両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


両槻会第17回定例会


飛鳥の諸宮をめぐる


レポート




この文字色は、リンクしています。
飛鳥咲読
(飛鳥諸宮の解説は、橿考研付属博物館 主任学芸員 山田隆文先生の解説文をお読みください。)



 第17回定例会は「飛鳥の諸宮をめぐる」と題して、橿原考古学研究所付属博物館主任学芸員であられる山田隆文先生のご指導の下、飛鳥地域に存在したとされる各天皇の宮跡を巡るものでした。
 11月14日当日は、前日まで天気予報では雨。それも集合時間の10時には強雨となっており、スタッフは雨の場合の行動予定を真剣に立てていました。それが、なんと午前9時までには雨も上がり、集合時間には曇り空でこそあれ雨の後のすきっと澄み切った空気に満たされていました。

 行動開始の10時には、新しい参加者4名を含む24名全員が集合、山田先生から「今日は飛鳥及び飛鳥周辺の宮があった場所をめぐりますので、参加者の皆さんの頭の中で『ここに宮があった』ことを想像していただきたい。」との話しがあり、先ずは桜井駅からタクシーに分乗してバス停「倉橋」傍の「崇峻天皇倉梯岡陵」に向かいました。
 ここで山田先生から当日の行程説明を受け、「崇峻天皇が倉梯柴垣宮で暗殺された後、推古天皇は桜井方面に出て山田道を通って飛鳥方面(豊浦宮)に入ったか、高家(たいえ)を通って飛鳥方面に入ったか定かではありませんが、今日は高家を通って行きます。」との話しがあり、スタートから高家に向かう心臓破りの坂への挑戦でした。尚、崇峻天皇倉梯岡陵は宮内庁で比定しているが、今では赤坂天王山古墳が崇峻天皇の墓である可能性が高いとの説明もありました。



 高家に向かって5分ほど登った北山川下の倉梯の地を眺めおろせる場所で、山田先生から「倉梯の地は意外と広く東西の平坦な地形が確認されます。倉梯柴垣宮があってもおかしくはない。」との説明を受けました。参加者は「そんなものかな」とくらいに思われたことと思います。

 何度も見ている人は兎も角、初めて見る筆者には、はっきり「なるほど」と感動させるほどの「意外と広い東西の平坦な地形」は確認できませんでした。

 暫く歩くと「八講桜(満願寺しだれ桜)」の看板が見えます。何なのだろうと思っていますと風人さんから、左手山の上に見えるのが八講桜ですとの説明があり、見上げると確かにしだれ桜が。しかし、この時期花を付けている訳でもなく、葉もなく唯枝のみが不気味にその姿を晒していましたが、春には満開で見るものを楽しませてくれることと思います。



4月上旬、満開を迎えた八講桜


 更に20分ほど登ると坂の頂上に着きます。ここからは金剛山を真正面に、その手前に真弓の丘が横たわり、そして真下に高家の集落が見渡せます。右手眼下には桜井市が広がり、高家に来たんだと言う実感が湧きます。



高家峠付近より西を見る




高家より北を見る 中央の小さな森が箸墓古墳
高家古墳群長瀬藪支群は、手前の傾斜地に続く。

 坂の頂上から暫く歩いたところで、後期古墳に分類される「高家古墳群」の説明がありました。山田先生の説明によると100基以上の古墳が確認されており、今では広い田んぼになっているが、調査前は小さな棚田状になっていたとのことです。高家古墳群の中の長瀬藪支群を正面に見渡せる場所からは右手後方に箸墓古墳が見え、当日、纏向遺跡の現説があったことを思いださせられました。

 そこから少し進むと今度は左手に史跡として整備してある平野古墳がありました。平野古墳の入り口に立つと、西側には真正面に葛城山が見渡せる絶好の場所にこの古墳が位置していることが分かります。被葬者は豪族の長であったことが偲ばれました。



平野古墳

 どんどん下って行くと、八釣集落の南東で発掘された八釣マキト古墳群の4号墳が移築され整備されているところに出ました。時間の関係があるため、そこは参加者のほんの少数の方々だけ立ち寄り先を急ぐこととしました。飛鳥城跡の近くに新田部皇子の屋敷跡ではないかとされる竹田遺跡があります。竹田遺跡へ来た道の少し手前の小字は「竹田道より北」と長たらしい名前が付いていますが、この小字名からも竹田道が東西に走っていたことが分かるそうで、小字名をよく調べると面白いとのお話しでした。因みに竹田道は西に下って行くと飛鳥寺の北限大垣に続くそうです。これらの古墳・遺跡の詳細については、本定例会別資料2を参照して下さい。


八釣マキト1号墳

竹田遺跡

 いよいよ飛鳥の中心部に入り、飛鳥寺へと足を向けます。丁度水落遺跡から100mくらい手前のところで立ち止まり、山田先生から石神遺跡や小墾田宮に関する説明がありました。その地は平面的な見晴らしが利くところで、水落遺跡、雷丘東方遺跡、石神遺跡、阿倍山田道などが見渡せます。この場所は普通に歩いていると気がつきませんが、僅かながら高くなっていることを指摘されました。飛鳥は、南東に高く北西に低い地形ですので、本来は飛鳥坐神社の方向から狂心渠が北西に流れ、ゆるやかに下り坂になっているようにイメージする所ですが、実際には微高地となっています。


 山田先生の説明によると小墾田宮候補地には2箇所あり、一つは古宮遺跡辺り、もう一つは雷丘東方遺跡が上げられているが、双方ともそこだけで場所を限定するには狭いことや飛鳥川の氾濫の危機を抱いている場所であることなどから、もう少し違った見方をしても良いのではないだろうかとのお話しがありました。また、確かに小治田と書かれた墨書土器は発掘されたが小墾田と書かれていないことから、オハリダという地名はあったがイコール小墾田宮とは俄かに断定できないとのことでした。
 小墾田宮比定地としては、阿倍山田道から北側の奥山廃寺跡あたりまでの微高地なども考えに入れてはどうかとのご指摘もありました。重要な施設を造る場合、微高地はその候補地とされる場合が多いのではないかと考えられます。

 飛鳥寺の西大垣に沿った道を南に進み、飛鳥寺の南限を示して頂きました。そこから東西にも南北にも高低差が見て取れます。敢えて意図して見ないと気が付かずに歩いてしまいますが、指摘されて見ると確かにそうである事が実感できます。


 飛鳥宮跡は、T期、U期、VーA期、VーB期に分類されています。T期は舒明天皇の飛鳥岡本宮、U期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮、V期はA・Bに分けていますが、斉明天皇の後飛鳥岡本宮と天武天皇の飛鳥浄御原宮が同じ地層にあるので、双方をV期に含めA・Bとして分けています。午前の部の最後に、T期U期のあったと想定される所を回りました。確かに畑毎に高低差が見て取れます。


 飛鳥では面白いことに、現在ある区画された田んぼの一つ一つが何らかの施設跡そのものとなっていることが多く、即ち一つの田んぼの下に一つの建物があった可能性が高いと言うことになります。そして、その境界線が今ある畦道となっている訳です。更に現在ある水路も従来からのもので、飛鳥時代にも何らかの役割を果たしていたと考えられるそうです。確かに言われてみれば、わざわざ新しく水路を作る必要性はなく、あるものを利用した。それが現在まで残ったと考える方が自然なのかもしれません。これらを歩いて実感し、飛鳥寺に戻り「飛鳥庵」周辺で昼食を取りました。


 昼食後は再び飛鳥宮跡を巡りました。今度は第V期の飛鳥宮、後飛鳥岡本宮と飛鳥浄御原の跡を想像して巡ります。飛鳥寺から板蓋宮伝承地方向に暫く歩くと、飛鳥川方向に大きく段差のある所に出ます。これが、飛鳥京跡苑池遺構です。ここは山田先生ご自身が発掘調査に携わっておられたこともあり、熱心なご説明を受けました。発掘された木簡の中には、表に薬の名前があり裏に処方箋の書かれたもの、或いは表に病気の症状が書かれており裏に処方箋の書かれたもの、或いは赤米白米等から酒造りではないかと思われる内容のものがあり、差し詰め薬草園があった雰囲気を醸し出しているそうです。又、植物類では柿、梨、桃、梅などを示すものが発掘されており、あたかもそこに果樹園があった様相を呈しているそうです。又、その中に五葉松の種子が見つかり、飛鳥地方にはない松であることから蝦夷からの献上物ではなかったかとの見方も出ており、更には痕跡すら見つかっていないものの書紀に記される献上物の中に珍獣奇獣があることから、ラクダなどが居た動物園のようなものが飛鳥京苑池にはあったのではないかと、想像を膨らませるお話しがありました。



飛鳥京跡苑池遺構 北池付近より南池跡を見る



2002年2月17日 第4次調査現地説明会
渡堤

 飛鳥京にあっては、石敷き礫敷きが天皇とそれ以下を表す地区ではないかとの説明で、天皇のおられた場所は人頭大の石を敷き詰めた場所であり、臣下は礫石を歩いたのではないかとの説明がありました。V期遺構は内郭と外郭からなる二重構造となっています。更に内郭は東西方向の三列の掘立柱塀によって南北に分けられており、その中軸線上には大型の正殿が南北同じ大きさで確認され、それぞれ「南の正殿」「北の正殿」と呼ばれています。最初南を発掘し正殿らしきものを見つけたところ、後の調査で北側でも全く同じ大きさの建物が見つかり、先に見つかった方を「南の正殿」、後で見つかった方を「北の正殿」としたそうです。



2004年3月12日 飛鳥浄御原宮内郭「南正殿」発掘現地説明会



2006年3月11日 飛鳥浄御原宮内郭「北正殿」発掘現地説明会




エビノコ郭跡


山田先生が創作されたエビノコ大殿の
ペーパークラフト

 今では村役場の駐車場の下となっている天武天皇の大極殿「エビノコ郭」を後に、川原寺跡を通り、甘樫丘東麓遺跡横から甘樫丘に登りました。ご存知のように甘樫丘からは飛鳥が一望できます。ここで改めて「飛鳥とは一体どの地域を指したのか。昔の人は何処まで来たら『飛鳥に来た』と言ったのだろうか。それともそのような境界線はなく、漠然と飛鳥と呼んでいたのか」を皆で考えました。一つのヒントとして山田道が飛鳥京の北限の境界線となるのではないか、又これから通る豊浦宮跡も「飛鳥」と言う呼称が付けられていないので、いわゆる飛鳥地区には入らないのではないかとのお話をお聞きしました。もう一つ天武天皇時代には、飛鳥は宮としての存在から都としての機能を有する場所になって行ったのではないかとの貴重なお話も頂きました。


 甘樫丘から豊浦宮・後の豊浦寺跡に立ち寄りました。現在の向原寺辺りが豊浦寺の講堂、また集会所の辺りが金堂であったそうです。


 説明をいただいた後、舒明天皇が飛鳥岡本宮火災の際に引っ越したとされる田中宮(行宮)の候補地に向かいました。途中和田池の畔で、この和田池は中世に谷を堰き止めて作ったものであること、その両岸には西に和田ヒブリ山、東に豊浦の火振り山と称する所があり、一体この「ヒブリヤマ」と言われる所はどのような役目をしていたのか、山田先生のお話を拝聴しました。山田先生のお調べになったところでは、土地の人に聞くと「昔、雨乞いの踊りをしていた」そうですが、「ヒブリ」と称するところは奈良県下では飛鳥に通じる所にのみに存在し、しかも紀路から飛鳥にかけて6−7箇所点在し、果たしてこれ等が雨乞いのためにだけ使われていたのかは疑わしく、寧ろ狼煙などを上げた情報伝達手段として使われたのではないかとのご見解でした。もう少し調査結果が纏まれば発表されるとのことでしたので、今後その発表が楽しみとなりました。

 11月の日没は速く、田中宮跡候補地への散策はパスすることとなりましたが、その近くには田中廃寺の主要堂宇の基壇跡と見られる弁天の森や天の藪と呼ばれる竹薮があります。又和田廃寺跡も近くにあることから、先生が指摘された古宮遺跡の方向から続くこの微高地は、何かしら宮のようなものがあってもおかしくはない場所であったように思われます。

 今回最後の目的地、厩坂宮跡地に向かいました。先ずは観光用パンフ等に載っている小字名カキノキにある土俵を大きくした様な塚のような所を見学しました。


 小字カキノキに栗の木が植わっているところです。現在は個人の所有地なので発掘調査はしていませんが、周辺からは舒明天皇の時代のものは何一つ発見されておらず、この場所を厩坂宮跡地とするには抵抗があるとのことでした。厩坂宮も舒明天皇が道後温泉に行かれた帰りに立ち寄ったものなので「行宮」と見られ、岡本宮火災後に計画的に造ろうとしていた正宮は、百済宮ではなかったかということです。舒明天皇は晩年、念願の百済宮に遷宮しますが、移って1年足らずで崩御します。後を継ぐ皇極天皇は再び飛鳥の地に戻り、以降飛鳥京の時代となります。
 最後は、現在学術的にも厩坂宮跡と比定される安部山田道と下つ道の交わる、丈六交差点に向かい、橿原神宮前駅東口で第17回定例会を終了することとなりました。

 ご参加いただきました皆さん、長い行程でしたが、一人の脱落者も出さず全員踏破できましたこと、何よりと思っています。
 そして咲読原稿まで用意して下さり、丸一日説明してくださった山田先生、本当に有難うございました。 


作成 両槻会事務局 TOM
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第17回定例会関連資料1  ・  第17回定例会関連資料2

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