並べたロウソクに灯りを点す頃、飛鳥資料館の前庭から見る空は格別です♪「

  月夜よし川の音清しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ 4-571
  (月も良く川の音も清々しい。さあここでは(京へ)行くも行かないも関係なく楽しく遊ぼう:もも訳)

 シュチエーションも季節も違いますが、光の回廊の気分はまさにこんな感じです(これは、大伴旅人が大宰府から京へと戻る時、彼のために大宰府の官人たちが宴を開いた時の歌です)。

 暗くなるまで飛鳥の屋外で時を過ごすことなんて、滅多にないですよね。それぞれ帰る場所は違っても今この場面をこのメンツで楽しまなきゃ!(^^)

 「飛鳥光の回廊」を眺めるだけの行事から参加する行事へ認識を変えてみてください。是非、黄昏の飛鳥をご一緒しましょう。(^^)(第40回定例会の申込は終了しています。)





【15】 「こぼれ梅」  (14.1.24.発行 Vol.180に掲載)

 “こぼれ梅”なるものをご存じでしょうか?σ(^^)も、先日初めて目にしたんですが、「梅」と付いていますが梅とは全く関係のないもの。味醂の絞り粕のことをこう呼ぶんだそうです。白くてホロホロと崩れる様子が咲きこぼれる梅に似ているからなんだとか。おからを卯の花と呼ぶのと同じなんでしょうね。柔らかい甘味があるので、料理に少し加えると良いとお店の人に伺いました。火を加えるとほのかに麹の香りがします。懐かしい匂いです。

 さて、一月も下旬になると、梅の開花情報が流れ始めます。早咲きのものなら、もう見られるところもあるかもしれませんね。(^^)

 万葉集で梅は、萩に次ぐ歌数を誇ります。萩が約140首、梅が約120首、その次が約70首の橘になりますので、萩と梅は、特に万葉人に好まれた花といえるかもしれません。梅の歌でσ(^^)が思い出すのは、「東風吹かば匂ひをこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」なんですが、これは菅原道真の歌ですので万葉時代ではないですね。(^^ゞ

 万葉集の関連本には、梅は奈良時代に中国からもたらされ、当時の貴族に好まれたと書かれていることが多く、天平2年(730)に大宰府の大伴旅人邸で行われた「梅花の宴」の歌群は、その最たるものだともされています。息子である大伴家持も、天平勝宝元年(749)に「雪の上に照れる月夜に梅の花折りて贈らむ愛しき子もがも(18-4134)」の歌を詠んでいます。これは日本で初めて「雪・月・花」の三つが詠み込まれたものだそうで、万葉集にみえる梅の歌の大半は、大伴旅人や家持と関わるという説もあるようです。

 では、頻繁に歌に詠まれるようになる奈良時代まで、日本に梅はなかったんでしょうか。

 梅、うめ、ウメ・・・と、考えていて、「烏梅(ウバイ)」という漢方薬のことを思い出しました。これは、青梅を燻製・乾燥させて作るもので、遣隋使が伝えたとされています。木簡を探してみましたけど、こちらは不発で、「烏梅」が歴史上に登場した年代は分かりませんでした。

 じゃあ、遺物としてウメは出てないのでしょうか。これは、簡単に見つかりました。梅の核(種)が、弥生時代には、出土し始めているようですし、梅の自然木の破片が出土しているところもありました。これは、梅の木が弥生時代の日本に生えていたことをあらわすようです。今のように大々的な栽培はされてなかったかもしれませんが、弥生時代には既に梅の木が存在していたんです。

 梅は、花を観賞する「花梅」と、実を取るための「実梅」に分けられるそうです。とすると、奈良時代以前からあった梅は「実梅」で、生活の中で利用されることはあっても鑑賞の対象にはならず、奈良時代にやってきたとされるものが「花梅」で、新たに渡来した花の綺麗な別種の梅だったのかもしれません。

 万葉集には、余所から自邸の庭に移植した梅の木が花を咲かせたことを歌っている次のような歌があります。

 去年の春いこじて植ゑし我がやどの若木の梅は花咲きにけり(8-1423)

 詠み人は、阿倍広庭。文武朝の右大臣・阿部御主の息子になります。自邸に移植した梅の開花が待ち望まれていた様子がうかがえます。

 鴬の木伝ふ梅のうつろへば桜の花の時かたまけぬ(10-1854)

 これは、梅から桜へと季節の移ろいが詠まれた歌なんですが、奈良時代に脚光を浴びた梅がその地位を、平安時代には桜に取って代わられることを暗示しているようにも思えてきます。





【16】 「橘」  (14.5.2.発行 Vol.187に掲載)

 まぶしい新緑の5月から初夏の風が吹き始める6月頃にかけて、白い花を開く橘の花。春を告げる花として梅が歌に詠まれたように、古代は夏の始まりとされた5月に咲く橘は、夏を告げる花と考えられていた節があります。万葉集での橘は、花のほか実が詠まれたものなど全部で70首ほどあります。

 風に散る花橘を袖に受けて君がみ跡と偲ひつるかも 10-1966

 風に散る橘の花に思いを巡らせている場面でしょうか。「君がみ跡」を直訳すると「貴方の跡」となりますが、どうもしっくりきません。「跡」は、足跡や筆跡など残されたものに対して使われる事が多いように思います。今散ってくる橘の花を愛しい人が綺麗だと言ったのか、花びらを散らしている橘の木を植えたのが愛しい人だったのかも・・・。詠み人は、橘に重なる特別な思いを持っているようです。私は、女性が詠んだと勝手に思い込んでいるんですが、これは詠み人しらずになります。

 橘は、冬になっても落ちない常緑の葉や芳香を放つその実によって縁起のいいものとされたようです。

 橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(6-1009)

 この歌は、葛城王(橘諸兄)が橘姓を賜って臣籍降下した際に祝いの歌として聖武天皇が詠んだもので、植物の橘のように橘氏の繁栄を歌に込めたとされています。

 古代史好きの方には、橘と言えば非時香果(ときじくのこのみ・ときじくのかくのこのみ)と田道間守の話を思い浮かべる方も多いと思います。田道間守の逸話を詠み込んだ歌が万葉集にもあります。(18‐4111・41112)

 「花は綺麗で香りも良く、実は木にあっても落ちたものを連ねても綺麗で、霜に葉も枯れず・・・」と、橘が「時じくの香の木の実」と呼ばれるようになった理由が延々と詠まれています。長歌と返歌のセットで長くなりますが、ご興味のある方は是非ご自分で万葉集を捲ってみてください。
 
 「時じくの香の木の実」の「時じく」は、「時期でない」や「時期を選ばない」と言うような意味になります。天武天皇の歌に「み吉野の耳我の山に時じくぞ雪は降るといふ・・・(1-26)」と言う歌がありますよね。これは、「ずっと雪が降っている」と言うように訳されることが多いようです。ということで、非時香果も「ずっと(季節に関係なくいつも)良い香りのする木の実」と言う意味になるようです。

 古代の橘は、ニホンタチバナと呼ばれる日本固有の品種だともいわれますが、柑橘系全般を指すと考えても良いようです。ただ、「橘」と詠まれた歌の中には「安倍橘」「山橘」と詠まれたものがあり、安倍橘はダイダイやクネンボなど、山橘はヤブコウジだとされる場合もあります。

 ちなみに、馴染みのある「左近の桜・右近の橘」は、平安京からのようで、万葉の時代に、「右近の橘」はなかったようです。





【17】 「言問はぬ木」  (14.6.27.発行 Vol.191に掲載)

 しとしと雨が降り続く・・・のが、梅雨のはずなんですが、ここ数年は局地的なゲリラ豪雨の始まりを告げる季節の言葉に変わりつつあるような気がします。これから夏に向けて、何処にも大きな被害が出ず、適度なお湿りが万遍なくありますようにと願います。(‐人‐)

 梅雨時に、雨にもメゲズ見頃となるのが紫陽花。ご自宅の庭に植えられている方も多いんじゃないでしょうか。
 紫陽花は、日本やアジアが原産で、原種はガクアジサイとされているんだそうですね。日本が原産国とは知りませんでした。紫陽花は歌にはあまり詠まれなかったようです。万葉集ではたった二首しかありません。これは、珍重されるような花じゃないってことなんでしょうか。そのうえ、この二首で紫陽花の扱われ方が全く違うんです。

 まず一首目、大伴家持が坂上大嬢に詠んだ歌です。

 言とはぬ木すらあじさゐ諸弟らが練りのむらとにあざむかえけり 4-773
 
 短めに訳すと「物言わぬ木でも紫陽花のように移ろうものがあるぐらいだから、まんまと諸弟らに騙されたのかもしれない」と言うような感じでしょうか。紫陽花は一雨毎に、また土によってその色を変えるとされることから、心変わりや誠実でないことの喩えに使われたりします。今でも花言葉は「冷淡」「移り気」など、あまり良い意味はないようです。これは、紫陽花にとってはひどく迷惑な話でしょうし、こんな使われ方ばかりしていると、幾ら無口な紫陽花も何か文句を言ってもいいような気もします。いつまでも言問わぬ木のままではないぞ!と、ある日突然お喋りになったりして(笑)。

 さてもう一首は、橘諸兄の歌になります。

 あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ20-4448

 訳すと「あじさいのように、いつまでもお元気でいてください。紫陽花を見るたびに貴方のことを思い出しますから」という感じでしょうか。こちらは一首目の家持の歌とは違って、お祝いの喩えに紫陽花の花姿が使われています。
 「八重咲くごとく」とあると、八重咲きの紫陽花だと思いそうになりますが(そういう訳もあります)、八重咲きの紫陽花が既に奈良時代にあったと考えるのは、どうなんだ?と思ってしまいます。万葉集に出てくる「八重」は、「八重山」や「八重雲」など幾つも重なるという意味合いで使われていることが多いようですから、八重咲きというよりは、御目出度い数字の「八」を使うために「八重」が使われ、紫陽花が群がって沢山咲いていたと考える方が良いように思います。

 関西も梅雨入りしてはや20日が過ぎました。予報を見ると、梅雨明けまでにはまだ半月以上は掛かるようです。紫陽花は、奈良だと矢田寺、京都では三室戸寺などが有名ですが、関東で有名なのは鎌倉になるんでしょうか。今では、本当にいろんな花姿を見るようになりました。少々滅入りがちな梅雨時、気分転換に近場へ紫陽花を見に出かけられるのも良いかもしれませんね。高地では、まだまだ見頃のところもあるようですし。





【18】 「坂上郎女」  (14.7.11.発行 Vol.192に掲載)

 今回は、190号の咲読でも少しご紹介した坂上郎女に関わってくる人たちの話に、飛鳥話の枠を使わせて頂こうと思います。

 主となる坂上郎女は、正史には一切登場しません。彼女の詠んだ歌や左注などから、大伴氏の邸宅や所領の位置が推定できるということは、以前の咲読に書きましたが、万葉集からは、彼女の人生の一端を覗き見ることが出来ます。

 万葉集に残る坂上郎女の歌は、84首。これは、大伴家持、柿本人麻呂に続いて3番目の歌数になり、女性歌人としては第一位の入集になるそうです。有名な万葉女性歌人と言えば、やはり額田王になると思いますが、彼女の作とされる歌は15首ほどです。改めて数えてみると案外少ないんですね。

 さて、坂上郎女ですが、彼女は若くして穂積親王に嫁いだようです。はっきりとした時期はわかりませんが、父・大伴安麻呂が存命で大伴氏にも少し勢いがあった頃だと考えれば、まだ京が藤原にあったころではないでしょうか。

 穂積親王は天武天皇の皇子。万葉集に残る歌から(2‐114~116・203)、但馬皇女との悲恋で有名なあの皇子です。以前「穂積親王宮」木簡の発見によって邸宅の位置が高市皇子邸の北に推定できることが、ニュースにもなっていましたよね。検索すると「悲恋の宮家は・・・」なんていうタイトルの記事が今でも掛かります。穂積親王が但馬皇女への歌を詠んだのが和銅元年(708)。先にあげた木簡の推定年代は、和銅2年(709)頃とされていますから、これらの歌は、香久山の北にあった穂積親王邸とその南で香具山の西方にあった高市皇子邸でそれぞれ詠まれたものかもしれません。

 穂積親王は、慶雲2年(705)には知太政官事という、立場的には太政大臣に相当するような地位に就きます。この役職は、律令の規定にない令外官になるそうですが、刑部親王・穂積親王・舎人親王と、天武天皇の皇子で、その時の最年長者が続けて任命されたようです。

 5年後の平城遷都の際には、知太政官事として、穂積新王も当然新都に邸宅を構えたでしょうし、そこには坂上郎女も居住していたと考えられます。

 親王は、霊亀元年(715)に、親王の最高位である一品(いっぽん)を授けられますが、その年に亡くなってしまいます。坂上郎女は、前年に父も亡くしていますので、親王と死別後は、宮廷に命婦として出仕していたという説もあるようです。これは、彼女の母が石川内命婦と呼ばれていたこと、聖武天皇に直接歌を贈っていることなどから推測されているようです。が、真相はわかりません。(笑)

 そうそう、彼女は藤原麻呂(不比等の四男・式家の祖)と恋仲でもあったようです。
 万葉集には、麻呂とやり取りした歌が残っています(4‐522~528)。彼女がもし麻呂と添い遂げていたら、歴史もほんの少し変わっていたかもしれない・・・なんて考えるのも楽しいです。

 その後、彼女は同族の大伴宿奈麻呂に嫁ぎ万葉集にも登場する坂上大嬢や坂上二嬢をもうけます。宿奈麻呂亡きあとは、異母兄の旅人を支え大宰府にまで赴きます。この頃の歌を見ていると、大伴を背負って立つ気概のようなものを感じます。

  故郷の飛鳥はあれどあをによし奈良の明日香を見らくしよしも
 
 これは、坂上郎女が元興寺の里を詠んだとされる歌です。
 元興寺は、飛鳥寺が平城京に移築されたあとの名前で、奈良時代には左京の四条と五条を跨ぐ八町の広大な寺域を持っていました。新都に現れた壮大な伽藍は、やはり目を見張るものがあったのでしょう。歌の最後の「見らくしよしも」は、原文には「見楽思好裳」と好字(良い意味を持つ字)を選ぶようにして書かれてあるそうですから、古京を上回る新都の素晴らしい明日香を褒め称える晴れやかな歌と取るのが良いのでしょうね。

 でも、ずっと坂上郎女のことばかり考えていると、この歌には古京・飛鳥への思いが沢山こめられているように思えてきました。

 万葉集には「初め一品穂積皇子に嫁ぎ、寵を被ることたぐひなし。」と書かれています。少し感傷的かもしれませんが、15~20才の年齢差はあったと思われる高位の親王に嫁したうら若き妻は、藤原の宮近くで、親王や周囲の人たちに可愛がられつつ暮らした頃が、一番幸せだったんじゃないかのなぁと、思えてなりません。





【19】 「オママゴトの歌」  (14.10.3.発行 Vol.198に掲載)

 探し物をしていて、面白い歌を見つけました。万葉集に「オママゴト」の歌があったんですよ。(^^)

 載っているのは、巻頭に「由縁ある雑歌」とあり、物語調の歌や戯笑歌、宴席での歌に諸国の歌謡のような少し変わった歌が集められている巻16の最後の方、「能登の国の歌三首」のうちのひとつになります。

 鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て 石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ 辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて 母にあへつや 目豆児の刀自 父にあへつや 身女児の刀自(16-3880)

 ややこしそうな言葉が幾つかありますが、それさえ押さえれば、わりと簡単かもしれません。

 まず出だしの「鹿島嶺の 机の島」は、地名。鹿島嶺は、石川県七尾市辺りにある山々のことだとされています。机島と言う島も実在していて、石川県の能登島の南西あたりにある小さな小さな島のようです。「能登の国の歌」とあるように、歌の舞台は能登半島の七尾湾周辺になるようです。

 三句目の「しただみ」は、小さな巻貝のことを言うんだそうです。
 σ(^^)は、最初「石畳」のことだと勘違いしていました。平仮名ばかりだとつい読み間違いをしてしまいます。(^^ゞ ですが、これも案外的外れではなかったようです。浜辺でたくさん巻貝が見られる様子が石畳に喩えられ、いつしか名前が「しただみ」に転訛したという説もあるようです。

 続いての4句目からは、「拾う・持つ・破る・洗う・揉む」などの動詞が続きます。これは分かりやすいです。貝に対して行われる動作を表しているようですから、そのまま繋げて訳せば「鹿島嶺の机島の巻貝拾い集めて持って来て、石を持って突いて破ったら、川で洗ってすすいで、ごしごし塩で揉んでから高坏に盛り、机にたてて・・・」となります。ここまでで、集めてきた巻貝をどう処理するかが詠まれているようです。

 続きの「母にあへつや」「父にあへつや」の「あへつや」は、「もてなす」と言う意味になるようです。・・・ということは、貝殻から出して処理した貝の身を「お母さんにはご馳走してあげた?お父さんにはご馳走してあげた?」と、両親に食べてもらったか?という感じになるんでしょうね。

 この「しただみ」、生食できたのか?と疑問視する向きもあるようですが、オママゴトならOKですよね。(^^) 草でも石でも手近なものが全て食材になってしまうのがオママゴト。「今日はステーキよ♪」なんて出されたものが、枯葉であろうが粘土であろうが、「もぐもぐもぐ・・・」と頂いて「ごちそうさま。美味しかった。」と手を合わせるのがオママゴトでの礼儀です。(笑)

 さて、最後の方に2回出てくる「刀自」は、一家を仕切る成人女性を指すことが多いんですが、この歌の場合は「可愛らしい小さいお母さん」という感じで使われたと考えられるようです。

 σ(^^)がちょっと気になったのは、ご馳走される順。「母にあへつや」とお母さんが先にあげられていますよね。お父さんよりお母さんの方が上位だったんでしょうか。結婚の形態が今と違うからとする説もあるようですが、味見はやっぱりお母さんでしょ。オママゴトでの花形は、やっぱりお母さんですからね。「お母さんに味見して貰わないとね♪」という気持ちの表れだと思いたい もも です。

 この歌は、食事を整える手順を子どもに教えるための歌だとする説もあるようです。歌の中に、煮炊きのために使う火が出てこないのも、オママゴトをするような小さい子が対象の童歌だからなのかもしれませんね





【20】 「黄葉」  (14.11.14.発行 Vol.201に掲載)

 9月ごろからの冷え込みで、今年の紅葉は少し早まるような予報が出ていました。列島の北の方や標高の高い所では、10月末ぐらいから少しずつ染まりはじめ、近畿圏でもそろそろ見頃だとされるところもありますね。今年は秋が長い(暖冬?)とも言われてますけど、紅葉はその分長持ちするのか早く終わるのか、どうなんでしょう?

 さて、万葉集では「もみち」「もみつ」など木の葉の色が移る様子が詠われた歌は、100首を超えるようです。

 万葉の時代、「もみじ」は、「黄葉」と書かれたと大抵の本には書かれています。ためしに「紅葉」と書かれた歌は一首もないのか?と調べてみると、原文に「紅葉」とあるのが一首(2201)、「赤葉」と書かれているのが一首(3223)見つかりました。でも、どちらも訳本によっては、「黄葉」と言う漢字に置き換えられていました。大差で「黄葉」に負けた「紅葉」と「赤葉」ですが、なかったわけでもないんですね。

 「黄葉」と書かれた理由を探すと「万葉人は黄色に染まる葉を好んだ」という説に行き当たったりします。時代によって感覚が違うでしょうか。ここで「そうなんだ」で終わらないのが、アマノジャクなσ(^_^)。
 古代は、あかく色付く木々が少なかったのか?と、思って調べようと思いましたが、植物体系みたいなそんな壮大なものが一朝一夕でわかるはずもありません。(^_^;)

 そんな時に「もみち」の歌を眺めていて、目に留まった歌がこちら。
 
 経(たて)もなく緯(ぬき)も定めず娘子らが織る黄葉(もみぢば)に霜な降りそね
                          (8-1512)

 大津皇子の歌だそうです。
 色付く秋の山肌の木々の葉を仙女が織った錦に喩えたんだそうで、「経糸も横糸も決めずに、自由奔放に乙女らが織ったもみじに霜なんて降りないでくれ」という感じになるんでしょうか。

 万葉集には、同じように色付く花や木々を錦に喩えた歌が数首ありました。自然の織り成す見事な色を錦に喩えたんだとしたら・・。それは一色であるはずがないですよね。だいたい、錦とは色とりどりの糸で織られた綺麗な織物を言うはずです。とすれば、大津皇子の歌にある「黄葉(もみぢば)」は、黄色い葉だけを言っているんじゃなってことになります。じゃあ、どうして「黄」という字が使われたんだろう?という疑問がムクムクと湧き上がってきました。(^^ゞ

 「黄」の持つイメージってなんでしょう?
 黄色は人目を引き目立つので、今は信号機にも使われたりしてますけど、古代の中国では皇帝の色だとされたようです。ただ、古代の日本では、黄色はあまり珍重された形跡がなくて、養老律令で黄色の一種である「黄丹」が皇太子の色として禁色になったことぐらいしかσ(^^)には見つけられませんでした。

 が、一言に「黄」と言っても、浅い深いと実に様々でな色があることがわかりました。(ふぅ、実りが薄かったわりに疲れました。(^_^;))

 ここで、きちんと万葉集関係に戻って調べてみると、「黄葉」は、中国の初唐文化の影響だとする説があって、平安に入るとこれまたお手本にするものが盛唐のものに変わったために「紅葉」の文字が多く使われるようになったとか。(最初から、こっちで調べていけばよかった・・・)

 ということは、現代の私たちが秋に木々の葉が色付くのを大雑把に「紅葉」というのは、この流れなんですね。古代には「黄葉」という漢字が好まれたというだけで、「黄」の色にムキになる必要もないのかもしれません。(^^ゞ

 そうそう、「もみじ」は、元々秋に葉が色付くことを言う「もみつ」という動詞が変化したものなんだそうです。ということは、「もみじ」と平仮名で書いた場合は、赤でも黄でもOKってこと。確かに、パソコンの変換候補には、「黄葉」もありました。これからは、「黄葉」も「もみじ」と読んであげようと思います。(笑)



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