両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


両槻会第18回定例会レポート


- 石神遺跡について -

2010年 1月 9日  

 今回で18回目を迎える両槻会主催の講演会のお題目は、「石神遺跡について」。今回講師を引き受けて下さった奈良文化財研究所の青木敬先生が担当されたのが、瓦が沢山出土した第21次調査。これは、面白いお話が聞けるんじゃないかと、瓦好きのσ(^^)は楽しみにしていました。(すいません、何処までいっても一番の興味の対象は瓦です・・(^_^;))

 当日は、ここのところ定例会の天気に悩まされている両槻会にはあり得ないほどの上天気。ですが、今回は事前散策がありません。ひとつの遺跡(まして今はただの田んぼ)をぐるぐる廻っても仕方ないだろうと言うことで、今回の事前散策は無しにしたんですよね。(^^ゞ 「なんでこんな日に晴れるねん!」と思ったのは、スタッフだけではないと思います。(笑)
 ま、講演会と言えど、会場の資料館までお出で頂くには晴れの方が良いに決まっています。気を取り直し会場へと準備に赴くスタッフ一同でありました。

 講堂前に受付を設置し、参加者の方々をお待ちしていると、早い時刻から皆さんお出でくださいました。今年初の定例会と言うこともあり、「あけまして・・」 と言う新年のご挨拶があちこちで飛び交っているのも、18回も回を重ねてそれぞれが顔見知りとなった両槻会ならではとほっこりした気分になりつつ、受付前でオリジナルカレンダーの販売に勤しんでるももでありました。(笑)

 講師の青木先生も早くにおいで下さり、講師席で色々と準備をしてくださいました。お休みのところ両槻会のためにお時間を割いてくださいました青木先生、ありがとうございました。m(__)m

 さて、青木先生がご用意くださったレジュメは、テキスト3枚、図版12枚の15ページにも及ぶものでした。細かい図や写真を沢山ご用意下さり、有難うございました。m(__)m

 石神遺跡の調査の発端になったのは、明治期に出土していた須弥山石です。1981年に出土地点の再調査をしたら、「ここに須弥山石がありましたよ♪」と言わんばかりに地面に白く映し出された文様の跡が出てきたんだそうです。見てみたいっ♪
 現在は、出土した3個が飛鳥資料館の第1展示室に展示されていますが、残る1個を誰が掘り当てるか・・が、毎年石神遺跡を担当する先生方の間では話題に上るんだそうです。残り1個・・何処にあるんでしょうね。
 その後の調査は、昨年の第21次をもって一休みとなり、現在はそれら調査の検討を少しずつ整理しながら進めていっている段階だそうです。
 遺物としては、青木先生が担当された第21次調査だけでコンテナ60箱分にもなるそうで、この第21次調査の発掘面積は500平方メートル。この範囲で60箱ですから、石神遺跡全体の遺物の総数を想像すると・・・眩暈がします。^^;
 そしてまた、それらを土器や木簡などの木製品と瓦と・・などと分野別に調べていく作業があって始めてわかることが沢山。「掘った、出た、だからここは〇〇だ」と言う風に簡単に結果が導きだせるものではないんですね。
 実際、第21次調査の現地説明会で、「瓦葺建物は迎賓館の門?」という発表になった経緯を話してくださいました。現地説明時には、出土した瓦をそのまま見学できるようにと現場に残していたため、瓦の詳細な調査ができなかったんだそうです。で、現地説明会後に出土瓦を取り上げてみると、斉明期を遡る時代の遺物であることが判明して、現地説明会での発表と異なる見解が出てしまったということです。
(この辺りのお話は、飛鳥遊訪マガジンでゆきさんが「只今、飛鳥・藤原修行中!」の中で「石神遺跡の瓦葺建物」として3回に亘って連載してくださっています。)
 参考リンク 
(緑色の文字は、クリックするとリンク先ページを別窓で開きます。)
 遊訪文庫 
 只今、飛鳥・藤原修行中! 

 ですので、まだまだ「石神遺跡は、こういう遺跡です。」とはっきりと言い切れる状況ではなく、遺跡全体の時期区分や遺物、そこから考えられる他の遺跡や地域との関係などとお話は進んでいきました。

 石神遺跡は、第21次調査で斉明期以前の瓦が出土し、その遺構の切りあいなどで、斉明期以前からこの土地が既に利用されていたことが分かり、饗宴施設以前の石神遺跡に少し展開がみられました。それを潰しての饗宴施設。破壊された施設は?用途は?と、色々と興味が湧くσ(^^)であったりしますが。(^^ゞ
 斉明朝期の饗宴施設頃までのA期(これは更に細かく3期に別れます。)その後、天武朝頃といわれるB期、藤原宮期と言われるC期と、大きく分けても3つの時代が存在します。A3期(斉明期頃)には、南北180m東西130mの範囲は持っていただろうとされているだけで、その他の時期の詳しい範囲は、今のところ正確には不明のようです。。
 これらそれぞれの時期の遺構や遺物の説明を「脱線しますが・・」と仰りつつ、実に分かり易く、楽しく青木先生はお話くださいました。その全てをここに書けるほど、σ(^^)は記憶力がよくありません。(^^ゞ
 各時期の大まかな変換は、飛鳥遊訪マガジンに連載しました咲読に書いてありますので、そちらをご参考になさってください。

 参考リンク  (緑色の文字は、クリックするとリンク先ページを別窓で開きます。)
 遊訪文庫内飛鳥咲読
 石神遺跡について

 この時期区分ってどうやって決まるの?って思われる方もいらっしゃいますよね?え、そんな捻くれたことを考えるのは、σ(^^)だけ?すいません、σ(^^)捻くれ者のアマノジャクです。
 A・B・Cと大きく3期に分かれる石神遺跡では、当然その度に整地が行われているんだそうです。最初の建物を建てるために整地。次の建物を建てるために以前の建物を壊し、その上を更に整地・・と言う具合に。この整地土に混入している土器が時代決定の際に大事な役割を担うんだそうですが、A期のように更に細分される場合は、切りあいという柱穴や溝などの重なり合いから判断されるんだそうです。現地説明会でよく見かける青や白のテープが交錯している地点が、まさにこの切りあいの箇所になるんでしょうね。柱穴が出たけれどそれを壊すように溝が出た、その溝の中に礎石らしい大きい石が転がっている。そういう状況をひとつずつ丹念に整理して初めて遺構の重複関係から時期決定がなされるんだそうです。本当に大変な作業ですね。短気なσ(^^)にはとても勤まりそうにも ありません。

 石神遺跡で私が特に印象に残っているのは、やはり7世紀中頃の山田道が出た第19次や瓦が沢山出た第21次調査になるでしょうか。その前にも何度か現地説明会に行ったはずなんですが、石敷きが出るわけでもなく、沼のような溝のようななんとも分けの分からない現場だったという記憶しかなくて、調査をされている先生方には何とも申し訳ない感想しか持ち合わせていませんでした。m(__)m

 石神遺跡は、須弥山石の出土地辺りから、毎年北へ北へと調査地が進められていました。北辺だと言われる第13次・14次調査地付近を境に石神遺跡の地質は異なっていて、私が現地説明会で溝や沼しか見たことがないと思ったのは、第17次か第18次調査地辺りになるんでしょうか。けれども、この沼沢地だとされる場所があったからこそ、B・C期を中心とした沢山の木製品(具注暦木簡、琴柱、定規など)が現在まで残っていたといえるのかもしれません。先生の故郷である関東では考えられないことだと、こちらに来られてから木製品の残りのよさに驚かれたそうです。また、出土したときに話題にもなった鋸は、持ち手の部分も残存していて、その形から東京国立博物館法隆寺宝物館に収蔵されているものよりも更に古い形のものなんだそうで、鋸の歯の一つ一つが二等辺三角形状だと いうことまでわかっているんだそうです。おそるべし石神の遺物!です。開発に難渋する沼沢地が後世に様々な事柄を伝える助けになる。これもまた面白いですよね。

 この北辺の東側が第20次として、そしてその南側が第21次として調査されています。この第13次・第14次・第20次・第21次調査付近は、その北側とは打って変わって発掘調査をしていても水が湧き出て困るとうことがない比較的乾いた土地なんだそうです。こんな土地を利用しない筈がないですよね。東辺と推定されている塀跡も幾らかは出ているようですが、これより東側に何があるのでしょう。できれば続きを掘って頂きたいな♪と。


 3時間近くもお話続けてくださったんですが、まだまだ石神遺跡は奥が深いというか、謎だらけなんだという実感が頂いたレジュメを眺めていると更に湧き上がってきます。
 C期の区画された建物群が藤原宮東方官衙の区画規模に酷似しているとか、第21次調査で出ている塀に直接取り付く建物跡と同じような遺跡が東北にもあることとか、方形池のルーツや使用目的などなど、もも的には色々と面白いと思える事柄が沢山あります。

 と、私がレポートを書くとどうしても出たもの重視になりますね。(^^ゞ 石神遺跡の遺構変遷などにご興味のある方には誠に申し訳ないレポートになってしまいました。m(__)m
 ですので、両槻会の際限なく長い講演会(笑)には是非ご参加くださって、講師の先生のお話をご自分の目と耳で確かめてくださいませ♪
 今後の講演会へのご参加お待ち申し上げております。(^^)

 最後になりましたが、長時間にわたって分かり易く興味深いお話をして下さった青木先生、講堂使用に関して色々とご準備くださった加藤先生や資料館の皆さん、有難うございました。m(__)m


  レポート作成 : 両槻会事務局 もも


 ここからは、風人の追記レポです。おまけですので、気楽に読んでください。

 青木先生の講演は、熱い語り口調で3時間に及びました。中間にトイレ休憩を挟みまして、終了が午後4時になりましたが、長いという感じを風人は全く受けませんでした。お話を聞くにつれ、石神遺跡がますます手強い遺跡であることが痛感され、咲読を書かせていただいたのが如何に無謀なことであったかを思い知らされました。(^^ゞ
 たくさんの謎を抱えながら、調査は一端終了したようですが、これからの研究・調査の継続を期待したいものです。

 今回の講演会でもお話に出ましたが、奈文研は紀要や現説資料、また各種データーをサイト上に公開してくださっています。私達素人でもそのデーターベースを利用することが出来ます。こういうシステムが、研究機関に早く網羅されることを期待したいですね。

 参考リンク (緑色の文字は、クリックするとリンク先ページを別窓で開きます。)
 奈文研HP 
 TOPページ → 調査と研究 → データーベースと進めば、各種データーベースにアクセスできますが、今回の石神遺跡などは「学術情報リポジトリ」から閲覧・ダウンロードが出来ます。石神遺跡でいうと、第16次調査以降の報告書を読むことが出来ます。

 今回、青木先生からもお話がありましたが、現地説明会はあくまでも中間発表です。現地調査を終えて書かれる紀要が正式な報告書になりますので、興味のある遺跡は「学術情報リポジトリ」を参照されて、報告書に目を通されることをお奨めします。
 そうでないと、「奈文研は出土瓦の存在を隠していた!」などという思い込みをすることになるのです。気をつけたいものですね。(^^ゞ

 さてさて、そのようなことは置いといて、風人が今一番興味を持っているのは、小墾田宮の所在です。それと、石神遺跡・小墾田宮・(斉明朝以前の)山田道の相互の関連です。風人は、全部近くに在ったと思っています。そうすると、A1期の仏教関連施設なんてのは、ひょっとすると斉明朝以前の山田道に南門を向けて建っていたかも知れないですよね。そんな気がしているのです。B期の天武朝の官衙かと言われているところは、ひょっとすると小墾田兵庫かも知れないとも思うのです。第15回定例会で、豊島先生が石神遺跡出土の鉄鏃を見せてくださったじゃないですか。ただの役所から鉄鏃なんかいっぱい出てきたりしないんじゃないでしょうか。といって天武期には、立派な北限の施設が無いんですよね。武器庫が剥き出しになっているというのも変ですけど。(笑)小墾田ってどこなんでしょうか。失われた地名に惹きつけられます。石神・小墾田・山田道、面白いと思いません?押し付けてはいけませんね。(笑)

 もう一つの興味のありどころは、水落遺跡です。石神遺跡とは接して建てられています。漏剋も迎賓館に含まれているのでしょうか?時計を見せびらかせるということもありえますか・・・、と思うのですが、水落遺跡の下層の遺構も気になっている風人です。そして、石神遺跡の入口はどこなんだ?ということです。南限とされる所に明確な門はありません。水落遺跡よりも 南にあるのでしょうか。その辺りがすっきりしません。(^^ゞ 水落遺跡と石神遺跡の間には、巨大な藤原宮大垣並みの塀があります。存在する隙間のような通路から饗宴施設に入ったのでしょうか。21次調査で見つかった北東の門が正門だとは思えないし・・・。ぅ〜む!どうもすっきりしません。(笑)
 最近、飛鳥浄御原宮の外郭にははっきりした境界は無く、緩やかにくくられて石神遺跡までも宮域だったのではないかとする考え方があるそうです。そうすると、石神遺跡や水落遺跡も、今の我々が考えるようなきっちりと囲われた閉鎖的な施設ではなかったのかも知れませんね。飛鳥全てが一つの括りと考えられていたのかなと、思うことがあります。どうなんでしょうね?分かれば分かるほど分からなくなる飛鳥。(笑)面白いです♪

 昨秋、水落遺跡の北側にあった旧飛鳥小学校の校舎が撤去されました。きっと遠くない時期に発掘調査が行われるんじゃないかと想像しています。そこから、分かることは石神遺跡全体に及ぶような成果があるかも知れません。楽しみです♪
 じっくり、ゆっくり謎の解明を楽しんで行きたいものですね。謎を楽しむ♪ それも両槻会のスタンスです♪

 そんなこんなで、「石神遺跡について」は、風人にとってとても興味深い講演となりました。
 青木先生、ありがとうございました。準備をしてくださった飛鳥資料館の加藤先生・皆さん、ありがとうございました。ご支援のお陰で両槻会は活動を続けられます。感謝申し上げます。m(__)m


    レポート作成 : 両槻会事務局 風人

ページ作成 両槻会事務局

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