両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第36回定例会レポート


片岡山辺をかたる


この色の文字はリンクしています。

第35回定例会資料第36回定例会資料
2013年1月5日


帝塚山大学附属博物館

 第36回定例会は、前回に引き続いて帝塚山大学人文学部准教授 清水昭博先生に講師をお願いして、「片岡山辺をかたる」と題したご講演をいただきました。同一テーマを前回の現地探訪「片岡山辺をあるく」と、今回の講演に分けて行ったわけですが、両槻会としては初めての試みでありました。どちらか片方だけでも充分に楽しい定例会でしたが、事務局としましては両方に参加していただいて初めて完結できたのではないかと思っております。講演だけに参加された皆さんは、先生のお話を忘れないうちに第35回定例会のレポートや資料を参考に、是非、現地を訪れていただければと思います。この2回の定例会は、両槻会が行っている講演会とその事前散策の発展版だと考えており、機会がありましたら、また同じように連続したテーマを追いかける定例会を開催してみたいと思っています。
 しかし、その分、清水先生の負担は大きくなりました。また、正月早々にご講演をいただくことになり、先生には申し訳なく思っております。この場を借りまして、ご支援に篤く御礼を申し上げます。また、ご参加いただいた皆さんにも、正月気分の抜けない中をお越しいただき、感謝を申し上げます。ありがとうございました。

 さて、第36回定例会の報告をしましょう。事務局スタッフの集合は、参加者の皆さんに先んじて午前11時45分でした。スタッフは2班に分かれ、博物館での受付準備や最終打ち合わせのための先行班と、参加者の皆さんを大学に案内する班に分かれました。


 私は先行班でしたので本隊の様子は分かりませんが、博物館に到着すると、既に清水先生とこの回の特別スタッフとして活躍してくれたガッキーさんが、大方の準備を整えて待っていてくれました。受付机には、帝塚山大学から提供していただいた物がところ狭しと並んでいました。「明日香風」最新号や昨年のバックナンバーまでプレゼントとして持ち出していただき、参加者の皆さんにも喜んでいただけたと思っています。事務局からの資料や配布物も並べ、本隊の到着を待ちました。ほどなく本隊も到着し、それぞれに新年のご挨拶を交わしました。そして、ほぼ定刻通り、13時過ぎに定例会を開始しました。


 先生がご用意くださったレジュメは、パワーポイントの画像の縮小版をA4で11枚にしてくださったものでした。後でお話を順序立てて振り返れるので、とてもありがたい資料です。
 最初は先生の軽妙な話術で柔らかな内容から立ち上がり、徐々に核心に迫っていく展開です。パワーポイントのトップページには、片岡地域を上空から俯瞰する写真が使われていました。大和川の蛇行する様子や、遠く霞の掛かった葛城連山、また謎に包まれた片岡・広瀬地域を暗示するような靄が写し込まれており、とても素敵な写真です。そして、この写真にまつわるエピソードが語られました。そして、いよいよ本題に入って行きます。

 お話は、1:「片岡・広瀬と敏達王家」、2:「片岡・広瀬と百済」、3:「片岡の古代寺院 –尼寺廃寺と片岡王寺-」と、大きく3つのパートに区分されて進みました。

 最初は、片岡と広瀬という地域が、どういう場所に在るのかという説明からでした。第35回で歩いている方には具体的なイメージが残っていますので、風景を思い出しながら聞くことができたのではないでしょうか。片岡は、大和川に南から流れ込む河川の一つ「葛下川」の下流域を言います。広瀬は、大和川の南に位置し、片岡の東に広がる地域の名称です。これらの地域に点在する古代寺院、窯群、古墳群などを紹介していただき、それらの造営者像に迫って行きました。

 6世紀後半から7世紀初頭にかけて、大きく開拓が始まった両地域。そして、発見される瓦や古墳の被葬者の考察、文献史料との突合せなどから推測される敏達王家と上宮王家の存在。これらのことから、次第に飛鳥時代の人々の営みが垣間見えてきます。飛鳥時代のこの地に、足跡を残した人々が居ました。至極当然の事なのですが、つい忘れがちになることです。特に、瓦笵の移動とその順序、またデザインの変遷など有機的に繋がる関連を見て行くことで、そこに飛鳥人達の動きがおぼろげながら見えてくるように思いました。

 先生のお話は、広陵町百済大宮・大寺説や吉備池廃寺、そして寺戸廃寺・牧野古墳・平野塚穴山古墳などについて具体的に述べられ、敏達王家の存在がクローズアップされてゆきました。各遺跡や古代寺院に関しては、第35回定例会資料第36回定例会資料を参照してください。


 次に、この地域に遺された百済の痕跡を追いました。平野塚穴山古墳と百済陵山里古墳群の東下塚古墳の類似、百済の古墳に見られるような石室の床に瓦を使用した佐味田石塚1号墳、そして、先生が発掘に携わられた三吉3号墳出土の瓦。この百済直系の瓦は、飛鳥を経由せず、この地に入ってきたものです。つまり、この地に受皿となる大きな勢力があったことが推測できることになり、それは片岡・広瀬地域に多くの痕跡を残す敏達王家であったと考えられます。瓦の伝来には、百済王家から敏達王家へと王家間での移動が最も考えられるからです。

 このように、古代片岡や広瀬には、百済との関わりを示すものが多く残ります。それは、今に残る地名に「百済」があることからも分かることですが、しかし、その技術・物・人を活用したのは、敏達王家であったのかも知れません。

敏達王家関連系図
上宮王家関連系図

 最後のパートは、片岡の古代寺院と題して二つの寺院が取り上げられました。尼寺廃寺と片岡王寺です。片岡は、飛鳥や斑鳩に次いで、寺院が集中する地域でした。その中の一つ、尼寺廃寺には、創建者が誰であるのかを含め様々な説があるようです。先生は、北廃寺は「般若寺・片岡僧寺」、南廃寺は「般若尼寺・片岡尼寺」と、史料に見られる寺名に相当するのではないかと考えておられます。また、創建時には上宮王家の瓦が使用されることから、創建には上宮王家が関与した可能性があるとされましたが、本格的な造営時には坂田寺式の瓦が使われていることから、上宮王家が滅びた後の7世紀中頃には、瓦の使用に大きな画期があったとの説明がありました。つまり、造営主体も上宮王家から別の勢力へ変わったと考えられます。ここで、先生は「坂田寺を中心にした尼寺のネットワーク」を考えられます。坂田寺式の瓦の分布は紀伊にも見られますが、その多くは尼寺の可能性が高いことを細かく述べられました。尼寺両廃寺は共に坂田寺式瓦を創建瓦としますが、その使用順は笵傷の多少から坂田寺 → 尼寺南廃寺 → 尼寺北廃寺であるので、先に造営が進んだ南廃寺が尼寺であると考えられます。また、近くに在る平野古墳群の存在に注目され、同一地域に存在する同時期に営まれた寺院と古墳群が別の一族のものであるとするのは不自然であり、さらに古墳群と同一尾根の北側斜面に存在する北廃寺の瓦を生産した瓦窯の存在も傍証の一つであるとの説明がありました。

 平野塚穴山古墳の被葬者を茅渟王だとすれば、7世紀中頃から造営された尼寺両廃寺もまた茅渟王やその近親者による造営だと考えることが出来ます。この辺りは、難しいですね! 決定的な証拠が有りませんので、このように状況証拠を積み重ねていくしかないのかも知れません。しかし、清水先生のお話は、精緻に積み重ねた論理的な解釈であるように思いました。


 もう一つのお寺は、片岡王寺です。主要伽藍の発掘調査がされていないので、記録や地名や周辺調査の成果からこの寺院を考察して行かねばなりません。

 片岡王寺は、出土する瓦や塔心礎の検討から、法隆寺若草伽藍と強い繋がりがあったと考えられるようです。周辺に在った西安寺や長林寺などの古代寺院にも若草伽藍と同様の特徴を持つ瓦が見られることから、これらの寺院にも影響を及ぼしたようです。また、瓦当文様の特徴が新羅の影響を受けた物があるとのことで、聖徳太子と新羅の外交関係を反映しているのではないかとのお話がありました。いや!瓦っていろんなことが分かるんですね。

 さて、創建者ですが、創建瓦や塔心礎の位置の考察から、聖徳太子よりは世代が下るようです。『放光寺古今縁起』には、敏達天皇第三皇女の片岡姫によると書かれているのですが、敏達天皇には、片岡姫という皇女がいた記録は有りません。一方、聖徳太子の子女には片岡姫王が居られ、様々な検討結果とも合わせれば、聖徳太子の娘である片岡姫王の創建であろうと考えられるとのことです。上宮王家滅亡後は、この地を敏達王家が所領することになるので、記録にも影響を及ぼしたのではないかとのお話でした。

 聖徳太子には有名な片岡遊行記事がありますので、この地域と太子の関連が密接であったことが伺えます。片岡王寺が太子の娘の創建というのは、私には理解しやすい考えであるように思いました。

 お話は2時間を超えて続きましたが、長いとは感じませんでした。瓦から見えてくるものは、やはり人間の営みであると私には感じられて、瓦が可愛い!と言うほどではありませんが(笑)、さらに身近な存在になったように思います。
 先生には、参加者からの質問にも丁寧にお答えをいただきました。


 10分のトイレ休憩を挟んで、展示室に移動しました。そこには、講演で登場した瓦たちが並べられています。展示ケースの前では、清水先生が一つ一つの瓦に解説を加えてくださいました。また、特別に瓦の裏側なども見せていただき、参加者の皆さんにも喜んでいただけたのではないかと思っております。一通りの解説が終わった後も、参加の方々が展示品の前から離れずに見学されている姿を見ますと、定例会の会場を帝塚山大学附属博物館で行うという企画が成功であったと、一人離れて見ていた私は胸を撫で下したのでした。


 飛鳥に拘って続けてきた両槻会定例会が、連続して地域的に飛鳥を離れました。そのことで、自分たちがこだわってきた飛鳥というキーワードが、新たな興味を喚起してくれたように思います。言わば内から外を見ていたものが、外から見てみることで新鮮な目線を得たような感じがしています。また機会が有れば、斑鳩など違った地点から飛鳥を見てみたいと思います。

 ギャラリートークを含めて、長時間に及ぶ講師を務めてくださいました清水昭博先生に、最後にもう一度、お礼を申し上げます。ありがとうございました。

 長いレポを完読してくださった方々、ありがとうございました。 それぞれの史跡・寺院跡・瓦・古墳などの詳細は、第35回定例会資料第36回定例会資料を参照してください。



レポート担当:風人  

ページトップへ ▲

第35回定例会資料第36回定例会資料



ページ作成 両槻会事務局
画像及び文章の無断転載・転用は禁止します。
両槻会TOPへ戻る