両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第37回定例会


謎の石切場を訪ねる

-石舞台古墳の石材採取場か?-






散策資料

作製:両槻会事務局
2013年3月2日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
多武峰西門 弥勒石仏 春井 上 薬師堂 不動の滝
細川谷古墳群 気都和既神社 坂田寺跡 葛神社
都塚古墳 島庄遺跡西部地区 島庄遺跡変遷図 東橘遺跡
橘寺 川原寺 亀石 川原下ノ茶屋遺跡
鬼の俎・雪隠古墳 カナヅカ古墳 欽明天皇陵 吉備姫王檜隈墓・猿石
平田キタガワ遺跡 飛鳥時代系図 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


散策ルート

より大きな地図で 第37回定例会マップ を表示


この色の文字はリンクしています。

多武峰西門 弥勒石仏


 石仏は西門石垣の上にありますが、元は飛鳥寺に安置されていたもので、高句麗より伝来したとの伝承があるようです。

 「敏達13(584)年9月、帰朝した鹿深臣は高麗より将来した弥勒の石像を蘇我馬子に献じたので飛鳥の法興寺に安置していた。やがて奈良の元興寺東金堂に移したが多武峰の僧によって盗み取られたのを、村上天皇康保3(966)年3月、検校第二千満和尚がこの地に移した霊仏であるとする。」『奈良県磯城郡誌』

 『日本書紀』によれば、「鹿深臣の持ち帰った石仏は、(蘇我馬子)邸宅の東に仏殿を営み、弥勒の石像を安置し、三人の尼を迎えて法会を行った。」とあり、飛鳥寺に安置されていたとは書かれていないのですが、本尊釈迦三尊像が建立されるまでの空白期間に弥勒石仏を仮に本尊として安置したとする説もあるそうです。本尊交代の後は、東金堂に移ったと考えると・・・。

 しかし、この石仏には、文永3(1266)年8月の銘が刻まれており、鎌倉中期に造られたようです。
また別の伝承では、多武峰の検校座主「延安」の墓が付近に在り、石仏は光りを放ち墓を照らし、墓も石仏を照らしたとされています。



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春井


 聖徳太子の産湯に使われた霊水が湧き出す井戸だとの伝承があり、現在も石碑が建てられています。また、井戸跡と思われる湧水地点があります。

『多武山二十六勝志』
 「春井汲芳、自西門、至紫蓋寺、路傍有湧泉、名春井、聖徳大子誕生時汲之以灌云、丁橘寺東、故命以春歟、・・・」
春の井の汲芳。西門より紫蓋寺にいたる。路傍に湧泉あり。春の井と名づく。聖徳太子誕生のときこれを汲みて灌ぐという。橘寺の東に当たる。故に名づくるに春をもってするか。中間に五松原あり。その松今は無く桜樹が多い。俗に五松原と呼んでいう尚その下に春井の街あり。街下に湯谷の村あり。古に温泉あり。ゆえに名づく。中世硫黄の気 絶して沸かず。その西北に釜谷の村あり。昔鋳釜の工ここに家を構える。その鋳しところの釜及び火炉の類、現にこの山院にある。

『大和名所記:和州旧跡幽考 第十九巻』
 「春井」多武峯の西のふもとにあり。高市郡のうちにて侍るべけれども、しばらく多武峯によりて爰(ここ)にあらわす。聖徳太子、御産湯にとて、東井、千歳井、赤染井の三つの井を掘らせたり。二つの井はかくれて、春井のみ残れり。人、春井の霊水という、これなり。撰集抄通要にくわしく見えたり。

『聖徳太子伝私記』  (斑鳩の三井)
 「聖徳太子、此処に三井を掘り給ひ、山背大兄・由義王子・三島王女御誕生の時、産湯を汲み給ひ、東井・前栽・赤染三井、此の地に写し給ふ」



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上 薬師堂


 堂内には、薬師如来を本尊とし、脇像十一面観音像、四天王像、鎌足公像が納められています。本尊薬師如来・四天王像は、明日香村の文化財に指定されています。

 上(かむら)地区には、江戸時代中期に長安寺、教雲寺、薬師堂の三ヶ寺があったようなのですが(『地方蔵方寺尾勤録』)、「長安寺後方山中の不動の滝の水で7月から8月まで洗眼すると、効験があった」と書かれています(『飛鳥古跡考』)。この記事にある長安寺と不動の滝の位置関係は、現在の薬師堂と不動の滝の位置関係に合うもので、長安寺の一堂として薬師堂が在った可能性も考えられます。

 伝承によると、鎌足の子・定恵が、多武峰山上・山腹・山下に建てたという「八講堂」の一寺として、薬師如来と鎌足公木像とを奉祀したと伝えられているそうです。
また、薬師堂に安置した薬師如来は、定恵の作だとする伝承もあるようです。(古老伝)
薬師如来 
木造 像高87.0cm
膝上の左手掌上に薬壷を載せ、結跏趺坐する通形の薬師如来坐像である。桧材の一木造りで、両肩と膝前は別材の矧ぎ付けとし、彫眼である。温雅な面貌を示しており、平安時代中期ごろの造立と思われる。(明日香村HPによる)

四天王像
四躯ともに木造、一木造りで、像高は各90.0cmほどである。本尊の薬師如来と同時代のものとされている。(明日香村HPによる)



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不動の滝


 薬師堂から谷筋を上ると不動明王像が彫られた岩場が在り、巨岩から滝が落ちています。灯明台も見られますので、行場なのでしょう。
 石舞台の石材を切り出した石切場だとの伝承があるようなのですが、確たる証拠が有るわけではありません。しかし、散在する巨岩には、人工的な加工痕も有るように思われますので、いつの時代か定かではありませんが、石材の採取が行われたものと考えられます。
 不動尊像は、寺伝では空海の作とされ、旱魃のとき雨乞いをして霊験があると鉄製の剣を不動尊に奉納したようです。(『高市郡寺院誌』)



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細川谷古墳群

 多武峰御破裂山から西方に派生する尾根(主に北側尾根の南斜面)には、約200基の古墳があるとされ、細川谷古墳群と呼ばれています。
 この中で、県道見瀬-多武峰線の工事に先立って行われた調査によって確認された古墳は、字名に連番を付けて上○号墳と呼ばれています。


上1号墳 
 1号墳は、橋脚部に在ったと思われますが、現在は消滅しています。調査以前から、石室の一部が露出していたようで、ほとんどの部分が破壊されていたようです。石材を据え付ける掘形からの推測では、2号墳と同程度の径約15mの円墳ではないかと思われます。特徴的なのは、玄室の入口から3分の1程度の所に、仕切りをするような石列が見つかっていることです。


上2号墳 


移築 上2号墳

 気都和既橋の北詰から北西に入った所に在りましたが、現在、南東約60mの地点に石室が移築されています。
 2号墳は径約15mの円墳と考えられ、右片袖式の横穴式石室を主体部としています。石室全長は6.8m、玄室長3.4m、玄室幅2.3mを測ります。玄室床面は、比較的大ぶりで平坦な石を据え、その上に礫を敷き詰めています。出土遺物には、須恵器5点(内1点に漆の残留物)、土師器1点がありました。また、鉄釘2本が発見されていることから、木棺が納められていたと推測することが出来るようです。築造年代は、6世紀末から7世紀初頭と考えられています。


上3号墳
 3号墳は、2号墳(移築石室)の南東10mに在りましたが、現在は消滅しています。調査時には、既に墳丘盛土は失われ僅かに玄室の奥壁付近が残っていたようです。円墳に復元すると、径10mほどの古墳であったとされています。築造年代は、玄室内の構造が2号墳と類似することから、6世紀末から7世紀初頭と考えられるようです。


上4号墳
 棚田の石垣に埋没しており、中世の開墾のため石室の一部を除いて、ほぼ破壊されています。石室幅1.70m、現存長0.50mで南西に開口しています。墳丘規模・形状は、共に不明とのことです。


上5号墳
 5号墳は、2号墳から車道と集落を挟んだ東の尾根上に在ります。墳丘の盛土は全て無くなっているのですが、尾根の地形や残存する石室の規模から約17m程度の円墳だと考えられています。埋葬施設は右片袖式の横穴式石室で、天井石は無くなっていますが、他の石材は落下している石があるものの比較的良好に残っていたようです。現存する石室は、石室長7.41m、玄室長4.29m、玄室幅(中央部)1.59m、高さ2.80mの規模だとされており、急な持ち送りを成していたと考えられます。羨道長は3.12m、羨道幅1.41m~1.59m、高さ1.41mを測ります。

 上5号墳は、盗掘を受けていますが、副葬品などが多数残っていたようです。主なものとしては、馬具(鉄地金銅張の花弁形杏葉、鞍金具、鐙、吊金具、辻金具など)、玉類(ガラス小玉、ガラス丸玉、琥珀棗玉、銀製空丸玉など)、須恵器、ミニチュア炊飯具、耳環、指輪、鉄釘などが有りました。
玄室内で発見された鉄釘の出土状況などから、3基の木棺が埋葬されていたのではないかと考えられるようです。




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気都和既神社


 明日香村大字上字茂古森(大字かむら字もうこの森)にあります。
 祭神は気津別命で、延喜式内社に比定されています。現在は、尾曽・細川の春日神社を合祀していることから、天児屋根命を合わせてお祀りしています。
 気津別命は、飛鳥川に合流する冬野川の守護神だと思われますが、『新撰姓氏録』には「真神田曽禰連、神饒速日命の六世孫、伊香我色乎命の男、気津別命の後なり。」と書かれています。饒速日命(にぎはやひのみこと)に連なる系譜を持った神様ですから、物部氏との関連が気になるところです。
 この茂古森(もうこの森)には、乙巳の変に関わる伝承があり、飛鳥板蓋宮で切られた蘇我入鹿の首に追われ、藤原鎌足がこの森まで逃げてきたというものです。ここまで逃げれば「もう来ぬだろう」と言ったことから「もう来ぬのもり」が「もうこの森」になったとも言われています。境内には、逃げて来た鎌足が腰掛けたという石がありますが、蘇我氏の天敵であった物部氏所縁の神社だから、危機を脱することが出来たのでしょうか。

 入鹿の首の飛翔に関する伝承は多数存在します。最もよく知られているのは、飛鳥寺西方まで飛び、その供養のために建てられたのが現在の入鹿首塚であるとされる伝承です。他にも、首が三重県との境に聳える高見山まで飛んで行ったとされる伝承があり、三重県側の麓の舟戸という集落には、入鹿首塚と伝承される五輪塔や妻と娘が隠れ住んだと言う庵跡(能化庵)まであります。また、橿原市曽我町には、母を慕って首が飛んできて落ちたと言う話が伝わります。


 茂古森のバリエーションとしては、次のような話があります。「ずっと昔、蘇我入鹿と藤原鎌足が喧嘩をし、入鹿は、かむら(明日香村上)のもうこの森と呼ばれるところまで逃げてきた。そして大きな石に腰を掛けて、“もうここまできたら鎌足もよう追いかけては来ないだろう”と言って休んだ」と言うものです。入鹿と鎌足の立場が入れ替わっています。

 さらには、全く違った伝承も残っています。『飛鳥古跡考』には、「鎮守。モウコノ森といふ。守屋、太子を此森迄追たりしに、此所にてやみぬ。されはしかいふと申伝ふ。然らは古き書物に最不来とみゆ」。ここでは、入鹿と鎌足の関係が、物部守屋と聖徳太子に置き換えられています。祭神との関係を考えると、面白い話だと思います。



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坂田寺跡

坂田寺跡 発掘調査遺構概略図

 坂田寺は、鞍作氏の氏寺として建立された飛鳥寺と並ぶ最古級の寺院と考えられています。
創建は、『扶桑略記』によると継体16(522)年に渡来した司馬達等が造った高市郡坂田原の草堂に由来するとされます。また『日本書紀』によれば、用明天皇2(587)年に鞍作多須奈が天皇の為に発願した寺であるとする説や、推古天皇14(606)年に鞍作鳥(止利仏師)が近江国坂田郡の水田20町をもって建てた金剛寺が坂田寺であるとされるなど、創建の経緯には諸説が有ります。
 『日本書紀』朱鳥元(686)年には、天武天皇の為の無遮大会を坂田寺で行ったことが記されており、五大寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺・坂田寺)の一つに数えられています。

 現在、確認されている遺構は、奈良時代の寺院跡です。周辺は、8世紀後半に谷筋を埋め立て雛壇状に整地する大規模な造成工事が行われています。伽藍中軸線はやや西に振れ、回廊と東で回廊に取りつく須弥壇を伴う仏堂が確認されています。また、南北56m、東西63mを測る回廊内には、全体の規模は不明ですが2棟分の基壇建物跡が検出されています。西南の基壇跡からは、羽目石、葛石など基壇外装に用いられたと思われる石材が出土しています。奈良時代の坂田寺造営には、正倉院文書などに名を残す信勝尼の力が大きかったと考えられます。
 10世紀後半には、背後からの土砂により各堂宇は倒壊し、以後再建・修復される事はなかったようです。(両槻会サイト「第30回定例会配布資料」を参照ください。)



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葛神社


 阪田村字宮地に鎮座します。祭神は、気吹戸主命と天児屋根命とされますが、本来、九頭龍つまり龍神を祀る神社で、九頭龍大明神とも称されてきました。拝殿には、雨乞いに関連する「なもで踊り」や龍の絵馬などが掲げられています。

 以前には、藁で蛇の形を作って飛鳥川の淵に浸け、雨乞いの祈願をしたと伝えられています。大和盆地には、秋の豊作を祈願する農耕儀礼「野神さん」(藁で蛇体を作り、神木などに巻きつける。)が多くみられますが、葛神社のものも類似した水神信仰だと思われます。

 また、式内社加夜奈留美命神社を栢森にある神社ではなく、この葛神社にあてる説もあるようです。
 






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都塚古墳


 墳丘の上で元旦に金の鶏が鳴くという伝説が有り、別名「金鳥塚」とも呼ばれます。墳丘は、一辺約28m、高さ約5m弱の方墳だとされますが、円墳の可能性も残すようです。

 石室は両袖式横穴式石室で、刳貫式家型石棺が納められているのを現在も見ることが出来ます。また、棺台と思われる石の存在から、木棺が追葬されたと考えられるようです。

 石室規模は、全長12.2m、玄室5.3m、幅2.5~2.95m、高さ3.1~3.55m、羨道長5.9m、幅1.9~2.0m、高さ1.9mを測ります。
 石室側壁は、2段目の石から内傾しており、持ち送りとなっています。

 盗掘を受けていますが、出土遺物には土師器、須恵器の破片、鉄製品(鉄釘、鉄鏃)の断片などがありました。



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島庄遺跡西部地区

 島庄遺跡西部地区は、飛鳥川右岸に広がります。幾つかの調査区が設けられ、発掘調査が行われていますが、飛鳥時代の遺構はほとんど見つかっていません。しかし、何も無いということも情報の一つになります。建物が無いということは、水田や耕作地であった可能性があるからです。現状も水田が広がっていますので、1400年前と変わらない景観を留めているのかもしれません。
 これまでに唯一検出されていたのは、西部地区の北端で、素掘溝と周辺を含めて再造成した後に造られた石組溝だけでした。

 2013年2月9日に明日香村発掘調査報告会があり、そこで新たな発見の報告が行われました。
 飛鳥遊訪マガジン第155号にて、あい坊先生が解説をしてくださっていますので、一部引用することにしました。以下、引用文。
今回の調査地は、大型駐車場西側の遺跡西部にあたる地域です。ここでは掘立柱塀が2条確認されました。掘立柱塀①は2.1~2.4m間隔で7間分確認されています。柱掘形は一辺1.3mの大型柱穴で、その方位は北から西へ25度振れています。一方、掘立柱塀②は1.8~2.1m間隔で8間分確認されています。柱掘形は一辺70cmと小型で、ほぼ正南北をしています。重複関係から掘立柱塀①→掘立柱塀②の変遷がわかりますが、出土遺物からは時期を特定できません。しかし、遺構の重複関係や方位からみて、掘立柱塀①がI期前半、掘立柱塀②がIV期と推定されます。
 ここで重要なのは、ふたつの遺構がいずれも南北塀であることです。この場所は南部地区の建物群の西にあたり、ここより西には顕著な遺構が確認されていません。特に、掘立柱塀①は大型の柱掘形をもつ塀であることから、嶋家を囲む西辺の塀の可能性が高いと考えられます。また、掘立柱塀②も、柱掘形規模はやや小さいものの、掘立柱塀①と同じ位置での南北塀であることから、嶋宮の西辺塀の可能性があります。この塀を境に、飛鳥川までの範囲が、経済基盤にかかわる耕作地としての空間であったと推定できます。
 以上

Ⅰ期 7世紀前半 蘇我馬子の嶋家 北から西へ25度振れる
Ⅱ・Ⅲ期 7世紀中頃前後 ふたりの嶋皇祖母命  
Ⅳ期 7世紀後半 草壁皇子の嶋宮 正方位

島庄遺跡変遷図
(各図は、クリックで拡大します。
島庄遺跡 遺構配置概略図 Ⅰ‐A期
島庄遺跡 遺構配置概略図 Ⅰ‐B期
島庄遺跡 遺構配置概略図 Ⅱ期
島庄遺跡 遺構配置概略図 Ⅲ期
島庄遺跡 遺構配置概略図 Ⅳ期
島庄遺跡 遺構配置概略図 全体図



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東橘遺跡


 遺跡は、橘寺東門から東約200mに所在し、現状はイチゴ栽培のビニールハウスが数棟建っています。
 検出された遺構は、中央の掘立柱建物(4間×3間 <桁行と梁行で寸法が違う> )に、東西それぞれ廊状の建物がとりつきます。廊状の建物は、梁行1間で、桁行は7間以上が確認されています。
 建物の方位(北で26度西偏)は、島庄遺跡で検出される7世紀中頃以前の遺構の方位と近似しており、同時代の遺構だと考えられています。また、柱穴掘形から出土した土器も年代に矛盾がなく、7世紀中頃には飛鳥川左岸にも大規模な施設が展開していた可能性が示されました。
 建物は、中心的な建物が南に続くとみられ、柱穴規模などから「ロ」の字や「コ」の字に廊状建物で囲まれた庇つき正殿クラスの建物の存在が推測されています。



東橘遺跡復元建物 (飛鳥資料館ロビーのジオラマより)
転載・転用不可

 明日香村教委 相原嘉之先生は、この建物が中大兄皇子の宮殿ではないかと考えられています。
 『日本書紀』皇極3(644)年6月条「遥遥に 言そ聞こゆる 嶋の藪原」、この謡歌の解釈が翌年に次のように記載されています。『日本書紀』皇極4(645)年6月条「宮殿を嶋大臣の家に接ぜて起てて、中大兄、中臣鎌足連と、密に図りて、入鹿を戮さむと謀れる兆なり」。これらのことから、中大兄皇子の宮殿は、嶋大臣の家の近くに在ったと考えられます。東橘遺跡の建物は、建設時期、方位、規模などから、中大兄皇子の宮殿と考えても矛盾が生じないように思われます。



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橘寺


橘寺西門付近

 橘寺は、聖徳太子が勝鬘経を講読した際に起きた瑞祥を機に建てられたと伝承されますが、創建年代などの詳細は、考古学的には不明とされています。史料としては、『日本書紀』天武天皇9(680)年条に「橘寺の尼房で失火があり十房焼いた。」が初出になります。この頃には、ある程度の伽藍が完成しており、創建当初の橘寺は尼寺であったと考えられています。

 奈良時代には、川原寺南門と正対するように橘寺には北門が設置され、僧寺の川原寺に対して、尼寺である橘寺が整備されたと考えられています。これらの整備には、聖徳太子信仰に熱心であった光明皇后や橘寺の善心尼が大きな力となったと思われます。この時期、嶋宮の御田が橘寺に施入されています。

 橘寺の発掘調査は、昭和28年以降に21回行われており、当初、東に向いた四天王寺式伽藍配置であるとされました。


橘寺旧伽藍図

 ところが、後半の発掘調査で講堂跡の北東外側に西面が揃う凝灰岩の地覆石の石列が検出され、この石列が回廊跡の一部だとすると、回廊が金堂と講堂の間で閉じていた可能性が高くなります。講堂を回廊の外側に配置する伽藍様式を、山田寺式伽藍配置と呼びます。橘寺も山田寺式伽藍配置の可能性が出てきました。ただ、検出された石列が短く、あまりにも講堂跡に近接しているために、回廊が金堂と講堂の間を通っていたとするには、更なる考古学的検証が必要なようです。出土する瓦には、素弁蓮華文軒丸瓦(花組)や山田寺式単弁軒丸瓦、川原寺式複弁軒丸瓦などがあります。これらのことから、金堂は7世紀前半、塔は7世紀中頃に造営が開始されたと考えることが出来るようです。

 橘寺の塔心礎は、基壇面の下1.2mにあり、心柱穴は、直径約0.8mで、添柱穴が三ヶ所作り出されています。このような様式は、野中寺や若草伽藍などのものが知られますが、地下式心礎と共に古い様式であると考えられます。

 創建当時の塔は、推定の高さ36mの五重塔として復元が出来るようです。また、塔内の荘厳には磚仏が用いられていたとされています。



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川原寺

川原寺遺構概略図
クリックで拡大します。
 川原寺は、北面大垣の検出で南北長約300mと飛鳥寺に匹敵する規模を誇る巨大寺院であったことがわかってきました。しかし、川原寺が正史に登場するのは、『日本書紀』天武天皇2(673)年条「初めて一切経を川原寺に写す」という記事になり、創建については不明な部分が多く残ります。

 伽藍は、中金堂に繋がる回廊が西金堂と塔を取り囲みます。また、北に講堂があり、その三方を僧房が巡ります。このような様式を川原寺式伽藍配置と呼びます。川原寺は、さらに西側に渡廊と呼ばれる回廊が続いていると推定されています。
 川原寺式伽藍配置は、南滋賀廃寺や太宰府の観世音寺など、天智天皇に深く関連を持つ寺院にみられます。

 川原寺は、鎌倉時代に焼失しますが、9世紀にも大火災に遭っています。
 川原寺の西北にある丘陵の南側斜面には長径約4m、短径3m、深さ約2mの楕円形の穴が掘られ、その中に火災にあった仏像や荘厳具などが埋納されていました。これが、川原寺裏山遺跡です。遺物は、その殆どが火災による熱を受けていましたが、方形三尊磚仏は千数百点、塑像は数百点におよび、金銅製金具など仏教関連の遺物も出土しました。出土した塑像には、如来形・菩薩形・天部等の部分があり、丈六仏像の断片らしい指や耳の破片も多量の螺髪とともに出土しています。なかでも特に、天部の頭部塑像断片や迦楼羅像は、美術的にも価値のあるものだとされています。

 川原寺の焼失については、藤原兼実の日記である『玉葉』にも記事があり、建久2 (1191)年に興福寺の使僧が川原寺焼失を上申したことが記されているようです。この火災は川原寺の二度目の大火災となり、発掘調査の結果、この建久の火災は伽藍全体に及ぶ大火であったようです。



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亀石

亀石は、その愛らしい表情が「亀」のようであることから「亀石」と称される長さ約3.6m、幅約2.1m、高さ約1.8mの石造物です。
 案内板には次のような話が伝説として書かれています。
「むかし、大和が湖であったころ、湖の対岸の当麻と、ここ川原の間にけんかが起こった。長いけんかのすえ、湖の水を当麻に取られてしまった。湖に住んでいたたくさんの亀は死んでしまった。何年か後に亀をあわれに思った村人達は、亀の形を石に刻んで供養したそうである。今、亀は南西を向いているが、もし西を向き当麻をにらみつけたとき、大和盆地は泥沼になるという。」
 亀石は、橘寺の西約500mに所在しますが、現地名は「明日香村川原」になり、川原寺とともに国の史跡指定をうけています。

 永久4(1116)年の『弘福寺住僧彦印解』の中に、「亀石垣内」という記載があることから、当時はこの付近まで川原寺の寺域であったと推定され、亀石は川原寺の四至を示すために設置されたとの説もあります。



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川原下ノ茶屋遺跡


 この遺跡からは、飛鳥時代のメインストリートの交差点が検出されています。

 東西道=道路幅約12m、側溝幅約1m・深さ約40cm、北側は石組溝、南側は素掘溝。
 南北道=道路幅約3m、側溝幅30cm・深さ20cmの素掘溝。

 東西道路は直線道路と考えられ、西は下ツ道に交わり、東は飛鳥宮内に続くと思われます。
 この道路は、川原寺の南門と橘寺の北門の間を通ることから、道路の成立年代については川原寺建立以前に求めることが出来るかも知れません。川原寺の創建は、近江遷都以前の天智天皇の頃とする見方が有力ですので、道路の成立も7世紀第3四半期と考えることが出来るでしょう。(天武朝とする見解もあります。)
 川原下ノ茶屋遺跡では、この東西直線道に直交する南北道も検出されています。道路は藤原京遷都後(7世紀末ごろ)廃道になったと考えられています。

 交差点の地下約10cmには、平らな石(榛原石)が埋められており、軟弱な地盤を強化するための基礎工事が施されていました。
 まさに、飛鳥の中心部と幹線道を結ぶメインストリートであったのでしょう。



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鬼の俎・雪隠古墳

 明治31年以来、欽明天皇檜隈坂合陵の陪冢のひとつとして宮内庁の管轄になっています。
 この奇妙な名前は、昔この辺り(霧ヶ峰)に鬼が棲み、旅人を捕えては上の俎で調理して食らい、下の雪隠で用を足したという伝承に由来するようです。

 俎は、長さ約4.3m、幅約3.3mをはかり、一段高くなった部分(長さ約2.79m、幅約1.54m)が石槨の床面にあたります。中央に残る幅30cm、深さ20cmほどの柄穴は、扉の閉塞石に伴うものだとも考えられますが、形状などの詳細は不明です。

 横方向に残る楔跡は、陪冢に指定される以前、石材の再利用のために打ち割ろうとされた痕跡だと考えられます。

 雪隠は、深さ約1.3mの刳り貫きがあり、側壁と天井石を兼ねる石槨の覆いになる部分になりますが、上下逆になっているために空間部分を曝しています。入口付近には、閉塞のためと思われる溝も掘り込まれています。

 鬼の俎・雪隠古墳は、横口式石槨の変遷過程においても重要な位置を占める古墳になります。

 鬼の俎の東側の竹藪は平坦になっており、もう一基の石槨が在ったと考えられています。
終末期に属する刳貫式横口式石槨墳であったようで、鬼の俎・雪隠古墳とは一つの墳丘を共有する双墓であったと考えられるようです。その石槨の石材は割られているのですが、橿考研附属博物館の建物東側に野外展示されています。

 鬼の俎・雪隠古墳は、天武・持統陵から欽明天皇陵に至る同丘陵上にある点など、被葬者は皇族あるいは限られた高位高官の者であった可能性が高いと思われます。



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カナヅカ古墳

 カナヅカ古墳は、終末期の古墳です。現在は宮内庁によって欽明天皇檜隈坂合陵の陪冢に治定されていますが、指定されている範囲は墳丘の一部分であり、その全容を含めたものではありません。

 現在は小さな墳丘に見えるのですが、築造当時は墳丘前面に東西60m、南北25mの大規模なテラスを持っており、その上に築かれた一辺約35mの二段築成の方墳であったと考えられます。埋葬施設については、破壊される以前の明治23年の資料から、切石を用いた大型の横穴式石室であったことが明らかになっています。

 資料の中には羨道と玄室の二種類の石室図が描かれており、切石(石英閃緑岩)を用いた両袖式の横穴式石室で、玄室壁面は二段積みであったことがわかりました。また石室の壁面の石組も、右壁と奥壁が上段1石、下段2石、左壁は上下段各2石となっています。
 これらのデータから判断すると、カナヅカ古墳は岩屋山式石室の範疇に入る様式を示し、7世紀中頃以降に築造された古墳であると考えられます。

 被葬者については、延喜式によると欽明天皇檜隈坂合陵(梅山古墳)の兆域内に吉備姫王墓が存在することが記されていることや、年代に矛盾がないこと、墳丘の規模などから、斉明天皇の母の吉備姫王の可能性が高いとする説が有力になっています。



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欽明天皇陵(檜隈坂合陵)

 現在、宮内庁により檜隈坂合陵に治定されているのは、明日香村平田字ムメヤマに在る梅山古墳と呼ばれる前方後円墳です。

 現在の墳長は約140mとされていますが、南側や後円部などが削られていることから、築造時はもう少し大きかったと考えられるようです。後円部径は
73m、前方部幅は107mを測ります。
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 東西に走る尾根の南斜面に東西方向に造られていますが、斜面をカットして平坦面を造成して構築したものだと考えられています。

 墳丘は、北側が2段、南側が3段に築成されています。また、周濠は北側に比べ、南側が広く造られていることが分かります。南側には高さ1.5m、上面の幅約11mの造出部が在りました。

  これらの事は、この古墳が南から見るときに、より壮大に見える工夫がなされていたことを物語ります。所在地は、紀路から飛鳥に入る玄関口にあたる地点にあたります。この古墳が目立つ位置に在った点も、被葬者を考えるうえで重要な要素ではないかと考えられます。

 周濠は、周辺の小字名などから二重濠であったとする説もあり、またそれは江戸時代の修築によるものだとする考えなど、確かなことはこの資料作成時には分かりませんでした。
 平成9年に墳丘南側の護岸工事に伴い、調査が行われています。この調査では、造出が確認され、その地点での葺石が確認されました。これは、『日本書紀』推古28(620)年8月条「冬十月に、砂礫を以て檜隈陵の上に葺く」の記事に合致するものと考えられます。
 また、造出の南には、小字「ツクエ」や猿石が出土した小字「イケダ」があり、欽明天皇陵の祭祀と何らかの関わりを示すものではないかとも考えられるようです。
 なお、五条野丸山古墳を、欽明天皇陵だとする説もあります。



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吉備姫王檜隈墓・猿石

 吉備姫王は、欽明天皇の孫で皇極天皇、孝徳天皇の母であり、天智・天武天皇の祖母に当たる方です。墓は、8m程度の小円墳とされているようですが、考古学的な裏付けはありません。古墳ではないと考える専門家も居られるようですが、現在は欽明天皇陵の陪冢として宮内庁から治定されています。

 吉備姫王墓には、4体の猿石と呼ばれる石造物が置かれています。左から、女・山王権現・僧・男と呼ばれていますが、僧を力士と見る説も注目されています。
 猿石は、江戸時代の元禄年間に、平田字イケダの水田から出土したことが知られていますが、それ以前の記録としては、平安時代末の『今昔物語集』に欽明天皇檜前ノ陵に「石の鬼形共」があると書かれています。このように、平安時代末には欽明天皇陵付近に並べられていたようですが、製作されたと思われる飛鳥時代から平安末までの時期には、どこにあったのかは不明です。

 『大和名勝志』という江戸時代の書物には、字イケダから掘り出された猿石は5体あったことが記されています。その1体を土佐の大円寺に移したとされていて、これが高取町にある光永寺の人頭石(顔石)ではないかと考えられ、高取城に置かれる猿石と共に同類の石造物だと思われます。
江戸時代の出土後は、再び欽明天皇陵の前方部南側に置かれていました。現在地には、明治の初めの陵の整備工事に伴い移動されたものと思われます。

 猿石には、道祖神説や石の埴輪説、また平田キタガワ遺跡で検出された庭園遺構に伴う石造物、あるいは伎楽をモチーフにした石造物説などがあります。


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平田キタガワ遺跡

 飛鳥京の第Ⅲ期に類似した石敷きと、石組護岸・敷石・石列が検出されています。出土遺物が極めて少なく、時代を特定出来ないようですが、石敷きの特徴などから斉明朝の遺構である可能性が考えられています。遺構の性格についても、断定できるものは検出されなかったのですが、飛鳥地域南西部に存在した特殊な目的のために作られた公的な施設であることは、ほぼ間違いないと思われます。

 第一次調査区で検出された石敷遺構は、人頭大の川原石を敷き詰めたもので、遺構面を北から南にかけて緩やかに傾斜を持たせています。また特徴的なのは、敷石に模様を作っていることです。目地のように5mにわたって直線状に並ぶ部分や、大振りな石の周辺を同心円状に廻る部分がありました。

 第二次調査区では、石積護岸が検出されていますが、1m大の石を二段に横積みし、その上に30cm大の石を2~3段に積んで、高さを調整しているようです。護岸は、東西方向の直線になっており、検出されたのは12mですが、地中探査の結果、150m以上に及ぶことが確認されています。南北には、調査区が狭いため広がりを確認できなかったようですが、水を利用する施設があったことが推測されています。

 平田キタガワ遺跡の立地は、天武・持統陵へと続く谷筋になっており、湿地帯であったことが調査においても分かっています。そこをあえて埋め立てて飛鳥京に匹敵する石敷きと護岸を持つ水の施設を作っていることになります。
 平田キタガワ遺跡は、紀路を通って飛鳥中心部に入ってくる入口になります。紀路はこの付近では、ほぼ現在の国道169号線に重なりますので、ここには、石神遺跡のような迎賓館的施設が建てられていたことが推測されています。


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飛鳥時代系図
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