飛鳥周辺部には、たくさんの古墳があります。しかし、稲渕の棚田には、古墳はほとんどありません。これも、不思議なことですね。
稲渕から始まる奥飛鳥は、飛鳥の大事な水源地であり、天皇が祭祀を行うような神聖な場所として認識されていたからでしょうか。後に用材の伐採を禁止しているような場所ですから、それ以前からも墓域とはされなかったのかも知れません。
そのような地に、一辺が39mほどの二段に築盛された方墳がありました。南北に続く丘陵から東に張り出した小さな尾根上に造られ、同様に張り出した尾根に抱き囲まれるような地形に在ります。石室は南東方向を向いており、発掘調査の結果、両袖式だとされています。
後に石取りによって破壊されたようですが、それまでにも盗掘にあっており、副葬品などは発見されていません。僅かに大型の家型石棺の存在を示すように、蓋部分が羨道近くに放置されていたようです。
塚本古墳の細かなデータは資料集に掲載しますので、咲読としては省略しますが、築造年代は石室の構造などから、石舞台古墳と同時期かやや後と考えられるそうです。
つまり、石舞台古墳を馬子の墓だとすると没したのは推古天皇34(626)年ですから、その頃亡くなった人物というと・・・。
特別な地域、大きな古墳、石舞台にも近いなどの条件を考えると、推古天皇36(628)年に亡くなった蘇我境部臣摩理勢などが被葬者候補と風人は考えるのですが、どうでしょうか。
明日は、皆さんと実物の古墳を見学しながら、考えてみたいと思います。いつもながらの長い咲読にお付き合い下さり、ありがとうございました。