両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第38回定例会


藤原京体感ツアー

-藤原京の広さや大路間の距離を体感しながら知られざるポイントを巡る-



散策資料

作製:両槻会事務局
2013年5月11日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
藤原京 大宝律令 本薬師寺 木殿神社・鷺栖神社
藤原宮 西面南門・北面西門 南面中門(朱雀門) 朝集殿 朝堂院
大極殿・内裏 官衙 藤原宮の瓦 山部門・建部門
東三坊坊間路 膳夫寺跡 芹摘姫伝説 但馬皇女 穂積皇子
東市・西市 横大路 耳成山 耳成池・耳成山口神社
札の辻 竹取物語 藤原京関連年表 日本の律令の変遷
大宝律令詳細 太政官 八省組織表 藤原宮関連万葉歌 竹取老翁・娘らが歌
藤原宮に葺かれた瓦 当日レポート シナリオ・槻麻呂の一日 飛鳥咲読 両槻会


散策ルート

より大きな地図で 第38回定例会マップ を表示


この色の文字はリンクしています。

藤原京

 我国最古の条坊制を用いた本格的な都城で、後の平城京・平安京をしのぐ最大の都城です。

 『日本書紀』には、藤原京(藤原の宮地)に関して次のように書かれています。
  • 持統天皇4年10月条「壬申に、高市皇子、藤原の宮地を観す。公卿百寮従なり」
  • 同年12月条「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」
  • 同5年10月27日「使者を遣わして新益宮に、地鎮の祭をさせられた」。
  • 同8年12月条「藤原宮に遷り居します」
 しかし、『日本書紀』には、「新城」・「新益京」などの言葉が書かれており、現在、これらも藤原京を示す表現だと考えられています。藤原京の造営開始時期は、持統天皇4年ではなく、天武天皇の初期まで時代が遡ると考えられるようになっています。 (藤原京関連年表 参照

 藤原京は、持統天皇8(694)年から和銅3(710)年に平城京に遷都されるまで、持統・文武・元明の3天皇16年間の我国の首都でありました。
 藤原京は、わずかに16年の短命に終わりますが、大宝律令の制定・度量衡の統一・遣唐使の再開・富本銭の後の貨幣である和同開珎の発行と、次々に政策が打ち出され、律令国家体制が確立されて行く時代でした。古代国家としての画期を迎えた時代であったと言えるでしょう。

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 京域の発掘調査は引き続き行われていますが、今もってその範囲を確定することは出来ていません。(東西京極は、確定しています。)
 以前は、「中ツ道」・「下ツ道」・「横大路」・「山田道」を京極とする南北12条・東西8坊を範囲とする説(岸説)が有力でしたが、近年の発掘成果により、この説の京外(条坊道路の延長線にあたる地点)から、道路遺構や道路側溝が多数検出されるようになりました。中でも、橿原市土橋町では西京極大路と思われるT字路が検出され、また桜井市上ノ庄では、東京極大路とされる道路と両側溝が発見されました。二つの道路跡から更に京外へ続く道路跡や側溝跡は発見されず、この道路遺構が藤原京の京極であったとされています。
 このようにして藤原京は、平城京を超える大きな京域を持っていたことが分かってきました。これを、大藤原京(説)と呼んでいます。京域は5.3km四方で、10条10坊に復元する案が近年では有力になっています。

 京内は碁磐の目のように大路・小路によって区切られており、その中に本薬師寺・大官大寺・小山廃寺などの大寺院や貴族の邸宅、役人や庶民の家が立ち並んでいました。
 推定では2万人から3万人の人口があったとされています。また、5~6万人と推測する説もあるようです。

 藤原京の中央には、藤原宮があります。藤原宮は、1辺が約1kmあり、この中央に内裏・大極殿・朝堂院が南北に並びます。その両側には、官衙と呼ばれる官庁街がありました。

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 宮の外周は瓦葺の高さ5mほどもある大垣で囲まれ、両側に3~5mの濠が取囲んでいました。

 藤原京は、東半分を左京・西半分を右京と呼んでいました。これは我国では最初の例です。また、大路で区切られた街区は、平城京や平安京のように何条何坊と呼ばず、「小治町」・「林坊」・「軽坊」のように地名で呼ばれていたようです。また、「ウラン坊遺跡」の「ウラン坊」 はその呼称の名残かも知れません。

 藤原京の住人は、天皇をはじめとして、皇族・貴族・庶民・夫役の人々などが考えられます。それらの人々は、区画された宅地を給付されました。大藤原京説での宅地面積は、宮域と地形的に川や山(大和三山)・丘、また寺院など宅地にならない分を差し引くと、おおよそ1,000町ばかりだと考えられるようです。

 『日本書紀』持統5年(691)12月条には、「右大臣に賜ふ宅地四町。直廣貳(四位)より以上には二町。大参(五位)より以下には一町。勤(六位)より以下、無位に至るまでは、其の戸口(人数)に随はむ。其の上戸には一町。中戸には半町。下戸には四分之一。王等も此に准へよ」と記載されています。これは遷都後に班給する宅地の基準を示したものと考えられます。

 当時の臣下筆頭は右大臣の多治比嶋で、他の重臣には阿部御主人・石上麻呂・藤原不比等などの名が上げられます。資料によると四位以上の人数は42人、五位以上は190人が数えられるようです。
五位以上の貴族の宅地面積の合計は約280町に及び、推定人口の100分の1の人間が、宅地全体の4分の1以上を占めていたことが分かります。

 藤原京で最も広い道路は、横大路(路面幅30m以上)です。朱雀大路(路面幅17.7m・約7mの両側溝中心間約24m)が最大ではありませんでした。

 他の大きな道路としては、下ツ道、中ツ道があり、両側溝の中心間で幅約24mになり、ほぼ朱雀大路と同規模の道路幅になります。
 これに次ぐのが、朱雀門の前を東西に走る六条大路で、これも朱雀大路と同じ路面幅ですが、側溝が狭く他の条坊道路と同じ規模になるようです。条坊道路の他の大路は幅約16m、条・坊間路で約9m、町を分ける小路で約6.5mを測ります(ともに側溝中心間)。


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大宝律令

 大宝律令は、大宝元(701)年8月3日に完成しました。我国初の律と令が揃った本格的な律令です。律令の編纂には、忍壁皇子・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂らがあたりました。
 大宝律令を全国一律に施行するため、大宝元(701)年8月8日、朝廷は明法博士を西海道以外の6道に派遣し新令を講義させました。翌年2月1日、文武天皇は大宝律令を諸国に頒布しました。

 大宝律令は、唐の律令を参考にしながらも、我国の国情に合致した律令を目指して編纂が成されたとされています。「律」6巻は刑法にあたり、ほぼ唐の律をそのまま導入しているようですが、行政法や民法などにあたる「令」11巻は、我国の社会の実情に則して多くの部分で独自のものとなっています。(大宝律令詳細 参照

 律令制というのは、「土地と人民は王の支配に服属する」という古代中国の王土王民思想という理念を元にした制度です。王は、人民に対し一律平等に耕作地を支給(班給)して、その代償となる租税・労役・兵役が課せられます。このシステムを実施するために、法となる律と令などが制定され、それを運用する官僚機構が作られました。このシステムと機構を律令制度と呼びます。
 一律に耕作地を班給する土地制度は、我国では班田収授制(班田制)として施行されました。それに対する租税制度は、租庸調制と呼ばれます。極簡単に言うなら、租は班田からの米、庸は労役、調は特産物の納付になります。

 大宝律令の制定によって、天皇を中心として、二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を中心とする本格的な中央集権体制が整えられました。
 具体的には、文書と手続きの形式を重視した国家の運営システムが作られたことになります。
また地方官制については、国・郡・里などの行政単位が定められ、中央政府から派遣される国司には大きな権限が与えられましたが、従来の地方豪族である郡司にも一定の権限が認められました。

二官八省一台五衛府の概略表
天皇 神祇官    神祇・祭祀を執り行う。
太政官 中務賞 天皇側近 詔勅を起草。
式部省 文官人事 大学を司る。
冶部省 外交 葬事 仏事 陵墓を司る。
民部省 戸籍 租税 田畑を司る。
兵部省 武官人事 軍事を司る。
刑部省 刑罰 訴訟を司る。
大蔵省 出納 度量衡 物価を司る。
宮内省 宮中の衣食住 工房 財物を司る。
弾正台    行政監査を司る。
衛府 五衛府 左兵衛府・右兵衛府・左衛士府・右衛士府・衛門府

地方官制の概略表
要地 左京職・右京職 京内の一般民政 朱雀大路の東西で分かれる。
摂津職 難波国に置かれ京職に準じる。
大宰府 筑紫国に置かれた。
諸国 国・郡・里  

太政官 八省組織表 参照



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本薬師寺


薬師寺の創建は、天武9(680)年だと考えられています。天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して建立されたことが、『日本書紀』や平城薬師寺の「東塔檫銘」などに記録されています。

伽藍は、藤原京八条大路に面し、中門と講堂を結ぶ回廊内に南から東西両塔、金堂が並ぶ古代日本初の双塔伽藍になります。薬師寺式と呼ばれるこの伽藍配置は、その後、搭の位置に変化を見せながらも、平城京の大寺院へと受けつがれて行くことになります。

これまでに、数次にわたる発掘調査が行われてきました。その中でも1993年の調査では、中門の真下から藤原京西三坊坊間路が検出されました。これは、藤原京の造営開始時期を考えるうえで、重要な発見となりました。
中門と伽藍中軸線がほぼ坊間路と一致しており、幅約5m、側溝中心間が約6mであったことが分かりました。
このことは、天武9(680)年の薬師寺造営開始に先行して、藤原京の条坊道路が敷設されていたことを示します。また、薬師寺の伽藍は、藤原京の条坊に規制されていたとも言えるわけです。

本薬師寺は、伽藍配置はもとより、金堂や塔の規模も平城薬師寺とほぼ同じだとされています。これは、遷都に伴って平城京右京六条二坊に建てられた平城薬師寺が、本薬師寺の姿をできるだけ踏襲しようとした証だといえるでしょう。飛鳥・藤原から平城に移された寺院の多くは、その伽藍様式や規模を変えたのに対して、薬師寺はそれを保持しました。このことは、なにか意味の有ることなのかもしれません。
薬師寺の双搭様式は、韓半島を統一した新羅の感恩寺の影響を受けたと考えられるようですが、新羅と我国との交流も視野に入れて考えると、創建理由は別の所にあるのかも知れません。

本薬師寺の所用瓦には、藤原宮所用瓦が改笵されて使用されているものが有ります。このことは、藤原京の造営の開始時期を考える上で、先行条坊の存在と共に極めて重要な点だと思われます。  瓦に関しては項を改めて、検討したいと思います。 (藤原宮の瓦 参照)


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木殿神社


木殿神社

橿原市城殿町に鎮座。
祭神は、天児屋根命、素盞嗚命ですが、本来は素盞嗚命を祀る牛頭天王社であったとされるようです。境内の石灯籠には、万治2(1659)年に銘があります。

藤原京右京二坊大路上(七条大路にも近接)に存在するため、条坊把握のランドマーク的な存在です。


鷺栖神社


鷺栖神社

橿原市四分町に鎮座。
祭神は、天児屋根命、誉田別命、天照大神とされています。
延喜式に記載される古社ですが、旧地は不明です。
古書に「鷺栖坂」の北に藤原宮が在ると記す書籍があり、また、日高山付近に在ったとする伝承もあるようですが詳細は不明です。

木殿神社と同様に、右京二坊大路上に存在します。


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藤原宮 西面南門・北面西門(海犬養門)

 藤原宮は、大垣に囲まれた四坊分の面積を有します。約1km四方と書かれる場合が多いのですが、正確には東西925m、南北907mになります。大垣から条坊道路までの間には、東西で70mほど、南北で80mほどの何も無い空間地がありました。

 大垣は、掘立柱を芯として土壁を付けた瓦葺の構造であったようです。大垣の柱間は2.66mで、推定では約5.5mの高さに復元できるようです。
 大垣の内外には、濠が巡らされていました。内濠は幅1.8m、外濠は西面では10mを測り、南面は5m幅であったようです。

 大垣の各面には、それぞれに3ヶ所、計12の門が開いていました。この内、6門の発掘調査が行われているのですが(建部門は一部)、全て桁行5間、梁行2間で、桁行の長さは約26m、梁行の長さは10mの規模になります。また、門は基壇を伴っています。

 これらの門は、伝統的にそれぞれの門を守っていた氏族の姓で呼ばれたようです。すべての門名が判明しているわけではありませんが、出土木簡や『続日本紀』の記述などから、7つの門の名称が分かっています。東面では、北から山部門・建部門・小子部門、西面中門は佐伯門、北面は西から海犬養門・猪使門・丹比門です。
 (藤原宮図 参照)

 宮城十二門は、衛門府によって管理されており、自由に出入りが出来たわけではありませんでした。中務省が発行する門籍(もんじゃく)という通行が許可された者の名簿が有り、官人はチェックされた上で、許可された一門からのみ出入りを許されていたようです。また、物品の搬出入も厳しく管理されており、門牓制(もんぼうせい)というシステムで規制されていたようです。


西面南門の唐石敷や礎石(復元)

 西面南門は、発掘調査が行われています。門跡は発見されていないのですが、大垣の柱穴が門の分途切れることから門の存在が分かりました。また、扉の軸を受ける穴(軸摺穴)を持つ唐石敷や礎石が出土しており、現地に復元展示されています。


海犬養門跡 礎石
 また、海犬養門は調査が行われていないようですが、推定地付近の用水路内に礎石2石を見ることが出来ます。

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南面中門 (朱雀門)

 平城宮では他の門に比べて大規模な門でしたが、藤原宮の場合は特別に大きな門ではなく、他の門と同規模だったようです。(朱雀門)としたのは、文献記録として名称が確認されていないことによります。「大伴門」と呼ばれていたとする説もあるようです。


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朝集殿

 朝集殿は、朝政や儀式が行われた朝堂の南に位置し、朝参の際に参集した官人が開門の時刻まで服装を改め待機した殿舎のことです。官人たちは、ここで朝堂南門の開門を待ちました。
 『日本書紀』大化3(647)年条には、孝徳天皇が難波の小郡宮で「礼法」を定めた記事が有りますが、冠位を有する官人は、毎朝午前4時頃(寅の時)までに朝庭南門の外にならび、日の出とともに朝庭に入って天皇に再拝し、その後、正午まで朝堂で政務を執ることとしました。遅刻した者は入ることができず、また、「正午の鐘を聞いたら退庁すべし」と定めています。難波長柄豊碕宮でも、朝集殿の存在が発掘調査で確認されています。
 
 朝集殿は、朝堂南門の南に南北方向を長軸として向き合う形で左右二堂が設けられていました。それぞれ、「東朝集殿」「西朝集殿」と呼ばれたようです。



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朝堂院

 朝堂院を取り囲む回廊の規模は、東西230m、南北318mで、その中に12の朝堂がありました。
朝堂は、天皇が早朝に政務をみる朝政、朝拝や饗宴などの国儀大礼を行う重要な庁舎です。朝堂院は、一般に複数の朝堂より構成されました。また、朝堂により囲まれた中庭を「朝庭」と呼びました。政府にとって重要な場所であることから、朝庭(朝廷)は政府そのものを示す場合にも使われます。
 朝堂は、大極殿と朝集殿の中間に位置し、臣下が着座する政庁としての性格を持つ建物です。本来、政務は朝堂で行われるのですが、律令制が整うにつれて行政機構が拡大することになり、宮外に実務施設が設けられることになったようです。

 藤原宮においては、朝堂が12堂あり、東と西のそれぞれ6堂ずつ対称的に配置されていました。藤原宮の各朝堂には格差が設けられていたようです。
  • 一堂 … 桁行9間(約36m)、梁行4間(約14m)、四面庇、入母屋または寄棟。
  • 二堂~四堂 … 桁行15間(約62m)、梁行4間(約12m)、二面庇、切妻造。
  • 五堂・六堂 … 桁行12間(約50m)、梁行4間(約12m)、二面庇、切妻造。

 第一堂の規模・構造は他と異なります。桁行は最短ですが梁行は最も広くとられ、入母屋または寄棟が採用されていることから、朝堂の殿舎のなかでは特別に扱われていたことが分かります。
 平安宮の記録によれば、東第一堂には太政大臣・左大臣・右大臣が着座し、西第一堂には親王が着座していました。

平安時代の朝堂着座表
位置 着座の官司   位置 着座の官司
西一堂 親王 東一堂 太政大臣・左右大臣
西二堂 弾正台 東二堂 大納言・中納言・参議
西三堂 刑部省・判事 東三堂 中務省・図書寮・陰陽寮
西四堂 大蔵省・宮内省・正親司 東四堂 冶部省・雅楽寮・玄蕃寮・諸陵寮
西五堂 式部省・兵部省 東五堂 少納言・左弁官・右弁官
西六堂 大学寮 東六堂 主税寮・主計寮・民部省

朝堂は、いずれも基壇をもつ礎石建物で、瓦葺の殿舎でした。第一堂は土間の椅子に着座したようですが、第二堂以下の建物は床張りであり、床に筵を敷いて座ったようです。


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大極殿


大極殿跡

 朝堂院を臣下の空間とすれば、大極殿院は天皇の空間と言えます。殿内には高御座が置かれ、国家的儀式に際して、天皇が出御される建物です。
 大極殿院は、東西115m、南北155mで、その中央に大極殿が建っています。建物規模は、9間(44m)×4間(19m)です。これは、平城京第一次大極殿とほぼ同じ大きさになり、移築説も有力です。この説に立てば、復元された平城京大極殿が藤原宮に建設されていたことになり、イメージを掴むことが容易になります。

 朝堂院と大極殿院を分ける大極殿南門は藤原宮の中心にあり、つまり10条10坊の京域の中心に位置するとも言えます。このことは、藤原京の建設理念と関係が有るのかも知れません。
大極殿院南門のやや南からは、東西に3m間隔で並ぶ柱穴が8基検出されています。宮の中軸線で折り返すと、全部で13基であったと推定でき、南門の南階段からは30mの位置にあり、検出された東端の柱穴は南門基壇東端とほぼ一致します。横長の柱掘形に柱を2本東西に立て並べる構造で、儀式の際の幢竿をたてた柱穴と考えられます。これらの幢竿支柱は『続日本紀』大宝元年正月一日条には元日朝賀に7本の宝幢を立てたという記事があります。日月四神などがはためいたのかも知れません。
 また、付近からは、富本銭9枚と水晶9個の入った壺が出土しています。この地鎮具は、以下の『日本書紀』の記載に該当するものだと思われます。
 『日本書紀』持統5(691)年10月27日、
「使者を遣して新益京を鎮め祭らしむ。」
 同6(692)年5月23日、
「浄広肆難波王等を遣わして、藤原の宮地を鎮め祭らしむ。」



内裏

 内裏の中心部分は、現在灌漑用のため池になっているために調査が行われておらず、詳細は判明していません。内裏の規模は、東西305m、南北378mの広さを有します。


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官衙

 藤原宮内の大極殿院・朝堂院・朝集殿院の外側に広がる官庁街です。藤原宮では、役所名の特定は未だされていません。調査が進んでいる地域を、P3の藤原宮図のように呼んでいるにすぎません。
 この内、西方官衙南地区は、広い空間に南北の細長い掘立柱建物(桁行18~29間)が並ぶことや、平城京での役所の配置から、「馬寮」ではないかとされています。また、西面南門の内外の濠からは、薬草に関する木簡が多数出土していることから、付近に典薬寮が存在した可能性が指摘されています。


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藤原宮の瓦

 日本で初めて造られた瓦葺き宮殿である藤原宮。その屋根に使用された瓦の枚数は、大極殿で約9万7千枚、朝堂院や門に大垣なども含めた宮内全域では約150~200万枚が必要であったとされます。寺院で使用される瓦は多くても20万枚ほどだと言われます。この膨大な量の瓦を生産するには、生産地(瓦窯)の確保だけではなく、工人の確保・養成、瓦笵の準備や製品の運搬なども含めた「藤原宮造瓦プロジェクト」とも言うべき大規模な計画があったと考えられます。

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 瓦の生産地(瓦窯)は、藤原宮近隣や大和国内だけでなく近江や淡路、讃岐などの遠隔地でも確認されています。大和国内では、北部に安養寺瓦窯、西田中瓦窯、内山瓦窯、南部には日高山瓦窯、三堂山瓦窯、久米瓦窯、高台・峰寺瓦窯、牧代瓦窯などが造瓦に関わったと考えられています。
遠隔地では、近江・石山国分遺跡(国昌寺跡)、淡路・土生寺瓦窯、讃岐・宗吉瓦窯、その他東讃岐と和泉にも瓦窯が推定されています。

藤原宮式軒瓦(大極殿所用瓦)

変形忍冬唐草文軒平瓦
奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室展示品

 藤原宮の建物を飾った瓦は、「藤原宮式軒瓦」と呼ばれています。軒丸瓦は、ハート型をした花弁の中に子葉が2個ある蓮弁(複弁)を8枚飾ります。
 軒平瓦には、一方方向に唐草が流れて行く偏行唐草文と唐草を幾何学的にあらわした変形忍冬唐草文と呼ばれるものがあります。また、軒丸・軒平ともに外区と呼ばれる外周部分に珠文や鋸歯文が巡っています。藤原宮式の軒瓦は、文様や技術などの違いから大まかに二つに分けることが出来、それはほぼ生産地と対応すると考えられるようです。大和国内で生産された瓦は、新しい技法・文様を持ち、主に宮内の主要建物に葺かれ、遠隔地である讃岐や近江などは旧来の技法と古い様相の文様を持ち、主に大垣などの宮内の主要部以外に葺かれたと出土瓦から推定されています。

 藤原宮の造瓦に関する記録は残っていませんが、その一端は藤原宮跡より出土した瓦から伺うことが出来ます。
まず、藤原宮所用の瓦が改笵されて、本薬師寺の金堂で使用されています。
本薬師寺は、天武9(680)年に天武天皇の発願により造営が開始され、持統2(688)年には無遮大会が催されていますので、この頃までには金堂は完成していたと考えられます。

改笵前の藤原宮所用軒平瓦
奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室展示品

 つまり、本薬師寺で使用される以前の改笵されていない藤原宮所用の瓦は、少なくとも688年までには造られていたことになります。
さらに、藤原宮下層運河から瓦と一緒に天武11(682)年~天武13(684)年の紀年銘木簡や天武14(685)年に制定された位階名である「進大肆」と記された木簡が出土しています。

 これらのことから、予想される造瓦開始時期は680年代前半と考えることが出来、藤原宮造瓦プロジェクトは宮の造営とほぼ同時期に動き始めたと考えられます。

 16年の短命で終わった藤原宮。そこで使用された瓦の一部は平城宮へと運ばれ、朱雀門や大垣など宮内の建物に再利用されることになります。

 現在、藤原宮式の軒瓦は、軒丸・軒平ともに30種近く確認されています。一見同じように見える文様も、見比べると少しずつ違った顔をしています。特徴的なのものを幾つかご紹介します。

「複弁にもいろいろあるよ」

藤原宮式
藤原宮跡資料室展示品

参考:川原寺式

複弁の初現は、立体感(照りむくり)のある蓮弁を配した川原寺式軒丸瓦だとされています。(画像右端)
一番左の軒丸瓦が、藤原宮式の中では蓮弁に川原寺式の面影を持つものになります。中央の軒丸瓦になると、蓮弁の先端が肉厚になるものの全体に平板な感じになります。そして、右の軒丸瓦では蓮弁がさらに平板となって本来は蓮弁の間に楔形で表現されている間弁同士が蓮弁を越えて繋がっています。この文様は、のちに平城宮式へと繋がっていくそうです。

「中房の中も面白いよ」
藤原宮跡資料室展示品
 上左は、中房が小さくなって中の蓮子の数が減少した分、外区の珠文や鋸歯文が大きくなり、文様全体の雰囲気が上にあげた三つの軒丸瓦とは明らかに趣が異なります。
 上右は、改笵されたことで、中房内に「×」が浮かび上がったものになります。中心の蓮子と一重目の連子が凸線で結ばれた結果だそうです。

「私も藤原宮式の仲間です!」

藤原宮跡資料室展示品
 軒丸瓦は、藤原宮式の中では珍しい6弁のタイプになります。
また、組み合う軒平瓦は、藤原宮所用瓦の中で最も異彩を放っています。上下二段に刻印された「〇」と「×」に加え、大抵の場合綺麗な弧になっている軒平の最下部は、指で押さえられてうねっています。

 独特の文様を持つこの軒瓦のセットは、久米寺の瓦窯で生産されたものになります。

*藤原宮の造瓦に関わった瓦窯の多さと瓦窯間の瓦笵の移動などによって、単純に文様の新旧だけで瓦の製作年代等を決定するのは難しいとされています。
*瓦当文様及び改笵による文様の変遷・変化は、ほんの一例に過ぎません。



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山部門・建部門

 二つの門は、藤原宮の東面大垣に開く門で、山部門は北門、建部門は中門になります。

 藤原宮跡から出土している木簡は、16,000点あまりほどになるそうですが、その四分の一にあたる約4,000点が、山部門周辺の外濠や内濠等から見つかったものです。その中には、宮内省や中務省に関わる木簡や、荷札として付けられた物が多かったようです。
 その中に、外濠から出土した「右大殿荷(芹)八」と書かれた木簡があります。山部門を通過するときに確認され、後に廃棄された物だと思われます。
 「右大殿」は右大臣のことですから、一緒に出土した「紀年木簡」から「右大殿」は不比等を指していることが分かりました。宮内から不比等邸に荷(芹)を八つ運んだ時の木簡ということになります。このような場合、邸宅から最も近い宮門が使われたと思われますので、不比等の邸宅は山部門の近くに在ったことが推測できます。
 この山部門の北東には、橿原市法花寺町という地名があります。平城京の不比等の邸宅が後に法華寺になったのは知られていることですが、また平安時代には不比等の藤原京での邸宅を「城東第」と書いていることなどからも、この左京二条三坊にあたる橿原市法花寺町は、不比等邸が在った場所と言えるのではないかと思われます。

 もう一方の建部門は、昨年(2012年3月)の発掘調査で重さが1t 程もある大きな礎石2個が発見されました。
 調査では、南北5間(約25m)、東西2間(約10m)の門のうち南側の南北約6m分が検出され、礎石を据え付けた穴6基が確認されました。西側の2個は、穴を掘って落とし込んだ状態で残っていました。他の石は発見されず、平城宮での再利用に運ばれた可能性が指摘されました。
 礎石2個の内の大きい方は、長さ1m、幅0.7mの平坦面を持ち、厚さは1.5mでした。石材は、飛鳥石(石英閃緑岩)だったそうです。礎石の下には、直径20~30cmの石と土を交互に入れて根固めが施されていました。門の南には大垣の柱穴が2.7m間隔で並んでいました。

参考: 藤原宮東面中門・東面大垣の調査(飛鳥藤原第168-2次調査)記者発表資料


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東三坊坊間路

 奈良文化財研究所調査部の敷地は、藤原京の左京六条三坊にあたります。建物の正面入口には、東三坊坊間路が同じ規模で復元されています。また、建物の中庭には当時と塀や建物の柱列などが復元展示されています。(奈良文化財研究所 藤原京跡資料室


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膳夫寺跡


 現存する建物は、膳夫山保寿院という真言宗豊山派に属するお寺ですが、この寺の付近からは、藤原京と時代を同じくする瓦(藤原宮所用瓦・大官大寺所用瓦<詳細不明>)が出土する他、境内には柱座が見られる礎石が散在しています。
 これらは、聖徳太子妃膳夫姫が、その養母古勢女の菩提を弔うために建てた寺(仁階堂→膳夫寺)の痕跡であると考えられます。また、付近には、「カハラカマ」「カウタウ」「タウノダン」の地名が記録に見え、現在も「瓦釜」「古搭」の小字が残っているようです。
 付近は、橿原市膳夫町と言いますが、古代氏族「膳夫氏」の勢力があった地域だと考えられます。この辺りには、聖徳太子にまつわる伝承が残されており、太子と膳夫氏の密接な関係を想像させます。


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芹摘姫伝説

 聖徳太子が膳夫の村を通った時、病に伏した母親のために芹を摘む娘に心を打たれ、妃とされたと伝えています。芹摘姫の話には様々なバリエーションがあり、付近一帯に伝承が残っているようです。芹摘姫は膳臣傾子の娘、菩岐岐美郎女とも、また膳臣の養女になってのち妃となったとも伝えられています。
膳夫人と書かれることも多く、太子がもっとも愛された夫人であると伝えられます。数多く居られた夫人の中で、太子は膳夫人と偕老同穴の誓いを結ばれたとされています。

 膳夫町は、小墾田宮と斑鳩を結ぶには適しており、中ツ道⇔保津・坂手道⇔太子道のルート上に在ります。付近には、太子駒繋石(橿原市石原田町)などが有ります。


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但馬皇女 穂積皇子

 但馬皇女は、万葉集に四首の歌を残します。万葉集の題詞から、皇女は高市皇子の宮に居住していたことが分かるのですが、彼の妻だったとする説、また天武の皇子の中で最年長であった高市皇子に養われていたとする説があるようです。歌には穂積皇子を偲んだものがあり、その内容から穂積皇子と恋愛関係にあったとされます。しかし、これらの事柄は、万葉集からの推測で、『日本書紀』などには記載されていません。
 但馬皇女の高市皇子の宮に在りし時に、穂積皇子を思ひて作らす歌一首
秋の田の 穂向の寄れる片寄りに君に寄りなな 言痛くありとも 2-114
 穂積皇子を勅めて近江の志賀の山寺に遣はせし時に、但馬皇女の作らす歌一首
後れ居て 恋ひつつあらずば 追ひ及かむ 道の隅廻に 標結へわが背  2-115
 但馬皇女の高市皇子の宮に在りし時に、竊かに穂積皇子に接はりし事、既に形はれて後に作らす歌一首
人言を 繁み言痛み 己が世に 未だ渡らぬ 朝川渡る 2-116
 但馬皇女の薨じて後、穂積皇子、冬の日雪降るに、遥かに御墓を望みて、悲傷流涕して作らす歌一首
降る雪は あはにな降りそ 吉隠(よなばり) 猪養の岡の 寒からまくに 2-203



但馬皇女の名が書かれた木簡
  受被給薬車前子(オオバコ)一升 西辛(ウスバサイシン)一両 久参(クララ)四両 右三種
  多治麻内親王宮政人正八位下陽胡甥(やこのおい)

 藤原宮内裏東外郭に沿う大きな南北溝からは、上記の木簡が出土しています。
 木簡から読み取れることは、多治麻内親王の宮に仕える執事のような存在の「陽胡甥(やこのおい)」が典薬寮に薬を請求していることです。「車前子=オオバコ」「西辛=ウスバサイシンなど」「久参=クララ」の三種を請求したわけですが、薬効を見てみると、消炎・利尿・止瀉・鎮痛・麻酔・平喘・鎮静・健胃・解熱・駆虫剤となります。腹痛とも思えますが、風邪の初期症状にも効きそうです。単位が「両」なので、大した量ではないようです。

穂積皇子の名が書かれた木簡
 穂積親王宮

 藤原京左京一条(横大路)四坊(中ツ道)の交差点から南に300mほどの中ツ道側溝より出土した木簡には、「穂積親王宮」と書かれたものが有りました。墨書された文字はあまり滲んでおらず、投棄されて直ぐに埋もれたと考えられるようです。このことから、親王宮は出土地点から遠くない場所に在ったのでしょう。

 先に上げた不比等邸も、近い場所です。香久山周辺から横大路付近には、高官・皇族の邸宅が続いていたのかも知れません。



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東市・西市


 藤原京の「市」については、発掘調査では未だ発見されていません。大宝律令には「市」の規定が有るため、東西市は存在したものと考えられています。また、『帝王編年記』大宝3年の条には、「始メテ東西市ヲ立ツ」と書かれており、これが唯一の文献史料となるようです。

 近年の発掘調査では、宮の北面中門(猪使門)付近から「市」の文字を記した木簡が出土しており、「市」が宮の北方に在ったことが分かってきました。宮から「市」に行くには、猪使門あるいは丹比門(北面東門)を利用したのでしょう。つまり藤原京の「市」は、平城京や平安京とは異なっていたことになります。古い時代から維持されていたと思われる「軽市」が南に在ったのも理由の一つかも知れませんし、物資搬入に用いた米川や寺川の水運の利便性が考慮されたのかも知れません。

市杵島神社 境内由緒書き
クリックで拡大します。

 平安京の東市には守護神として市杵島姫が祀られています。藤原京域にも市杵島神社が二社存在します。一社は、宮の北東、横大路と中ツ道との交差点付近で、中の川と米川が合流する地点にも近い位置になります。もう一社は、下ツ道と横大路の交差点の北方になり、下ツ道と米川の合流地点の近くにあたります。陸運・水運の利便性を考えると、市の存在には適した場所と言えるでしょう。


三輪神社 欅の老木

 横大路と中ツ道の交差に位置する地点には、現在、三輪神社が在ります。雷で斜めになった欅(槻)の老木は、西国三十三所名所図絵にも記載されており、初瀬街道、伊勢街道の目印にもなったようです。
境内の南西隅の用水路の中には、礎石様の大きな石があります。寺院の礎石を移動させたもの、付近の面堂に使われていたものなど諸説あるようですが、詳細は分かりません。



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横大路

 横大路は、大和盆地を東西に横切る古道です。桜井市仁王堂付近から、葛城市当麻町の長尾神社付近にまで約13kmの道路を言います。道路は両端から更に伸び、東では伊勢に通じ、西では難波京への道路となります。古代より主要な道路として機能していましたが、飛鳥時代初期には整備が行われ、飛鳥・藤原と難波を結ぶ最重要な幹線道路となりました。

 横大路の道路幅は、25m~30mと推測されています。藤原京内では約30mとされ、幅約2.5mの側溝が両側に敷設されていたと思われます。




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耳成山


 耳無・耳梨とも書き、耳高山とも呼ばれ、また万葉集では青菅山とも呼ばれています。近世には、天神山と呼ばれていたこともありました。山中には梔子の木が多く、梔子山とも呼ぶ(大和名所図会)ようです。
 この山を耳無山と呼んだのは、その山容に対しだと思われます。耳成山には、尾根のような部分が全くありません。「耳」は物の端という意味も有りますので、端っこの邪魔なもの余計な物が付いていない形を表現しているのではないかと思います。

 耳成山の周囲を囲む様に流れる細い川を、「目無し川」と呼びます。また近くには  口無しの井戸もあって、語呂合わせでつけたとしか思えない名前がそろっています。

 耳成山南東麓一帯を桜の馬場、南西麓一帯を梅の馬場と言います。今も桜の馬場は桜が植えられ、シーズンには花見客で賑わっています。
 山に登る道は、5本あって南から登る「八木坂」をメインにして、火振り坂、木原坂、常盤坂、山之坊坂、と呼ばれています。

 木原町からの登り口である「火振り坂」は、耳成山口神社で行われていた雨乞い神事の時、松明を灯した村人が祈願に耳成山口神社に登ったことが由来であろうと思われます。


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耳成池

 万葉集巻十六に、序文をつけて載せられている悲恋物語が二つあります。一つは畝傍山の桜児です。もう一つはこの耳成山にまつわる、縵児の物語です。

 『ある人の言うことには、昔三人の男がいて、同時に一人の女に求婚した 娘子が嘆いて言うことに、「私一人の女の身は消えやすい露のようにはかなく、三人の男の心の和らげがたいことは、石のように堅い」そして池のほとりをさまよい歩いて、水底に沈んだ。男たちはあまりの悲しさにたえず、それぞれ思いを述べて作った歌三首。』

  耳無の 池し恨めし 吾妹子が 来つつ潜かば 水は涸れなむ     (16-3788)
  あしひきの 山縵の児 今日行くと 吾に告げせば 還り来ましを    (16-3789)
  あしひきの 玉縵の児 今日のごと いづれの隈を 見つつ来にけむ  (16-3790)

 現在、南麓にある耳成山公園の古池は、この耳成の池ではないようです。大和名所図会・大和志料によると、「耳無山の西麓にあり、今水涸れて名ばかりなり」とあります。



耳成山口神社

 耳成山八合目付近に、東向に鎮座しています。祭神は、大山祗神・高皇産霊神。
延喜式内大社で、創建年代は詳しくは判らないのですが、天平2(730)年の東大寺正倉院文書にその名が見えるそうです。

 大同元(806)年には、「風雨祈願のため使いを遣わして奉幣す。」という記録があり、それ以後貞観元(859)年の祈雨神祭など、雨乞いの神事がたびたび記録に残されています。
 大和盆地では、農業用水の確保は近年まで大きな問題でした。旱魃の時、木原村からは「雨たんもれ、たんもれ」と松明をかざしながら、村民が宮司を先頭にして参詣祈願したそうです。これが「火振り坂」の由来となっています。

 社殿左にある社務所には、嘉永7(1854)年奉納の算額があります。4題の幾何学の問題と解法が記されています。


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札の辻

 古代の幹線道路「下ツ道」と「横大路」の交差点にあたります。道路幅約24mと約30mの道路交差点ですから、古代には大きな四つ辻であったことでしょう。この場所に、市が立っても当然なのですが、そうならなかったのは水運の便が無かったことが原因なのかも知れません。ただ、中世後期には、札の辻を中心に環濠が巡り八木市が立ったようです。
 近世には道路幅は狭くなっていたものと思われますが、江戸時代中期以降になると、伊勢参り・大峰参詣の人たちで賑わい、周辺には旅籠が多数あったようです。そのような場所柄、高札が掲げられ、地名となって残ったものだと思われます。
 現在、札の辻交流館として見学できる「平田屋」も、そのような賑わいを見せた時代の旅籠の一つでした。


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竹取物語

「今は昔、竹取の翁といふ者有りけり。野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば讃岐造となむ言ひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いと美しうて居たり。」

 この一文で始まる『竹取物語』は、日本最古といわれる物語です。成立年、作者ともに不詳ですが、通説では平安時代前期に書かれたとされるようです。天女伝説・羽衣伝説など口承説話として伝えられたものが、一旦は漢文の形で完成され、後に平仮名で書き改められたと考えられているようです。
万葉集には、「竹取の翁」が天女を詠んだという長歌があり(巻16-3791)、竹取物語との関連が指摘されています。(藤原宮関連万葉歌参照)

 竹取物語には、かぐや姫に求婚する公達5人が登場するのですが、その内の3人は実名で、残りの2人もそのまま該当する人物はいないのですが、モデルとなった人物が特定出来るような名前になっています。
 これらの公達は、石作皇子、車持皇子(庫持皇子)、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂の5人です。

 車持皇子は、藤原不比等ではないかとされています。母親が車持与志古娘であることが、その根拠になります。石作皇子は、多治比真人嶋だとする説があるようです。嶋は宣化天皇の4世孫にあたり、同族に石作氏という一族がいるためだとされているようです。
 実名の3人は、右大臣、大納言、中納言という官職が書かれています。これを参考にこの物語の時代背景を考えてみました。
  • 阿倍御主人の右大臣在任期間は、大宝元(701)年3月21日から同3年4月1日まで。(死亡)
  • 大伴御行の大納言在任期間は、大宝元年1月15日から同18日まで。(死亡)
  • 石上麻呂の中納言在任期間は、大宝元年3月19日から同21日まで。(大納言昇進)
  • 多治比嶋の大宝元年の官職は、左大臣。(文武元(697)年から大宝元年7月21日。死亡)
  • 藤原不比等の大宝元年の官職は、中納言。(3月21日大納言昇進)

 竹取物語に書かれている官職を検討すると、ややズレがあるものの大宝元年を時代背景にしていることが分かります。


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藤原京関連年表

藤原京関連年表
天皇 元 号 西暦 日 付 事 柄
天武 天武 5 676
この年、新城に都を造ろうと思われた。予定地の田畑は公私を問わず耕作されなかったので、大変荒廃した。しかしついに都は造られなかった。
9 680
皇后の病気平癒のため、薬師寺建立を誓願。
11 682 3/1 小紫三野王と宮内官大夫らに命じて新城に遣わし、その地形を見させられた。都を造ろうとするためであった。
3/16 新城におでましになった。
12 683 7/18 天皇は京の中を巡行された。
12/17 都城や宮室は一か所だけということはなく、必ず2,3ヵ所あるべきである。それ故まず難波に都を造ろうとおもう。百寮のものはそれぞれ難波に行き、家地を賜るように願え。
13 684 2/28 浄広肆広瀬王・小錦中大伴連安麻呂及び判官・録事・陰陽師・工司らを畿内に遣わして、都を造るのに適当な所を視察し占わせた。
3/9 天皇は京内を巡行されて、宮室に適当な場所を定められた。
14 685 1/21 爵位の名を改め階級を増加した。明位は二階、浄位は4階各階に大と広があり、合わせて十二階…。
進位は四階、階ごとに大と広あり、合わせて四十八階。…
10/12 浄大肆泊瀬王・直広肆巨勢朝臣馬飼及び判官以下合わせて二十人に、畿内の役を任ぜられた。
朱鳥 元 686 7/20 改元して朱鳥元年とした。宮を名づけて飛鳥浄御原宮と言った。
9/9 天武天皇崩御
持統 持統元 687 10/22 皇太子は公卿・百官と、諸国の国司・国造および百姓男女を率いて、大内陵(天武天皇陵)の築造に着手した。
2 688 2/8 無遮大会を薬師寺で行なった。
3 689 6/9 中央の諸官司に令一部二十二巻(飛鳥浄御原令か)を、分け下し賜った。
閏8/10 今年の冬に戸籍を造り、9月を期限として、浮浪者を取りしまるように。
11/8 京市の中で追広貮高田首石成が三兵(弓・剣・槍など)の修練に励んでいるのをほめて、物を賜った。
4 690 9/1 戸籍を造るには戸令(浄御原令の篇目のひとつ)によって行え。(庚寅年籍作成)
10/29 高市皇子は藤原の宮地を視察され、公卿百官がお供した。
12/19 天皇は藤原においでになり、宮地をご覧になった。公卿百官がお供した。
5 691 10/27 使者を遣わして新益京に、地鎮の祭をさせられた。
12/8 新益京でも右大臣に賜る宅地は四町。直広貮以上には二町、大参以下には一町、勤以下無位まではその戸の人数による。上戸には一町、中戸には半町、下戸には四分の一、王等もこれに準ずる。
6 692 1/12 天皇は、新益京大路をご覧になった。
5/23 浄広肆難波王らを遣わして、藤原の宮地の地鎮祭をさせられた。
5/26 使者を遣わし、幣帛を伊勢・大倭・住吉・紀伊の四ヵ所の大神にたてまつらせ、新宮のことを報告された。
6/30 天皇は藤原の宮地をご覧になった。
7 693 2/10 造京司衣縫王らに詔して、工事で掘り出された屍を、他に埋葬させた。
8/1 藤原の宮地においでになった。
8 694 1/2 藤原宮においでになり、その日にお帰りになった。
12/6 藤原遷都
9 695 1/7 公卿大夫に内裏で饗を賜った。
10 696 1/18 公卿百官が南門で大射を行なった。
11 697 3/8 無遮大会を春宮で行なった。
7/29 公卿百寮は祈願の仏像開眼を薬師寺で行なった。
8/1 持統天皇譲位。
文武 文武元 文武天皇即位。
2 698 1/1 天皇は、大極殿に出御して朝賀を受けられた。
3 699 1/26 京職が次のように言上した。「林坊に住む新羅の女・牟久売が、一度に二男・二女を産みました。」
4 700 3/15 皇族・臣下たちに詔して、大宝令の読習を命じ、またの条文を作成させた。
6/17 浄大参の刑部新王・直広壱の藤原朝臣不比等・直大弐の粟田朝臣真人らに勅して、律令を選定させられた。
大宝元 701 1/1 天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は、大極殿の正門に烏形の幡を立て、左には日像・青龍・朱雀を飾った幡、右側には月像・玄武・白虎の幡を立て、蕃夷の国の使者が左右に分かれて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。
1/4 天皇は大安殿に出御して祥瑞の報告を受けた。
1/16 皇親と百官に朝堂殿で、宴を賜った。
3/3 王親や群臣を東安殿に集めて、曲水の宴を催した。
3/21 対馬嶋が金を貢じた。そこで新しく元号をたてて大宝元年とした。
初めて新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。
6/8 すべての官庁の諸務は、専ら新令(大宝令)に準拠して行なうようにせよ。
8/3 三品の刑部親王・正三位の藤原朝臣不比等らに命じて、大宝律令を選定させていたが、ここの初めて完成した。
大略は飛鳥浄御原の朝廷の制度を基本とした。
8/8 明法博士を六道に派遣して、新令を講釈させた。
2 702 1/1 天皇は大極殿に出御して朝賀を受けられた。
2/1 初めて新律(大宝律)を天下に頒布した。
6/24 海犬養門に落雷があった。
7/10 内外の文官・武官に新令を読み習わせた。
7/29 詔が出されて、親王が乗馬のまま宮門に入ることは禁じられた。
7/30 初めて大宝律を講義した。
10/14 大宝律令をすべての国に頒布した。
12/22 持統太上天皇崩御。
12/25 斎会を四大寺(大官・薬師・元興・弘福)で行なった。
12/29 太上天皇の遺体を仮りに西殿の庭の殯宮に安置した。
3 703 1/5 太上天皇のために、大安・薬師。元興・弘福の四寺で斎会を営んだ。
慶雲元 704 1/1 天皇は大極殿に出御して朝賀を受けられた。
5/10 宮中の西楼の上に慶雲があらわれた。元号を慶雲と改元。
7/3 左京職が白い燕を献上した。
11/20 初めて藤原宮の地所を定めた。住宅が宮の敷地内に入った千五百五戸の人民に、身分に応じて布を賜った。
2 705 1/15 文官・武官の役人たちを朝堂に集めて宴会を賜った。
6/27 このごろ日照りが続き…南門を閉じての店を出すことをやめ…
3 706 3/14 ・・・京の内外にけがれた悪臭があるという。
4 707 2/19 諸王・諸臣の五位以上の者に詔を下し、遷都のことを審議させた。
6/15 文武天皇崩御。
元明 7/17 元明天皇即位。
和銅元 708 2/15 遷都に関する詔。・・・遷都のことは必ずしもまだ急がなくてよい…正に今平城の地は、青竜・朱雀・白虎・玄武の四つの動物が陰陽の吉相に配され、三つの山が鎮護の働きをなし、亀甲や筮竹による占いにもかなっている。ここに都邑を建てるべきである。…
9/14 天皇は菅原に行幸された。
9/20 平城に巡幸して、その地形をご覧になった。
9/30 阿倍朝臣宿奈麻呂・多冶比真人池守を造平城京司長官に任じ・・・
10/2 犬上王を遣わして、幣帛を伊勢大神宮に奉り、平城宮造営のことを報告した。
11/7 菅原の土地の民家九十戸あまりを、他に移住させ麻布と籾を賜った。
12/5 平城宮の地鎮祭を行なった。
2 709 8/28 天皇が平城宮に行幸された。
9/2 天皇は新京をめぐって、京の人民をいたわられた。
9/4 造宮省の将領(工匠の頭)以上の者に、地位に応じて物を賜った。
9/5 天皇は平城宮から還られた。
10/11 造平城京司に勅して、もし工事中に古墳の発見されるものがあったら、埋めもどし、発いたまま放置してはならぬ。すべて酒をそそいで祭り、死者の魂を慰めよ。
10/28 この頃遷都のための移住などで、人民が動揺しており…
12/5 天皇は平城宮に行幸された。
3 710 1/1 天皇は大極殿に出御して朝賀を受けられた。左将軍正五位上の大伴宿禰旅人と副将軍従五位下の穂積朝臣老…、皇城門(朱雀門か)の外の朱雀大路に…
1/16 天皇は重閣門(朝堂院の南門)に出御して…
3/1 平城遷都
4 711 9/4 平城宮の垣は未完成で、防衛は不十分である。とりあえず、衛兵所を建て…


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日本の律令の変遷
  • 近江令       天智7(668)年頃制定か? 存在を疑う説も強い。
  • 飛鳥浄御原令   持統3(689)年制定。令のみの法典。
  • 大宝律令      大宝元(701)年制定。初めて律令が揃って整った法典。
  • 養老律令     天平宝字元(757)年施行。大宝律令を一部修正したもの。
  • 刪定律令 神護景雲3(791)年施行。養老律令の追加法。812年停止(実質廃止)。
  • 刪定令格      延暦16(797)年施行。養老律令の追加法。9世紀初期に廃止?


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大宝律令詳細

   大宝律 6巻12編 (条文数約500)
名例律 通則規定。刑罰の名称
衛禁律 宮城の警衛、関の守固など
職制律 宮人の服務規程違反を罰する規定
戸婚律 家の秩序、戸口や婚姻に関する規定
厩庫律 馬牛などの畜産と、倉庫管理違反を罰する規定
檀興律 軍事動員や徴発に関する禁止規定
賊盗律 謀反・反逆・殺人・呪誼・強盗・窃盗などの罪
闘訟律 傷害罪、評告罪などの規定
詐偽律 君主や国家の名誉毀損に関する規定
雑律 偽金作りや博打、放火などを罰する規定
捕亡律 犯人の逮捕、労役者逃亡などの規定
断獄律 囚人の扱いや裁判、刑の執行に関する規定

   大宝令 11巻28編 (条文数約900)
官位令 官職と位階の一覧
官員令 役所の組織と仕事の内容、役人の人数
後宮官員令 天皇の妃・後宮の定員と職務規定
東宮家令 東宮職員・貴族家政の職員の規定
神祗令 朝廷が行う神祗祭祀の規定
僧尼令 僧尼取り締まりの規定
戸令 戸籍や家の秩序などの規定
田令 班田や田租など
賦役令 調・庸や徴発の規定
学令 大学入学など学制
選任令 位階や官職の授与規定
継嗣令 皇族の身分とその継承、婚姻
考仕令 役人の勤務評定
禄令 役人の給料
軍防令 軍事や宮城警護
儀制令 朝廷の儀式
衣服令 服装
公式令 公文書の書式など
医疾令 医療
営繕令 建物や橋などの造営工事に関する規定
関市令 関所と市場の規則
倉庫令 倉庫の設置や出納に関する規定
厩牧令 厩舎や牧場などの規定
仮寧令 役人の休暇規定
喪葬令 役人の葬祭に関する規定
抽亡令 犯罪者の逮捕、労役者の逃亡に関する規定
獄令 裁判の規定
帷令 種々雑多な規定


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太政官 八省組織表

中務省
  • 中宮職
  • 左右大舎人寮
  • 図書寮
    • 紙屋院
  • 内蔵寮
  • 縫殿寮
    • 糸所
  • 内匠寮
  • 陰陽寮
  • 画工司
  • 内薬司
  • 内礼司

式部省
  • 大学寮
    • 大学別曹
  • 散位寮

治部省
  • 雅楽寮
  • 玄蕃寮
  • 諸陵司
  • 喪儀司
民部省
  •   廩院
  • 主計寮
  • 主税寮

兵部省
  • 隼人司
  • 兵馬司
  • 造兵司
  • 鼓吹司
  • 主船司
  • 主鷹司

刑部省
  • 囚獄司
  • 贓贖司

大蔵省
  • 織部司
  • 典鋳司
  • 漆部司
  • 縫部司
  • 掃部司
宮内省
  • 大膳職
  • 木工寮
  • 大炊寮
    • 供御院
  • 主殿寮
    • 釜殿
  • 典薬寮
    • 乳牛院
  • 掃部寮
  • 正親司
  • 内膳司
    • 進物所
    • 御厨子所
    • 贄殿
  • 造酒司
    • 酒殿
  • 采女司
  • 主水司
    • 氷室
  • 筥陶司
  • 鍛冶司
  • 官奴司
  • 主油司
  • 内掃部司
  • 内染司
  • 園池司
  • 土工司


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藤原宮関連万葉歌

壬申の乱平定
 壬申の年の乱の平定まりし以後の歌二首
大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 都と成しつ (19-4260)
  右の一首は、大将軍贈右大臣大伴卿が作。

大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 都と成しつ (19-4261)
  右の件の二首は、天平勝宝四年の二月の二日に聞く。すなはちここに載す。


藤原宮造営
 藤原の宮の役民の作る歌
やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤原が上に 食す国を 見したまはむと みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると 騒く御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 我が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ 図負へる くすしき亀も 新代と 泉の川に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず 筏に作り 泝すらむ いそはく見れば 神ながらにあらし (1-50)

  右は、日本紀には「朱鳥の七年癸巳の秋の八月に藤原の宮地に幸す。 八年甲午の春正月に藤原の宮に幸す。 冬の十二月庚戌の朔の乙卯に藤原の宮に遷る」といふ。


藤原遷都
 藤原の宮に天の下知らしめす天皇の代 高天原廣野姫天皇 元年丁亥の十一年に位を軽太子に譲りたまふ。 尊号太上天皇といふ
 天皇の御製歌
春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣干したり 天の香具山 (1-28)

 大津皇子、死を被りし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首
百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (3-416)
右、藤原の宮の朱鳥の元年の冬の十月。

 藤原の宮の御井の歌
やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井のま清水 (1-52)

藤原の 大宮仕へ 生れ付くや 娘子がともは 羨しきろかも (1-53)

 明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、志貴皇子の作らす歌
采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く (1‐51)

 長屋王が故郷の歌一首
我が背子が 古家の里の 明日香には 千鳥鳴くなり 妻待ちかねて (3-268)
  右は、今案ふるに、明日香より藤原の宮に遷りし後に、この歌を作るか。

かけまくも あやに畏し 藤原の 都しみみに 人はしも 満ちてあれども 君はしも 多くいませど 行き向ふ 年の緒長く 仕へ来し 君の御門を 天のごと 仰ぎて見つつ 畏けど 思ひ頼みて いつしかも 日足らしまして 望月の 満しけむと 我が思へる 皇子の命は 春されば 植槻が上の 遠つ人 松の下道ゆ 登らして 国見遊ばし 九月の しぐれの秋は 大殿の 砌しみみに 露負ひて 靡ける萩を 玉たすき 懸けて偲はし み雪降る 冬の朝は 刺し柳 根張り梓を 大御手に 取らし賜ひて 遊ばしし 我が大君を 霞立つ 春の日暮らし まそ鏡 見れど飽かねば 万代に かくしもがもと 大船の 頼める時に 泣く我れ 目かも迷へる 大殿を 振り放け見れば 白栲に 飾りまつりて うちひさす 宮の舎人も 栲のほの 麻衣着れば 夢かも うつつかもと 曇り夜の 迷へる間に あさもよし 城上の道ゆ つのさはふ 磐余を見つつ 神葬り 葬りまつれば 行く道の たづきを知らに 思へども 験をなみ 嘆けども 奥処をなみ 大御袖 行き触れし松を 言問はぬ 木にはありとも あらたまの 立つ月ごとに 天の原 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はな 畏くあれども (13-3324)


平城遷都
 和銅三年庚戌の春の二月に、藤原の宮より寧楽の宮に遷る時に、御輿を長屋の原に停め、古郷を廻望て作らす歌 一書には「太上天皇の御製」といふ
飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ (1-78)

 或本、藤原の京より寧楽の宮の遷る時の歌
大君の 命畏み 柔びにし 家を置き こもりくの 泊瀬の川に 舟浮けて 我が行く川の 川隈の 八十隈おちず 万たび かへり見しつつ 玉桙の 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ 朝月夜 さやかに見れば 栲の穂に 夜の霜降り 岩床と 川の水凝り 寒き夜を 息むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 来ませ大君よ 我れも通はむ (1-79)

あをによし奈良の家には万代に我れも通はむ忘ると思ふな (1-80)

 花に寄する
藤原の 古りにし里の 秋萩は 咲きて散りにき 君待ちかねて (10-2289)


藤原不比等邸
 山部宿祢赤人、故太上大臣藤原家の山池を詠む歌一首
いにしへの 古き堤は 年深み 池の渚に 水草生ひにけり (3-378)


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竹取翁・娘子らが歌(万葉集 巻16-3791~16-3802)

むかし、老翁あり。号づけて竹取の翁といふ。この翁、季春の月に、丘に登りて遠くを望む。たちまちに羹を煮る九人の女子に値ひぬ。百嬌は儔びなく、花容は匹ひなし。時に娘子ら老翁を呼び。嗤して曰く。「叔父来れ。この燭火を吹け」といふ。ここに。、翁「唯々」といひて、やくやくに趣きおもふるに行きて、座の上に着接ぬ。 やや久にして、娘子ら皆ともに咲を含み。相推譲めて曰く、「誰れかこの翁を呼びつる。」といふ。すなはち、竹取の翁謝めりて曰く、「非慮る外に、たまさかに神仙に逢ひぬ。あへて禁ふるところなし。近づき狎れぬる罪は、こひねがはくは、贖ふに歌をもちてせむ。」といふ。すなはち作る歌一首 并せて短歌

みどり子の 若子髪には たらちし 母に抱かえ ひむつきの 稚児が髪には 木綿肩衣 純裏に縫ひ着 頚つきの 童髪には 結ひはたの 袖つけ衣 着し我れを 丹よれる 子らがよちには 蜷の腸 か黒し髪を ま櫛持ち ここにかき垂れ 取り束ね 上げても巻きみ 解き乱り 童になしみ さ丹つかふ 色になつける 紫の 大綾の衣 住吉の 遠里小野の ま榛持ち にほほし衣に 高麗錦 紐に縫ひつけ 刺部重部 なみ重ね着て 打麻やし 麻続の子ら あり衣の 財の子らが 打ちし栲 延へて織る布 日さらしの 麻手作りを 信巾裳成者之寸丹取為支屋所経 稲置娘子が 妻どふと 我れにおこせし 彼方の 二綾下沓 飛ぶ鳥 明日香壮士が 長雨禁へ 縫ひし黒沓 さし履きて 庭にたたずみ 退けな立ち 禁娘子が ほの聞きて 我れにおこせし 水縹の 絹の帯を 引き帯なす 韓帯に取らし わたつみの 殿の甍に 飛び翔ける すがるのごとき 腰細に 取り装ほひ まそ鏡 取り並め懸けて おのがなり かへらひ見つつ 春さりて 野辺を廻れば おもしろみ 我れを思へか さ野つ鳥 来鳴き翔らふ 秋さりて 山辺を行けば なつかしと 我れを思へか 天雲も 行きたなびく かへり立ち 道を来れば うちひさす 宮女 さす竹の 舎人壮士も 忍ぶらひ かへらひ見つつ 誰が子ぞとや 思はえてある かくのごと 所為故為 いにしへ ささきし我れや はしきやし 今日やも子らに いさとや 思はえてある かくのごと 所為故為 いにしへの 賢しき人も 後の世の 鑑にせむと 老人を 送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり (16-3791)

反歌二首
死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪子らに生ひずあらめやも (16-3792)
白髪し子らに生ひなばかくのごと若けむ子らに罵らえかねめや (16-3793)

娘子らが和ふる歌九首
はしきやし翁の歌におほほしき九の子らや感けて居らむ (16-3794)
恥を忍び恥を黙して事もなく物言はぬさきに我れは寄りなむ (16-3795)
否も諾も欲しきまにまに許すべき顔見ゆるかも我れも寄りなむ (16-3796)
死にも生きも同じ心と結びてし友や違はむ我れも寄りなむ (16-3797)
何すと違ひは居らむ否も諾も友のなみなみ我れも寄りなむ (16-3798)
あにもあらじおのが身のから人の子の言も尽さじ我れも寄りなむ (16-3799)
はだすすき穂にはな出でそ思ひたる心は知らゆ我れも寄りなむ (16-3800)
住吉の岸野の榛ににほふれどにほはぬ我れやにほひて居らむ (16-3801)
春の野の下草靡き我れも寄りにほひ寄りなむ友のまにまに (16-3802)


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藤原宮に葺かれた瓦

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瓦画像:藤原宮跡資料室展示品





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藤原宮に葺かれた瓦 当日レポート シナリオ・槻麻呂の一日 飛鳥咲読 両槻会


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