両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第34回定例会(第1部)
埋もれた古代を訪ねる3-稲渕の棚田の謎に迫る-

Vol.139(12.8.3.発行)~Vol.143(12.9.14.発行)に掲載





【1】 (12.8.3.発行 Vol.139に掲載)     風人

 第34回定例会は、初秋の飛鳥を3部構成で目いっぱい楽しもうと企画しました。今号では、その第1部「埋もれた古代を訪ねる3-稲渕の棚田の謎に迫る-」の概要を紹介したいと思います。

 読者の大部分の方は、明日香村の稲渕に広がる棚田をご存じだと思います。棚田100選にも選ばれた段々畑で、秋の彼岸花や春の菜の花の頃には、たくさんの方が訪ねて来られます。TVでも紹介されることが、恒例になりましたね。

クリックで拡大します。

 今回の散策では、彼岸花の最盛期には1週間ばかり早いのですが、咲き始めた彼岸花と案山子まつりに出展された作品を楽しみながら、その棚田の秘められた歴史についても案内出来ればと思っています。

 訪ねるポイントは、坂田寺跡・飛び石・案山子ロード・朝風峠・浅鍛冶地蔵・塚本古墳・稲渕宮殿遺跡になります。(総距離約6km、若干のアップダウンがあります。) 説明の内容は、主に坂田寺・塚本古墳・朝風千軒・朝風廃寺・稲渕宮殿遺跡について話をする予定でいます。

クリックで拡大します。

 坂田寺については、第30回定例会で田辺征夫先生に講演をしていただきましたので皆さんも良くご存じですが、今回は復習として再び現地で案内をしたいと思っています。
(参考:第30回定例会参考資料第30回定例会レポート第30回定例会用 咲読

 皆さんは、塚本古墳はご存知でしょうか。そうと知ると石舞台から稲渕に向かう道路からも墳丘を復元出来る程度に見えるのですが、うっかりすると棚田の中に溶け込んでしまい全く気付かずに過ぎてしまいます。

塚本古墳遠望
クリックで拡大します。

 写真中央部に破壊された石室の一部が写っています。詳細につきましては次号以降に書きたいと思っていますが、一辺が約39mの二段に築成された方墳であることが発掘調査で判明しています。石室は、東壁と奥壁の一部が残るだけで、石取りによって持ち去られているようです。奥壁などには、酒船石や鬼の俎板などにも見られる石を割るための矢型が残っています。7世紀の前半の築造だとされ、石舞台からそう遠くないことや墳丘が方形であることなどから、蘇我氏の系譜を引く者が埋葬されていたのではないかと考えられそうです。

 もう一つ、皆さんがあまりご存じないと思われる歴史ポイントがあります。それが朝風という地名に関わる事柄になります。朝風廃寺(朝風にあった山寺)に関連する記事や話を、見聞きされた方はおられるでしょうか。ネット検索をしますと、私が書いた自ブログの与太話と両槻会関連記事しか掛かりません。(^^ゞ 今回の散策では、竜福寺竹野王石塔や朝風という地名に関連して話をさせていただこうと思っています。咲読でも、号を改めて若干の説明をする予定です。また、散策では、朝風廃寺の候補地の一つとされる浅鍛冶地蔵尊にも足を向けたいと思っています。

 今回は棚田をゆっくり周回するのですが、最後は稲渕宮殿遺跡に立ち寄り、石舞台に戻ることにしました。あっ! その前に食事でした。(^^ゞ
 忘れては叱られますね。(笑) 予定では、少し遅い時間になりますが、歴史公園祝戸地区の芝生広場の木陰を使って昼食にすることにしました。

 6km程度ですので、通常なら1時間30分程度で歩けるのですが、今回は、彼岸花や案山子も楽しんでいただきたく思いますので、3時間45分の時間を取っています。

 第34回定例会は、初めに書きましたように3部構成で企画をしています。第2部以降は、飛鳥光の回廊 飛鳥資料館会場のボランティアとして活動をしたいと思っています。今年の飛鳥資料館会場は、例年にない大規模で斬新な光のイベントになりますので、是非ご協力をいただき、ご一緒に光のイベントに参加してワイワイと楽しみましょう♪ 



【2】 (12.8.17.発行 Vol.140に掲載)     

 第34回定例会の第一部「埋もれた古代を訪ねる -稲渕の棚田の謎に迫る-」の咲読2回目です。

 唐突な書き出しですが、奥飛鳥の入口にある稲渕の集落は、いつ頃形成されたのでしょう。稲渕の棚田の景観は、いつ頃造られたものなのでしょうか。男綱の勧請綱掛神事は、いつ頃から続けられているのでしょうか。これらは、飛鳥時代から連綿と続いてきたものなのでしょうか。今号では、その辺りに触れてみたいと思います。

 稲渕には南淵靖安墓があり、いわゆる大化改新の時には中大兄皇子と中臣鎌足が轡を並べて師の下に通う道中、蘇我氏を討つ計画を練ったと伝えられますので、飛鳥時代も稲渕に集落や少なくとも南淵靖安の邸宅があったと考えがちです。しかし、どうも違うようです。

 風人の守備範囲ではありませんので詳しくは知らないのですが、鎌倉時代の後期には、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、従来の荘園や公領制が崩壊し始めました。こうした中で、水利権や水路・道路の修築、戦乱や盗賊からの自衛などのために、人々は地縁的な結合を強めます。畿内を中心に、それまでの田んぼの横に住居を作るという「家が散在する村」の形から、耕地と住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていったようです。このような村落は、惣村(そうそん)、または惣と呼ばれます。

 稲渕の集落も、このような時代の流れの中で形成されたものだと思われます。このことを裏付ける考古資料があります。それは、稲渕集落の中にある龍福寺(義淵僧正創建の五龍寺の一つか)の発掘調査で、造成土の中から13~14世紀の土師器・瓦器が出土していることです。現在地に龍福寺が造られたのは、室町時代だということが出来るでしょう。そして、この時期に惣村としての稲渕集落も形成されたと考えられます。

 そうしますと、勧請綱掛神事もそれを遡ることは無いと考えられますので、室町時代以降から始まったものだと思われます。では、家々が散在していた室町時代以前の村は、どこにあったのでしょうか。

 龍福寺境内に存在する「竹野王の石塔」には銘文が刻まれているのですが、その銘文を読んでみると、石塔は本来「朝風」という地に天平勝宝3(751)年、竹野王という人物によって造立されたことが分かります。また、100mばかり飛鳥川を遡った南淵靖安墓(明神塚)も、朝風から移されたものだとされていますので、人の営みもまた朝風にあったと想定することが出来ます。鎌倉時代の朝風には、「朝風千軒」と呼ばれる村落があったようです。もちろん千軒も家があったわけではないでしょうが、それなりの数の人家があったことが想像されます。

 さて、この「朝風」とは、どこを指すのでしょうか。稲渕の棚田にある「案山子ロード」という愛称で呼ばれる農道をご存知でしょうか。秋の彼岸花祭りには、創作案山子がたくさん立ち並ぶ所です。この農道の一番高い所に「朝風」という石碑が立てられています。

朝風の碑
朝風の碑 銘文
クリックで拡大します。

 ここから、もう少し登ると明日香村上平田とを結ぶ峠があり、少し前までは「上平田峠」と呼ばれていたのですが、現在では「朝風峠」と呼ばれることが多くなっています。

 峠付近の小字名を追ってみると、北側に「アサカゼ」という小字があり、付近が「アサカゼ」と呼ばれていたことが分かります。また、南側の馬蹄形をした棚田の入口付近には「セイサン」と呼ばれる小字名も有ります。「セイサン」は、南淵靖安が転訛した小字名なのでしょうか。

クリックで拡大します。

 平安時代の末期から鎌倉時代には、この付近に「朝風千軒」と呼ばれる人々の暮らしがあったのは間違いなさそうです。くねくねと面白い曲線を示す棚田風景は、室町時代以降に造られていったのでしょう。

 棚田風景を楽しみながら、そのような棚田の秘められた歴史にも触れてみるのも楽しいものです。

 さて、この朝風には、奈良時代に創建された山寺が存在していたようです。飛鳥には、○○寺跡がたくさんありますが、創建された場所も確定できないお寺が、まだ存在していたのですね。棚田風景のどこにお寺を思い描けば良いのでしょうか。また、そのお寺は、誰によって、どのような経緯で建てられたものなのでしょうか。次号では、そのあたりを中心に書いてみたいと思います。




【3】 (12.8.31.発行 Vol.142に掲載)    

  「稲渕の棚田の謎に迫る」の3回目です。今回は、朝風廃寺について考えてみたいと思います。

 稲渕の棚田の上方に「アサカゼ」という小字が存在することは、前号で書きました。その周辺一帯には、山寺が在ったようなのです。それは、いわゆる長屋王家木簡に書かれた文章や、竹野王の石塔銘文からの考察によります。

  長屋王家木簡  「竹野王子山寺遺雇人米二升□□□」など
  竹野王石塔銘文 「朝風南葬談武之峰北・・・」
              「天平勝宝三年歳次 辛卯四月廿四日丙 子 従二位竹野王」

 ここで、第24回定例会を思い出してください。橿考研主任研究員の大西貴夫先生から、山寺について学びましたね。

 第24回定例会参考資料
 第24回定例会レポート

 簡単に書いてみます。
 山寺とは、僧尼の修行の場として丘陵上や斜面の小高い所や谷の奥などに立地し、行場となる地形(滝や岩窟など)や、信仰の対象に繋がる岩や水源などが近くにあり、同じ時代の都城や集落・交通路、また墓地などと一定の距離を保つ場所に建てられました。
 このような山寺の代表的な存在として、義淵僧正の創建による岡寺(龍蓋寺)、龍門寺、加守寺(龍峯寺)、龍福寺、龍華寺などのいわゆる五龍寺がありました。

 そうです! 龍福寺です。

 稲渕の竜福寺が義淵創建の龍福寺の寺籍を継ぐお寺かどうか確証はありませんが、元は朝風に在ったとするなら山寺の条件は満たされることになります。

 では、具体的には、棚田のどこに在ったのでしょうか。

 近畿大学の大脇潔教授は、朝風峠の南西にある「浅鍛冶(アサカジ)」という小字名に注目されました。この地には、現在は廃道となっていますが明日香村栗原に繋がる道路が有ったようで、浅鍛冶地蔵尊が祀られています。周囲には狭い平坦地があるのですが、その先は崖地になってしまっています。現状では、小さなお堂程度なら建てられるかという状況ですが、1300年の時代の中で崖崩れなど地形の変化も考えられますので、もっと平坦な地形があったのかも知れません。発掘調査が行われていないので、なんとも言い難いところです。

 定例会では、皆さんをここにご案内したいと思っています。ちょっとした探検気分を味わっていただけるのではないでしょうか。

浅鍛冶地蔵尊
クリックで拡大します。

 栗原と朝風を繋ぐ道路は廃道となって久しいようですが、現存する朝風峠道(上平田峠道)が開削されるまでは、こちら側がメインの峠道ではなかったかと思われます。その一つの傍証として、栗原の地蔵さんを挙げたいと思います。定例会で何度か通っていますので改めて紹介することも無いかも知れませんが、栗原地区の吉野川分水路の近くに、可愛いお地蔵様がおられます。


栗原のお地蔵様

 お地蔵様は、道標にもなっていて「右 於か寺」と読めます。ルートマップを参照してください。


クリックで拡大します。

 南に向かって立っておられる地蔵様の右は東になりますが、その先には浅鍛冶地蔵尊があります。朝風を通って岡寺に向かうルートが有ったのでしょう。

 さて、朝風廃寺の創建に関わったと思われる竹野王について考えてみたいと思います。

 竹野王(竹野王子・竹野皇子など)と書かれますが、実は女性だと考えられています。続日本紀には、天平勝宝三年正月に従二位となった竹野女王の名があり、この竹野女王を充てる説が有力なようです。長屋王家木簡の中で、竹野女王に関わる木簡は現在26を数えます。その中の一つを紹介します。

  「竹野王子女医二口」「一升半受真木女」

 竹野王子には、担当の女医がいたことが分かります。女医は、助産婦などと考える人もいるようですが、試験制度や教育機関も存在したようですから、内科・外科的なことにも従事したのかも知れません。おそらくは、女性の患者を診ることを主としていたでしょうから、竹野王は、女性であると考えても良さそうです。

 また、長屋王邸から竹野王の名が書かれた木簡が多数出土することは長屋王の近親者と考えられ、姉妹の可能性があると奈文研は推測しています。竹野王が長屋王の近親者なら、天平勝宝三年に従二位に昇進することは若干引っかかる部分もありますし、年齢差が開いているのも気になるところですが、それ以上の推測は妄想となりそうですので、この程度にしておきましょう。

 もう一つ気になったのが、山寺と長屋王家の関係です。青木廃寺は、長屋王が父高市皇子の追善のために建てたと大脇潔先生は考証されています。

 第23回定例会参考資料
 第23回定例会レポート

 山寺と長屋王家、どのような関連があるのでしょう?謎は謎を呼びますね! 
 さて、第34回定例会の咲読も、残すはあと1回です。次回は、他の歴史ポイントを見て行きましょう。




【4】 (12.9.14.発行 Vol.143に掲載)    

 第34回定例会の咲読4回目です。定例会は明日に迫っていますが、参加の皆さんには是非お読みいただければと思います。

 ここまで、朝風廃寺について2回書いてきましたが、今号では「稲渕宮殿遺跡」と「塚本古墳」について、簡単に触れたいと思います。

 まず、最初は稲渕宮殿遺跡です。わざわざこの遺跡を訪ねる方は、少ないと思います。飛鳥歴史公園祝戸地区の駐車場脇に説明板と石柱が立っているのですが、よほど知っていないと発見するのは難しいでしょう。しかし、この遺跡は、宮殿遺跡とされるだけのものが検出されています。『日本書紀』の記述などと比べれば、ドキドキするような激動の飛鳥時代の一端が埋もれているに違いありません。

稲渕宮殿遺跡の現状
クリックで拡大します。
遺構図
クリックで拡大します。

 図の下部の建物は、4面に庇を持っています。この一連の建物群の正殿であると思われます。規模は、桁行5間以上、梁行4間が確認されていて東西建物に復元されます。図の上部の建物は、東西8間以上、梁行4間の東西建物で、南側に庇を持っています。図右側下部の建物は、桁行2間以上、梁行4間以上の西側に庇を持つ南北建物で、また右側上部の建物は、桁行15間、梁行4間の西側に庇を持つ南北建物です。この右側の南北建物2棟は、柱間が図上部の建物と同じ規格で建てられていました。
 この4つの建物の間には、石敷きが検出されています。石敷きは、一辺が40cm前後の花崗岩の玉石を用いており、調査区の南に更に伸びていたと考えられます。

 遺構図を再度見てください。これらの建物は柱筋が通っており、一連の規格の下に整然と建てられたことが分かります。また、飛鳥の「宮」の特徴である石敷きを伴っています。瓦類がほとんど出土しなかったことと合わせると、「宮殿」的な施設であったことが推測されます。

 一連の建物は、東側の脇殿と考えられる南北建物と同一規格の建物が西側にも存在したと推定されることから、4面庇の正殿を中心とした二重のコの字形を示すと考えられます。
 これらの施設は、出土遺物から7世紀中頃に建造され、7世紀末頃に廃絶したと考えられます。

 では、『日本書紀』には、この施設と合致するような建物群が記載されているでしょうか。

 白雉4(653)年条、この歳、太子(中大兄皇子)は、「倭の京に移りたいと思います」と願ったが、天皇(孝徳天皇)はお許しにならなかった。すると皇太子は、皇祖母尊(皇極前天皇)と間人皇后とを奉じ、皇弟(大海人皇子)たちを従え、難波をたって倭飛鳥河辺行宮にお入りになた。公卿大夫や百官の人々も、みな太子に従って倭に移った。とあります。稲渕宮殿遺跡は、時期も、規模も、まさにこの飛鳥河辺行宮を示しているように思われます。

 遺跡の発掘調査からは、興味深い報告がされています。それは、柱を立てる時に穴を掘って根元を固めるのですが、飛鳥の一般的な建物では一本の柱について一つの柱穴を掘っています。しかし、この稲渕宮殿遺跡では、二本分の柱穴をまとめて掘ったり、溝状に掘って数本の柱を立てる「布掘り」という方法を採用していることです。

 建築もまた専門外ですが、強度はどうなのでしょう? やはり一本一本に穴を掘った方が強固な建物を造れるように思うのですが、建設工程を急ぐ何らかの理由があったのでしょうか。また、そのような技術を持った工人集団がこの宮の建設に関わったのでしょうか。宮殿建築に布掘りが施された事例(一つの柱穴に複数の柱を建てる)は、前期難波宮や大津宮などにも一部あるそうです。稲渕宮殿遺跡が7世紀中頃に造られたというのも、ここからも言えるかもしれません。また、中大兄皇子に関連していると言えるのかも知れませんね。そう考えると、やはり飛鳥河辺行宮であった可能性は高いと言えるようです。

 しかし、風人は、若干の疑問を持っています。それは、宮名に「飛鳥」が付いているからです。この祝戸と稲渕に掛かる辺りを、飛鳥時代に「飛鳥」としていたのかが問題になるように思います。飛鳥の範囲は、「ミハ山」の南までは入らないと思うのです。ミハ山の北、飛鳥川右岸、古山田道までを「飛鳥」だと思うのですが如何でしょうか。

 塚本古墳は、定例会でも2度訪れましたので今更書くことも無いのですが、飛鳥遊訪マガジン140号のtubakiさんが飛鳥話として書いてくださったように、知らないと気づきもしない古墳です。実は、坂田寺跡近くのイチゴハウスを過ぎた辺りから、所在地がずっと見えているのですけれど気づかないものです。というのは、半壊というより、ほぼ墳丘は全壊に近い状況だからです。石室も、奥壁と東壁の一部が残り、羨道の天井石の一部と思われる石が転がっているだけですので、興味の無い方にとっては、見ていても古墳には見えないかも知れません。

塚本古墳位置
クリックで拡大します。
塚本古墳石室現状
クリックで拡大します。

 飛鳥周辺部には、たくさんの古墳があります。しかし、稲渕の棚田には、古墳はほとんどありません。これも、不思議なことですね。
 稲渕から始まる奥飛鳥は、飛鳥の大事な水源地であり、天皇が祭祀を行うような神聖な場所として認識されていたからでしょうか。後に用材の伐採を禁止しているような場所ですから、それ以前からも墓域とはされなかったのかも知れません。

 そのような地に、一辺が39mほどの二段に築盛された方墳がありました。南北に続く丘陵から東に張り出した小さな尾根上に造られ、同様に張り出した尾根に抱き囲まれるような地形に在ります。石室は南東方向を向いており、発掘調査の結果、両袖式だとされています。
 後に石取りによって破壊されたようですが、それまでにも盗掘にあっており、副葬品などは発見されていません。僅かに大型の家型石棺の存在を示すように、蓋部分が羨道近くに放置されていたようです。

 塚本古墳の細かなデータは資料集に掲載しますので、咲読としては省略しますが、築造年代は石室の構造などから、石舞台古墳と同時期かやや後と考えられるそうです。
 つまり、石舞台古墳を馬子の墓だとすると没したのは推古天皇34(626)年ですから、その頃亡くなった人物というと・・・。

 特別な地域、大きな古墳、石舞台にも近いなどの条件を考えると、推古天皇36(628)年に亡くなった蘇我境部臣摩理勢などが被葬者候補と風人は考えるのですが、どうでしょうか。

 明日は、皆さんと実物の古墳を見学しながら、考えてみたいと思います。いつもながらの長い咲読にお付き合い下さり、ありがとうございました。





遊訪文庫TOPへ戻る  両槻会TOPへ戻る