両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第34回定例会


埋もれた古代を訪ねる3

-稲渕の棚田の謎に迫る-






散策用資料

作製:両槻会事務局
2012年9月15日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
事前散策ルート 坂田寺跡 飛び石
朝風峠(朝風千軒) 朝風廃寺 浅鍛冶地蔵尊
塚本古墳 稲渕宮殿遺跡 長屋王系図
竜福寺境内 竹野王石塔 銘文 「朝風」に関わる『長屋王家木簡』 「竹野皇女」に関わる『長屋王家木簡』
関連万葉集歌 ルートマップと周辺の小字 当日レポート
飛鳥咲読 両槻会


この色の文字はリンクしています。

事前散策ルート


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坂田寺跡

 坂田寺は、寺号を金剛寺といい坂田尼寺とも呼ばれます。鞍作氏の氏寺として建立され、飛鳥寺と並ぶ最古級の寺院と考えられています。
創建は、『扶桑略記』によると、継体16 (522)年に渡来した司馬達止が造った高市郡坂田原の草堂に由来するとされます。司馬達止の子の嶋は敏達13 (584)年、出家して善信尼と称し、我が国初の尼僧となっています。
 また『日本書紀』には、用明天皇2(587)年の条に、鞍作多須奈が天皇の為に発願した寺が坂田寺であるとする説や、推古天皇14(606)年に鞍作鳥(止利仏師)が、飛鳥寺に丈六の仏像を安置した褒美として与えられた近江国坂田郡の水田20町をもって建てたのが坂田寺であるとする説などがあります。

 『日本書紀』朱鳥元(686)年には、天武天皇の為の無遮大会を坂田寺で行ったことが記されており、五大寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺・坂田寺)の一つに数えられています。また、奈良時代には坂田寺の信勝尼が、経典を内裏に進上したことや東大寺大仏殿の東脇侍を献納したことも記録されています。伽藍は、10世紀後半に土砂崩れにより崩壊するものの、承安2(1172)年には多武峰の末寺になっていることが分かっています。

坂田寺 発掘調査遺構 概略図
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 発掘調査が行われていますが、現在までに検出された遺構のほとんどが奈良時代のもので、創建期の伽藍は未だ確認されていません。

 奈良時代の遺構としては、金堂または講堂と思われる仏堂と、それに取り付く回廊、その内側に二棟の基壇建物があり、西面回廊の外側に大規模な掘立柱建物が検出されています。

 仏堂には、須弥壇が残っており瑞雲八花鏡や灰釉小型双耳瓶、ハート型の水晶玉などの鎮壇具が出土しています。また北東の埋納土坑からも銅銭などの鎮壇具が出土しています。


飛鳥資料館収蔵品
転用・転載禁止

 奈良時代の坂田寺は、檜皮葺きだったと想定されていますが、単弁蓮華文軒丸瓦(坂田寺式)や手彫り唐草文軒平瓦などが(斜道付近を中心に)出土しています。7世紀前半の文様形態を呈したこれらの瓦は、奈良時代以前の坂田寺に使用されたと考えられます。
 坂田寺の考古資料に関しては、第30回定例会ネット版資料を御覧ください。


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飛び石


稲渕の飛び石

 万葉集に詠われる石橋(いわはし)は、このように川にポンポンと並べて置かれた石を指し、渡りやすいようにと表面が平らな石が選ばれて据え付けられているようです。以前は、明日香村内にも5~6ヶ所の飛び石が在ったとされていますが、現在、その痕跡を残すところは東橘などには在るものの、実際に渡れるものは、稲渕の1~2ヶ所だけになっているようです。


飛び石の名残り?(東橘)

 飛び石は、能の世界にも登場します。謡曲「飛鳥川」では、飛び石を舞台とした母子の再会が謡われています。飛鳥川が増水すると、飛び石は水没してしまいますし、流されてしまうこともあります。
飛び石は、人の出会いと別れを象徴する場所でもあったのでしょうか。


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朝風峠・(朝風千軒)

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 案山子ロードが最も高くなる位置付近に、「朝風」と呼ばれる小字があります。近年は、明日香村稲渕・平田を結ぶ「朝風峠」の名が知られます。現在、小字が残る場所は峠からやや北に逸れますが、古来この周辺一帯が「朝風」と呼ばれていたのではないかと考えられます。

 長屋王家木簡には「旦風」と書かれるものがあるのですが、同じく「あさかぜ」と読みます。「旦」は日の出を表す漢字ですから、訓読で「あさ」と読むのは頷けます。

  「旦風来人米一升」「□□」など。(朝風から来た人に米1升を支給した伝票木簡)

 また、稲渕の竜福寺境内にある竹野王石塔銘文には「朝風」の文字が刻まれています。


 朝風周辺には小字「せいさん」があり、元は朝風に在ったとされる南淵請安(しょうあん)の墓との関連も注目されます。

 飛鳥・奈良時代には、坂田寺の造寺活動以外には、あまり痕跡を残さなかった稲渕地区ですが、鎌倉時代には「朝風千軒」と呼ばれる集落が形成されてゆくようです。
鎌倉時代の後期になると、勢力を持った地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、これら旧制度が崩壊し始めました。こうした中で、水利権や水路・道路の修築、戦乱や盗賊からの自衛などのために、人々は地縁的な結合を強めます。畿内を中心に、それまでの田んぼの横に住居を作るという「家が散在する村」の形から、耕地と住居が分離して「住宅同士が集合する村落」へと、その形が変わって行きます。稲渕もまた、このような時代の流れの中で集落が形成されたものだと思われます。
竜福寺の発掘調査では、造成土中から13~14世紀の土師器・瓦器が出土していますが、稲渕集落の形成時期を裏付ける考古資料ではないかと考えられます。



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朝風廃寺

 稲渕の棚田の上方には、奈良時代創建の寺が存在していたようです。寺名が推測の域を出ないため、現在「朝風廃寺」と呼ばれています。お寺が存在したという根拠は、長屋王家木簡と竹野王石塔銘文にあります。

木簡例
(表) 「移 務所 立薦三枚 旦風悔過布施文右二種今急進」
(裏) 「大炊司女一人依斉会而召 遣仕丁刑部諸男 二月廿日家令」
(吉備内親王家から長屋王家に出した「移」(注1)で、立薦と旦風悔過布施文を急いで送れ、また大炊司の女一人を斎会のために召し出すための指示書)

・「旦風来人米一升」「□□」
・「竹野王子山寺遣雇人米二升□□□」「古万呂 十月八日口万呂家令」
 など

竹野王石塔銘文
「・・・・・号曰朝風南葬談武之峯北際□田之谷□安□之角・・・・・・・・・天平勝宝三年歳次辛卯四月廿四日丙子 従二位 竹野王」

 稲渕の竜福寺が室町時代に建てられたと考えられることから、朝風廃寺が移築前の創建「龍福寺」である可能性は高いと考えられます。龍福寺が義淵僧正創建の五龍寺の一つであれば、山寺でなければならず、現立地の古道(吉野を結ぶ主街道だった芋峠道)沿いに建立されることはないはずです。朝風に在って初めて、山寺の条件を満たすと考えられます。(現在のお寺を「竜福寺」、古代のお寺を「龍福寺」と書き分けました。)

注1:奈良時代には、文書の様式を定める公式令があり、「移」もそれに関する文字です。
「移」の他、「解」・「牒」・「符」があり、これらは、差出人と受取人との関係が、所管する側かされる側かどうかに関係します(上下関係)。「移」の場合は、両者の関係が、所管に関係ない、平行文書であることを示す。



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浅鍛冶地蔵尊

 明日香村大字栗原字浅鍛冶は、朝風廃寺の建立地候補として大脇潔先生が注目されている場所です。ここは「朝風」から南西約300mに位置しており、旧峠道が栗原へと繋がっていたようです。想定されるルート上には、若干の平坦地があり「浅鍛冶地蔵尊」が祀られています。
地蔵尊の前の平坦地は狭いのですが、崖崩れなどによる地形の変化もあったかも知れません。
また、多くの山寺は地形に合わせて堂宇を建てていますので、堂宇が離れて建てられるケースも多く有ります。決して平坦地の寺院のような伽藍配置を用いるわけではありませんので、現在の地形から早急な結論は出せないように思われます。




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塚本古墳 


 塚本古墳は、飛鳥川の左岸にほぼ南北に伸びる丘陵から南東方向に延びる尾根の先端を切断して築造された古墳です。古墳の規模は、発掘調査から、南北約39.5m東西39.0mの二段築成の方墳であったと考えられています。

塚本古墳現況

 石室は、一部切石を用いた両袖式の横穴式石室で、南東方向に開口しています。ダイナマイトや矢による損傷を受けて破壊されていますが、明治頃までは、玄門部より奥と、玄室や羨道の天井石の一部は残っていたようです。
石室の規模は、全長12.5m以上、玄室長は、東側壁で4.35m、西側壁で4.60m、玄室幅は奥壁で2.25m、玄室高は奥壁で2.80mになります。玄室床面の中央部分には、棺台が設置されていました。棺台の外側、石室の床面には5cm前後の小礫が厚さ15~20cmに及んで敷かれ、羨道床面は黄褐色粘質土の貼土が全面に施され、排水溝が掘削されていたようです。

 安置されていた石棺は、二上山の凝灰岩で作られた六突起の刳抜式家形石棺でしたが、玄門から羨道にかけて蓋のみが放置されていました。これは玄室の棺台から移動させられたもので、棺身は持ち去られたのでしょう。副葬品は、盗掘のためか残っていなかったそうです。
築造時期は、石室構造と出土遺物からみて7世紀前半であるとされ、石舞台古墳に近い時期と構造を持っていたと考えられています。


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稲渕宮殿遺跡

稲渕宮殿遺跡の現状
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遺構図
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 稲渕宮殿遺跡は、1977年の発掘調査で4棟のコの字型の建物跡と、それに囲まれた石敷きの広場が確認されています。建物は、主殿と東西に棟を揃えた2棟の脇殿が配置されていました。

 正殿(遺構図下部の建物)は4面に庇を持っており、規模は、桁行5間以上、梁行4間が確認され東西建物に復元されます。身舎の柱間は桁・梁行共に3m等間隔、庇は南北2.1m、東1.8mの出が確認されています。推定規模で正面24.6m ・奥行き10.2mの大きな建物になります。
脇殿(遺構図 右下部の建物)は、桁行2間以上、梁行4間以上の西側に庇を持つ南北建物と、右側上部の建物、桁行15間、梁行4間の西側に庇を持つ南北建物です。これらの脇殿の柱間は、図上部の建物(後殿)と同じ規格で建てられています。
また、石敷きは一辺が40cm前後の花崗岩の玉石を用いており、調査区の南に更に伸びていたと考えられます。

 稲渕宮殿遺跡の建物は柱筋が通っており、一定の規格をもとに整然と建てられたことが分かります。また、飛鳥の「宮」の特徴である人頭大の石敷きを伴っています。
さらに、東側の脇殿と考えられる南北建物と同一規格の建物が西側にも存在したと推定されることから、これら一連の建物は、4面庇の正殿を中心とした2重のコの字形を示すと考えられます。


稲渕遺跡群 位置図

 上図(稲渕遺跡群 位置図)を参照ください。稲渕地内遺跡群と書いています○印の辺りからは、バラス敷や同方位の柱穴群が確認され、この稲渕宮殿遺跡が南に関連施設を持つ大規模で特殊な建物群であったことが分かります。
 また、瓦類がほとんど出土しなかったことと合わせると、これらが「宮殿」的な施設であったことが推測されます。 

 同遺跡からは、7世紀中頃から後半のものと思われる土器と硯が出土しており、これらの建物は7世紀中頃に建造され7世紀末頃には廃絶したと考えられています。

 『日本書紀』の孝徳天皇 白雉4年の条には、「この歳、太子(中大兄皇子)は、倭京に移りたいと思いますと願ったが、天皇(孝徳天皇)はお許しにならなかった。すると皇太子は、皇祖母尊(皇極前天皇)と間人皇后とを奉じ、皇弟(大海人皇子)たちを従え、難波をたって倭飛鳥河辺行宮にお入りになった。公卿大夫や百官の人々も、みな太子に従って倭に移った」とあります。稲渕宮殿遺跡は、時期も、規模も、まさにこの飛鳥河辺行宮を示しているように思われます。

 行宮は仮の宮であって、皇極天皇が斉明天皇として、飛鳥板蓋宮で重祚するまでの1年余りの間存在したものと思われます。
なお、飛鳥河辺行宮の比定地は、他にも飛鳥寺の南や川原寺の付近など、数ヶ所の候補地があるようです。





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長屋王系図

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竜福寺境内 竹野王石塔 銘文

[東面]           [南面]           [西面]           [北面]
昔阿育□王八万四千  之峯北際□田之谷    □□□□□□□□   □□□□□□□□
塔遍□□造□□内    □安□之角□□□    □即□□□□□□   天平勝宝三年歳次
王年珍宝□□□□    □□之□□□□□    崇□□□□□曰□   辛卯四月廿四日丙
□□□□□□□□    □□□□□□□□    □□□□□□□□   子
□□□□□□□□    □□□□□□□□    □□□□□□□□   従二位 竹野王
其来尚年□□比□    □□□□□□□□    □之長□□□□□   
号曰朝風南葬談武    □□□□□□□□    臥□□□□□□□



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「朝風」に関わる『長屋王家木簡』

「旦風来人米一升」「□□」
「移 務所 立薦三枚 旦風悔過布施文右二種今急進」
「大炊司女一人依斉会而召 遣仕丁刑部諸男 二月廿日家令」


「竹野皇女」に関わる『長屋王家木簡』

「竹野王子大許進米三升 受稲積」「六日百嶋」
「竹野口子大許進米□□」
「竹野王子進□」「□」
「竹野王□」
「竹野皇子二取米三升 余女」
「竹野王子進米一升大津 八月三日 甥万呂 家令□」「吉佐良十目 □」
「竹野王子山寺遣雇人米二升□□□」「古万呂 十月八日口万呂家令」
「竹野」
「竹野王」  
「□女子 竹野王子宮」
「勇勇 年口 竹野王子宮 勇麻 □」
「□益女 竹野王宮」
「年十三 竹野王子宮」
「竹野王子宮」
「□野王□」
「□竹野」(
「竹野」
「竹野王子御所進粥米二升受老」「九日 萬呂」
「竹野王子御服粉米二升 受私部老 十二月廿四日稲虫」
「竹野王子御所進米一升 受大津」「十二月五日 廣嶋」
「竹野王子女医二目」「一升半受真木女」
「竹野王子口医一口既母万呂 □□飯米二升口 九月七日」
「竹野王子進米一升半受尾張女 三月十六日」
「進竹野王子御所米一升受古奈良女 九月廿七日石角」
「竹野王御口米一升 御所人給米三升七合五夕 □ □月十八日 □□」
「竹野王子御所米一升」



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関連万葉集歌

南淵・南淵山
07-1330 南淵の細川山に立つ檀弓束巻くまで人に知らえじ
09-1709 御食向ふ南淵山の巌には降りしはだれか消え残りたる
10-2206 まそ鏡南淵山は今日もかも白露置きて黄葉散るらむ

細川・細川山
07-1330 南淵の細川山に立つ檀弓束巻くまで人に知らえじ
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朝風
01-0075 宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに

飛鳥川(明日香川・明日香の川)
02-0194 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡かひし 嬬の命の たたなづく 柔肌すらを 剣太刀 身に添へ寝ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて 玉垂の 越智の大野の 朝露に 玉藻はひづち 夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝かもする 逢はぬ君故
02-0196 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥やせば 川藻のごとく 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へは 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし 敷栲の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 出でまして 遊びたまひし 御食向ふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ しかれかも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋づま 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰もる 心もあらず そこ故に 為むすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が大君の 形見かここを
02-0197 明日香川しがらみ渡し塞かませば進める水ものどにかあらまし
02-0198 明日香川明日だに見むと思へやも我大君の御名忘れせぬ
02-0325 明日香川川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに
02-0356 今日もかも明日香の川の夕さらずかはづ鳴く瀬のさやけくあるらむ
04-0626 君により言の繁きを故郷の明日香の川にみそぎしに行く
07-1126 年月も今だ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし
07-1366 明日香川七瀬の淀に棲む鳥も心あれこそ波立てざらめ
07-1379 絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあるごと人の見まくに
07-1380 明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに
08-1557 明日香川行き廻る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ
10-1878 今行きて聞くものにもが明日香川春雨降りてたぎつ瀬の音を
10-2210 明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし
11-2701 明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも
11-2702 明日香川水行きまさりいや日異に恋のまさらばありかつましじ
11-2713 明日香川行く瀬を早み早けむと待つらむ妹をこの日暮らしつ
12-2859 明日香川高川避きて来しものをまこと今夜は明けずも行かぬか
13-3227 葦原の 瑞穂の国に 手向けすと 天降りましけむ 五百万 千万神の 神代より 言ひ継ぎ来る 神なびの みもろの山は 春されば 春霞立つ 秋行けば 紅にほふ 神なびの みもろの神の 帯ばせる 明日香の川の 水脈早み 生しためかたき 石枕 苔生すまでに 新夜の 幸く通はむ 事計り 夢に見せこそ 剣太刀 斎ひ祭れる 神にしませば
13-3266 春されば 花咲ををり 秋づけば 丹のほにもみつ 味酒を 神奈備山の 帯にせる 明日香の川の 早き瀬に 生ふる玉藻の うち靡き 心は寄りて 朝露の 消なば消ぬべく 恋ひしくも しるくも逢へる 隠り妻かも
13-3267 明日香川瀬々の玉藻のうち靡き心は妹に寄りにけるかも
14-3544 あすか川下濁れるを知らずして背ななと二人さ寝て悔しも
14-3545 あすか川堰くと知りせばあまた夜も率寝て来ましを堰くと知りせば
19-4258 明日香川川門を清み後れ居て恋ふれば都いや遠そきぬ

石橋(飛び石)
02-0196 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥やせば 川藻のごとく 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へは 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし 敷栲の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 出でまして 遊びたまひし 御食向ふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ しかれかも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋づま 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰もる 心もあらず そこ故に 為むすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が大君の 形見かここを
04-0597 うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひわたるかも
07-1126 年月も今だ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし
10-2288 石橋の間々に生ひたるかほ花の花にしありけりありつつ見れば
11-2701 明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも

壱師(彼岸花)
11-2480 道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は

思ひ草(ナンバンギセル)
10-2270 道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何をか思はむ

秋の七草
08-1537 秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花
08-1538 萩の花尾花葛花なでしこの花おみなへしまた藤袴朝顔の花




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朝風峠(朝風千軒) 朝風廃寺 浅鍛冶地蔵尊
塚本古墳 稲渕宮殿遺跡 長屋王系図
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