両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第28回定例会
彼岸花ウォーク:埋もれた古代を訪ねる2 と 飛鳥光の回廊参加

Vol.112(11.7.22.発行)~Vol.116(11.9.16.発行)に掲載





【1】 (11.7.22.発行 Vol.112に掲載)

 第28回定例会「彼岸花ウォーク 埋もれた古代を訪ねる2 と 飛鳥光の回廊参加」の咲読を始めます。5回の連載になりますので、よろしくお付き合いください。
 1回目の今号では、第28回定例会の開催趣旨なども説明させていただきます。

 両槻会は、小さなアマチュアのサークルです。4年半活動を続けられた要因の一つは、両槻会主催講演会を飛鳥資料館講堂にて行ってこれたことです。これは、ひとえに飛鳥資料館ならびに奈良文化財研究所のご支援の賜物に他なりません。
 第28回定例会は、そのご支援に少しでも報いたいと思うところから企画が始まりました。
 ウォーキングから定例会としますが、飛鳥光の回廊 飛鳥資料館会場のお手伝いをメインとさせていただきます。その点を、どうぞご了解ください。

 飛鳥光の回廊は、飛鳥に定着した一番大きなイベントになりました。近年は、彼岸花祭りと同日に行われ、昼は咲き乱れる真赤な絨毯を見ながらのウォーキング、夜は光の回廊と一日を通して明日香村が最も賑わいを見せます。

 飛鳥光の回廊の各会場は、毎年趣向を凝らせたキャンドルアートが作成され、また飛鳥時代から寺籍を継ぐ寺々は蝋燭の仄かな灯りに浮かび上がります。村を挙げての一大イベントは、村内の道路も蝋燭の灯りに縁取られ、まるで夢幻の世界へ誘う光の回廊のように見えます。
 他会場と少し離れていますが、飛鳥資料館の前庭は、飛鳥らしさにおいて他の会場に勝っているように思います。揺らめく蝋燭の灯りは、飛鳥の謎の石造物を一層神秘な物に見せ、幻想的な空間を演出しています。須弥山石は、飛鳥時代に遠方から都を訪れた使者を饗応した宴を再現し、酒船石は小さな水音を立てながら奇異で魅力的なシルエットを見せてくれます。
 そのような幻想的な空間を両槻会のスタッフ・参加者と共に、貴方も作ってみませんか。今回は、定例会とは別に、飛鳥光の回廊のお手伝いをしてくださる方の参加も歓迎します。両槻会事務局にお問い合わせください。

 第28回定例会に参加ご希望の方は、
  1:ウォーキングのみ参加     (午前10:34 ~ 午後3:00頃)
  2:カップ蝋燭の配置・点灯まで参加(午後4:00 ~ 午後7:00頃)
  3:消灯・撤収まで参加      (午後9:00 ~ 午後9:30頃)
  4:光の回廊のみ参加       (午後4:00 ~ 出来る範囲で)

 上記4つの中からご希望をお知らせください。
 夜間の作業をお手伝いくださる方は、ご希望により1,000円程度のお弁当の手配が可能です。事務局にご希望をお知らせください。

 さて、ウォーキングのご案内を始めます。
 今回のウォーキングテーマは「埋もれた古代を訪ねる2」です。両槻会では、観光コースを巡るのではなく、現状は水田や畑や住宅などになっている飛鳥時代の遺跡にも注目します。飛鳥へ来られて、地上に見るものが少ないと思われる方も多いと思いますが、面白いものは地面の下にあります。定例会では、その遺跡の面白さや概要をご案内したいと思っています。
 新聞のTOPページを飾るような大発見であっても、後に訪ねると埋め戻され遺跡の所在地が分からないことが多々あります。だから景観が保たれているとも言えるのかもしれませんが、予備知識の無い方にはハードルを高くしていることも事実です。
 だからと言って、地上に建物などを復原するのは、風人はどうかと思っています。復原した物は、どこか必ず安っぽく、軽い物となってしまいますし、景観も壊されます。出来るだけ長閑な今の風景が、緩やかに変化していって欲しいものです。

 そのためには、飛鳥地域に興味をもたれた方々に、埋もれて一般的には所在の分からなくなった遺跡を案内することがとても大事ではないかと思っています。田んぼの前に立ち、ご案内する姿は奇妙かもしれませんが、だからこそ面白いと思っていただければと思います。

 飛鳥駅前 → 檜隈寺跡 → 栗原 → 立部 → 定林寺跡 → 橘寺 → 川原寺跡 → 飛鳥浄御原宮(エビノコ郭 → 正殿跡) → 飛鳥京苑池遺跡 → 弥勒石 → 入鹿首塚 → 飛鳥寺跡 → 石神遺跡 → 飛鳥資料館 
 総距離約8kmです。コースは、彼岸花の多い地点を巡るように選びました。稲渕の棚田には行きませんが、明日香村の彼岸花スポットを網羅していると思います。黄色く稔った稲穂を縁取るレッドラインをご覧いただけるでしょう。



【2】 (11.8.5.発行 Vol.113に掲載)

 第28回定例会に向けて、咲読の2回目です。1回目では、この定例会の開催趣旨を書かせていただきました。今回からは、ウォーキングルートについての案内を始めようと思っています。まずルートマップを御覧ください。


より大きな地図で
第28回定例会 彼岸花ウォーク:埋もれた古代を訪ねる訪ねる2 ウォーキングコース を表示

 簡単にルートマップの見方を説明します。画面の右上のタブで、地図や航空写真などを切り替えることができ、また左サイドのバーで縮尺を変えることができますので、様々な見方で御覧ください。
 青色のポイントアイコンは、今回訪れる主な遺跡を示しています。緑色のポイントアイコンは、ルート上や付近にある関連遺跡や両槻会主催講演会で学んできた遺跡を示しました。そして、ピンクのポイントアイコンは、ルート上にある彼岸花の見所を示しています。ポイントアイコンをクリックすると、遺跡名が表示されます。また、左サイドを開けていただくと、遺跡名から所在地を示すことができますので、ご利用ください。

 第28回定例会は、「彼岸花祭り」に合わせて開催しますので、タイトルにも「彼岸花ウォーク」と付けています。花期は毎年微妙にずれますが、彼岸の頃を中心に咲くことには間違いがありません。両槻会は普段の行いが良いので、きっと満開に咲き誇る彼岸花を見ながらのウォーキングになることでしょう。(笑) 

 飛鳥で彼岸花というと、近年NHKなどでも欠かさず放映されますので「稲淵の棚田」が有名になりましたが、量そのものでは檜前地域が最も多いのではないかと思います。現在、キトラ古墳周辺の公園化に伴って工事が行われていますので、咲き具合が変わってきていますが、それでもなお赤い絨毯のように咲く彼岸花は、稲渕の棚田を圧倒するように思います。
 撮影時期が花期の終わりに近かったので鮮やかさが失われていますが、昨年の檜隈寺周辺の彼岸花の写真を御覧ください。クリックで拡大します。


 写真の中に発掘現場が写っているのが、なんとも飛鳥らしい光景です。1枚目と3枚目に写る森が檜隈寺跡のある於美阿志神社の森になります。この森の中にも、たくさんの彼岸花が咲き、神社や遺跡を絡めた写真の撮影ポイントになりますので、ぜひお気に入りのアングルを探してください。檜隈寺に関する案内は、次号に予定しています。

 檜隈寺跡から南に檜前遺跡群を眺め、次に栗原地区に入って行きます。ここでは、呉原寺跡(栗原寺跡)などをご案内するほか、飛鳥で最も可愛い石仏をご紹介します。


 小さなお地蔵さまですが、非常に可愛いお顔をされています。昔からここに居られるのか、右岡寺(右 於か寺)と記されており、道標の役目も負っていらっしゃったようです。どなたかが供えたのか、この日は彼岸花が一輪色を添えていました。

 稲渕の棚田にも抜けられる農免道路を横切り、文武天皇陵を東から見て、立部の集落に入って行きます。風人は、この辺りの景色が好きで、よく写真を撮っていました。のどかで、のんびりと散策するには最適のコースです。

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 立部にも彼岸花が密集する所があります。

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 ご覧の通り、花期の終わりに訪ねたのですが、まだまだ綺麗でした。定例会では、真っ盛りであることを願っています。

 ここを過ぎると定林寺跡への道がありますが、今回は夏草の繁茂する時期でもありますので、境内には入らず、太子の湯・健康福祉センター前から案内をする予定です。
 橘の集落の路地を通って、橘寺を目指します。橘寺西の旧境内辺りでは、地形の変化なども注意していただければと思っています。最近、近鉄の電車や駅に橘寺西門のポスターが貼られていますので、ご覧になった方も多いと思うのですが、ちょうどその写真の方向から私たちは橘寺に進むことになります。

 橘寺では、彼岸にのみ公開される寺宝を拝観する他に、往生院にてミニ講座の聴講を予定しています。両槻会スタッフと橘寺は、会の立ち上げ以前から仲良くしていただいており、初期の定例会を橘寺で開催したこともありました。今回も特別な計らいを受けまして、橘寺をタップリと味わいたいと思っています。
 彼岸花の咲く頃、北にある川原寺方向から橘寺を撮った写真をよく御覧になると思います。飛鳥の定番写真スポットですね。けれど、それだけでは決してありません。

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 珍しい形の塔心礎にたまった水に映る彼岸花は如何でしょうか。また、ちょうどこの頃、橘寺では酔芙蓉が盛りになります。丹精こめて育てられた酔芙蓉の花も、是非ご覧いただければと思います。

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 昼食休憩を終えると、東門から川原寺跡に出ます。前号で書きました川原寺裏山遺跡を含めて、少しですが案内をさせていただきます。そして、いよいよ飛鳥京の中心に入って行きます。

 両槻会では度々訪れていますが、エビノコ郭に寄ります。見ても何があるわけではありませんが、遺跡の位置確認は大事なことだと思っています。「埋もれた古代を訪ねる」の真骨頂ですね。郵便局の北側から朝堂?とも言われる建物跡に入り、飛鳥宮の南門・前殿・内閣正殿と案内をしてゆきます。時間があれば、重層する諸宮の話もしたいと思っています。

 吉野川分水路に架かる橋の辺りから飛鳥京苑池遺構に向かいます。当日は、新たな発掘調査が始まっているかもしれません。苑池を南から飛鳥川に沿って回り込みます。

 この辺りから弥勒石を通り飛鳥寺に至る農道付近も彼岸花が多く、稲穂と彼岸花のレッドラインがとても綺麗な一帯です。面倒ですが、リンクを飛んで写真を御覧ください。

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 木の葉堰や弥勒石について、楽しい話を準備していますので、お楽しみにしてください。
 また、飛鳥寺西方遺跡や入鹿首塚の案内もしたいと思います。

 飛鳥寺北限・石神遺跡を案内した後、最後の彼岸花ポイントを紹介します。明日香村で最初にレッドラインが作られる石神遺跡の彼岸花です。

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 私たちは、彼岸花が一斉に咲き始めて畦を埋めた状態のことをレッドラインと表現しています。黄色くなり始めた水田を囲うように、この石神のレッドラインが伸びると、飛鳥の彼岸花は見頃を迎えます。

 第28回定例会では、飛鳥の彼岸花は、どのような姿を見せてくれるでしょうか。楽しみですね。

 次号からは、訪ねます各遺跡の内、幾つかをピックアップして案内を始めたいと思います。 



【3】 (11.8.19.発行 Vol.114に掲載)

 第28回定例会に向けて、咲読の3回目です。
 最初に、前号での誤字を訂正します。咲読の4分の3程のところです。「飛鳥宮の南門・前殿・内閣正殿と案内をしてゆきます。」の文中「内閣正殿」は、「内郭正殿」の誤りです。すみません。m(__)m

 今回からは、ウォーキングで訪れる遺跡・史跡の幾つかをピックアップして、紹介していくことにします。まず、最初は檜隈寺跡(於美阿志神社)を案内したいと思います。

 「ヒノクマ」は古代地名として書くときには「檜隈」と書きますが、現在地名として書くときには「桧前」と書きますので、その辺りの使い分けも覚えていただければと思います。飛鳥近辺では、このような地名表記に注目されるのも面白いと思います。例を挙げると「大原」・「小原」、「香具山」・「香久山」、などがあります。

 まず、古代檜隈の範囲を考えてみます。天武持統陵が「檜隈大内陵」、欽明天皇陵が「檜隈坂合陵」と呼ばれることから、両天皇陵を現比定地と考えれば、二つの御陵を結ぶ丘陵を北端と考えて良いのではないかと思います。南端は、高取町清水谷遺跡付近とされているようです。東西は先にも書きました檜隈大内陵を東端とし、高取川を西端として、これらに囲まれた地域を「檜隈」と考えて良いと思います。

 さて、檜隈寺跡にある於美阿志神社ですが、東漢氏の祖・阿智使主(あちのおみ)夫婦を祭神とします。明治40年7月に、社務所西方の低地から現在地に移築されています。
 『日本書紀』応神20年9月条、「倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖である阿智使主と、その子都加使主(つかのおみ)が、自己の党類十七県を率いて、来帰した。」という記事があり、社名の於美阿志(おみあし)は、阿智使主(あちのおみ)が転化したものと考えられます。

 東漢(やまとのあや)氏は、幾つもの小氏族で構成される複合氏族だと考えられます。相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまりを持っていったのだとされています。韓半島の南部の安羅を本拠とする者達であったとされていますが、元々は帯方郡に居住した漢民族であった伝承を持っているために「漢」の字を使ったとする説もあるようです。なお、河内に住み着いた彼らを西漢(かわちのあや)氏と呼びます。

 檜隈寺は、東漢氏の一端をになう檜隈氏の氏寺だとされていますが、『日本書紀』朱鳥元(686)年の記事(檜隈寺・軽寺・大窪寺に、それぞれ食封百戸を三十年に限って賜った。)以外には正史に登場せず、史料からは詳細はほとんどわかりません。

 現在、檜隈寺跡には、金堂、講堂、中門、塔の基壇が残っていますが、これらの造営時期は、出土した瓦の年代から7世紀後半から藤原宮期(8世紀初頭)にかけてと考えられています。また、7世紀前半から中頃にかけての瓦も出土していることから、伽藍の整った寺院が建立される以前に、前身となる寺院あるいは仏堂が存在していたと考えられています。
 前身寺院とその周辺の状況については、「遊訪文庫」に収録しています「7世紀前半の檜隈寺の様相 -第156次調査から-(発掘担当者執筆)」を参照してください。
 
 檜隈寺は、南西に門を持つ特異な伽藍配置をしています。


 高取山から派生する尾根の末端近くに築造されており、伽藍配置はその地形に影響されたものと思われます。しかし、造営に際しては、大規模な造成工事が行われており、痩せた尾根上に最大限の面積を確保するための努力が続けられたことが分かってきました。
 檜隈寺跡に関しては、こちらを参照してください。

 檜隈寺は、瓦積基壇や半地下式で排水溝が彫られた塔心礎の存在、また出土した「火焔紋入単弁八葉蓮華紋軒丸瓦」から、渡来系氏族が建立した寺院であるとされてきましたが、近年の発掘調査で、L字型かまどや、それを用いた掘立柱建物の埋土から出土した「7世紀前半の朝鮮半島の造瓦技術を用いた軒丸瓦」の存在は、檜隈寺は渡来系氏族が建立した寺院であることを一層裏付ける資料であると言えます。

 現在、檜隈寺跡の南に谷をひとつ越えた丘陵上には、「檜前遺跡群」と称される遺跡があります。そこからは、掘立柱建物跡12棟、掘立柱塀3条、床束建物跡2棟、間仕切建物跡2棟、庇付き建物跡2棟、大壁建物1棟など7世紀半ばから8世紀前半の建物跡が多数検出され始めています。また、檜前上山遺跡・御園アリイ遺跡・檜前門田遺跡など、周辺部では掘立柱建物跡が検出されている場所があり、東漢氏の居住地域の一つだったのかもしれません。

 さて、檜隈野と呼ばれる地域には、もう一つ古代寺院がありました。「呉原寺」です。書物や史料によっては「栗原寺」と書かれているものもありますが、桜井市に在る「粟原寺」と字面が似ているために混同されやすく思いますので、ここでは古代地名の「呉原」と書くことにします。名は「竹林寺」とも呼ばれるそうです。

 呉原寺跡は、檜隈野の東の端、大字稲渕とを分ける丘陵の西麓にあります。大字栗原の集落の一つ北の谷筋になるのですが、比較的広い面積をもった造成地のような地形が、東西に緩やかな棚田状に続いています。呉原寺の主要伽藍は、この谷筋に西に向いて造営されたのではないかと思われます。

 谷筋の西端の辺りには、「呉原寺西大門」と呼ばれる地名があり、一部発掘調査が行われていますが、建物などの顕著な遺構は発見されていません。しかし、先に檜隈寺のところで触れました「火焔紋入単弁八葉蓮華紋軒丸瓦」が出土しています(他にも軒丸瓦4点、軒平瓦1点)。これらにより、檜隈寺との強い繋がりが感じられ、また創建年代が7世紀中頃に遡る可能性が考えられます。
 主要伽藍の存在が想定される谷筋の北側の丘陵からも、瓦や礎石が出土しており、地形の観察などからも、丘陵上にも礎石立建物の存在が考えられています。食堂や僧坊などかもしれません。

 呉原の地名は、『日本書紀』雄略天皇14年春正月・及び三月条に「身狭村主青らが、呉国の使者とともに、呉の献上した手末(たなすえ)の才伎(てひと)である漢織・呉織および衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、・・・中略・・・、三月に、呉人を檜隈野に置いた。そこで呉原と名付けた。」と書かれています。また、これらの記事からは、東漢氏が「今来才伎」の招聘に大きく関わっていたことがわかります。

 また、『清水寺縁起』には、「先祖従三位駒子卿が敏達天皇のために建立した」としており、『大和国竹林寺別当譲状案』には、「崇峻天皇辛亥年に坂上大値駒子が建立した」としています。坂上駒子を東漢駒だとすると、『日本書紀』では天皇を暗殺した悪党のイメージが強いのですが、坂上氏は東漢氏の有力氏族で、平安時代に活躍する坂上苅田麻呂・田村麻呂を子孫に持ちます。彼らの隆盛が、呉原寺を10世紀初めまで存続させたものと思われます。

 続いて、栗原にある石仏や文武天皇陵を見ながら立部・橘へ進む予定です。

 立部の集落の北の外れに、古代寺院跡があります。「立部寺」とも「定林寺」とも呼ばれますが、史跡としては定林寺跡で登録されているようですから、咲読では「定林寺」で書きたいと思います。

 「定林寺」は、『聖徳太子伝暦』や『太子伝私記』によると太子建立七ケ寺の一つとされます。現在の定林寺の西奥(小字奥の堂)を中心にして、今に残る基壇を見ることが出来ます。ただ、今日までに発掘調査が行われたのは一部に限られており、その全容は謎に包まれたままになっています。


定林寺遺構図

 発掘されたのは、塔と回廊の基壇と礎石、北面回廊の中央の基壇北西隅だけになります。
 塔跡は、一辺12.7mの基壇の上に、一辺11.2mの基壇が乗る二重基壇で、基壇面から2mの地下に心礎がありました。基壇上面には、5個の礎石が残っており、一辺5.8mの建物が復元できるとのことです。
 回廊は、塔の西側に礎石5個と北東隅の4個から、その規模が推測されています。中心伽藍は、西に塔が在ったことは間違いないのですが、金堂・講堂の配置が不明です。

 また、所在地の周辺が崖のようになっており、現地形からは、南に門があったのかどうか、また門に接続する階段などが設けられていたのかも不明です。これらのことによって、東に門を持つなど、特異な伽藍配置であった可能性もあるのではないかと思われます。

 出土・採取された瓦の内、単弁十一葉蓮華文軒丸瓦が創建時の瓦であるとされていますので、創建は飛鳥時代前半から中頃ではないかと考えられるようです。

 橘の集落を抜けて、西門から橘寺に入ります。橘寺では、執事古賀野さんのミニ講座を予定していますので、咲読では考古学的な案内を中心に書こうと思いす。

 橘寺は、聖徳太子が勝鬘経を講読した際に起きた瑞祥を機に建てられたと伝承されますが、創建年代などの詳細は考古学的には不明とされています。史料としては、『日本書紀』天武天皇9(680)年条に「橘寺尼房失火、以焚十房」が初出になります。この頃には、ある程度の伽藍が完成しており、創建当初の橘寺は尼寺であったと考えられています。

 奈良時代には、川原寺南門と正対するように橘寺には北門が設置され、僧寺の川原寺に対して、尼寺である橘寺が整備されたと考えられています。これらの整備には、聖徳太子信仰に熱心であった光明皇后や橘寺の善心尼が大きな力となったと思われます。前回定例会でも説明がありましたが、嶋宮の御田が橘寺に施入されたのもこの時期です。

 橘寺の発掘調査は、昭和28年以降に21回行われており、当初、東に向いた四天王寺式伽藍配置であるとされました。ところが、後半の発掘調査で講堂跡の北東外側に西面が揃う凝灰岩の地覆石の石列が検出され、この石列が回廊跡の一部だとすると、回廊が金堂と講堂の間で閉じていた可能性が高くなります。講堂を回廊の外側に配置する伽藍様式を、山田寺式伽藍配置と呼びます。橘寺も山田寺式伽藍配置の可能性が出てきました。
 ただ、検出された石列が短く、あまりにも講堂跡に近接しているために、回廊が金堂と講堂の間を通っていたとするには、更なる考古学的検証が必要なようです。

伽藍比較図
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 塔について、少し触れたいと思います。橘寺の塔は、地下式の心礎で、基壇の下1.2mにありました。塔心礎の心柱穴は、直径約0.8mで、添え柱穴が三ヶ所作り出されています。このような様式は、野中寺や若草伽藍などのものが知られますが、地下式心礎と共に古い様式であると考えられます。創建当時の塔は、推定の高さ36mの五重塔として復元が出来るようです。また、塔内の荘厳にはセン仏が用いられていたとされています。


塔心礎比較図
 ここで、檜隈寺や定林寺の記事を思い起こしてください。塔心礎は、地下式だと書いてきました。「地下式・半地下式・地上式」というのは、心礎位置の基壇上面からの深さをいいます。これらの様式の変遷は、6世紀末の飛鳥寺の「地下式」から、7世紀中頃の山田寺などの「半地下式」へと移行し、7世紀末の薬師寺や大官大寺の基壇面上に置かれる「地上式」が最終形体であると考えられています。参考図を御覧ください。変遷がよく分かると思います。
 時代によって移っていくこの心礎の深さは、建立年代を読み解く基準にもなっています。

 出土瓦はどうでしょうか。出土する瓦は、素弁蓮華文軒丸瓦(花組)や山田寺式単弁軒丸瓦、川原寺式複弁軒丸瓦などがあります。これらのことから、金堂は7世紀前半、塔を7世紀中頃の造営開始と考えることが出来るようです。

  橘寺の東門から、川原へと向かいます
 川原寺は、北面大垣の検出で南北長約300mと飛鳥寺に匹敵する規模を誇る巨大寺院であったことがわかってきました。しかし、造営や発願の経緯については史料が無く、詳細は不明なところが多く残ります。川原寺が正史に登場するのは、『日本書紀』天武天皇2(673)年条の「初めて一切経を川原寺に写す」という記事になります。写経の量から、当時の川原寺はかなりの僧侶などの人員を収容できる規模を持っており、伽藍も整っていたのではないかと考えられるようです。

 川原寺の伽藍様式は、一塔二金堂になっており、中金堂に繋がる回廊が西金堂と塔を取り囲みます。また、北に講堂があり、その三方を僧房が巡ります。このような様式を川原寺式伽藍配置と呼びます。川原寺は、さらに西側に渡廊と呼ばれている回廊が続いているのですが、全容は解明されていません。僧房が別の寺域にも伸びていたのかも知れませんね。

川原寺寺域図
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 川原寺式伽藍配置のお寺としては、南滋賀廃寺や太宰府の観世音寺などが知られ、天智天皇に深く関連を持つ寺院が挙げられます。また、塔心礎に埋納されていた無文銀銭の存在などからも、天智天皇との繋がりが見えてきます。
 そのようなことからも、斉明天皇の川原宮の故地に、天智天皇が母の菩提を弔うために建立したと考えられています。

 出土瓦には、創建期の瓦として、複弁蓮華文軒丸瓦が使用されていたと考えられますが、複弁の瓦の最初の例となり、以降、複弁が瓦当文様の主流をなすようになります。この複弁の瓦は川原寺式と呼ばれています。
 字数に制限があるため、ご案内できなかった部分につきましては、配布資料並びに当日に口頭でお話ししたいと思います。

 次回は、飛鳥京についてご案内します。



【4】 (11.9.2.発行 Vol.115に掲載)

 第28回定例会に向けての咲読も、4回目となりました。今号では、飛鳥宮跡をご案内する予定です。

 川原寺から東に飛鳥川を渡ると、飛鳥宮域に入ります。現在の道路は少し道幅は狭くなっているようですが、飛鳥時代の道路と重なっています。北には、飛鳥宮の南門があり、諸施設が続きます。また、南側には、「エビノコ郭」と呼ばれる飛鳥宮に付属する区画がありました。

 まずは、「エビノコ郭」から案内を始めます。通常「エビノコ郭」・「エビノコ大殿」と呼びますが、これは遺構の所在する小字の名前をとったもので、飛鳥宮の東南に在ることから「東南郭」と呼ばれることもあります。この区画の面積は、東西約95m、南北約60mで、その中央付近に9間(29.2m)×5間(15.2m)の大型建物が建っていました。この建物は、飛鳥宮跡では最大の規模を誇っています。建物の周辺には石敷きが施されていました。また、調査結果からこの建物は、四面庇付の高床建物で入母屋造に復元されます。これらのことから、正殿的な性格を持った建物だと判断されています。

エビノコ大殿イメージイラスト
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 『日本書紀』には、天武10(681)年2月、「天皇と皇后とは、ともども大極殿におでましになり、親王・諸王および諸臣を召して、・・・」の記載があり、大極殿という名称が初めて使用された事例になりますが、その大極殿に相当する建物が「エビノコ大殿」だと考えられています。現在は、何も無い明日香村役場の駐車場ですが、そこに飛鳥宮の大極殿をイメージすることが、飛鳥散策の楽しさであるように思います。両槻会では、そのようなイメージ作りのお手伝いをしたいと思っています。なお、上記の『日本書紀』の記事は、飛鳥浄御原令の制定を指示したものだと思われます。また、草壁皇子が皇太子に立ったのもこの日です。

飛鳥宮跡マップ
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 飛鳥宮跡は、複数の宮が重層していることは、すでにご存知のことだと思います。史跡名称として「伝飛鳥板蓋宮」となっているために、上層遺構を「飛鳥板蓋宮」と思われる観光客の方が多いのですが、史跡公園になっている井戸跡なども飛鳥宮の上層遺構に属しています。その辺りを初めに押さえておきたいと思います。

 第17回定例会関連資料集
 
飛鳥宮重層説明図1
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飛鳥宮重層説明図2

 これまでの発掘調査で、宮跡は3層4期に区分されて考えられます。最上層のIII期は更に二つに区分され、III期AまたはBと表記されます。まずは、該当する宮名を挙げていくことにします。

 I期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630~636)、II期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643~655)、III期Aは斉明天皇の後飛鳥岡本宮(656~667)、III期Bは天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮((672~694)に該当すると推測されています。
 推測などと微妙な表現になるのは、上層遺構の保存のために、下層遺構は本格的な調査が行われておらず不明な点を多く残すためです。

 III期A・Bの区分は、Aが内郭だけであったのに対して、Bは先のエビノコ郭や外郭を持つ点にあります。その新設に伴う変更が、内郭でも若干行われたようです。現在、目にすることが出来る井戸遺構や建物跡は、共にIII期の遺構ということになります。
 III期は調査が進んでおり、内郭の主要な建物は既にかなりの部分が検出されています。「飛鳥宮跡マップ」を再びご覧ください。この図は、飛鳥浄御原宮を表しています。先程も書きましたが、この図から外郭とエビノコ郭を引いたものが、後飛鳥岡本宮ということになります。
 私たちは、III期の南門近くから前殿・内郭南北正殿跡を見てゆくことにします。

 昨年、内郭の外側に規模の大きな掘立柱建物が検出されました。詳細については、こちらを御覧ください。飛鳥遊訪マガジンに掲載しましたあい坊先生の考察です。

 飛鳥宮の大型建物を考える -飛鳥宮内郭北辺の調査から-(10.6.11.発行)

 吉野川分水路と道路が交差する辺りから、飛鳥京苑池遺跡へと進みます。苑池は、全体で南北約200m、東西80mに及ぶ大きな規模で、渡堤によって南北の池に分けられ、北には排水路が伸びています。

 南池は、曲線と直線を組み合わせた形状をしており、石組みによって護岸されています。池の導水には、大正年間に発見された「出水の酒船石」を含めて、4石が組み合わされて噴水状の施設が作られていたようです。これらの石造物は、橿原考古学研究所附属博物館ロビーと、レプリカですが飛鳥資料館前庭で見ることが出来ます。

 池の中には中島と石積みされた半水没する島状の遺構がありました。また、中島では、松の根が検出されており、他にも水生植物(蓮など)が植えられていた可能性が高いとのことです。これらのことから、視覚的な要素の強い池であったように思われます。また、桃や梨や梅などの種や実も出土しているようです。

 北池は、これまで南池の水位調整用のプールだと考えられていたようですが、今年春の調査で、新しい知見が得られたようです。発掘成果に関しては、遊訪文庫収録の「飛鳥の名勝庭園 飛鳥京跡苑池
-飛鳥京跡苑池の発掘調査から-」をお読みください。

 飛鳥の名勝庭園 飛鳥京跡苑池 -飛鳥京跡苑池の発掘調査から-(11.2.18.発行)
 

 飛鳥京苑池遺構は、『日本書紀』天武天皇14年11月6日「白錦後苑におでましになった。(原文:幸白錦後苑)」とあります。この「白錦後苑」が飛鳥京苑池であるとする説や、「幸す」は遠くにお出ましになる時の用語だとして、別の庭園とする説があるようです。
 当時、天武天皇は病を得ており、健康に不安を抱き始めています。風人は、遠くには出向かないのではと思うのですが、如何でしょうか。

 さて、次回は最終回になります。弥勒石から飛鳥資料館までをご案内します。



【5】 (11.9.16.発行 Vol.116に掲載)

 第28回定例会に向けての咲読も、5回目最終回となりました。定例会もいよいよ来週です。今号では、弥勒石から飛鳥資料館までをご案内します。

 飛鳥京跡苑池遺構から飛鳥川沿いを進みます。この付近には、現在も飛鳥川に造られた堰があるのですが、古代においても同様に堰が設けられていたようです。「木ノ葉堰」と呼ばれていますが、用水は飛鳥寺西方から石神遺跡を通り、八釣から流れ出る川と合流して香久山西方に流れてゆきます。

 もう少し進むと祠があります。「弥勒石」と呼ばれるもので、近在の方の信仰を集め、親しみを込めて「ミロクさん」と呼ばれています。下半身の病にご利益があるとかで、祠にはたくさんの草鞋が奉納されています。お姿は大きな丸みのある角柱形の石ですが、素朴な彫りで顔が刻まれています。信仰とは別に考えると、先ほどの「木ノ葉堰」の水門などの施設に用いられていた石材の一部とする説があります。また、橋脚の一部とする説や、条理制の境界を示すものとする考えもあるようです。

 大和名所記・飛鳥古跡考(宝暦元年:1751)には、弥勒石は道場塚と呼ばれていた所に在ったと書かれており、この「道場(人物名)」をめぐる逸話が大変面白い話に繋がってゆきます。咲読では、字数制限がありますので、当日配布資料や口頭でお話をしたいと思っていますが、先行して読みたいと思われた方は、こちらを御覧ください。

「元興寺の鬼と弥勒石」 風人レポート

 弥勒石から彼岸花の咲く遊歩道を北に進みます。
 飛鳥時代に興味を持たれる方であればご存知だと思いますが、飛鳥寺の西には「槻の木の広場」がありました。「槻」とは欅(ケヤキ)の古名です。ケヤキは巨木となるために、今でもしばしば天然記念物に指定されることもあり、また、巨木であることから神聖視されることもあります。注連縄の張られた古木をご覧になった方も多いのではないでしょうか。飛鳥時代にも同様の意識があったのではないかと思います。万葉集の巻11の2656には、次のような歌があります。

 天飛ぶや 軽の社の 斎ひ槻 幾代まであらむ 隠り妻ぞも 

 斎槻(ゆつき)とは、神聖な槻の木のことを意味します。まさに、槻の木の広場の槻の大木は、斎槻であったのではないでしょうか。皇極4年には、槻の木の下で孝徳天皇、皇極前天皇・中大兄皇子らは臣下を集めて、忠誠を誓わせました。この木が神聖なものであったからなのでしょう。そうすると、乙巳の変の前に行われた蹴鞠もただの遊興ではなく、神事に近い意味合いがあったのかも知れませんね。

 槻の木の広場は、壬申の乱に際しては軍営が置かれていました。また、天武・持統朝では、種子島や隼人・蝦夷らをこの広場で饗応した記事が頻出します。

 槻の木の広場は、これまでに度々発掘調査が行われており、飛鳥寺西方遺跡の名称で呼ばれます。飛鳥寺西方遺跡図を御覧ください。


飛鳥寺西方遺跡図

 また、最新の発掘成果を踏まえて、あい坊先生が飛鳥遊訪マガジンに特別投稿をしてくださっています。是非、参考にお読みください。
 
飛鳥寺西の槻樹の下で歴史が動く-飛鳥寺西方遺跡の調査成果から-」(10.4.2.発行)
 
 第25回定例会の講師:大西貴夫先生が担当されていた飛鳥寺西方遺跡の調査区からは、飛鳥寺西門に続くと思われる石敷が検出され、槻の木の広場を通る飛鳥寺西参道ではないかと考えられました。講演会後に、岡寺から発掘現場を訪ね、先生から直接お話を聞いたのが思い出されます。

 第24回定例会レポート

 大字飛鳥の集落を抜けると、北に石神遺跡が広がります。石神遺跡について、皆さんが思い出されるのは、まず飛鳥資料館で見ることが出来る「石人像」や「須弥山石」と呼ばれる噴水装置ではないかと思います。そして、それらが石神遺跡の石敷き広場に置かれ、遠来の使者を饗応する施設として用いられたとされることでしょう。第28回定例会では、飛鳥資料館のナイトミュージアムガーデンと銘打った加藤学芸室長の説明をお聞き出来ますので、石神遺跡の二つの石造物についても学ぶ機会になります。

 石神遺跡は素人が簡単に書けるような遺跡ではありません。2010年1月に行いました第18回定例会では、石神遺跡第21次発掘調査を担当された青木敬先生が講演をしてくださいましたが、3時間を超えるお話でも全てを語れなかったとおっしゃるほどです。

 ここでは、石神遺跡の概要を書く以外にありません。
 石神遺跡は、飛鳥寺の北西、水落遺跡の北に位置しています。とは言っても、現在は発掘調査も終了していますので、地上に見えるのはただの水田の連なりと元飛鳥小学校の校庭跡でしかありません。
 21次にわたる調査の結果、石神遺跡の規模は、南北180m、東西130mに及ぶことが分かりました。参考図をご覧下さい。(概略図なので、建物遺構などは正確ではありません。)


石神遺跡参考図

 おおよそこのような感じになります。西の限りは、飛鳥川の右岸に沿う道路から一段高くなっているところだと推定されています。南側は、飛鳥寺の北限遺構に沿う道路があり、その北に藤原宮大垣に匹敵する基壇上に建つ東西掘立柱塀遺構が検出されており、それが南限だと考えられています。東限は、20次、21次調査において門と塀の遺構が検出され、その東に道路と思われる遺構も検出されたことから推定されました。北限は、第13次調査で二本の東西溝に挟まれた塀遺構が検出されていることと、その場所で地形が北に向かって一段落ち、その北側では沼沢地となることから判断されています。

 石神遺跡は、飛鳥時代に何度も造成・建て替えを行いながら、土地利用が続けられたと考えられています。咲読では、3期に区分(更に細区分)されるとして、遺構を極めて大まかに説明します。

 A期は、7世紀前半~中頃に相当する時期区分です。斉明天皇の饗宴施設だとされる時代を含んでいます。これまで、その斉明期である7世紀中頃に石神遺跡の活発な土地利用が始まったと考えられてきましたが、21次調査によって、それに先行する瓦葺の建物があった可能性が高まりました。これによって未解明のA期前半の様相にも新たな興味が持たれます。

 B期は、7世紀後半です。天武天皇の時代になり、A期の建物は撤去され造成がなされた後、飛鳥浄御原宮の官衙的な性格を帯びた南北棟建物群が遺構全体にわたって造られたと考えられているようです。北に広がる沼沢地は埋められ、南北溝・東西溝が造られました。この時期に大きな土地利用の変革があったようです。

 C期は、7世紀末~8世紀初頭の藤原京が存在した時代区分になります。B期の建物を解体した後、塀で区画された藤原京の官衙群と同じ建物配置を持つ建物群が造られます。藤原京の役所の一部がこの地に置かれたと推測されているようです。石神遺跡から出土する大量の木簡や様々な木製品などは、B・C期の物が多く、これらの時期の建物遺構が官衙的な性格のものであったことを裏付けているように思います。

 石像物をはじめとして石神遺跡からの出土遺物を見てみると、極めて重要な木簡類が大量に出土しています。ノコギリや扇や定規も出土しています。鉄製の鏃、新羅式の土器や東北地方独特の特徴を持つ黒色土器の出土もありました。
 さらに、21次調査でも話題になりましたが、3次・4次調査などでも出土例がある奧山廃寺式の瓦群があります。

 石神遺跡については、第18回定例会の咲読やレポートを参照してください。

 第18回定例会 咲読
 第18回定例会 レポート

 追記としまして、幾つかの興味深い点を書いておきます。
 青木先生が担当された21次調査では、瓦を使った建物が存在した可能性が新たに出てきました。それは、斉明天皇の饗宴施設に先行する仏教関連施設であった可能性が高いとされています。
 また、石神遺跡=中大兄皇子邸宅説や、天武天皇の時代の建物群は小墾田兵庫ではないかという相原嘉之先生のご指摘もあります。

 長い咲読にお付き合いくださって、ありがとうございました。
 来週は、遺跡の案内や彼岸花の咲く野道歩きを楽しんでいただければと思います。






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