両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


両槻会第十回定例会


第二回飛鳥検定


− それぞれの飛鳥 −




2008年 9月 13日

 このページは、第二回飛鳥検定の解説の一環として行った事務局員の発表内容をまとめたものです。

この色の文字は、リンクしています。

 目次
河内太古
橘寺の伽藍配置と二面石について
飛鳥の謎石の「立石」について
もも
心礎と埋納物のお話
戯笑歌の達人・長忌寸意吉麻呂
風人
元興寺の鬼と弥勒石
富本銭とアンチモンと飛鳥池遺跡
漏剋の不思議
壁画でないキトラのお話
元嘉暦と草壁皇子
P-saphire
野草とその利用法について
TOM
斎王と斎宮と斎宮制度
笑いネコ
木簡の話
帰化植物の話
若葉
伎楽について


 河内太古

 橘寺の伽藍配置と二面石について ・ 飛鳥の謎石の「立石」について


 「橘寺の伽藍配置と二面石について

 飛鳥を訪問された人は、何度か橘寺に立ち寄られ、ご本尊にもお参りされ、飛鳥の謎石とされる境内の二面石はよくご存じだと思います。橘寺のご本尊は聖徳太子像ですが、太子のどんなご尊像であったか、正確に記憶しておられるでしょうか? 太古もこれまでに何度か本堂に上がっているのですが、薄暗い本堂の奥の方に安置されていますので、あらためて問われると、どんなお姿であったか極めて曖昧であることに気付きました。

 ご本尊の太子像は「聖徳太子勝鬘経講讃像」で、国の重要文化財に指定された室町時代の坐像です。太子が推古天皇に勝鬘経の講義をされた35歳のお姿を現わしていると伝えられています。
 聖徳太子が生まれた年は、日本書紀によると敏達天皇の3年(西暦574年)1月となっていますが、聖徳太子信仰のバイブルとなった平安時代後期に著された「聖徳太子伝暦」では敏達元年1月とされています。このため、推古天皇に勝鬘経の講義した時の太子の年齢は、33歳とも35歳ともなるのですが、橘寺は「伝暦」に基づく年齢で尊像の表記がなされています。
この「聖徳太子勝鬘経講讃像」の太子は、左手に「塵尾(しゅび)」と称される珍しい法具を執っています。手に香炉を持って父・用明天皇の病気平癒を願う16歳時の太子孝養像はよく知られていますが、この左手に塵尾(しゅび)を執るのが太子講讃像の特徴だそうです。塵尾(しゅび)は正倉院御物にもあるそうですが、まだ見たことはありません。
 今度、橘寺にお参りされた時は、ぜひじっくりとこのご本尊をご覧頂きたいと思います。

 この橘寺には二面石と呼ばれる飛鳥の謎石のひとつがあります。二面の彫りを持ち、向かって右側が善面、左側が悪面とされ、人の心の持ち方の二相を表しているとされています。二面石がいつごろから橘寺に置かれたかは不明ですが、当初から境内にあったものではなく、他所から移設されたものです。猿石や人頭石と同じところから掘り出されたとする説もありますが、現在吉備姫王墓にある猿石4体のような明確な記録はないようです。人の善悪の二相を表すとする二面石は、橘寺境内に置かれているのが最も似つかわしいような気がします。

 この二面石が置かれている場所には、現在の本堂と合わせ橘寺の講堂が位置していたことが、昭和28年以降の発掘調査によって判明しています。この講堂跡から東に向かって金堂、塔、中門が一列に並び、周囲を回廊が巡るいわゆる四天王寺式の伽藍が配置されていたと考えられていました。
ところが、その後の発掘調査で講堂跡の東側に西面が揃う凝灰岩の地覆石の石列が検出され、この石列が回廊跡の一部だとすると、回廊が金堂の後ろで閉じていた可能性が高くなっています。古代寺院の伽藍配置図をご覧頂いただくと、講堂、金堂、塔、中門が一列に並ぶ伽藍配置のうち、講堂が回廊の外に配置するのが山田寺式伽藍配置です。
 検出された石列が短いため確たる証拠にはならないようですが、昭和54年に橿原考古学研究所が講堂に取り付いていたと思われる回廊の北側位置を発掘したところ、回廊跡の痕跡が見いだせなかったこと、さらには、講堂が奈良時代に建設されているとする寺伝からすると、その後に伽藍配置が確認された山田寺式伽藍配置であった可能性が高くなっています。ただ、検出された石列があまりにも講堂跡に近接しているために、回廊が金堂と講堂の間を巡っていたとするには、更なる考古学的検証が必要なようです。



 「飛鳥の謎石の「立石」について

 甘樫丘の北麓の豊浦の地に「甘樫坐神社」という古社が鎮座しています。推古天皇の豊浦宮跡で知られる向原寺の本堂の西側に、里道を挟んで接しています。

 この神社の境内では、古代の裁判の一種であったとされる「盟神探湯(くがたち)」神事が、毎年4月の第1日曜日に、豊浦・雷の氏子さん達によって模擬的に再現されています。
神事は「豊浦の立石」と呼ばれる大きな自然石の前に釜を据えて、古代裁判を模した再現劇が実演され、うそ偽りのない爽やかな暮らしを願って、飛鳥坐神社宮司によるご祈祷が執り行われています。もちろん、実際に煮えたぎる釜湯の中に手を入れることはできませんから、笹の葉を入れてその色の変化で代替しています。心に疚しさがあると笹の葉の色が変わるそうですから、皆さんも一度お試しになられてはいかがでしょうか。

 境内に設置された「盟神探湯」の解説板には、この立石は、豊浦のほかに明日香村内のいくつかに残されていて、岡、上居、立部、小原の箇所名が列記されています。このうち「小原の立石」だけは所在が分からなくなっていますが、かっては存在した「小原の立石」が今はないとまでは言い切れないようです。これが「小原の立石」だ分かる日が待たれます。

 「川原の立石」は、発掘された後は埋め戻され、今は飛鳥川にかかる高市橋手前の飛鳥周遊路の地下に埋まっています。発掘される前は地上に30センチ(全高1.55m.)ほど頭が出ていたそうです。発掘時の写真を見ますと、砂礫層に立てられているため、立石の安定を保つため人頭大の根石4個が据えられていました。この立石が据えられていた場所は、大和条理高市郡東30条4里5坪にあたり、川原寺の寺域の境になるそうです。

 立石が何のために立てられたのかは定説がありません。飛鳥の京域を示したものとか、寺域を示したものとか、条里制以前の地割りの位置を示したものではないかといわれていますが、川原の場合は川原寺の寺域を示したものとも考えられます。

 「岡寺の立石」は、仁王門前の左の細い山道を上ると、岡寺の山中に巨大な石が立てられています。この石を最初に見たときは、思わず自然に「立っている」 と思ったものですが、人為的に「立てられている」からこそ「立石」(たていし)なんでしょうね。なお、この立石のある場所への山路が通行止めになっていますので、今は近づくことはできません。

 「上居の立石」は、石舞台横の道路を細川方面に向かう途中、上居バス停から少し前方の左側の里道に沿ったところに見ることができます。次回の定例会ウォーキングではこの立石も訪ねることにしています。

 「立部の立石」は、立部にある定林寺跡で見ることができますが、雑草が生い茂ると隠れてしまいそうな小さな石です。石の形は川原の立石と良く似ているような気がしますが、これが立石かと思うほど、何の変哲もない石です。

 立石はこのほかにも、飛鳥の「弥勒石」や祝戸の「マラ石」も挙げられる場合がありますが、これらの石は自然石を立てたものではなく、明らかに人為的に細工された石造物です。飛鳥は、立石や猿石をはじめ、さまざまな謎石に満ちた古代ミステリーゾーンです。往古の人が何のために石を置き、石に何を刻もうとし たのか、謎石を訪ねながら石に託された古代人の思いに想像を巡らすのも楽しい歴史ハンティングではないでしょうか。




 P-saphire

 「野草とその利用法について

最近、俄かにハーブブームが到来し、ミントだ、ローズマリーだ、バジルだと、海外から渡来した植物を育てておられる方を良く見聞きします。日本にはハーブがない!きっとそう思っている方も多いのでしょうね。

 ハーブとは果たして海外から渡来した草だけなのでしょうか?

 答えは<いいえ>です。

 たとえば、食べられる草、紙を作る草、ツル編みが出来る草、お風呂に入れる草など、何かしら利用出来る草をひっくるめて【ハーブ】と言います。日本古来から利用されて来た野草や薬草も勿論ハーブなのです。農耕民族である日本人は、古代から実に上手くそれらを日常に取り入れて来ました。薬や化学製品が発展し普及した現代社会では、<草>イコール<雑草>と考え、徹底的に抜き、ゴミとして捨てられています。

 単なるゴミとして捨ててしまって良いのだろうか・・・と言う思いと、今まで知らなかった色々な草と出会い、それらの効能の素晴らしさと何より美味しい発見に接し、利用法をさぐって行くようになりました。

 ヨモギはみなさんご存知のように、草餅に入れられていますね。とてもよい香りがします。昔、悪い事をしたら「お灸をすえるぞ!」と言われましたが、そのお灸の素になるモグサは、この葉を干して手もみした時に出てくる葉裏にある白い毛で作られています。ヨモギに含まれるクロロフィルは強い殺菌作用があるため肌、粘膜、血液の浄化をします。体を温める成分も含まれていて、老廃物を効果的に排出します。香りはリラックス効果があり、お風呂に入れてリフレッシュするのも良いですね。食べる場合は、早春の若い葉を利用して下さい。すると、匂いがほどよく、苦味もほとんどありません。お風呂に入れる場合は、真冬以外、いつでも葉を利用出来ますが、5月までの柔らかい葉を乾燥させておけば、お風呂だけでなく、お茶としても利用出来ますので便利です。

 ニンニクは野の草に入れても良いのか?とも思いましたが、古代は今よりも草のようにどこにでも生えていたようです。今はほとんど自生しているのを見ませんので、見かけたからと採取するとあえて植えられている場合も考えられますので、くれぐれもご注意下さい。その効能は言うまでも無いと思います。ただ、特筆するべきは、私が腰痛の時、あらゆる外科や内科、整体よりも効いたのは<ニンニク風呂>でした。これは劇的な効き目だったと言う事を付け加えさせて頂きます。その利用法ですが、ニンニク1片をフォークなどで数箇所傷を付け、ガーゼに包んで浴槽に入れ、お風呂を焚いてじっくり温まると言う、至って安価で簡単な方法ですが、この方法でお風呂にじっくり浸かると、寝ても座っても痛かった腰の痛みが、随分軽減してゆっくり眠る事が出来るようになりました。完治するまでは数回利用し、冬の寒い夜や、夏の冷房で冷えた体を温める時は、今でもニンニク風呂を利用しています。臭いがどうも・・・と仰る方も多いですが、臭いが気になるくらいなら、まだ痛みはマシだってことです。ラーメンの汁に浸かっていると思えば、まだ耐えられる範囲じゃないですか?湯上り後は臭いも消えますのでご安心下さい。不思議な事に、乾燥したヨモギも一緒に入れてやると、ニンニクの臭いがあまり気にならなくなるんですよ。

 ノカンゾウですが、これは飛鳥でも少なくなってきています。初夏、土手や河原にオレンジ色のユリに似た花が咲いているのをご存知ですか?一重ならノカンゾウ、八重ならヤブカンゾウで、属称:カンゾウと言う同じユリ科の植物です。早春、特徴のある新芽が土から出てきます。新芽は茹でて、花は天ぷらで食べるととても美味しい一品になります。<忘れ草垣もしみみに植えたれど 醜(しこ)の醜草(しこくさ)なお恋にけり :万葉集巻十二>の歌の忘れ草は、ヤブカンゾウの事だそうです。万葉時代から一般的な草だったことが分かりますね。綺麗な薄緑色の新芽は、サッと茹でてゴマ和えやマヨネーズと和えてサラダに利用でき、花芽は<金針菜:きんしんさい>と呼ばれ、中国料理の高級食材にされています。私は天ぷらにして食べますが、カボチャのような甘味がありとても美味しく頂けます。その他、中華スープの具、炒め物などに重宝されます。

 レンゲは、標準和名を<ゲンゲ>と言います。首飾りや冠などを作って遊んだ方も多いのではないでしょうか。これもちゃんと食べる事が出来ます。地上部の茎、葉、花、全てサッと茹でてお浸し、生で炒め物に、花は吸い物の浮き実にすると綺麗です。私が小さい頃、母はレンゲの花を摘んで、花輪を作ってくれました。今では懐かしい思い出です。一時期、田は農薬散布と化学肥料を利用していたので、レンゲを休田で育てる人が激少しましたが、最近ようやく農薬や化学肥料を止めて、本来の自然農法を目指す人が増え、休田でレンゲやクローバーを育て初めているところが少しずつですが増えています。これは本当に嬉しい事です。草や虫が住めない、食べないような物を人間が食べている事に、もっと気が付くべきですね。

 雑草・・・雑な草なんてありません。みんなそれぞれに意味があって、この世に存在しているはずです。観賞になりえる花を持つ草を山野草、そうでない草を野草や雑草と呼ばれますが、それは人間が勝手につけた区別で、本来、山野草も野の草もすべて同じ<草>なのです。

 日本人は、古代からずっと食べ続けられてきた野草を、すっかり忘れ去ってしまいました。それらは決して特別な物ではなく、もっと身近に、薬よりも良い効能を持つ草がある事を知って頂きたいし、私もそうあるようこれからも勉強して行きたいと思います。草・・・どうぞ捨てる前にどんどん利用して頂けたら幸い です。



 笑いネコ

 木簡の話 ・ 帰化植物の話


 「木簡の話

 6月の「飛鳥木簡の世界」という市先生の講演の中に、木簡に出てくる飛鳥時代の著名人というテーマでのお話がありました。
 飛鳥池遺跡の北地区は、飛鳥寺・東南禅院と密接な関係があると考えられ、東南禅院を建てた「道昭」の弟子「智調」という僧侶名のある木簡などが出土しています。「天皇」木簡もそのような著名人(?)木簡の中の一つとして取り上げられました。
 この「天皇」という語は道教関係の典籍に出典がある可能性も考えられるそうで、本当に今の意味の「天皇」であるという確証はない、というお話でした。
 ただ、現在の学説では解説集に書いたような「天武天皇」を表す、日本最古の天皇木簡ということになっているようです。

 飛鳥池遺跡南地区は工房遺跡で、ここからも人名が書かれた木簡が出土しています。工房への注文主として名前が出てくるわけですが、こういう木簡に名前が出てくると、日本書紀などに名前が出てくるのと違って、「実在したんだ!!」という感慨が湧きますね。
 日本書紀の場合は、為政者の意図が含まれた記述ですから、場合によってはねつ造された人物っていうのもあり得ると思いますが、木簡の場合は実用品ですから、実在しない人物の名前が書かれるということはあり得ないでしょう。

 一寸脱線しますが...
 この飛鳥池遺跡出土木簡の一覧を眺めていて、面白いものを見つけました。北地区出土のもので、
 「恐々敬申院堂童子大人身病得侍故万病膏神明膏右一受給申願恵知事‖」
 こういうのを読むのは得意ではないのですが、飛鳥寺の童子が病気になったので「万病膏神明膏」というのを下さい、って書いてあると思うんですけど...。「万病膏」と「神明膏」というのはセットの生薬のようで、延喜式にも載っているようです。
 初見は、この飛鳥池遺跡の木簡だということですが。
 「神明膏」は唐の時代の薬の本に、「神明白膏」は「百病」に効き「神明青膏」は鼻の乾きに効く、と書いてあるそうです...「鼻の乾き」って、犬じゃあるまいし!
 「万病膏」は衛府や兵庫寮のような武官系の役所や国郡衙、あるいは遣唐使などの常備薬だったそうですが、怪我にも効いたんでしょうか?
 紫香楽宮跡とされる宮町遺跡からは、「万病膏」と書かれた墨書土器が発掘されています。

 「桑根白皮」という生薬名の書かれた木簡も、この北地区から出土しています。
他にも「甘草一両...」と書かれた木簡も出土しているので、寺院で生薬を保持していたのかもしれないですね。
 道昭が唐から帰国する途中、玄奘から授けられた鍋で粥をつくり、登州の人々の病を治したという記事が「続日本紀・文武4年3月条」に載っているそうですから、僧と医療行為って関係があったのかもしれませんね。



 「帰化植物のお話

 先日、伊勢志摩地方へ旅行しました。この時、道路ののり面やそれに続く林の中などに、白いユリを沢山見かけました。車を降りた時に近くにあるものをよく見たら、すべて「タカサゴユリ」だったのです。
 「タカサゴユリ」は原産地が台湾で1923年あるいは37年に観賞用に入ってきました。自家受粉し、短期間で成長して開花出来るのと、種は薄くてヒラヒラなので風で遠くまで飛ぶので、一度野生化するとあっという間に広がってしまうのです。
 それまでは琉球に自生する「テッポウユリ」が観賞用に植えられていたのですが、この二つは近縁種なので「シンテッポウユリ」と呼ばれる雑種が出来ていて、これも繁殖力が強く野生化しているようです。「テッポウユリ」「シンテッポウユリ」は全体に白色ですが、「タカサゴユリ」は外面に赤紫のスジが入っているので、簡単に区別出来ます。
 このように、野生化した外来の観賞用植物が氾濫しつつあるというのは、憂慮すべきことではないかと思います。

 植物問題は難しい...とよく言われるのですが、人によって得意分野と苦手分野があるので、これは致し方のないことだと思います。笑いネコは天皇の名前とか、万葉集は苦手です。
 そして、飛鳥には長い歴史の遺跡や文化のあれこれと共に、長い歴史の自然や植物のあれこれも有るのです。今まで知らなかった植物の姿を知ることも、面白いと思って頂けたらなぁ...と思っています。




タカサゴユリ



テッポウユリ



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資料作成 両槻会事務局

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