両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第28回定例会


彼岸花ウォーク

埋もれた古代を訪ねる2


事務局作製散策用資料


  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
ウォーキングマップ 御園遺跡 明日香村大字御園・檜前地域遺跡図 檜前門田遺跡
古代檜隈の範囲 於美阿志神社 東漢氏 檜隈寺
檜前遺跡群 呉原寺(栗原寺) 道昭火葬地 定林寺
橘寺 川原寺 川原寺裏山遺跡 飛鳥京・エビノコ郭
飛鳥宮跡マップ 飛鳥宮重層説明図1 飛鳥宮重層説明図2 飛鳥宮Ⅲ内郭の建物
飛鳥宮跡苑池遺構 木ノ葉堰・弥勒石 槻の木の広場 飛鳥寺西方遺跡図
石神遺跡 奥山廃寺 関連系図 飛鳥史跡マップ
当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


この色の文字はリンクしています。

                      ウォーキングルートマップ


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第28回定例会 彼岸花ウォーク:埋もれた古代を訪ねる訪ねる2 ウォーキングコース を表示



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御園遺跡(アリイ遺跡・チシヤイ遺跡・檜前タバタ遺跡・檜前脇田遺跡)   


明日香村埋蔵文化財展示室蔵
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弥生時代から飛鳥時代にかけての遺構(土坑、掘立柱建物、掘立塀、古墳時代の竪穴住居)が検出されています。遺物としては、弥生式土器、須恵、土師、瓦器、瓦、土器などありますが、桧前脇田遺跡からは、有茎(舌)尖頭器が一点出土しています。     
有茎尖頭器とは、狩猟のための石器(槍の穂先)の一種で、縄文時代草創期に使われていたようです。


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明日香村大字御園・檜前地域遺跡図




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檜前門田遺跡

飛鳥時代の遺跡です。掘立柱建物、掘立柱塀、土坑が検出されており、遺物としては、土師器、須恵器などが出土しています。檜隈寺が近いこともあり、東漢氏に関わる住居跡と考えられます。



古代檜隈の範囲

天武持統陵が「檜隈大内陵」、欽明天皇陵が「檜隈坂合陵」と呼ばれることから、両天皇陵を現比定地と考えれば、二つの御陵を結ぶ丘陵を北端と考えて良いのではないかと思います。南端は、高取町清水谷遺跡(大壁建物検出)付近とされているようです。東西は檜隈大内陵を東端とし、高取川を西端として、おおよそこれらに囲まれた地域を「檜隈」と考えて良いと思います。



於美阿志神社

東漢氏の祖・阿智使主(あちのおみ)夫婦を祭神とします。『日本書紀』応神20年9月条、「倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖である阿智使主と、その子都加使主(つかのおみ)が、自己の党類十七県を率いて、来帰した。」という記事があり、社名の於美阿志(おみあし)は、阿智使主(あちのおみ)が転化したものと考えられます。



東漢氏

幾つもの小氏族で構成された複合氏族だと考えられます。相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまったのだとされています。韓半島の南部の安羅を本拠とする者達だとされていますが、異説もあるようです。なお、河内に住み着いた彼らを西漢(かわちのあや)氏と呼びます。


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檜隈寺

檜隈寺は、東漢氏の中でも有力氏族であった檜隈氏の氏寺だとされていますが、『日本書紀』朱鳥元(686)年の条に「檜隈寺・軽寺・大窪寺に、それぞれ食封百戸を三十年に限って賜った。」という記事以外には正史に登場せず、史料から詳細はほとんどわかりません。

現在、檜隈寺跡には、金堂、講堂、中門、塔の基壇が残っていますが、これらの造営時期は、出土した瓦の年代から7世紀後半から8世紀初頭にかけてと考えられています。
しかし、7世紀前半から中頃にかけての瓦も出土していることから、伽藍の整った寺院が建立される以前に、前身となる寺院あるいは仏堂が存在していたと考えられています。


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左の写真は、明日香村埋蔵文化財展示室に展示されている「火焔文入軒丸瓦」の破片です。特徴は、蓮弁の子葉に光芒をあしらったデザインが施されている点にあります。
火焔文軒丸瓦は、星組系統と山田寺式系統の2種類が確認されています。星組と山田寺式の時代差は20~30年と考えられますので、初期寺院の建造も時代を経て造られたのか、あるいは幾度かの修復が施されたのかも知れません。

飛鳥時代前半の出土瓦としては、その他にも花組や星組の軒丸瓦、山田寺式軒丸瓦も出土しています。
檜隈寺は、南西に門を持つ特異な伽藍配置をしています。

高取山から派生する尾根の末端近くに築造されており、伽藍配置はその地形に影響されたものと思われます。しかし、造営に際しては、大規模な造成工事が行われており、痩せた尾根上に最大限の面積を確保するための努力が続けられたことが分かってきました。

檜隈寺は、瓦積基壇や半地下式で排水溝が彫られた塔心礎の存在、また出土した「火焔文入軒丸瓦」などから、渡来系氏族が建立した寺院であるとされてきました。さらに近年の発掘調査で、L字型かまどや、それを用いた掘立柱建物の埋土から出土した「7世紀前半の朝鮮半島の造瓦技術を用いた軒丸瓦」の存在は、檜隈寺は渡来系氏族が建立した寺院であることを一層裏付ける資料であると言えます。


明日香村埋蔵文化財展示室蔵
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左は、檜隈寺講堂跡の北方から出土した渡金を施された小金銅仏の掌です。

檜隈寺跡の発掘調査による 遺物出土地点



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檜前遺跡群

檜隈寺跡の南に谷をひとつ越えた丘陵上には、「檜前遺跡群」と称される遺跡があります。そこからは、掘立柱建物跡12棟、掘立柱塀3条、床束建物跡2棟、間仕切建物跡2棟、庇付き建物跡2棟、大壁建物1棟など、7世紀半ばから8世紀前半の建物跡が多数検出されています。また、檜前上山遺跡・御園アリイ遺跡・檜前門田遺跡など、周辺部では掘立柱建物跡が検出されている遺跡があり、東漢氏の居住地域の一つだったのかもしれません。大壁建物は、古代の朝鮮半島から伝わった建築様式で、溝に狭い間隔で柱を立てて土壁を塗り、壁の中に柱を塗り込めて造ります。


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呉原寺(栗原寺)

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呉原寺跡は、檜隈野の東の端、大字栗原と稲渕とを分ける丘陵の西麓にあります。大字栗原の集落の一つ北の谷筋になるのですが、比較的広い面積をもった造成地のような地形が、東西に緩やかな棚田状に続いています。呉原寺の主要伽藍は、この谷筋に西に向いて造営されたのではないかと思われます。

谷筋の西端の辺りには、「呉原寺西大門」と呼ばれる地名があり、一部発掘調査が行われていますが、建物などの顕著な遺構は発見されていません。しかし、先に檜隈寺のところで触れました「火焔紋入単弁八葉蓮華文軒丸瓦」が出土しています(他にも軒丸瓦4点、軒平瓦1点)。


これらにより、檜隈寺との強い繋がりが感じられ、また創建年代が7世紀中頃に遡る可能性が考えられます。
主要伽藍の存在が想定される谷筋の北側の丘陵からも、瓦や礎石が出土しており、地形の観察などからも、丘陵上にも礎石立建物の存在が考えられています。食堂や僧坊などかもしれません。

呉原の地名は、『日本書紀』雄略天皇14年春正月・及び三月条に「身狭村主青らが、呉国の使者とともに、呉の献上した手末(たなすえ)の才伎(てひと)である漢織・呉織および衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、・・・中略・・・、三月に、呉人を檜隈野に置いた。そこで呉原と名付けた。」と書かれています。これらの記事からは、東漢氏が「今来才伎」の招聘に大きく関わっていたことがわかります。

また、『清水寺縁起』には、「先祖従三位駒子卿が敏達天皇のために建立した」としており、『大和国竹林寺別当譲状案』には、「崇峻天皇辛亥年に坂上大値駒子が建立した」としています。坂上駒子を東漢駒だとすると、『日本書紀』では天皇を暗殺した悪党のイメージが強いのですが、坂上氏は東漢氏の有力氏族で、平安時代に活躍する坂上苅田麻呂・田村麻呂を子孫に持ちます。彼らの隆盛が、呉原寺を10世紀初めまで存続させたのかも知れません。


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道昭火葬地

記録上で国内初の火葬が行われたのは、文武4(700)年3月10日です。玄奘三蔵に師事したことでも知られる道昭が、遺言に従った弟子たちによって栗原で荼毘に付されました。『続日本紀』は「天下の火葬はこれから始まった」と記しています。その後、大宝2(702)年に亡くなった持統天皇をはじめ、文武、元明、元正天皇はいずれも火葬されています。

道昭は、天智元(662)年には飛鳥寺の東南隅に禅院を建てて住まいしますが、そこで多くの仏教修行者が禅を学び、弟子となりました。行基や義淵などもその中に含まれます。


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定林寺

「立部寺」とも「定林寺」とも呼ばれます。
「定林寺」は、『聖徳太子伝暦』や『太子伝私記』によると太子建立七ケ寺(『法隆寺伽藍縁起井流記資材帳』によれば、法隆寺・四天王寺・中宮寺・橘寺・蜂丘寺(広隆寺)・池後寺(法起寺)・葛木寺(葛木尼寺)の七つ) の一つとされます。

定林寺跡
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現在の定林寺の西奥(小字 奥の堂)を中心にして、今に残る基壇を見ることが出来ます。ただ、今日までに発掘調査が行われたのは一部に限られており、その全容は謎に包まれたままになっています。


定林寺遺構図

発掘されたのは、塔と回廊の基壇と礎石、北面回廊の中央の基壇北西隅だけになります。
塔跡は、一辺12.7mの基壇の上に、一辺11.2mの基壇が乗る二重基壇で、基壇面から2mの地下に心礎がありました。基壇上面には、5個の礎石が残っており、一辺5.8mの建物が復元できるとのことです。回廊は、塔の西側に礎石5個と北東隅の4個から、その規模が推測されています。中心伽藍は、西に塔が在ったことは間違いないのですが、金堂・講堂の配置が不明です。
また、所在地の周辺が崖のようになっており、現地形からは、南に門があったのかどうか、また門に接続する階段などが設けられていたのかも不明です。これらのことによって、東に門を持つなど、特異な伽藍配置であった可能性もあるのではないかと思われます。


明日香村埋蔵文化財展示室蔵
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出土・採取された瓦の内、素弁十一葉蓮華文軒丸瓦が創建時の瓦であるとされていますので、創建は飛鳥時代前半から中頃ではないかと考えられるようです。

この瓦は檜隈寺出土瓦とも類似しており、檜隈寺創建寺院と同時期の建立と考えられるようです。
定林寺の所在地や出土瓦から、東漢氏に属する平田氏の氏寺の可能性もあるようです。

写真の瓦は、飛鳥寺出土品です。



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橘寺

橘寺は、聖徳太子が勝鬘経を講読した際に起きた瑞祥を機に建てられたと伝承されますが、創建年代などの詳細は、考古学的には不明とされています。史料としては、『日本書紀』天武天皇9(680)年条に「橘寺尼房失火、以焚十房」が初出になります。この頃には、ある程度の伽藍が完成しており、創建当初の橘寺は尼寺であったと考えられています。

奈良時代には、川原寺南門と正対するように橘寺には北門が設置され、僧寺の川原寺に対して、尼寺である橘寺が整備されたと考えられています。これらの整備には、聖徳太子信仰に熱心であった光明皇后や橘寺の善心尼が大きな力となったと思われます。前回定例会でも説明がありましたが、嶋宮の御田が橘寺に施入されたのもこの時期です。

橘寺の発掘調査は、昭和28年以降に21回行われており、当初、東に向いた四天王寺式伽藍配置であるとされました。ところが、後半の発掘調査で講堂跡の北東外側に西面が揃う凝灰岩の地覆石の石列が検出され、この石列が回廊跡の一部だとすると、回廊が金堂と講堂の間で閉じていた可能性が高くなります。講堂を回廊の外側に配置する伽藍様式を、山田寺式伽藍配置と呼びます。橘寺も山田寺式伽藍配置の可能性が出てきました。ただ、検出された石列が短く、あまりにも講堂跡に近接しているために、回廊が金堂と講堂の間を通っていたとするには、更なる考古学的検証が必要なようです。


橘寺旧伽藍図
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橘寺の塔は、地下式の心礎で、基壇面の下 1.2mにあります。塔心礎の心柱穴は、直径約0.8mで、添え柱穴が三ヶ所作り出されています。このような様式は、野中寺や若草伽藍などのものが知られますが、地下式心礎と共に古い様式であると考えられます。創建当時の塔は、推定の高さ36mの五重塔として復元が出来るようです。また、塔内の荘厳には磚仏が用いられていたとされています。


塔心礎比較図
塔の心礎の位置について、考えてみます。これまで見てきた寺院の塔心礎は、地下式だと書いてきました。「地下式・半地下式・地上式」というのは、心礎位置の基壇上面からの深さをいいます。これらの様式の変遷は、6世紀末の飛鳥寺の「地下式」から、7世紀中頃の山田寺などの「半地下式」へと移行し、7世紀末の薬師寺や大官大寺の基壇面上に置かれる「地上式」が最終形体であると考えられています。時代によって移っていくこの心礎の深さは、建立年代を読み解く基準にもなっています。

出土する瓦は、素弁蓮華文軒丸瓦(花組)や山田寺式単弁軒丸瓦、川原寺式複弁軒丸瓦などがあります。これらのことから、金堂は7世紀前半、塔を7世紀中頃の造営開始と考えることが出来るようです。



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川原寺

川原寺は、北面大垣の検出で南北長約300mと飛鳥寺に匹敵する規模を誇る巨大寺院であったことがわかってきました。しかし、造営や発願の経緯については史料が無く、詳細は不明なところが多く残ります。川原寺が正史に登場するのは、『日本書紀』天武天皇2(673)年条「初めて一切経を川原寺に写す」という記事になります。写経の量から、当時の川原寺は、かなりの僧侶などの人員を収容できる規模を持っており、伽藍も整っていたのではないかと考えられるようです。



川原寺の伽藍様式は、一塔二金堂になっており、中金堂に繋がる回廊が西金堂と塔を取り囲みます。また、北に講堂があり、その三方を僧房が巡ります。このような様式を川原寺式伽藍配置と呼びます。
川原寺は、さらに西側に渡廊と呼ばれている回廊が続いているのですが、全容は解明されていません。

川原寺 寺域図

川原寺式伽藍配置のお寺としては、南滋賀廃寺や太宰府の観世音寺などが知られ、天智天皇に深く関連を持つ寺院が挙げられます。また、塔心礎に埋納されていた無文銀銭の存在などからも、天智天皇との繋がりが見えてきます。
そのようなことからも、川原寺は、斉明天皇の川原宮の故地に、天智天皇が母の菩提を弔うために建立したと考えられています。


川原寺跡 出土品
2005.2.
出土瓦には、創建期の瓦として、複弁蓮華文軒丸瓦が使用されていたと考えられますが、複弁の瓦の最初の例となり、以降、複弁が瓦当文様の主流をなすようになります。この複弁の瓦は川原寺式と呼ばれています。



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川原寺裏山遺跡

川原寺旧境内の裏山から磚仏などが採集されたことが引き金となって発掘調査が行われ、丘陵の南側斜面に長径約4m、短径3m、深さ約2mの楕円形の穴を掘り、その中に火災にあった寺院の仏像や荘厳具などを埋納していたことが分かりました。

川原寺は、鎌倉時代に焼失しますが、9世紀にも大火災に遭っており、再建に向けて壊れた仏像は集められ、西北の山裾に埋められました。それが 川原寺裏山遺跡です。多くの出土遺物が確認されており、方形三尊磚仏は千数百点、塑像は数百点におよび、金銅製金具など仏教関連の遺物も出土しました。 遺物は、火災による熱を浴びている物がほとんどだったようです。

出土した塑像には、如来形・菩薩形・天部等の部分があり、丈六仏像の断片らしい指や耳の破片も多量の螺髪とともに出土しています。出土したものの中でも、特に天部の頭部の塑像断片や迦楼羅像は、美術的にも価値のあるものだとされています。

明日香村埋蔵文化財展示室蔵
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川原寺の焼失については、藤原兼実の日記である『玉葉』にも記事があり、建久二年(1191年)に興福寺の使僧が川原寺焼失を上申したことが記されているようです。この火災は川原寺の二度目の大火災となり、発掘調査の結果、この建久の火災は伽藍全体に及ぶ大火であったようです。


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飛鳥京

川原寺から東に飛鳥川を渡ると、飛鳥宮域に入ります。現在の道路から北には、飛鳥宮の南門があり、諸施設が続きます。また、南側には、「エビノコ郭」と呼ばれる飛鳥宮に付属する区画がありました。


エビノコ郭

通常「エビノコ郭」、建物を「エビノコ大殿」と呼びますが、これは遺構の所在する小字の名前をとったもので、飛鳥宮の東南に在ることから「東南郭」と呼ばれることもあります。この区画の面積は、東西約95m、南北約60mで、その中央付近に9間(29.2m)×5間(15.2m)の大型建物が建っていました。
この建物は、飛鳥宮跡では最大の規模を誇っています。建物の周辺には石敷きが施されていました。また、調査結果からこの建物は、四面庇付の高床建物で入母屋造に復元されます。これらのことから、正殿的な性格を持った建物だと判断されています。


エビノコ大殿イメージイラスト

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飛鳥宮跡マップ




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飛鳥宮重層説明図1


Ⅰ期、Ⅱ期の宮域は正確ではありません。Ⅱ期の宮域は、第17回定例会講師 山田隆文先生の地形観察による推定域です。


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飛鳥宮重層説明図2



これまでの発掘調査で、宮跡は3層4期に区分されて考えられます。最上層のⅢ期は更に二つに区分され、Ⅲ期AまたはBと表記されます。

I期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630~636)、Ⅱ期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643~
655)、Ⅲ期Aは斉明天皇の後飛鳥岡本宮(656~667)、Ⅲ期Bは天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672~694)に該当すると推定されています。

Ⅲ期A・Bの区分は、Aが内郭だけであったのに対して、Bはエビノコ郭や外郭を持つ点にあります。その新設に伴う変更が、内郭でも若干行われたようです。現在、目にすることが出来る井戸遺構や建物跡は、共にⅢ期の遺構ということになります。


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飛鳥宮Ⅲ内郭の建物


内郭の中心線上に在る建物の最も南には、南門があります。東西5間、南北2間で、両側に掘立柱塀が続きます。南門の南には、儀式の場としての石敷広場の存在も想定されます。

南門の北には、前殿と呼ばれる建物が存在しました。東西7間、南北4間で、4面に庇を持っています。建物の周辺には石敷きが巡り、南では更にバラス敷の空間が広がっていました。また、北には幅3mの石敷通路が伸びています。天皇が儀式のために前殿に向かうための石敷通路とも考えられています。

前殿の東には、二つの掘立柱塀を挟んで、2棟の掘立柱建物があります。床束なども検出されているために、床張りの建物だとされています。規模は、南北10間、東西2間です。朝堂とする説もありますが、違うとする説も多くあります。

前殿の北には三本の東西掘立柱塀があり、内郭の南北を分けています。公的な空間と私的な空間を分けるものだとも考えられます。

その塀の北側では、二つの同規模の大型建物が検出されています。東西8間、南北4間の規模で、南北に配置されています。建物は、南北に庇を持つ切妻の建物に復元されるようです。
調査では階段の跡も検出されており、床の高さは約2mと推定され、高床建物であったことがわかっています。
2棟の大型建物には、それぞれに東西3間、南北4間の建物が東西両側に配置され、南北2間の廊状の建物で繋がっていました。Ⅲ期Bになって、南の建物の西の小殿が廃され、池に改作されています。


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飛鳥宮跡苑池遺構

苑池遺構は、全体で南北約200m、東西80mに及ぶ大きな規模で、渡堤によって南北の池に分けられ、北には排水路が伸びています。

南池は、曲線と直線を組み合わせた形状をしており、石敷きの池底と石組みによって護岸されています。池の導水には、大正年間に発見された「出水の酒船石」を含めて4石が組み合わされて噴水状の施設が作られていたようですが、これは視覚的な装置のようで、この大きな池の水量をまかなうには湧水が利用されていたと考えられます。

池の中には中島と石積みされた半水没する島状の遺構がありました。また、中島では、松の根が検出されており、他にも水生植物(蓮など)が植えられていた可能性が高いとのことです。これらのことから、視覚的な要素の強い池であったように思われます。また、桃や梨や梅などの種や実も出土していますので、庭園として利用されていたことが伺えます。

北池は、これまで南池の水位調整用のプールだと考えられていましたが、直近の調査により、水面に近づくことが出来る階段や砂利敷・石組溝が検出され、単なる貯水池ではないと考えられるようになってきました。
北池の先に続く排水路からは、ブリやスズキなど海で捕れる魚類の骨がまとまって出土しています。ブリには切り身にした時の傷跡も残っていたと発表されています。他にもボラやスズキ・アジなどの骨があり、水路からは、合計57点の動物骨が確認されています。飛鳥時代の宴席が想像以上に豊かであったことが分かってきました。
(左図は、苑池北池の最新発掘成果)

飛鳥京苑池遺構は、『日本書紀』天武天皇14年11月6日「白錦後苑におでましになった。(原文:幸白錦後苑)」とあります。この「白錦後苑」が飛鳥京苑池であるとする説や、「幸す」は遠くにお出ましになる時の用語だとして、別の庭園とする説があるようです。


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木ノ葉堰

飛鳥京跡苑池遺構から飛鳥川沿いを進みます。この付近には、現在も飛鳥川に造られた堰があるのですが、古代においても同様に堰が設けられていたようです。「木ノ葉堰」と呼ばれていますが、用水は飛鳥寺西方から石神遺跡を通り、八釣から流れ出る川と合流して香久山西方に流れてゆきます。


弥勒石

近在の方の信仰を集め、親しみを込めて「ミロクさん」と呼ばれています。下半身の病にご利益があるとかで、祠にはたくさんの草鞋が奉納されています。お姿は大きな丸みのある角柱形の石ですが、素朴な彫りで顔が刻まれています。信仰とは別に考えると、先ほどの「木ノ葉堰」の水門などの施設に用いられていた石材の一部とする説があります。また、橋脚の一部とする説や、条理制の境界を示すものとする考えもあるようです。

大和名所記・飛鳥古跡考(宝暦元年:1751)には、弥勒石は道場塚と呼ばれていた所に在ったと書かれており、この「道場(人物名)」をめぐる逸話が大変面白い話に繋がってゆきます。
 参考:「元興寺の鬼と弥勒石」 (飛鳥検定Ⅱ関連の風人レポート)


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槻の木の広場

飛鳥寺の西には「槻の木の広場」がありました。「槻」とは欅(ケヤキ)の古名です。ケヤキは巨木となるために、今でもしばしば天然記念物に指定されることもあり、また、巨木であることから神聖視されることもあります。注連縄の張られた古木をご覧になった方も多いのではないでしょうか。飛鳥時代にも同様の意識があったのではないかと思います。万葉集の巻11-2656には、次のような歌があります。

 天飛ぶや 軽の社の 斎ひ槻 幾代まであらむ 隠り妻ぞも 

斎槻(ゆつき)とは、神聖な槻の木のことを意味します。まさに、槻の木の広場の槻の大木は、斎槻であったのではないでしょうか。皇極4年には、槻の木の下で孝徳天皇、皇極前天皇・中大兄皇子らは臣下を集めて、忠誠を誓わせました。この木が神聖なものであったからなのでしょう。
槻の木の広場は、壬申の乱に際しては軍営が置かれていました。また、天武・持統朝では、種子島や隼人・蝦夷らをこの広場で饗応した記事が頻出します。饗宴施設が石神遺跡から槻の木の広場に場所を移したのかも知れません。
槻の木の広場は、これまでに度々発掘調査が行われており、飛鳥寺西方遺跡の名称で呼ばれます。

飛鳥寺西方遺跡図


第25回定例会の講師:大西貴夫先生が担当されていた飛鳥寺西方遺跡の調査区からは、飛鳥寺西門に続くと思われる石敷が検出され、槻の木の広場を通る飛鳥寺西参道ではないかと考えられました。
現在(9月23日)、明日香村教育委員会が昨年の調査区の南を発掘調査しています。



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石神遺跡

石神遺跡について、皆さんが思い出されるのは、まず飛鳥資料館で見ることが出来る「石人像」や「須弥山石」と呼ばれる噴水装置ではないかと思います。そして、それらが石神遺跡の石敷き広場に置かれ、遠来の使者を饗応する施設として用いられたとされることでしょう。
石神遺跡は、飛鳥寺の北西、水落遺跡の北に位置しています。21次にわたる調査の結果、石神遺跡の規模は、南北180m、東西130mに及ぶことが分かりました。

石神遺跡参考図

(図は、A期の遺構を描き込んでいます。)

西の限りは、飛鳥川の右岸に沿う道路から一段高くなっているところだと推定されています。南側は、飛鳥寺の北限遺構に沿う道路があり、その北に藤原宮大垣に匹敵する基壇上に建つ東西掘立柱塀遺構が検出されており、それが南限だと考えられています。東限は、20次、21次調査において門と塀の遺構が検出され、その東に道路と思われる遺構も検出されたことから推定されました。北限は、第13次調査で二本の東西溝に挟まれた塀遺構が検出されていることと、その場所で地形が北に向かって一段落ち、その北側では沼沢地となることから判断されています。

石神遺跡は、飛鳥時代に何度も造成・建て替えを行いながら、土地利用が続けられたと考えられています。ここでは、3期に区分(更に細区分される)されるとして説明します。

A期は、7世紀前半~中頃に相当する時期区分です。斉明天皇の饗宴施設だとされる時代を含んでいます。これまで、その斉明期である7世紀中頃に石神遺跡の活発な土地利用が始まったと考えられてきましたが、21次調査によって、それに先行する瓦葺の建物があった可能性が高まりました。これによって未解明のA期前半の様相にも新たな興味が持たれます。

B期は、7世紀後半です。天武天皇の時代になり、A期の建物は撤去され造成された後、飛鳥浄御原宮の官衙的な性格を帯びた南北棟建物群が遺構全体にわたって造られたと考えられているようです。北に広がる沼沢地は埋められ、南北溝・東西溝が造られました。この時期に大きな土地利用の変革があったようです。

C期は、7世紀末~8世紀初頭の藤原京が存在した時代区分になります。B期の建物を解体した後、塀で区画された藤原京の官衙群と同じ建物配置を持つ建物群が造られます。藤原京の役所の一部がこの地に置かれたと推測されています。

石神遺跡から出土する大量の木簡や様々な木製品などは、B・C期の物が多く、これらの時期の建物遺構が官衙的な性格のものであったことを裏付けているように思います。


新羅式土器

奥山廃寺式軒丸瓦
明日香村埋蔵文化財展示室蔵
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石像物をはじめとして石神遺跡からの出土遺物を見てみると、極めて重要な木簡類が大量に出土しています。ノコギリや扇や定規も出土しています。鉄製の鏃、新羅式の土器や東北地方独特の特徴を持つ黒色土器の出土もありました。
さらに、21次調査でも話題になりましたが、3次・4次調査などでも出土例がある奧山廃寺式の瓦群があります。
石神遺跡21次調査では、瓦を使った建物が存在した可能性が新たに出てきました。それは、斉明天皇の饗宴施設に先行する仏教関連施設であった可能性が高いとされています。
また、石神遺跡=中大兄皇子邸宅説や、天武天皇の時代の建物群は小墾田兵庫ではないかという相原嘉之先生のご指摘もあります。



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奥山廃寺

現在の寺の境内に入ると塔跡に鎌倉時代に造られた十三重石塔が目に入ります。そのために、四天柱礎が寄せられていますが、側柱はほぼ元位置を保っています。付近から山田寺式軒瓦が多く出土することから、塔はこれを用いて7世紀後半頃に建立されたとされています。また、基壇内部に7世紀前半代の瓦・土器などが多く混入している為、7世紀前半に別の建物があった可能性もあるようです。

金堂は、塔の北側で(現在の本堂から北東にかけて)東西23.4m・南北推定19.2mの基壇が発見されています。また、東北隣接地で落とし込まれた礎石二個が発見されたことから、講堂の位置もほぼ推定できるようです。西回廊が一部検出されたことで、回廊内の東西は66mであったと推定されています。

これらの発掘調査により、奥山廃寺は塔・金堂などが一直線に並ぶ、四天王寺式伽藍配置であったとされています。詳しい寺域は不明ですが、奥山久米寺本堂の南約130mの場所で、2度造り替えられた痕跡のある東西塀と8世紀までは機能していたと見られる東西道が検出され、これが寺域の南端であると考えられています。また、塔の北東125mで平安時代に廃絶した井戸跡がみつかり、この付近まで寺の施設が広がっていたと思われます。
金堂の創建に使用された瓦は、寺の名を冠した奥山廃寺式と呼ばれます。星組よりも精緻に割り付けられた蓮弁や丸みを帯びた中房の形態、製作技術などから星組よりも時代が幾分下る(620~630年頃)と考えられています。
この他には、星組・新羅系・船橋廃寺式、塔に使用されたとされる山田寺式などが出土しています。また、この奥山廃寺式の文様をもつ鬼板が、豊浦寺や平吉遺跡などで出土しています。



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