両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪

両槻会事務局・帝塚山大学考古学研究所共催ウォーキング

第56回定例会


飛鳥北部の寺院と宮殿


資料集





資料作成
帝塚山大学学生スタッフ&両槻会事務局

2016年5月21日
  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
山田寺(作成:山本) 石神遺跡(作成:寺農) 水落遺跡(作成:高橋)
豊浦寺(作成:富田) 甘樫丘東麓遺跡(作成:風人) 川原寺(作成:桑原)
飛鳥宮跡(福井) 飛鳥京跡苑池(吉本) 飛鳥寺西方遺跡(作成:風人)
飛鳥寺(作成:川嶋) 関連年表 『上宮聖徳法王帝説』裏書
元興寺伽藍縁起并流記資財帳 伽藍比較図 飛鳥寺創建瓦の祖形(百済)
漏刻 元嘉暦(具注暦木簡) 飛鳥時代の歴代宮殿の構造図
飛鳥寺周辺古代マップ 飛鳥時代系図 第56回定例会関連マップ
清水昭博先生 特別寄稿 レポート 飛鳥咲読 / 両槻会


散策ルート

この色の文字はリンクしています。
山田寺(資料作成:山本剛史)

山田寺の歴史
 山田寺の建立が始まったのは『上宮聖徳法王帝説』裏書(以後『帝説』裏書)によれば、舒明13年(641)からだとされている。当初は蘇我倉山田石川麻呂の邸宅に付随する氏寺として建立された。石川麻呂は、乙巳の変(645)で蘇我入鹿を討った中大兄皇子率いる一派の一人であったが、謀反の疑いがかけられ潔白を証明するために大化5年(649)に自害した。それに伴い、山田寺の建設も一時止まることとなる。

 やがて石川麻呂の娘で天智天皇の妃となった遠智媛や姪媛ら の助力で工事は再開されたとされているが、本格的な工事再開は天武朝に入ってからであり、石川麻呂の孫で天武天皇の皇后鸕野讚良皇女(後の持統天皇)が行ったとされている。そして、天武7年(678)に丈六仏像が鋳造され、天武14年(685)の石川麻呂37回忌の3月25日に開眼法要が行われた。

 『帝説』裏書によると、仏像は十一面観音像と薬師如来像および日光菩薩・月光菩薩の両脇侍が存在していた。そのうち、薬師三尊像は文治3年(1187)3月9日に興福寺東金堂の僧たちによって奪取されるという事件に巻き込まれている。興福寺は治承4年(1180)、平重衡の南都焼打によって伽藍の大半を焼失していた。復興工事も行われ東金堂も再建されたが、本尊の造立や仏師の選定は難航していた。そのような状況の中、興福寺東金堂の僧が山田寺に乱入し、講堂の薬師三尊像を東金堂の本尊として奪い去ってしまい、そのまま東金堂の本尊として安置されたのである。その後その仏像は幾度かの災害に遭い、本尊は頭部だけを残して失われてしまった。


伽藍配置
 山田寺の伽藍配置は南北一直線に中門・塔・金堂・講堂を配し、中門の左右から延びる回廊が塔と金堂を囲む「山田寺式」伽藍配置をとっている。(参考:伽藍比較図)その他、回廊東北隅部の東側、回廊と東面大垣の間に校倉造の宝蔵が存在していた。

 当時の日本では長さを測る単位として「尺」を使用しており、その「尺」も時代や地域によって異なる。山田寺の建物は建てられた時期が異なるものが多いため、1尺の長さが異なることも多い。

 中門の規模は、足場穴の配置と南面回廊の配置から、桁間3間×梁間2~3間と見られる。造営尺を1尺=30.24cmでみると、桁行方向の中央間が12尺、東西間が9尺。梁間方向の柱間は2、間なら9尺、3間ならば7.5尺となる。塔は方3間お平面で、1尺=29.7cmで測ると、中央間が8尺、両脇間が7尺と考えられる。

 金堂は桁行3間×梁間2間の身舎に桁行3間×梁間2間の廂を持ち、1尺=30.24cmで柱間寸法は、桁行中央間が16尺、両端間が6.5尺、梁間は9.5尺となる。
 講堂は梁行6間×2間の身舎に四面廂をもつ、桁行8間×梁間4間の6間四面の平面である。造営尺は1尺=29.45㎝で柱間は桁行が15尺等間、梁間14尺等間である。宝蔵は桁行3間×梁間3間の南北棟建物で、尺は1尺=30.5cmで柱間は桁行6.5尺等間、梁間5.5尺等間とみれる。

出土物

銅板五尊像
現地案内板より
 山田寺では銅板五尊像、銅押出仏、塼仏が出土している。銅板五尊像は聖樹の下に五尊が置かれ、いずれも一茎に繋がった蓮台上にある。中央に如来坐像、左右に供養者像、さらにその左右に菩薩像を置いている。聖樹の左右には飛天を配し浄土の有様を表現している。

 銅押出仏は、台座上に結跏趺坐し禅定印を結ぶ如来坐像を表している。後記の十二尊連坐塼仏と同じ原型で作られたものだと考えられている。他に、板に打ち付けられたものや、宝珠形の光背を背負う如来形を表すものも出土している。
 
 塼仏は十二尊連坐、四尊連坐、小型独尊、大型独尊の4種類が出土している。十二尊連坐と四尊連坐は台座上に結跏趺坐し禅定印を結ぶ如来坐像を表している。同一の原型で製作されたことが考えられる。これらの塼仏は塔から金堂の南にかけて出土し、特に塔中心で多く出土していることから、塔初層壁面を飾っていたものだと推定されている。小型独尊塼仏は後屏の前に結跏趺坐する如来形を表している。大型独尊塼仏は膝頭部分の破片6点が出土している。

 山田寺では軒丸瓦、軒平瓦を初めとする多数の瓦磚類が出土し、そのうちの556点が重要文化財に指定されている。

 山田寺の軒丸瓦は外縁に四重圏文をめぐらす単弁八弁蓮華文の文様を特徴とする山田寺式である。全体の9割以上を占める各種の重弧文を中心に、重郭文、偏行唐草文、均整唐草文の瓦が出土している。

左:山田寺式軒丸瓦(飛鳥資料館展示品)

現在
 現山田寺跡は、各伽藍の基壇や回廊の礎石などが復原されて史跡公園となっている。
 現在の山田寺は、「法相宗大化山山田寺」と号し、講堂跡に観音堂が建てられ、室町時代後半の等身大の大きさの長谷寺式の木造十一面観音立像が本尊として、他に役行者像や弘法大師像が安置されている。
 山田寺の発掘調査では12世紀後半から末頃に塔と金堂は焼失し、講堂も中世以前には焼失してしまったと判断された。その発掘調査の中でも東面回廊の建築部材の大半がそのままの姿を残して出土したことで、当時の建物の様子がわかる重要な発見があったことは有名である。山田寺に関する発掘成果や 国宝の山田寺仏頭をはじめとした遺物は近くの飛鳥資料館で確認することができる。


参考文献
飛鳥資料館 2007 『奇偉壮厳 山田寺』
下中弘 1997 『大和・紀伊寺院神社大辞典』 株式会社平凡社
奈良文化財研究所 2002 『大和山田寺跡』
箱崎和久 2012 『シリーズ「遺跡を学ぶ」085 奇偉荘厳の白鳳寺院・山田寺』株式会社新泉社



雪冤碑  (資料作成:風人)

碑文
『右大臣山田公雪冤碑
公武内宿禰之子蘇我石川宿禰七世之孫雄当之子也 皇極帝四年○中○権力誅蘇我入鹿及孝徳帝即位拝右大臣於是鎌足為内臣阿倍○○為左大臣大化五年三月左大臣薨公有異母弟身刺有怨於公
・・・・・中略・・・
施封修経○冤誉忠而不孚厥命難○抑其所求於道○迂蒼蒼之意無○○誠信○感 長利後裔○斯貞珉昭無他志 越前粟田部山田重貞建』

 碑文は、江戸時代の国史学者である穂井田忠友の撰文を、同時代の名筆(幕末三筆の一人)貫名海屋(ぬきなかいおく) の筆で揮毫したものだとされます。
雪冤と言うのは、無実の罪を晴らして潔白を証明することですが、碑文によれば越前粟田部に住む山田重貞という方による建立とされています。

 この山田重貞という方は、石川麻呂の子孫(石川麻呂の息子 清彦の家系=幼少だったために流罪となった)だという山田家53代の方だとされているそうです。享和2年(1802)に生まれた方で、自分が若い頃に接した平家物語に祖先石川麻呂が大逆人として書かれているのを知り、汚名を雪ごうとしたようです。

 1,000年の時を経て建てられた雪冤碑、歴史が生き返った様な錯覚に襲われ、激動の飛鳥時代を思わずにはおれません。




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石神遺跡(資料作成:寺農織苑)

石神遺跡の概要
 石神遺跡が最も盛んであった時期は斉明期(655~661)である。当時の石神遺跡は、南北82m以上におよぶ廊状建物によって大きく東西に分けられていた。

 東の区画は、南部に石敷きが広がり、中ほどには石敷きの水場を備えた井戸を中心に数棟の建物が連なっていた。さらに、その北側には長大な4棟の建物が回廊状に配置され、狭く長い空間となっている。宮殿や役所とは異なる特異な建物の構成である。

 西の区画には、四面に庇のめぐる大規模な建物を中心にいくつもの建物がつくられ、建物の周りは、東区画同様に石を敷いて丁寧に舗装されていたことがわかる。北側には、総柱の建物が並び、倉庫群がおかれていたことがわかる。

 現在の石神遺跡は、当時の賑わいは残っておらず平和な風景が広がっている。

発掘調査歴
 昭和56年(1981)から21次に及ぶ発掘調査が行われてきた。その結果、斉明期に幾度もの建物の建て替えが行われ、天武期、藤原宮期と繰り返し建物が営まれていたことが明らかになった。

 発掘調査で出土した遺物としてあげられるものは、須弥山石、石人像などが有名である。他にも、蝦夷がもたらしたとも考えられる東北地方の土器、朝鮮半島からもたらされた品々や、舶来の技術を取り入れてつくられた器物が数多く出土している。ガラスの器を真似て作られたであろう施釉陶器は、洛陽城の大市から似たようなものが見つかっている。また、新羅から輸入した円面硯なども出土している。

石造物と最古の具注暦
飛鳥資料館前庭 レプリカi

 須弥山とは仏教やヒンドゥー教で世界の中心にある山のことである。『日本書紀』に出てくる須弥山を石造物の外面に彫ったことが名前の由来となっている。

 現在は3段構造であるが、外面の文様が合わないため当時は4段構造だといわれている。水が噴き出す仕組みは、石造物の内側に施されており、外側からでは全くわからない。石造物の中を空洞にすることにより、貯水できるようにして、水を噴き出していたのだろう。Ⅰ番下の石には4つの穴が穿たれており、そこから水が出る仕組みである。別々の石を4段重ね、隙間ができないようにする必要がある。

 須弥山石の西側から出土した、1つの石に男女の像を彫刻した石造物である。石人像は高さ1.7m、幅70cmの石に男女が彫られている。老人男性が衣服を着て、岩に腰掛け、その横に老婆がそっと手をよせているように見える。スカートのようなものを履き、筒袖の上衣を着用している。とくに手足のくるぶしなど細部の表現までこだわっている。

 男性の足元から中程まで直径4cmほどの穴を穿ち、これに向かって男性の口元と、女性の口から直径2cmの円孔を一条ずつ通じている。男性は大きな杯を抱えていたようだが、現在は欠損しており、導水孔の破断面をうかがうことができる。石人像は出土場所や、その構造からみて須弥山石同様に噴水としての用途があったと思われる。須弥山石と石人像は飛鳥資料館で復元したものを見ることができ、水が噴き出す様も見ることができる。

 日本最古の具注暦木簡が出土している。古代のカレンダーは巻物状であり、見たい日付をすぐに見ることができなかった。暦木簡は巻物状のカレンダーを板に書き写して使用されていた。表面に持統3年(689)3月、裏面に4月の暦が書かれており、使用された年代がわかる。(参考:具注暦木簡

賑わいを見せる石神遺跡
 斉明期における須弥山石の記録はいずれも遠方から来た客を迎えた宴についてである。饗宴の場の余興として、須弥山石、石人像が同時に使われたと考えられる。しかし、宴といっても客人に対する接待ではないと推測される。この宴は、言語や習俗の異なる異国から訪れた人々と、同じものをともに食べることによって、お互いの意思を通じ合わせることを目的とした儀礼の1つであったと考えられている。そして、共食もしくは共飲は、誓約の儀式としても行われることがあった。
 その後、天智期になると都が大津に移った。


参考文献
飛鳥資料館 1986 『飛鳥の石造物』
飛鳥資料館 1996 『斉明紀』
飛鳥資料館 2000 『あすかの石造物』
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館 2014 『飛鳥宮と難波宮・大津宮』



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水落遺跡(資料作成:高橋淳也)

はじめに
 水落遺跡は、飛鳥盆地の中央部、飛鳥川東岸に位置し、東南には飛鳥寺がある。昭和47年(1972)に民家建設のための事前調査の際に遺跡が確認され、昭和56年(1981)以降から本格的な調査が実施された。その結果、建物の規模や性格が明らかになり、この場所が『日本書紀』に登場する斉明天皇6年(660)5月条に記された漏刻とその付属施設であることが確認された。また、この地は位置的に若い頃の天智天皇(中大兄皇子)が打毬の際に中臣鎌足と出会った(乙巳の変)とされる「飛鳥寺西の槻樹」の一郭であったとする説もある。中大兄皇子が漏刻を作った意図も、明確な時刻制によって政治や人々の生活を秩序づけようとしたことにあると思われる。


水時計
 水落遺跡では地中梁という特異な基礎工法によって建てられた楼状建物とともに、建物と一体でもうけられた水時計施設が見いだされた。当時最新の技術によって作られていたであろうと思われる。漏刻は、三段式漏壺、あるいは四段式漏壺であったとも考えられる。

 東から木樋を流れてきた水を桝で堰止め、ラッパ状銅管を通して、一旦、地上に汲み上げる。そこから一番上の漏壺への給水は入力に頼ったのであろう。箭が上がりきると、時刻を刻んだ箭(や)入れた箭壺にたまった水を漆塗の木箱ヘー気に排水し、そこから、さらに、木樋を通して西へ流した。中大兄皇子が漏刻を作ったことにより、それまで大まかに決められていた時間の観念が、詳細になった。役人達の勤務時間も漏刻により決められたであろう。(参考:漏刻イラスト


現地案内板より

 水落遺跡のすぐ北方は南北85m、東西65mに区画された大垣の中に多くの掘立柱建物が発掘され
ている。水落遺跡の楼状建物は、それのみが独立して建っていたのではなくて、大垣で囲まれた中には多くの掘立柱建物とともに一画を構成していたのである。八世紀初頭に確立する律令制下では、時計や報時は陰陽・天文・暦などとともに陰陽寮という役所がこれにあたった。水落遺跡のこのような構成は、この一画が単に漏刻台だけではなく、こうした様々の機能をあわせた一つの官司の施設であった可能性を示唆している。文献上、陰陽寮のことがみえるのは、『日本書紀』の天武4年(675)が最初であり、そのほかの律令制的な諸官司の組織が整えられてくるのも、天武朝に入ってからとするのが従来の定説だが、水落遺跡でのこのような所見は、陰陽寮の前身にあたる機構がすでに斉明女帝と中大兄皇子との共治の時代に、かなりの程度整えられていたことを示すと思われる。

水落遺跡と水道
 日本最初の水時計台(660年)の遺跡として有名になった水落遺跡の発掘調査では、地下に導水管を縦横に張り巡らせて、きめ細かく給水網を整えていた。水時計建物の地下には、木樋が三組と水を建物内に汲み上げるための二本の銅管などが埋め込んであった。


参考文献
木下正史 『飛鳥、藤原の都を掘る』 1993 古川弘文社
田辺征夫 『日本史大辞典6』1994 平凡社



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豊浦寺 (資料作成:富田麻伽)

はじめに
 豊浦寺と飛鳥寺は、我が国最古の尼寺と僧寺である。豊浦寺は奈良県高市郡明日香村大字豊浦630に所在した寺院で、飛鳥川をはさんで東方向に飛鳥寺、西方向に豊浦寺が位置する。飛鳥寺ほど発掘の手が進んでいないこともあって、その研究は十分とは言い難い面がある。ここでは、これまでの発掘調査の成果に基づき、創建と造営過程および伽藍配置についてみていこうと思う。

創建
 豊浦寺は蘇我本宗家の尼寺である。寺号を建興寺、向原寺、豊浦尼寺、桜井寺ともいう。創建に関する史料では、『日本書紀』欽明13年(552)10月、蘇我稲目が百済から送られた仏像を小墾田の家に安置し、向原の家を浄捨して寺とした。あるいは『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以後『元興寺縁起』という)に、飛鳥寺造営時(崇峻元/588年)に屋を作り工人を住まわせ、さらに崇峻3 年(590)、学問尼善信らが百済から帰国したとき住まった「桜井寺」にあるとされる。

 『上宮聖徳法王帝説』裏書には、「初め桜井寺といい、後に豊浦寺という」とある。蘇我稲目を発願者にみる伝承は『三代実録』元慶元年(882)8月23日条の宗岳朝臣木村らの言葉にもみえた。また、同じ記事は『扶桑略記』にもある。

 『元興寺縁起』には、推古元年(593)に、桜井寺の諸堂を等由良(豊浦)宮に移し、金堂・礼堂等を作りこれを寺として、「等由良寺」と名付けたと記している。だが、この年は推古即位の直後にあたり、豊浦寺の創建年次としては、信じがたい。結局、豊浦寺に関する確実な史料としては、推古36年(628)、山背大兄王が蘇我蝦夷を見舞うため豊浦寺に居たとする記事(『日本書紀』)が最も古く、この頃には寺の体裁がある程度は整っていたと推測できる。

発掘調査
 昭和32年(1957)に、金堂を中心として伽藍各所が調査されて以降、数次の調査がおこなわれている。金堂・塔・講堂・推定西回廊・尼房が確認されている。金堂は東西18m・南北14m前後、講堂は東西30m以上・南北15m以上の規模と考えられ、下層では豊浦宮と推定される建物と石敷きの一部も発見された。

 豊浦寺の伽藍は、金堂および講堂から塔が離れている所に位置する塔分離説と、四天王寺式伽藍配置説との二つがある。講堂の南で1957年に調査された二重基壇の建物を金堂跡とみる。(参考:伽藍比較図

軒瓦
 出土品として、軒瓦が発見されている。創建期の瓦には、百済や新羅の瓦と共通点が認められている文様の軒丸瓦が発見されているが、軒平瓦はまだ発見されていない。おそらく、飛鳥寺と同様に軒平瓦を用いなかったと考えられる。新羅系の軒丸瓦は宇治市に所在する隼上り瓦窯で生産されていたことが分かっている。

 豊浦寺の金堂の創建軒丸瓦は星組の瓦で構成されている。丸瓦・平瓦も、星組の玉縁式丸瓦と薄手の平瓦が主体を占めている。推定塔跡からは、新羅系の瓦が発見された。飛鳥寺での星組は、中門・回廊の所用瓦の主体となっているから、豊浦寺の金堂の造営は、飛鳥寺の伽藍中枢完成に前後する時期と推測できる。飛鳥寺の塔の完成は推古4年(596)であり、これが豊浦寺創建年代の上限となる。


左・中:藤原宮跡資料室展示品 右:明日香村埋蔵文化財展示室展示品


参考文献
奈良国立文化財研究所2000『古代瓦研究会シンポジウム記録 古代瓦研究Ⅰ―飛鳥寺の創建から百済大寺の成立まで―』 



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甘樫丘東麓遺跡 (資料作成:風人)

 甘樫丘は、明日香村の北西部に所在する丘陵で、標高148mを測ります。丘陵は、南北に1kmほど連なっており、外観からは分かりにくいのですが、多くの谷を持つ複雑な地形をしています。
  北端の豊浦展望台からは、飛鳥盆地を始めとして、大和三山や藤原宮跡など飛鳥時代の中心部を見晴るかすことが出来、まさに万葉展望台と呼ぶにふさわしい眺望を誇ります。

 甘樫丘は、その名を知られる飛鳥の名所の一つですが、意外に発掘調査は行われておらず、東麓遺跡の調査までには、平吉(ひきち)遺跡(昭和52年<1977>調査)が知られるのみでした。

 甘樫丘東麓遺跡の調査は、平成6年(1994)に開始されました。
 『日本書紀』には、下記の一文があります。調査により、これらの史料を裏付ける成果が発見されることが注目され続けています。

 (左図の甘樫丘東側のラインは、標高130m。西側は標高100mのラインですが、丘全体の形を示すために繋ぎ合わせています。)

 『日本書紀』皇極天皇3年(644)冬11月条、「蘇我大臣蝦夷・子入鹿臣、家を甘樫丘に雙べ起たつ。大臣の家を呼びて上の宮門という。入鹿が家をば谷の宮門という。男女を呼びて王子と日ふ。家の外に城柵を作り、門の傍に兵庫を作る。門ごとに水盛るる舟一つ、木鈎数十を置きて火の災いに備う。つねに力人をして兵を持ちて家を守らしむ。」

 平成6年(1994)から平成25年(2013)まで東麓遺跡の調査が続きましたが、以下、順次発掘調査の成果を見て行くことにしましょう。

 ① 平成6年(1994)、エベス谷の駐輪場から豊浦展望台に続く階段設置に伴う調査。小さな調査区が8ヶ所設けられたが、遺構は検出されませんでした。(飛鳥藤原第71-12次調査)

 ② 同年、東麓駐車場・トイレ設置の事前調査(飛鳥藤原第75-2次調査)が行われました。
7世紀後半から藤原宮期に掛けて2度の大規模造成が行われていること、7世紀中頃の焼土層が検出され、多量の土器にも過熱による変質の跡が残り、検出状況からも一時に火を受けたものと考えられました。付近(丘上部)には、これら出土土器を使っていた建物があったことが想定され、この調査以降、蘇我氏邸宅との関連が俄然注目されることになりました。

甘樫丘東麓遺跡位置図

③ 平成18年(2006)、東麓の谷奥に十字形を連続させたような調査区が設けられました。(飛鳥藤原第141次調査)
 この調査では、谷の広い範囲で大規模な整地がおこなわれていたことが判明しました。また、東麓遺跡では初めて建物遺構が確認されました。それは、7世紀の掘立柱建物が6棟と塀が3列検出されています。建物群は、遺構の重なりから2時期の変遷があることが分かりましたが、この時点では詳細な時期を特定することは、出来ませんでした。

④ 平成19年(2007)、飛鳥藤原第146次として行われた調査では、石垣を施した7世紀前半の整地が検出され話題を呼びました。
 調査地は、7世紀代の3時期にわたる大規模な整地が行われており、1期は7世紀前半、2期は7世紀中頃から後半、3期は7世紀末と考えられました。

 1期の調査区の真ん中に谷筋が走りますが、その東側には盛土をして一段高い平坦地を造成しており、段差の部分には南北方向の石垣が築かれていました。石垣の現存高は約50~100cm。南に行くにつれて高さを増して行きます。石垣の北側が人頭大の石を用いるのに対し、南側は一回り大きな石が使用されていました。これは、南方向(谷入口)から土地をより立派に見せる工夫だと推測されました。造られた平坦面からは1棟の掘立柱建物と1列の塀と溝が検出されています。

 2期では、1期の石垣を覆うように全面に盛土をして平坦な敷地を造っていました。整地土には焼土や炭片が多く含まれていました。この2期の遺構としては、中小規模の掘立柱建物が建てられており、建て替え含めて何度かの変遷があるようです。  3期は、再び全面的な盛土が施され、北側を中心に炉の跡が数基確認されています。

⑤ 平成20年(2008)、飛鳥藤原第151次調査では、②の調査区の北側を広げるような形で調査が行われています。この調査では、整地土や土坑から多くの土器が出土したことにより、各時期の年代が確定することになりました。Ⅰ期を7世紀前半、Ⅱ期を7世紀後半、Ⅲ期を7世紀末頃とされました。 この調査では、Ⅰ期の遺構として建物2棟、塀2条、溝1条が検出しました。
Ⅱ期では、建物3棟、塀7条、土坑4基が、Ⅰ期の遺構が廃絶した後、再び整地をおこなって建てられていました。Ⅲ期は、溝1条と配石遺構発見されています。配石遺構とは、拳大の扁平な石をすり鉢状に並べているのですが、水を受ける施設で有る可能性が示されました。

⑥ 平成22年(2010)の飛鳥藤原第157次調査は、146次調査の東側で行われ、石垣の続きなどに注目が集まりました。
 石垣は、146次調査の南端からさらに続いている可能もあるようですが、現状での全長が前回の調査とあわせて約34mにわたるものであることが判明しました。この石垣は、北から一連のものとして続くのではなく、途中で屈折し、南に継ぎ足しています。また、調査区の東では、石敷遺構が東側の尾根に沿って検出されました。さらに東側や尾根上に関連を持つ施設が存在
するのではないかと推測されました。

石垣

⑦ 平成23年(2011)、第161次調査は、第157次調査の北側丘陵中腹と裾部で行われました。
中腹からは、7世紀の柱列が2条作られていたことが分かりました。柱列は塀と考えられましたので、丘陵上に何らかの施設があることが推測されました。
 また丘陵裾部では、7世紀に少なくとも2時期造り替えが行われ、7世紀中頃より以前には、尾根裾の地山を垂直に切土した段状の造成と素掘溝だったところが、7世紀中頃には石敷が造られ、尾根側に接する素掘溝、盛土による斜面状の造成という構成に造り替えられました。


石敷き

⑧ 平成24年(2012)、第171次調査は、第161次調査の東側で行われました。
この調査では、7世紀前半から中頃までに、谷の入口付近で一種の工房的な施設の一部が、存在することが明らかになりました。
 検出された硬化面・赤化面・方形遺構は、窯や炉等、火を使う施設が該当すると考えられます。
谷の奥との土地利用の様相が違いますが、どのように関連付けられるのかは不明です。

⑨ 平成25(2013)、第177次調査は、これまでの調査区の一つ尾根を越えた小さな谷地形で行われました。また、161次調査の斜面から検出された塀が囲む可能性のある丘上のピークに調査区が設けられました。
調査の結果、谷は本来北西から南東に傾斜していましたが、高いところは削り、低い部分は
埋め立てにより平坦面を造るという造成が行われていました。造られた平坦面には掘立柱建物
溝が検出されています。造成に使われた土には、7世紀中頃までの遺物が混じることから、
谷は7世紀中頃の短い期間に利用されていたようです。
   また、丘上の調査区は、後世に削平されており遺構や遺物は発見できなかったようです。

➉ この他にも、133-10次調査など、小規模な発掘調査が行われていますが、飛鳥時代の遺構は発見されていません。


まとめ
 これまで東麓にある一つの谷で建物・塀・石垣等が検出され、7世紀から 8世紀初頭にかけて、谷を大規模に造成し、土地利用を行っている様相が明らかになっています。
 これまでの調査により、3時期の遺構の変遷が認められました。
Ⅰ期(7世紀前半):石垣、建物、塀、溝など          (蘇我氏の時代)
大規模造成
Ⅱ期(7世紀中頃~後半):建物(総柱建物含む)、塀、石敷、石組溝 (乙巳の変以後)
大規模造成
Ⅲ期(7世紀末):建物、炉、溝                (藤原京期)
 蘇我氏の邸宅跡は、未だ発見には至りませんが、現在、甘樫丘全体にわたって蘇我氏邸宅を構成する施設が分散していたとする考えが支持されているようです。
 私は、豊浦展望台を蝦夷邸、小字南山を入鹿邸と見たいと思っています。如何でしょうか。



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川原寺(資料作成:桑原康起)
はじめに
 奈良県高市郡明日香村川原に所在する川原寺は、大津宮遷都以前に、斉明天皇の殯を行った川原宮の故地に創建されたとされる。斉明天皇の13回忌にあたる天武2年(673)に川原寺で一切経を書き写した記事が『日本書紀』にみえ、この頃寺院として整備されたと思われる。藤原宮期を通じて、川原寺は官の三大寺や四大寺に数えられる格式を保ったとされていたが、鎌倉時代に焼失する。しかし、川原寺裏山遺跡の発掘によって、金箔が施されたものも含めて、千数百点の三尊塼仏、数百点の塑像片などが出土し、創建当初の堂塔内の華麗さを伺い知ることができるようになった。現在伽藍の一部が復元整備されており、当時の面影を偲ぶことができる。

創建
 川原寺は、飛鳥時代の天武天皇期には飛鳥寺、大官大寺とともに飛鳥三大寺として、下って持統・文武天皇期では薬師寺を加えて飛鳥四大寺に数えられ、朝廷に重用されてきた大寺である。これら飛鳥時代の大寺は、日本の正史である『日本書紀』にその創建目的や発願者等について比較的詳しく記載され、特に飛鳥寺は異様なほどに詳細に記述されていることはよく知られるところである。ところが、川原寺に限っては一切その記載が無く、室町時代末期に焼失して以降完全に廃寺となったために寺伝も残されておらず、川原寺は創建目的や発願者は誰であるのかなど、全く知ることができない。当時の大寺としては実に不思議な寺院である。このため、当寺院の創建年次は諸説あるが、未だ確定するには至っていない。しかし、『日本書紀』『続日本紀』等の川原寺で行われた諸行事記録や発掘調査による伽藍遺構、出土瓦などの遺物から、当寺院は、斉明天皇没後から天武朝初期(661~670年代)の間に斉明天皇の冥福を祈る為に、天智天皇が発願し斉明天皇の宮であった川原宮の故地に建立されたのではないかというのが最も有力な説となっている。

創建時の伽藍
 川原寺は昭和32年(1957)から35年(1960)にかけて発掘調査が行われている。その結果、伽藍配置は南門から中門を入ると右手に五重塔、左手に西金堂、そしてその向こう正面に中金堂がある「一塔二金堂」の配置であった。そして西金堂は南面せず、五重塔のある東を正面としていたことが判明した。 また、講堂の周りを囲むように三面に僧坊が造られていたこと、そしてこの三面の僧坊の前には吹き放しが設けられていたことも判明した。これは、僧坊の古い例が初めて明らかになった事例とされている。 さらに南門よりも東門の方が大きく壮大であったことも判明した。これは飛鳥川を挟んだところに、後飛鳥岡本宮があるために重要視された結果ではないかと推測されている。(参考:伽藍比較図


出土遺物


藤原宮跡資料室展示品
川原寺で使われていた瓦は川原寺式軒瓦とよばれ、
 おもに近畿地方、琵琶湖東岸、美濃地方、尾張地方の古代寺院跡で発掘されている。特に,壬申の乱との関係が深いとされ,大海人皇子がたどった道や戦いに関わったと思われる地域の寺院跡から発掘されている。
 壬申の乱で功績のあった豪族が寺院を建てることを許され、飛鳥の職人が各地でこの瓦を焼いて用いたとも考えられる。
 
 川原寺式軒丸瓦の模様は複弁蓮華文とよばれ、蓮の花を真上から見たものがデザインの基になっている。瓦の中心にある中房には、真ん中に1個、その周りに5個、さらにその周りに9個の蓮子が描かれている。(参考:軒丸瓦の各部名称図

おわりに
 川原寺は、創建の年代、経過については特定されていないが、飛鳥時代の仏教界において極めて重要な立場にあった寺院である。伽藍は、平安時代前期と鎌倉時代初期の建久2年(1191)の二度にわたって焼失している。また、平安時代前期に空海が平安京の東寺と高野山の往路での宿所として川原寺を使用しており、時期は不詳ながら平安時代には東寺の末寺となっていたことがわかる。



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飛鳥宮跡 (資料作成:福井崇仁)

はじめに
 7世紀頃の「飛鳥」の範囲は、北は飛鳥寺一帯、南は橘寺付近、東は岡寺のある丘陵、西は甘樫丘に囲まれた飛鳥川の両岸一帯で、諸説ありますが、現在の明日香村大字飛鳥・岡と川原・橘の一部を含む地域をいう。そこは、6世紀末から7世紀にかけて歴代の天皇が営んだ宮を中心とする地区で、豊浦宮・小墾田宮・飛鳥岡本宮・飛鳥板蓋宮・飛鳥川辺行宮・飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮などがあった、その中でも、飛鳥岡本宮・飛鳥板蓋宮・後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮は、奈良県高市郡明日香村大字岡から大字飛鳥にかけて所在する宮殿遺跡であり、飛鳥宮跡と呼ばれている。

飛鳥宮跡の王宮の変遷
 飛鳥時代までは大王(天皇)の即位の度に、宮城(宮殿)の位置が変わっていた。

 しかし、飛鳥宮跡は奈良県高市郡明日香村岡に位置する宮殿遺跡で舒明・皇極・斉明・天智・天武・持統の5人6代の天皇の宮殿がほとんど同じ場所に重層的に築かれている。そのためこの遺構は通常3時期に分けて説明される。

Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(舒明天皇2年(630)~
Ⅱ期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(皇極天皇2年(643)~)
Ⅲ期はⅢ-A期の斉明・天智朝の後飛鳥岡本宮跡(斉明天皇2年(656)とⅢ-B期の天武・持統朝の飛鳥浄御原宮跡(朱鳥元年(685)命名)の二つがある。Ⅲ-A期とⅢ-B期の遺構の違いは、東南部に位置する「エビノコ郭」と呼ばれる宮殿の有無などとされている。

Ⅰ期 飛鳥岡本宮
 推古36年(628)に推古天皇が崩御すると、後継者をめぐって対立が起こる。皇位継承候補者には山背大兄皇子と田村皇子がいたが、蘇我蝦夷の推す田村皇子が即位し舒明天皇に。舒明天皇は即位した翌年、大字飛鳥の北方にあったと思われる小墾田宮から飛鳥岡本宮に宮を遷した。飛鳥岡は、『日本書紀』によると岡寺がある丘陵の事で、その麓に宮を造営したのである。飛鳥岡本宮は火災に遭っているらしく柱列の柱抜き取り穴には多量の炭や焼土が入っていた。『日本書紀』に岡本宮が火災に遭ったという記事があり、(『日本書紀』舒明8年(636)6月)柱穴の火災の痕跡と関連付けることができる。

Ⅱ期 飛鳥板蓋宮
 「飛鳥板蓋宮」という宮名は板葺き屋根という特徴によるものとみられる。皇極天皇元年(642)1月、皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御により即位し、同年9月19日、大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに建設するよう命じた。これにより完成したのが飛鳥板蓋宮である。皇極天皇2年(643)4月に都が遷る。飛鳥板蓋宮は、皇極天皇4年(645)7月10日に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となった。この日、皇極天皇の眼前で大臣の次期後継者である蘇我入鹿が刺殺されるという凶行がなされ、これにより皇極天皇は同月12日に退位し、軽皇子が即位することとなり孝徳天皇になった。白雉5年(654)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御すると翌年の初めに皇極上皇は飛鳥板蓋宮において再度即位(重祚)し、斉明天皇となる。この年の末に飛鳥板蓋宮は火災に遭い、焼失した。その際に斉明天皇は川原宮へ一時的に遷った。伝飛鳥板蓋宮跡として観光客が訪れる場所は飛鳥板蓋宮のほぼ中央に近い場所である。しかし現地に復元してある井戸跡や石敷きは飛鳥板蓋宮のものではない。

Ⅲ-A期 後飛鳥岡本宮
 斉明天皇は飛鳥板蓋宮が火災に遭い一時的に飛鳥川原宮に遷ったのちに、後飛鳥岡本宮に入る。この、後飛鳥岡本宮の宮名は同じ場所にかつて営まれていた舒明天皇の飛鳥岡本宮に対して後をつけて区別したものである。斉明天皇は唐・新羅に攻められた百済を救援するため斉明天皇6年(661)に自ら船に乗り込み難波を出発し、瀬戸内海を通って筑紫に至る。しかし、その年の7月に朝倉宮で崩御し、11月には大和へ戻され飛鳥の川原で殯が行われた。中大兄皇子は即位せずに7年間を過ごすがその間の飛鳥宮については『日本書紀』にほとんど書かれていない。

Ⅲ-B期 飛鳥浄御原宮
 壬申の乱に勝利した大海人皇子(天武天皇)は、都を近江から飛鳥に遷し、翌年この宮に即位した。宮は、甘樫丘東方の旧飛鳥小学校付近にあったとされたが、その後の調査により伝飛鳥板蓋宮跡の上層遺構が飛鳥浄御原宮にあたる。飛鳥浄御原宮は天武天皇の宮であったが、皇后の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)も大化4年(649)に藤原宮へ遷るまで飛鳥浄御原宮を引き続き使用した。飛鳥浄御原宮の宮号は天武天皇が崩御する直前の朱鳥改元とともに命名されたもので、理由は不祥を祓い天皇の病気平癒を祈願してのものと考えられている。Ⅲ-B期の内郭の東南では柱列で長方形に囲んだ区画が見つかっている。発見時に当時の小字名をとって「エビノコ郭」と名付けられた。宮の東南に位置することから東南郭とも呼ばれている。(参考:飛鳥時代の歴代宮殿の構造図


参考文献
網干善教 1978『飛鳥の遺蹟』 
奈良県教育委員会 1980『飛鳥京跡一』
末永雅雄 1991『飛鳥京調査と古墳』 
鶴見泰寿 2015『古代国家形成の舞台 飛鳥宮』



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飛鳥京跡苑池 (資料作成:吉本太一)

はじめに
 飛鳥京跡苑池とは乙巳の変の舞台となったことで有名な飛鳥宮跡から、北西約100m離れた(内郭北西角からか)ところより検出された飛鳥時代の大規模な庭園遺跡である。
 奈良県立橿原考古学研究所が平成11年(1999)から平成14年(2002)にかけて4の発掘調査を実施した結果、南北が約250m、東西は約100mという、飛鳥時代を代表する大規模な庭園跡遺跡として平成15年(2003)8月に史跡・名勝へ指定された。

 苑池の東と南は180mもの長さをもつ掘立柱塀により宮殿エリアと区画されており、苑池の中央部分には7世紀中頃に造営され、9世紀初めまで管理されていたとされる南北2つに分かれた池がある。
なお、この庭園遺跡の調査はいまだ継続中であり、現在では第10次調査まで行われている。

発掘の契機
 大正5年(1916)5月、飛鳥川付近の当時、飛鳥村岡の小字・出水ケチンダと呼ばれていた場所で2個の大きな石造物が掘り出された。発見された石造物は、石の表面に穿たれた溝や窪みによって水を受け流すための流水設備と思われ、近くの酒船石遺跡より見つかっていた石造物と似ていたため、「出水の酒船石」と名付けられることになった。
 この「出水の酒船石」が出土した当時はまだ詳しい調査が実施されておらずどのような状況で出土したのかなどが不明のままだったが、奈良県立橿原考古学研究所が平成11年(1999)にこの石造物の出土地点を中心として約1,000㎡もの調査区を設定、長らく正体不明だった出土状態や存在遺構の正確な解明に乗り出していくことになった。


新たな発見(石造物、中島、テラス状遺構、門)
 発掘調査はその年の6月まで続けられ、大正時代に掘り出された際の孔を発見し、元の位置を特定することに成功した。さらにその周辺で2個の石造物が出土した。出水の酒船石とこの2つの新たな石造物を組み合わせることで流水設備のだいたいの構成を復元することに成功した。
しかし、最新の調査では従来考えられていた水の流れ方とは違っていることが判明し、正確な水流は不明ということとなっている。

 この平成11年(1999)の発掘調査の時点で、この場所が飛鳥京と密接な関係のある大規模庭園遺跡であり、流水設備はその配置品でしかないことが確認された。この発掘調査で検出されたのは後に南池と呼ばれる庭園の一部である。

 南池は底に平らな石を敷き詰め、周囲に石積みの護岸を巡らせたもので、池底の最下層の石敷き上には10世紀代の土器、最上層には13世紀代の瓦器が包含されていた。このことから苑池は平安時代までは滞水しており、鎌倉時代中期にかけて湿地状態で埋没していったことがわかった。池の中には6×11mほどの範囲で、敷石よりもやや大きめの石を高さ60㎝程度に積み上げた島状の石積みが存在し、酒船石出土地点を中心とした調査区を少し北に拡張した部分では南側に張り出した高さ110cmほどの舌状の護岸石積みが検出された。

 その後も奈良県立橿原考古学研究所はこの飛鳥京跡苑池遺構の発掘調査を継続した。平成12年(2000年11月末から開始された調査では、苑池の範囲がさらに北へ北へと拡大していることや、苑池の東側が渡堤(わたりつつみ)という堤防状の遺構によって南北2つの池に仕切られていて、南池と北池と呼べる双方の池の形状が全く異なることを確認した。

 さらに平成13年(2001)の調査では、渡堤が全長32m以上の長大な堤だったこと、渡堤から北に約60mの所で池が狭くなり、北方へ80m近くの直線的な溝状の通水部(水路)が敷設されていることが確認できた。そして南池の中島は東西方向に細長く築かれており、最初の発掘で見つかった張り出しはその一部だったことが判明した。中島の東側からは植樹された松の株も見つかっており、南池の東南部には苑池を見下ろし鑑賞するためのテラス状の施設が存在していたのではないかなど、とても優雅な光景が広がっていたのではないかと考えられます。平成27年(2015年)には苑池と宮殿エリアを区画する門や塀と思われるものも発見されており、当時の都の雄大な姿を想像することができる。


南池ジオラマ
(第8次調査現地説明会にて)

中島と松の根

おわりに
 現在の飛鳥京跡苑池は、ほぼ全ての遺構が埋め戻されている状態である。平成28年に完成予定とされている苑池の保存・整備事業が最終的にどのような形に落ち着くのかは現段階では不明であるが、もし当時の姿を取り戻すことが出来れば、歴史ロマンの舞台がまた1つ産声を上げることになると考えられる。


参考文献
飛鳥京跡苑池平成11年、25年現地説明会資料 1999 橿原考古学研究所HP
奈良文化財研究所 2014 『飛鳥の考古学』
塚本和人 2015 『飛鳥京跡苑池、おでましの門? 宮殿との仕切り位置に』朝日新聞デジタル
奈良県立橿原考古学研究所 2015 『史跡・名勝 飛鳥京跡苑池(1)-飛鳥京跡Ⅴ-』
木下正史 2016 『飛鳥史跡辞典』吉川弘文館



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飛鳥寺西方遺跡 (資料作成:風人)

 飛鳥寺の西には、「法興寺槻樹下」や「飛鳥寺西槻下」などと『日本書紀』に書かれる場所がありました。一般的には、「槻の木の広場」と書き表されますが、資料では「槻の樹の広場」とさせていただきます。

  『日本書紀』には、様々な表記でこの場所を示していますが(下記表参照)、飛鳥時代の約100年間を通して、広がりを持った空間として確保されていたようです。広さは、飛鳥寺境内の西端から道路を隔てて飛鳥川までの東西約170m、南北約220mの範囲だと考えられています。

 この場所では、大化改新(乙巳の変)の序曲となる中大兄皇子と中臣鎌足が出会う蹴鞠が行われました。また、大化改新政府は、皇極4年(645)、槻の樹の下で孝徳天皇、皇極前天皇・皇太子中大兄皇子らが、臣下を集めて忠誠を誓わせました。
 壬申の乱に際しては、近江朝廷側の軍営が置かれました。また、天武・持統朝では、多禰(種子島・たね)人や隼人・蝦夷らを饗応した記事が頻出します。


飛鳥資料館ロビージオラマより

 「槻」とは欅(ケヤキ)の古名なのですが、名称が変わったのは室町時代だそうです。樹勢が盛んで巨木になること、また大きく枝を広げることが特徴です。一般的には神木は常緑樹が多いのですが、槻の樹は落葉樹であるにもかかわらず神聖な樹木とされ、その幹や枝の下は聖域と考えられたようです。「槻の樹」の語源は、「強き木」が転訛したものだとする説があり、また「欅」は「けやけき木」を意味するとされています。現在でもしめ縄の巻かれた欅が数多くあります。また、神社の建築材や和太鼓の用材としても利用されているようです。
 斎槻とは、神聖な槻の樹のことを意味します。槻の樹の広場の槻の大木もまた、斎槻であったのでしょう。

泊瀬の 斎槻(ゆつき)が下に 隠したる妻 あかねさし 照れる月夜に 人見てむかも
  万葉集 巻11-2353 
天飛ぶや 軽の社の 斎ひ槻 幾代まであらむ 隠り妻ぞも  
  万葉集 巻11-2656 

 槻の樹の広場は、これまでに度々発掘調査が行われており、「飛鳥寺西方遺跡」の名称で呼ばれます。これまでの調査では、掘立柱塀や180m以上続く土管暗渠、120m以上続く南北石組溝をはじめとする大小の石組溝、石敷遺構、砂利敷遺構などが確認されています。

 近年の調査を紹介します。
 平成25年(2013)2月2日に発表された調査では、一面の砂利敷遺構と不整形な石敷遺構が検出されました。時期的には、出土遺物から7世紀中頃に敷かれたものだと考えられるようです。

 この調査では、石敷遺構の他に2つの土坑が検出されました。石敷中央付近のものは、径約1.9mの大きさで円形に石が抜き取られており、その中に径約1.5m、深さ約40cmの穴が空けられていました。当初、槻の樹が生えていた所ではないかとの期待も有りましたが、痕跡は発見されませんでした。

 また、須弥山石の設置場所、幢竿遺構などではないかと考えられましたが、それらを示すものも検出されていません。また、調査区の東からは、時期不明の径約3mの土坑(井戸か?)が検出されています。

 平成26年(2014)発表の調査では、柱穴列が検出され、建物または広場を南北に区分する塀だと考えられました。これは、槻の樹の広場では初めての建造物の検出例となりました。

 翌年は調査区が北に拡張され、柱穴列の全容が明らかになりました。調査の結果、掘立柱建物と砂利敷が確認されました。柱穴列は、7間(16.7~17.5m)×2間(4.8m)の東西棟建物で、柱筋を揃えてほぼ同規模の建物が、東西に整然と並んでいました。 しかし、その柱穴は円形や楕円形、不整方形と様々で、その大きさも33cm~116cmと不揃いでした。しかも深さは30cmと浅く、柱間も揃っていません。


 2棟の建物は、企画性をもって建てられていますが、柱穴の規模や形状からみて、短期間だけの仮設建物と考えられました。槻の樹の広場は、壬申の乱においては軍営であったことから、仮設の馬房が造られた可能性が指摘されています。

『日本書紀』に見る「飛鳥寺の槻の樹の広場」
皇極3年(644)正月 法興寺の槻樹の下 中臣鎌足と中大兄皇子の出会い。
大化元年(645)6月 大槻樹下 群臣を召集めて忠誠を誓わせる。
斉明3年(657)7月 飛鳥寺の西 須弥山石を造り盂蘭盆会を設け、都貨羅人に饗宴を催す。
斉明5年(659)3月 甘樫丘の東の川上 須弥山石を造り、陸奥と越の蝦夷に饗宴を催す。
天武元年(672)6月 飛鳥寺の西の槻の下 近江朝廷軍が軍営を置く。
天武6年(677)2月 飛鳥寺の西の槻の下 多禰島人等に饗宴催す。
天武9年(680)7月 飛鳥寺の西の槻の枝 自ら折れて落ちる。飛鳥寺の僧が亡くなる予兆か。(弘聡)
天武10年(681)9月 飛鳥寺の西の河邊 多禰島の人等に、種々の楽を奏する。
天武11年(682)7月 飛鳥寺の西 隼人等に饗宴を催し、種々の楽を奏する。
持統2年(688)12月 飛鳥寺の西の槻の下 蝦夷の男女213人に饗宴を催す。
持統9年(695)5月 西の槻の下 隼人の相撲を観る。



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飛鳥寺 (資料作成:川嶋千奈美)

はじめに
 推古朝を中心とした7世紀前半の文化を飛鳥文化と呼んでいる。それは、寺院の造営に象徴される最初の仏教文化であった。そして、崇峻天皇元年(588)に蘇我馬子が崇仏の拠点として本格的寺院の建立を発願したことにより建立された寺院がこの飛鳥寺(法興寺・元興寺)である。飛鳥寺は、奈良県高市郡明日香村飛鳥682に所在した寺で、西には入鹿の首塚や甘樫丘があり、南には飛鳥宮跡がある。(参考:飛鳥寺周辺古代マップ

創建
 飛鳥寺造営の経緯は、『日本書紀』に詳しく記されており、それによれば崇峻元年(588)、百済から日本へ仏舎利とともに多くの僧と技術者(寺工、露盤博士、瓦博士、画工)が派遣され、造寺の技術が整った。そこで、蘇我馬子は飛鳥の真神原(まかみのはら)の地にあった飛鳥衣縫造の祖樹葉の家を壊し、その跡地を寺地として定め法興寺の造営が始められた。(『日本書紀』、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』「塔露盤銘」より)この法興寺こそが飛鳥寺である。日本最初の本格的寺院、飛鳥寺の造営には、前年(587)に聖徳太子らと物部氏を滅ぼした当時最大の権力者である蘇我馬子、複雑な政治情勢を抱えた百済、そして、百済から派遣された様々な技術者や僧侶など、多くの人物や事柄が関わっていることがわかる。

飛鳥寺の伽藍配置
 飛鳥寺の伽藍については、発掘調査以前は大きく3つの説が唱えられていて、中でも伽藍配置の形式の古さや『日本書紀』の記述から四天王寺式伽藍配置の可能性が高いとされていた。

 しかし、昭和31〜33年(1956〜1958)の3度にわたる発掘調査の結果、中金堂、塔、西金堂、西門、講堂、東金堂、東回廊、中門、南回廊、南門、北回廊などが発掘され、飛鳥寺の伽藍配置が判明し、そこから、単廊に取り囲まれた中心伽藍は、塔を中心に、その東、西、北に金堂を置く、一塔三金堂式であることが確認され、「飛鳥寺式伽藍配置」と名付けられた。(参考:伽藍比較図

塔の発掘と舎利
 飛鳥寺では塔が伽藍の中心に位置し、最も重視された建物であることがわかる。発掘を始めると、基壇上は削られていて柱を立てる礎石などはすべて失われていたが、花崗岩の地覆石の上に凝灰岩の羽目石を積み上げた壇上積基壇と、南と北に設けられた階段、まわりの石敷が残されていることが分かった。

 基壇の大きさは一辺12mの正方形で、法隆寺五重塔よりわずかに小さいが、ほぼ同規模の五重塔が建っていたと考えられる。塔の中心には太い心柱が立ち、塔心礎はその心柱を支えるもので、心柱は2.7mの深さまで埋めて固定されるいわゆる地下式心礎であり、この中央に30㎝四方の穴が掘りこまれ、穴の東の壁に舎利納入孔がある。

←法隆寺 五重塔基壇

 崇峻元年(588)に百済から献上された舎利が、舎利容器に納められこの孔に安置されていたと考えられるが、建久7年(1196)の塔の焼失後、舎利は取り出されたため、その正確な奉安状態は明らかでない。焼失の翌年、舎利は掘り出されたが、『本元興寺塔下掘出御舎利縁起』には、舎利が100粒あまりあり、金製、銀製の容器があったことが記されており、その舎利は、新造した金銅製舎利容器とともに、木箱に入れて石櫃に安置し、塔基壇中央に埋め戻されたことが、昭和31年(1956)の発掘調査でこれが発見され、木箱の墨書きから建久8年(1197)に再埋納されたものと判明した。石櫃の中と心礎の上には、推古5年(597)に舎利とともに納められた多種類の荘厳具の一部が残されていた。最も多いのは玉類で、硬玉、碧玉、琥珀、水晶、銀、ガラスなどで作られた勾玉、管玉、空玉、切小玉などがあり、このほかにも金環、馬鈴、蛇行状鉄器など1,750点あまりの金銀財宝が出土した。なお、心礎上面からみつかった大きな砥石は白色大理石製で、大理石の使用例としては年代のわかる最古の例でもある。

 また、飛鳥寺からは瓦も出土しており、それらの研究により、瓦の作り方(製作技法)と瓦当文様の関係が体系的に把握されるようになるとともに、飛鳥寺の瓦にみられる製作技法と同一のものが百済にも存在したことが判明した。


左:藤原宮跡資料室展示品 右:明日香村埋蔵文化財展示室展示品

 瓦の種類は大きく「花組」の軒丸瓦と「星組」の軒丸瓦にわけられ、文様や花弁先端の形状だけでなく、製作技術にも差異があることから、それらが百済に由来する個々の瓦造り集団によって製作されたと考えられている。(参考:飛鳥寺創建瓦の祖形

おわりに
 飛鳥寺は、一塔三金堂式の伽藍配置の寺院で、舎利や多種類の荘厳具が納められていたことがわかった。


参考文献
大脇潔 1989 『日本の古代美術14 飛鳥の寺』 保育社
狩野久 1999 『古代を考える 古代寺院』 吉川弘文館
篠川賢 2013 『日本古代の歴史2 飛鳥と古代国家』 吉川弘文館
奈良文化財研究所飛鳥資料館2013 『飛鳥寺二〇一三』 




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関連年表

元号 西暦 事  項
宣化3 538 仏教伝来『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』
欽明13 552 仏教伝来『日本書紀』
敏達13 584 司馬達等の娘・嶋出家(善信尼)
敏達14 585 止由等佐岐に刹柱をたつ  『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』
用明2 587 蘇我馬子飛鳥寺建立を発願
崇峻元 588 飛鳥寺造営始まる
崇峻3 590 山に入って飛鳥寺の用材を取る。仏堂と歩廊を起つ
推古元 593 飛鳥寺、心礎の中に仏舎利を置き、刹柱をたてる
止由等の宮を寺となす、故に止由等寺と名づく 『元興寺縁起』
推古2 594 仏教興隆の詔
推古4 596 飛鳥寺落成
推古11 603 小墾田宮に遷る
冠位十二階の制定
推古12 604 憲法一七条の発布
推古13 605 飛鳥寺の銅と繍の丈六仏像各一躯の製造を誓願
推古14 606 飛鳥大仏完成(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』には推古17(609)年)
天皇は皇太子に請うて、勝鬘経を講じさせた。
この年、皇太子は法華経を岡本宮で講じた。
推古20 612 須弥山の形及び呉橋を南庭に築く
推古28 620 『天皇記』『国記』など史書編纂を開始
推古36 628 山背大兄王、小墾田宮で天皇に謁見
舒明2 630 飛鳥岡本宮に遷る
舒明8 636 岡本宮焼失 田中宮に移る
舒明13 641 山田寺、造営開始  『上宮聖徳法王帝説』裏書
皇極2 643 飛鳥板蓋宮に遷る
山田寺、金堂完成   『上宮聖徳法王帝説』裏書
皇極3 644 中大兄皇子・中臣鎌足、法興寺の槻の木の下の蹴鞠で出会う
皇極4 645 乙巳の変
蘇我蝦夷『天皇記』『国記』等を焼く
大化元 645 天皇・皇祖母尊・皇太子、大槻の木の下で群臣を集め盟約をさせる
大化4 648 山田寺にはじめて僧住む  『上宮聖徳法王帝説』裏書
大化5 649 蘇我倉山田石川麻呂、謀反の罪で自害
白雉4 653 僧・旻の死に際し仏像を川原寺に安置。(或る本には山田寺に)
皇太子中大兄皇子、公卿百官を率いて倭飛鳥河辺行宮に移る
斉明元 655 飛鳥板蓋宮火災。川原宮に遷る
天皇、飛鳥川原宮に遷幸す。のち、川原寺を作る。『扶桑略記』
斉明2 656 岡本宮に遷る
斉明3 657 須弥山の像を飛鳥寺の西に作る
斉明5 659 甘樫丘の東の川上に、須弥山を造り、陸奥と越の蝦夷を饗応
斉明6 660 中大兄皇子漏刻を造る
石上池の辺りに須弥山を作る。 粛慎四十七人を饗応
斉明7 661 斉明天皇、朝倉宮で崩御 飛鳥川原にて殯
天智元 662 道昭、飛鳥寺に東南禅院を建立『日本三代実録』
(『類聚国史』には天武11(682)年)
天智2 663 山田寺、塔を構える 『上宮聖徳法王帝説』裏書
天智6 667 近江大津京へ遷都
天智10 671 漏剋を新しい台に置く。
天武元 672 壬申の乱
飛鳥寺西の槻下に陣営を敷く。小墾田兵庫を大海人軍が抑える
天武2 673 川原寺で始めて一切経を写経
山田寺、塔の芯柱をたてる  『上宮聖徳法王帝説』裏書
天武4 675 占星台を設置し、陰陽寮・外薬寮を置く
天武6 677 多禰人らを飛鳥寺の西の槻の木の下で饗応
天武7 678 山田寺、丈六の仏像を鋳る   『上宮聖徳法王帝説』裏書
天武9 680 橘寺の尼房で失火があり十房を焼いた
飛鳥寺の西の槻の枝、自づからに折れて落ちる
天武10 681 多禰人らを飛鳥川の辺で饗応
天武11 682 隼人らを飛鳥寺の西で饗応
天武14 685 天皇、川原寺にて僧たちに稲を配る
天皇、白錦後苑に行幸
天皇の病気平癒のため大官大寺・川原寺・飛鳥寺で誦経
山田寺、仏眼を点ず   『上宮聖徳法王帝説』裏書
朱鳥元 686 川原寺の伎楽を筑紫に運ぶ
飛鳥浄御原宮と名づく
天皇の病気平癒のため川原寺で薬師経を説く
川原寺で百官による盛大な斎会
持統2 688 蝦夷男女213人を飛鳥寺の西の槻の下で饗応
持統8 694 藤原遷都
持統9 695 隼人の相撲を飛鳥寺の西の槻の木の下で行なう
大宝2 702 斎会を四大寺(大官・薬師・元興・弘福)で行う
大宝3 703 太上天皇のため、四大寺(大安・薬師・元興・弘福)で行う
和銅3 710 平城遷都
和銅4 711 飛鳥寺・東南禅院を平城京右京四条一坊に移築(禅院寺)
霊亀元 715 弘福・法隆の二寺で斎会
養老2 718 飛鳥寺を平城へ移築(元興寺)
天平6 734 水主皇女(天智天皇皇女)、大和国広瀬郡広瀬荘の水陸田三十六町を川原寺に施入
天平7 735 飛鳥寺(本元興寺)で斎会
天平13 741 国分寺建立の詔
天平15 743 大仏建立の詔
天平20 748 飛鳥寺で元正天皇初七日の誦経
天平勝宝4 752 大仏開眼供養
宝亀2 771 川原寺で田原天皇(志貴皇子)の忌日の斎会を催す
延暦14 795 この頃、橘寺炎上。 朝廷より大和国稲2000束が復興財源として施入
大同2 807 伊予親王・母藤原吉子、川原寺に幽閉・獄死
治安3 1023 藤原道長、山田寺・飛鳥寺・橘寺を訪れる『扶桑略記』
嘉保3 1096 山田寺の鐘、多武峰に持ち去られる
文治3 1187 山田寺の講堂薬師三尊像、興福寺僧に略奪される
建久2 1191 川原寺焼失『玉葉』
建久7 1196 飛鳥寺焼失
寛永9 1632 飛鳥大仏に仏堂が寄進され、安居院となる
明和9 1772 本居宣長、橘寺などを参詣



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『上宮聖徳法王帝説』裏書

豊浦寺の項
庚戌春三月 學問尼善信等 自百済還 住櫻井寺 今豊浦寺也【初櫻井寺云 後豊浦寺云】 
庚戌(崇峻元・590)春3月、學問尼善信等百済より還り、櫻井寺に住む。今の豊浦寺也。初め櫻井寺と云い、後に豊浦寺と云う。


山田寺の項
有本云誓願造寺恭敬三宝十三年辛丑春三月十五日始浄土寺云々
注云辛丑年始平地癸卯年立金堂之代申始僧住
己酉年三月廿五日大臣遇害
癸亥構塔癸酉年十二月十六日建塔心柱其柱礎中作円穴刻浄土寺
其中置有蓋大鋺一口内晟種々殊玉其中有塗金壺々内亦晟種々殊玉
其中有銀壺々中内有鈍金壺其内有青玉玉瓶其内納舎利八粒
丙子年四月八日上露盤
戊寅年十二月四日鋳丈六仏像乙酉年三月廿五□點仏眼山田寺是也
注承暦二年戊午南一房写之真曜之本云々


ある本に云く。寺を造り三宝を恭敬することを誓願し、13年辛丑(舒明13・641)の春3月15日に浄土寺を始むと云々 注に云わく。辛丑年(舒明13・641)に始めて地を平らし、
癸卯年(皇極2・643)に金堂を立つ。戊申(大化4・648)に始めて僧住む 己酉年(大化5・649)3月25日に大臣、害に遇う 癸亥(天智2・663)に塔を構え、癸酉年(天武2・673)12月16日に塔の心柱を建つ。その柱の礎の中に円穴を作り、浄土寺と刻む。その中に有蓋の大鋺一口を置き、内に種々の殊玉を盛る。その中に塗金の壺有り。壺の内にまた種々の殊玉を盛る。その中に銀の壺有り。壺の内に鈍金の壺有り。その内に青玉の玉瓶有り。その内に舎利八粒を納む。
丙子年(天武5・676)4月8日に露盤を上ぐ 
戊寅年(天武7・678)12月4日に丈六の仏像を鋳る。乙酉年(天武14・685)3月25日に仏眼を点ず。山田寺これ也。
 注に承暦2年(1078)戊午、南一房にて写す。真曜の本なりと云々



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元興寺伽藍縁起并流記資財帳

「造寺の詔」
他田天皇(おさだのすめらみこと/敏達天皇、同じ乙巳(きのと・み)の年に崩じたまい、次に池邊皇子、即ち天皇に立ちたまう。 馬屋門皇子(うまやとのみこ)白さく、「佛法を破り滅ぼさば、恠灾(わざわい)益(ますます)増さん。故、三尼は櫻井の道場に置きて宜(よろ)しく供養すべし」と。 時に天皇許したまい櫻井寺に住まわしめて供養を爲したまう。 時に三尼等、官に白さく、「傳え聞く、『出家の人は戒をもって本と爲す』と。然るに戒師(かいし)無し。故、百濟國に度り受戒せんと欲す」と白しき。

然るに久しからざる間、丁未(ひのと・ひつじ)年、百濟の客(つかい)來たる。 官の問いて言いしく、「この三尼等、百濟國に度り受戒せんと欲す。この事云何(いか)にすべきや」と。 時に蕃客(あたしくにのつかい)答えて曰く、「尼等が受戒の法は、尼寺の内に先(ま)ず十尼師を請(ま)せて已に本戒を受け、即ち法師寺に詣(いた)り十法師を請す。先の尼師十と合せて二十師が所に本戒を受けるなり。然るに此の國は但尼寺有りて法師寺及び僧無し。尼等、若(も)し法の如く爲さんとせば、法師寺を設け、百濟國の僧尼等を請いて受戒せしむべし」と白しき。 時に池邊天皇(いけべのすめらみこと/用明天皇)、命以ちて、大ゝ王と馬屋門皇子二柱に語り告げて宣らさく、「法師寺を作るべき處を見定めよ」と告げたまいき。 時に百濟の客白さく、「我等が國は、法師寺・尼寺の間、鍾の聲を互いに聞き、その間に難事無し。半月ゝゝに日中(うまのとき)の前に往還(ゆきき)する處に作る」と。 時に聰耳皇子・馬古大臣、倶に寺を起す處を見定めき。 丁未(ひのと・ひつじ)の年。 時に百濟の客、本つ國に還る。 時に池邊天皇、告げ宣らさく、「將に佛法を弘め聞かんと欲す。故、法師等并びに寺を造る工人(たくみ)等を欲す。我、病い有り。故、急速(すみやか)に送るべし」と。 然るに使者の未だ來たらざる間に天皇崩じたまいき。

次に椋梯天皇(くらはしのすめらみこと/倉梯天皇=崇峻天皇)天の下治しめしし時、戊申(つちのえ・さる)の年、六口(むたり)の僧、名は令照(りょうしょう)律師、弟子の惠忩(えそう)、令威(りょうい)法師、弟子の惠勲(えくん)、道嚴(どうごん)法師、弟子の令契(りょうけい)を送り、及び恩卒首眞(おんそちすしん)等四口(よたり)の工人并びに金堂の本様を奉上(たてまつ)りき。 今、この寺に在るはこれなり。

「塔露盤銘」
難波天皇(なにわのすめらみこと/孝徳天皇)の世(みよ)、辛亥(かのと・い)の正月五日、塔の露盤の銘を授けたまう。
大和國(やまとのくに)の天皇(すめらみこと)、斯歸斯麻宮(しきしまのみや)に天下(あめのした)治(しら)しめしし名は阿末久爾意斯波羅岐比里爾波彌己等(あまつくにおしはるきひろにはのみこと)の世(みよ)、巷宜(そが)名は伊那米大臣(いなめのおおおみ)仕え奉りし時に、百濟國(くだらのくに)の正明王(聖明王)上啓(もうしふみ)して云う、「萬(よろず)の法(みち)の中に佛法最も上(すぐれ)たり」と。 ここをもちて天皇・大臣ともに聞こしめして宣らさく、「善哉(よきかも)」と。 則ち佛法を受けたまいて、倭國(やまとのくに)に造り立(まつ)りたまいき。 然れども天皇・大臣たち報(むくい)の業(わざ)を受け盡(は)てたまいき。

故(かれ)、天皇の女(ひめみこ)、佐久羅韋等由良宮(さくらいとゆらのみや)に天の下治しめしし名は等己彌居加斯夜比彌乃彌己等(とよみけかしきやひめのみこと)の世、及び甥の名は有麻移刀等刀彌ゝ乃彌己等(うまやとととみみのみこと)の時に、仕え奉れる巷宜(そが)の名は有明子大臣(うまこのおおおみ)を領(かみと)として、及び諸(もろもろ)の臣たち讃(たたえごと)して云いしく、「魏ゝ乎(たかきかも・たかきかも)、善哉ゝゝ(よきかも・よきかも)」と。 佛法を造り立つるは父天皇・父大臣なり。 即ち菩提心を發し、十方の諸佛の衆生を化度(けど)し、國家大平ならんことを誓願して、敬しみて塔廟を造り立てまつらん。 この福力に縁りて、天皇・大臣及び諸の臣等の過去七世の父母、廣く六道四生(ろくどうししょう)の衆生(しゅじょう)、生ゝ處ゝ十方浄土に及ぶまで、普(あまね)くこの願に因り、皆佛果を成し、以って子孫、世ゝ忘れず、綱紀を絶つなからん爲に、建通寺と名づく。

戊申(つちのえ・さる)。始めて百濟の王名は昌王に法師及び諸佛等を請う。 故、釋令照(りょうしょう)律師・惠聰(えぞう)法師・鏤盤師(ろばんのつかさ)將?自昧淳(しょうとくりまいじゅん)・寺師(てらのつかさ)丈羅未大(だらみだ)・文賈古子(もんけこし)・瓦師(かわらのつかさ)麻那文奴(まなもんぬ)・陽貴文(ようきぶん)・布陵貴(ふりょうき?)・昔麻帝彌(しゃくまたいみ)を遣わし上(たてまつ)る。 作り奉らしむる者は、山東漢大費直(やまとのあやのおおあたい)、名は麻高垢鬼(またかくき?)、名は意等加斯費直(おとかしあたい)なり。 書ける人は百加(ひゃっか)博士、陽古(ようこ)博士。 丙辰(ひのえ・たつ)の年の十一月に既(な)る。 爾して時に金作らしめる人等は意奴彌首(おぬみのおびと)、名は辰星(たつほし?)なり。 阿沙都麻首(あさつまのおびと)、名は未沙乃(みさの?)なり。 鞍部首(くらつくりのおびと)、名は加羅爾(からに?)なり。 山西首(かわちのおびと)、名は都鬼(つき?)なり。 四部の首を以て將(おさ)と爲し、諸の手をして作り奉らしむ。

「丈六光銘」
丈六の光銘に曰く、「天皇、名は廣庭(ひろにわ/欽明天皇)、斯歸斯麻宮(しきしまのみや)に在りし時、百濟の明王、上啓(もうしふみ)しく『臣聞く、いわゆる佛法は既に是の世の間に無上の法なり。天皇また修行したまうべし』と。 佛像・經教・法師を?(ささ)げ奉りき。 天皇、巷哥(そが)の名は伊奈米大臣(いなめのおおおみ)に詔(みことのり)したまい、茲(こ)の法を修行せしまたまう。 故、佛法始めて大倭に建てり。 廣庭天皇の子、多知波奈土與比天皇(たちばなのとよひのすめらみこと/用明天皇)、夷波禮涜邊宮(いわれのいけのべのみや)に在りて、性(みこころ)の任(まにま)に廣く慈(いつくし)み、重く三寶を信じ、魔眼を損棄し、佛法を紹興したまう。 而して妹(いも)の公主(ひめみこ)名は止與彌擧哥斯岐移比彌天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)、櫻井等由羅宮(さくらいのとゆらのみや)に在り、涜邊天皇の志を追い盛り、また三寶の理を重んじ、涜邊天皇の子(みこ)名は等與刀禰ゝ大王(とよとみみのおおきみ)、及び巷哥の伊奈米大臣の子、名は有明子大臣(うまこのおおおみ)に揖命(ゆうめい?)して、道を聞かんとする諸の王子に緇素(しそ)を教えしめて、百濟の惠聰(えぞう)法師・高麗の惠慈(えじ)法師・巷哥有明子大臣が長子名は善徳を領(かしら)として、以って元興寺を建てたまいき。



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伽藍比較図



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軒丸瓦の各部名称図




飛鳥寺創建瓦の祖形(百済)

帝塚山大学附属博物館収蔵品



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漏刻




元嘉暦(具注暦木簡)




飛鳥時代の歴代宮殿の構造図



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飛鳥寺周辺古代マップ



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飛鳥時代系図




第56回定例会関連マップ


  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
山田寺(作成:山本) 石神遺跡(作成:寺農) 水落遺跡(作成:高橋)
豊浦寺(作成:富田) 甘樫丘東麓遺跡(作成:風人) 川原寺(作成:桑原)
飛鳥宮跡(福井) 飛鳥京跡苑池(吉本) 飛鳥寺西方遺跡(作成:風人)
飛鳥寺(作成:川嶋) 関連年表 『上宮聖徳法王帝説』裏書
元興寺伽藍縁起并流記資財帳 伽藍比較図 飛鳥寺創建瓦の祖形(百済)
漏刻 元嘉暦(具注暦木簡) 飛鳥時代の歴代宮殿の構造図
飛鳥寺周辺古代マップ 飛鳥時代系図 第56回定例会関連マップ
清水昭博先生 特別寄稿 レポート 飛鳥咲読 / 両槻会



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