春の井の汲芳。西門より紫蓋寺にいたる。路傍に湧泉あり。春の井と名づく。聖徳太子誕生のときこれを汲みて灌ぐという。橘寺の東に当たる。故に名づくるに春をもってするか。中間に五松原あり。その松今は無く桜樹が多い。俗に五松原と呼んでいう尚その下に春井の街あり。街下に湯谷の村あり。古に温泉あり。ゆえに名づく。中世硫黄の気 絶して沸かず。その西北に釜谷の村あり。昔鋳釜の工ここに家を構える。その鋳しところの釜及び火炉の類、現にこの山院にある。
薬師如来 木造 像高87.0cm 膝上の左手掌上に薬壷を載せ、結跏趺坐する通形の薬師如来坐像である。桧材の一木造りで、両肩と膝前は別材の矧ぎ付けとし、彫眼である。温雅な面貌を示しており、平安時代中期ごろの造立と思われる。(明日香村HPによる) 四天王像 四躯ともに木造、一木造りで、像高は各90.0cmほどである。本尊の薬師如来と同時代のものとされている。(明日香村HPによる)
今回の調査地は、大型駐車場西側の遺跡西部にあたる地域です。ここでは掘立柱塀が2条確認されました。掘立柱塀①は2.1~2.4m間隔で7間分確認されています。柱掘形は一辺1.3mの大型柱穴で、その方位は北から西へ25度振れています。一方、掘立柱塀②は1.8~2.1m間隔で8間分確認されています。柱掘形は一辺70cmと小型で、ほぼ正南北をしています。重複関係から掘立柱塀①→掘立柱塀②の変遷がわかりますが、出土遺物からは時期を特定できません。しかし、遺構の重複関係や方位からみて、掘立柱塀①がI期前半、掘立柱塀②がIV期と推定されます。 ここで重要なのは、ふたつの遺構がいずれも南北塀であることです。この場所は南部地区の建物群の西にあたり、ここより西には顕著な遺構が確認されていません。特に、掘立柱塀①は大型の柱掘形をもつ塀であることから、嶋家を囲む西辺の塀の可能性が高いと考えられます。また、掘立柱塀②も、柱掘形規模はやや小さいものの、掘立柱塀①と同じ位置での南北塀であることから、嶋宮の西辺塀の可能性があります。この塀を境に、飛鳥川までの範囲が、経済基盤にかかわる耕作地としての空間であったと推定できます。
「むかし、大和が湖であったころ、湖の対岸の当麻と、ここ川原の間にけんかが起こった。長いけんかのすえ、湖の水を当麻に取られてしまった。湖に住んでいたたくさんの亀は死んでしまった。何年か後に亀をあわれに思った村人達は、亀の形を石に刻んで供養したそうである。今、亀は南西を向いているが、もし西を向き当麻をにらみつけたとき、大和盆地は泥沼になるという。」
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