両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



万葉集・文学編


  ( 参考  飛鳥・万葉の地 )


問94  わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後  
      上の万葉歌を詠んだのは誰でしょうか。

      1: 天智天皇   2: 南淵靖安   3: 蘇我入鹿   4: 天武天皇

万葉集 巻2−103
 意訳】私の里には、大雪が降りましたよ。
 大原の鄙びた故郷に雪が降るのはもっと後になるのでしょうね。

 この歌は、天武天皇が藤原夫人におくった歌になります。 続く巻2−104には、夫人からの返歌が載っています。

 わが岡の おかみに言ひて ふらしめし 雪のくだけし そこに散りけむ
 意訳】私の岡の神様にお願いして降らせて貰った雪の破片がそちらに散ったのでしょう。

 大原は、現在の明日香村小原辺りかと言われ、天武天皇の住まう宮域とは大して離れていません。丘一つ隔てただけの地で贈答された歌だと言うところに面白みがあるそうです。
「夫人」は、天皇の妻の呼び名の一つで、藤原夫人は、鎌足の娘で大原大刀自と呼ばれた五百重娘であるとされています。


  ( 参考  飛鳥・万葉の地 大原 )



問95  明日香川 川淀さらず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 恋にあらなくに
      上の歌は万葉集に掲載された有名な長歌に続く反歌です。誰の作でしょうか。

      1: 山部赤人   2: 柿本人麻呂   3: 山部青人   4: 山部黒人

万葉集 巻3−325
 意訳】 明日香川の川淀にいつもたちこめている霧のように、はかなく忘れ去られるような慕情ではないですよ。

 ここに出てくる「恋」は、飛鳥古京に対する恋慕の情になります。原文では「孤悲」と書かれ、「恋しい」気持ちは、己の胸の内から湧き出るものだという事を端的に表してるとも言われます。 前に載る長歌では、四季折々の飛鳥の素晴らしさがあげられ、それらを見るたびに昔が思い出されると歌われています。 山部赤人は、神亀・天平期に活躍した宮廷歌人です。

万葉集 巻3−324
 みもろの 神なび山に 五百枝さし 繁に生ひたる 栂の木の 
 いや継ぎ継ぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ
 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 
 山し見が欲し 秋の夜は 川しさやけし 朝雲に 鶴は乱る
 夕霧に かはづは騒ぐ 見るごとに 音のみし泣かゆ いにしへ思へば

  ( 参考  飛鳥・万葉の地 飛鳥川 )



問96   矢釣山 木立も見えず 降りまがふ 雪に騒ける 朝楽しも
       上の歌は、柿本人麻呂が新田部皇子に献じた歌です。この歌を根拠に、新田部
       皇子の邸宅跡の可能性を指摘されたのは、次の内どの遺跡でしょうか。

  1: 甘樫丘東麓遺跡   2: 竹田遺跡   3: 観覚寺遺跡   4: 桧隈脇田遺跡

 万葉集 巻3−262
 意訳】 矢釣山の木立も見えない程に降りしきる雪に、皆でこうして集まり騒げる朝は楽しいものだ。

巻3−261
 やすみしし 我が大王 高照らす 日の御子 敷きいます
 大殿の上に ひさかたの 天伝ひ来る 雪じもの 行き通ひつつ いや常世まで

 意訳 】我が大君がお治めになりその皇子がお住いの御殿の上に
 天を伝い降りてくる雪のように(絶え間なく)行き通い続けよう。変わりなくずっと。

 大字飛鳥から大字八釣にかかる緩やかな丘陵で、飛鳥時代の後半を中心とした建物群の一部が検出されています。柱穴は一辺が1m近い規模をもつものもあり、飛鳥地域でも大型のものです。建物の全体像は未だ判明していませんが、皇族や高位高官などの邸宅の可能性が考えられています。 

 調査地近辺が八釣の集落にほど近いことなどから、新田部皇子との関連性も注目されました。 継続調査が行われており、調査の成果が楽しみな遺跡です。

 飛鳥の中心部は、宮や役所とお寺が大部分を占めているため、人々は周辺部に住まいしていたと思われます。 東の丘陵地帯もその一つで、八釣や高家にかかる一帯は高級住宅街であったのではないかとする説が有力です。
 また、西の橿原市との境界付近の丘陵上にも邸宅跡が発見されており、飛鳥中心部を取り巻く住環境も徐々に分かってきました。

  ( 参考  飛鳥・万葉の地 山田・八釣の里 )

 甘樫丘東麓遺跡は、蘇我入鹿の邸宅跡ではないかと注目される遺跡です。
 観覚寺遺跡は、高取町にあり、7世紀から8世紀にかけての渡来系氏族の邸宅を示すオン
 ルドや大壁建物などが検出され、坂上田村麻呂との関連でも注目された遺跡です。
 桧隈脇田遺跡は、縄文時代草創期の有茎尖頭器が出土しており、飛鳥に人が住み始めた
 頃からの遺跡です。




問97 1772年の飛鳥の様子を克明に描写した本居宣長の著書は、次の内のどれでしょう
     か。

    1: 菅笠日記   2: 笈の小文   3: 和州旧跡幽考  4: 和州巡覧記

 『菅笠日記』は、本居宣長が43歳の時、明和9年(1772)3月5日から14日まで10日間、吉野へ花見に行った時の紀行文です。 帰路、壺坂寺から飛鳥の史跡を巡っています。 見聞の記録は詳細に綴られ、ガイドブックとしても読まれたそうです。

3月10日 
壺坂寺(参詣) → 清水谷 → 土佐 → 檜隈 → だうかうじ(道光寺)(参詣) → 平田《文武天皇陵》 → 野口《武烈天皇陵》 → 川原村 → 弘福寺(川原寺)(参詣 )→ 橘寺(参詣) →飛鳥川 →岡の里《泊》  

3月11日
岡寺(参詣) → あやしき大石(酒船石 )→ 飛鳥寺 → 飛鳥の神社 → 飛鳥井の跡 →
大原(藤原)寺 → 上やとり(八釣)村 → 山田村 →

 『笈の小文』 松尾芭蕉の貞亭4年(1687年)から翌年までの紀行文。江戸を発って伊賀上野を経、吉野山・高野山・和歌浦を経て須磨・明石を巡遊する旅の模様。
『和州旧跡幽考』大和名所記 1681年、郡山在住の林宗甫の著書。
『和州巡覧記』 1688年、貝原益軒の著書。



問98   飛鳥に点在する謎の石造物を、ペルシャ人がもたらしたゾロアスター教の遺構で
       はないかと書いた小説が脚光を浴びたことがありました。その「火の路」を書いた
       作者はだれでしょうか

       1: 川端康成   2: 黒岩重吾  3: 松本清張  4: 手塚治虫

 1970年代の前半に出版され、話題を呼んだ小説です。飛鳥時代の日本にゾロアスター教(拝火教)が伝わっていたとする推測から、斉明天皇はその信者であり、だからこそ神秘的な飛鳥の石造物を生み出していったとします。特に酒船石は神酒を製造する為のものであり、益田岩船は火の儀式を執り行う儀式台だとしました。



問99   額田王の作歌とされるのは、次の内どれでしょうか。

      1: 秋山の 樹の下隠り 行く水の 我こそまさめ 思ほすよりは 
      2: 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや
      3: 二人ゆけど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ
      4: 人言を しげみ言痛み 生ける世に いまだ渡らぬ 朝川渡る


万葉集 巻1−18
 意訳】 三輪山をこうも隠すのだろう。
 せめて、雲だけでも心があって欲しい。
 隠すべきではないだろうに。


1: 秋山の 樹の下隠り 行く水の 我こそまさめ 思ほすよりは
巻2−92 鏡女王(天智天皇の歌にこたえた歌)
     意訳】(秋山の木々の下を流れる水よりも)私の思いは勝っているでしょう。
     貴方が思ってくださってる以上に。

2:三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや

 額田王は、天皇の心情を代詠をする御言持ちであったとされることから、この歌は、天智天皇の御製だと左注には書かれています。
667年、近江遷都の際に詠まれた長歌の反歌になります。



巻1−17
 味酒(枕) 三輪の山 あをによし(枕)  奈良の山 山の際に
 い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを
 しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
 い=強意。語調を整える。 隈=曲がり角。
 つばらに=詳しく。思い残す事がないように。
 しばしば=度々。幾度も。 見放く=遠く見やる。

 意訳】 三輪山が奈良山の際に隠れてしまうまで、道の角を幾つも積もるほど曲がるまで、はっきりと(三輪山を)見ながら行こうと思うのに。度々見ないではいられない山を無常にも雲が隠してしまっていいものだろうか。


3: 二人ゆけど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ
巻2−106 大伯皇女(大津皇子が伊勢を訪ね、帰京する際に詠んだ歌)
 意訳】 二人でさえ、辛くて行きがたい秋山をどうやって君は一人越えてゆくんだろうか。

4: 人言を しげみ言痛み 生ける世に いまだ渡らぬ 朝川渡る 
巻2−116 但馬皇女(穂積皇子との事があらわれて後に詠んだ歌)
    (「生ける世に」が「おのが世に」となってる場合もある。)
 意訳】 人の噂が激しく煩い世に、私は今まで渡った事もない朝の川を渡った。
 但馬皇女は、高市皇子の妃。



問100  万葉集の「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも」
       という歌の作者は、次の内のだれでしょうか。

      1: 柿本人麻呂   2: 山部赤人   3: 中臣鎌足   4: 額田王

巻3−235
 意訳】 大君は神様でいらっしゃるので、天の雲の雷の上に廬しておられる。

 2005年に雷丘(城山)は発掘調査が行われましたが、天武時代の建物跡は検出されませんでした。 城山には、名前の通り中世の城郭が造られ、それ以前の遺構はその時の工事により削り取られているようです。  丘の西麓からは、5世紀の埴輪片が多数見つかり、雷神説話ともかみ合う古墳の発見と報じられました。



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