両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第32回定例会レポート


両槻会主催講演会

小山廃寺(紀寺跡)を考える


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2012年5月5日

事前散策資料 定例会参考資料



ギヲ山西を北進中♪

 第32回定例会は「小山廃寺(紀寺跡)を考える」と題しまして、帝塚山大学名誉教授でいらっしゃる森郁夫先生にお越しいただきました。

事前散策ルート

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 講演に先立ち、自由参加の事前散策には25名がご参加下さり、事務局長の案内で雷丘東方遺跡からのスタートです。私は何度も飛鳥へ来ていますが、今回初めて訪れる場所もいくつかあり楽しみにしていました。


雷丘北方遺跡付近

 まず雷丘北方遺跡に向かいました。ちょうど家が建っている辺りから大型の建物群の跡が見つかって、忍壁皇子邸の跡かも?といわれている場所です。その北側には田んぼが広がっていて、ここが高市大寺だと考える研究者もおられるそうです。すぐ西側に飛鳥川が流れていて、土地に段差がある場所ですがどうなんでしょうか。散策に参加された皆さんはこの説をどう思われたでしょうか。


雷ギヲ山城

 更に進むと、右手にぽっかりと古墳らしきものが見えて来たのは、中世に山城として利用されていた雷ギヲ山城の跡です。西側から見ると左の方が平たくなっていました。


藤原京十条大路付近

 その北側の辺りが藤原京の十条大路にあたるそうです。当時の大路の道幅というのは、16m位(側溝中心間の距離)なんだそうです。ちょうど家と山の間辺りがそうだろうというのでイメージしやすかったです。(参考資料:藤原京条坊図


 道を進むと、田んぼの中に木が植わっているのが見えました。塚があり、かつて「フルミヤさん」と呼ばれ雨乞も行われたそうです。また、延喜式内社が祀られていたともいわれています。(各見学地の詳しい内容は資料をご覧下さい。)


小山廃寺にて

 小山廃寺は寺域にある小字名の「キテラ」から紀寺跡と呼ばれ、紀氏の氏寺だと考えられてきましたが、研究が進み、今は小山廃寺と呼ばれるようになってきています。今回の森先生の講演の中心となる場所ですが、草はらが見えるばかりで、何となーくあの辺が金堂らしいぞっていう、かなりの想像力が必要な場所でした。


藤原宮跡資料室前 復元道路(六条条間路)

 散策の途中、今日のお話のメインの一つである雷文縁軒丸瓦を奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室で見学をさせて頂きました。ちょうど「埋もれた大宮びとの横顔―藤原宮東面北門周辺出土の木簡」という展示が開催されていて、奈文研都城発掘調査部 主任研究員の山本崇先生に展示されている木簡などの説明をしていただきました。どうもありがとうございました。


 さて、小山廃寺(紀寺跡)は文政12(1829)年に書かれた『卯花日記』には古代の寺院跡だろうと書かれています。発掘調査から、南門、中門、金堂、講堂遺構が検出され、各堂宇が南北一直線に配置されていたようですが、塔跡は確認されなかったそうです。(本来お寺とは、釈迦の舎利を収めるためのストゥーパ(塔)は必ずあるそうなんですが…)


参考:雷文縁軒丸瓦(飛鳥寺出土)
明日香村埋蔵文化財展示室
転載・転用禁止

 小山廃寺から出土した瓦は、雷文縁軒丸瓦という雷文を外区にめぐらせたもの(小山廃寺式)ですが、雷文ではなく蓮弁が変化したものだとする説もあるようで、どちらにしても、とても珍しい文様のようです。その雷文縁軒丸瓦の分布状況を見ると、一氏族だけによるお寺ではなくて朝廷との関係が考えられることから、小山廃寺は官により建てられたお寺だという可能性が出て来るようです。(小山廃寺の詳しい内容は資料をご覧下さい。参考資料:小山廃寺)


大官大寺 塔跡

 私の好きな大官大寺跡は、これまた何もない田畑が広がる地です。発掘調査で、火災によって焼け落ちたことが分かりました。そのことは、『扶桑略記』の和銅4(711)年にある、藤原宮とともに焼亡したという記事と、ほぼ年代が一致するそうです。そして、講堂の基壇の中から見つかった土器が藤原宮時代の物であることから、この寺跡は文武朝の大官大寺跡だと分かったのだそうです。

 『日本書紀』や『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に書かれている、百済大寺から大官大寺の記事を簡単に書いてみると…
 舒明11(639)年に天皇勅願の百済大寺を造らせましたが火災に遭い、舒明天皇崩御の際に寺の再建を皇后(後の皇極天皇)に託し造営が続けられました。天武2(673)年には、百済大寺は百済の地から高市の地へ移され、天武6(677)年に寺の名を高市大寺から大官大寺に改められました。
 ざっと書くとこんな感じですが、では、この天武朝の大官大寺はどこにあるのでしょうね。そんな難しいこと分からんよという私ですが、寺の名をわざわざ“大きな官”の“大きな寺”と改めたのだから、やっぱり大きなお寺なんだろうなぁ~とは想像します。


小山廃寺(後方右に香具山)

 小山廃寺は官によって建てられたお寺だという可能性、小山廃寺創建の頃の官寺で所在が不明なお寺は高市大寺だけだ、ということから、森先生は小山廃寺が高市大寺(=天武朝の大官大寺)であると考えておられるそうです。問題点として、藤原京の条坊に沿っていることや、寺域の規模が小さいことを挙げられました。しかし、規模の問題点なら、小さいからこそ文武朝で新たに大きな寺を建てたと考えれば解決できるのではないかとも仰いました。

 木之本町の発掘調査では、官に関係すると考えられる数多くの瓦が出土し寺跡だと考えられ、木之本廃寺と呼ばれるようになり、百済大寺ではないかという意見を持つ人もいました。(木之本廃寺の詳しい内容は資料をご覧下さい。参考資料:木之本廃寺)
 また、泉南市の海会寺の発掘調査からも官に関係すると考えられる瓦が出土しました。都から遠く離れたこの泉南の地で見つかったことはどのような意味があるのでしょうか。

 平成9年に桜井市の吉備池廃寺の発掘調査が始まると、巨大な遺構が発見され、木之本廃寺のように、官に関係すると考えられる瓦が出土したことから、この場所こそが百済大寺に違いないと多くの人が考えるようになったそうです。


吉備池廃寺 案内板

 礎石も残っておらず、色々な資材が運び出され、出土品もあまり無いのに百済大寺と決定してしまって良いのかと森先生は危惧されておられます。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に記されている火災の痕跡が全く見られないことなどから、百済大寺であるということには慎重にならざるを得ないのだそうです。
でも最後に、この吉備池廃寺は湿地なので木簡が出ないかなぁ。百済という字が一字でも出れば認められるのにとニッコリ仰っていました。

 お寺の名前がはっきりしないと、○○寺じゃないか、いやいや△△寺だよと色々意見が出ますが、そんな時に墨書土器や文字瓦が出土して、寺名らしきものが書かれていたらスッキリするでしょうね。
 たとえば、大阪府柏原市の高井田廃寺からは「鳥坂寺」(とさかでら)。茨城県石岡市の茨木廃寺(ばらきはいじ)からは「茨木寺」と書かれた墨書土器が出土し、群馬県前橋市の山王廃寺では「放光寺」と書かれた文字瓦が出土したそうです。飛鳥のまだはっきりしない廃寺跡からも、出ませんかね。

 森先生!90分という時間の中でたくさんのお話をして下さり、どうもありがとうございました。是非またお話を伺いたいと思いました。

 次回の講師をしていただく甲斐弓子先生にも今回ご参加いただき、講演の後で第33回定例会「相撲と槻(つきのき)にみる祓いと政」の概要をお話いただきました。そしてもうお一人、泉南市教育委員会の岡一彦先生は事前散策からご参加下さり、最後に海会寺のご紹介もしていただきました。また今回は、森先生と甲斐先生がお勤めされている帝塚山大学からも、学生の方々が来て下さいました。是非また両槻会に足を運んでくださいね、お待ちしています。

 飛鳥資料館では現在、春期特別展・奈良文化財研究所創立60周年記念 「比羅夫がゆく-飛鳥時代の武器・武具・いくさ-」(6月3日日曜まで)が、開催されています。定例会当日は、講演終了後に学芸室長の加藤真二先生にギャラリートークをして頂きました。私は勿論、皆さんも展示されている物が一層理解出来たのではないでしょうか。

 ご参加いただいた皆さん、今回の定例会はいかがでしたか?以前の定例会で瓦の講演を聞かれた方もいらっしゃると思いますが、瓦の事がだんだん好きになってきたでしょう?私はこのレポートを書くにあたり、何度も資料を読んだのですが、まだまだ理解出来ていないことに気が付いてしまいました。でも、どんどん好きになってきてるんですよ!


 ※事前散策で訪れた奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室は、今年の4月1日から土・日・祝日も開館となりました。無料で見学出来ますので、皆さん足を運んでみてはいかがでしょうか。

レポート担当: 若葉

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