両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第32回定例会

両槻会主催 講演会

小山廃寺(紀寺跡)を考える




事前散策用資料

作製:両槻会事務局
2012年5月5日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
事前散策ルート 雷丘東方遺跡 雷丘北方遺跡 雷丘(城山)
祇園山瓦窯跡・雷瓦窯跡 法然寺 雷ギヲ山城 フルミヤさん
小山城 紀寺南遺跡 小山廃寺 木之本廃寺
藤原宮跡資料室 大官大寺跡 奥山廃寺 定例会参考資料集
当日レポート 飛鳥咲読 両槻会 -


この色の文字はリンクしています。






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事前散策ルート


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雷丘東方遺跡


藤本山より

 雷丘東方遺跡は、雷丘の東方に点在する遺跡の総称になります。
 主な遺構には、7世紀前半の池の護岸と思われる貼り石・溝・石組暗渠、7世紀後半の掘立柱建物、奈良時代末の井戸・倉庫群と思われる礎石建物2棟などがあります。

 雷丘の南東で見つかった奈良時代末の井戸の底からは、「小治田宮」・「小治宮」など「オハリダミヤ」と読める文字の書かれた墨書土器が23点出土しており、井戸枠も年輪年代測定法により758+α年に伐採された木材であることが判明しています。

 『続日本紀』の天平宝字4(760)年には、淳仁天皇の「小治田宮」への行幸の記事があり、井戸や周辺の建物は、これに合わせて整備された奈良時代の小治田宮の付随施設であった可能性が考えられます。

 また、山田道沿いで行われた調査では、7世紀後半の大規模な造成の痕跡が検出されており、この地域の土地利用が計画的に行われ、遅くとも7世紀前半に始まり平安時代頃まで続いていたことがわかっています。


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雷丘北方遺跡


 藤原京左京十一条三坊の西二町から大型建物群が検出されています。建物群は、中心に四面庇付き東西建物が置かれ、その東西には南北に二棟ずつの南北棟建物、南には東西棟建物が配置され、東西及び南は掘立柱塀、さらに南と西はその外側を溝によって区画されていたようです。よって、南側に門などの出入り口となる主要な施設はなかったと考えられます。

 建物の時期は、7世紀前半・7世紀後半・8世紀後半の3期に分かれ、正殿と脇殿と想定できる配置や規模から官衙や宮などであった可能性が考えられます。また、建物群の東側は、7世紀前半に盛土による大規模な造成の痕跡が認められたことから、この地も雷丘東方遺跡同様に、長期に亘り計画的に利用されていたことがわかります。


雷丘周辺の遺跡概要図


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雷丘(城山)

 雷丘は、『日本書紀』や『日本霊異記』、『万葉集』などに登場します。
 甘樫丘から続く丘陵地帯の先端、山田道を挟んで南北に並ぶ二つの丘は、北が「城山」、南が「上ノ山」と呼ばれており、北側の「城山」が「雷丘」にあたると考えられています。

 丘の西斜面からは、5世紀後半の円筒埴輪片が約500個出土しています。また、付近の雷丘東方遺跡や山田道沿いの発掘調査でも同様の円筒埴輪が出土していることから、5世紀後半~6世紀前半の丘上には、古墳(群)が存在していた可能性が示されています。 


雷城概要図

 丘上からは、15世紀頃の山城である雷城の主郭・副郭・空堀・土橋状の通路などが検出されています。

 中世の山城築造の際に、丘上は大規模な削平を受けています。また、丘の麓で行われた調査でも古代の遺構が検出されていません。これらの調査成果から、古代の雷丘は現在よりも北や東に大きかったと考えられます。
         
 明日香村には、飛鳥城・雷ギヲ山城・小山城・奥山城・岡城・野口植山城・野口吹上城・祝戸城など、他にもたくさんの中世山城が存在しますが、そのほとんどは、平地から10~20mの丘陵上に30~40m前後の方形の郭が築かれているだけのようです。


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祇園山瓦窯跡・雷瓦窯跡

 雷丘の北方一帯からは、大官大寺式軒瓦が出土・採取されており、付近の低丘陵裾などに瓦窯(祇園山瓦窯跡・雷瓦窯跡)が推定されています。また、ギヲ山西方の平地に、高市大寺を想定する説もあります。


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法然寺(香久山 少林院 法然寺)

 鎌倉時代の初め頃に、法然上人が高野山参詣の帰途に宿としたことが縁で、この地に少林院を建て、その後、知恩院第二十六世保誉上人が隠居し、寺号を法然寺としたとされます。現在は法然上人霊蹟25霊場の第10番札所となっています。本尊は、鳥仏師の作と伝わる「浮足の弥陀」。

  •     知恩院第二十六世保誉上人が霊夢により法然上人より賜りし歌
  • 香久山や麓の寺はせまけれど 高きみのりを説きて弘めむ
  •     法然上人二十五霊跡第十番、御詠歌
  • 極楽へ つとめて早く 出で立たば 身の終りには 参りつきなん


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雷ギヲ山城


雷ギヲ山城跡(西より)

雷ギヲ山城跡(北より)

 雷丘の北方に位置し、中世に山城として利用され「雷ギヲ山城」の名で『日本城郭体系』に掲載されています。郭や空堀があるとされていますが、詳細は不明です。

 2008年にギヲ山の南東部で行われた発掘調査において、雷ギヲ山城の水濠と思われる溝の一部が検出されました。溝から、12~14世紀の瓦器などが出土していることから、この時期には、山城としての機能を有していたと考えられます。
 中世に頻発した多武峰と興福寺との対立では、飛鳥地域でも坂田や細川、冬野などが戦いの場となっており、この時期に、多武峰へと向かう要所であるギヲ山にも山城が築かれたと考えられます。


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フルミヤさん(気吹雷響雷吉野大国栖御霊神社)


 明日香村の最北端に塚があり、2本の木が植えられています。地元では古くには「フルミヤさん」と呼ばれていたようで、旱魃の時には焚火をしながら雨乞い神事が行われたようです。また、正月には鏡餅が供えられるなど、大切な地として残されてきました。一説によると、この地は延喜式内社「気吹雷響雷吉野大国栖御霊神社二座」が祀られていたとされますが、社殿は飛鳥川の氾濫により早くに流失してしまっているようで、詳細は分からないようです。

 神社名の「国栖」が「九頭」と転訛して雨乞いが行われたのか、元々は「九頭神」を祀る祠があったために式内社の候補地となったのか、現在に至っては未詳となってしまっています。なお、気吹雷響雷吉野大国栖御霊神社の候補地としては、稲渕の棚田の東の山上だとする説もあるそうです。

 また、この神社に関するエピソードとして、奥飛鳥栢森の加夜奈留美命神社を復興した富岡鉄斎が、この神社も復興しようとしたが果たせなかったとする逸話も残されているそうです。


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小山城


小山城概要図

 標高約100mの丘陵上の内郭(居館)と、外郭(集落)の二重構造からなる中世の平城です。

 内郭は南北約75m・東西約90mの規模を持ち、越智氏に従属する国民小山氏の居館とされます。外郭は東西約150m・南北約180mの規模で、丘陵を掘り込む空堀を持ちます。

 また、戦国期の小山には、飛鳥では見られない環濠集落があり、それが内郭である居館と一体化していたと推定されるようです。 


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紀寺南遺跡

 小山廃寺の南、小山丘陵の西麓から南西麓にあたります。
 丘陵の西麓は、7世紀中頃には谷内部の不安定な土地であったようです。用途不明の柱根が検出されており、橋脚だったのかもしれません。南西麓からは、藤原京九条大路と思われる道路の北側溝の一部と、礎石建物や掘立柱建物などの遺構が検出されています。7世紀後半には、藤原京の造営に伴うものだと考えられる整地が、東西の尾根を削り谷の両側を埋め立てて行われています。紀寺式軒丸瓦が出土していますが、遺構との前後関係などは不明です。

 藤原京域で7世紀中頃の遺構が検出されたことは、飛鳥時代に、既にこの辺りまで土地利用が進んでいたことを示し、盛んに土木工事が行われた斉明朝の事業である可能性も考えられるようです。

 平城遷都以降には、この左京九条二坊一帯に大規模な造成が行われ建物群が造られました。これらの建物群は、付近が奈良時代後期に東大寺に施入された飛騨庄に含まれること、出土瓦の大半を東大寺式軒瓦が占めることから、東大寺に関連する庄園管理を兼ねた寺院跡であった可能性が示されています。


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小山廃寺(紀寺跡)

 藤原京八条大路に面し、藤原京左京八条二坊全域を寺域に持つとされています。


小山廃寺周辺の小字
 『卯花日記』の記事や、明治初年頃に岡本桃里が描き残した絵図などから、この地が寺跡であることが、古くから認識されていたことがわかります。

 「紀寺跡」として史跡指定された原因としては、跡地付近の字名が「キテラ」であることが、大きな要因になると思われます。また、天武朝に造高市大寺司に任じられ、壬申の乱の功臣として没後、大錦上を贈られた紀臣堅麻呂の存在が藤原京内の一等地であるこの地に、紀氏が氏寺を建立できた理由だと考えられていました。

小山廃寺遺構概要図
 発掘調査では、中門と講堂を結ぶ回廊内に金堂が置かれ、その南西に幢竿遺構と思われる柱根が二本検出されています。塔の遺構は未検出ですが、幢竿遺構の対称位置である金堂の南東に想定されています。

 南面大垣の南側で八条大路の北側溝が、東面大垣の東側で二坊大路の東西両側溝が検出され、寺域は藤原京の条坊と合致していることが判明しています。堂宇は、最初に金堂と講堂が造営され、その後中門・回廊と進み、南門は藤原宮の造営中に造営が開始されたことが出土した瓦から推定されています。

 瓦は、小山廃寺式(紀寺式)と呼ばれる外区に雷文が施された複弁蓮華文軒丸瓦になります。この軒丸瓦は、山背地域をはじめ地方の寺院に多く採用されている反面、紀氏の本拠地である紀ノ川沿いには見られません。組合う軒平瓦が川原寺と同様の重弧文であることから、軒平瓦に唐草文を採用した本薬師寺よりも早く、少なくとも670年代後半には、造営が開始されていたと考えられています。

 小山廃寺は、藤原京内で本薬師寺とほぼ対称の位置であること、瓦当文様やその伝播の仕方などの調査・研究が進むに従い、紀氏の氏寺であった可能性の低さが指摘され、小山廃寺と呼ばれるようになっています。


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木之本廃寺

 1980年代に行われた奈良文化財研究所建設に伴う事前調査によって、斑鳩・若草伽藍と同様の文様を持つ軒平瓦や山田寺よりも若干古式の軒丸瓦が出土し、寺院跡としての遺構の検出がないものの舒明天皇勅願の百済大寺跡であった可能性が示されました。


参考:吉備池廃寺式軒丸瓦
(泉南・古代史博物館収蔵品)

 しかし近年、桜井の吉備池廃寺から巨大な伽藍の痕跡が検出されたことから、こちらを百済大寺跡とし、木之本廃寺は瓦窯や集積場であったとする説もあります。

 付近(木之本廃寺・奈良文化財研究所都城発掘調査部を含む一帯)は、藤原京左京六条三坊にあたり、奈良文化財研究所の下層からは、大型の掘立柱建物を囲む方形区画の柵と溝、東西に横切る運河や井戸、「香山」と書かれた墨書土器などが出土しており、平城遷都後も「香山正倉(かぐやましょうそう)」と呼ばれる役所が置かれていたとされています。


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藤原宮跡資料室(奈良文化財研究所 都城発掘調査部 飛鳥・藤原地区)


奈文研庁舎前の復元道路

 藤原京左京六条三坊にあたります。
 庁舎建築に伴う事前調査によって下層から検出された東三坊坊間路や六条条間路などの主な遺構は、屋外展示としてその位置や規模がわかりやすいように、地上に表示されています。

 屋内の資料室では、藤原宮と京に関する調査・研究の成果が、ジオラマやパネルなどを用いて分かり易く展示紹介され、飛鳥・藤原地区で出土した土器や瓦が編年順に展示されています。


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大官大寺跡

 藤原京十条大路に面し、藤原京左京十条四坊の四町と九条四坊のうち二町の合計六町の寺域を持っていたと推定されています。


大官大寺遺構概要図
 『日本書紀』や『大安寺縁起』などから、古代日本初の天皇勅願の寺として、舒明11(639)年に百済宮とともに造営が開始された百済大寺の後身だとされています。金堂の南東で確認された塔の基壇は、一辺約35mと巨大で、九重塔に相応しい規模を持ちます。

 百済大寺は、天武2(673)年には高市大寺、天武6(677)年には大官大寺に寺名が変更され、平城遷都の際には、さらに改称され大安寺として新都に移転したとされていますが、『扶桑略記』には、和銅4(711)年に藤原宮とともに、焼亡したと記されています。

 発掘調査により、金堂の周囲や中門付近から焼土や焼け落ちて地面に突き刺さった屋根の部材などが検出され、中門や塔、回廊は、造営途中で火災にあったことが判明し、前述の『扶桑略記』の記載と年代がほぼ一致することがわかりました。結果、明日香村大字小山にあるこの跡地は、文武朝の大官大寺であったと考えられます。

 大官大寺の前身寺院だとされる百済大寺は、近年吉備池廃寺が有力な候補地とされていますが、天武朝の高市大寺や大官大寺についての詳細は不明のままです。


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奥山廃寺(奥山久米寺跡)


奥山廃寺遺構概要図
 現・奥山久米寺の境内と重複しているために、以前は、奥山久米寺跡と呼ばれ、橿原市の久米寺の前身寺院説や高市大寺説などがありました。

 近年では所在地や出土する瓦などの調査・研究が進み、奥山廃寺と呼ばれるようになっています。蘇我氏傍系の小墾田臣や境部臣などに関わる寺院跡ではないかとする説もあります。

 奥山廃寺は、四天王寺式伽藍配置になります。
 主要堂宇は、ほぼ奥山廃寺式軒丸瓦で統一され、7世紀半ばまでには、造営が開始されていたと推定されています。

 塔跡の土壇上には、鎌倉時代の十三重石塔が建立されています。




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