歴史編
飛鳥時代に関する次の文章の( )に入る適当なものはどれでしょうか。
飛鳥時代は、( 1 )天皇が( 2 )宮に即位した592年から、平城京に都が移るまでの約100年間をさします。この間に即位した天皇の宮は、孝徳天皇の(
3 )や天智天皇の( 4 )など、一部を除いて飛鳥地域内にありました。
問1 1: 推古 (すいこ 33代) 2: 用明 (ようめい 31代)
2: 敏達 (びだつ 30代) 3: 崇峻 (すしゅん 32代)
問2 1: 小墾田 (おはりだ 推古) 2: 厩坂 (うまさか 舒明)
3: 岡本 (おかもと 舒明) 4: 豊浦 (とようら 推古)
問3 1: 磯城瑞籬宮 (しきみずがきのみや 崇神)
2: 難波長柄豊碕宮 (なにわながらとよさきのみや 孝徳)
3: 難波高津宮 (なにわたかつのみや 仁徳)
4: 纏向珠城宮 (まきむくたまきのみや 垂仁)
問4 1: 大津宮 (おおつ 天智) 2: 葛城高丘宮 (かつらぎたかおか第二代 綏靖)
3: 恭仁京 (くに 聖武) 4: 紫香楽宮 (しがらき 聖武)
飛鳥時代は、592年に推古天皇が豊浦宮で即位した年から、藤原京(白鳳時代)の時代を含めて、710年に平城京に遷都するまでの約100年間を指します。
僅か100年の間ですが、その間に飛鳥地域を中心に仏教文化が花開き、律令国家としてそれまでの国家体制とは大きく違った中央集権の政治体制を確立した時代でもあります。 わが国を日本と呼ぶようになったのもこの時代からでした。
問2の厩坂宮は、橿原市石川町付近と考えられています。
問3の磯城瑞籬宮は、三輪山南西部金屋の石仏近くに伝承地碑があります。
纏向珠城宮は、山の辺の道にある相撲神社付近が伝承地。
問4の葛城高丘宮は、葛城古道一言主神社と九品寺の中間辺りに伝承地碑があります。
問5 俗に大化改新と呼ばれる政変の端緒となった事件を何と言うでしょうか。
1: 乙巳の変 (いっしのへん=きのとみ) 2: 甲子の変 (きのえね)
3: 壬申の変 (みずのえさる) 4: 丙戌の変 (ひのえいぬ)
645年、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌足等が蘇我蝦夷(そがえみし)・入鹿(いるか)親子を滅ぼした事件を、俗に「大化改新」と呼びますが、翌年に公布される「大化の詔」(たいかのみことのり)による政治改革を含めて「大化改新」と呼ぶのが正しい認識だと思われます。 そこで、入鹿の首が切られ、蝦夷が甘樫丘にあった邸に火をつけ自害した事件のみを言う場合には、その年の干支をとって「乙巳の変」と呼ばれるようになってきています。
切られた入鹿の首は宙を飛び、首塚付近に落下したと言います。 入鹿の首飛翔伝説は、いろいろなバリエーションがあります。後で出てくる「もうこの森」や首塚の話の他、高見山説や松阪市飯高町舟戸地区の五輪塔と能化庵(のうげあん)、また橿原市地黄町(じおうちょう)横大路付近に落下したとの伝承も残っています。
また入鹿の首塚と呼ばれる五輪塔は二基並んでいたという話もあります。
大化改新や乙巳の変の意味付けが見直されるようになってきました。蘇我氏を単に悪者とする見方は、修正されつつあります。
( 参考 入鹿の首塚考 ・ もう一つの入鹿の首塚考 )
問6 大化改新政権で、左大臣の位に就いたのはだれでしょうか。
1: 中大兄皇子 (皇太子)
2: 中臣鎌足 (内大臣)
3: 阿倍倉梯麻呂 (あべくらはしまろ 左大臣)
4: 蘇我倉山田石川麻呂 (そがくらやまだいしかわまろ 右大臣)
大化改新政権は、孝徳天皇の下に、皇太子 中大兄皇子、内大臣 中臣鎌足、左大臣 阿倍倉梯麻呂、右大臣 蘇我倉山田石川麻呂が中心となり、難波長柄豊碕宮に遷都しました。
日本書紀に伝えられる大化の詔は、後世の事案を組み込んだとの指摘もあり、詔のすべてが一度に執り行われたわけではなく、諸豪族の反発の中で改革のスタートが切られたと解釈すべきではないかと思われます。 大化改新は無かったとする説もあることをご紹介しておきます。
阿倍倉梯麻呂は、阿倍内倉梯麻呂と書くのが正しいかもしれません。蘇我倉山田石川麻呂の「倉」と同じように、「内」は朝廷の内部を表す複姓が用いられています。 倉梯麻呂は、単に内麻呂とも呼ばれることがあるようです。
( 参考 蘇我倉山田石川麻呂の名前 )
乙巳の変の5日後、孝徳天皇(こうとく)と皇極前天皇(こうぎょく 皇祖母尊 すめみおやのみこと)と皇太子は、大槻(飛鳥寺西の槻(つき=ケヤキ)の木の広場)の下に、群臣を召し集め、誓盟を行わせています。 蘇我派の巻き返しを恐れてのことだったのでしょうか。クーデター政権への忠誠を誓わせたのでしょう。
問7 飛鳥時代には女性がたくさん皇位に就かれました。次の内、皇位に就かれなかった 女性はどなたでしょうか。
1: 宝皇女 (たからのひめみこ)
2: 額田部皇女 (ぬかたべのひめみこ)
3: 鵜野讃良皇女 (うののさららのひめみこ)
4: 穴穂部間人皇女 (あなほべのはしひとのひめみこ)
宝皇女は、皇極天皇。
額田部皇女は、推古天皇。
鵜野讃良皇女は、持統天皇。
穴穂部間人皇女は、欽明天皇の皇女で、用明天皇との間に聖徳太子をお生みになった方
です。
(系図参照)
問8 飛鳥時代には、蘇我氏が大きな勢力を有しました。 蘇我馬子の父親は誰でしょうか。
1: 蝦夷 (えみし) 2: 稲目 (いなめ) 3: 入鹿 (いるか) 4: 高麗 (こま)
蘇我氏は、稲目より以前ははっきりしない部分もあり、渡来人説もあります。 系譜として書かれる発祥は、武内宿禰(たけのうちのすくね)から発することになり、葛城氏(かつらぎし)の同族となります。
蘇我石川宿禰(いしかわのすくね) → 満智(まち) → 韓子(からこ) → 高麗 → 稲目 → 馬子 → 蝦夷 → 入鹿、蘇我本宗家(そがほんそうけ)は、このように続きます。
蘇我氏渡来人説によると、 応神天皇の25年の条に、百済王が亡くなり、幼少の王が立ったので、木満致(もくまんち)という者が国政を執ったが、専横を極めた。天皇は、これをお聞きになって、お召しになった。と言う記事があります。実際は、政争に敗れた木満致が亡命したと言うことなのかもしれません。 この木満致を蘇我氏の源流とする説があります。この説では、満智と満致を同一人物と見なします。
(系図参照)
問9 聖徳太子と婚姻関係には無かった女性を、次の中から選んでください。
1: 菟道貝蛸皇女 (うじのかいだこのひめみこ)
2: 刀自古娘女 (とじこのいらつめ)
3: 法提娘女 (ほていのいらつめ)
4: 菩岐岐美娘女 (ほききみのいらつめ)
太子は、正史には4人の女性と婚姻関係にあったことが書かれています。この三人のほかには、橘夫人と呼ばれる橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)がいます。
菟道貝蛸皇女は、敏達天皇と推古天皇の皇女。
刀自古郎女は、蘇我馬子の娘。
法提郎女は、蘇我馬子の娘で、舒明天皇の夫人、古人大兄皇子の母になります。
菩岐岐美郎女は、膳臣傾子(かしわでのおみかたぶこ)の娘で、膳夫人として知られる方です。 死後も太子と共に太子廟に葬られています。 太子とは偕老同穴の契りを結んだとも伝えられます。
また菜摘姫伝説などでも知られます。(バリエーションが多い) 太子が斑鳩へ移ったのも、パトロンである膳臣の本拠地が斑鳩にあったためだとする説もあります。
(系図参照)
古代最大の内乱と言われる壬申の乱について、次の文章の( )に入る適当なものはどれでしょうか。
668年、近江京において正式に即位した( 10 )天皇は、庚午年籍や近江令制定など中央集権の体制を強化し推し進めようとしました。その天皇を苦慮させる問題の一つとして皇位継承が浮上してきます。半島での敗戦や近江遷都は世情に不安を生み、風刺の童謡が流行り、京でも火災が頻繁に起こりました。そうした情勢の中で、天皇は10年正月、皇太弟( 11 )皇子を差置いて、実子の( 12 )皇子を太政大臣に就任させます。
皇位継承の政争に身の危険を感じ近江京を去った一行は、当日夕方には飛鳥の( 13 )宮に到着します。翌日には、定説では( 14 )を越え、吉野( 15 )に到着しました。
問10 1: 天武 (てんむ 40代) 2: 舒明 (じょめい 34代)
3: 文武 (もんむ 42代) 4: 天智 (てんち 38代)
問11 1: 大海人 (天武天皇) 2: 中大兄 (天智天皇)
3: 大津 (天武の子) 4: 軽 (孝徳天皇)
問12 1: 草壁 (くさかべ 天武の皇子) 2: 忍壁 (おさかべ 天武の皇子)
3: 大友 (おおとも 39 弘文天皇) 4: 高市 (たけち 天武の皇子)
問13 1: 嶋 (しま) 2: 飛鳥板蓋 (あすかいたぶき 飛鳥宮)
3: 飛鳥浄御原 (あすかきよみはら 飛鳥宮) 4: 岡本 (おかもと 飛鳥宮)
問14 1: 朝風峠 (あさかぜとうげ) 2: 竹之内峠 (たけのうちとうげ)
3: 大峠 (おおとうげ) 4: 芋峠 (いもとうげ)
問15 1: 菜摘 (なつみ) 2: 国栖 (くず)
3: 宮滝 (みやたき) 4: 蔵王堂 (ざおうどう)
天智天皇の息子大友皇子(明治三年、弘文天皇の称号を追号)に対し、皇太弟(こうたいてい)大海人皇子が反旗をひるがえした内乱を壬申の乱(じんしんのらん)と言います。
額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐる三角関係なども、内乱の遠因の一つとして物語に織り込まれることもありますが、真相はそのような単純なものではないように思います。
乱自体に多くの謎が残ります。 大友皇子は、本当に即位していたのか。乱は、偶発的なものだったのか。どちらが仕掛けたものなのか。大海人皇子はなぜ吉野に向かったのか。 宇治から飛鳥嶋宮を経由して吉野宮滝へのルートはどのような道を選んだのか。 日本書紀が天武天皇の正統性を強調するために編纂されたという説もありますので、書かれていることがすべて真実だとも言えないように思われます。
問13 嶋宮は、石舞台公園駐車場付近を中心に、かなりの広がりを持っていたようです。
問14 宮滝への芋峠越えルートは、嶋宮から吉野宮滝までの最短コースになります。
朝風峠は、明日香村稲渕の棚田から平田集落に抜ける峠です。
竹之内峠は二上山南側を通り、難波と大和を分けています。
大峠は、特定の峠として例題としたものではありません。
( 参考 芋峠越え宮滝行 埋もれた古代を訪ねる 島庄の遺跡 )
藤原京遷都に関する問題です。次の文章の( )に入る適当なものはどれでしょうか。
( 16 )年、( 17 )天皇は( 18 )宮から藤原京へと遷都を行いました。藤原京は、我国最初の条坊制を用いた本格的な都でした。平城京へ遷都するまでの( 19 )の間、持統天皇・ ( 20 )天皇・( 21 )天皇の三代の天皇が住まわれ、律令国家への道を歩むことになります。
問16 1: 692 2: 693 3: 694 4: 695
問17 1: 天武 (てんむ 40代) 2: 持統 (じとう 41代)
3: 聖武 (しょうむ 45代) 4: 文武 (もんむ 42代)
問18 1: 飛鳥板蓋 2: 後岡本 3: 小墾田 4: 飛鳥浄御原
問19 1: 14年 2: 16年 3: 21年 4: 32年
問20 1: 天武 2: 推古 3: 文武 4: 聖武
問21 1: 元明 (げんめい 43 草壁皇子妃 文武・元正天皇母)
2: 元正 (げんしょう 44代)
3: 称徳 (しょうとく 孝謙(こうけん) 46・48代)
4: 用明 (31代)
藤原京は、条坊(じょうぼう)と呼ばれる碁盤目のように整然と配置された道路によって区画された人工の都市でした。 京域は、奈良盆地を走る幹線道路(中つ道・下つ道・横大路・山田道)によって区切られた東西2.1km、南北3.2kmの大きさで、宮域はその中央やや北寄りの約1km四方を占めているものと思われていました。
しかし近年の発掘の成果により、京の範囲の外側でも藤原宮時代の条坊道路に一致する道路跡がいくつも発見され、京域はもっと大きかったとする「大藤原京説」が登場してきています。 それによると、京域は5km四方となり、平安京・平城京よりも巨大なものとなります。 また、宮はその中心に在り、藤原京のモデルは長安ではなく、周の築城理念(宮は、京の中心に位置する。)に基づいたものではないかと考える説が浮上しています。 中国にも無い都の理想形を実現しようとしたとも考えられます。
藤原京大極殿跡近くにあるJAならけん橿原東部経済センターの二階には、大藤原京説に基づく藤原京模型が展示されています。
藤原京建設は、天武天皇の時代から始まっていたようで、685年頃の木簡が京域の溝から出土しています。(本薬師寺跡(もとやくしじあと)の下層から計画道路跡や溝が検出されている。)計画はもっと早い段階から出来上がっていたのでしょう。
しかし、この工事も天武天皇の死によって中断され、新都への夢は、持統天皇に受け継がれ完成させられました。
(参考 夢幻の都 藤原京探検記)
問22 天武天皇の皇子でないのは、次の内誰でしょうか。
1: 大津皇子 (おおつのみこ)
2: 弓削皇子 (ゆげのみこ)
3: 川島皇子 (かわしまのみこ 天智の皇子)
4: 新田部皇子 (にいたべのみこ)
悲劇の皇子として知られる大津皇子は、天武天皇と太田皇女(おおたのひめみこ)の子供。
弓削皇子は、天武天皇と天智天皇を父に持つ大江皇女(おおえのひめみこ)の子供。
川島皇子は、天智天皇と忍海造色夫古娘(おしみのみやつこしきぶこのいらつめ)の子供。
新田部皇子は、天武天皇と藤原鎌足を父に持つ五百重娘(いおえのいらつめ)の子供。
(系図参照)
問23 天智天皇の父親は、次の内誰でしょうか。
1: 継体天皇 (26代) 2: 欽明天皇 (29代) 3: 用明天皇 (31代)
4: 舒明天皇 (34代 母は皇極天皇 こうぎょくてんのう)
継体天皇は応神天皇の5世の孫とされ、父は彦主人王。(ひこひとのおおきみ)
欽明天皇の父は、継体天皇。
母は、武烈天皇の姉(妹)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)。
用明天皇の父は、欽明天皇。母は、蘇我稲目の娘、堅塩媛(きたしひめ)。
舒明天皇の父は、押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのみこ)。
母は、糠手姫皇女(ぬかてひめのひえみみこ)
(系図参照)
問24 皇極天皇は、譲位後再び即位されました。その時の名前は次の内どれでしょうか。
1: 推古天皇 2: 持統天皇 3: 斉明天皇 4: 称徳天皇
退位された天皇が再び即位されることを、重祚(ちょうそ)と言います。飛鳥時代では、皇極天皇が重祚され斉明天皇(さいめいてんのう)となられました。 奈良時代になりますが、孝謙天皇も重祚されており、称徳天皇となられています。
問25 悲劇の皇子とも言われる孝徳天皇の皇子は、次の内のだれでしょうか。
1: 忍壁皇子 (天武) 2: 川島皇子 (天智)
3: 有間皇子 (ありまのみこ) 4: 弓削皇子 (天武)
忍壁皇子の父は、天武天皇。母は、宍戸臣大麻呂(ししひとのおみおおまろ)の娘・かじ媛娘。
有間皇子の父は、孝徳天皇。母は左大臣・阿倍内倉梯麻呂の娘・小足媛(おたらしひめ)。
(系図参照)
問26 都が平城京へ遷都すると、飛鳥に在ったお寺も移って行くものもありました。
平城京に移った飛鳥寺は、何と呼ばれたでしょうか。
1: 興福寺 2: 東大寺 3: 大安寺(大官大寺) 4: 元興寺 (がんごうじ)
平城遷都に伴って移っていったお寺には、飛鳥寺・薬師寺・大官大寺などがあります。 残ったものには、川原寺・豊浦寺・橘寺などがありました。 なぜ、残るものと移るものがあったのかは不明です。
遷都後も飛鳥寺は無くなったわけではなく、ある程度の規模を保って存続していました。元々飛鳥寺は、「法興寺」または「元興寺」とも呼ばれており、法号としては、これらの方が正しいのかもしれません。飛鳥寺は、平城遷都後は「本元興寺」と呼ばれていました。
飛鳥から平城京に移ったお寺と移らなかったお寺があったのは、単に財力の問題ではないと思われます。川原寺については、皇極天皇の菩提寺であることも要因の一つであるのかも知れません。
(参考 飛鳥寺探検 )
問27 狂心渠や両槻宮を築いたとされる天皇は、誰でしょうか。
1: 推古天皇 2: 欽明天皇 3: 斉明天皇 4: 持統天皇
斉明天皇は、『日本書紀』によれば、しばしば工事を起こすことを好んだようです。有間皇子の変に際して、蘇我赤兄(そがのあかえ)は天皇の三つの失政を挙げており、「大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。」としています。 狂心渠(たぶれごころのみぞ)や両槻宮(ふたつきのみや)(また、宮の東の丘=「酒船石遺跡」)の建設を指すものだと思われます。
時の人の謗り(そしり)て曰はく、「狂心の渠の工事に費やされる人夫は三万余、垣を造る工事に費やされる人夫は7万余人。宮殿を造る用材は朽ちただれて、山の頂も埋もれるほどだ。」
( 参考 両槻会第二回定例会埋もれた古代を訪ねる 東垣内遺跡・宮ノ下遺跡 )
斉明天皇は道教を好んだとされます。多武峰(とうのみね)の2本のケヤキの大木がある辺りに道教の「観(たかどの)」を建て、「両槻宮」とした。この宮を天帝の宮殿である「天宮(あまつみや)」とも呼んだと書紀には書かれています。
道教では「天宮」は、仙人たちが住んでいる天上の宮を意味しており、不老不死の理想郷とされます。 「槻 (つき)」はケヤキの木で、大木には神が宿ると考えられていたようです。
しかし真実は、東アジアの情勢緊迫により、両槻宮は、実際には朝鮮式山城の建設であったのかも知れません。あるいは、半島での敗戦後に改装されたのかも知れません。
槻の木は、飛鳥寺西の槻の木の広場や軽の巷(ちまた)に作られた市のシンボルとして、信仰の対象となっていたことが知られています。
両槻会第四回定例会ではこの両槻宮を訪ねて歩き、第五回では講演のテーマとしたいと思っています。
問28 飛鳥地域には、中世に砦や小さな城が築かれました。次の内、実際には無かった
城はどれでしょうか。
1: 雷城 (いかずちじょう) 2: 飛鳥城 3: 小山城 4: 川原城
飛鳥地域にある中世城郭は、小丘陵上に造られた規模の小さなものが多く見られます。 若干規模の大きなものとしては、国民(こくみん)小山氏の小山城が上げられます。 発掘調査が行われたのは、雷城だけにとどまっており、その実態はよく分かっていないのが現状です。
( 参考 両槻会第二回定例会 埋もれた古代を訪ねる 野口吹山城・野口植山城 )
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