両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


第22回定例会資料集


瓦を楽しく学んでみよう!

-瓦の見方教えます-



   
  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
藤原京条坊外略図 本薬師寺 小山廃寺 大官大寺 関連年表 参考史料
用語一覧 軒瓦の部分名称 瓦の製作 模式図 蓮弁の形態 塔 相輪の各部名称 事前散策マップ
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この色の文字はリンクしています。

藤原京条坊外略図



京域は大藤原京説の条坊域の中心部分を描いていますが、条坊名は岸俊男先生の説に従っています。
また、資料内の条坊呼称も岸俊男先生の説に従っています。

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 本薬師寺

 藤原京八条大路に面し、中門と講堂を結ぶ回廊内に南から東西両塔、金堂と並ぶ古代日本初の双塔伽藍になります。薬師寺式と言われるこの伽藍配置は、その後平城寺院へと受けつがれていくことになります。


本薬師寺遺構図
 創建は、天武天皇の発願による天武9(680)年だとされ、「日本書紀」や平城薬師寺の「東塔檫銘」などにその記録が残っています。
 これまでに、金堂や両塔周辺、中門、南面回廊、その他にも小規模の発掘調査が幾度か行われ、1993年の調査では、中門の真下から藤原京西三坊坊間路が検出されました。これは、藤原京の造営開始時期を考えるうえでの重要な発見となりました。

 堂宇は、金堂が最初に着手され、その後東塔や中門、南面回廊が建てられ、平城薬師寺の創建瓦が使用された西塔だけが、他の堂宇よりかなり遅れて建てられたと出土した瓦から推定されています。

 本薬師寺は、天武天皇のために無遮大会が行われたとされる持統2(688)年には勿論、造営がほぼ終わり僧が住み始めたとある文武2(698)年の段階(年表参照)においても、西塔が完成していたとは考え難く、堂宇全ての造営が完了するまでには、かなりの歳月を要したと思われます。

 「続日本紀」養老2(718)年に、薬師寺は平城京六条二坊に移されたとの記事がみられますが、飛鳥寺が本元興寺として飛鳥に残ったのと同じく、薬師寺も本薬師寺として残され、その後も平城薬師寺から瓦の供給を受けて建物の維持管理がされていたことが発掘調査などで裏付けられています。

 平安中期の万寿2(1025)年には、源経頼が本薬師寺に宿泊した記録(「左経記」)があり、寺院の存在が確かめられます。が、嘉保2(1095)年には、平城薬師寺の僧侶が塔の舎利三粒を掘り出したことが「中右記」に記されてあるそうです。発掘調査から、東塔は10世紀前半頃に廃絶していたと推定されています。舎利を掘り出す為に、平城から僧がわざわざ出向いたのは、本薬師寺に然るべき寺住の僧が居なかったということになるのでしょうか。東塔の廃絶から約100年、この時すでに本薬師寺は寺としての機能を失っていたのかもしれません。

 本薬師寺は、配置は勿論金堂や塔はその規模も平城薬師寺とはほぼ同じだとされています。これは、遷都に伴って平城京右京六条二坊に建てられた平城薬師寺が、本薬師寺の姿をできるだけ踏襲しようとした証ともいえるでしょう。


本薬師寺 東塔心礎
 ただ、本薬師寺の方が中門の規模も小さく回廊も単廊であったこと、舎利を納める塔が本薬師寺では東塔に、平城薬師寺では西塔になっているなど幾つかの相違もみられます。

 両寺の伽藍に見られるこれらの相違点は、平城遷都に伴う完全移築がなかったことを裏付ける結果ともなっています。

 藤原京右京八条三坊の四町を占めたとされている本薬師寺ですが、「薬師寺縁起」に残る奈良時代の流記には、「四坊塔金堂 并 僧坊等院、二坊大衆院 以上本寺」とあり、この記事は、本薬師寺が塔・金堂などの主要伽藍で四町、大衆院(寺院生活を営むための施設)で二町の計六町を所有していたと読めるのだそうです。この古記録をどこまで信じるかという問題になりますが、本薬師寺は、跡地の北方が住宅地である為に、寺域全体に及ぶ本格的な発掘調査が難しくなっています。


藤原宮式軒丸瓦
 本薬師寺が発願された680年頃を契機に、軒瓦の瓦当文様が新たな変化をみせます。

 本薬師寺の軒丸瓦外区が二分割され、それぞれに文様(珠文鋸歯文)を施すようになります。また、軒平瓦では、数条の弧が施されただけの重弧文から、こちらも瓦当面が区分されてそれぞれに文様(珠文や鋸歯文と唐草文)が施されるようになります。この形式の軒丸瓦・軒平瓦を藤原宮式と呼びます。

 先にも書いたように本薬師寺の中門跡の下層から、藤原京の先行条坊路である西三坊坊間路の痕跡も検出されていますし、寺域南西角では、西三坊大路と八条大路の交差点と西三坊大路側溝、そしてその下層ではそれに先行する溝が検出されています。瓦に加え、これら条坊路の痕跡の前後関係を考え整理して行けば、本薬師寺の創建時期や藤原京造営の全体像が浮かび上がってくるのかもしれません。(飛鳥遊訪マガジン77号・81号・86号で「藤原宮発掘調査成果から藤原宮の造瓦を考える①~③」として、ゆきさんが条坊路と瓦の関係をご紹介くださっています。)


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 小山廃寺(紀寺跡)

 藤原京八条大路に面し、藤原京左京八条二坊の四町分の寺域を持つとされています。

小山廃寺遺構図
 紀寺は、「続日本紀」の天平宝字8(764)年に、紀寺に属する奴婢が身分回復を訴えたという記事(年表参照)がみえるだけで、創建などについては一切不明です。

 文政12(1829)年に書かれた「卯花日記」に礎石が残っていたとあることや、東にある法然寺が元は紀寺の地蔵堂だったと言う伝承などを含めて、古くからこの地が寺跡だと認識されていたようです。また、天武朝で造高市大寺司に任じられ、没後壬申の乱の功臣として大錦上を贈られた紀臣堅麻呂の存在が一氏族でありながらも、藤原京内でも一等地であるこの地に氏寺を建立できた理由と長らく考えられていました。

 それには、跡地付近の字名が「キデラ」であることが、紀寺跡として史跡指定を受ける大きな要因となっているとも思えます。

 発掘調査により、中門と講堂を結ぶ回廊内に金堂を配し、その南西に幢竿遺構*と思われる柱根が二本検出されています。塔の遺構は未確認ですが、幢竿遺構の対称位置である金堂の南東に想定されています。また、南面大垣の南側で八条大路の北側溝が、東面大垣の東側で二坊大路の東西両側溝が検出され、寺域は藤原京の条坊と合致していることが判明しています。

 堂宇は、最初に金堂と講堂が造営され、その後中門・回廊と進み、南門は藤原宮の造営中に造営が開始されたことが出土した瓦から推定されています。


雷文縁複弁蓮華文軒丸瓦(飛鳥寺出土品)
(転用転載禁止)
明日香村埋蔵文化財室展示品
 瓦は、紀寺式と呼ばれる外区雷文が施された複弁蓮華文軒丸瓦になります。この軒丸瓦は、山背地域をはじめ地方の寺院に多く採用されている反面、紀氏の本拠地である紀ノ川沿いには見られません。

 また、これと組合う軒平瓦が川原寺と同様の重弧文であることから、軒平瓦に唐草文を採用した本薬師寺よりもその造営は早く、少なくとも676年頃には開始されていたと考えられています。

 紀寺跡は、藤原京内で本薬師寺とほぼ対称の位置であること、先にあげた瓦当文様やその伝播の仕方などの調査・研究が進むに従い、一氏族の氏寺であった可能性の低さが指摘されています。これらを受けて近年は、「小山廃寺」と呼ばれるようになってきています。

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 大官大寺跡


大官大寺遺構図
 橿原市南浦町から明日香村小山一帯に広がる大官大寺跡は、藤原京十条大路に面し、藤原京左京十条四坊の四町と九条四坊のうち二町の合計六町の寺域を持っていたと推定されています。

 建立にまつわる記録は、「日本書紀」や「大安寺縁起」に記されています。
 大官大寺は、古代日本初の天皇勅願の官寺として舒明11(639)年に百済宮とともに造営が開始された百済大寺の後身だとされています。

 舒明天皇発願で建立が開始された百済大寺は、天武2(673)年には高市大寺に、天武6(677)年には大官大寺に寺名が変更されたとあります。
そして、天武9(680)年には、「凡そ諸寺は、今後、国の大寺二、三を除いて、その他は官司の管理をやめる。・・・」の詔にみえる「国の大寺二、三…」の中には、大官大寺も含まれると考えられます。また、天武11(682)年には、大官大寺での140人余の僧の得度記事が見られることからも、大官大寺は680年頃には官寺として機能していたと思われます。

 また「続日本紀」には、大宝元(701)年に大安寺造営の役所と塔と丈六仏のための機関が置かれたこと、大宝2(702)年に造大安寺司が任命されたことなど(年表参照)、文武朝に入ってからも大官大寺造営に関わる記事が見えます。(「続日本紀」で平城遷都以前の記事にみえる大安寺は、大官大寺をさすと考えられています。)

 平城遷都の際には、改称して大安寺とされ新都に移転したとされていますが、「扶桑略記」には、和銅4(711)年に藤原宮とともに大官大寺が焼亡したと記されています。
 「大和名所記」など江戸時代の書物にも土壇や礎石が残ることが書かれてあり、明治22年に橿原神宮造営の際に資材として運びだされてしまうまでは、土壇上に多くの礎石が残っていたようです。

 伽藍は、南から中門・金堂・講堂が一直線に並び、回廊は、中門と金堂を結び、さらに北へ伸びて講堂の北面で閉じています。南門は未検出で、寺域を区画する塀も北と東西に規模の不揃いな掘立柱列が検出されているだけになります。
 塔跡は、金堂の南東で確認されている一基だけになりますが、確認された基壇は一辺約35mと巨大で九重塔に相応しい規模だとされています。金堂も9間4間と、これまでにない破格の規模になります。

 造営の時期としては、金堂の南北中心が藤原京左京九条大路と十条条間路の丁度真ん中に位置することや伽藍中軸線が東西坊間路と合致すること、出土した土器などから、早くとも持統朝末から文武朝初期で、天武朝までは遡り得ないとされています。また、金堂の周囲や中門付近では、焼土や焼け落ちて地面に突き刺さった屋根の部材などが検出されたことから、中門や塔、回廊は、造営途中で火災にあったことが判明し、扶桑略記にある和銅4(711)年の大官大寺焼亡の記事とも年代がほぼ一致することがわかっています。

 瓦は、大官大寺式と呼ばれる形式で、軒丸瓦(旧飛鳥資料館サイト内)は径20cmを測る大振りなものになります。
 軒平瓦の瓦当面を飾る唐草文は、藤原宮式とは違い、軒平瓦の中心にある飾りから、唐草文が左右に反転して広がっていく均整唐草文と言われるタイプになります。この文様形式は、この後平城京寺院へと受けつがれていきます。

 百済大寺、高市大寺、大官大寺、大安寺とその名を変えつつも、飛鳥時代から奈良時代まで存在したとされる国家第一の官寺は、まだまだ謎多き寺院です。

 最初の百済大寺は、近年吉備池廃寺が有力な候補地となっていますが、天武朝の高市大寺や大官大寺についての詳細は不明のままで、これらを小山廃寺にあてる説もあります。また、「扶桑略記」の藤原宮とともに焼亡した記事や平城への移転時期などを踏まえて、天武朝建立の大官大寺と文武朝建立の大官大寺の二寺が一時期並存していたとする説などもあります。

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 関連年表

西暦 年号 事   項
639 舒明 11 大宮と大寺(百済大寺)を造らせる
670 天智 9 庚午年籍作成
673 天武 2 美濃王、紀臣堅麻呂を高市大寺の造司に任ず
676     5 新城に都をつくらんとするも果たさず
677     6 高市大寺、名を大官大寺に改める(大安寺縁起
680     9 凡そ諸寺は、今後、国の大寺二、三を除いて、その他は官司の管理をやめる。
天皇、薬師寺建立を発願する
682     11 天皇、薬師寺をつくる(僧綱補任抄出七大寺年表
140余人を大官大寺で得度させた
683     12 天皇、京師を巡行す
684     13 天皇、京視を巡行し、宮室を定む
685     14 天皇不予のため大官大寺・飛鳥寺・川原寺で誦経
686 朱鳥 元 大官大寺で、観世音経の講説
天武天皇崩御
五寺(大官大寺・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田)で、無遮大会を行う
688 持統 2 薬師寺で無遮大会を行う
690     4 高市皇子、藤原宮をみる
天皇、公卿百寮を従え藤原宮地をみる
691     5 新益京を鎮祭す  新益京の宅地を班給
692     6 天皇、新益京の路をみる
天皇、講堂の阿弥陀仏繍帳をつくる(薬師寺縁起
藤原宮地を鎮祭す
693     7 造京司衣縫王らに詔し、掘り出した屍を収容せしむ
天皇、藤原宮に幸す
694     8 藤原遷都
697     11 公卿百寮、天皇の病気平癒のため仏像を発願、薬師寺において開眼供養
持統天皇譲位
697 文武 元 文武天皇即位
698     2 薬師寺の構作ほぼ終わり、衆僧を住せしむ
薬師寺講堂阿弥陀仏繍帳の開眼講師賞として僧・道昭を大僧都に任ず
僧綱補任抄出七大寺年表
701 大宝 元 大安寺で僧尼令を講説さす
波多朝臣牟胡閇・許曽部朝臣陽麻呂を造薬師寺司に任ず  
造大安寺・造薬師寺の二官を寮に准じ、造塔・造丈六(ともに大安寺)の二官は司に准ずる
702 高橋朝臣笠間を造大安寺司に任ず
持統太上天皇崩御。 四大寺(大官・薬師・元興・弘福)で斎会
703 故持統太上天皇のため、四大寺(大官・薬師・元興・弘福)で斎会
707 慶雲 4 文武天皇崩御
710 和銅 3 平城遷都
711 大官大寺並びに藤原宮焼亡(扶桑略記
716 霊亀 2 元興寺(大安寺の誤記?)を左京六条四坊に移す
718 養老 2 薬師寺を平城京六条二坊に移す
730 天平 2 (平城薬師寺)東塔を建てる(扶桑略記)
764 天保宝字 8 紀寺の奴ら、良民への身分回復を訴えでる
924 延長 2 薬師寺僧「希に本寺に下向す」
1015 長和 4 薬師寺縁起を撰す
1025 万寿 2 源経頼、本薬師寺に宿す(左経記
1095 嘉保 2 本薬師寺の塔跡から舎利を掘り起こす(中右記
1096 永長 元 前関白藤原師実、薬師寺にて本薬師寺より発掘の舎利を見る(中右記)
1098 承徳 2 藤原宗忠、本薬師寺より発掘の舎利を見る(中右記)
1106 嘉承 元 本薬師寺発掘の舎利を小塔婆に納む(七大寺日記
1812 文政 1 香久山法然寺とてきれいなる寺あり。…此寺にもうでて西に行く。田の中に大きなる礎石あり。此も塔の礎と見ゆ。(卯花日記

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 参考史料

東塔檫銘 東塔の相輪中心部の柱一番下に漢文で刻まれた薬師寺の創建と本尊造立の趣旨(東塔は、「扶桑略記」によると730年建立とある。)
 ・・・・・・・・・・
「東塔檫銘」
  維清原宮馭宇
  天皇即位八年庚辰之歳建子之月以
  中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕
  騰仙太上天皇奉遵前緒遂成斯業
  照先皇之弘誓光後帝之玄功道済郡
  生業傳劫式於高躅敢勒貞金
  其銘曰
  巍巍蕩蕩薬師如来大発誓願廣
  運慈哀猗與聖王仰延冥助爰
  餝靈宇荘厳御亭亭寶刹
  寂寂法城福崇億劫慶溢萬
  齢
卯花日記 津川長道の飛鳥地域の紀行文。文政12(1829)年。
大安寺縁起 大安寺伽藍并流記資材帳。天平19年(747年)作製された大安寺の記録。
僧綱補任抄出 推古から六条天皇の僧綱補任の年代記。
七大寺年表 天武天皇11年(682)の薬師寺建立より延暦21年(802)伝教大師渡海の勅許までの南都七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、西大寺、薬師寺、法隆寺)の諸僧の僧綱(そうごう)補任次第などを年代順に記す。奥書には永万元年(1165)書写とある。
薬師寺縁起 長和4(1015)年に編集された平城薬師寺の記録。奈良時代の流記資材帳から書き写されたと思われる部分を含む。
扶桑略記 平安時代の私撰歴史書。寛治8(1094)年以降に僧皇円が編纂(異説あり)。
神武天皇~堀河天皇の寛治8(1094)年3月2日までを仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記す。
左経記 源経頼の日記。長和5(1016)年から長元8(1035)年までの日記と、長元2年から長元9年までの凶事を記録した「類雑例」から構成される。
中右記 藤原宗忠の日記。寛治元(1087)年から保延4(1138)年。
10 七大寺日記 平安時代末期に南都七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・西大寺・薬師寺・法隆寺)などを巡礼した際の見聞記。嘉祥元(1106)年 大江親通の撰とされる。
11 大和名所記 江戸時代前期延宝9(1681)年。大和国全域の名所・旧跡を郡別に網羅。

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 用語一覧

語 句 読 み 意   味
鬼板 おにいた 板状の鬼瓦
改笵 かいはん 使用による劣化の為に瓦の型を補修・修正すること。珠点や輪郭など彫りなおしが行われる事が多い。
唐草文 からくさもん 滑らかな蔓を模った文様
 ・変形忍冬唐草文 へんけい・にんどう・からくさもん 幾何学的な蔓のような文様
 ・偏行唐草文瓦 へんこう・からくさもん 一方方向に転回する唐草文様
 ・均整唐草文 きんせい・からくさもん 中心から左右に転回する唐草文様
間弁 かんべん 蓮華紋の蓮弁の間の部分。楔形のものが多く、時折線状のものも見受けられる
外縁 がいえん 軒瓦瓦当外区の外側部分
外区 がいく 軒瓦瓦当の外周部分
瓦当 がとう 軒瓦が軒先に向ける文様を持つ部分
瓦当文様 がとう・もんよう 軒瓦の瓦当にある文様
瓦笵 がはん 瓦の形を取るための型
瓦窯 がよう 瓦を焼成するための窯
側柱 がわばしら 建物の外周りの柱
基壇 きだん 建物の外周りの柱建物などの基礎部分になる壇状の高まり
行基式 ぎょうき・しき 屋根に葺き上げるときの丸瓦同士のジョイント部分に造作のないもの。行基葺き
鋸歯文 きょしもん V字型(ノコギリの歯状)の文様の繰り返し
四天柱礎 してんちゅうそ 塔の心柱を囲む四本の柱のための礎石
珠文 しゅもん 連続する点(半円球)の文様の呼び名。
重弧文 じゅうこもん 数条の弧線の文様
子葉 しよう 蓮弁の中に施された小さめの花びらの呼称
玉縁式 たまぶち・しき 屋根に葺き上げるときの丸瓦同士のジョイント部分に段差のあるもの
単弁 たんべん 一枚の蓮弁*に子葉が一つの蓮華文
中房 ちゅうぼう 軒丸瓦の瓦当中央にある円
幢竿遺構 どうかん・いこう 幢(はた・幡)などを立てる支柱などの遺構
同笵瓦 どうはん・がわら 瓦当製作時の型(瓦笵)が同じ瓦
土壇 どだん 土で築かれた壇状の高まり
内区 ないく 軒瓦瓦当の内側部分
柱座 はしらざ 柱を立てるために礎石上面に作り出された平坦な部分
笵傷 はんしょう 瓦笵に付いた傷
複弁 ふくべん 一枚の蓮弁子葉が二つある蓮華文の形態
雷文 らいもん 稲妻を具象化したとされる文様
蓮子 れんし 中房内にある珠点
蓮弁 れんべん 軒丸瓦の瓦当内にある花びらの呼称

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 軒瓦の部分名称


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 瓦の製作 模式図


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 蓮弁の形態



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 塔 相輪の各部名称


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事前散策マップ




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  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
藤原京条坊外略図 本薬師寺 小山廃寺 大官大寺 関連年表 参考史料
用語一覧 軒瓦の部分名称 瓦の製作 模式図 蓮弁の形態 塔 相輪の各部名称 事前散策マップ
第21回定例会当日レポート 参加者アンケート集計ページ 両槻会

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ページ作成 両槻会事務局 もも ・ 風人

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瓦の画像は、
橿原考古学研究所附属博物館及び飛鳥資料館倶楽部(旧飛鳥資料館サイト)にリンクさせて頂いています。


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