両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


第二回飛鳥検定


− それぞれの飛鳥 2−




2008年 9月 13日

 このページは、第二回飛鳥検定の解説の一環として行った事務局員の発表内容をまとめたものです。

この色の文字は、リンクしています。
 目次
河内太古
橘寺の伽藍配置と二面石について
飛鳥の謎石の「立石」について
もも
心礎と埋納物のお話
戯笑歌の達人・長忌寸意吉麻呂
風人
元興寺の鬼と弥勒石
富本銭とアンチモンと飛鳥池遺跡
漏剋の不思議
壁画でないキトラのお話
元嘉暦と草壁皇子
P-saphire
野草とその利用法について
TOM
斎王と斎宮と斎宮制度
笑いネコ
木簡の話
帰化植物の話
若葉
伎楽について


 もも

  心礎と埋納物のお話 ・  戯笑歌の達人・長忌寸意吉麻呂

 「心礎と埋納物のお話

 塔心礎付近から出てくる遺物の呼び名は、「舎利荘厳具」、「心礎埋納物」、「塔鎮壇具」などと様々な言われ方をします。出土位置が舎利容器の中・心礎の内・心礎周辺など厳密に言うと違いはあるのですが、全て塔建立に絡む出土品だとおおまかに捉えて頂いても差し支えないとは思います。

 心礎埋納物の中でも舎利荘厳具として一般的なものは、飛鳥寺をはじめ法隆寺などでも確認されている玉などの貴石類になると思いますが、荘厳具として一番有名なのは、やはり法隆寺の海獣葡萄鏡になるんじゃないでしょうか。心礎絡みでの鏡の出土は、法隆寺以外では崇福寺の鉄鏡が確認されているだけで、古代日本初の本格寺院飛鳥寺からの出土はありません。この他、装飾品などの埋能物が出土したのは、四天王寺や定林寺から金環(腕輪だろうということです)が心礎上面から出土しています。半島では、新羅の皇龍寺(6世紀中頃〜7世紀中頃建立)などで、耳飾りや金銅製の帯金具など古墳と見まがうような装飾品が塔の鎮壇具としてみられるようです。

 飛鳥寺では、貴石類以外に、心礎埋納物としては特異だといわれる馬具や武具が出土しています。(飛鳥寺の心礎埋納物の詳しくは、第一回飛鳥検定の解説・考古編をご覧ください。)これらの解釈としては、古来の祖霊信仰と仏教教義の混同(仏教の教義に理解が及ばなかった説と融合説など)や「舎利埋納経」という経典に、身に着けたものを奉献すれば功徳が大きいとされていることから舎利埋納の法会に参加した貴人たちの私物説などがあります。
 飛鳥寺におけるこの馬具や武具は、心礎埋納物というよりは、皇龍寺にみられるような「塔鎮壇具」としての意味合いが濃いように私には思えます。

 埋納物以外に、心礎からは実に様々な情報を得ることができます。
「地下式・半地下式・地上式」の表現は、心礎位置の基壇上面からの深さをいいます。6世紀末の飛鳥寺の「地下式」から、7世紀中頃の山田寺などの「半地下式」へと移行し、7世紀末の薬師寺や大官大寺の基壇面と面一になる「地上式」で最終形をとると考えられています。これらは、深い掘り込みをして心柱の下部を版築で固めなくても、建物が充分耐えると経験上知られたからだとも思えます。時代によって移っていくこの心礎の深さも、おおよその建立年代をはじき出す目安とされることがあります。

 また、心礎そのものの形では、橘寺式と言われる添柱用の穴を持つ心礎(橘寺・若草伽藍・野中寺・西琳寺など)も古い形態といわれますし、野中寺にあるような礎石に線刻が施されたものも珍しい部類で、古い形態だとされています。

 これらは、ほぼ6世紀末から7世紀末の約100年あまりの間に限っての狭い範囲でのお話になります。後世に、前代を踏襲した様式で物を作るということは可能です。一つのことで結論をだすのではなく、あれこれ比べ、引き合わせて考えるのが古代史のそれも遺物絡みの面白さだと私は思います。^^
 現在、これら飛鳥時代の塔心礎を間近に見られるところもあります。機会があれば、心礎の実物を一度じっくり眺めてみてください。ただじっと動かない石も何か語ってくれるかもしれません。^^ 



 「戯笑歌の達人・長忌寸意吉麻呂

 長忌寸意吉麻呂は、人麻呂とほぼ同時代、持統朝から文武朝にかけての宮廷歌人です。「長忌寸」と言う名から、紀伊国那賀郡を発祥とする東漢氏の一族で、長皇子(天武第7皇子?・?〜715)を介して出仕したとする説もあります。
 万葉集中、意良麻呂作だとされるのは、14首で、16−3829の題詞には、「酢・醤・蒜・鯛・水葱を詠む歌」と書かれてあり、この歌をあわせて前後に8首続けて載る歌群は、物の名を詠みこむことから「物名歌」とも、宴席などで笑いの対象として詠まれたことから「戯笑歌」とも言われます。

 例えば、16−3824の(さし鍋に湯沸かせ子ども櫟津(イチヒツ)の檜橋より来む狐に浴むさむ)の左注には、右の一首は、伝へて云はく、「あるとき。もろもろ集いて宴飲す。時に、夜漏三更(ヤロウサンコウ)にして、狐の声聞こゆ。すなはち、衆諸(もろひと)、意吉麻呂を誘(いざな)ひて曰はく、『この饌具(せんぐ)・雑器(ぞうき)・狐声(こせい)・河橋(かきょう)などの物に関(か)けて、ただに歌を作れ』といへれば、すなはち、声に応えてこの歌を作る」といふ。
 (皆で集まって宴をしていると、夜半を過ぎて狐の声が聞こえたので、早速に意吉麻呂を呼び寄せ『さし鍋・雑器・狐の声・河の橋などに掛けて歌を作れ』と言うとすぐさま応えてこの歌を作った)とあり、このように要請に応じて機知に富んだ歌を詠んだことが伺えます。これらの歌のお題は、普通の和歌のお題には見られない生活に密着した物の名が多くなっています。和歌と言うのは、ご存知のとおり31音で詠まれますから、読み込む題の音数を引いた文字数しか新たな言葉は使えないと言う事になります。

 16−3828(香塗れる塔にな寄りそ川隈の糞鮒食めるいたき女奴)の題詞には、「香(こう)、塔、厠、糞、鮒、奴」とあります。これは、尊いものと卑しいもの、相反するものを一つの歌の中に詠み込むということで詠まれた歌だそうです。普段は同じ土俵に上げられることのない物を歌として意味の通じるものにする、この作業をするために、生まれたのが戯笑歌といえるのかもしれません。
 和歌・万葉歌にどこか崇高なイメージを持たれている方は、一度これら意吉麻呂の歌が載る16巻の中ほどをくってみてください。古代人がより身近に感じられるかもしれません。

 この意吉麻呂という人は、ただのお笑い歌を詠むだけの面白いおじさんというだけではなかったようです。万葉集中14首のうち3首(1−57・3−238・9−1673)ですが、文武3年(699)から大宝2年(702)に掛けての行幸関連の歌もあり、一応きちんと宮仕えはなさっていたらしき形跡もありますし、(笑)有間皇子の悲劇の故事にちなんで、詠んだものとされている歌も2首あります。(2−143・144)
 行幸・故事・戯笑歌と三つのタイプの歌を万葉集に取られていることを考えると、官位は低いながらも、才のある分を弁えた結構凄い人だったんじゃないかとも思います。



 TOM

 「斎王と斎宮と斎宮制度


 斎王とは天皇に代わって天照大神の言葉を聴く御杖代のことです。斎宮とは斎王が住む場所を指します。斎宮制度とは斎王が卜定されてから斎宮に赴き伊勢神宮を拝謁する仕来りを制度化したものです。

 第10代崇神天皇のとき都に疫病が蔓延します。コレラか天然痘ではなかったかといわれています。時の朝廷はその原因を求めたところ、朝廷に数々の神々を一緒に祀っていることが原因ではないかと判断します。そこで大物主命は三輪山の大神神社に、倭魂命は大倭神社に、天照大神は倭の笠縫邑に夫々祀ることとします。疫病も神々も落ち着きますが、天照大神だけが居心地が悪いのか落ち着きません。崇神天皇は皇女豊鍬入媛命を御杖代として天照大神に仕えさせますが、崇神天皇の存命中には落ち着く場所を得ないまま次の垂仁天皇の時代に入ります。垂仁天皇は皇女の倭媛命を御杖代として安住の地を捜し求めますが、ここで方針を変更し人が神様の落ち着く場所を探すのではなく、神様から託宣のあった場所を探すことにします。そして倭媛命が五十鈴川の辺まで来たとき託宣を得、ここを安住の地とし伊勢神宮を建てます。従い書紀に従えば初代斎王は豊鍬入媛命であり、同じく伊勢神宮での初代斎王は倭媛命となります。

 予断ですが第21代雄略天皇のとき、やはり託宣があり天照大神の食事を司る神として豊受神が伊勢に遣わされます。これが現在の外宮と言われているところです。もちろん女性神ですが、何故か外宮の造りは陰陽道で言う「陽」の造りとなっています。これはおそらく元々男性神を祀っていた神社を外宮としてしまった為ではないかと言われています。

 さて壬申の乱で必勝祈願を伊勢神宮にし、勝利を収めた大海人皇子は翌年天武天皇として即位します。大願成就した天武天皇は、伊勢神宮を顕彰して用明天皇から途絶えていた斎王を選出し伊勢に向かわせます。このとき制度化されたものが斎宮制度と言われるもので、以後、後醍醐天皇の時代まで660年間に渡り60人以上の斎王を出すこととなります。天武天皇によって選出された斎王は、娘で未婚の年長である大伯皇女であったことから、斎宮制度が制度化された初代斎王は大伯皇女と言われています。

 斎宮制度の内容は平安時代に作られた延喜式に見ることができます。先ず卜定という亀卜によって、神祇官が選任された斎王の適否を占います。どうやら「適」と出るまで繰り返したようで、後には「卜定される」と言えば「斎王に決まる」という意味を持つようになります。欧州の神様は一旦決めたら絶対ですが、日本の神様は何度も頼めばそこまで言うならと妥協する訳です。こんなところのも文化の違いが見出されて面白く思われます。卜定で適となるとその旨太政官に報告がなされ、天皇が改めて斎王となることを勅定します。勅定された斎王は宮廷内にある初斎院に向かい潔斎をしたのち、野宮(ののみや)と呼ばれるところで約1年斎宮での生活を学びます。神社ですから仏教語は使わないよう躾があるわけです。翌年9月の神嘗祭に向けて都を経ちます。このときの儀式を「発遣の儀」と言います。天皇は非公式の白装束で斎王に向かい、「都におもむきたまうこと勿れ」と言って、櫛を前髪に挿します。最後の別れの儀式です。その後、伊勢までは5泊6日の旅であったと伝えられています。頓宮と呼ばれる仮の宿を経て伊勢に向かいます。これを郡行と言います。鈴鹿のほうを通って行く訳ですが、役が終って帰京するときも同じ道となります。但し凶事で帰京するときは名張のほうを通る別ルートに変えられます。何れの場合も一旦、難波津で禊してから入京したそうです。


 斎宮での生活は精進潔斎と言うよりは、歌を詠んだり貝殻の絵合わせで遊んだり各節句を楽しんだりするかなり優雅なものであったようです。伊勢神宮参拝は年に3度、6月12月の月次祭(つきなみさい)と9月の神嘗祭だけだったようです。現在、斎宮跡は昭和45年から発掘調査され続けています。場所は伊勢と松阪の丁度真ん中辺り、伊勢から20km位のところにあります。近鉄山田線の「斎宮(さいくう)」と言う駅のそばにあります。跡地は整備されており、官僚たちの住まい跡なども見ることが出来、奥には「斎宮博物館」があり当時の生活ぶりを体験できるようになっています。伊勢に行かれることがあったら、少し足を伸ばして斎宮跡を見学するのもいいかも知れません。




 若葉

 「伎楽について


 「日本書紀」には、推古20年(612)百済から帰化した味摩之(みまし)を桜井に住まわせ、少年達を集めて伎楽の舞を習わせたという記録があります。
 それよりずっと前の記事になりますが、允恭天皇が亡くなられた時に新羅の王が多数の楽人を奉ったという記事や、欽明15年の楽人の交代の記事、そして「新撰姓氏録」に、欽明天皇の時代に呉の国から帰化した智聡によって伎楽の調度一具がもたらされたという記録もある事から、味摩之がやって来る以前から、伎楽に近い何らかの芸能が伝わっていたと思われます。


 では、伎楽についてご紹介して行きます。

 伎楽は「呉楽」ともいわれ、7〜8世紀に盛んに行われた仏教の儀式です。顔を覆う大きな面を付けて、行道というパレードと台詞のない仮面劇で構成されています。
正倉院・東大寺・法隆寺(東京国立博物館の法隆寺献納宝物)などに200を超える伎楽面が残ります。クスノキ・キリ・乾漆などで作られ、法隆寺献納宝物には7世紀のもの(クスノキ製)と考えられる面が現存し、正倉院には752年の東大寺大仏開眼法要で使用された面・衣装・太鼓・幡なども残っています。伎楽面のワンセットは14種類で、1つの役に複数の面を用いるもの(獅子児・太孤児・酔胡従)もある事から23面位になるそうです。

 〔14種類の伎楽面の役割〕
  • 治道(ちどう)
    • 道を治める役目で、目に見えない邪鬼を高い鼻でかぎわけます。(治道・迦楼羅→天狗へ)
  • 獅子(しし)・獅子児(ししこ) 
    • 邪鬼を見つけると噛み付いて退治する役目で、その為に恐ろしい顔をしています。獅子児は子供なので、澄んだ心を持ち邪鬼を払う効果があるとされたようです。(→現在の獅子舞へ)
  • 呉公(ごこう)・呉女(ごじょ)
    • 呉の国の王・貴人の意味で、扇を持って登場し笛を吹く仕草をしたようです。呉女はそのお后、または美しい女の人の事です。
  • 崑崙(こんろん)
    • 呉女にマラフリ舞をして襲い掛かり、力士に懲らしめられる役を演じたようです。獣のような耳と牙を持っています。中国の古い文献には、南方の部族を崑崙、または崑崙奴と呼んだとあるそうです。クルド人ではないかとも考えられているようです。また、ウイグル語で奴隷をクルと言い、タクラマカン砂漠の南には、その名の通りの崑崙山脈(クンルン山脈)があります。 
  • 金剛(こんごう)・力士(りきし)
    • 共に恐い顔で、呉女を襲う崑崙をこらしめる役割りをしたようです。金剛と力士は一組と考えられるようです。
  • 迦楼羅(かるら)
    • 仏法を守護する八部衆(はちぶしゅう)の1人で、蛇を食うといわれ、「けらはみ」という所作をします。ルーツはヒンドゥー教の神鳥ガルーダです。ハゲワシの事で、天から幸いを運び忌む物を空へ運び去ってくれます。神の乗り物でもあるそうです。
  • 婆羅門(ばらもん)
    • インドで最高の位にあるとされる僧侶ですが、おしめを洗う所作をします。
  • 太孤父(たいこふ)・太孤児(たいこじ)          
    • 身寄りのない哀れな老人とされ、それに付き添う少年の事です。仏前に礼拝します。
  • 酔胡王(すいこおう)・酔胡従(すいこじゅう)
    • 胡とは西域の辺りの事で、胡国の酔っ払った王様とその家来の事です。「はらめき」という所作をします。王に従って登場する6〜8人の酔胡従は、笑ったり、泣いたり、怒ったりと色んな表情をしています。
 面の後頭部の下の縁に沿って小さな孔が並んでいますが、これは、そこに布を付ける為のもので、絹や麻紐の繊維の痕跡があるそうです。その孔より少し大きいものが、耳や耳に近い後頭部にありますが、こちらは面を被る為の紐を通す孔です。鹿の皮や麻布の紐の断片が残っているものがあります。
 笛でメロディーをとり、鉦盤(しょうばん:小さいシンバルのような楽器ではないかとされます)や腰鼓(ようこ:紐で肩から提げる鼓のような形の太鼓)の演奏で、9種類の曲目があったとみられ、それぞれの曲の伴奏で演技をしたようです。古い楽譜から元の楽譜を偲べるものもあるそうです。
 鎌倉時代の狛近眞(こまのちかざね)の「教訓抄」などから内容の一部が解りますので、ごく簡単にご紹介します。

 始めに道を治める治道が登場し、次に、獅子とそれをあやす獅子児が現れ、場を清めます。
 そして、呉公という王様が登場し、呉公がいない時に崑崙という悪者が現れ、お后の呉女に襲い掛かり、それを家来の金剛と力士が退治します。
 次に、僧侶の婆羅門の「襁褓洗い(むつきあらい)」という、おしめを洗う場面の後、迦楼羅が「けらはみ」という、虫を捕まえるような演技をし、次に、老人の太孤父と子供の太孤児が信心深く仏前に礼拝します。
 最後に、酔っ払った酔胡王と家来の酔胡従達が現れ、「はらめき」という所作をし、乱酔状態で舞い踊るという内容です。

 伎楽のルーツを探しますと、西域と呼ばれた中国の新疆ウイグル自治区のキジル千仏洞(3〜8世紀)には、迦楼羅と見られる壁画があり、白居易の「西涼伎」という文献では獅子舞などが紹介されています。また、ウイグル族に伝わる群舞は葡萄の収穫祭だそうですが、ギリシャ神話の酒の神ディオニソスやその周りの神達の仮面が東方に伝わり、伎楽面になったのではないかという考えもあるそうです。

 ブータンのお祭り(法要の事です)では仮面舞踊が中心に行われます。仏教伝来より古い、民間に伝わる劇「ベーチャム」も行われますが、その中の「ポレモレ」という劇の内容がよく似ていますので、これも簡単にご紹介します。
 王が戦いに出かけてる間に家来の老婆が夫をそそのかし、お后を襲わせます。帰ってきた王がそれを知ってお后の鼻を切ります。そこに婆羅門がやって来て鼻をくっつけるという内容です。
 祭りの最後に、巨大仏画の「トンドル」を人々は五体投地して礼拝するというお祭りです。
 (余談ですが‥チベット系の人達の中には今でも女性の鼻が切られるという事があるそうです。)

 このように解らない部分が多くありますが‥‥
どうも伎楽は、人の道理などを教える為に、各地に伝わる民間芸能がシルクロードを伝播するうち、仏教の教えなども組み込まれて行って日本に伝わったものだと考えられます。
 そして、聖徳太子が仏教を広める為、楽戸を置くなど力をそそいだ結果全国に広まって行ったようです。   

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資料作成 両槻会事務局

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