両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第36回定例会


片岡山辺をかたる





事務局作製資料

作製:両槻会事務局
2013年1月5日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
長林寺跡 広瀬大社 宮堂遺跡 舟戸・西岡遺跡
茅渟王関連系図 聖徳太子関連系図 関連年表 関連遺跡マップ
当日レポート 飛鳥咲読 両槻会 第35回定例会ネット版資料


この色の文字はリンクしています。

長林寺跡 (河合町穴闇)

 別名を穴闇(なぐら)寺と言い、史料には穴倉寺・那倉寺・穴冥寺とも書かれたようです。大和川の南約1kmの近鉄田原本線池辺駅の北には、江戸時代に再興された長林寺があります。
創建は、『聖徳太子伝私記』や『太子傳玉林抄』など聖徳太子に関わる史料には、聖徳太子建立の46ヶ寺とする説、推古天皇の不予の回復を喜び聖徳太子が建立したとする説などの記録がみられます。創建由来を含め不明な部分の多い長林寺ですが、南北朝には長琳寺として存在したこと、その後、室町時代末期の兵火によって焼失したことなどが伝えられています。付近では、基壇や礎石の存在が知られ古瓦も採取されるなど、古くから寺跡であることは知られていたようです。

 昭和60年代に行なわれた発掘調査により、金堂基壇(推定16.5m×14m・高さ1.5m)・講堂基壇(推定21m×14m)・中門基壇・回廊礎石などが確認されています。
 金堂には20個の礎石が残されており、西側では特異な瓦積基壇(立てた丸瓦の上に平瓦を重ね積む)が確認されています。南門は確認されていませんが、寺跡南側に「大門」という小字名が残ることから、付近に南門を想定することも可能とされています。塔は三重であったとされ、塔心礎は、長林寺境内に移されています。

 伽藍は法起寺式伽藍配置であったと推定されており、西側の素盞嗚神社境内の一部を含む東西南北ともに100m以上の寺域を持っていたとされています。

 出土瓦には、7世紀前半の素弁蓮華文軒丸瓦もありますが、これは前身寺院など小規模な建物に関わるもので、本格的な造営は法隆寺式軒瓦を用いてなされ、伽藍が整ったのは7世紀後半だと推定されています。

 また、「長倉寺(人)瓦」とヘラ書きされた丸瓦が出土しており、古代には「長倉寺」と呼ばれていたことがわかります。長倉は、双倉(ならびくら)とも呼ばれる朝廷の倉(長倉)に由来しているとの説もあり、現在の地名「穴闇・なぐら」は、この長倉に由来するとされています。


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広瀬大社・広瀬神社 (河合町川合)

 大和盆地を流れる多くの河川が合流し、大和川となる水上交通の要所に所在します。祭神は、主神が『若宇加能売命(わかうかのめのみこと)で、大忌神とも呼ばれる水の神になります。社伝には、「崇神天皇九年(前89年)、廣瀬の河合の里長に御信託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地に社殿を建て祀られるようになる。(広瀬大社HPより)」とあります。 『日本書紀』天武4(675)年4月には、「小錦中間人連大蓋・大山中曽根連韓犬を遣わして、大忌神を広瀬の河曲に祭らせた」との記事が見え、社記によるとこの後、広瀬神社の神官は物部系の曽根連が継承したと伝えられているそうです。 

 神社の創建に関する詳細は不明ですが、立地や周辺の遺跡状況などから、祭祀の起源は、7世紀以前に遡る可能性も考えられ、天武4(675)年から平安時代頃までは、龍田神社の風の神とともに、毎年4月と7月に祭られていたようです。

 広瀬大社に伝わる「和州廣瀬郡廣瀬大明神絵図」には、八町四方の四至に立つ鳥居や三殿並ぶ本殿と周辺には神宮寺、定林寺、安隆寺、長明寺などが描かれていますが、社殿の殆どは、永正3(1506)年に戦火で焼失してしまったようです。正徳元(1711)年に造営された本殿が現存最古の建物になり、平成12年に大改修され往時の美しい姿が再現されています。

 例年2月11日に行われる「砂かけ祭り」は、五穀豊穣を祈願する御田植祭の一種で、雨に恵まれるようにと砂を掛け合う所作があります。飛鳥坐神社で2月第1日曜日に行なわれる「おんだ祭」と同じ大和の奇祭と言われています。




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宮堂遺跡 (河合町川合)

 広瀬神社の南方、大塚山古墳の東側の微高地に広がる遺跡になります。発掘で調査されている範囲は、河川改修や個人住宅建築などに伴う小規模なものですが、大量の遺物が出土しているようです。

 石器作りなどが行なわれていたと考えられる遺物(原石や剥片など)が多数出土しており、周辺に縄文時代の集落などが営まれていたと考えられています。また、埴輪片やフイゴの羽口などが出土していることから、西にある大塚山古墳をはじめとする大型古墳が築造された時期(5世紀後半以降)には、埴輪や鉄製品を作る工房が存在したと考えられています。

 不毛田川周辺からは、6世紀後半から7世紀にかけての竪穴式住居跡が3基検出されており、本格的な集落が川の西側に広がっていたと推定されています。この他、飛鳥時代以降の遺物も数多く出土しているようです。

 広瀬神社に伝わる「和州廣瀬郡廣瀬大明神絵図」には、宮堂遺跡にあたる場所に「定林寺」の伽藍が描かれており、明治時代には礎石が存在していたと言われていることや遺物の中に古代の瓦も含まれることから、7世紀以降に付近に寺が存在していた可能性が高いとされています。




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舟戸・西岡遺跡 (王寺町舟戸・川合町大輪田)

 大和川の南、西安寺跡の東にある通称舟戸山と呼ばれる丘陵地一帯になります。

 発掘調査では、王寺町側の丘陵の頂部の南側で弥生時代後期の竪穴式住居や壷・甕などが見つかり、付近には高地性集落が広がっていたと推定されています。また、河合町側では土器などの散布がみられ、発掘調査によって、丘陵の東側の斜面上で古墳時代以降のものと思われる掘立柱建物が検出されています。

 舟戸・西岡遺跡からは、北を流れる大和川や奈良盆地が見渡せることから、水路・陸路の監視には適していたと考えられます。遺物には古墳時代以降のものも多く含まれており、古墳時代以降の建物などを想定することも可能だとされています。



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茅渟王関連系図






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聖徳太子関連系図





関連年表

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関連遺跡マップ

1.西安寺跡  2.達磨寺  3.片岡王寺跡  4.尼寺北廃寺  5.尼寺南廃寺  6.平野窯跡群
7.平野古墳群  8.平野塚穴山古墳  9.平野1号墳  10.牧野古墳  11.三吉3号墳
12.ナガレ山古墳  13.寺戸廃寺  14.薬井・瀧ノ北遺跡  15.下牧瓦窯跡  16.久渡2号墳
17.字 見立山(高市皇子墓推定地?)  18.巣山古墳  19.寺戸遺跡  20.長林寺跡  
21.広瀬大社  22.宮堂遺跡  23.舟戸・西岡遺跡  24.大塚山古墳
              〔第35回定例会散策地  第35回・第36回定例会関連遺跡〕




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