両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



観光編



問56   明日香村の人口は、2007年2月現在でおおよそ何人でしょうか。

     1: 5.000人   2: 6.500人   3: 8.000人   4: 9.500人

 1990年には7400人だった明日香村の人口は年々減少しています。1995年には7200人になり2000年には7000人を割りました。現在では6500人位までに減っています。開発規制の為にどうしても人口は減っていく状況にあるのです。

 冬野・尾曽・畑・入谷・は近年小学生が皆無となり、村のコミュニティーバスも通わなくなりました。周辺部は特に過疎化が進んでいるように見受けられます。

 問題を製作している時点より、解説資料を製作している間にも人口は減少しています。只今、(2007年6月末)6458人。    ( 参考 明日香村公式HP )



問57   明日香村は、1956年の三村合併によって誕生しました。合併した三村以外のも
       のを選んでください。

      1: 阪合村   2: 高市村   3: 飛鳥村   4: 山田村

 1956年 阪合村(さかあい)と高市村(たかいちむら)と飛鳥村(あすかむら)が合併して明日香村が出来ました。 山田村と言うのは現在、桜井市山田にあった所謂「山田寺」近辺のことですが現在は桜井市に属しています。

 昨年(2006年)は、ちょうど50周年にあたり、記念の祭典や明日香村史の改訂版が出版されました。



問58  石舞台古墳に使用されている一番重い石の推定重量は、次のどれでしょうか。

      1: 55トン  2: 77トン  3: 85トン  4: 112トン 

 
 石舞台の天井石の重さは77トンもあります。55トンと112トンは夫々貨物機B767とB741の最大積載重量です。85トンと言うのはご存知の方もおられると思いますが銀杏の日本一の生産県愛知県の年間生産量です。

 天井石の南側(写真上段左側)が最重量の石になります。

  ( 参考 石舞台古墳 )



問59   明日香周遊バス(奈良交通)の愛称はなんと言うでしょうか。

      1: 赤かめバス  2: 青かめバス  3: 金かめバス  4: 銀かめバス

問60   明日香循環バス(コミュニティーバス)の愛称はなんと言うでしょうか。

      1: 赤かめバス  2: 青かめバス  3: 金かめバス  4: 銀かめバス


 明日香周遊バスの愛称は「赤かめバス」で、明日香循環バスの愛称は「金かめバス」と言います。赤かめバスは橿原神宮駅東口から飛鳥駅までの間の観光スポットを中心に回ります。 
 駅からの距離に応じて料金が設定されていますので長時間乗っても区間によっては料金が下がることがあります。 また一日乗り放題の周遊切符¥650も販売されています。
 一方金かめバスは健康福祉センターから栢森・上方面と坂合方面への循環バスで、路線内は何処まで乗っても一律¥100です。詳しくは明日香村のHPをご参照下さい。

 赤かめバスは、奈良交通の路線バス。 金かめバスは、村のコミュニティーバスです。金かめバスは、日曜日は運行されませんが、一般の観光者も利用できることから、奥飛鳥に向かうには大変便利なバスとなります。

  ( 参考  明日香村公式HP内かめバスの案内ページ )



問61   現在、吉備姫王墓に置かれている猿石は、何体あるでしょうか。

     1: 3体    2: 4体    3: 5体    4: 6体

 猿石は昔は鬼石と呼ばれていたものでいつ頃から猿石と呼ばれるようになったか定かではありませんが、元は欽明天皇陵の堤に置かれていたと言われています。
 何の為に造られたのか、また何体あったのかも定かではありませんが、江戸時代、元禄15年(1702年)に欽明天皇陵の南側の畑から5体が見つかったと記録されています。内4体は吉備姫王墓に納められ残り一体は高取町土佐のお寺に引き取られたと記録があります。

 吉備姫王墓にある4体の内3体は両面石(石の両面に彫刻がなされています)ですが吉備姫王墓も宮内庁管轄ですので中に入れませんので残念ながら観光客には裏面は見えません。 飛鳥資料館前庭のレプリカでしっかり見てください。  参考リンクページには、背面の写真もあります。

 猿石は、北から女・山王権現・僧・男と呼ばれています。

  ( 参考 飛鳥の石造物 猿石 )

 江戸時代に掘り出された田んぼのすぐ近くにある平田キタガワ遺跡(飛鳥時代中頃の庭園施設と考えられる遺跡)に設置されていたとする見解も有力です。 高取町のお寺に引き取られたという石造物は、人頭石または顔石と呼ばれています。 また高取城に置かれた猿石も、築城の際に持ち運ばれた一連の石造物と思われ、飛鳥時代には同じ所に置かれていた物だと思われます。

  ( 参考 両槻会第二回定例会 埋もれた古代を訪ねる  猿石  平田キタガワ遺跡



高取城の猿石


高取町土佐光栄寺の人頭石(顔石)




問62  伝承では、亀石が西を向くと、大和盆地は泥の海と化すと伝えられていますが、
      現在、亀石はどの方向を向いているでしょうか。

      1: 西     2: 北東     3: 南西    4: 南

大字川原と野口の境にある重さ40トンもある大型の石造物です。伝承では昔、飛鳥が未だ湖だったころ川原のナマズと対岸の当麻のヘビが喧嘩をしてナマズが負けてしまい湖の水は当麻に取られ川原はすっかり干上がってしまいます。 

 湖が干上がったために多くの亀が死んでしまいます。最初川原の人々はその供養にこの亀を自分たちに向けて即ち、東に向けて作ったとされています。ところがヘビへの恨みか亀は徐々に西方にある当麻の方向を睨みつけていき今では南西方向まで来ています。

 川原寺や橘寺の結界石とする説や平田キタガワ遺跡に置こうとした石造物の一つとする説などがあります。



問63  かつて明日香村がロケ地となった映画・テレビドラマのタイトルのうち、間違ってい
      るのはどれでしょうか。

      1: 本陣殺人事件     2: あすか
      3: 春の雪         4: 大化改新    

 「本陣殺人事件」は、1975年・ 横溝正史原作・中尾彬 田村高廣他・明日香村某氏宅
 「あすか」は、1999年・NHK連続テレビ小説シリーズのテレビドラマ。(朝ドラ)
 「春の雪」は、2005年・三島由紀夫原作・妻夫木聡 竹内結子他・円照寺(奈良市)
 「大化改新」は、2005年・古代史ドラマスペシャル・岡田准一 渡辺篤郎・明日香村栗原   には、今もロケ地が公園化されて残っています。

 三島由紀夫の「春の雪」は、四部作「豊饒の海」の中の一つ。 「豊饒の海」は、三島由紀夫のライフワークといわれ絶筆となった長編小説で、「春の雪」・「奔馬」・「暁の寺」・「天人五衰」の四巻からなる夢と転生をテーマとした大長編小説です。


 古代史ドラマ「大化改新」ロケ現場。 
桜が植えられ、公園化されつつあります。
栗原と稲渕棚田を結ぶ農免道路沿いにあります。




問64  藤原鎌足の産湯の井戸と伝承される井戸はどこにあるしょうか。

     1: 小原    2: 八釣    3: 上    4: 稲渕
     
 ヒントは、この井戸のある場所は「大原神社」の裏手です。「大原神社」は飛鳥坐神社から東へ40mほど行ったところにあります。ここの井戸は昔、藤木の側にあったのでその場所を「藤井」と呼ばれていました。その周りの原っぱを「藤井の原」、それが訛って「藤原」となり鎌足は天智天皇から「藤原」姓を賜ったと言われています。問題の1から4で「おおはら」と読めるのは1だけです。

 天武天皇の夫人となった鎌足の娘は、この辺りに住まいして藤原夫人あるいは大原大刀自(おおはらのおおとじ)とも呼ばれました。万葉集 巻2−103・104の歌でも詠まれ、大原神社前には万葉歌碑も建てられています。

 鎌足の誕生伝承が正しいとすると、鎌足は大原で推古天皇22年(614)に生まれたことになります。 
 ただ、鎌足の誕生地には、諸説あるようで確たるものはありません。 平安時代後期の作である「大鏡」は、鎌足の生地を鹿島神宮のある常陸の鹿島であるとしています。 この説が重んじられてきたようですが、中臣氏の出自を立派なものとするために書かれたものとも思えます。

 小原には、大伴夫人の墓とされる小円墳様の塚がありますが、大伴夫人というのは、大伴咋(おおとものくい 子供に壬申将軍 大伴馬来田・吹負など)の娘・智仙娘(ちせんのいらつめ)のことで、中臣御食子(なかとみのみけこ)との間に鎌足を生んだ人です。

 『藤氏家伝』という書物には、鎌足の長子定恵(じょうえ)が亡くなった地として「大原殿」と記しており、また時代は下りますが奈良時代の藤原四兄弟として知られる武智麻呂の誕生地を「大原の邸」と記しています。これらのことから、藤原氏の邸が小原にあったのは間違いの無いように思います。
 
 最近の発掘調査で話題になった竹田遺跡も、鎌足の娘である五百重娘を母に持つ新田部皇子の邸宅跡だと推測されました。 小原とこの八釣は至近な距離にあり、一族の土地であったのかもしれません。
そのように考えると、小原が鎌足生誕地である可能性も高くなるようにも思えます。


 現大原神社の東側には、明治まで大原寺(藤原寺 とうげんじ)というお寺が在ったようで、鎌足誕生堂とも呼ばれていたとの伝えもあります。 本居宣長の書「菅笠日記」にもこの寺に立ち寄ったことが書かれています。

  ( 参考  飛鳥・万葉の地 大原 )

  現在の地名では「小原」、歴史的地名としては「大原」と書き表すのが一般的です。



問65  西飛鳥の真弓・佐田の丘陵には、たくさんの古墳が在ります。束明神古墳もその
      一つです。この古墳には、誰が葬られているとされているでしょうか。

      1: 大津皇子 (二上山・鳥谷口古墳)  
      2: 藤原鎌足 (阿武山・御破裂山)
      3: 草壁皇子  
      4: 高市皇子 (広陵町付近か)

 束明神古墳(つかみょうじんこふん)は、佐田集落の奥にある春日神社の境内にあります。墳墓調査で6本の歯が見つかっており推定年齢28歳と言うことですので問題の人物の没年を見ますと、大津皇子23歳、鎌足55歳 高市皇子43歳 草壁皇子28歳で草壁皇子にぴたりと当てはまります。 

 因みに大津皇子の墓は二上山に移したとの記事から二上山に(他説もあります)、
鎌足の墓は御破裂山山頂の古墳か茨木市の阿武山古墳が有力です。 
草壁皇子の兄である高市皇子の墓は奈良県広陵町にある見立山だとされている三立岡墓が有望視されていますが、中には高松塚がそうではないかと言った議論も出ています。 

 束明神古墳は、地元の人から昔から草壁皇子の墓だと言い伝えられてきたものです。




佐田春日神社奉納額

 束明神古墳の付近には、宮内庁が管理する岡宮天皇陵が在ります。 岡宮天皇というのは、草壁皇子の死後に贈られた称号です。息子である文武天皇が即位したことによると思われます。 このような例はもう一つあり、光仁天皇(こうにん)の父親である志貴皇子(しきのみこ 天武の子)は、春日宮天皇と追号されました。

 鎌足墓に関しては、摂津阿武山古墳に葬られた後、長男の定慧によって改葬または分骨されたとみるのが有力です。

 真弓・佐田丘陵に草壁皇子の古墳があるとされるのは、次にあげる万葉集歌もその要因になっています。

巻2−167 
 天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万
 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分ち 分ちし時に
 天照らす 日女の命 天をば 知らしめすと 葦原の
 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす
 神の命と 天雲の 八重かき別けて 神下し いませまつりし
 高照らす 日の御子は 明日香の 清御原の宮に 神ながら
 太敷きまして すめろきの 敷きます国と 天の原 岩戸を開き
 神上がり 上がりいましぬ 我が大君 皇子の命の 天の下
 知らしめす世は 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと
 天の下 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水
 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に
 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に
 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人
 ゆくへ知らずも
 (日並皇子尊の殯宮の時に、柿本人麻呂が作る歌…長歌)

 大意】 天地の初めの神々が集い分かち天照大神現れこの地を治められた昔。
 その日の御子として飛鳥の宮に神のごとく治められようとした皇子
 天武天皇・持統天皇とも)は、天の岩戸を開いて神上がりお隠れになった。
 我が君の皇子が治められる世は、貴く素晴らしいと皆が頼りにしていたのに、
 何を思われてかこんな真弓の岡に太い柱(殯宮の柱)を立てることになり、
 朝のお言葉もなく月日も重ね皇子の宮人たちは途方にくれている。

巻2−174 外に見し真弓の岡も君座せば常つ御門と侍宿するかも
 意訳】 関係ないと見ていた真弓の丘も、君がいらっしゃるのなら、永遠の御殿と思いお仕
 えしよう。
   
巻2−177 
 朝日照る佐田の岡辺に群れ居つつ我が泣く涙やむ時もなし
 意訳】 (朝日が照り映える)佐田の岡辺りに皆と居れば私の泣く涙の止まることもない。

巻2−179 
 橘の島の宮には飽かねかも佐田の岡辺に侍宿しに行く
 意訳 】橘の島の宮に飽きた(満足しつくした)わけではないけれども、佐田の丘辺りにお       仕えに行こう。

巻2−182 
 鳥座立て飼ひし雁の子巣立ちなば真弓の岡に飛び帰り来ね
 意訳】 鳥小屋を作って飼っていた雁の子よ。巣立ったのなら、(今度は)真弓の丘に飛ん      で帰って来い。

巻2−187 
 つれもなき佐田の岡辺に帰り居ば島の御階に誰れか住まはむ
 意訳】 縁もゆかりもなかった佐田の岡辺りに帰って居れば、島の宮には誰が居るのだろ     うか。

巻2−192 
朝日照る佐田の岡辺に鳴く鳥の夜哭きかへらふこの年のころを
 意訳】 (朝日に照り映える)佐田の岡近くで鳴く鳥のようにただ夜通し泣き暮らしたものだ     。この一年は。



問66  飛鳥にはたくさんの謎の石造物があります。次の内、現在も明日香村内にあるの
      はどれでしょうか。

     1: マラ石(祝戸)  2: 人頭石(高取町土佐)  3: 出水酒船石(京都私邸)
     4: 益田岩船(橿原市白橿町)

1.
 マラ石:国営飛鳥歴史公園祝戸地区入口付近にある高さ1mほどのこの石で、西にあるふぐり山と対を成すものと考えられています。
 現存する場所が、坂田寺域となりますので、あるいは坂田寺の結界石などであったのかも知れません。



2.
 人頭石:日本人離れした大きな顔の形をした石で頭頂部に穴があけられており現在高取町の光永寺というお寺の庭に飾られています。

 手水鉢として用いられていたため、追加工がされていますが、頭頂部の窪みは、製作時期から有ったのではないかとの指摘もなされています。

 ( 参考  高取町探検 )
 ( 参考  飛鳥の石造物 )


3.
 出水酒船石:大正5年に飛鳥川右岸の出水と言う地名の田んぼ(現在飛鳥京跡苑池遺跡)から見つかった用水施設のようなものですが、現在本物は京都の南禅寺近くにある個人の別荘宅にあります。

 レプリカが飛鳥資料館で見られます。岡の酒船石と区別されてこのような呼び名になっています。

飛鳥資料館前庭模造石造物
(奈良文化財研究所の掲載許可取得済み)


4. 益田岩船:橿原市白橿町5丁目の西、岩船山の頂上付近にある花崗岩の巨大石造物   で石棺を作ろうとしていたものが、製作途中ひびが入り失敗作となりそのまま放置された
  もののようです。 

   石槨が二つ横並びに作られようとしたように見え、近くにある牽牛子塚古墳を思い起こ
   させます。 斉明天皇の陵とする予定のものだったとの説もあります。
 
   ( 参考  益田岩船  牽牛子塚古墳 )



問67  重要文化財に指定され、塑像(土でできた仏像)としては日本最大の如意輪観音
      を本尊とするお寺はどこでしょうか。

    1: 飛鳥寺  2: 橘寺  3: 豊浦寺  4: 岡寺
 
 日本三大仏の一つです。銅製の東大寺の大仏さん、木製の長谷寺の十一面観音像、そしてこの岡寺の塑像の如意輪観音像が数えられています。

 寺伝によると弘法大師が日本・中国・インド三国の土を以って造り、それまで本尊とされてきた如意輪観世音菩薩 半跏思惟像を胎内に納め本尊としたとのことです。

 この他、飛鳥寺には通称飛鳥大仏と称する大仏さんがあり、法隆寺の釈迦三尊像に共通する鞍作鳥の様式があるため推古天皇時代の鞍作鳥の作と見る説が有力です。 
 飛鳥大仏も三尊仏であったようです。古代より残された台座に、脇侍を取り付けるホゾ穴が残っているようです。

  ( 参考  岡寺公式ホームページ内「岡寺ご本尊」 )



問68  次の神社の内で石舞台古墳より北にある神社はどれでしょうか。

     1: 飛鳥川上坐宇多須岐比売命神社  2: 飛鳥坐神社  
     3: 於美阿志神社              4: 加夜奈留美命神社

 
 これは地図を見ていただくしかありません。石舞台より北には天香具山があります。その間にある神社は飛鳥坐神社です。   
                       
 飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社(あすかかわかみにます   うすたきひめのみこと じんじゃ)は稲渕、
 於美阿志神社(おみあし じんじゃ)は檜前、
 加夜奈留美命神社(かやなるみ じんじゃ)は栢森にありま   す。

 飛鳥坐神社は、飛鳥神奈備を移した鳥形山にあります。(天長6年(829)) 元の飛鳥神奈備が何処にあったかは明確ではありませんが、祝戸のミハ山・フグリ山とする説が有力なようです。

於美阿志神社 加夜奈留美命神社 宇多須岐比売命神社


  ( 地図参照 )



問69  古代米を利用したおみやげ物も多数ありますが、明日香村で売られている古代米      として実際に無いものはどれでしょうか。

      1: 緑米    2: 黒米   3: 藍米   4: 赤米

 古代米といわれる品種には赤米や黒米などカラフルなものが多く普通のお米と比べて生命力が強いのが特徴です。飛鳥を訪れると石舞台側の茶店等で実際に古代米を買ったり味わえたりします。

 緑米はもち米の一種ですが歴史は古く縄文時代には既に栽培されていました。
 黒米は、中国で古くから薬膳料理に使われていたお米です。 
 赤米はお赤飯のルーツとも言われる目出度いお米です。

 他にも、黄米(鈴稲)や紫(紫大黒)米などもあるようです。 古代米としては、色の名前を付けたものが多く、この検定を行っている時点で藍と名づけられた古代米が絶対無いとは断言できません。 ですから、藍米は曖昧に掛けたしゃれです。(^^ゞ
 明日香村では間違いなく売っていません。



問70  明日香村にある石像物の中で、昔、石屋が鑿を当てると石の割れ目から血が流れ
      出したと伝えられる「神宿る石」とはどれでしょう。

      1: 弥勒石   (岡・飛鳥川畔)  
      2: 岡の立石 (岡寺北の山中) 
       3: くつな石  (阪田)
      4: 乳母石   (立部・定林寺)

 この石の由来については、その昔、ある山(阪田の集落の近くの山ですが)に巨大な石があったそうでこれに目をつけた石屋がこの石を切り出そうとして、鑿(ノミ)で一打すると、石の割れ目から赤い血が流れ出し、傷ついた白いヘビが現れたそうです。
 それを見た石屋はびっくりして逃げ帰ったんですが、その夜から高熱にうなされ、亡くなってしまったそうです。そのことを聞いた村人達は、これは「ヘビの祟り」と恐れ、それ以来、神の宿る石として祀っています。ということでヘビのことを昔何と呼んでいたかを知っていれば分かる問題です。

 ヘビのことを朽ちた縄に似ていることから「くちなわ」と呼ばれていました。それが訛ると「くちな」→「くつな」となります。 

 石舞台公園の東側にある都橋の南側に、くつな石の道標があり、阪田集落の東奥の山中に「くつな石」があります。

弥勒石 岡立石 くつな石 乳母石


  ( 参考  飛鳥謎の石造物 )

 なお、2007年6月現在、岡立石への山道は、危険だとして通行止めになっています。



問71  全国棚田百選にも選ばれ、秋には彼岸花祭りが行われる棚田はどこにあるでしょ
      うか。

      1: 細川    2: 阪田    3: 栗原   4: 稲渕
 
 原則的には、飛鳥では何処へ行っても多少の彼岸花は見られます。でもここでは「全国棚田百選に選ばれた」と言う項目に注意していただくとやはりこれは「稲渕」しかないということになります。 

 彼岸花祭りには、稲渕の案山子ロードに創作案山子が立ち並び、たくさんの観光客を集めています。 最近ではマスコミでも報道される機会が多く、ますます賑やかな催しとなっています。 

 第四回定例会では、その喧騒を避けて、一週間前に案山子を見学しようと思っています。



問72  八釣集落の外れに、近飛鳥宮跡とも伝承される弘計皇子神社があります。
      この神社に祀られる近飛鳥宮を宮殿にされていた天皇はだれでしょうか。

     1: 顕宗天皇   2: 仁賢天皇   3: 履中天皇   4: 仁徳天皇 

 近飛鳥宮跡は八釣の外れですが、近い遠いと言う表現は難波から見て遠い近いと言う表現をしたもので遠飛鳥宮(允恭天皇)と言うのもあります。 

 また、別の見解では時の流れの近い遠いと解釈する説もあるようです。 これら古い宮の所在地は、伝承の域を出ないものがほとんどです。 


 問題の各天皇の宮とされた所は次の通りです。
 (日本書紀の表記によります)


   1. 顕宗天皇: 近飛鳥八釣宮   (けんぞうてんのう : ちかつあすかやつりのみや)  
   2. 仁賢天皇: 石上広高宮    (にんけんてんのう :  いそのかみひろたかのみや)
   3. 履中天皇: 磐余稚桜宮    (りちゅてんのう :    いわれわかざくらのみや)
   4. 仁徳天皇: 難波高津宮    (にんとくてんのう :   なにわたかつのみや)

 距離を中心に考察すると、近飛鳥宮は河内飛鳥(大阪府羽曳野市)が推定でき (河内飛鳥に「八釣」という地名があるかどうかは分かりませんが)、允恭天皇の遠飛鳥宮が奈良の飛鳥ということになります。 

  ( 参考  飛鳥の宮 飛鳥時代以前の飛鳥の諸宮 ・ 遠飛鳥宮 ・ 近飛鳥宮 )



問73  聖徳太子が生まれたとの伝承を持つ地に建てられたお寺は、どれでしょうか。

     1: 橘寺   2: 岡寺   3: 飛鳥寺   4: 豊浦寺

 敏達3年(574年)、欽明天皇の離宮のあった現橘寺付近で聖徳太子が誕生されました。用明天皇に愛されたといわれ、少年期から青年期にかけては、用明天皇の磐余池辺宮(いわれいけべのみや)の南にあった上宮で過ごしたとされます。 桜井市上之宮の発掘調査で、掘立柱建物跡と排水溝、園池遺構を含む住居跡が見つかり。ここが上宮ではないかとの説もあります。

 橘寺は、太子建立七大寺の1つとされ、東を正面とした四天王寺式伽藍の壮大なお寺であったことが、発掘調査によって確認されています。 境内には、聖徳太子の事跡を伝えるものと共に、飛鳥の謎の石「二面石」も置かれています。

 太子誕生地については、桜井市上之宮説もあります。

・「日本書紀」680年(天武9)・・・・橘寺尼房を失火し、もって十房を焚く。
・「法隆寺伽藍縁起ナラビニ流記資材帳」(天平19年編纂・・・・書き出しに橘尼寺の名
・大阪野中寺弥勒菩薩銘文(666年造)
『丙寅年四月大旧八日癸卯開記。栢寺智識之等、詣中宮天皇大御身勞坐之時、誓願之奉弥 勒御像也。 友等人數一百十八、 是依六道四生人等、此教可相之也。』
・・・・の「柏寺」を橘寺とすると(橘寺建立は)それ以前。

 飛鳥寺創建瓦と同様式の出土瓦が敷地内で少数あり。使用瓦と断定するに至らず。
 現在、最古とされる使用瓦は、川原寺式。
 7世紀前半から長期にわたる造営か?(瓦葺でない場合も含み。)




問74  飛鳥には、龍蓋池という池があり、その底に井戸があります。井戸には大きな石で
      蓋がされています。この蓋を開けて雨乞い祈願をすると、井戸の中にいる龍が天
      に昇って雨を降らせるという伝承があります。 さて、この龍蓋池の井戸は、どこに
      あるでしょうか。

    1: 橘寺境内                     2: 於美阿志神社境内  
    3: 飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社境内   4: 岡寺境内

 明日香村に大雨を降らせて暴れまわる龍が1匹住んでいて、悪い事ばかりをするので里人が困っていたところ、「岡寺」の義淵和尚(ぎえん)が法力で龍を捕らえて、池に封じ込め、石に「阿」の字を書いて蓋をした。以後、お寺の名をこれに因んで「龍蓋寺 りゅうがいじ」と称するようになった。
 この竜神(水神信仰)説話と雨乞いの習俗が結びつき、いつしか設問の伝承が生まれたのではないかと考えられます。
 池は、本堂前あります。 岡寺の別名・龍蓋寺は、この伝承を踏まえてのものです。



問75  発見当時、飛鳥美人で話題となった高松塚古墳の人物群像ですが、
      石槨内に描かれた人物は男女何人でしょうか。

     1: 東壁に女子4人、西壁に男子3人
     2: 西壁に男子4人、東壁に女子3人
     3: 東壁に男子3人、西壁に女子4人
     4: 東壁西壁ともに、男子4人女子4人

 これは見て頂くしかありません。東西壁に夫々男女4名が描かれています。何故4名なのかはっきりしたことは分かっていません。何故東西南北の壁画に四神獣と合わせて描かれなかったのか色々疑問は尽きません。



問76  飛鳥への入口となる近鉄線の駅のうち、かつて駅名が橘寺となっていた駅はどれ
      でしょう。

     1: 壺阪山駅   2: 飛鳥駅   3: 岡寺駅   4: 橿原神宮前駅

 これは年配の方、或いは近鉄にお勤めの方ならご存知かと思われますが、橘寺駅が飛鳥駅に名称変更されたのは1970年(昭和45年) 8月1日のことです。因みに現在の飛鳥駅は1929年(昭和4年)3月31日に吉野鉄道「橘駅」として開業しました。



問77  次の内、国の史跡指定を受けていないものはどれでしょうか。

     1: 定林寺  2: 飛鳥稲淵宮殿跡  3: 坂田寺跡  4: 岡寺跡

 明日香村には、たくさんの国の史跡指定を受けた歴史遺産があります。 
石舞台古墳・高松塚古墳・キトラ古墳・川原寺跡・大官大寺跡・牽牛子塚古墳・中尾山古墳・酒船石遺跡・定林寺跡・飛鳥寺跡・橘寺旧境内地・岩屋山古墳・伝飛鳥板蓋宮跡・飛鳥水落遺跡・飛鳥稲淵宮殿跡・マルコ山古墳・飛鳥池工房遺跡・檜隈寺跡・飛鳥京跡苑池・岡寺跡
 この他にも、周辺飛鳥地域には、山田寺跡・藤原宮跡・本薬師寺跡・植山古墳・丸山古墳・ 菖蒲池古墳・藤原京朱雀大路跡などがあります。  太字は特別史跡指定。


  ( 参考  坂田寺跡 )



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