両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第40回定例会


飛鳥ど真ん中を歩く!



散策資料

作製:両槻会事務局
2013年9月14日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
川原寺跡 川原寺裏山遺跡 橘寺 飛鳥宮跡
飛鳥宮跡Ⅲ期内郭・エビノコ郭 飛鳥宮跡Ⅱ期 飛鳥宮跡Ⅰ期 飛鳥京跡苑池遺構
弥勒石・木の葉堰 飛鳥寺西方遺跡 飛鳥寺跡・飛鳥大仏 石神遺跡
水落遺跡 阿倍山田道 奥山廃寺 関連年表
元興寺縁起并流記資財帳 関連万葉歌 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


散策ルート

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この色の文字はリンクしています。

川原寺跡(資料担当:もも)


飛鳥資料館ロビージオラマより
 甘樫丘の南東、橘寺の北に位置します。寺域は南北約330m・東西200m以上とされ、飛鳥寺に匹敵する規模を所有していたとされています。伽藍は、一塔二金堂形式(川原寺式伽藍配置)で、中門から中金堂に取りつく回廊内に西金堂と塔が相対する形で東西に並び、北にある講堂の三方には僧房が巡ります。

 僧房は、4間分(梁間)の内側1間が吹き放ちで、残り3間が僧侶たちの住居の場とされたようです。個々の部屋は桁行で「2間・3間・2間」と規則的に2種類の大きさに区切られた土間であったことがわかっています。また、西面僧房のさらに約3m西にも北に伸びる遺構があり、一回り小さい僧房(小房)が存在する可能性もあるようです。

 東門は3間3間の重層門になり、南門より立派に造られた理由として、飛鳥川を挟んで東に位置する京域を意識したとする説や、寺域の東に重要な道があったとする説などがあります。

 また、北方には、瓦窯跡と金属製品の工房跡と思われる遺構があります。瓦窯跡は、西側の丘陵地に向けて作られた登り窯とされ、工房跡からは溶鉱炉と鋳造土抗を始め、鍛冶炉・ルツボなどが発見されています。これらの工房跡や上記の僧房跡は、寺院構成の中枢部分ではないため発掘調査が行われることが少なく、川原寺での検出は貴重な事例になるようです。 

 川原寺の正史での初見は、『日本書紀』天武2(673)年条「写経生を集めて、川原寺で初めて一切経の写経を始められた」になり、その後、飛鳥・藤原時代を通して大寺の扱いを受けたことは『日本書記』や『続日本紀』から窺うことが出来ます。しかし、造営に至る経緯については残されておらず、天智天皇により斉明天皇の菩提を弔うため、斉明天皇の川原宮の地に建立されたとする説が有力です。

 川原寺式伽藍配置をとる寺院には、大津京・南滋賀廃寺があります。また、大津京の崇福寺からは川原寺と同様に塔心礎に埋納されていた無文銀銭が出土していること、川原寺の中金堂で使用された白瑪瑙と呼ばれる礎石が滋賀県大津市石山寺付近から産出する珪灰石と考えられるなど、川原寺は近江の寺院との共通点を多く持つことから、川原寺の創建には天智天皇が大きく関係していたと考えられます。


このほか、川原寺式伽藍配置と同じように東西に相対する塔と金堂を配する寺院(観世音寺式伽藍配置)に、太宰府・観世音寺や陸奥・多賀城廃寺などがあげられます。なかでも、川原寺との同笵瓦が出土している観世音寺は、川原寺と同様に斉明天皇の菩提を弔うため天智天皇の発願によるとする説があり、川原寺の天智天皇創建説を裏付けることになるようです。

 川原寺の創建軒丸瓦は、大きな中房と中房内を三重に巡る蓮子、八枚の複弁、斜めに立ち上がった外縁に面違い鋸歯紋を配した文様になり、「川原寺式」と呼ばれます。川原寺式軒丸瓦は、南滋賀廃寺や穴太廃寺、同笵品は崇福寺から出土しており、瓦からも大津京との関連が窺えます。


川原寺式軒瓦
奈文研藤原資料室展示品

 また三重県桑名市の額田廃寺からも同笵品が出土し、その他美濃・尾張地方などにもその影響が濃厚なことから、こちらは壬申の乱の功労者に対する報酬だとして、天武天皇との関係を示すものだとする説があります。

 川原寺は、近江や美濃・尾張地域の寺院と多くの共通性が認められることから、天智朝から壬申の乱を挟んだ天武朝にかけて造営が行われたと考えられそうです。
 飛鳥・藤原時代に三大寺・四大寺として栄華を誇った川原寺も、平城遷都の際には新京に移築されることなく、次第にその地位を低下させていったと言われています。9世紀には、空海に下げ渡されたとする説もあり、やがては東寺の末寺となります。平安時代以降3度の火災に見舞われ、なかでも、建久2(1191)年の火災は、九条兼実の日記である『玉葉』にも記事があり、発掘調査の結果、この火災は伽藍全体に及ぶ大火であったようです。13世紀には順次再建されますが、16世紀に再度焼失してしまいます。




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川原寺裏山遺跡

 川原寺の北西、板蓋神社の所在する丘陵の南西側斜面にあたります。1974年と2011年の調査から、丘陵斜面に長径約4m、短径約3m、深さ約2mの楕円形の穴が掘られ、その中に火災にあった寺院に関わる仏像や荘厳具などが埋納されていたことが分かりました。


三尊塼仏出土状況
明日香村埋蔵文化財展示室 2007年秋の特別展
「川原寺裏山遺跡-発掘された飛鳥の仏たち-」展示パネルより

迦楼羅頭部出土状況
明日香村埋蔵文化財展示室 2007年秋の特別展
「川原寺裏山遺跡-発掘された飛鳥の仏たち-」展示パネルより

  出土した遺物は、塑像片が約1400点・塼仏片が約1500点、瓦片が約1500点、その他にも緑釉塼の破片など寺院・仏教関連の遺物が約14000点出土しました。出土した塑像には、如来形・菩薩形・天部等の部分があり、丈六仏像の断片らしい指や耳の破片も多量の螺髪とともに出土しています。特に天部の頭部の塑像断片や迦楼羅像は、美術的にも価値のあるものだとされています。


川原寺裏山遺跡出土
明日香村埋蔵文化財展示室
遺物の中に、承和2(835)年初鋳の銅銭・承和昌宝(じょうわしょうほう)が含まれていたことから、これらの遺物は平安時代の火災の際に埋納されたものだと考えられます。 
出土した塑像片や塼仏片には、7世紀中頃の特徴が認められることから、川原寺の創建に際して、堂塔に用いられたものであると考えられます。

川原寺裏山遺跡出土の方形三尊塼仏と同じ図柄のものが、橘寺からも出土しています。橘寺出土の塼を100%とした場合、川原寺が96%になることから、橘寺の三尊塼仏を踏み返し、川原寺の三尊塼仏が制作された可能性が考えられるようです。



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橘寺(資料担当:もも)


 伽藍は、東面する一塔一金堂形式(四天王寺式伽藍配置)と考えられていました。しかし、講堂跡の北東外側に西面が揃う凝灰岩の地覆石の石列が検出されており、この石列を回廊跡の一部と考えて、回廊が金堂と講堂の間で閉じる山田寺式伽藍配置であるとする説もあります。


 塔心礎は、基壇面の下約1.2mに据えられており、添え柱穴が三ヶ所造り出されています。このような様式は、野中寺や若草伽藍などのものが知られ、古い様式であると考えられています。創建当時の塔は、推定の高さ36mの五重塔として復元が出来るようです。また、塔内の荘厳には磚仏が用いられていたとされています。


「一間四面二階」の金堂平面図 
 金堂は、平安時代の『諸寺縁起集』に「一間四面二階」との記載があり、山田寺の金堂と同じ造り(身舎と庇の柱数が同じ)であった可能性があるようです。橘寺の創建時期は、伽藍配置や塔心礎の形状などから、遅くとも7世紀半ばには開始されていたと考えられます。瓦の出土量は川原寺式軒瓦が最も多いため、創建伽藍は瓦葺きではなかったとも言われていましたが、少量ではあるものの7世紀前半の飛鳥寺式に酷似する瓦が出土していることから、金堂は7世紀前半、塔は7世紀中頃に創建されたと考えられています。

 北門は、川原寺の南門に合わせ奈良時代に整備され、両門の間には、幅12.6mの東西道が走っていました。2012年度に行われた橘寺第20次調査により、寺域の東限に関わると推定される南北溝が検出され、調査区周辺に「東門」の小字があることから、東門の位置が推定されています。また、西側に残る小字から、西門の位置が検討されています。

 現西門の西側からは、工房とみられる遺構が検出されています。主要な遺構は、鍛冶炉6基と廃棄物を処理する土坑3基などで、橘寺に附随する金属工房跡と考えられます。

 橘寺は、聖徳太子が勝鬘経を講読した際に起きた瑞祥を機に建てられたと伝承されます。
 正史での初見は、『日本書紀』天武天皇9(680)年条に「橘寺の尼房で失火があり十房を焼いた」になり、この頃にはある程度の伽藍が完成していたことは、発掘調査からも窺うことが出来ます。
また、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に「橘尼寺」の名が見えることから、既に奈良時代には推古朝に建立されたと考えられていたことがわかります。
 
 奈良時代には、聖徳太子信仰に熱心であった光明皇后と橘寺の善心尼の存在が橘寺の繁栄を築いたようです。ことに善心尼は、造東大寺司への経典の貸し出しや、法華寺阿弥陀堂浄土院の造営への寄附が記録に残っており、当時の橘寺が教学面・経済面でも充実していたことを物語っています。

 平安時代には、罹災後も国家の援助を受けて復興がなされ、治安3(1023)年には、藤原道長が高野山参詣の途上に立ち寄るなど、貴族らの信仰も深かったようです。 また、11世紀後半には金堂の金銅仏が法隆寺に移管され、12世紀半ばに焼失し三重として再建された橘寺の塔に豊浦寺の四方四仏が移入されるなど、この頃の寺院の力関係を伝える出来事もあります。

 罹災・衰退と復興を繰り返した橘寺は、明応6(1497)年の火災によって、伽藍を全て焼失してしまいます。しかし、その後の長年にわたる復興によって近代的な伽藍として整備され、現在まで聖徳太子信仰を護り伝えています。





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飛鳥宮跡(資料担当:風人)

  現在、飛鳥宮跡は、複数の宮跡が重層して存在していると考えられています。3層4期に区分される宮跡の最上層はⅢ期と呼ばれますが、更に2区分され、Ⅲ期AまたはBと表記されます。各期は、以下のような諸宮に対応していると考えられています。
  • Ⅰ期  舒明天皇 飛鳥岡本宮      (630~636)
  • Ⅱ期  皇極天皇 飛鳥板蓋宮      (643~655)
  • Ⅲ期A 斉明天皇 後飛鳥岡本宮     (656~667)
  • Ⅲ期B 天武・持統天皇 飛鳥浄御原宮 (672~694)
 Ⅲ期A・Bの区分は、Aが内郭だけであったのに対して、Bはエビノコ郭や外郭を持つ点にあります。その新設に伴う変更が、内郭でも若干行われたようです。
現在、目にすることが出来る井戸遺構や復元されている柱跡は、Ⅲ期の遺構ということになります。

 各期の構造や重層の様子は、下図を参照してください。

飛鳥京跡 遺構重層関係 模式図
(規模を表す図ではありません)

飛鳥宮跡Ⅲ期遺構図



飛鳥宮跡Ⅲ期内郭・エビノコ郭


南門
 飛鳥宮跡Ⅲ期に該当する建物群では、内郭の中心線上の最も南に南門があります。規模は、東西5間、南北2間で、両側から掘立柱塀が伸びます。南門の南には、飛鳥川を南限として三角形の土地になりますが、儀式の場(朝庭)としての石敷広場の存在が想定されます。

前殿
 南門の北には、前殿と呼ばれる建物が存在しました。東西7間、南北4間で、4面に庇を持っています。建物の周辺には石敷きが巡り、南では更にバラス敷の空間が広がっていました。また、北には幅3mの石敷通路が伸びており、天皇が儀式のために前殿に向かうための石敷通路だと考えられています。

南北棟掘立柱建物
 前殿の東には、二重の掘立柱塀を挟んで2棟の掘立柱建物があります。床束が検出されているために、床張りの建物だとされています。規模は、2棟ともに南北10間、東西2間とされ、前殿を挟んで、反対側にも同様な2棟の建物が存在すると考えられています。これらは、朝堂とも考えられますが、確定するには至っていないようです。

三重の塀
 前殿の北には三重の東西掘立柱塀があり、内郭の南北を分けています。これは天皇の公的な空間と私的な空間を分けるものだと考えられます。

南北正殿
  その塀の北側では、二つの同規模の大型建物が検出されています。それぞれ東西8間、南北4間の規模で南北に配置され、建物は南北に庇を持つ切妻の建物に復元されるようです。
 調査では建物の階段跡が検出されており、床の高さは約2mであったと推定されています。
 2棟の大型建物には、それぞれに東西3間、南北4間の建物が東西両側に配置され、南北2間の廊状の建物で繋がっていました。Ⅲ期B(飛鳥浄御原宮)の時代に入って、南正殿の西の小殿が廃され、小池に改作されています。このことは、内郭が天皇のより私的な空間になった事を物語るのかも知れません。

エビノコ郭
 飛鳥宮Ⅲ期Bには、内郭の東南に新たに造営された区画があります。その区画は、小字名をとって「エビノコ郭」、そこに建てられた大規模な建物は「エビノコ大殿」と呼ばれています。


エビノコ大殿復元図

 エビノコ郭は、周囲を塀で区画した東西約94m・南北約55mの空間で、区画の南側には門が無く、西側にのみ門が造られた空間になっていました。
 中央には、この区画の正殿である「エビノコ大殿」がありました。その規模は、9間(29.2m)×5間(15.2m)を数え、飛鳥地域では最大とされる建物になります。建物の周辺には、石敷きが施されていました。
 また、この建物は四面庇付の高床建物で、入母屋造に復元されます。これらのことから、この建物は『日本書紀』天武天皇10(681)年条に見える「大極殿」の可能性が高いと考えられています。



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飛鳥宮跡Ⅱ期


飛鳥宮跡Ⅰ期・Ⅱ期(飛鳥板蓋宮)遺構所在図

飛鳥板蓋宮構造推定図

 発掘調査では、Ⅱ期の遺構として、西・南・東の塀跡(SA)、南・東側の溝(SD)、石敷通路などが検出されていますが、建物の遺構は未検出です。宮の構造は、『日本書紀』の記述などから推定されるにとどまっています。

 2012年2月に発表された吉野川分水路付近(上左図北方)の発掘調査では、推定で10tダンプ約3500台分の土砂で、低湿地を埋めたてた大造成工事の跡が発見されました。造成跡があったのは第Ⅲ期の内郭の北東で、官衙群があったとされている地域になります。推定で東西約150m、南北約180mの範囲に50cm~1mの厚さで、近くの丘を削った土を盛り、地盤を安定させ平坦地を造ったと考えられました。
 出土した土器が僅かであることから造成工事の時期を特定するのは難しいようですが、天理砂岩の切石(酒船石遺跡に使用された切石<斉明朝>)が混入していることなどから、現時点では第Ⅲ期に該当する時期だと考えられているようです。だとすると、Ⅲ期以前には低湿地であったことになり、Ⅱ期の飛鳥板蓋宮の北限をこれより南に想定しなければならなくなりました。推定宮域の修正か、または埋め立て時期や範囲を見直す必要があるのかも知れません。

 飛鳥板蓋宮の宮名は、屋根に板を葺いていたことに由来するとされます。飛鳥時代の宮殿の屋根は、檜皮葺・茅葺などであったようで、板葺きの屋根が用いられたのは初めてのことであったのでしょうか。
飛鳥板蓋宮は、645年6月12日に起こった「乙巳の変」の舞台となった宮です。これにより皇極天皇は同月14日に退位し、孝徳天皇が即位します。その後しばらくは、宮は難波に置かれ、飛鳥を離れることになりました。(難波長柄豊碕宮)

 白雉5(654)年10月、孝徳天皇が崩御すると翌年皇極上皇は飛鳥板蓋宮において重祚して斉明天皇となりました。飛鳥板蓋宮は同年末に火災に遭い、焼失しています。




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飛鳥宮跡Ⅰ期

 発掘調査では、明確に宮跡を示す遺構は発見されていません。飛鳥宮跡Ⅲ期の図に示した部分的な遺構だけになります。立派な柱穴を持っていることや、柱穴に岡本宮焼失を示すかのような焼土が検出されているのですが、これとて宮跡だと断定出来るものではありません。検出された遺構の特徴は、正方位ではなく北で西に振る旧来の飛鳥の地割方位を示しています。正方位の遺構より古い遺構と判断されるため、現段階では舒明天皇の岡本宮ではないかと考えられています。

 舒明元(629)年1月、舒明天皇は即位し、同2(630)年10月、飛鳥岡の麓に遷宮し、飛鳥岡本宮を正宮としました。
その6年後の舒明8(636)年6月、飛鳥岡本宮は火災で焼失し、田中宮(橿原市田中町)へ遷ることになりました。

 第Ⅲ期は、調査が進み判明したことも多くなりましたが、下層は上層遺構の保護も有りますので調査・研究も進んでいないように思われます。





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飛鳥京跡苑池遺構(資料担当:風人)

 飛鳥京跡苑池は飛鳥川右岸の河岸段丘上に立地し、飛鳥宮跡の西北に近接しています。大正5(1916)年には、この付近から「出水の酒船石」と呼ばれる石造物が2基出土していることも知られていました。平成11(1999)年、この石造物があった場所の北側で発掘調査が行われ、これまでに7次の継続的な調査が行われています。
 その結果、幅約5mの陸橋状の渡堤をはさみ、周囲に石積みの護岸をめぐらせた南北2つの池と北に延びる排水路で構成された飛鳥時代の苑池(庭園遺構)であることが分かってきました。


飛鳥京跡苑池遺構7次調査までの概要図
クリックで拡大します。

 南池は、東西約65m、南北約55mの北に頂点を持つ五角形を示しています。東岸は1m前後の大きな石を積み上げ高さ3m以上になりますが、西岸の高さは約1.3mで、高低差を意識した造りになっています。
 池底には、平らな石が敷き並べられ断面が皿状になっています。その中央付近には約6m×約 11mの範囲で島状の石積みがあり、その北には東西長約32m、南北幅約6mの張り出しをもつ中島があります。中島からは、松の根株が検出されており、植えられていた可能性が指摘されています。
南池には、4基の石造物が池中や南岸に設置されており、池への導水に使われていた可能性が指摘されています。
 また、池内では柱根や柱抜取穴が検出され、岸から張り出す縁台状の施設があったとみられています。さらに石造物周辺や東岸・中島南岸付近にも土坑群が検出されており、何らかの施設が設けられていた可能性がありますが、蓮などの水生植物を植え付けた跡だとも考えられるようです。

 北池は、南北約46m~54m、東西約33m~36mの規模と推定され、深さは約3mと南池より約2m深く、直線的な形状を呈しますが、北東隅に階段状の施設を持ちます。池底には、平らな石が敷き詰められますが、石敷きは南池に比べやや乱雑な感があります。
 南池と北池を隔てる渡堤には、両池間の通水を図る木樋が2ヶ所で検出されています。

 北池からは、さらに北に幅約6mの石積みの水路が続き、約100m北で西折し、飛鳥川へ排水させる施設であると考えられます。

 南北池共に岸周辺は傾斜をもち、東側には礫敷が施されています。また、南東の池周辺での最高所には、池の方向に影響された方位を持つ掘立柱建物が検出されています。
 さらにその東南では、苑池の東南隅を画する掘立柱塀(飛鳥宮Ⅲ期遺構図参照)が確認されており、苑池の範囲は南北約280m、東西約100mに及ぶとされています。

 南池では、東岸と南岸から幅約2mの範囲で、池底が約25cm高く段になっており、底石は2重になっていました。池が改修されたと考えられるようです。また、西岸は傾斜を持っており、州浜状であったようです。

 苑池が存在した年代は、出土遺物から7世紀中頃(斉明天皇の頃)に造営され、7世紀後半(天武天皇の頃)に改修を加えた後、10世紀に至るまで維持・管理された「白錦後苑」とする説が有力です。
『日本書紀』天武14(685)年11月条、「幸白錦後苑」。

 出土遺物には土器、瓦、木製品、斎串、木簡等がありますが、木簡の内容は、薬に関するもの、付札、文書木簡等多彩で、年代も7世紀中頃から8世紀初頭まで確認されています。
 2012年12月8日に現地説明会があった第7次調査では、池の南岸から大正5年に発見された石造物の抜取穴が確認されました。さらにその南側に石組暗渠が検出され、石造物の導水施設であることが判明しました。また、石造物の下部からは、それを支える台石が検出され石造物群の構成が解明されたかに思われました。


 しかし、上図下のように石造物1への導水がこのままでは不可能であるため、解明にはまだ時間を要することになりました。石槽の利用方法を含めて、今後の調査・研究に期待しましょう。

 苑池遺跡からは、薬草園や菜園があったことを示す木簡が出土しています。発見されたのは、薬の処方を書いたと思われる木簡や庭園管理の役所を示す「嶋官」と書かれた木簡です。「嶋官」とは、後の律令制における宮内省に属する「園池司」の前身機関で、苑池とその付属施設を管理していた官庁と考えられます。

 また、木簡には、下記のような、病状と処方が書かれたものが有りました。

「□病齊下甚寒(やみてほそのしたはなはださむし)」(表面)
「薬師等薬酒食教〓酒(くすしらくすりざけをおせとのるくきざけ)」(裏面)

 さらに、「加ツ麻○」「波々支道草花」など薬草らしい植物名と配合量が書かれたものや「委佐俾」と書かれたものも出土しています。

 苑池の底の堆積土からは、桃や柿、梨など多彩な種子や花粉が検出されており、庭園には天皇に献上するための薬草園や菜園・果樹園が併設されていたと考えられます。

 北池から延びる水路からは、ブリやスズキなど、海で捕れる魚類の骨がまとまって出土しました。ブリは60cm以上の成魚で、2枚か3枚に下ろした後、切り身にしたとみられる傷跡も残っていたとされます。他にも、ボラやスズキ、アジなどの骨があり、苑池での海の幸を使った宴を想像させます。 


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弥勒石・木の葉堰(資料担当:つばき)

弥勒石概観

 飛鳥寺西南、飛鳥川東岸の明日香村大字「岡」小字「木ノ葉」にあり、近隣には小字「道場」・「下川戸」があります。石材は硬いとされる「石英閃緑岩」(飛鳥石)で上部が丸く、おおよそ高さ2.5m・幅1m・奥行80cm。後面(東側)は自然な形状ですが、正面(西側)と左右側面に面取りが施されており、本来の使用目的をうかがわせます。石造物としては「立石」に分類。かつて飛鳥川の川底から掘り出し現在地に運びあげたと伝えられており、いつの頃からか、一般的には石仏として地元民間信仰の対象となり、引き上げられたと言う旧暦8月5日に何故か飛鳥寺のある大字「飛鳥」の方によりお祭りされています。


弥勒石諸説

・基準石説

 昭和32~33年の川原寺発掘調査において、亀石と弥勒石が川原寺の四至(四隅)を示す標示石ではないか、との説がだされ、それらの位置が注目されました。つまり寺辺の高市郡東30条3里の復元をした場合、二つの石造物が30条3里の西南隅と東北隅の坪にあり、現位置がもと据えられていた位置ではないとしても、二次的に里の境界を示すのではと推論されました。

 また、川原寺の中軸線北への延長線上に弥勒石が有ることから、条里とは無関係な有る種の地割に基づく基準石ではないかと言う説もありますが、現在、飛鳥の方格地割りの存在ははっきりしていません。


飛鳥川対岸(西)にある弥勒石への道標

・橋脚説
 堅牢な石、上部の丸い形状から、『日本書紀』天武14(685)年に、天武天皇が行幸したとある「白錦後苑」内の川を渡る小規模な橋ではないかという説です。現時点での飛鳥京苑池発掘調査結果から、南北池間にある渡り堤には南池に突出した個所があり、渡堤と中島を渡すような橋があった可能性があります。また、明治時代の地図には弥勒石の前に橋が描かれており、そこから伝承的に橋脚説が生まれたのかも知れません。今後の調査で橋脚のような立石が見つかると面白いですね。

・井堰説
 現在の「木葉井堰」は小字「下川戸」に設置されていますが、明治初め頃までは、現在弥勒石の立つ小字「木ノ葉」にありました。弥勒石は、かつて飛鳥川の川底より掘り出し現在地にまで運び上げたと言う伝承があることから、「木葉井堰」に伴う施設の一部であったのではとされる説があります。


飛鳥の地形と開発

 現時点では残念ながら弥勒石の用途に迫る新情報はありませんが、『飛鳥のど真ん中を歩く!』と言うのが今回の企画です。まさしく「飛鳥のど真ん中」の地域の開発を「木葉井堰」説と弥勒石から少し掘り下げてみました。

 まずは「井堰」について、飛鳥川からみた飛鳥の地形の特徴から調べてみましょう。
 飛鳥地方を潤す、南淵川と冬野川が合流する飛鳥川は山川であり、水源地から飛鳥に至るまでの流路が短いため、飛鳥川の流れは急であり、浸食作用も激しいと言われます。そのため川底は低く、飛鳥川に近い場所でも用意に水を引けなかったようです。飛鳥川本流(南淵川)にある栢森橋~祝戸橋間での標高差は約100mあるとされ、日頃のウオーキングでも川床が低くV字形になっているところが見受けられます。

 その一方、雷丘から下流では上流から流されてきた土砂が堆積して、時代とともに川床は次第に浅くなり、洪水を繰り返すことになるのです。「世の中は何か常なるあすか川きのふの淵ぞけふは瀬になる(古今和歌集 933)と詠まれた飛鳥川。飛鳥の開発にはその飛鳥川を巡る治水が最重要課題であったと言えます。

 現在、複数の溜池がありますが、狭義の飛鳥地域においては、溜池ではなく飛鳥川を利用した河川灌漑および排水が一貫して行われてきたと言えるようです。飛鳥川から水を引くためには、川水を塞き止めて井堰を設け、そこから分水して下流域に水を引く必要がありました。承保3年(1076年)の「大和国高市郡司刀禰等解案」に7つの堰がすでに記されており、現在ある飛鳥川(上流から藤原京域内に至る)11個所の井堰と呼称と場所が一致しているのが、「木葉井堰」と「豊浦井堰」で、11世紀にはすでに存在していたと考えられます。現在までの発掘調査から、現地形と7世紀代の地形はそれほど大きな変化はないと言われ、飛鳥川からの水の利用には現在同様の方法で井堰が設置されてきたのでしょう。

 軽地域の開発は4世紀末、飛鳥川右岸の飛鳥地域の開発は五世紀後半からと言われており、これら井堰の設置に関して6世紀末から7世紀始めの推古朝にまで遡る事が出来ると言われています。古代飛鳥地域の開発、宮の設置を考えると当然の事と言えなくもないでしょう。

 「木の葉の水は木之本に流れる」という言葉がある様に、昔から上流と下流で水争いが絶えず、飛鳥川の水と井堰は大変重要でした。ちなみに「木葉井堰」は飛鳥川では第2位の灌漑面積とされ、飛鳥川右岸の飛鳥・雷・奥山・木之本・下八釣を給水しますが、「豊浦井堰」は蘇我氏とその同族が集中していた豊浦・和田・田中・石川を中心とする一帯を給水し、灌漑面積は最大と言われており、二つの井堰の重要性がうかがえます。


日本霊異記(日本国現報善悪霊異記)から

 次に「井堰説」に話を進めましょう。まず、弥勒石と「木葉井堰」との関連を考えるときに興味深い説話が『日本霊異記』にみられるといわれています。『日本霊異記』は平安時代の仏教説話集で薬師寺の僧、景戒の著といわれています(882年頃)。民衆を対象に仏教の霊験を具体的に説いた説話を収録、雄略天皇から嵯峨天皇代の説話集116条を上・中・下の3巻で年代順に収録されています。説話といっても小子部連栖軽が登場する雷丘の由来で有名な上巻第1縁や吉野の比曽寺の起源をあらわらした上巻第5縁など日本書紀に伝わる出来事を原形として発展させたと思われる説話も見受けられ、そのことをふまえた上で読む『日本霊異記』上巻第3縁がより興味深いのです。

 尾張生まれの強力と伝承のある「道場法師」が幾多の法難から元興寺を救っていくというストーリーで、元興寺に現れる人食い鬼を退治し、鬼の髪の毛をもぎ取ったりします(この髪の毛は元興寺の宝物として伝わっており、鬼の事をガゴジと言われる由縁とされる。)そして最後に「元興寺の寺田への水の引きいれ妨害事件」が起きますが、強力を活かし百人がかりで引くような大石を水門に据え妨害を阻止、水が引き入れられた上に妨害もなくなり、めでたし、めでたしと終わるのです。 
  
 この話から、飛鳥川に井堰を作り、飛鳥寺周辺の寺田を潤したという事がうかがわれ、その堰こそが「木葉井堰」であり、道場法師が用いた大石が、もともと「木葉井堰」の付近にあったミロク石ではないかと想像できると言う訳です。ちなみに弥勒石の辺りの小字「道場」からは、鴟尾様の瓦製品が、また、直ぐ近位の小字「黒添」からは7世紀前半に遡る事が出来る敷石遺構と柱列がそれぞれ発掘されているそうです。この一帯に飛鳥寺にかかわる建物があったことも推測でき、益々興味深いと言えます。
(この日本霊異記に関しては両槻会HP『両槻会第10回定例会・第2回飛鳥検定』「元興寺の鬼と弥勒石」の記事も参照してください。)


飛鳥地域の水系図

 さらに飛鳥寺および小字「木ノ葉」の名称から、崇峻紀元年是歳条の記事が想起されます。法興寺(飛鳥寺)は、飛鳥真神原にあった飛鳥衣縫造の祖、樹葉の家を壊して作ったものと伝えられています。「木葉井堰」を造ったかどうかは分かりませんが「木ノ葉」はこの飛鳥衣縫造祖樹葉の名を伝えているのではないかと推測されます。古代飛鳥の開発に関して、飛鳥川の水の管理・治水工事の一環として「井堰」の存在は重要なものであったと前述しました。今なお残る「木ノ葉」と言う名称は、既に5世紀代に居住していた渡来人の存在と彼らの技術提供が飛鳥の開発に大きな役割をもたらしていた事、飛鳥時代以降も恩恵や水争いなど、水を巡り民衆にも多大な影響をもたらしていた事に飛鳥寺で布教活動や土木技術支援などをする道昭、その弟子の行基達の活動が加わり、長く伝承される事になったのかもしれないと思うのです。


弥勒信仰 

 そもそも何故、「弥勒」なのでしょうか?室町・戦国時代に弥勒信仰が流行ったらしく、現飛鳥集落も室町時代からと言われており、その辺りの歴史的事情が影響しての事だったのかも知れません。(この近くに「ミロク田」とう小字があるのですが、これ以上の深追いはできません。)
 いずれにせよ、橘寺、川原寺から飛鳥川左岸を歩き、橋を渡った先にある飛鳥寺へ向かういわば「参詣ルート」に弥勒石があり、弥勒さんとして旅の道中祈願をする様になったのでしょう。そのように考えると、この弥勒石のある場所は飛鳥・真神原との境界にあるとも言えます。前述した水を巡る由縁や飛鳥との境界などを考えると大字「飛鳥」の方が大切にされる訳が理解できます。
 弥勒は仏ではなく、修行中の身であり長い修行を経てやっと仏になると言われています。その仏になると言われる56億7千万年後に、もしかして弥勒石の顔もはっきりとした仏のお顔になっているかもしれません(誰も確かめられませんけどね)。


「道場法師」と尾張元興寺 

 上記説話にはまだ意外な展開があります。この「道場法師」は後に、生まれ故郷の尾張に帰り、元興寺(願興寺)を建立したとの伝承があります。東海地方最古の寺と言われる尾張元興寺(飛鳥、奈良の元興寺と区別しての俗称)は、現在の名古屋市中区で発掘調査がなされ、飛鳥・河内に関わる数種類の瓦(山田寺式、川原寺式、船橋廃寺式、や河内野中寺と同笵瓦など)が出土している他、石神遺跡出土と同じ文字が記載された須恵器も発掘され、考古学的にも飛鳥を始め近畿地方と何らかの関係が示唆される、興味深い寺です。
尾張元興寺は、標高7〜10mの半島状に突出する熱田台地西端縁に立地し、西に低地を広く臨み、古代においては、遺跡地西側は海であったと推定され、海上から最も目立つ場所に立地する畿内と尾張を結ぶ海上交通上の要所であったと考えられています。
尾張の「張」は元々「治」の字を用いており、「開墾」の意味をもつそうです。単なる文字表記ではありますが、飛鳥の開発に何らかの関係性がここでも道場法師や弥勒石をとおして見え隠れしているように映ります。飛鳥の開発を川の底から眺め、奇しくも掘り起こされた後、民間信仰の対象として、現代の世に立ち続ける弥勒石。ある意味、歴史の記憶としての標示石かも知れないと思うのです。






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飛鳥寺西方遺跡(資料担当:風人)


 飛鳥寺の西には、「法興寺槻樹下」や「飛鳥寺西槻下」などと『日本書紀』に書かれる場所があります。一般的には、「槻の木の広場」と書かれることが多いように思います。「木」と「樹」の厳密な区別は必要ないでしょうが、ここでは「槻の樹の広場」としたいと思います。
 『日本書紀』では、様々な表記でこの場所を示していますが(年表参照)、飛鳥時代の約100年間を通して、広がりを持った場所として確保されていたようです。飛鳥寺境内の西端から道路を隔てて飛鳥川までの南北約220m、東西約170mの範囲が考えられます。

 この場所では、大化改新(乙巳の変)の序曲となる中大兄皇子と中臣鎌足の蹴鞠での出会いがありました。また、大化改新政府は、皇極4(645)年、槻の樹の下で孝徳天皇、皇極前天皇・皇太子中大兄皇子らが臣下を集めて、忠誠を誓わせました。壬申の乱に際しては、近江朝廷側の軍営が置かれました。また、天武・持統朝では、多禰(種子島)人や隼人・蝦夷らを饗応した記事が頻出します。


飛鳥資料館ロビージオラマより

 「槻」とは欅(ケヤキ)の古名ですが、ケヤキは巨木となることが多く、また神聖視される事例も多いようです。現在も、注連縄の張られた古木をご覧になった方も多いのではないでしょうか。飛鳥時代にも、同様の意識があったのではないかと思われます。万葉集の巻11-2656には、次のような歌があります。
  天飛ぶや 軽の社の 斎ひ槻 幾代まであらむ 隠り妻ぞも 

 槻の樹の広場は、これまでに度々発掘調査が行われており、飛鳥寺西方遺跡の名称で呼ばれます。これまでの調査では、掘立柱塀や180m以上続く土管暗渠、120m以上続く南北石組溝をはじめとする大小の石組溝、石敷遺構、砂利敷遺構などが確認されています。建物遺構は確認されておらず、全体に砂利敷や石敷の空間が広がっていたようです。


 上図は、2013年2月(直近)の調査区の遺構模式図です。石敷・砂利敷の範囲は正確ではありません。

 2013年2月2日、飛鳥寺西門跡の西約40mの地点が調査され、一面の砂利敷遺構と不整形な石敷遺構が検出されました。これまでの調査では、部分的に石敷・砂利敷が検出されることがありましたが、広範囲な石敷を眼前に出来たのは初めてではないかと思います。時期的には、出土遺物から7世紀中頃に敷かれたものだと考えられるようです。
 この調査で目を引いたのは、二つの土坑です。石敷中央付近のものは、径約1.9mの大きさで、円形に石が抜き取られており、その中に径約1.5m、深さ約40cmの土坑が空けられていました。当初、槻の樹が生えていた所ではないかとの期待も有ったのですが、その痕跡はなかったようです。また、須弥山石の設置場所、幢竿遺構ではないかとも考えられましたが、それらを示すものは検出されませんでした。また、調査区の東からは、時期不明の径約3mの土坑が検出されています。

 これらの成果は、槻の樹の広場の謎を更に深めたように思われます。石敷が不整形であること、石敷に穿たれた浅い穴、これらは何らかの意図を持って造られたものだと思われますが、今後の調査・研究を待つ以外になさそうです。

 現在(2013年9月)、この調査区の西側の調査が開始されています。両槻会第25回定例会の講師 大西貴夫先生(当時橿考研)が担当された調査区の東側にあたり、検出された飛鳥寺西門に続くと思われる石敷参道の続きが検出されるかも知れません。
 
『日本書紀』に見る「飛鳥寺の槻の樹の広場」
皇極3(644)正月 法興寺の槻樹の下 中臣鎌足と中大兄皇子の出会い。
大化元(645)6月 大槻樹下 群臣を召集めて忠誠を誓わせる。
斉明3(657)7月 飛鳥寺の西 須弥山石を造り盂蘭盆会を設け、都貨羅人に饗宴を催す。
斉明5(659)3月 甘樫丘の東の川上 須弥山石を造り、陸奥と越の蝦夷に饗宴を催す。
天武元(672)6月 飛鳥寺の西の槻の下 近江朝廷軍が軍営を置く。
天武6(677)2月 飛鳥寺の西の槻の下 多禰島人等に饗宴催す。
天武9(680)7月 飛鳥寺の西の槻に枝 自ら折れて落ちる。
飛鳥寺の僧が亡くなる予兆か。(弘聡)
天武10(681)9月 飛鳥寺の西の河邊 多禰島の人等に、種々の楽を奏する。
天武11(682)7月 飛鳥寺の西 隼人等に饗宴を催し、種々の楽を奏する。
持統2(695)5月 飛鳥寺の西の槻の下 蝦夷の男女213人に饗宴を催す。
持統9(695)5月 西の槻の下 隼人の相撲を観る。



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飛鳥寺跡・飛鳥大仏(資料担当:よっぱ・もも)

 寺域は、東西約200m、南北約300mの規模を持ちます。伽藍は、一塔三金堂形式(飛鳥寺式伽藍配置)で、五重塔を中心に中金堂・東金堂・西金堂、その周りを回廊がめぐり、回廊外の北側に講堂が置かれていました。
 『日本書記』によると、用明2(587)年に馬子の立てた誓願により翌崇峻元(588)年に、衣縫造の祖・樹葉の家を壊し、造営を開始します。この年、絶妙なタイミングで造寺に必要な工人らが百済から派遣され来朝しています。(参照:元興寺縁起関連年表
 『日本書記』には、その後も飛鳥寺造営の様子が詳細に記録されており、飛鳥・藤原時代を通して、歴史的に重要な場面で、飛鳥寺は度々正史に登場します。

 平城遷都から8年を経た718年に奈良の地へと移築され、やがては壮大な伽藍を誇る一大寺院「元興寺」としての歴史を刻み始めます。

 一方、飛鳥の地に残された飛鳥寺は、「本元興寺」(もしくは、法興寺)と呼ばれ、元興寺の管轄下に置かれ、現在の奈良・元興寺極楽坊には、創建飛鳥寺のものと思われる瓦や部材の一部が残されています。しかし「本元興寺」としての記録がその後の史料にも多数見られることから、移築に際し飛鳥から奈良へ運ばれた部材は、解体・移送しやすい一部の部材だけだったと言われています。

 鎌倉時代に入った建久7(1196)年に、雷により伽藍の殆どを焼失してしまったものの復興はならず、草庵一坊のまま飛鳥大仏は半ば野晒し状態であったそうです。そして、江戸時代に仮の堂宇が建立され、この仮堂が現在の安居院へと繋がることになります。(正式名称は鳥形山〈とりがたやま〉安居院〈あんごいん〉)

 現在の宗派は、真言宗豊山派で総本山は桜井市内にある長谷寺になります。では、造営、造仏時の宗派は如何なるものだったのでしょうか。仏教公伝時(583年)の教義は不明なものの、推古14(606)年に、聖徳太子は勝鬘経・法華経を唱えています。法華経は鎮護国家思想を主とするものですが、当時、宗派はなく大乗仏教と上座部仏教の違いぐらいしかなかったのかもしれません。
 その後の宗派は、法相宗であったと思われます。日本に初めて法相宗を伝えた道昭は、白雉4(653)年に唐に渡って玄奘三蔵に師事して法相宗を学び、斉明7(661)年に帰国して飛鳥法興寺に入り、翌年の662年に東南禅院を建立してここを拠点として法相宗を広めたと考えられているからです。

 安居院本堂に安置されている本尊飛鳥大仏(釈迦如来坐像)は、605年(推古13年)天皇の詔により、鞍作鳥仏師に造らせた日本最古の仏像と言われ、創建飛鳥寺の中金堂に安置された位置を動いていないとされています。

 釈迦如来像は、世界で初めて作られた仏像で、数ある仏像のなかでも釈迦のみが実在の人物となります。仏教は釈迦崇拝ですが、当初は偶像崇拝が否定されていたようです。仏像も、釈迦入滅の500年後にガンダーラやマトゥラーで初めて作られ、世界に広まったと考えられています。

 仏像は、上位から如来、菩薩、明王、天、高僧・羅漢などの種類があり、釈迦如来は最高位になります。仏像には三十二相八十種好と呼ばれる特徴があり、如来のみが持つものには、髪の毛が右まきで法螺貝の様な形をしている「螺髪」、仏が説法をするときに光りを発するといわれる眉間の「白毫」、頭頂の肉が盛り上がっている「肉髻」、悟りに至る修行の三段階(見、修、無学)の「三道を示す首のしわ」があります。


印相 参考図

 仏像の手の仕草は、印相・印契、略して印と呼び、釈迦には5種類の印がありますが、飛鳥大仏は施無畏印(畏れ無きを施す印)と与願印(願いを与える印)を示しています。

 衣の付け方には、通肩(つうけん)と呼ばれる両肩を隠した付け方と偏袒右肩(へんたんうけん)と呼ばれる右肩を出した付け方があります。偏袒右肩は師匠や仏に対するときに敬意を表す付け方ですので、最高位の釈迦如来である飛鳥大仏は通肩となっています。また、衣(大衣)が、左肩~背~右肩~体前面~左肩にかかるのは北魏の古像、内衣の襟をV字に見せるのは百済、内衣の結び目は法隆寺の仏像などに似ています。

 飛鳥大仏の台座は、石造(竜山石)で、このことから当初は石仏があったのではないかと言われていましたが、台座・仏像は造立当初から動いていないとされています。当時、銅造の大仏を支える銅の台座が作れなかったのかもしれませんね。
 また、台座の両側にほぞ孔があることから、造立当時は釈迦三尊像であったと推定されています。釈迦三尊の場合、脇侍は菩薩であったと考えられます。釈迦三尊によく見られるのは、文殊菩薩と普賢菩薩で、法隆寺では、薬上菩薩と薬王菩薩となっていますが、飛鳥大仏の脇侍がが、何菩薩であったのかは、現在では不明としか言いようがありません。

 飛鳥時代の仏像の特徴は、面長の顔にアーモンド型の目、アルカイックスマイルと呼ばれる独特の笑みを湛えています。また、衣では、内側の衣のひもの結び目が見えている(伸帯式仏衣)、衣が台座に掛かって裳懸座(もかけざ)を形成する、衣が左右に張り出して鰭状をなす(鰭状衣文)など、日頃私たちが見慣れている他の時代の仏像とは異なる様相を持ちます。
 これは、中国北魏(北朝)の影響を受けたとする説がありますが、百済から黄海の対岸にあり南朝の影響を受けた山東半島の仏像にも酷似する部分も多く持つようにも見受けられます。

 飛鳥大仏は、二度にわたる火災で損傷・修理され、往時の姿を留めている箇所は、頭部では額・両眉・両眼・鼻梁、左手の掌の一部、右膝上にはめ込まれる左足裏と足指、右手中指・薬指・人差指だけと言われていました。
 しかし、2012年に銅の比率などが調査された結果、造立当初とされる箇所と鎌倉時代以降の補修とされる箇所での際立った差がみられず、飛鳥大仏はほぼ造立当時の姿のままである可能性が高いとされました。これについては、表面の仕上げの違いや鋳バリの残存のほか、破損部位の銅を回収し再鋳造した可能性などの問題点もあげられており、飛鳥大仏の補修・非補修論争は今後も続きそうです。

飛鳥寺創建瓦
明日香村埋蔵文化財展示室

 創建飛鳥寺で使用された瓦は約10種類あり、蓮弁の先に切れ込みの入る「花組(弁端切込式)」と、弁端に珠点を置く「星組(弁端点珠式)」との大きく2つのグループに分けることが出来ます。これらの文様は百済の軒丸瓦にもみられることから、祖形は百済に求めることができるようです。この2つのグループは、瓦当文様だけではなく、瓦当裏面の整形の方法や伴う丸瓦の形態、軒丸瓦製作時の瓦当と丸瓦の接続部分など製作技術の面においても細かく違いが認められます。これは、花組と星組が別個の職人集団として造瓦に携わっていた証とされています。


東南禅院
 飛鳥寺の寺域東南隅で、7世紀後半の基壇を持つ礎石建物と築地塀が検出されました。出土した瓦に禅院寺(和銅4<711>年 東南禅院が平城京に移築・改名)との同笵瓦があることから、この地が道昭の住まいした東南禅院の跡だと考えられています。
 道昭は、白雉4(653)年に入唐し玄奘三蔵に師事、斉明7(661)年に沢山の経典を携えて帰国し、この地で三蔵の教えを説いたとされます。また、十年余り各地を点々とし宇治川に最初の橋を掛けたのも彼であるとされています。文武4(700)年に入滅した道昭は、遺言により栗原の地で、我が国で初めて火葬にされました。


飛鳥資料館ロビージオラマより



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石神遺跡(資料担当:風人)


 石神遺跡は21次にわたる調査の結果、南北約180m、東西約130mに及ぶ広範囲な遺跡であることが分かりました。

 西の限りは、飛鳥川の右岸に沿う道路から一段高くなっているところだと推定されています。南側は、飛鳥寺の北限遺構に沿う道路があり、その北に藤原宮大垣に匹敵する大きさの柱掘形や柱痕跡を有する基壇上に建つ東西掘立柱塀遺構が検出されています。それが南限だと考えられています。

 東限は、20次、21次調査において門と塀の遺構が検出され、その東に道路と思われる遺構も検出されたことから推定されました。
 北限は、第13次調査で二本の東西溝に挟まれた塀遺構が検出されていることと、その場所で地形が北に向かって一段落ち、その北側は沼沢地となることから判断されています。

 この範囲の中に、斉明天皇の時代に造営された饗宴施設だと思われる遺構群が収まる事になります。ただし、他の時期の遺構は、度重なる造成を繰り返し、その範囲を超えて造営されている物もあります。
石神遺跡変遷図参照)

 石神遺跡からは、古墳時代から平安時代までの遺構が検出されていますが、その中心は7世紀を通しての飛鳥時代になります。遺構の重複などから、飛鳥時代に何度も造成を行いながら、土地利用が続けられたと考えられています。

 石神遺跡は、大まかな区分として3期に分けて考えられます。発掘調査を実施した奈良文化財研究所では、A・B・Cと時期区分を書き表していますので、それに従うことにします。
 A期は、7世紀前半~中頃に相当する時期区分で、斉明朝の饗宴施設だとされる時期を含んでいます。A期とされる遺構には、大規模な長廊状の建物やそれに囲まれた四面庇建物、池・井戸や石組溝が配置されていました。これらが、饗宴施設群だと考えられる遺構です。また、須弥山石や石人像もこの時期のものであるとされています。

 これまで、その斉明朝期である7世紀中頃に石神遺跡の活発な土地利用が始まったと考えられてきましたが、21次調査によって多量の瓦(奥山廃寺式)が出土し、斉明朝に先行する瓦葺の建物(仏教関連施設か?)があった可能性が高まりました。これによって未解明のA期前半の様相にも新たな興味が持たれます。

 B期は、7世紀後半です。天武天皇の時代になり、A期の建物は完全に撤去され大規模な造成がなされた後、飛鳥浄御原宮の官衙的な性格を帯びた南北棟建物群が遺構全体に造られたと考えられています。北に広がる沼沢地は埋められ、南北溝・東西溝が造られました。この時期に大きな土地利用の変革があったようです。 (石神遺跡変遷図参照)
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ (19‐4260)
     大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ (19‐4261)

 2首の万葉歌を彷彿とさせる土地改良事業であるように思われます。

 C期は、7世紀末~8世紀初頭の藤原京が存在した時期区分になります。B期の建物を解体した後、塀で方形に区画された藤原宮の官衙群と同様の配置を持つ建物群が造られました。具体的には、藤原宮内裏東官衙の南北3区画と類似するとされ、藤原宮の役所の一部がこの地に置かれたと推定できます。

 石神遺跡から出土する大量の木簡や様々な木製品などは、B・C期の物が多く、これらの時期の建物遺構が官衙的な性格のものであったことを裏付けています。 

 B期・C期の建物群は、飛鳥浄御原宮から始まる我国の律令制度の進展と期を一にしており、それに伴う官僚機構の拡充増大が石神遺跡を饗宴施設から官衙群へと変貌させたのかも知れません。B期に相当する天武天皇の時代には、飛鳥浄御原宮の東から北にかけて、官衙群が形成されたのではないかとの見方が有力になっています。
 それを裏付けるものとして、大量の木簡や木製品の出土があげられます。出土地点は、北方の沼沢地を埋め立てた後に造られた溝からの物が主となり、第15次・第16次調査での出土数合計は、3,503点(削屑2,836点)を数えます。その内、紀年銘のある木簡が20点含まれていました。最も古い乙丑年(天智4<665>年)の物を除けば、乙亥年(天武4<675>年)から壬辰年(持統6<692>年)の範囲に入り、木簡が天武・持統朝を中心とすることが分かります。

 注目される木簡では、16次調査の元嘉暦による持統3(689)年3月と4月の暦日を記した最古の「具注暦木簡」とよばれるもの、また18次調査出土の「己卯年八月十七日」(天武8<679>年)と記載のある観音経木簡、さらに「評五十戸」木簡を始め、(表)竹田五十戸六人部乎 (裏)佐加柏俵冊束など、全国からもたらされる様々な「貢進木簡」、行政の場であったことを示す「文書木簡」や「記録木簡」、万葉歌や難波津の歌・論語・九九などを練習した「習書木簡」が出土している他、木製品では文書の行間を揃えるために使われたと思われる定規や封緘なども出土しています。

 また、重要な物では仕丁関連の木簡があげられます。仕丁というのは、地方から労役を徴用する税制度ですが、大化改新後の律令制下では、1里50戸につき2人が中央に貢進され、諸官司で雑役に使役されました。第15次調査では、「物部五十戸人口口 大家五十戸人 口口 日下五十戸人 口口」と書かれた木簡が出土しています。これらは、後の尾張国愛智郡の里名を示すものだと考えられています。飛鳥時代の仕丁制度を具体的に示す貴重な資料になります。仕丁に給付される米に関する「養」と書かれた木簡も出土しています。「五十戸」は、「さと」と読みます。

 また、藤原京期の大宝律令の下では、中央集権体制の確立をめざして地方行政の整備が進められました。地名表記も「評」から「郡」へ、「五十戸(さと)」から「里」へと変わり、全国は国-郡-里の3段階に区分されました。これらの整備事業は、「改新の詔」によって行われたように書紀には記載されていますが、木簡からその実施が大宝律令下で行われたことがわかりました。

 第15次調査の出土木簡
(表) 乙丑年十二月三野国ム下評
(裏) 大山五十戸造ム下部知ツ (改行) 口人田部児安

 乙丑年は天智4(665)年。「国-評-五十戸」を示す木簡としては最古の年紀を持つ木簡だとされているようです。「三野国ム下(むげ)評大山五十戸(後の美濃国武芸郡大山郷、岐阜県富加町付近)」からの荷に付けられていた木簡です。

 また、B期の官衙群を、小墾田兵庫ではないかとする見解があります。これは、石神遺跡から、鉄鏃が多数出土することなど、単なる官衙群とは考えられない点や、また小墾田宮が近くに存在すること、周辺には近江朝の留守司が置かれたこと、壬申の乱時の軍営が槻の樹の広場に置かれた点などからの考察だと思われます。

石神遺跡変遷図(クリックで拡大します。)


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水落遺跡(資料担当:風人)

 飛鳥川東岸に位置し、北では石神遺跡と接しています。また、南は槻の樹の広場に接することから、飛鳥時代を通してその折々に重要な意味を持った施設が置かれたものと考えられます。
 『日本書紀』斉明6(660)年条に、「皇太子(中大兄皇子)がはじめて漏剋(水時計)をお造りになり、民に時を知らせた。」という記事があります。この漏刻を据えた時計台ではないかとされる遺跡が検出され、小字名を採って「水落遺跡」と呼ばれています。

 遺跡の中心遺構は、貼石のある方形の土壇に4間四方の正方形の平面プランを持つ建物です。中央部を除いた礎石建ちの24本の柱による総柱の楼状建物が建設されていたことが推測されています。柱の据え付けには頑強な地中梁が見られ、堅牢な建物であったことが窺えます。


水落遺跡遺構概略図

 この建物遺構の基壇下約1mには花崗岩切石を台石にして、1.65m×0.85mの黒漆塗の木箱が置かれていた痕跡がありました。また、建物の東からは木樋暗渠が伸びており、枡、銅管なども建物中央付近から検出されています。やや東では、木樋から上方に取り付けられたラッパ状の銅管が設置されていたことが分かっており、これを高い位置への給水に使っていたと考えられています。
水の利用に関わる施設や遺物が発見され、『日本書紀』の記述に該当する漏刻が置かれた場所であるとされました。
 水落遺跡に設置された水時計は、唐の技術に倣ったもので、7世紀の前半に呂才によって考案され造られた精密な水時計に近いものだったと考えられるようです。時期的に考えると、白雉5(654)年の第3次遣唐使によって持ち帰られた技術だったのかも知れません。

  基本的には、箭を浮かべた最下段の水槽に一つ上の水槽からサイフォン管を通って水が滴り落ち箭を押し上げます。一つ上の水槽の水位が変われば水圧も変わって滴る水の量も一定ではなくなってしまいますので、これを防ぐためにさらに上に水槽を置き滴った分の水を補充するように工夫されています。

 飛鳥水落遺跡では、呂才が作ったとされる4つの水槽を重ねて水位の変動をおさえる仕組みが導入されていたと考えられ、これによって正確な時を計る構造になっていました。

 水時計は、水落遺跡の1階に置かれていましたが、2階には時を告げる鐘や鼓(太鼓)が置かれていたと考えられています。しかし、堅牢な建物であることから、2階には水槽が置かれ石人像や須弥山石の噴水装置の水源になっていたとする説もあるようです。また、水時計は誤差もあるため、それを補正する天文観測所が置かれていたとする説も有力です。水落遺跡周辺には、少なくとも同時代の建物が4棟あったようですので、後の陰陽寮のような役割を担った施設群であったのかも知れません。

 水落遺跡の水時計施設は、石神遺跡のA期に該当します。では、B期の水落遺跡はどのようになっていたのでしょうか。
石神遺跡では、斉明天皇の饗宴施設が取り払われ大造成が行われた上で、天武朝の官衙(小墾田兵庫)が置かれました。水落遺跡でも同様な事が行われたようです。


石神遺跡B期遺構図
 中心的な建物を含めて、周辺の建物群は全て柱を抜き取られ、抜取穴の特徴や埋土の様子から同時期に解体されたことが分かるそうです。また、抜取穴埋土には、炭化物や焼土が含まれるようで、火災で廃絶した可能性も指摘されています。石神遺跡A期の建物(長廊状建物)が火災にあっており、その火が延焼していることも分かっているようです。可能性としては、水落遺跡の建物群もこの火災に巻き込まれた可能性も無視できません。

 B期の遺構は、大規模な整地の後、造営されています。遺構の重複関係などから、遺構は2時期に細分されるようです。
B-1期は、掘立柱建物が2棟、掘立柱塀2条、東西溝1条。B-2期は、掘立柱建物2棟が検出されています。B-2期は、B-1期の建物を壊した後に建てられています。

 石神遺跡のB期が、天武朝の官衙群(小墾田兵庫)だとすると、水落遺跡のB期の建物群は、それに関連する建物であったことも推測されます。B-2期の庇を持つ大きな掘立柱建物は、東に続く建物群の正殿的な役割を担っていたのかも知れません。


漏刻に関する日本書紀の記述

『日本書紀』斉明天皇6(660)年5月是月条
「又皇太子初造漏尅。使民知時。」
(また、皇太子が初めて漏剋を造る。民に時を知らしむ。)

『日本書紀』天智天皇10(671)年夏4月丁卯朔辛卯条 (旧暦4月25日<6月10日>)
「置漏剋於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏剋。此漏尅者、天皇爲皇太子時、始親所製造也、云々。」
 (漏剋を新しい台に置き、時刻を知らせ、鐘・鼓を打ちとどろかせた。この日初めて漏剋を使用した。この漏剋は、天皇が皇太子であられたとき、御自身で製造されたものである、云々と伝える。)

 天智10年の記事は、飛鳥の水時計を運んで新しい時計台に設置したように読めるのですが、上記のようにA期に消失しているとなれば、この漏刻は新たに作られた漏刻であると言えるように思われます。遷都から4年の時間を要して漏刻が設置されたのも、新造であったからなのかも知れません。

  皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寝ねかてぬかも  巻4-607
  時守の打ち鳴らす鼓数みみれば時にはなりぬ逢はなくも怪し  巻11-2641

 これらの万葉歌からは、律令制下において時を告げる漏刻の鼓や鐘の音が、すでに日常の中に溶け込んでいることが伺えます。
 時守とは、律令制下の役人で、漏刻を守り時刻を報ずることを司ります。彼らは、陰陽寮に属しました。

 飛鳥浄御原宮や藤原宮の漏刻は、どこに造られていたのでしょうか。


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阿倍山田道(資料担当:風人)

 古代の大和盆地には、国家によって整備された幾つかの道路がありました。主なものには、横大路という東西の道路と、上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれる等間隔に並んだ南北の三道があります。阿倍山田道もまた、そのような官道の一つでした。

 「阿倍山田道」は、近鉄橿原神宮前駅東口から東へ伸び、丈六付近で下ツ道と交差し東進した後、桜井市山田付近で丘陵に沿って北東方向に緩やかなカーブを描きながら、安倍寺の東側でほぼ南北の直線道路となります。横大路と交差してから以北は、上ツ道と呼ばれ更に北に伸びます。
阿倍山田道沿いには、推古天皇の豊浦宮・小墾田宮といった飛鳥時代初期の宮があり、その先には飛鳥時代以前の歴代天皇の宮殿があった磯城・磐余地域があります。軽・飛鳥・磐余・磯城という古代の重要地点を結ぶ幹線道路が阿倍山田道だと言えます。



阿倍山田道が、文献に登場する例としては、まず9世紀初めに書かれた『日本霊異記』が上げられます。上巻の第一話に雄略天皇の時代の話として、阿倍山田道らしき道路が登場します。雄略天皇の命を受けた少子部栖軽が雷神を求めて宮から「阿倍の山田の前の道」「豊浦寺の前の道」を通って、「軽の諸越の衢」に至ったと書かれています。

 『日本書紀』推古16(608)年、聖徳太子の「日出処の天子・・・」の書き出しで始まる書簡で有名な遣隋使に対して、隋の使者 裴世清が入京します。瀬戸内海を船で難波津に着け、2ヶ月の滞在の後いよいよ飛鳥へ入ることになります。
 同8月の条に「・・この日、飾り馬七十五匹を遣わして、唐の客人を海石榴市の路上に迎え、・・・。」という『日本書紀』の記述は、海石榴市から小墾田宮へと歓迎のパレードが行われたことを示しています。
 海石榴市から小墾田宮までは、阿倍山田道以外のルートは考えにくく、この期に道路は整備や改修が行われたと思われます。『隋書』巻81東夷伝倭国条には、裴世清を迎えるにあたっての日本側の対応が記されています。その中に、「清道飾館」という言葉があり、「ことさらに道を清め、館を飾る。」と読むようですが、「清道」とは道路整備と考えても良いと思われます。
 そして、これを裏付ける発掘調査の成果があります。2002年桜井市教育委員会によるもので、安倍寺の東から小礫や土器片によって舗装され、石組の側溝を伴う道路遺構が検出されました。また、土器片などから、それが7世紀前半の遺構であることが判明しています。まさに、裴世清のために行われた「清道」を示しているかのようです。

 古代の阿倍山田道が、発掘調査で見つかった事例をもう一つ紹介します。2007年、奈文研がおこなった石神遺跡第19次調査で、阿倍山田道の南側溝と路面が検出されました。それ以前の調査結果(北側溝の検出)と合わせて、路面幅は側溝心々間約18m。両側に側溝を持つ立派な道路であったことが分かりました。
 道路は敷葉工法という基底部に木の枝葉を敷き詰めて土を盛る基礎工事を行っていました。敷葉工法とは、小枝や樹皮と土を交互に積み重ねてつき固めて、敷き詰めた枝葉に土中の余分な水分を吸い取らせるために用いられます。大陸から韓半島を経て、7世紀頃我が国に伝わった渡来系の土木技術だとされています。狭山池(616年以降)、高松塚古墳、福岡県太宰府の水城の底辺部(推定7世紀後半)などでも確認されています。

 石神遺跡19次調査では、路面の下層に東西約約14m・南北7mにわたって、80cm~1mの椎や榊の枝葉を南北に揃えて敷き詰め、さらにその上には砂質と粘土質の土を交互に盛る厚さ40cm~50cmの土層が確認されました。出土した土器から7世紀中頃から藤原京期まで整備されていたと考えられます。
 また、過去に近接する場所でおこなわれた発掘調査では、地中の水分を除去するために大がかりな石組みの暗渠が造られていることも確認され、石神遺跡の北方に広がる沼沢地に道路を建設する様々な工夫がなされていました。それだけ重要な道路であったと言えます。

 2つの発掘成果は、阿倍山田道の遺構ではありますが、両者は建設時期が同じではありません。安倍寺付近の舗装道路は7世紀前半、石神遺跡の北方は7世紀中頃です。裴世清が通った阿倍山田道は、まだ小墾田宮付近では発見されていないことになります。


 隋使裴世清が通った阿倍山田道は、どこだったのでしょうか。最も重要な要素として、小墾田宮の所在地を考えなければならないと思います。
 小墾田宮の構造は、『日本書紀』の記述から分かるように南に門を持っています。直接ではないにしろ、幹線道路に南門を向けていることは確実だと思われます。


小墾田宮推定地図

 推古朝の阿倍山田道の候補の一つは、上図に描き込んだ「古山田道」です。道路の南は飛鳥寺の北面大垣が存在していましたので、これに沿う現在「竹田道」と呼ばれる八釣を通り山田寺南方へ抜ける道路が考えられます。この場合、小墾田宮の位置は、上図Gが有力になります。
一方、これよりも北にルートを求めようとすると、飛鳥川が大きく蛇行する付近が、渡河地点になってしまい、渡河するには不自然な位置関係になってしまいます。

 では、裴世清が通った「阿倍・山田道」を、7世紀中頃以降の「阿倍・山田道」の北側と考えるとどうなのでしょうか。小墾田宮の想定位置を上図Cとするならば、可能性があるようにも思われます。また、奥山廃寺(小墾田寺の可能性)との関連では適地と考えられます。
 C・G共に微高地になっており、宮殿を建てるには適した土地柄と言えます。
 
 ともかく、阿倍山田道が、奥山~雷間の路線で大きく進路をずらすのは、この区間が湿地となっており地盤が脆弱だったためであると思われます。そして、斉明朝の石神遺跡(饗宴施設)の整備が行われるのに伴って、路線の一部を付け変え、今の場所を通るようにしたのではないでしょうか。そのためには、敷葉工法や石組暗渠などの、様々な土木技術が必要になったと思われます。



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奥山廃寺

 その遺構が、現・奥山久米寺の境内と重なっているために、奥山久米寺跡とも呼ばれますが、最近は、奥山廃寺と呼ばれることが多くなっています。

 現在の奥山久米寺の境内に入ると、すぐに目に入る土壇が塔跡になります。鎌倉時代の十三重石塔建立の為に、四天柱礎が寄せられていますが、側柱はほぼ元位置を保っています。付近から山田寺式軒瓦が多く出土することから、塔はこれを用いて7世紀後半頃に建立されたとされています。また、基壇内部に7世紀前半代の瓦・土器などが多く混入している為、7世紀前半に別の建物があった可能性もあるようです。

 金堂は、塔の北側で(現在の本堂から北東にかけて)東西約23.4m・南北推定約19.2mの基壇が発見されています。また、東北隣接地で落とし込まれた礎石二個が発見されたことから、講堂の位置もほぼ推定できるようです。西回廊が一部検出されたことで、回廊内の東西は約66mであったと推定されています。

 これらの発掘調査により、奥山廃寺は塔・金堂などが一直線に並ぶ、四天王寺式伽藍配置であったとされています。詳しい寺域は不明ですが、奥山久米寺本堂の南約130mの場所で、2度作り替えられた痕跡のある東西塀と8世紀までは機能していたと見られる東西道が検出され、これが寺域の南端であると考えられています。また、塔の北東約125mで平安時代に廃絶した井戸跡がみつかり、この付近まで寺の施設が広がっていたと思われます。


奥山廃寺式軒丸瓦
奈文研藤原京跡資料室

 金堂の創建に使用された瓦は、寺の名を冠した奥山廃寺式になります。星組よりも精緻に割り付けられた蓮弁や丸みを帯びた中房の形態、製作技術などから星組よりも時代が幾分下る(620~630年ごろ)と考えられています。この他には、星組・新羅系・船橋廃寺式、塔に使用されたとされる山田寺式などが出土しています。  
 また、この奥山廃寺式の文様をもつ鬼板が、豊浦寺や平吉遺跡などで出土しています。

 奥山廃寺は、古くは橿原市の久米寺の前身寺院説や高市大寺説などがあったようですが、近年では所在地や出土する瓦、7世紀前半代に建立された塔の中でも破格の規模を持つことなどから、蘇我氏傍系の小墾田臣や境部臣などに関わる寺院跡ではないかといわれているようです。




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関連年表

元号 西暦 事  項
雄略 5   小子部栖軽、雷を捉えに山田道を走る『日本霊異記』
宣化3 538 仏教伝来『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』
欽明13 552 仏教伝来
敏達14 584 蘇我馬子の娘・嶋出家(善信尼)
元興寺・道場法師の逸話『日本霊異記』
用明2 587 蘇我馬子飛鳥寺建立を発願
崇峻元 588 飛鳥寺造営始まる
推古2 594 仏教興隆の詔
推古4 596 飛鳥寺落成
推古14 606 飛鳥大仏完成(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』には推古17(609)年)
天皇は皇太子に請うて、勝鬘経を講じさせた。
この年、皇太子は法華経を岡本宮で講じた。
推古20 612 須弥山の形及び呉橋を南庭に築く
舒明2 630 飛鳥岡本宮に移る
舒明8 636 岡本宮焼失 田中宮に移る
皇極2 643 飛鳥板蓋宮に移る
皇極3 644 中大兄皇子・中臣鎌足、法興寺の槻の木の下の蹴鞠で出会う
皇極4 645 乙巳の変 仏教興隆の詔
大化元 645 天皇・皇祖母尊・皇太子、大槻の木の下で群臣を集め盟約をさせる
白雉4 653 僧・旻の死に際し仏像を川原寺に安置。(或る本には山田寺に)
皇太子中大兄皇子、公卿百官を率いて倭飛鳥河辺行宮に移る
斉明元 655 飛鳥板蓋宮火災。川原宮に移る。
天皇、飛鳥川原宮に遷幸す。のち、川原寺を作る。『扶桑略記』
斉明2 656 岡本宮に移る
斉明3 657 須弥山の像を飛鳥寺の西に作る
斉明5 659 甘樫丘の東の川上に、須弥山を造り、陸奥と越の蝦夷を饗応
斉明6 660 中大兄皇子漏刻を造る
石上池の辺りに須弥山を作る。 高さ廟搭の如し。粛慎四十七人を饗応
斉明7 661 斉明天皇、朝倉宮で崩御 飛鳥川原にて殯
天智元 662 道昭、飛鳥寺に東南禅院を建立『日本三代実録』
(『類聚国史』には天武11(682)年)
天智6 667 近江大津京へ遷都
天智10 671 漏剋を新しい台に置く。
天武元 672 壬申の乱
飛鳥寺西の槻下に陣営を敷く
天武2 673 川原寺で始めて一切経を写経
天武6 677 多禰人らを飛鳥寺の西の槻の木の下で饗応
天武9 680 橘寺の尼房で失火があり十房を焼いた
飛鳥寺の西の槻の枝、自づからに折れて落ちる
天武10 681 多禰人らを飛鳥川の辺で饗応
天武11 682 隼人らを飛鳥寺の西で饗応
天武14 685 天皇、川原寺にて僧たちに稲を配る
天皇、白錦後苑に行幸
天皇の病気平癒のため大官大寺・川原寺・飛鳥寺で誦経
朱鳥元 686 川原寺の伎楽を筑紫に運ぶ
天皇の病気平癒のため川原寺で薬師経を説く
川原寺で百官による盛大な斎会
持統2 688 蝦夷男女213人を飛鳥寺の西の槻の下で饗応
持統8 694 藤原遷都
持統9 695 隼人の相撲を飛鳥寺の西の槻の木の下で行なう
大宝2 702 斎会を四大寺(大官・薬師・元興・弘福)で行う
大宝3 703 太上天皇のため、四大寺(大安・薬師・元興・弘福)で行う
和銅3 710 平城遷都
和銅4 711 飛鳥寺・東南禅院を平城京右京四条一坊に移築(禅院寺)
霊亀元 715 弘福・法隆の二寺で斎会
養老2 718 飛鳥寺を平城へ移築(元興寺)
天平6 734 水主皇女(天智天皇皇女)、大和国広瀬郡広瀬荘の水陸田三十六町を川原寺に施入
天平7 735 飛鳥寺(本元興寺)で斎会
天平13 741 国分寺建立の詔
天平15 743 大仏建立の詔
天平20 748 飛鳥寺で元正天皇初七日の誦経
天平勝宝4 752 大仏開眼供養
橘寺・善心尼、造東大寺司や内裏に経などを貸し出す。『正倉院文書』
天平勝宝5 753 橘寺・善心尼、東大寺写経所に写経さす。『正倉院文書』
天平勝宝8 756 光明皇后、嶋宮の御田十一町を橘寺に施入
天平宝字5 761 下野薬師寺・筑紫観世音寺に戒壇を建立
宝亀2 771 川原寺で田原天皇(志貴皇子)の忌日の斎会を催す
延暦14 795 この頃、橘寺炎上。 朝廷より大和国稲2000束が復興財源として施入
大同2 807 伊予親王・母藤原吉子、川原寺に幽閉・獄死
治安3 1023 藤原道長、山田寺・飛鳥寺・橘寺を訪れる『扶桑略記』
久安4 1148 橘寺、雷火により五重塔焼失。三重塔を造る
建久2 1191 川原寺焼失『玉葉』
建久7 1196 飛鳥寺焼失
永享10 1438 橘寺、戦火により焼失



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元興寺縁起并流記資財帳

「造寺の詔」
他田天皇(おさだのすめらみこと/敏達天皇、同じ乙巳(きのと・み)の年に崩じたまい、次に池邊皇子、即ち天皇に立ちたまう。 馬屋門皇子(うまやとのみこ)白さく、「佛法を破り滅ぼさば、恠灾(わざわい)益(ますます)増さん。故、三尼は櫻井の道場に置きて宜(よろ)しく供養すべし」と。 時に天皇許したまい櫻井寺に住まわしめて供養を爲したまう。 時に三尼等、官に白さく、「傳え聞く、『出家の人は戒をもって本と爲す』と。然るに戒師(かいし)無し。故、百濟國に度り受戒せんと欲す」と白しき。

 然るに久しからざる間、丁未(ひのと・ひつじ)年、百濟の客(つかい)來たる。 官の問いて言いしく、「この三尼等、百濟國に度り受戒せんと欲す。この事云何(いか)にすべきや」と。 時に蕃客(あたしくにのつかい)答えて曰く、「尼等が受戒の法は、尼寺の内に先(ま)ず十尼師を請(ま)せて已に本戒を受け、即ち法師寺に詣(いた)り十法師を請す。先の尼師十と合せて二十師が所に本戒を受けるなり。然るに此の國は但尼寺有りて法師寺及び僧無し。尼等、若(も)し法の如く爲さんとせば、法師寺を設け、百濟國の僧尼等を請いて受戒せしむべし」と白しき。 時に池邊天皇(いけべのすめらみこと/用明天皇)、命以ちて、大ゝ王と馬屋門皇子二柱に語り告げて宣らさく、「法師寺を作るべき處を見定めよ」と告げたまいき。 時に百濟の客白さく、「我等が國は、法師寺・尼寺の間、鍾の聲を互いに聞き、その間に難事無し。半月ゝゝに日中(うまのとき)の前に往還(ゆきき)する處に作る」と。 時に聰耳皇子・馬古大臣、倶に寺を起す處を見定めき。 丁未(ひのと・ひつじ)の年。 時に百濟の客、本つ國に還る。 時に池邊天皇、告げ宣らさく、「將に佛法を弘め聞かんと欲す。故、法師等并びに寺を造る工人(たくみ)等を欲す。我、病い有り。故、急速(すみやか)に送るべし」と。 然るに使者の未だ來たらざる間に天皇崩じたまいき。

 次に椋梯天皇(くらはしのすめらみこと/倉梯天皇=崇峻天皇)天の下治しめしし時、戊申(つちのえ・さる)の年、六口(むたり)の僧、名は令照(りょうしょう)律師、弟子の惠忩(えそう)、令威(りょうい)法師、弟子の惠勲(えくん)、道嚴(どうごん)法師、弟子の令契(りょうけい)を送り、及び恩卒首眞(おんそちすしん)等四口(よたり)の工人并びに金堂の本様を奉上(たてまつ)りき。 今、この寺に在るはこれなり。



「塔露盤銘」
難波天皇(なにわのすめらみこと/孝徳天皇)の世(みよ)、辛亥(かのと・い)の正月五日、塔の露盤の銘を授けたまう。

 大和國(やまとのくに)の天皇(すめらみこと)、斯歸斯麻宮(しきしまのみや)に天下(あめのした)治(しら)しめしし名は阿末久爾意斯波羅岐比里爾波彌己等(あまつくにおしはるきひろにはのみこと)の世(みよ)、巷宜(そが)名は伊那米大臣(いなめのおおおみ)仕え奉りし時に、百濟國(くだらのくに)の正明王(聖明王)上啓(もうしふみ)して云う、「萬(よろず)の法(みち)の中に佛法最も上(すぐれ)たり」と。 ここをもちて天皇・大臣ともに聞こしめして宣らさく、「善哉(よきかも)」と。 則ち佛法を受けたまいて、倭國(やまとのくに)に造り立(まつ)りたまいき。 然れども天皇・大臣たち報(むくい)の業(わざ)を受け盡(は)てたまいき。

 故(かれ)、天皇の女(ひめみこ)、佐久羅韋等由良宮(さくらいとゆらのみや)に天の下治しめしし名は等己彌居加斯夜比彌乃彌己等(とよみけかしきやひめのみこと)の世、及び甥の名は有麻移刀等刀彌ゝ乃彌己等(うまやとととみみのみこと)の時に、仕え奉れる巷宜(そが)の名は有明子大臣(うまこのおおおみ)を領(かみと)として、及び諸(もろもろ)の臣たち讃(たたえごと)して云いしく、「魏ゝ乎(たかきかも・たかきかも)、善哉ゝゝ(よきかも・よきかも)」と。 佛法を造り立つるは父天皇・父大臣なり。 即ち菩提心を發し、十方の諸佛の衆生を化度(けど)し、國家大平ならんことを誓願して、敬しみて塔廟を造り立てまつらん。 この福力に縁りて、天皇・大臣及び諸の臣等の過去七世の父母、廣く六道四生(ろくどうししょう)の衆生(しゅじょう)、生ゝ處ゝ十方浄土に及ぶまで、普(あまね)くこの願に因り、皆佛果を成し、以って子孫、世ゝ忘れず、綱紀を絶つなからん爲に、建通寺と名づく。

 戊申(つちのえ・さる)。始めて百濟の王名は昌王に法師及び諸佛等を請う。 故、釋令照(りょうしょう)律師・惠聰(えぞう)法師・鏤盤師(ろばんのつかさ)將?自昧淳(しょうとくりまいじゅん)・寺師(てらのつかさ)丈羅未大(だらみだ)・文賈古子(もんけこし)・瓦師(かわらのつかさ)麻那文奴(まなもんぬ)・陽貴文(ようきぶん)・布陵貴(ふりょうき?)・昔麻帝彌(しゃくまたいみ)を遣わし上(たてまつ)る。 作り奉らしむる者は、山東漢大費直(やまとのあやのおおあたい)、名は麻高垢鬼(またかくき?)、名は意等加斯費直(おとかしあたい)なり。 書ける人は百加(ひゃっか)博士、陽古(ようこ)博士。 丙辰(ひのえ・たつ)の年の十一月に既(な)る。 爾して時に金作らしめる人等は意奴彌首(おぬみのおびと)、名は辰星(たつほし?)なり。 阿沙都麻首(あさつまのおびと)、名は未沙乃(みさの?)なり。 鞍部首(くらつくりのおびと)、名は加羅爾(からに?)なり。 山西首(かわちのおびと)、名は都鬼(つき?)なり。 四部の首を以て將(おさ)と爲し、諸の手をして作り奉らしむ。



「丈六光銘」
丈六の光銘に曰く、「天皇、名は廣庭(ひろにわ/欽明天皇)、斯歸斯麻宮(しきしまのみや)に在りし時、百濟の明王、上啓(もうしふみ)しく『臣聞く、いわゆる佛法は既に是の世の間に無上の法なり。天皇また修行したまうべし』と。 佛像・經教・法師を?(ささ)げ奉りき。 天皇、巷哥(そが)の名は伊奈米大臣(いなめのおおおみ)に詔(みことのり)したまい、茲(こ)の法を修行せしまたまう。 故、佛法始めて大倭に建てり。 廣庭天皇の子、多知波奈土與比天皇(たちばなのとよひのすめらみこと/用明天皇)、夷波禮涜邊宮(いわれのいけのべのみや)に在りて、性(みこころ)の任(まにま)に廣く慈(いつくし)み、重く三寶を信じ、魔眼を損棄し、佛法を紹興したまう。 而して妹(いも)の公主(ひめみこ)名は止與彌擧哥斯岐移比彌天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)、櫻井等由羅宮(さくらいのとゆらのみや)に在り、涜邊天皇の志を追い盛り、また三寶の理を重んじ、涜邊天皇の子(みこ)名は等與刀禰ゝ大王(とよとみみのおおきみ)、及び巷哥の伊奈米大臣の子、名は有明子大臣(うまこのおおおみ)に揖命(ゆうめい?)して、道を聞かんとする諸の王子に緇素(しそ)を教えしめて、百濟の惠聰(えぞう)法師・高麗の惠慈(えじ)法師・巷哥有明子大臣が長子名は善徳を領(かしら)として、以って元興寺を建てたまいき。


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関連万葉歌

川原寺跡
 世間を厭ふ歌二首
生き死にの二つの海を厭はしみ潮干の山を偲ひつるかも (16‐3849)
世の中の繁き仮廬に住み住みて至らむ国のたづき知らずも (16‐3850)
 河原寺の仏堂の裏に、倭琴の面に在り

橘寺(橘)
橘の島の宮には飽かねかも佐田の岡辺に侍宿しに行く (2‐179)
橘の島にし居れば川遠みさらさず縫ひし我が下衣 (7‐1315)
橘の寺の長屋に我が率寝し童女放髪は髪上げつらむか (16‐3822)

真神原
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山超えて 高麗剣 和射見が原の 仮宮に 天降りいまして 天の下 治めたまひ 食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召したまひて ちはやぶる 人を和せと 奉ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任したまへば 大御身に 大刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ささげたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の 風の共 靡くがごとく 取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに 渡会の 斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ賜ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 我が大君の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと 木綿花の 栄ゆる時に 我が大君 皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲の 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども(2‐199)

大口の真神の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに (8‐1636)
みもろの 神奈備山ゆ との曇り 雨は降り来ぬ 天霧らひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に至りきや(13‐3268)


飛鳥寺
 大伴坂上郎女、元興寺の里を詠む歌一首
故郷の飛鳥はあれどあをによし奈良の明日香を見らくしよしも(6‐992)

漏剋(漏刻)
皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寝ねかてぬかも  (4‐607)
時守の打ち鳴らす鼓数みみれば時にはなりぬ逢はなくも怪し  (11‐2641)


明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし (2‐197)
明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに (7‐1380)
我妹子に我が恋ふらくは水ならばしがらみ越して行くべく思ほゆ (11‐2709)
玉藻刈るゐでのしがらみ薄みかも恋の淀める我が心かも (11‐2721)
あすか川堰くと知りせばあまた夜も率寝て来ましを堰くと知りせば (14‐3545)
参考:世の中はなにか常なるあすか川きのふの淵ぞけふは瀬になる(古今 933)

石神?
 壬申の乱の平定まりし以後の歌二首
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ (19‐4260)
  右の一首は、大将軍贈右大臣大伴卿(大伴御行)が作。
大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ (19‐4261)
  右の件の二首は、天平勝宝四年(752)の二月の二日に聞く。すなわちここに載す。

山田道
百足らず 山田の道を 波雲の 愛し妻と 語らはず 別れし来れば 早川の 行きも知らず 衣手の 帰りも知らず 馬じもの 立ちてつまづき 為むすべの たづきを知らに もののふの 八十の心を 天地に 思ひ足らはし 魂合はば 君来ますやと 我が嘆く 八尺の嘆き 玉鉾の 道来る人の 立ち留まり いかにと問はば 答へ遣る たづきを知らに さ丹つらふ 君が名言はば 色に出でて 人知りぬべみ あしひきの 山より出づる 月待つと 人には言ひて 君待つ我れを (13‐3276)






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