両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第47回定例会


飛鳥ビューポイントウォーク




事務局作成資料

作製:両槻会事務局
2014年11月15日
  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
細川谷古墳群 移築 上2号墳 気都和既神社 上 薬師堂
都塚古墳 坂田寺跡 飛鳥川源流域 栢森の民家
加夜奈留美命神社 宇須多伎比売命神社 南淵請安墓 竜福寺
飛び石 勧請綱 (男綱・女綱) 朝風峠 朝風廃寺
浅鍛冶地蔵尊 上平田集落 中尾山古墳 万葉集・飛鳥の地名
蘇我氏系図 天皇家系図 長屋王系図 「朝風」・『長屋王家木簡』
「竹野皇女」・『長屋王家木簡』 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


この色の文字はリンクしています。

細川谷古墳群

 多武峰御破裂山から西方に派生する尾根には、約200基の古墳があるとされ、細川谷古墳群と呼ばれています。その多くは直径8~15m程度の円墳で、横穴式石室を持っているようです。東は、大字上・尾曽から始まり、西の石舞台古墳によって破壊された古墳までをその範囲とします。分布を見てみると、冬野川右岸尾根上に最も密度が濃く築造されていることが分かります。ほとんどの古墳は発掘調査が行われておらず、詳細は不明ですが6世紀後半から7世紀初頭にかけて築造されたものと考えられています。

 細川谷古墳群の特徴は、窮窿状(ドーム状の持ち送り式)の横穴式石室を持つことや、ミニチュア炊飯具が出土することなど、渡来系の氏族の墳墓であることを示しているように思われます。日本書紀雄略天皇の7年(463)、陶部・鞍部・画部・錦部・訳語など「新漢人」の技術者集団(今来才伎=いまきのてひと)を、飛鳥の上桃原、下桃原、真神原に移住させたとの記事が思い起こされます。古墳群の築造は、この時代では在りませんが、彼等の子孫である渡来系の人々の墳墓であることは、想像に難くありません。
 
 この中で、県道見瀬-多武峰線の工事に先立って行われた調査によって確認された古墳は、字名に連番を付けて上○号墳と呼ばれています。



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移築 上2号墳

2013年春撮影(南東から撮影)

 上2号墳の元の位置は気都和既橋の北詰から北西に入った所に在りましたが、現在、南東約60mの地点に石室が移築されています。
 2号墳は径約15mの円墳と考えられ、右片袖式の横穴式石室を主体部としています。石室全長は6.8m、玄室長3.4m、玄室幅2.3mを測ります。
玄室床面は、比較的大ぶりで平坦な石を据え、その上に礫を敷き詰めています。出土遺物には、須恵器5点(内1点に漆の残留物)、土師器1点がありました。また、鉄釘2本が発見されていることから、木棺が納められていたと推測することが出来るようです。
築造年代は、6世紀末から7世紀初頭と考えられています。


2014年秋の状況(古墳上部から撮影)

 なお付け加えると、移築された上2号墳は雑草や笹竹が繁茂し、近寄ることすらできない状態となっています。移築された理由の一つは、現地近くでの展示公開であるはずですので、この惨憺たる現状は如何なものかと思います。


上5号墳 (参考資料)
 5号墳は、2号墳から車道と集落を挟んだ東の尾根上に在ります。墳丘の盛土は全て無くなっているのですが、尾根の地形や残存する石室の規模から約17m程度の円墳だと考えられています。埋葬施設は右片袖式の横穴式石室で、天井石は無くなっていますが、他の石材は落下している石があるものの比較的良好に残っていたようです。現存する石室は、石室長7.41m、玄室長4.29m、玄室幅(中央部)1.59m、高さ2.80mの規模だとされており、急な持ち送りを成していたと考えられます。羨道長は3.12m、羨道幅1.41m~1.59m、高さ1.41mを測ります。

 上5号墳は、盗掘を受けていますが、副葬品などが多数残っていたようです。主なものとしては、馬具(鉄地金銅張の花弁形杏葉、鞍金具、鐙、吊金具、辻金具など)、玉類(ガラス小玉、ガラス丸玉、琥珀棗玉、銀製空丸玉など)、須恵器、ミニチュア炊飯具、耳環、指輪、鉄釘などが有りました。
玄室内で発見された鉄釘の出土状況などから、3基の木棺が埋葬されていたのではないかと考えられるようです。



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気都和既神社

 明日香村大字上字茂古森(大字かむら字もうこの森)にあります。
 祭神は気津別命で、延喜式内社に比定されています。現在は、尾曽・細川の春日神社を合祀していることから、天児屋根命を合わせてお祀りしています。
 気津別命は、飛鳥川に合流する冬野川の守護神だと思われますが、『新撰姓氏録』には「真神田曽禰連、神饒速日命の六世孫、伊香我色乎命の男、気津別命の後なり。」と書かれています。饒速日命(にぎはやひのみこと)に関連する系譜を持った神様ですから、物部氏との繋がりが気になるところです。

 この茂古森(もうこの森)には、乙巳の変に関わる伝承があり、飛鳥板蓋宮で切られた蘇我入鹿の首に追われ、藤原鎌足がこの森まで逃げてきたというものです。ここまで逃げれば「もう来ぬだろう」と言ったことから「もう来ぬのもり」が「もうこの森」に転訛したとも言われています。境内には、逃げて来た鎌足が腰掛けたという石があります。

 入鹿の首の飛翔に関する伝承は多数存在します。最もよく知られているのは、飛鳥寺西方まで飛び、その供養のために建てられたのが現在の入鹿首塚であるとされる伝承です。他にも、首が三重県との境に聳える高見山まで飛んで行ったとされる伝承があり、また、高見山の三重県側の麓の舟戸という集落には、入鹿の首を家来の“権之進”が持ち去って守ったとの伝承が有り、入鹿首塚とされる五輪塔や妻と娘が隠れ住んだと言う庵跡(能化庵)まであります。

 その他にも、橿原市曽我町には、母を慕って首が飛んできて落ちたと言う話が伝わります。

 茂古森のバリエーションとしては、次のような話があります。「ずっと昔、蘇我入鹿と藤原鎌足が喧嘩をし、入鹿は、かむら(明日香村上)のもうこの森と呼ばれるところまで逃げてきた。そして大きな石に腰を掛けて、“もうここまできたら鎌足もよう追いかけては来ないだろう”と言って休んだ」と言うものです。入鹿と鎌足の立場が入れ替わっています。

 また、全く違った伝承も残っています。『飛鳥古跡考』には、「鎮守。モウコノ森といふ。守屋、太子を此森迄追たりしに、此所にてやみぬ。されはしかいふと申伝ふ。然らは古き書物に最不来とみゆ」とあり、入鹿と鎌足の関係が、物部守屋と聖徳太子に置き換えられています。



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上 薬師堂

 堂内には、平安時代中期に造立されたと考えられる薬師如来を本尊とし、同時期の脇像十一面観音像、四天王像、鎌足公像が納められています。本尊薬師如来・四天王像は、明日香村の文化財に指定されています。

 上(かむら)地区には、江戸時代中期に長安寺、教雲寺、薬師堂の三ヶ寺があったようなのですが(『地方蔵方寺尾勤録』)、『飛鳥古跡考』には「長安寺後方山中の不動の滝の水で7月から8月まで洗眼すると、効験があった」と書かれています。この記事にある長安寺と不動の滝の位置関係は、現在の薬師堂と不動の滝の位置関係に合うもので、長安寺の一堂として薬師堂が在った可能性が考えられます。
 伝承によると、鎌足の子・定恵が、多武峰山上・山腹・山下に建てたという「八講堂」の一寺として、薬師如来と鎌足公木像とを奉祀したと伝えられているそうです。
また、薬師堂に安置した薬師如来は、定恵の作だとする伝承もあるようです。(古老伝)

薬師如来 
木造 像高87.0cm膝上の左手掌上に薬壷を載せ、結跏趺坐する通形の薬師如来坐像である。桧材の一木造りで、両肩と膝前は別材の矧ぎ付けとし、彫眼である。温雅な面貌を示しており、平安時代中期ごろの造立と思われる。(明日香村HPによる)

四天王像
四躯ともに木造、一木造りで、像高は各90.0cmほどである。本尊の薬師如来と同時代のものとされている。(明日香村HPによる)

不動の滝
 薬師堂から谷筋を上ると不動明王像が彫られた岩場が在り、巨岩から滝が落ちています。灯明台も見られますので、行場なのでしょう。


 石舞台古墳の石材を切り出した石切場だとの伝承があるようなのですが、確たる証拠が有るわけではありません。しかし、散在する巨岩には、人工的な加工痕も有るように思われますので、いつの時代か定かではありませんが、石材の採取が行われたものと考えられます。
 不動尊像は、寺伝では空海の作とされ、旱魃のとき雨乞いをして霊験があると鉄製の剣を不動尊に奉納したようです。(『高市郡寺院誌』要約)



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都塚古墳

 別名を「金鳥塚」と呼び、以前から石棺を収めたままの姿で石室内を見学することが出来る数少ない古墳として注目されていました。今年(2014年)の発掘調査で、墳丘が階段状を呈していることが分かり、日本のピラミッド発見!と大きく報道されたことは、まだ耳新しい出来事です。

 これまで、28m前後の方墳または円墳と考えられてきたのですが、それらの数値を大きく覆す発掘成果にも注目が集まりました。
 都塚古墳の規模は、東西41m、南北42m、高さは東側が4.5m以上、西側が7m以上を測り、東が高い傾斜する地形に築造されています。このことは、石舞台古墳方向(西)からの見かけの規模を増大させることになり、それを意識して築いているとも考えられるようです。
墳丘の北側では石で造られた護岸の周濠(幅1~1.5m)が確認されています。

 埋葬施設は横穴式石室で、全長12.2m、羨道は長さ6.9m、幅1.9m、高さ1.9m、玄室は長さ5.3m、中央部幅2.55~2.93m、高さ3.55mを測ります。      
石室は、花崗岩の自然石を積み上げて造られており、2段目からはやや内側に傾斜しています。

 石室内部には、大型の家形石棺(長さ2.2m、幅1.5m、高さ1.7m)が安置されています。
石室は盗掘されていたのですが、須恵器、刀子、鉄鏃などが出土しており、出土品から、築造は6世紀後半頃と推定されるようです。

 家形石棺というのは、蓋石が屋根形で、身は刳抜式または組合式の箱状の石棺を言います。蓋石の四方の傾斜部に断面が長方形の縄掛突起があります。

 普通の方墳は2段または3段に築成される例が多いのですが、都塚古墳の場合、幅約6mのテラスの上に幅1m、高さ0.3m~0.6mの石積みの段を重ねて墳丘を造っており、当初は推定7段または8段あったと考えられています。
 このような構造の古墳は、4世紀から5世紀に掛けて百済や高句麗で築かれており、その影響を受けたものと考えられるようです。


都塚古墳西側の階段状墳丘部(2014年8月16日撮影)

 都塚古墳は、石舞台古墳の南東約400mに在り、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳や、邸宅跡とされる島庄遺跡を北西に望む地に位置しています。そのことから、被葬者の有力候補として蘇我稲目が挙げられています。稲目の没年(570年)と築造時期に矛盾が無い点、古墳の規模、石舞台古墳との距離などが根拠となっているようですが、異論も多く述べられています。
 皆さんは、どのように考えられるでしょうか。


都塚古墳遠望



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坂田寺跡

坂田寺跡 発掘調査遺構概略図

 坂田寺は、鞍作氏の氏寺として建立された飛鳥寺と並ぶ最古級の寺院と考えられています。
創建は、『扶桑略記』によると継体16年(522)に渡来した司馬達等が造った高市郡坂田原の草堂に由来するとされます。また『日本書紀』によれば、用明天皇2(587)年に鞍作多須奈が天皇の為に発願した寺であるとする説や、推古天皇14年(606)に鞍作鳥(止利仏師)が近江国坂田郡の水田20町をもって建てた金剛寺が坂田寺であるとされるなど、創建の経緯には諸説が有ります。
 『日本書紀』朱鳥元年(686)には、天武天皇の為の無遮大会を坂田寺で行ったことが記されており、五大寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺・坂田寺)の一つに数えられています。

 現在、確認されている遺構は、奈良時代の寺院跡です。周辺は、8世紀後半に谷筋を埋め立て雛壇状に整地する大規模な造成工事が行われています。伽藍中軸線はやや西に振れ、回廊と東で回廊に取りつく須弥壇を伴う仏堂が確認されています。また、南北56m、東西63mを測る回廊内には、全体の規模は不明ですが2棟分の基壇建物跡が検出されています。西南の基壇跡からは、羽目石、葛石など基壇外装に用いられたと思われる石材が出土しています。奈良時代の坂田寺造営には、正倉院文書などに名を残す信勝尼の力が大きかったと考えられます。
 10世紀後半には、背後からの土砂により各堂宇は倒壊し、以後再建・修復される事はなかったようです。



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飛鳥川源流域

 飛鳥川は、 奈良盆地南部を流れ大和川中流部に注ぐ全長24kmの一級河川です。源流は、明日香村の南東の畑・入谷地区や芋峠に発します。栢森・稲淵の谷あいを流れ、祝戸で平地に出て冬野川に合流後、奈良盆地南部を北西に流れ、橿原市、田原本町・三宅町を過ぎ、川西町で大和川左岸に合流します。河川管理上の飛鳥川の起点は、奈良県高市郡明日香村栢森の小字ウエダと定められています。


 栢森集落内で細流が合流するのですが、ほぼその地点が起点とされているものと思われます。


上の写真は、細谷川・寺谷川の合流河川(左)と行者川(右)の合流地点です。

ちなみに、行者川が発する地点は、芋峠の北側になり、七曲りの坂道の途中に在る役行者像の奥になります。川の名称もそれに因んだものかも知れません。また、付近の山中には、飛鳥の酒造業者の仕込水の汲み取り場所が有るようです。

今回の定例会では、行者川の急な流れが造る「ごろの滝」にも足を延ばします。
奥飛鳥には、あまり知られていませんが滝も幾つか見ることが出来ます。両槻会特別回として2011年12月3日に実施しました「奥飛鳥滝巡り」を是非ご覧ください。



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栢森の民家(常門村 じょうどむら 新兵衛作の瓦)

 飛鳥資料館第5回写真コンテスト「飛鳥の甍」の応募作品で、民家としては最多の作品数が有った屋根を紹介します。その民家は、たまたま帝塚山大学清水昭博先生が飛鳥遊訪マガジンに投稿して下さった鬼瓦を持った屋根でした。
両槻会第44回定例会関連咲読
両槻会HP  「遊訪文庫」飛鳥咲読 第44回定例会 第3投稿



 鬼瓦には、「奥瓦嘉、常門村、○(瓦か?)師、新兵衛、作之」 と書かれています。清水先生のご研究では、明日香村奥山の瓦屋に勤める職人、新兵衛さんの作品であることが分かってきました。
 帝塚山大学附属博物館には、同様に新兵衛さんの名が刻まれた瓦笵が所蔵されており、そこには「常門新兵衛 作之 天保九年戌三月吉(日か) 奥瓦嘉」と銘文が記されていました。

 天保9年(1838)は、江戸時代も末の頃になります。(明治元年<1868>)
 常門村は、現在の橿原市一町付近の古地名で新沢千塚古墳群の南西一帯の地域でした。
 新兵衛さんは、橿原市一町から明日香村奥山の瓦屋さんに通勤していたのでしょうか。そこで徒歩通勤のルートを考えてみると、約5.5kmの距離になります。1時間20分程度でしょうか、充分な通勤圏だと言えるように思います。

 このように考えてみると、176年前に活躍された瓦職人さんの息遣いまでが感じるように思えます。飛鳥の1400年前に繋がる歴史には比べようもない事柄かも知れませんが、ごく普通の人間が作り出した作品が、今尚屋根を飾っていることが分かる事例として興味深く思えます。



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加夜奈留美命神社

 祭神は、加夜奈留美命とされています。この神様は、古事記にも日本書紀にも登場しない神様ですが、出雲国造神賀詞という祝詞に登場します。大穴持命(オオナモチノミコト)が国土を天孫に譲って出雲へ去るのですが、その時、自らの和魂と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とします。祝詞には「賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて」とあり、これがこの神社の始まりとされています。

 さて、問題が出てきました。加夜奈留美命をお祀りしたのは、飛鳥の神奈備です。『日本紀略』には天長6年(829)「高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社を、神の託言によって同郷の鳥形山に移した」という記録があります。鳥形山というのは、現在の飛鳥坐神社の在る小さな山であるとされています。
 では、その元の場所である高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社はどこに在ったのでしょう。やはり栢森なのでしょうか。南淵山や藤本山なのでしょうか。雷丘や甘樫丘なのでしょうか。

 今日それを特定することは出来ませんが、岸俊男先生のミハ山説が有力なようです。ミハ山は、祝戸の飛鳥川左岸に在る祝戸公園内のピークやその付近だと思われ、磐座と思しき石などが散見されます。飛鳥の小さな盆地の南端にあるこの山は、古道「中ツ道」の延長線が飛鳥盆地の南端で山にぶつかるところに位置し、まことに神備山らしくも思われます。

 ミハ山神奈備説を採ると、栢森の神社は何だったのでしょう。江戸時代まではこの神社は、葛(九頭)神を祀っていたとされているそうで、今は末社として祀られている小さな祠が葛神社だとされているようです。九頭神は、(オカミ)神を祭神としており、九頭竜を崇める水神信仰だと考えられるようです。上流にある女淵との関連性や飛鳥川源流となる細谷川と寺谷川の合流地点に立地する点などから考えると、栢森に鎮まるこのお社は本来水神信仰の葛(九頭)神をお祀りする神社であったと言えるかも知れません。

 飛鳥地域には、葛神を祀るお社や関連した伝承も多く残ります。一例として、「くつな石」は一般的に伝わる岩の伝承(昔、石屋が「くつな石」を切ろうとしたところ、割れ目から血が流れて蛇が現れ、その夜、石屋は苦しみの果てに亡くなってしまった。)の他に、雨乞いの神事を行ったという伝えもあるようです。

くつな石

 80歳を超えておられる栢森集落の古老は、葛神さまとして馴染んでいたと話されています。現在のお社は、明治時代に富岡鉄斎が当地に来て、土地柄からここが飛鳥の神奈備だとし、加夜奈留美命神社として復興・顕彰したものだそうです。またカヤノモリとカヤナルミの音が似ているため、『大和志』では「延喜式」神名帳の高市郡「加夜奈留美命神社」をこの社にあて、それ以来、式内社として現社名で呼ばれるようになったのだそうです。

 ところで、式内社「滝本神社」という神社も、飛鳥川の上流に在ったとされ、さらに複雑な様相を呈してきます。他にも異説はたくさんあるようで、明日香村史が全く不詳の神社であると記すのは、このような事情を反映してのことだと思われます。



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飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社

 長い階段の上に「飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社」があります。見上げると参拝を躊躇いたくなるような急な登りが続きますが、200段ほどの石段を登りきると立派な社殿が見えてきます。この神社は大神神社と同様に、後背の山を拝する古い形式の神社です。本殿は無く、遥拝造りの拝殿には、平安時代前期の作と推定されている男女各二体の神像が祀られているとされています。


 祭神は宇須多岐比売命・神功皇后・応神天皇となっているようです。神社の謂れが薄れた頃、ウスという音からウサが連想されたのかも知れません。宇佐八幡宮と呼ばれていた時代も長く、現在も明日香村のお年寄りは、ウサさん・ウサの宮さん(宇佐宮)、あるいは、オサの宮さんと呼び習わしているようです。

 ところで、宇須多岐比売命のウスタキは、「臼・滝」を連想させます。この神社下の飛鳥川は、淵(八幡だぶ)となっていて、神名が肯ける様相を見せています。


八幡だぶ

 この神社では、明治頃まで雨乞いの「なもで踊り」(南無手踊り)が行われていたようです。なもで踊りは、奈良県内で広く行われていた請雨祈願の行事で、その様子は各地の大絵馬に描かれて残されています。この神社にも、嘉永6年(1853)銘の絵馬が所蔵されているようです。境内で行われた「なもで踊り」は、「本なもで」と称し、内宮(稲渕、南淵請安墓に残る談山神社)では「仮なもで」が行われたとされます。
 飛鳥川に多くを頼む飛鳥地域の水利は、降水が少ないと深刻な状況に陥ります。それは、吉野川分水路が完成するまで続きます。飛鳥時代にも、その深刻さは変わらなかったのではないでしょうか。

 皇極天皇元年(642年)、『日本書紀』には、次のような記載が有ります。
「6月16日 わずかに雨が降った。この月はたいへんな旱であった。」
「8月1日 天皇は南淵の川上にお出ましになり、ひざまずいて四方を拝し、天を仰いでお祈りになった。するとたちまち雷が鳴って大雨になり、とうとう五日も降りつづき、あまねく国中をうるおした。そこで国中の百姓は、みなともによろこび、すぐれた徳をおもちの天皇だと申し上げた。」

 『八月甲申朔。天皇幸南淵河上。跪拝四方。仰天而祈。即雷大雨。遂雨五日。溥潤天下。〈 或本云。五日連雨。九穀登熟。 〉於是。天下百姓倶称万歳曰至徳天皇。』

 このように、皇極天皇は雨乞いを行ったのですが、その場所は「南淵」と呼ばれたところであり、飛鳥川の水源を示すような場所であったように思われます。この飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社前の淵(八幡だぶ)は、まさにそれに適する場所であるように思われます。



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南淵請安墓

飛鳥川に沿って下ると、小高い丘の上に、春には桜のドームが見えてきます。この桜のドームに包まれるように、南淵請安先生の墓とされる明神塚が在ります。住宅の路地から丘に登ると小さな祠と折れたご神木が見え、独特の雰囲気をかもし出しています。


 この小さな祠は、藤原鎌足を祭神とする談山神社で(現在は宇須多岐比売命神社に合祀されている)、お墓はその反対側に在り南を正面として祀られています。知らずに行くと、見落としてしまうかもしれませんが、南が塚の正面であることを示すように「南淵先生之墓」と書かれた石碑が建てられています。

 南淵請安は、大化改新のブレーンの一人としてご存知の方も多いと思います。推古天皇16年(608)4月、第一回遣隋使が隋使裴世清を伴って帰国します。同年9月、裴世清が帰国するにあたって、小野妹子を大使として第二回の遣隋使が同行することになります。この時に派遣された学生に、高向漢人玄理や学問僧の新漢人日文(僧旻)や南淵漢人請安らの名前が見えます。
 彼らは、隋から唐へという時代の変換期をつぶさに見取り、最新の学問を身に着け、舒明天皇12年(640)、32年間の留学を終えて、新羅経由で帰国しました。

 『日本書紀』皇極天皇2年(643)の条に、大化改新の序曲として次のような記事があります。『 二人(中臣鎌足と中大兄皇子)が、しきりと接触することを他人が疑うのをおそれ、ともに書物を手にして、周孔の教え(儒教)を南淵先生(南淵請安)のもとで学んだ。そして、往復の路上で肩を並べてひそかに計画を立てたが、二人の意見はことごとく一致した。』

 しかし、この後の請安の消息は、書紀には見当たりません。遣隋使として同時に派遣された僧旻と高向玄理が国博士となっているのですが、請安は大化改新政府の要職には就いておらず、あるいはその時期までに亡くなっていたのかも知れません。

 享保19年(1734)に完成した『大和志』や宝暦元年(1751)に書かれた『飛鳥古跡考』等の記述を見ると、この明神塚は「口碑ではあるが、請安の墓はもとアサカヂ(朝風・浅鍛冶)にあってセイサン塚と呼んでいた」と書かれています。「アサカヂ」については、朝風の項目で触れたいと思います。



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竜福寺

 竜福寺は稲渕集落の中にあります。栢森に同名のお寺が在るのでややこしいのですが、どちらも浄土宗のお寺だそうです。
 境内には、「竹野王の石塔」の名前で有名な竜福寺層塔が在ります。この層塔は、在銘石造層塔としては、日本最古のものだとされています。
層塔は凝灰岩製で、現存する高さは1.8m、当初は五層であったと考えられ、現在は三層までと四層の軸部が残っています。一層目の四方に銘文が刻まれているのですが、残念ながら、現状ではほとんど判読することは出来ません。

 「昔阿育○王」・「朝風南葬談武之峯」・「天平勝宝三年歳次辛卯四月二十四日丙子 従ニ位竹野王」など、その一部が判読されています。層塔の撰文が竹野王によることから、竹野王の石塔と呼ばれているのですが、天平勝宝3年(751)に従ニ位であった竹野王という人物に関しては、天平宝字2年(758)に正三位になった竹野王、また天平勝宝3年に従ニ位になった竹野女王などの人物ではないかと考えられ、この二人は別姓であるかのようですが同一人物だとされています。しかし、その系譜に関しては、長屋王の近親者と推測されるのみです。 

竜福寺境内 竹野王石塔 銘文

[東面]           [南面]           [西面]         [北面]
昔阿育□王八万四千  之峯北際□田之谷   □□□□□□□□  □□□□□□□□
塔遍□□造□□内    □安□之角□□□   □即□□□□□□  天平勝宝三年歳次
王年珍宝□□□□    □□之□□□□□   崇□□□□□曰□  辛卯四月廿四日丙
□□□□□□□□    □□□□□□□□   □□□□□□□□  子
□□□□□□□□    □□□□□□□□   □□□□□□□□  従二位 竹野王
其来尚年□□比□    □□□□□□□□   □之長□□□□□   
号曰朝風南葬談武    □□□□□□□□   臥□□□□□□□



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飛び石

 万葉集に詠われる石橋(いわはし)は、川にポンポンと並べて置かれた石を指し、渡りやすいように表面が平らな石が選ばれて据え付けられているようです。以前は、明日香村内にも5~6ヶ所の飛び石が在ったとされていますが、現在、実際に渡れるものは稲渕の2ヶ所だけになっているようです。(東橘には痕跡を残す箇所が在ります)


 飛び石は、能の世界にも登場します。謡曲「飛鳥川」では、飛び石を舞台とした母子の再会が謡われています。飛鳥川が増水すると、飛び石は水没してしまい、流されてしまうこともあります。飛び石は、人の出会いと別れを象徴する場所でもあったのでしょうか。

万葉集に収録されている「石橋(石走)」を詠み込んだ歌

明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも 
 作者不詳 万葉集 巻第11-2701

年月も いまだ経なくに 明日香川 瀬々ゆ渡しし 石橋もなし
 作者不詳 万葉集 巻第7-1126

うつせみの 人目を繁み 石橋の 間近き君に 恋ひわたるかも
 笠女郎 万葉集 巻第4-597

飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す・・・(後略)
 柿本人麻呂 万葉集 巻第2-196

はしたての 倉橋川の石の橋はも 男盛りに 我が渡りてし 石の橋はも
 作者不詳 万葉集 巻第7-1283 

石橋の 間々に生ひたる かほ花の 花にしありけり ありつつ見れば
 作者不詳 万葉集 巻第10-2288



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勧請綱(男綱・女綱)

 奈良・京都・滋賀の一部地域にはかつて疫病や災厄が村に入ってこないようにするため、村の入口付近に結界としての「勧請縄」を張る神事が行われていました。他地域にも、形を変えて同様の儀式が有ったと思われますが、奈良県ではノガミ信仰と相まって、今尚続けられているものが多く有ります。
 飛鳥での綱掛け神事は、災厄や厄病の侵入を阻止するだけではなく、五穀豊穣や子孫繁栄を祈る祭祀になっています。

 稲渕の綱掛神事は、毎年1月成人の日(第2月曜日)に行われています。稲渕での祭事は、全体を通して神式で行われ、飛鳥川に架かる綱に陽物をかたどった「男綱」を掛け渡し、神所橋上に祭壇を設け、神職が御祓いを執り行います。

 一方、栢森の綱掛けの祭事は、仏式で行われます。福石と呼ばれる石の傍に祭壇を設け、一旦女綱を巻きつけ、僧侶が執り行う法要の後、飛鳥川の上に陰物を模した「女綱」を掛け渡します。

 桜井市高家では、女綱掛けに良く似た勧請綱掛けが行われます。


神事の様子



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朝風峠

 案山子ロードが最も高くなる位置付近に、「朝風」と呼ばれる小字があります。近年は、明日香村稲渕と上平田を結ぶ「朝風峠(上平田峠)」の名が知られます。現在、小字が残る場所は峠からやや北に逸れますが、古来この周辺一帯が「朝風」と呼ばれていたのではないかと考えられます。

 長屋王家木簡には「旦風」と書かれるものがあるのですが、同じく「あさかぜ」と読みます。「旦」は日の出を表す漢字ですから、訓読で「あさ」と読むのは頷けます。

 「旦風来人米一升」「□□」(朝風から来た人に米1升を支給した伝票木簡)、また、稲渕の竜福寺境内にある竹野王石塔銘文には「朝風」の文字が刻まれています。

 朝風周辺には小字「せいさん」があり、元は朝風に在ったとされる南淵請安の墓との関連も注目されます。

 飛鳥・奈良時代には、あまり目立った記録が無い稲渕地区ですが、鎌倉時代には「朝風千軒」と呼ばれる集落が形成されてゆくようです。
 鎌倉時代の後期になると、勢力を持った地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、これら旧制度の崩壊が始まりました。こうした中で、水利権や水路・道路の修築、戦乱や盗賊からの自衛などのために、人々は地縁的な結合を強めます。畿内を中心に、それまでの田んぼの横に住居を作るという「家が散在する村」から、耕地と住居が分離して「住宅同士が集合する村落(惣村)」へと、その形が変わって行きます。稲渕もまた、このような時代の流れの中で朝風から稲渕へと新しい村落の形成がなされたものだと思われます。
 竜福寺の発掘調査では、造成土中から13~14世紀の土師器・瓦器が出土していますが、稲渕集落の形成時期を裏付ける考古資料ではないかと考えられます。



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朝風廃寺

 稲渕の棚田の上方には、奈良時代創建の寺が存在していたようです。寺名が推測の域を出ないため、現在「朝風廃寺」と呼ばれています。お寺が存在したという根拠は、長屋王家木簡と竹野王石塔銘文にあります。
 (私は、義淵僧正が開基とされる五龍寺の一つ「龍福寺」ではないかと考えるのですが、如何でしょうか。)


木簡例
(表) 「移 務所 立薦三枚 旦風悔過布施文右二種今急進」
(裏) 「大炊司女一人依斉会而召 遣仕丁刑部諸男 二月廿日家令」
(吉備内親王家から長屋王家に出した木簡で、立薦と旦風悔過布施文を急いで送れ、また大炊司の女一人を斎会のために召し出すための指示書)

・「旦風来人米一升」「□□」
・「竹野王子山寺遣雇人米二升□□□」「古万呂 十月八日口万呂家令」
 など

竹野王石塔銘文
「・・・・・号曰朝風南葬談武之峯北際□田之谷□安□之角・・・・・・・・・天平勝宝三年歳次辛卯四月廿四日丙子 従二位 竹野王」

 稲渕の竜福寺が室町時代に建てられたと考えられることから、朝風廃寺が移築前の創建「龍福寺」である可能性は高いと考えられます。龍福寺が義淵僧正創建の五龍寺の一つであれば、僧の修業の場としての山寺でなければならず、現立地の古道(吉野を結ぶ主街道だった芋峠道)沿いに建立されることはないはずです。朝風に在って初めて、山寺の条件を満たすと考えられます。(現在のお寺を「竜福寺」、古代のお寺を「龍福寺」と書き分けました。)



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浅鍛冶地蔵尊

 明日香村大字栗原字浅鍛冶は、朝風廃寺の建立地候補として大脇潔先生が注目されている場所です。
ここは「朝風」から南西約300mに位置しており、旧峠道が栗原へと繋がっていたようです。想定されるルート上には、若干の平坦地があり「浅鍛冶地蔵尊」が祀られています。


地蔵尊の前の平坦地は狭いのですが、崖崩れなどによる地形の変化もあったかも知れません。
また、多くの山寺は地形に合わせて堂宇を建てていますので、堂宇が離れて建てられる場合も有ります。決して平坦地の寺院のような伽藍配置を用いるわけではありませんので、現在の地形から早急な結論は出せないように思われます。



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上平田集落

 朝風峠(上平田峠)から果樹園の中を下ると、上平田の集落に出ます。集落の外れから、屋根に越屋根を連続して設けている建物が見えてきます。
 越屋根とは、辞書によると「採光・換気・煙出しなどのために、屋根の上に棟をまたいで一段高く設けた小屋根。」なのですが、この集落で見られる越屋根は、連続して設置されているところに注目してください。


 写真の建物には、4連の越屋根が設けられているのですが、単なる煙出しのために設置されているわけではないように思われます。近年は本来の目的で使われていないようなのですが、棚田の傾斜面を利用して栽培される温州ミカンの貯蔵庫として建てられたものだそうです。温州ミカンは、高温多湿を嫌い、腐りやすくなります。その対策として、この地域では換気をよくするために越屋根を複数取り付けるという工夫がされたのでしょう。
 他の産地では、貯蔵庫として土壁の倉庫を造る所も有りますが、やはり湿気の除去が目的であるようです。
 現在は、冷温貯蔵庫などの普及や流通の発達により、このような倉庫は使われることは少なくなっているようです。



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中尾山古墳

 中尾山古墳は、八角形の墳丘を持ちます。対角の長さは、19.4m(裾部の平坦面を含めると30m)ほどの規模であったと考えられます。墳丘外周には、二重の敷石が巡っていました。墳丘の高さは、4mを測り、3段以上に築成されていたと考えられるようです。


中尾山古墳 埋葬主体部 模式図

 埋葬主体部の構造は、横口式石槨(1辺90cm四方)で、底石・側石・天井石・扉石・隅石の合計10石の石材で構成されており、大きさから火葬墓であったと考えられています。

 底石の中央部には、約60cm四方の凹部があります。この凹部には骨蔵器等を安置するための台座が設置されていたと考えられます。

 現在、三の丸尚蔵館に所蔵されている鳳凰がデザインされた金銅製四環壺(古宮遺跡出土)との関連が注目されています。

 石槨の規模は、内法が約90cm四方で壁面は丁寧に磨かれており、水銀朱が塗布されています。また、石材の接合部には、漆喰が使用されていました。

 中尾山古墳は、八角形の墳丘を持ち、火葬墓であることなどの理由により、文武天皇の檜隈安古岡上陵ではないかと考えられます。


 中尾山古墳は、明日香村中心部では唯一紅葉が綺麗な所です。古墳を包み込むように紅葉が覆いかぶさり、見る者の目を楽しませてくれます。

沓形
 中尾山古墳の墳丘周囲には、八角形状に二重の石敷が施されていました。この石敷上からは沓形を呈した凝灰岩製の石造物が2点出土しており、形状等から墳頂に設置されていたと考えられています。

 沓形というのは、辞書によると「古代の大建築で大棟の両端につけた飾りで、中国に源があり、形は鳥の尾または魚のようで、沓(くつ)にも似ているところから沓形(くつがた)ともいう。後世の鬼瓦・しゃちほこの祖型。」とあり、つまり鴟尾の事です。中尾山古墳の沓形は、長さ95cm、高さ67cm、前幅46cmの凝灰岩で造られたものです。

 出土状況などから、この沓形石造物は、墳頂に在ったものが転落したと考えられるようで、墳頂部に何らかの施設の存在が推測されるようです。
 他に事例が無く詳しい事は分からないようですが、興味深い出土遺物ですので、ご紹介しました。



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万葉集・飛鳥の地名

明日香(飛鳥)
01-0051  采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く 志貴皇子
01-0078  飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ
02-0162  明日香の清御原の宮に天の下知らしめししやすみしし我が大君…
02-0199  かけまくもゆゆしきかも言はまくもあやに畏き明日香の真神の原に…
03-0268  我が背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり妻待ちかねて
03-0324  みもろの神なび山に五百枝さし繁に生ひたる栂の木のいや継ぎ継ぎに…
06-0992 (題詞:大伴坂上郎女詠元興寺之里歌一首)
       故郷の明日香はあれどあをによし奈良の明日香を見らくしよしも
16-3791  みどり子の若子髪にはたらちし母に抱かえ褨繦の稚児が髪には…
16-3886  おしてるや難波の小江に廬作り隠りて居る葦蟹を大君召すと何にせむ…


明日香川(飛鳥川)
02-0194  飛ぶ鳥の明日香の川の上つ瀬に生ふる玉藻は下つ瀬に流れ触らばふ…
02-0196  飛ぶ鳥の明日香の川の上つ瀬に石橋渡し下つ瀬に打橋渡す石橋に…
02-0197  明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし
02-0198  明日香川明日だに見むと思へやも我が大君の御名忘れせぬ
03-0325  明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに
03-0356  今日もかも明日香の川の夕さらずかはづ鳴く瀬のさやけくあるらむ
04-0626  君により言の繁きを故郷の明日香の川にみそぎしに行く
07-1126  年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし
07-1366  明日香川七瀬の淀に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ
07-1379  絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあるごと人の見まくに
07-1380  明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに
08-1557  明日香川行き廻る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ
10-1878  今行きて聞くものにもが明日香川春雨降りてたぎつ瀬の音を
10-2201  明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし
11-2701  明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも
11-2702  明日香川水行きまさりいや日異に恋のまさらばありかつましじ
11-2713  明日香川行く瀬を早み早けむと待つらむ妹をこの日暮らしつ
12-2859  明日香川高川避かし越ゑ来しをまこと今夜は明けずも行かぬか
13-3227  葦原の瑞穂の国に手向けすと天降りましけむ五百万千万神の…
13-3266  春されば花咲ををり秋づけば丹のほにもみつ味酒を神奈備山の…
13-3267  明日香川瀬々の玉藻のうち靡き心は妹に寄りにけるかも
14-3544  あすか川川下濁れるを知らずして背ななと二人さ寝て悔しも
14-3545  あすか川堰くと知りせばあまた夜も率寝て来ましを堰くと知りせば
19-4258  明日香川川門を清み後れ居て恋ふれば都いや遠そきぬ


神奈備(神岳・みもろ など)
02-0159  やすみしし我が大君の夕されば見したまふらし明け来れば…
03-0324  みもろの神なび山に五百枝さし繁に生ひたる栂の木のいや継ぎ継ぎに…
06-0969  しましくも行きて見てしか神なびの淵はあせにて瀬にかなるらむ
07-1125  清き瀬に千鳥妻呼び山の際に霞立つらむ神なびの里
08-1435  かはづ鳴く神奈備川に影見えて今か咲くらむ山吹の花(?)
09-1676  背の山に黄葉常敷く神岳の山の黄葉は今日か散るらむ
09-1761  三諸の神奈備山にたち向ふ御垣の山に秋萩の妻をまかむと朝月夜…
09-1773  神なびの神寄せ板にする杉の思ひも過ぎず恋の繁きに
10-1937  大夫の出で立ち向ふ故郷の神なび山に明けくれば柘のさ枝に夕されば…
10-1938  旅にして妻恋すらし霍公鳥神なび山にさ夜更けて鳴く
10-2162  神なびの山下響み行く水にかはづ鳴くなり秋と言はむとや
11-2657  神なびにひもろき立てて斎へども人の心はまもりあへぬもの
11-2715  神なびの打廻の崎の岩淵の隠りてのみや我が恋ひ居らむ
11-2774  神奈備の浅小竹原のうるはしみ我が思ふ君が声のしるけく
13-3222  みもろは人の守る山本辺は馬酔木花咲き末辺は椿花咲く…
13-3227  葦原の瑞穂の国に手向けすと天降りましけむ五百万千万神の神代より…
13-3228  神なびの三諸の山に斎ふ杉思ひ過ぎめや苔生すまでに
13-3230  みてぐらを奈良より出でて水蓼穂積に至り鳥網張る坂手を過ぎ…
13-3266  春されば花咲ををり秋づけば丹のほにもみつ味酒を神奈備山の…
13-3268  みもろの神奈備山ゆとの曇り雨は降り来ぬ天霧らひ風さへ吹きぬ…
13-3303  里人の我れに告ぐらく汝が恋ふるうつくし夫 黄葉の散り乱ひたる…


佐田
02-0177  朝日照る佐田の岡辺に群れ居つつ我が泣く涙やむ時もなし
02-0179  橘の嶋の宮には飽かぬかも佐田の岡辺に侍宿しに行く
02-0187  つれもなき佐田の岡辺に帰り居ば島の御階に誰れか住まはむ
02-0192  朝日照る佐田の岡辺に泣く鳥の夜哭きかへらふこの年ころを


真弓
02-0167  天地の初めの時ひさかたの天の河原に八百万千万神の神集ひ…
02-0174  外に見し真弓の岡も君座せば常つ御門と侍宿するかも
02-0182  鳥座立て飼ひし雁の子巣立ちなば真弓の岡に飛び帰り来ね


桧隈
02-0175  夢にだに見ずありしものをおほほしく宮出もするかさ桧の隈廻を
07-1109  さ桧の隈桧隈川の瀬を早み君が手取らば言寄せむかも
12-3097  さ桧隈桧隈川に馬留め馬に水飼へ我れ外に見む


細川
07-1330  南淵の細川山に立つ檀弓束巻くまで人に知らえじ
09-1704  ふさ手折り多武の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒ける


南淵
07-1330  南淵の細川山に立つ檀弓束巻くまで人に知らえじ
09-1709  御食向ふ南淵山の巌には降りしはだれか消え残りたる
10-2206  まそ鏡南淵山は今日もかも白露置きて黄葉散るらむ



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蘇我氏系図






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天皇家系図






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長屋王系図




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「朝風」に関わる『長屋王家木簡』

「旦風来人米一升」「□□」
「移 務所 立薦三枚 旦風悔過布施文右二種今急進」
「大炊司女一人依斉会而召 遣仕丁刑部諸男 二月廿日家令」



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「竹野皇女」に関わる『長屋王家木簡』

「竹野王子大許進米三升 受稲積」「六日百嶋」
「竹野口子大許進米□□」
「竹野王子進□」「□」
「竹野王□」
「竹野皇子二取米三升 余女」
「竹野王子進米一升大津 八月三日 甥万呂 家令□」「吉佐良十目 □」
「竹野王子山寺遣雇人米二升□□□」「古万呂 十月八日口万呂家令」
「竹野」
「竹野王」  
「□女子 竹野王子宮」
「勇勇 年口 竹野王子宮 勇麻 □」
「□益女 竹野王宮」
「年十三 竹野王子宮」
「竹野王子宮」
「□野王□」
「□竹野」(
「竹野」
「竹野王子御所進粥米二升受老」「九日 萬呂」
「竹野王子御服粉米二升 受私部老 十二月廿四日稲虫」
「竹野王子御所進米一升 受大津」「十二月五日 廣嶋」
「竹野王子女医二目」「一升半受真木女」
「竹野王子口医一口既母万呂 □□飯米二升口 九月七日」
「竹野王子進米一升半受尾張女 三月十六日」
「進竹野王子御所米一升受古奈良女 九月廿七日石角」
「竹野王御口米一升 御所人給米三升七合五夕 □ □月十八日 □□」
「竹野王子御所米一升」


  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
細川谷古墳群 移築 上2号墳 気都和既神社 上 薬師堂
都塚古墳 坂田寺跡 飛鳥川源流域 栢森の民家
加夜奈留美命神社 宇須多伎比売命神社 南淵請安墓 竜福寺
飛び石 勧請綱 (男綱・女綱) 朝風峠 朝風廃寺
浅鍛冶地蔵尊 上平田集落 中尾山古墳 万葉集・飛鳥の地名
蘇我氏系図 天皇家系図 長屋王系図 「朝風」・『長屋王家木簡』
「竹野皇女」・『長屋王家木簡』 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


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