両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪

両槻会事務局・帝塚山大学清水ゼミ合同企画

第50回定例会


蘇我氏の奥津城

―蘇我四代の墓を考える―

個別古墳資料集





資料作成
帝塚山大学人文学部日本文化学科清水ゼミ生
両槻会事務局

2015年5月16日
共通資料集はこちら♪
  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
岩屋山古墳(作成:川嶋) 岩屋山古墳(作成:富田) 高松塚古墳(作成:桑原)
高松塚古墳(作成:山本) 中尾山古墳(作成:福井) カナヅカ古墳(作成:風人)
鬼の雪隠・俎古墳(吉本) 天武・持統陵(松本) 菖蒲池古墳(作成:よっぱ)
小山田遺跡(作成:よっぱ) 塚本古墳(作成:らいち) 都塚古墳(作成:もも)
石舞台古墳(作成:高橋) 石舞台古墳(作成:寺農) 清水ゼミ生レポート
事務局当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


散策ルート

この色の文字はリンクしています。

岩屋山古墳(資料作成:川嶋千奈美)


 岩屋山古墳は、奈良県高市郡明日香村大字越小字岩山516-2に所在する7世紀前半ごろの終末期古墳である。牽牛子塚古墳やマルコ山古墳の所在する真弓丘と呼ばれる丘陵の東端にあり、南北方向に伸びる丘陵(標高109.7m)から東へ張り出す台地上(標高95m)の平坦部に位置する。北と南には東にのびる丘陵があり、古墳はこの谷の中央の台地上にある。

 墳丘は三段築成の方墳であるが、西半分および周辺部をかなり削りとられて民家となり、東側の墳丘裾部もならされているので、南側がもっともよく原形を残している。最上段は、方形とも円形とも多角形ともみえる。試掘調査の結果によると、多角形(八角形)の可能性がある。下部の一辺が40m、総高19.7m。墳頂から周辺の地形を見ると、墳丘をとり巻くコの字型に丘陵が整形されているのがみえ、これを兆域とみることもできる。

 石室は、南に開口する長大な羨道を有する両袖式の横穴式石室で、内面を丁寧に加工した花崗岩の切石を用い、全長16.7mを測る。玄室は両側壁各5石(下段3石、上段2石)、奥壁2石をそれぞれ2段に積み、巨大な天井石1石で覆うもので、両側壁、奥壁の上段の石、および玄門部上の楣石(まぐさいし)を内傾させて、室内全体を家形に作る。玄室の平面は、袖石の隅に大きく面をとるため、長方形の短辺両隅を切った形をなす。玄室の内寸方法は、長さ4.7m、幅2.7m、高さ2.6mを測る。


岩屋山古墳 石室内から

 また、石室は花崗岩の切石でできており、その表面をていねいに小叩きしている。羨道部は二段に高さを変え、最南端の天井右下面には扉または楣石をとりつけるための掘り込みがある。羨道幅は南端で2.3m、玄門で1.95mと、約16パーセントも幅を縮めている。高さも2.18mから1.75mと、約20パーセント減じている。これを、遠近効果を利用して羨道の長さを増すようにしているものとみると、遠く地中海沿岸の文化が、中国・朝鮮を経て、ここに出現しているともみられる。逆に玄室は、ほぼ二対一の安定した方形につくられている。


天井石の溝
 羨道は両側壁各10石、天井石5石からなり、入り口にむけてやや幅が広くなる。玄室に続く両側壁はほぼ直方体の石を各3石1段おき、その上に天井石3石をのせる。両側壁の前半は下段に直立ないしは台形の切石を各3石1段おき、その上に平たい切石2石を積み、羨道の奥半より約20cm高く積む。したがって天井もこの部分は少し高くなる。

 南端の天井石下面南端から少し奥に入ったところに幅約6cm、深さ約2cmの溝を刻み、上面は南端に面をとり、上方を斜めに仕上げる。この溝はおそらく扉石の位置を示し、上面の傾斜は墳丘の傾斜に合わせたものと考えられる。この天井石の南側にはさらに両側壁とも2石が存在するが、天井石は当初から無く墓道状になっていたものと見られる。

 羨道の長さは、12m、幅1.9m、前半の高さ約2mを測る。なお、現在各石材の目地にはセメント状のものを詰めて補修しているが、一部に漆喰が残っており、もとは漆喰を用いていたものと考えられる。

 岩屋山古墳の石室は、文献から聖徳太子の墓(大阪府南河内郡太子町の叡福寺北古墳)に似ているとされている。また、長大な羨道をもつ石室の最後にあたるもので、年代としては七世紀の前半、第Ⅱ四半世紀のやや古いあたりから七世紀中ごろまでに位置づけることができる。

 またこの古墳からの出土遺物や石棺の有無については全く知られていない。
 この古墳は『大和志』によると皇極天皇御母 吉備姫王 檀弓岡墓であるという説と、巨勢雄柄宿弥墓であるという説や推古期末期から舒明朝の某人の墓とするという説(『日本の古代遺跡7 奈良飛鳥』より)があり、詳細は不明である。

 最後にこの古墳の特徴として、花崗岩を用いた優美な石室が有名である。石室の形態は石舞台古墳ときわめてよく似ているが、この古墳は石材の表面がきれいに加工されており、1897年にはウイリアム・ゴーランドの『日本のドルメンと埋葬墳』に「驚嘆するような切り出し石の巨石構造の例は、舌を巻くほど見事な仕上げと、石を完璧に組み合わせている点で日本中のどれ一つとして及ばない。」と書かれるほどである。また、このようにきれいに加工された石材がはじめて採用された古墳でもある。


岩屋山古墳墳丘復元イメージ(河上邦彦氏案による)
両槻会事務局作成

参考文献
猪熊兼勝 1994年 『飛鳥の古墳を語る』 吉川弘文館
河上邦彦 2003年 『飛鳥を掘る』 講談社
西光慎治、辰巳俊輔 2011年 『明日香村文化財調査研究紀要‐第10号‐』 明日香村教育委員会 文化財課
菅谷文則、竹田正則 1994年 『日本の古代遺跡7 奈良飛鳥』 保育社




岩屋山古墳(資料作成:富田麻伽)


○はじめに
 岩屋山古墳は奈良県高市郡明日香村大字越小字岩屋516-2に所在しており、その精美な石室を有する古墳として有名な飛鳥の終末期古墳の一つである。また周辺には牽牛子塚古墳や真弓鑵子塚古墳、マルコ山古墳等、多くの終末期古墳が点在している。岩屋山古墳は昭和43年(1968)に国の史跡の指定を受けた。
 明治時代にはイギリス人のウイリアム・ゴーランドが、岩屋山古墳の石室を調査して「舌を巻くほど見事な仕上げと石を完璧に組み合わせてある点で日本中のどれ一つとして及ばない」と『日本のドルメンと埋葬墳』の中で紹介している。

○墳丘
 墳丘は一辺約40m、高さ約12mの二段築成の方墳で、墳丘は版築で築かれており、下段には礫敷が施されていることが明らかとなった。墳形は下段部が方墳であるが、上段部は方形とも円形とも多角形ともみえ、八角形に築いた八角墳ではないかと指摘されている。八角墳は御廟野古墳(伝天智天皇陵)、野口王墓古墳(伝天武天皇・持統天皇合葬陵)など飛鳥時代の大王墓(天皇陵)に見られるものである。


岩屋山古墳 石室復元図
現地説明板より

○石室
 石英閃緑岩(通称、飛鳥石)の切石を用いた南に開口する両袖式の横穴式石室である。規模は全長17.78m、玄室長4.86m、幅約1.8m、高さ約3mで羨道長約13m、幅約2m、高さ約2mである。壁面構成については玄室が2石積みで奥壁上下各1石、側石上段各2石、下段各3石からなり、各壁とも上段は内側へ傾いた構造である。羨道部分は玄門側が1石積みで羨門側が2石積みとなっており、天井石については玄室1石、羨道5石で構成されている。こういった構造をした石室は岩屋山式と呼ばれており、奈良県内では小谷古墳(橿原市)や峯塚古墳(天理市)等でも確認されている。


参考:ムネサカ1号墳 石室内
 側壁と天井石の間には漆喰がつめられているが、この石室が後世に蚕室として利用されたときにも、瓦や粘土を石と石の間につめ込み、その上から漆喰を塗っているので、築造当初から漆喰があったかどうかは不明である。羨門部の天井石には一条の溝が彫られており外から天井石に伝わった水が石室内に入ることなくこの溝の部分で遮るように工夫がなされている。

 特にムネサカ1号墳(桜井市)の石室は岩屋山古墳と同じ設計図(規格)をもとに築造されたと考えられており両者の関係が注目されている。石室内からは土師器・須恵器・瓦器・陶磁器・古銭等が出土している。

○築造時期と被葬者
 岩屋山古墳は切石を加工し巨石を使用した横穴式石室があり、石室の編年の指標の一つとなっている。また、長大な羨道をもつ石室の最後にあたるもので、このことから岩屋山古墳の築造時期を七世紀前半から七世紀中ごろまでの時期に位置づけることができる。

 岩屋山古墳の被葬者としては、661年に九州で死去した斉明天皇の可能性がある。一方、岩屋山古墳の石室が文献から知ることのできる聖徳太子の墓に似ていることで議論されている。622年に死亡した聖徳太子墓との関係があり、この場合は皇極天皇のときに造墓を開始した「寿陵」とみれば、説明がつく。牽牛子塚古墳を斉明天皇陵とみる立場にたったならば、岩屋山古墳は、推古朝末期から舒明朝の某人の墓とすべきだが、蘇我馬子が大臣になった時点から天皇陵ほどの規模を持つ石舞台古墳の造営を開始したのではないかという考えにも無理がないわけでもなく、今後の研究や調査、議論の進展によるといえる。

○参考文献
・『明日香村 文化財調査研究紀要 第10号』 2011年3月発行 明日香村教育委員会
・『日本の古代遺跡 7 奈良飛鳥』 1994年5月31日発行 森浩一 保育社
・『飛鳥を掘る』 2003年1月10日発行 河上邦彦 講談社


岩屋山古墳 石室


☆コメント
 岩屋山古墳を担当した2人の資料は、それぞれの参考文献により、古墳の規模や墳丘形状、また石材加工の解釈などに違いが有ります。これは、2人のどちらかが間違っているとう単純なものではなく、岩屋山古墳を三段築成と捉えるか、二段築成と捉えるかなど、岩屋山古墳についての諸説を奇しくも提示することになりました。    (両槻会事務局)





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高松塚古墳(資料作成:桑原康起)

・所在地
奈良県高市郡明日香村平田

・概要
 高松塚古墳は、奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳である。尾根の南西斜面を平らに削り、南側の小規模な谷を深さ2.7mほど埋め立てて造成されたあと、版築によって築かれた二段築成の円墳で、墳丘周囲には幅2.5mの周溝が巡ります。藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになりました。


高松塚古墳 現況

・発掘情報
 高松塚古墳の発掘調査は、1972年3月1日から開始されました。発掘の始まったきっかけは、1970年の10月ごろ村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い切石が見つかったことである。奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査することになった。発掘は明日香村が事業主体となり、橿原考古学研究所が実際の発掘を担当した。そこで彩色の壁画が発見された。この発見は、わが国の考古学に於ける今世紀最大の発見とされた。

・墳丘
 二段築成の円墳で直径下段23m、上段約18mである。高さは、約5m(下から見かけの高さ約8.5m)である。墳丘の版築層では、地震による地割れや亀裂が確認されています。この地割れは、震災後、漏斗状に墳丘表面で口を開いていたと推定されるようです。

・石室、壁画
 石室は凝灰岩の切石を組み立てたもので、南側に墓道があり、南北方向に長い平面をもっている。石室の寸法は南北の長さが約265cm、東西の幅が約103cm、高さが約113cm(いずれも内法寸法)であり、大人2人がかがんでやっと入れる程度の狭小な空間である。横口式石槨と呼ばれる系統に入り、平らな底石の上に板石を組み合わせて造ってある。


現地説明版より

 壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、四方四神および星辰(星座)である。東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子群像、四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかであった。(参考:西壁女子群像高松塚古墳の概要・文化庁)奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天井には星辰が描かれている。南壁には四神のうち南方に位置する朱雀が描かれていた可能性が高いが、鎌倉時代の盗掘時に失われたものと思われる。

・被葬者
 被葬者については諸説あり特定されていない。そもそも飛鳥地域の古墳群で被葬者が特定されているものが稀である。被葬者論に関しては、大きく3つに分類できる。
天武天皇の皇子説、臣下説、朝鮮半島系王族説などがある。

・出土品情報
 出土状況から、おそらく棺南木口面を飾ったと思われる金銅製棺飾金具。白銅製海獣葡萄鏡、銀荘大刀外装金物、ガラス製栗玉、漆塗木棺、人骨などが出土品として見つかっている。その他に臼歯は見つかっているものの、頭蓋骨が見つかっていません。また、太刀飾りなどの外装品は見つかっているが、肝心の太刀が見つかっていません。これらは盗掘者が持ち去ったのではないかとされています。


飛鳥資料館展示 高松塚古墳出土 『海獣葡萄鏡』
 (使用申請許可済・転載禁止)

・特徴
 高松塚古墳の特徴は、終末期古墳であり、特に壁画が有名な小円墳である。そのため壁画古墳とも呼ばれ、国内では他に例を見ないものである。高松塚古墳の壁画は、国宝に選ばれています。また、出土品も重要文化財に登録されています。他にもさまざまな特徴がありますが、この古墳の最大の特徴は、壁画であると思われます。

参考文献
黒沢 廣、本田 峯 1984年『日本の美術217』 大日本法令印刷





高松塚古墳 (資料作成:山本剛史)

所在地 奈良県明日香村平田字高松

 高松塚古墳は、七世紀後半に作られた小さな円墳であり、特別史跡である。江戸時代に描かれた絵画に、墳丘の頂に松が植えられていたことから、高松塚と呼ばれるようになったと伝えられている。過去の文献にはしばしば「不分明陵」や「未定陵」などと書かれており、あるいは高松塚は文武天皇陵ではないかといわれていた時期もあった。


高松塚古墳 現況

 高松塚の発掘は二度行われており、壁画が発見された昭和47年3月及び壁画保存施設設置に伴う翌昭和49年11月の調査である。発掘とは別に、鎌倉時代から室町時代にかけての中世の盗掘ラッシュの時代に被害に遭っている。

 第一次の発掘では壁画と石室の寸法、遺物の遺存が判明した。当時の調査結果として、墳丘の規模は南北径25m、東西径20m、高さは南斜面下から9.5m、北斜面からは3.5mの数値が得られた。石室の内法寸法は全長2.65m、幅1.03m、高さ1.13mで、東西の側面は各3枚、奥壁と扉医師は各1枚、床石3枚、天井石4枚の計18枚の凝灰岩切石で構成されており、天井・4壁に漆喰が塗られていた。遺物の出土状態の床を見ると、床にも漆喰があったのではないか考えられる。

 出土遺物は金属製品が半分を占めている。金銅製対葉華文飾金具は径10.91㎝、厚さ0.13~0.2㎝の棺南木口面を飾っていた鋳造品の金具だと思われる。金銅製円形金具は径約4.8㎝の大型のものが2個、径約3.55㎝の小型のものが個あり漆喰木棺に海老錠で施錠していたものだと思われる。白銅製海獣葡萄鏡は表面径16.8㎝、面厚1.5㎝の白銅製の鏡である。銀荘大刀外装金物は冑金1個、石突1個、俵鋲1個、留鋲1個、露金物2個、山形金物2個の大刀外装金物が出土している。金属製遺物以外の出土した遺物は、ガラス製の丸玉・粟玉や琥珀製丸玉、漆塗りの木棺、人骨があげられる。木棺は長さ199.5㎝、幅58㎝、高さは残存部15㎝あり、底、両側板、両木口板とも、それぞれ一枚の杉板からできている。


現地説明板より

 高松塚古墳が注目されるきっかけとなったのは石室の壁画であろう。その壁画は切石で組み立てた石室の内部に漆喰を塗り、その上に描かれているのだ。壁画の内容は、天井には星宿図、西側壁には中央に青竜と白虎を、北壁に玄武を描かれている。南壁は閉塞石で、西壁寄りの上部には漆喰壁が残っているが、他には何も残っていない。およそ朱雀が描かれていたと考えられるが、中世の盗掘の時に南壁が壊されたために壁画が確認できないのではないかと考えられる。青竜の上辺には日象、白虎の上辺には月象が遠山と共に描かれている。東西側壁の奥、北寄りの壁面に4人の女性、前方、南面寄りの壁面に4人の男子一群を各々が描かれている。(参考:東壁男子群像高松塚古墳の概要・文化庁

 第一次の発掘により、約500年ぶりに石室が開いた壁画は、外気の流入による温湿度の急変、カビなどの微生物の侵入という危険にさらされた。そのため、近くの瓦屋から取り寄せた粘土塊をビニール袋に入れたものを積み上げ、閉塞するという応急処置が行われた。この応急処置は壁面保存にとって最も適切な方法であり、その後もこの粘土閉塞法は踏襲されている。

 昭和47年12月に、壁画を恒久的に保存するために、保存施設部会と壁画修復部会からなる「高松塚古墳保存対策調査会」が設置された。当時調査会では壁画を現地保存するか、移動して保存するかという問題の検討をしていたが、最終的には温湿度を一定に保つ施設を作り、現地保存をすることになった。

 しかし、2002年から2003年にかけて撮影された写真を確認した際、雨水の侵入やカビの発生により壁画の退色や変色が明らかになった。そのため、2006年10月から墳丘の発掘調査と壁画の解体が行われ、2007年に修復施設の完成と施設への移動が行われた。その後、10年間の保存修理を行い、修理完成後に再び古墳へ戻される予定となっている。


墳丘復元整備中の高松塚古墳

参考文献
伊達宗泰 2010年 『大和・飛鳥考古学散歩〈増補新版〉』 学生社
猪熊兼勝 1996年 『飛鳥の古墳を語る』 吉川弘文館
佐藤泰三 1984年 『日本の美術 第217号 高松塚古墳』 至文堂


☆コメント
 本居宣長の『菅笠日記』で文武天皇陵とされている古墳が、高松塚古墳ではないかと考えられるようです。共通資料「菅笠日記 抜粋」を参照してください。                        (両槻会事務局)



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中尾山古墳 (資料作成: 福井崇仁)

 中尾山古墳は奈良県高市郡明日香村大字平田小字中尾山670番地に所在する終末期古墳であり、高松塚古墳の北約500mのところにある。


中尾山古墳 現況

 墳丘は全面を葺石が覆うと考えられる三段築成の八角形墳で、外周に同じく八角形をなす二重の石敷をめぐらす。墳丘の対辺間の距離は約19.4m、外周の石敷を含めると、対辺間の距離は約29.4m、高さ4m前後に復原できる。
 墳丘の段築基礎部には径50㎝以上の玉石を2段以上積み上げ、斜面と平坦面に拳大からそれより大きな玉石を厚く敷き詰める。八角をなす稜線上にはやや大きな玉石を並べる。


中尾山古墳 埋葬主体部 模式図
両槻会事務局作成

 墓室は底石一石、側壁二石、奥壁一石、隅石四石、扉石一石、天井石一石、計十石で構築する石室でその規模から火葬骨を納めたものと考えられる。
 底石(東西約2.3m、高さ約1.7m)はほぼ直方体の花崗岩を利用し、各側面を粗く削り、側面は自然面を残し、上面を水平に加工する。

 上面は更に中央部分を方約60㎝、深さ約1㎝彫り凹める、この凹部はおそらく金属製の骨蔵器を置くための台が置かれたと考えられるが、この凹部から側壁までは約15㎝の空間がある。なおこの凹みの南側は同じ幅で更に約1.5㎝彫り凹めて底石上面南端に至る。

 側壁はほぼ直方体に加工した花崗岩の切石で、東西の両側壁(高さ88.5㎝)は扉石及び奥壁と組み合わせるためにL字状に切り込み、その平面形は凸字状をなす。扉石は凝灰岩の切石(幅112.4㎝、厚さ59㎝、高さ91㎝)で石室内面に合わせて浅い彫り込みがあり、また底面にも底石の幅60㎝の彫り凹めた部分に嵌入するための柄状の低い突出部を作る。なお、閉塞時の移動のためにつけられたとみられる溝(幅6㎝、7㎝)が上下左右の各面を一周して設けられている。側壁、奥石、扉石からなる平面形の入隅をなす四隅には石柱状の隅石(扉石左の数値、幅51㎝、厚さ46㎝、高さ86.5㎝)を置く。

 扉石右側の隅石は、盗掘の際に外され、現存しない。なお、扉石左側の隅石は、直接天井石を受けず、約5cmの間隙に漆喰を充填している。なお、奥壁と側壁との接合面を除き、各石の接合面は漆喰の使用が認められている。


墳丘模式図(沓形石造物出土地)
両槻会事務局作成

 発掘調査では、凝灰岩製でほぼ同形の石造物が二個出土した。平面形はやや長めの五角形を成し、側面は沓形を呈する。表面の加工は全面にわたらず、下面及び上面の前面寄り4分の1を除いた部分は荒削りのままである。前面と両側面は丁寧な加工が施され、前面は中央を縦に通る稜線によって内角134°をなす。墳丘東方の二重目の石敷上に横転した形で出土し、ほかの一個は、昭和11年の排水施設工の際、石室の南三尺、深さ三尺の位置で検出されたという。その形状から墳頂部外側におかれたものと推測され他に類例を見ない。

 中尾山古墳については元禄10年(1697)に刊行された玉井与左衛門定時の『元禄十丁丑年山陵記録』の中で「平田村 宇中尾塚 欽明帝御陵カ川石多シ」とあり、中尾山古墳は中尾塚とも呼ばれ、墳丘には川原石が多く散乱していたことや、またその中で墳丘が丸く墳頂から東方にかけて盗掘抗が存在しており、そこには、長さ約1.2m程の天井石が露出していた様子が記されている。


露出した天井石

 元文元年(1736)には『大和誌』が刊行され、中尾山古墳について「檜前安古岡上陵文武天皇在平田村西俗呼中尾石塚」とあり、中尾山古墳が中尾石塚と呼ばれ、名前からもわかるように大量の石材が散乱していた様子が窺える。また被葬者については文武天皇の名があげられている。安政2年(1893)に刊行された山川正宣の『山陵考畧』では文武天皇の檜前安古岡上陵について高松塚古墳と中尾山古墳のどちらかではないかと考証されている。このように中尾山古墳については江戸時代にはすでに形状は現状に近い状態であったことがわかり、被葬者についても文武天皇の檜前安古岡上陵ではないかと考証されていたことがわかる。

 明治26年(1893)には野淵龍潜の『大和国古墳墓取調書』が刊行され、その中では中尾山古墳の墳丘が三段築成の円墳で埋葬施設は早くに盗掘に遭い石槨の天井石が露出している様子が記されている。また山全体に川原石が散乱しており、被葬者についても皇極朝や孝徳朝頃の貴人の墓と想定されている。


中尾山古墳 墳丘復元イラスト(河上邦彦氏案による)
両槻会事務局作成

参考文献
明日香村教育委員会1975年『史跡中尾山古墳環境整備事業報告書』奈良明新社 
橿原考古学研究所 1988年 『石舞台から藤ノ木古墳』奈良県立橿原考古学研究所付属博物館
相原嘉之、西光慎治 2010年 『明日香村文化財調査研究紀要‐第9号‐』 明日香村教育委員会 文化財課



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カナヅカ古墳(資料作成:風人)

一辺約35m、高さ6~8mの二段築成の方墳だと考えられています。


カナヅカ古墳 墳丘復元イラスト
(西光慎治氏案による)
両槻会事務局作成
 現在は小さな墳丘に見えるのですが、築造当時は墳丘前面に東西60m、南北25mの大規模なテラスを持っていたとされ、その上に墳丘が築かれていました。

 丘陵の南斜面をL字型にカットして平坦面を造り出しています。これは、終末期の古墳造営に際して見られる特徴の一つと考えられます。
築造時期は、石室構造の検討から、7世紀中頃とする見解が出されています。

 カナヅカ古墳は、『延喜式諸陵式』による欽明天皇陵の兆域(4町×4町)内に位置していると考えられることから、残存する墳丘の一部は、宮内庁によって欽明天皇檜隈坂合陵の陪冢に治定されています。


 埋葬施設は、南に向かって開口する横穴式石室で、全長約16m、玄室長約5.5m、幅約3.6m、高さ2.7m、羨道約10mを測ります。
 石室は、明治23年に石取りによって一部破壊されたのですが、その当時の記録から、切石を用いた大型の横穴式石室であったことが明らかになっています。
 記録の中には羨道と玄室の二種類の石室図が描かれており、切石(石英閃緑岩)を用いた両袖式の横穴式石室で、玄室壁面は二段積みであったことがわかりました。また石室の壁面の石組も、右壁と奥壁が上段1石、下段2石、左壁は上下段各2石の構成だと判明しています。
 これらのデータから判断すると、カナヅカ古墳は岩屋山式石室の範疇に入る石室構造を示し、岩屋山古墳に僅かに遅れて造営された古墳だと考えられるようです。

 被葬者については、『延喜式』によると欽明天皇檜隈坂合陵(梅山古墳)の兆域内に吉備姫王墓が存在することが記されていること、また、古墳の年代観と吉備姫王の亡くなった「皇極天皇2年(643)9月11日」に矛盾がないことや、墳丘・石室の規模などから、斉明天皇の母であり、天智・天武両天皇の祖母である吉備姫王の可能性が高いとする説が有力になっています。(系図参照)
 ただ、これらの説は、欽明天皇陵が現在治定されている平田梅山古墳であった場合に成り立つものです。

 平田梅山古墳には、『日本書紀』に欽明天皇陵に関して記載されている内容と同様に葺石が施されています(造出部で確認されている)。また陵が「檜隈坂合陵」と名付けられているように、平田梅山古墳の所在地が古代檜隅の域内に在ることなどから、平田梅山古墳が欽明天皇陵であると考えられます。

 『日本書紀』推古天皇28年(620)10月には、「すなわち域外に土を積みて山を成す。氏毎に科して大柱を土の山の上に建てしむ」と書かれています。平田梅山古墳の西側正面は小さな丘陵となっており、窮屈な印象を与えるのですが、古墳は権力の誇示でもあることに照らし合わせると、紀路という幹線道路から見えなくなっているのは不自然です。
 調査は行われていませんが、この小丘陵が「土を積みて山を成す」に相当すると考えてみるのも面白いかもしれません。


 欽明天皇陵を西端、天武持統天皇陵を東端に置く東西に続く丘陵には、約800mの内に4基の古墳が一直線に存在します。カナヅカ古墳が南面して大規模なテラスを持つこと、欽明天皇陵(平田梅山古墳)が南から見られることを意識して造られていること(周濠の南北での幅の違いや、北では丘陵を背負っている事)など、丘陵の西を走る紀路から飛鳥へ、そして山田道を経由して大和盆地の南東端(欽明天皇の宮殿=磯城島金刺宮)方向に接続する重要な道路に面している点も注目されます。

 また、天武天皇陵が藤原京の中心線を真直ぐに南に伸ばした線上に在ることは知られますが、位置を定めるためにはもう一つの基準線が必要になります。その線が、この欽明天皇陵からカナヅカ古墳、鬼の俎・雪隠古墳を乗せる丘陵ではないかと考える事も出来るのではないかと思われます。
武力をもって皇位についた天武天皇にとって、大きな課題は皇位の正統性の主張ではないかと考えられます。たとえば、飛鳥への帰還後に母である斉明天皇の後岡本宮を受け継いで飛鳥浄御原宮としたことなどがあげられますが、飛鳥時代の歴代天皇の始祖と考えられる欽明天皇を意識した可能性は無視できないように思われます。(系図参照

 この様な点も、平田梅山古墳が欽明天皇陵であると考える説を有力にすると思うのですが、それに連れてカナヅカ古墳が吉備姫王墓である可能性が高くなると思われます。



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鬼の雪隠・俎古墳 (資料作成:吉本太一)

 概要
「鬼の雪隠(せっちん)・俎(まないた)」とは、欽明陵近くの遊歩道を挟み、別々に置かれている二つの花崗岩で出来た石造物のことで、遊歩道右手(北)の高台の上にあるのが俎。道を挟んだ田んぼの中(南)にあるのが雪隠です。


鬼の雪隠(左)・俎(右)

 俎の大きさは長さが約4.5m、幅は約2.7m、厚さが約1m。そして、雪隠の内幅が約1.5mで高さは約1.3mといった大きさである。
 この数十メートル離れた所に存在する二つの巨石は、盛り土すらも無くなってしまっているが、本来一つの横口式石槨が二つに分かれてしまっているものであるというのが定説となっている。ひっくり返ってしまってはいますが、雪隠はこの横口式石槨の天井石であり、俎は石槨の基礎部分である底石にあたります。


鬼の雪隠・俎古墳 墳丘復元断面 模式図
両槻会事務局作成

 この古墳が造られたのは7世紀頃、おそらく大化改新がおこった翌年である646年に築造されたと推測される。

 この古墳が一つの建造物であったとするなら、なぜこんなにも離れた場所に存在しているのか。
 現代において、石というものは大理石などでも無い限り、あまり注目されることのない資源ですが、古代においては石というのは重要な建築資材となりえます。
 御所(ごせ)や吉野、その他色々な所へとつながる街道のすぐ側に、いつしか覆っていた封土すらも消え去り、明らかに人の手によって組み立てられた大きな石が転がっていれば、時の権力者にはさぞ有用な資源に見えたことでしょう。
 実際、俎には小さな穴が大量に空けられていて、底石を小さく割ることでなんらかの建材として利用しようとした跡であると見られています。

鬼の俎にみられる利用しようとした跡(矢穴)

 雪隠が離れた場所にあるのは、古墳の上蓋を剥がし、なんとか雪隠を下に落下させたのはいいものの、あまりの重量にどうしようもなくなり、放置したのではないかと推測することが出来ます。

双墓説
 この古墳には双墓説というものがあります。
 実はこの俎は雪隠から見て少し東にずれていますが、それとは別に、元々は俎の東側にも同じような形の古墳が存在する双墓であったと考えられます。
 東側にあった古墳の俎の部分は明治時代に、個人の屋敷の庭石として使用されてはいたものの発見されており、この双墓説に確実性を加える材料となりました。
現在、この庭石として使用されていた俎は橿原考古学研究所附属博物館の屋外に展示されています。

何故このような名前がついたのか
 欽明天皇陵や金塚古墳、天武持統陵などどれにせよ由緒正しい古墳と同じ線上に存在するはずのこの場所に、何故「鬼の雪隠・俎」などという名前が付いた古墳が存在するのか。これにはこの地域の伝説が関わっています。
 この辺りの地域には古くから風の森や霧ヶ峰などと呼ばれるほど霧がよく発生し、この道を通る旅人が迷いやすい原因となっていました。
 これを地元の人々は「鬼に喰われた」と呼んでいたそうで、後に「この山には霧を降らせる鬼が住んでいて、迷わせた旅人を捕らえて喰っている」という伝説になっていったようです。
深い霧に囲まれ、不安になった旅人にはこの古墳が、鬼が捕らえた人を調理する「俎(まないた)」と食べたあとに用を足すための「雪隠(トイレ)」に見えていたのではないでしょうか。


参考文献
明日香村 平成26年3月 「牽牛子塚古墳・越塚御門古墳 整備基本構想」


☆コメント
築造時期に関して
鬼の俎・雪隠古墳の築造時期に関しては、文中にあるように「おそらく大化改新がおこった翌年である646年に築造されたと推測される。」とするのは、そのままでは正しくありません。646年に公布された大化の薄葬令に基づいて造られたと考えられることから、646年以降に造られたとするのが正確です。
薄葬令とは、『日本書紀』大化2年(646)3月22日条に書かれるように、身分に応じて墳墓の規模などを制限した勅令です。

双墓説に関して
鬼の俎が所在する場所は、丘陵の南側傾斜地をL字形にカットして平坦に造成されています。その造成面中心軸に対して、俎は西側にずれており、東に空白地を残しています。また、説明文中に書かれているような石材が存在することから、双墓説が有力となっています。さらに、一つの墳丘に二つの石槨を持つ双郭(室)墳であった可能性が検討されています。

鬼の俎・雪隠古墳
「鬼の雪隠・俎」と書く方も居られますが、風人は「俎・雪隠」の順に書きます。というのは、俎は築造当時から場所を動いていないからなのですが、皆さんはどうでしょうか。明日香村のHPにも両方の書き方が有り、書く時に少し迷ってしまいます。     (両槻会事務局)



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天武・持統天皇陵(野口王墓) (資料作成:松本幸太朗)

・概要
 墳丘は現在東西径約58m、南北径45m、高さ9mの円墳状である。本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められているとされている。本古墳は、天皇が埋葬された古墳として考えてよく、被葬者の実在性も問題がない。治定が信頼できる数少ない古代の陵墓である。しかし、本古墳は1235年(文暦2年)に盗掘にあい、大部分の副葬品が奪われた。


現地説明板より

・墓室
 『阿不幾乃山陵記』によれば、南面して石門があり、その前に石橋があるという。墓室は馬脳(大理石と思われる)の切石を用いた石棺式石室と思われ、内陣、外陣と呼ぶ2室からなる。内陣は長さ1丈4.5尺、幅1丈ほどの規模で、床面を含む全面に朱を塗り、天武天皇の棺と持統天皇の金銅製骨蔵器を納める。天武天皇の遺骸を納める棺身は布張りの張物で、長さ7尺、幅2.5尺、深さ2.5尺の夾紵棺と考えられる。持統天皇の火葬骨は1斗ばかり入る金銅桶に納め、礼盤の形をした台座上に置く。持統天皇は天皇として行われた火葬の初の例であり納められていた骨蔵器は銀製であったという。ただ、概要にあるように文暦2年に盗掘にあった際、骨蔵器も盗まれ遺骨は近くに遺棄されていた。天武天皇も棺から引っ張り出された跡があり、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。(阿不幾乃山陵記


現地説明板より

・野口王墓の解説
 野口王墓は明治14年までははっきりと天武持統陵であると断言されていたわけではない。1848年(嘉永元年)に著された北浦定政の『打墨縄』(うちすみなわ)では、天武持統陵は見瀬丸山とされ、野口王墓は文武天皇陵に比定された。
 その後、1862年(文久2年)からはじまる、文久の修陵においては、野口王墓は文武天皇陵として仮修補された。このときには、あくまでも「仮」の修補であったらしい。
 文久の修陵から1871年(明治4年)の間のいずれかの時期に、再度、見瀬丸山から野口王墓に治定変更されている。その後、1871年(明治4年)にさらに治定変更が行われ、野口王墓は、天武持統陵ではなくなった。

 しかし、さらにその後、野口王墓は天武持統陵として再治定される。1880年(明治13年)に『阿不幾乃山陵記』が、京都栂尾の高山寺から発見された。それをうけて、同年12月、宮内省官吏である大沢清臣(おおさわすがおみ)と大橋長憙(おおはしながおき)が、「天武天皇持統天皇檜隈大内陵所在考」を著したのである。この著書のなかでは、見瀬丸山が天武持統陵ではありえないことを述べた。また、『阿不幾乃山陵記』にある「阿不幾乃山陵里号野口」と『諸陵雑事註文』(1200年(正治2年))において「大和青木御陵天武天皇御陵」の記載の一致から、野口こそが「青木」であり、天武天皇御陵であると主張したのである。この「天武天皇持統天皇檜隈大内陵所在考」は、宮内卿徳大寺実則に具申され、太政大臣三条実美に改定の伺いが出される。これにより1831年(明治14年)に野口王墓は天武・持統合葬陵として正式に治定され、現代に至るまでその治定は変更されていない。



参考文献
河上邦彦 2005 『大和の終末期古墳』 学生社
堀田啓一 2001 『日本古代の陵墓』 吉川弘文館

☆コメント
阿不幾乃山陵記』について
 説明文にもあるように、明治13年(1881)京都栂尾高山寺から桧隈大内陵に関する記録が発見されました。鎌倉時代の文暦2年(1235)に「桧隈大内陵(天武持統陵)」が盗掘に遭いますが、その実地検分のために派遣された勅使の記録を綴ったものです。ここには、陵墓内の形状や石室の様子・棺や骨蔵器などを詳細に書き留められています。また、同盗掘事件は藤原定家の日記『明月記』の文暦2年(1235)4月2日・6月6日条に、同年3月20日と21日の両夜に賊が入り盗掘を受けたことが記録されています。この記事には、盗掘後の様子の見聞が細かく書かれており、無残な様子に当時の貴族が衝撃を受けた様子がうかがわれます。     (両槻会事務局)



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菖蒲池古墳 (資料作成:よっぱ)

 橿原市菖蒲町(旧五条野町字菖蒲池)に位置し、甘樫丘から西に延びる丘陵の南面に築かれた7世紀中頃の古墳です。
 石室は、昭和2年(1927)に国の史跡に指定され、平成19年(2007)に「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成資産の一つとして世界遺産暫定一覧表に記載されました。平成21年度(2009)から橿原市教育委員会が範囲確認調査を実施しています。

 墳丘は、二段築成の方墳で、下段は一辺約30m、上段は一辺約18mで、版築状に積み上げ、一部では土嚢も使われています。斜面に貼石はなく、赤い化粧土が施されていました。上段、下段の墳丘裾には基底石(飛鳥側流域の石英閃緑岩)が、基底石前面には幅2.2~2.5mの平坦面(テラス)があり、その上面に3~5㎝の礫敷が施されていました。

 墳丘の北側及び東側では、壕が確認され、その幅は6m以上、深さは2m以上に及ぶものでした。東側の掘割の底は、南東角付近では幅4.3mで砂利敷きがありましたが、北東角の堀割底は最短で約20㎝であり、砂利敷きも有りませんでした。このような掘割の状態からすると、古墳の裏面(北面)は手抜き工事をしたかのように思われがちですが、丘陵側にも土嚢等を使った丁寧な工事が施されていました。

 石室は、花崗岩の切石二段積の両袖式石室で、玄室長は約7.3m、幅約2.6m、高さ約2.6mで、各々の石の間には漆喰が詰められています。
 石棺は、凝灰岩(播磨産竜山石)の刳抜式家型石棺で、棺蓋は寄せ棟式屋根で頂部に棟飾り風の突起があり、棺身の表面にも柱や梁を表現した突起があります。棺の内部は黒漆が施されていました。


両槻会事務局作成
参考:H22.11.27現地説明会資料
 橿原市教育委員会の平成22年度(2010)の調査で、墳丘の南西角が確認され、さらにその付近では地震が原因とみられる地滑りも確認されました。また、墳丘の西側が、藤原宮期(7世紀末)に整地され、整地層の上面には南北方向の石組み溝が構築されていることも確認されました。

H22.11.27 現地説明会時撮影

墳丘南北の断面図 両槻会事務局作成
(参考:H22.11.27現地説明会資料)

 平成23年度(2011)の調査では、墳丘下段の東辺の基底石と砂利敷きが確認され、墳丘の東西が30.6mと判明しました。

 平成24年度(2012)の調査では、墳丘下段の北東角や堀割が確認されました。また、東の堀割の外側(東側)で版築状の盛土や幅1m以上の石敷きが確認され、東外堤の可能性がでてきました。この確認により墓域の東西幅は、遺構検出範囲で約58mを測ります。
 さらに、古墳築造後に墳丘の下段が隠れるほど壕を埋め、外堤を整地して建てられた、東西5間(15m)、南北4間(9m)以上、柱間3m(10尺)もある大型の掘立柱建物も検出されました。


H25.2.23 現地説明会時撮影

このようにこの古墳は
  ○ 版築や石敷といった飛鳥時代の最高水準の土木技術が使われていること。
  ○ 石棺の形状は他に類を見ない家型石棺で、内部には黒漆が施されていること。
から当時の権力者のために築造された古墳であることがうかがえますが、その一方で、
  ○ 二基の石棺が納められているが、石室がそれに見合う広さかどうかについては諸説あること。
  ○ 古墳築造から数十年(藤原宮期)で、古墳が破壊され、西側隣接地を利用し、東側には大型の掘立柱建物が建てられていること。
から、その被葬者が誰であったのか、意見が分かれるところです。


古墳模式図と墳丘東西の断面図 両槻会事務局作成
(参考:H25.2.23 現地説明会資料)
参考資料
平成22年度菖蒲池古墳 現地説明会資料
平成23年度菖蒲池古墳範囲確認調査 現地説明会資料
平成24年度菖蒲池古墳範囲確認調査 現地説明会資料
飛鳥遊訪文庫  【21】「菖蒲池古墳をめぐる諸問題-菖蒲池古墳の調査から-」



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小山田遺跡 (資料作成:よっぱ)

 奈良県高市郡明日香村川原に所在します。甘樫丘から南に延びる尾根の先端を切断し、地山を削りだして造られています。この遺跡の西約100mには7世紀中頃の菖蒲池古墳があり、南側には7世紀後半築道の交差点である川原下茶屋遺跡(東西道幅約12m、南北道幅約3m)が所在します。

 これまでの調査では、昭和47年(1972)に、7世紀末の「旦波国多貴評草上」(たんばのくに たきのこおり くさのかみ)「里漢人佐目」(さとの あやひとべ さじめ)と記された木簡(丹波国から都への貢進物に付けられた荷札木簡)が出土し、平成7年(1995)には、榛原石が出土していました。この他にも校舎の増改築に伴って小規模な調査が実施されましたが、地山である岩盤や谷の堆積土しか確認できず、遺構はすでに削られているものと考えられています。

 今回は、県立明日香養護学校の校舎改築事業に伴う発掘調査と国庫補助事業による範囲確認調査が実施されています。
 今回の調査では、調査区の南半で大規模な溝が発見されました。上幅約7.0m、下幅約3.9mの断面が逆台形の溝で、延長48m分が検出されました。


H27.1.18現地説明会時撮影

 溝の北側斜面には40㎝大の石英閃緑岩を貼り付けており、高さは1.5m以上あったと考えられています。溝の南端では約80㎝の幅で、30㎝大の石を石敷底よりも約10㎝高く敷いてテラス状にしています。

南側斜面は、板石積みとなっています。下二段を幅約50㎝、厚さ約10㎝、奥行き約40㎝の紀ノ川周辺で採取される結晶片岩(緑泥片岩)を積み、その上に室生安山岩(榛原石)を約10㎝ずつずらしながら、約25度の傾斜で斜面に積み上げられています。検出した高さは約60㎝ですが、掘割底から多量の板石が見つかっているため、さらに高く段状に積み重ねられていたと考えられています。


H27.1.18現地説明会時撮影


検出された遺構の時期については、造成土から6世紀後半の須恵器が、溝の堆積土の上層から7世紀後半の須恵器が、それぞれ出土していることから、造成はこの期間となりますが、榛原石が多用される時期を考慮すると7世紀中頃の可能性が高いということです。

この遺構が、邸宅跡なのか古墳なのかについては、
  ○ 古い地形図(昭和30年代)では約80mほどの方形地形が認められること
  ○ 貼石の状況は役所や邸宅には例のないものであること
  ○ 尾根の先端を削り、掘割を施して四角の地形を残す遺跡にカナヅカ古墳があること
  ○ 墳丘下部の貼り石あるいは板石積みの状況が石舞台古墳、段ノ塚古墳と酷似すること
  ○ 溝に貼石をする例は石舞台古墳と共通すること
などから、今回検出された大規模な溝は、古墳北側の掘割であり、一辺80m近い巨大な方墳あるいは方形壇をもつ7世紀中頃の古墳である可能性が極めて高いとされています。

この古墳の被葬者については、
  ○ 舒明天皇説(初葬墓 滑谷間の丘)
  ○ 斉明天皇説(飛鳥川原仮埋葬墓)
  ○ 蘇我蝦夷説(今来の大陵)
等があげられています。泉森皎氏、白石太一郎氏、前園実知雄氏や両槻会でお馴染みのあい坊先生は、蘇我蝦夷説を採られています。

蘇我蝦夷説をとられている理由は、
  ○ 築造時期が7世紀中頃であること
  ○ その規模から当時のかなりの権力者が被葬者であること
  ○ その場所が蘇我氏ゆかりの土地であること
  ○ 軽から檜隈に至る地域一帯は高市郡に統合される前は「今来」郡に属していたと判断されること
  ○ 小山田遺跡と菖蒲池古墳との関係において、菖蒲池古墳が
   ・ 小山田遺跡のすぐ側に築造されている
   ・ 築造の年代が小山田遺跡と同じ7世紀中頃である
   ・ 墳形が蘇我氏系に多い方墳で、墳丘前面に貼石、掘割底に砂利敷きを施している
   ・ 石棺は、内部に黒漆を塗った他に類を見ないほど精巧な刳抜式家型石棺が
     二基安置されており、極めて身分の高い被葬者の墓と推測される
   ・ 小山田遺跡の貼り石の裾部と菖蒲池古墳の石室の方位が、真西で南に約14度振っている
     ことから、この古墳が「今来」の「双墓」である可能性が極めて高いこと
○ 築造後間もない頃の7世紀後半には墳丘や掘割が認識しがたいほど削平されていたこと
○ 域内から7世紀末頃の木簡が出土し、南側に7世紀末の交差点が確認され、同交差点からの南北道が小山田遺跡への進入路と考えられ、7世紀後半には、同所に施設が存在した可能性があること
などがあげられています。


小山田遺跡 位置図 両槻会事務局作成
(参考:H27.1.18 現地説明会資料)

今後の周辺での調査と被葬者に関する論争が、期待されます。

参考資料
小山田遺跡第5次・第6次調査 現地説明会資料
飛鳥遊訪文庫【34】 「甘樫丘南端に造られた巨大な古墳」
豊中歴史同好会誌 つどい 「小山田遺跡についての二、三の憶測-覚書として-」



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塚本古墳 (資料作成:らいち)

 塚本古墳は棚田で有名な明日香村稲淵にあります。水田に映る夕日や秋の彼岸花を求めて大勢の観光客で賑わう場所にもかかわらず、この古墳の存在を知っているのは一部の古墳マニアか考古学ファンくらいで、ほとんどの人はこれが古墳であることさえ気づかず通り過ぎてしまいます。封土は失われ、石室は奥壁と東側壁の一部がかろうじて残っているだけで、しかもつい最近まで農機具置き場として利用されていました。


塚本古墳現況

 石材のほとんどはダイナマイトや矢による損傷を受け、中世以降の石取りの跡が伺えます。こんなに立派な石室を持つ古墳でも、時代によっては無惨に破壊されてきた歴史があるんだよと、また別の一面を語ってくれる場所でもあります。


石取りの跡

 この古墳の発掘調査は、昭和58年(1983)の春に稲淵から檜前に抜ける農免道路敷設に伴う事前調査として橿原考古学研究所によっておこなわれました。道路のルートは当初墳丘を縦断するものでしたが、調査後はかろうじて墳丘を避ける路線に変更されることになったそうです。

 調査報告書によりますと塚本古墳は、石舞台古墳から西南に1km、飛鳥川の左岸に位置し、標高205mの山頂から南東方向に延びる尾根の中央にある舌状の支派を切断して築造されています。一部切石を使った両袖式の横穴式石室を持つ一辺39mの二段築成の方形墳で、石室の規模は全長12.5m以上、玄室長4.35m(東)・4.60m(西)、玄室幅2.25m(奥)、高さ2.8m(奥)、羨道長8m以上(推定)、羨道幅2m弱、羨道高1.85m(推定)。奥壁は巨石の2段積み、両側壁は基底石3石の3段積み。2段目以上の石材を内傾させる持ち送りがみられ、主に芋峠付近に産出する角閃石黒雲母石英閃緑岩(通称飛鳥石)が用いられています。

 調査当時石室内は奥壁一段目まで埋没していましたが、玄室部床面中央からは平面矩形を呈する棺台と排水機能を兼ねた5㎝前後の小礫が15~20㎝の厚さに敷きつめられていることが確認されました。羨道部床面には黄褐色の貼土と排水溝があり、石室の構築に伴う木組み用と思われる柱穴も検出されています。また玄門部から羨道部にかけての位置で刳抜式家型石棺の蓋が二つに割れた状態で出土しました。棺身は多量の凝灰岩片からみて徹底的に破砕されたようです。石材は二上山周辺に産出する流紋岩質溶結凝灰岩です。

 遺物としては少量の土師器、須恵器、土器片などが出土していますが、ほとんどは古代末から中世にかけての石室の再利用に際しての物です。
築造時期は出土遺物と石室構造から七世紀前半とされ、石舞台古墳と同時期か後出した時期で、特に棺台や排水溝の位置関係の類似から同じ石工集団によって築造されたものと考えられています。


塚本古墳遠望

 塚本古墳のある稲淵は無数の群集墳がある冬野川細川谷と比べると、極端に古墳の少ない所で、ここから奥の飛鳥川上流は神聖な場所として墓域とは区別されていたようです。また、古代の官道中つ道の延長上で吉野へと通じる芋峠への街道沿いという重要な位置に造られています。地形を見てみると南向きの斜面で後ろの山をL字型に背面カットして平面を構成した上に築造される終末期古墳特有のスタイルで、東西南北に四神を想定した周囲の山も墓域と考える風水思想にかなった形だということがわかります。

 被葬者像としては、墳形が方墳であること、石舞台古墳からそう遠くない位置にあることから蘇我系の有力者が考えられています。稲目、馬子、蝦夷、入鹿の宗家筋とは別の蘇我の有力者を紐解くと、日本書紀に登場する蘇我境部臣摩理勢(さかいべのまりせ)という人物が浮かんできます。稲目の子どもで馬子の弟とされ、推古20年に、欽明天皇の大后であった蘇我氏出身の堅塩媛(きたしひめ)を改葬した際、蘇我一族を代表して氏と姓の由縁についてしのびごとをのべたとあります。当時馬子に次ぐ実力者であったと思われています。推古女帝の死後、次の天皇に聖徳太子の子の山背大兄王を推し、田村皇子(舒明天皇)を推す蘇我蝦夷らと対立しました。携わっていた馬子の墓の造営をボイコットしたとも書かれています。結局蝦夷の軍勢によって子らとともに攻め滅ぼされています。※蘇我氏系図参照



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都塚古墳 (資料作成:もも)

 明日香村大字阪田に所在し、南からのびる尾根の先端部に築造された後期古墳になります。付近は水田開発によって棚田地形となっており、墳丘部分は台形に近い三角形を呈していました。

 「塚内金鶏ありて毎年正月元旦に出て鶏鳴くと伝えたり」との「金鳥伝説」が残り「金鳥塚」とも呼ばれています。本居宣長の『菅笠日記』には「・・・坂田村と申すには。用明天皇ををさめ奉りし所。みやこ塚といひて。これもそのつかのうへに。大きなる岩の角。すこしあらはれて見え侍る也となんかたりける。」と記されており、江戸時代には用明天皇陵との伝承があったことがうかがえます。

 2014年度の発掘調査により、これまで28m前後の方墳、もしくは円墳と考えられていたものが、東西41m、南北42m、高さ4.5m以上の方墳であることが判明しました。また、南東から北西に傾斜する地形に築造されているため、西側からの見かけの高さは7m以上になると推定されています。


2014年8月16日現地説明会時 撮影

コーナー部分
現地説明看板より

 墳丘は、礫などで構成された基盤層を整形した下部(基底面)と盛土により構成された上部に分けられます。最下段の斜面には川原石が施されていました。上部は拳大から人頭大の川原石による段状の石積み(高さ30~60cm)が5段分確認され、さらに数段続くと推定されています。また、方墳であることを裏付けるコーナー部分が、南東の中腹で3段分確認されています。
階段状遺構は、上面に厚さ20cm~30cmの化粧土を敷き詰めて舗装し、化粧土の下層には、拳大~人頭大の川原石が充填されていました。これらの川原石は、盛り土で構築された墳丘を補強するためだったと考えられています。

 墳丘北側の裾部では、北側を人頭大の石で護岸された幅1~1.5m、深さ40cmの周濠が確認されています。


墳丘及び段状遺構模式図
両槻会事務局作成

 墳丘の北西端近くの1段目のテラス部分では、南海・東南海地震によると想定される地割れが確認されています。地割れの痕跡は、長さ4m以上、幅20~60cm、深さ60cm以上で北から北西方向に伸びています。
 飛鳥地域では、南海・東南海地震の影響によると考えられる地割れや地滑りなどが、カヅマヤマ古墳・真弓カンス塚古墳・高松塚古墳・酒船石遺跡・菖蒲池古墳でも確認されています。

 埋葬施設は、両袖式の横穴式石室で、全長12.2m、羨道は長さ6.9m、幅1.9~2m、高さ2m、玄室は長さ5.3m、中央部幅2.8m、高さ3.55mを測ります。      
石室は、花崗岩の自然石を積み上げて造られており、2段目からはやや内側に傾斜し、ドーム状を呈しています。
 石室には、家形石棺(長さ2.2m、幅1.5m、高さ1.7m)が安置されています。さらに、羨道寄りに棺台と思われる石も存在し、鉄釘が出土していることから木棺が追葬されていたと考えられています。石室は盗掘されていたのですが、土師器、須恵器、鉄製品(刀子・鉄鏃・鉄釘・小札)などの出土品から、築造は6世紀後半頃と推定されるようです。

 方墳は2段から3段に築成される例が多いなか、築造当初の都塚古墳は、7~8段あったと推定され、外観から4~5世紀の百済や高句麗で築かれた積石塚と呼ばれる古墳の影響を受けたとする説があります。しかし、1世紀もの時期差や構造の違いなどから、前方後円墳から方墳へと墳形を変える過渡期であり、韓半島の影響だけでは語れないとも言われます。

 都塚古墳は、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳や邸宅跡とされる島庄遺跡の約400m南東に位置することから、馬子の一世代前の稲目が被葬者として挙げられています。

 一方、都塚古墳から西へと続く細川谷には渡来系の人々の墳墓と思われる細川谷古墳群があることなどから、飛鳥川上流域に住んだ蘇我氏傘下の渡来系氏族の首長クラスを被葬者にあてる説もあります。

 南西約200mには鞍作氏の氏寺だとされる坂田寺跡があります。阪田を鞍作氏に縁のある地域だと考えると、都塚古墳が鞍作氏の墳墓である可能性も捨て難いように思えます。(蘇我氏関連古地名図参照


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石舞台古墳 (資料作成:高橋淳也)

 所在地 奈良県高市郡明日香村島庄

 古墳は談山神社のある多武峰の山頂、御破裂山(標高609)から西へのびる丘陵の西麓にあり、西へ広がる緩斜面に移る傾斜変換点(標高約141m)に位置する。外堤西北部に、この古墳の築造により破壊されたと見られる、7基以上の小規模な円墳と方墳からなる6世紀末の群集墳がある。


 石舞台古墳は、上部の盛土を失い巨大な横穴式石室が露出していることからこの名がある。
 墳丘は周濠と外堤をめぐらす二段築成の方墳、あるいは上円下方墳と考えられる。墳丘四周と外堤の斜面には人頭大の花崗岩玉石を葺き、四隅の稜線はやや大きめの玉石を並べる。墳丘は基底部で東西各辺の長さ約55m、南北各辺の長さ約52m、下段の高さ約2mを測る。濠の基底部幅約8.1m、外堤の基底部幅約10m、高さ約1.2m、外堤南辺外側の長さは約87mを測る。


石舞台 南西隅の貼り石

 この古墳は1933年に京都帝国大学の浜田耕作博士によって巨石古墳の技術解明という命題を受け、末永雅雄博士が古墳の発掘にとりかかった。博士は、この調査で石室内にトロッコの線路を引き、また記録には映画フィルムを用いるなど斬新な調査方法をとられた。古墳が方墳であること、当時最大の石室であること、周辺に陪塚があるかどうか等を調べられた。いわば、大和における実質的な古墳調査の始まりであった。古墳を築造する際に、先行する古墳を潰していたことが分かった。末永博士が陪塚であろうとしたものは、潰された古墳の一つであった。また、石舞台古墳の造られる前にあった石溝が石舞台で潰され、古墳が築造されてから古墳を避けるようにして設置された暗渠の石溝等も見つかっている。また、古墳の西50mのところには方形池もある。石室は細川谷流域から採石した角閃石黒雲母石英閃緑岩を使用した南西に開口する両袖式の横穴式石室である。


石舞台古墳石室に家型石棺を安置(イメージ画像)
事務局作成

 石室規模は全長約19m、玄室長は左右各側壁で7.75m、主軸で7.7mを測る。幅は奥壁3.5m、中央3.44m、袖部3.7mである。高さは4.8mを測る。羨道は右側石19.15m、左側壁19m、主軸で19.6m(転落した天井石まで)となる。幅は玄門部が2.22m、中央部2.1m、羨門部2.57mである。高さについては玄門部で2.25mを測る。

 玄室の壁面は奥壁が二段積みで左右各側壁は三段積みとなっている。石材は左側壁が8石、右側壁が10石、奥壁が2石から構成されており、隙間にも石材が充填されている。  
 天井石は巨石2石で構成されている。玄室床面には四方を人頭大の川原石で囲み内側にも石材を充填した石床状を呈しており、規模は長さ7.6m、幅奥壁側2.5m、中央2.7m、玄門側2.78mを測る。周囲には排水溝が設けられており左右の溝幅約30cm、深さ20cm、奥幅約45cm、深さ各20cmとなる。玄室内の水の流れは右側壁から奥壁、左側裾から玄門部に至り、更に羨道中央に設けられた幅約60cm、深さ約20cmの排水溝へ流れる仕組みとなっている。また石床状の下が暗渠となっており羨道の排水溝へと繋がっている。羨道の側壁は一段一石積みで左右各4~5石で構成されており、天井石との隙間には逆三角形を呈した石材を充填したいわゆる矢筈積み技法を用いている。天井石は前壁以外すべて失われている。

 石棺は玄室東南隅から凝灰岩片1個が発見されており、石棺の断片かと考えられる。
 出土遺物は石室流入土、周濠の埋土から7世紀から中世に至る土器類、鉄鏃、金銅製帯金具、金銅製尾錠、金銅製菊座金具などが発見されているが、本来の副葬品である確証はない。

 石舞台古墳は、本来古墳を築造すべきではない場所に築かれている点、その築造年代が7世紀前半でもやや古い頃という点からみると極めて異例な古墳で、被葬者が蘇我馬子という説についても、今のところ否定する材料はないと言える。

参考文献
明日香村教育委員会 2006 『明日香村文化財調査研究紀要』



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石舞台古墳 (資料作成:寺農織苑)

・石舞台古墳の概要
 石舞台古墳は、奈良県高市郡明日香村島庄に所在する。古墳築造時期は620年代と考えられている。墳丘上段の盛土が失われているため、当時はどのような形状をしていたかは不明である。発掘調査により、下段は方墳ということが明らかになっているが、上段は円墳か方墳か不明である。墳丘基底部は東西各辺約55m、南北各辺約52mであると確認されている。石室は、玄室と羨道からなる両袖式の横穴式石室である。


現地説明板より

・発掘調査歴
 1933年、1935年に京都大学考古学研究室の浜田耕作氏指導のもと、末永雅雄氏が発掘調査を実施した。調査には石室内にトロッコの線路を引き、記録には映画フィルムを用いるといった斬新な方法をとっていた。また、1954年~1958年にかけて貼石の復元作業もおこなわれた。さらに1976年、橿原考古学研究所による発掘調査では、石舞台古墳の外堤西北部から7基の6世紀後半の円墳や方墳が発見され、これらの古墳を破壊したうえで石舞台古墳が築造されていたことが判明した。玄室は長さ7.7m、幅3.5m、高さ4.7mであり、石室全長は19.4mである。飛鳥石と呼ばれる石舞台古墳周辺で産出される巨石を積み上げて築造した石室である。


 巨石を2石使用し天井石としているが、とくに南側に位置する石は重量にして約77トンあるといわれている。なお、全体で30数個の石を使用し総重量は2300トンになると推定されている。石室内は盗掘されており、凝灰岩の破片のみ出土しているが、刳抜式家型石棺が安置してあったと考えられている。墳丘の四周と外堤斜面には人頭大の花崗岩玉石を列席上に葺いている。石室内の床は割石敷きの石床で、排水溝を玄室周囲と石室中軸に沿って刻んでいたとされている。

・被葬者について
 石舞台古墳は蘇我馬子の桃原墓であるという説がある。石舞台古墳に隣接する島庄遺跡では、7世紀前半の大型掘立柱建物と方形池が検出されている。これが『日本書紀』に記述されている「飛鳥河の傍に家せり。仍ち庭の中に小なる池を開けり、仍りて小なる嶋を池の中に興く、故、時の人、嶋大臣と曰ふ。」との記述と合致する可能性が高いことから、周辺は蘇我馬子の支配下であることがわかる。

・石舞台古墳下層の古墳群について
 1975年に石舞台古墳の全貌を明らかにするための調査がおこなわれた。石舞台古墳の外堤を調査した結果、下層には7基の小規模の古墳群があることが確認された。つまり、これらの古墳群を破壊して石舞台古墳は築造されたのである。


石舞台下層古墳
事務局作成
石舞台古墳下層古墳群
1号墳 円墳 約18m 両袖
2号墳 円墳 約8m 片袖
3号墳 円墳 約8m 片袖
4号墳 方墳 約10m 片袖
5号墳 円墳か 片袖
6号墳 円墳 約9m 片袖
7号墳 方墳 片袖
明日香村作成 石舞台古墳解説書による

 形状は円墳または方墳で、7基とも横穴式石室である。古墳の規模は直径(または一辺)8mから18mである。遺物としては、須恵器や耳鐶、釘などが出土している。また、これらの古墳から出土した遺物や石室の構造から6世紀末頃の築造と考えられており、石舞台古墳が築造される直前までこれらの古墳群の造営が継続していたことがわかる。

 この古墳群は、東に位置する細川谷古墳群との関連が考えられている。細川谷古墳群は6世紀末から7世紀にかけての古墳が約200基存在する古墳群であり、この西に位置していたものが石舞台古墳下層にある小規模な古墳群であったと考えられる。
 細川谷古墳群のように大規模な古墳群を形成できる豪族は大きな権力をもっていたと考えられており、その一角を破壊してまで築造された石舞台古墳は、規模だけでなく築造の背景からも大きな力をもった人物によって造られた古墳であったことが窺える。

参考文献
明日香村教育委員会文化財課 1998 『明日香村遺跡調査概報 平成10年度』 中山文山堂
明日香村教育委員会文化財課 2005 『明日香村遺跡調査概報 平成15年度』 中山文山堂
明日香村教育委員会文化財課 2006 『明日香村遺跡調査概報 平成16年度』 中山文山堂
河上邦彦 2006 『大和の古墳Ⅱ』 奈良県立橿原考古学研究所




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