両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第41回定例会

両槻会主催講演会

飛鳥時代の土木技術



事前散策資料

作製:両槻会事務局
2013年11月2日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
蓮台寺 大臣藪 春日神社 吉備池廃寺跡
磐余池 大藤原京左京五条八坊 磐余地名伝承 稚桜神社
御厨子神社 御厨子山妙法寺 天香具山 天香具山の埴土
国見の歌 日向寺跡 法然寺 中の川
大官大寺跡 奥山廃寺跡 山田道 高松塚古墳
酒船石遺跡 塔跡の規模 大陸・韓半島 参考マップ 関連系図
東アジア国家変遷表 関連年表 当日レポート  飛鳥咲読
青木敬先生寄稿 「第41回定例会を前に」 両槻会 -


この色の文字はリンクしています。

蓮台寺


本堂前(2010年11月13日 第23回定例会での様子

 寺伝によれば、天平年間(729~749)の行基開基と言われ、吉備真備が浄刹をこの地に建立し、心楽寺と命名、大日如来・地蔵菩薩を安置したのが始まりとされます。桜井市吉備付近は、俗に吉備真備をはじめとする吉備氏の別業地と伝えられています。境内には、吉備大臣の墓と伝えられる五輪塔がありますが、銘は、徳治2年(1307)となっています。
 発掘調査により境内から、大藤原京一条大路(横大路と藤原宮北面の中間道路)に伴う深さ
約2mの道路側溝の一部が検出されています。


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大臣藪


 吉備交差点の南西にある竹藪は大臣藪・大臣屋敷とも呼ばれていますが、発掘調査の結果、中世の城砦跡だと判明しています。
 吉備池の北にある春日神社は、江戸時代にこの地より遷座されたと言われています。


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春日神社

 祭神は、天児屋根命・姫大神・武甕槌命・経津命になります。本殿向って左に天武天皇を祀る天武天皇社があります。境内には、「神武天皇聖蹟磐余邑顕彰碑」と大津皇子の漢詩と大伯皇女の歌が並べて彫られた石碑があります。


金烏臨西舎 (金烏 西舎に臨み)
鼓聲催短命 (鼓声 短命を催す)
泉路無賓主 (泉路 賓主無し)
此夕離家向 (この夕 家を離れて向ふ) 
                  (懐風藻 大津皇子)

神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
                  (万葉集 巻2-163 大伯皇女)


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吉備池廃寺跡



 付近では、古くから瓦片の散布が知られ、瓦窯跡が想定されていましたが、発掘調査で巨大な基壇が2基確認されたことにより、古代寺院跡であることが判明しました。跡地が江戸時代に造成された農業用溜め池である吉備池と重複していることから、吉備池廃寺と呼ばれています。

 出土遺物から、7世紀前半の造営と推定され、舒明天皇11年(639)に発願された百済大寺跡である可能性が高いとされています。

 伽藍は、金堂と塔を東西に配置する法隆寺式伽藍配置になります。しかし、中門が伽藍中軸線を外れた金堂と塔の南にそれぞれ想定されるという特異な形態になります。寺域は、南方で検出された東西溝2条と地形などが考慮され、東西230m・南北280m以上と推定されています。

 金堂は吉備池の南東隅に接し、基壇規模は東西37m・南北28m・高さ2m以上になり、約1mの掘込地業が施されていました。塔は吉備池のほぼ南辺中央で、基壇規模は1辺約32m・高さ約2.8mと推定されています。飛鳥時代の塔は、飛鳥寺では約12m四方、若草伽藍でも
約16m四方と推定されていますので、この塔基壇は、『日本書紀』舒明天皇11年12月にみえる百済大寺の九重塔とするに相応しい規模を持っていたことが分かります。心礎は残存せず、抜取穴から出土した土器より、7世紀後半には抜き取られていたことがわかっています。

 回廊は、北面を除く三方で部分的に確認され、幅6.8mの単廊で、東西規模は約153mに復元できるようです。講堂跡は、金堂と塔の北に推定されていますが、池の掘削によって消滅してしまったのか検出されていません。この他、中門の南では南門と思われる遺構が検出されています。また、池の北方では複数の建物跡が検出され、僧房に推定されています。これが、僧房だとすれば、現在発見されている最古の僧房跡になります。


吉備池廃寺式軒瓦 (奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室展示品)

 創建に使用された軒瓦は、単弁八葉蓮華文軒丸瓦と型押忍冬文軒平瓦になります。この軒丸瓦は、舒明天皇13年(641)に造営が開始された山田寺式よりも古い様相を持ちます。同笵品は、木之本廃寺(橿原市)・四天王寺(大阪)・海会寺(泉南市)などから出土しており、軒平瓦に押印された忍冬唐草文は、斑鳩寺(若草伽藍)と同笵であることもわかっています。


桜井埋蔵文化財センター収蔵品
 2012年の発掘調査では、斑鳩寺や四天王寺と同笵の素弁八葉蓮華文軒丸瓦が一点出土しています。伽藍との関わりは不明ですが、この瓦は、斑鳩寺から四天王寺に瓦笵がもたらされたことがわかっています。吉備池廃寺で出土したものは、四天王寺のものよりも笵傷が進行しているため、四天王寺から瓦笵か瓦自体が移動してきたと考えられています。

 吉備池廃寺式軒丸瓦の年代観や四天王寺や斑鳩寺との繋がりは、吉備池廃寺を百済大寺跡と考える傍証のひとつになります。
また、四天王寺との繋がりに関しては、『大安寺縁起并流記資財帳』皇極天皇元年(642)に百済大寺の造寺司に任命されたとある阿倍倉梯麻呂が関係しているとも言われています。

舒明天皇11 639 百済大寺発願・書直県を大匠とする 日本書紀
百済大寺発願
九重塔と金堂の石鴟尾を焼破
大安寺縁起
皇極天皇元 642 百済大寺の南の広場で大雲経等を読ませる
大寺建立のため近江と越の人夫を動員
日本書紀
白雉 2 651 袁智天皇(皇極)、繍仏を百済大寺に施入。 大安寺縁起
阿倍倉梯麻呂・穂積百足を造寺司に任命 大安寺縁起
天智天皇 7 668 丈六釈迦仏ほか諸像を百済大寺に安置 扶桑略記
天武天皇 2 673 美濃王・紀臣訶多麻呂を造高市大寺司に任命 日本書紀

 百済大寺は、寺名の変更を繰り返しつつ、一貫して官の大寺であり続けた様子が史料から窺えます。

 推古・皇極と飛鳥時代の女帝に挟まれ記録のうえでは影の薄い舒明天皇ですが、百済大寺はその規模だけでなく、伽藍配置や瓦の文様なども前代と一線を画そうとしたように思えます。飛鳥の地を離れ、新たな技術で新たな意匠の大宮と大寺を造営しようとした舒明天皇の目指したものとは、いったいなんだったのでしょう。

 吉備池廃寺では、瓦の出土量が少なく、礎石や基壇外装用の石材なども検出されていないことから、完成せずに移築されたとする説もあり、まだまだ多くの謎を残します。

基壇の版築模式図


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磐余池

ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(万葉集 巻3-416 大津皇子)

 大津皇子の辞世の句として知られるこの歌は、朱鳥元年(686)に謀反の罪で飛鳥浄御原宮から皇子の宮のある訳語田まで連行される途上で詠んだとされています。磐余池は、『日本書紀』履中天皇2年に「磐余の池を造った」と記され、履中天皇が妃とともに船を浮かべて遊宴したことが書かれています。

 磐余池が所在した古代の磐余は、『日本書紀』には神功皇后・履中天皇の「磐余稚桜宮」のほか、清寧天皇の「磐余甕栗宮」、継体天皇の「磐余玉穂宮」、用明天皇の「磐余池辺雙槻宮」が築かれたとあります。また、『日本霊異記』には雄略天皇の宮(行宮)や、『上宮聖徳法王帝説』には崇峻天皇の「石村(いわれ)神前宮」の名もみえます。飛鳥に宮が移る6世紀後半までの磐余は、政の中心となった重要な地域であったことがわかります。


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大藤原京左京五条八坊(中嶋遺跡)

 遺跡の所在地は、香具山の北東山麓、橿原市東池尻町から桜井市池之内になります。
付近は、東西の丘陵をつなぐように土手状の高まりが延びています。この地形は、谷を堰き止めて池とした古代によく見られる溜池の堤ではないかと考えられていました。
2011年から行われた橿原市教育委員会の発掘調査によって、池の堤跡が確認され「磐余池か?」と報道されました。堤は、戒外川の東を起点に西方の御厨子観音のある丘陵まで延び、最大幅は55mに及ぶと推定されています。

 堤上では、数時期に分かれる大壁建物跡、掘立柱建物群や塀跡が確認されました。大壁建物は、池の築造に渡来系の人々が関与したことを示すものだとされています。堤上からの見晴らしは良かったと思われることから、掘立柱建物群や塀は、池に付属する施設であったと考えられています。


推定磐余池周辺マップ

 築堤の時期は、6世紀後半以前とされ、堤の南方100mほどの地点で確認された堆積土から、池は少なくとも7世紀初頭まで機能していたことがわかっています。
また、堤の北東裾では6世紀後半から7世紀末までの3度にわたる盛土と護岸のために敷設されたと考えられる石敷きが確認され、7世紀末頃(藤原宮期)には、版築によって改修もしくは再構築が行われたとされています。

 堤と池の堆積土が確認されたことにより、付近に古代の池があったことは確実になりました。しかし、「磐余池」が築かれたとされる古代の「磐余」の範囲が未だ確定されていないため、ここを「磐余池」と断定する根拠に乏しいとされています。
 (参考:2011年大藤原京左京五条八坊の調査2013年大藤原京五条八坊の調査/橿原市)

 古代の磐余については、あい坊先生の寄稿『飛鳥・藤原の考古学』「舒明朝の王宮と寺院」を参照ください。

磐余の範囲 磐余池の位置
和田説 寺川左岸の香久山北麓
(倉橋付近から東光寺山、戒重の幸玉橋、耳成山、香久山を結んだ広範囲)
橿原市東池尻町から桜井市池ノ内
千田説 安倍山・東光寺山周辺を中心とした一帯 横大路の南、上ツ道の西
(現在の阿部交差点付近)
あい坊説 安倍山を中心とした一帯 安倍山の北西
(小字西池田・東池田・南池田の約200m四方)



磐余・磐余池 参考マップ
(クリックで拡大します。)


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磐余地名伝承

 磐余という地名は、『日本書紀』神武即位前紀 戊午年9月5日の条に初めて登場します。
それによると「東征途上の神武天皇が、いよいよ大和の地に入ろうとして宇陀の高倉山の山頂から域(くに)の中をはるかに展望すると、国見丘の上に八十梟師(やそたける)有り、・・・中略・・・復兄磯城(えしき)の軍有りて、磐余邑に布(し)き満(いは)めり。賊虜の拠る所は、皆是要害の地なり。故、道路絶え塞りて、通らむに処なし」と書かれています。

 また、『日本書紀』神武即位前紀 己未年2月20日の条には、より詳しく、地名の起源が語られています。「夫れ磐余の地の舊(旧)の名は片居(かたゐ)。亦は片立(かたたち)と曰ふ。我が皇師(みいくさ)の虜(あた)を破るに逮りて、大軍集ひて其の地に満(いは)めり。因りて改めて號けて磐余とす。」とあり、さらに異説として、「或の曰はく、天皇往(むかし)厳瓮(いつへ)の粮を嘗(たてまつ)りたまひて、軍を出して西を征ちたまふ。是の時に、磯城の八十梟師彼處に屯聚(いは)み居たり。故、名づけて磐余邑と曰ふ。」とあります。
 両説話とも、多数の人が満ちていたので「いわれ」と名付けたとされています。
 (下記原文参照)


【日本書紀 卷第三 神武天皇即位前紀 戊午年九月条 原文】

 九月甲子朔戊辰 天皇陟彼菟田高倉山之巓 膽望域中 時國見丘上則有八十梟帥 【梟帥 此云多稽】又於女坂置女軍 男坂置男軍 墨坂置炭 其女坂 男坂 墨坂之號 由此而起也 復有兄磯城軍 布滿於磐余邑 【磯 此云志】賊虜所據 皆是要害之地 故道路絶塞 無處可通 天皇惡之 是夜自而寝 夢有天神訓之曰 宜取天香山社中土 【香山 此云介遇夜摩】以造天平瓮八十枚 【平瓮 此云邏介】造嚴瓮 而敬祭天神地祇 【嚴瓮 此云怡途背】亦爲嚴呪詛 如此 則虜自平伏 【嚴呪詛 此云怡途能伽辭離】天皇祇承夢訓 依以將行 時弟猾又奏曰 倭國磯城邑 有磯城八十梟帥 又高尾張邑 【或本云 葛城邑也】有赤銅八十梟帥 此類皆欲與天皇距戰 臣竊爲天皇憂之 宜今當取天香山埴 以造天平瓮 而祭天社國社之神 然後撃虜則易除也 天皇既以夢辭爲吉兆 及聞弟猾之言 益喜於懐 乃使椎根津彦 著弊衣服及蓑笠 爲老父貌 又使弟猾被箕 爲老嫗貌 而勅之曰 宜汝二人 到天香山 潛取其巓土 而可來旋矣 基業成否 當以汝爲占 努力愼歟 是時 虜兵滿路 難以往還 時椎根津彦 乃之曰 我皇當能定此國者  行路自通 如不能者 賊必防禦 言訖徑去 時群虜見二人 大咲之曰 大醜乎【大醜 此云鞅奈瀰句】老父老嫗 則相與闢道使行 二人得至其山 取土來歸 於是 天皇甚悦 乃以此埴 造作八十平瓮 天手抉八十枚【手抉 此云多衢餌離】嚴瓮 而陟于丹生川上 用祭天神地祇 則於彼菟田川之朝原 譬如水沫 而有所呪著也 天皇又因之曰 吾今當以八十平瓮 無水造飴 々成 則吾必不假鋒刃之威 坐平天下 乃造飴 々即自成 又之曰 吾今當以嚴瓮 沈于丹生之川 如魚無大小 悉醉而流 譬猶葉之浮流者 【此云磨紀】吾必能定此國 如其不爾 終無所成 乃沈瓮於川 其口向下 頃之魚皆浮出 隨水 時椎根津彦 見而奏之 天皇大喜 乃拔取丹生川上之五百箇眞坂樹 以祭諸神 自此始有嚴瓮之置也 時勅道臣命 今以高皇産靈尊 朕親作顯齋 【顕齋 此云于圓詩怡破】用汝爲齋主 授以嚴媛之號 而名某所置埴瓮 爲嚴瓮 又火名爲嚴香來雷 水名爲嚴罔象女 【罔象女 此云瀰菟破廼迷】粮名爲嚴稻魂女 【稻魂女 此云于伽能迷】薪名爲嚴山雷 草名爲嚴野椎



【日本書紀 卷第三 神武天皇即位前紀 己末年春二月 原文】

 己末年春二月壬辰朔辛亥 命諸將練士卒 是時 層富縣波丘岬 有新城戸畔者 【丘岬 此云塢介佐棄】又和珥坂下 有居勢祝者 【坂下 此云瑳伽梅苔】臍見長柄丘岬 有猪祝者 此三處土蜘蛛 並恃其勇力 不肯來庭 天皇乃分遣偏師 皆誅之 又高尾張邑 有土蜘蛛 其爲人也 身短而手足長 與侏儒相類 皇軍結葛網 而掩襲殺之 因改號其邑曰葛城 夫磐余之地 舊名片居 【片居 此云伽韋】亦曰片立 【片立 此云伽知】逮我皇師之破虜也 大軍集而滿於其地 因改號爲磐余 或曰 天皇往嘗嚴瓮粮 出軍西征 是時 磯城八十梟帥 於彼慮屯聚居之 【屯聚居 此云怡波瀰萎】果與天皇大戰 遂爲皇師所滅 故名之曰磐余邑 又皇師立誥之處 是謂猛田 作城處 號曰城田 又賊衆戰死而僵屍 枕臂處呼爲頬枕田 天皇以前年秋九月 潛取天香山之埴土 以造八十平瓮 躬自齋戒祭諸神 遂得安定區宇 故號取土之處 曰埴安


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稚桜神社


稚桜神社遠望

 神功皇后・履中天皇の磐余稚桜宮跡と伝えられています。祭神は、気息長足姫命(神功皇后)・出雲色男命・去来穂別命(履中天皇)になります。

 『日本書紀』には、履中天皇3年に天皇が妃たちと磐余市磯池に舟を浮かべて遊んでいる時に、杯に桜の花びらが舞い落ちたことから「稚桜宮」と名付けられたと記されています。

 桜井市の谷に「稚桜神社」と同音の社「若桜神社」があり、史料での混同もみられるようです。


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御厨子神社

 祭神は、根裂神・安産霊神・誉田別命になります。雄略天皇の第三皇子である清寧天皇の磐余甕栗宮跡と伝わります。


 境内には、長さ3.7m、高さ1.4m、幅1.9mの「月の輪石」があり、中央部の亀裂は40cmに及びます。「月の輪石」は、根裂石とも言われ、祭神の根裂神との関連が窺えそうです。
 古くは、社名は水尻神社と書き表され、社のある森は「壇上(たかみくら)の森」と呼ばれていたようです。


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御厨子山妙法寺

 俗称 御厨子観音は、吉備真備が子の善覚律師に命じて観音堂を建立させたことに始まるとされています。境内から飛鳥時代の瓦が出土しているようですが、詳細は不明です。往時には、北室院、南室院などの堂宇も在ったようです。

 吉備真備が読み解いたという「耶馬台詩」なる物が存在し、12行10段120文字の漢字をある規則に従うと読めるといわれています。遣唐使として唐に渡った真備が、玄宋皇帝の前で読むように命令され、観音の化身だった蜘蛛の力を借りて読み解いたと伝わるようです。


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天香具山(香久山)


 天香具山(香久山)は、大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)の1つで、三山が形成する二等辺三角形の一角を担っています。標高152.4m、山麓との比高は、約60m(南麓)~70m(北麓)。耳成山の比高より南北とも10mばかり低く、標高では低い耳成山より低く見えることから、山というよりは丘のような印象を与えます。

 耳成山や畝傍山は火山が浸食されて残った地形であるのに対して、香具山は南から続く竜門山地から派生する尾根の先端になります。山を構成する岩石(閃緑岩や斑レイ岩など)が堅い鉱物であるため、周辺より浸食の度合いが低かったとされています。

 香具山は、古代より大和三山の中で最も神聖視されてきました。山名に「天」を冠するのも、天から降り来た山とされているからです。山中には、南に天岩戸神社、北に天香山神社があります。この両社には本殿が無く、山や磐座をご神体とする古い信仰の形態を留めています。山頂には、国常立命とタカオカミ神を祀る二つの祠があり、山中には伊弉諾命・伊弉弥命をそれぞれに祀る神社などがあります。また神話や伝承が息づく巨石が散在し、現在になお神秘性を漂わせています。


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天香具山の埴土

『日本書紀』神武天皇即位前紀 戊午年九月条
 天皇は宇陀の高倉山の頂に登って、国の中を眺められた。・・・中略・・・敵の拠点はみな要塞の地である。それで道は絶え塞がれて通るべきところがない。天皇はこれを憎まれ、この夜、神に祈って寝られた。夢に天神が現れて教えていわれた。「天香具山の社の中の土を取って、平瓦八十枚を作り、同じくお神酒を入れる瓶をつくり、天神地祇をお祀りせよ。また身を清めて行う呪詛をせよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう」と。
 (磐余地名伝承 『日本書紀』神武天皇即位前紀 戊午年九月条原文 後半参照)


【日本書紀 卷第五 崇神天皇十年 原文】
於是、天皇姑倭迹々日百襲姬命、聰明叡智、能識未然。乃知其歌怪、言于天皇、是武埴安彦將謀反之表者也。吾聞、武埴安彦之妻吾田媛、密來之、取倭香山土、裹領巾頭而祈曰、是倭國之物實、乃反之。物實、此云望能志呂。是以、知有事焉。非早圖、必後之。

「読み下し文」
武埴安彦と吾田姫が謀反を企てた時、倭迹迹日百襲姫命が予知して言うには「武埴安彦が妻吾田姫、密かに来りて、倭の香山の土を取りて、領布の頭(はし)につつみて祈みて日さく、「是、倭国の物實(ものしろ)」と申して、即ち反りぬ。ここを以て事あらむと知りぬ。早に図るに非ずは、必ず後れなむ。」 

 「物実」とは、辞書によると「物事のもとになるもの。物の種。」だとしています。つまり、天香具山の埴土は、国土の元になる「物」と考えられ、国の支配権や祭祀権に大きく関わる存在であったのでしょう。その土を盗ることは、すなわち謀反だと考えられたようです。

 香具山北西麓には、香具山の埴土を神格化して祀る「畝尾坐健土安神社」があり、神社東南の赤埴山と呼ばれる小さな丘に埴安伝承地の碑が建っています。また、天香山神社境内に「赤埴聖地」、国見の歌碑付近に「白埴聖地」の石標が建っています。


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国見の歌

  天皇の香具山に登りて望国したまひし時の御製歌
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は (万葉集 巻1-2 舒明天皇)

 この歌は、秋の豊かな実りを予祝する歌であると言われます。予祝とは、物事の始まる前にあらかじめ良い結果を想定して祝ってしまうことです。いわば言霊の呪力によって良い結果を導き出そうとするのだと思います。国家行事としては、時と共に儀礼化して行ったものだと思いますが、この歌はその過渡期の段階を表しているのかも知れません。予祝をするためには、その儀式の場も特別に神聖な場所で無ければならなかったのでしょう。歌では、まずその舞台となる香具山から褒め始めています。舒明天皇の宮である飛鳥岡本宮から北方に直線距離で2.5kmの位置にある天香具山は、その絶好の場所であったでしょう。

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日向寺跡


 『聖徳太子伝暦』推古天皇29年(621)の太子建立諸寺を記したなかに「日向寺」の名前が見えます。
創建は、出土瓦から藤原京期とされていますが、詳細は不明です。付近に「大門脇」「日向寺南」「日向寺向」などの小字が存在し、現在の弁天社の辺りが塔の場所と考えられています。

 古くは、心礎や礎石も残存していたようですが、いつの時代かに散逸してしまったようす。西約250mに所在する法然寺境内に礎石が残るとも言われています。


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法然寺(香久山少林院法然寺)


 鎌倉時代の初め頃に、法然上人が高野山参詣の帰途に宿としたことが縁でこの地に少林院を建て、その後、知恩院第二十六世保誉上人が隠居し寺号を法然寺としたとされます。現在は法然上人霊蹟25霊場の第10番札所となっています。飛鳥・藤原時代の記録はさだかではありませんが、少林院という小山廃寺(紀寺跡)に関係する仏堂であったとの伝承を持つようです。

 本尊は、蓮台との隙間に紙一枚ほどの隙間があることから「浮足如来」と呼ばれています。また、本堂の屋根上には、隅木蓋瓦をはじめ様々な種類の瓦を見ることができます。


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中の川


 現在の水系では、桜井市高家に発し橿原市で米川に合流する4.5kmの一級河川ですが、飛鳥時代には重要な水運を担った河川でした。

 主流路は先に書いたように、高家の分水嶺で米川と分かれて西流し飛鳥坐神社北側に流れ落ちます。この間を「八釣川」と古名で呼ぶことも多く有るようです。また、南の支流は酒船丘陵の東麓に集まる流水を集め、北流して飛鳥坐神社北方で八釣川に合流します。

 合流地点の近くには、東垣外遺跡、宮ノ下遺跡と呼ばれる遺跡があり、共に人工的な大溝の存在が確認されています。


 溝の規模は、幅約10m、深さ約1.3mでした。掘削時期は、飛鳥時代中頃と推定されています。また、飛鳥池東方遺跡で検出された大溝に繋がるものと考えられており、これが「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」ではないかと考えられています。


 『日本書紀』斉明天皇2年(656)には、「天皇は造営工事を好まれ、水工に命じて香山の西から石上山まで水路を掘らせ、舟二百隻に石上山の石を積み、流れに沿ってそれを引き、宮の東の山に石を重ねて垣とされた。時の人はこの渠を狂心の渠と呼んだ」と書かれています。

 まさに、中の川の流路は、この「狂心渠」に合致し、飛鳥坐神社からは奥山、大官大寺付近、香久山西麓を北上して米川に合流します。

 また、中の川は藤原宮の造営時に奈良文化財研究所飛鳥藤原調査部の建物付近で西方に分水し、藤原宮中央部で曲折した後、南北運河となります。藤原宮を南北に貫通してからは、米川に合流し、寺川、大和川へと繋がって行きます。これらのことから、中の川は「狂心渠」と誹られながらも、飛鳥時代を通して資材を運ぶための運河として重要な存在であったことが窺えます。


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大官大寺跡
明日香村大字小山と橿原市南浦町をまたぐように所在し、金堂と塔の基壇跡が残ります。
 寺域は、藤原京十条大路に面し、左京十条四坊の四町と九条四坊のうち二町の合計六町を持っていたと推定されています。(条坊表記は岸説)

 大官大寺は、『日本書紀』や『大安寺縁起并流記資財帳』などから、天皇勅願の寺として舒明天皇11年(639)に百済宮とともに造営が開始された百済大寺の後身だとされています。

 百済大寺は、天武天皇2年(673)には高市大寺、天武天皇6年(677)には大官大寺と寺名が変更され、平城遷都の際には、さらに改称され大安寺として新都に移転したとされています。

 伽藍は、中門・金堂・講堂が一直線に並び、金堂の南東に塔を置く特殊な一塔一金堂形式になります。回廊は、中門と金堂を結び、さらに北に延び講堂の北で閉じます。伽藍中軸線は、藤原京の条坊に一致するとされています。

 礎石は、明治22年の橿原神宮の造営の際にすべて持ち出され残されていませんでした。
しかし、明治初期に描かれた岡本桃里の図に、心礎を含む35個の礎石が描かれており、それによると、心礎は東西10尺(約3m)・南北12尺(約3.6m)の花崗岩製の巨大なもので、中央に径4尺(約1.2m)の円形柱座が彫り込まれ、さらにその中央には舎利孔が穿たれていたようです。また、四天柱礎は岡本桃里の図には描かれておらず、発掘調査でも痕跡すら検出されなかったようです。


参考:野中寺塔跡(四天柱礎なし)

 塔は、一辺約35mの基壇に、初層が一辺15mにもなる5間四方に復元されています。通常、塔は3間四方で造営されるため、5間四方の塔規模は異例になるようです。基壇外装に使用された石材や基壇に階段を設置した痕跡が一切検出されていないため、基壇外装は完成していなかったとされます。

 金堂は、東西53m・南北28.5mの基壇に、東西9間・南北4間の建物規模をもちます。基壇周辺からは、焼土や焼けた瓦、焼け落ちて地面に突き刺さった屋根の部材など、火災に遭った痕跡が多く見つかっています。また、基壇外装に用いられた石材は再利用のためか火災後に抜き取って持ち出されたようです。

 講堂は、礎石の抜き取り穴のみが検出され、金堂とほぼ同規模であったと推定されています。
 中門は、東西23.8m・南北12.6mで、礎石位置から5間3間の巨大な門だったことが分かっています。しかし、塔と同じく基壇外装はなく、焼土の詰まった足場穴が検出されたことから造営途中に火災にあったとされています。南門は検出されていません。南を除く三方では掘立柱塀が検出されていますが、規模などが不揃いのため伽藍を囲む大垣は仮設であったとも考えられています。

 これらの発掘調査から、金堂は完成していたものの、塔や中門、回廊などは造営途中で火災に遭っていることが判明しました。また、出土した土器によって造営時期は持統朝を大きく遡らないことも判明し、明日香村大字小山にあるこの寺院跡は、文武朝の大官大寺だとされました。これは、和銅4年(711)に大官大寺が藤原宮とともに焼亡したとある『扶桑略記』の記事とも合致する結果となっています。

 出土遺物には、隅木先金具(43×33cmに復元)や風鐸の吊金具などがあります。伽藍の大きさに比例して飾金具なども大型に造られたようです。

 塔跡が南東に一基しか確認されてないため、西側の塔の有無についての論議もあるようです。けれど、西側には建物の痕跡が認められず、焼亡時に回廊の造営が始まっていたことなどを考えると、仮に二塔建立の計画があったとしても早期に断念されたとするのが妥当かもしれません。


大官大寺式軒丸瓦
奈文研藤原宮跡資料室展示品
 創建に使用された軒瓦は大官大寺式と呼ばれ、軒丸瓦の直径が約20cmを測る大きなものになります。軒丸瓦は、複弁蓮華文という前代の文様を引き継いでいますが、中房内の連子が中央の一個を一重にしか廻りません。

 また、軒平瓦の文様も藤原宮式などの前代までの文様(偏行唐草文)とは異なり、中央に中心飾りを置き左右に唐草が展開していく均整唐草文になります。大官大寺式のこれらの文様構成は、その後、8世紀の軒瓦の基調となっていくようです。


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奥山廃寺跡

 明日香村奥山の集落内の微高地に所在します。創建時の寺名が不明のため、地名を冠して奥山廃寺と呼ばれています。

 発掘調査で、金堂・塔・講堂・回廊が確認され、四天王寺式伽藍配置であったとされています。現地には、奥山久米寺境内に残る塔跡と、その上に鎌倉時代の十三重石塔や四天柱礎4個を含む礎石が残り、礎石には円形の柱座や地覆部分の作り出しが確認できます。

 塔は、一辺約12mの基壇に復元され、現存する基壇の高さは70cm程度ですが、もう少し高さがあったと考えられます。基壇周囲には犬走り状の壇が二重に巡っていたようです。

 金堂は塔の北側に位置し、基壇規模は東西23.4m、南北は推定で19.2mに復元されています。

 金堂の南面中央では幅3.8mの階段の痕跡が確認されていますが、礎石が発見されておらず建物の規模は不明です。また、塔の造営後に金堂が改修され、金堂と塔を結ぶように幅3.8mの参道が設けられていました。参道中央に径約1.5mの穴状の遺構があることから灯篭が設置されていたと推定されています。

 また、北東の隣接地から、落とし込まれた礎石2個が発見され、付近に講堂跡が推定されています。西面回廊の一部が検出され、伽藍中軸線と西面回廊の距離から、東西回廊間は約66mの規模と推定されています。


奥山廃寺式軒丸瓦

鬼板
(参考:豊浦寺出土品)
 (藤原宮跡資料室展示品)

 金堂は奥山廃寺式軒丸瓦を用いて7世紀前半に、塔は山田寺式軒瓦を用いて7世紀後半に造営されたと考えられています。

 寺名を冠した奥山廃寺式軒丸瓦は、星組よりも精緻に割り付けられた蓮弁や丸みを帯びた中房を持つその文様や技術の特徴から、飛鳥寺の花組・星組より少し遅れた620年代以降に成立したと考えられます。また、奥山廃寺からは、同様の文様が施された鬼板も出土しています。

 詳しい寺域は不明ですが、奥山久米寺本堂の南約130mの場所で、2度作り替えられた痕跡のある東西塀と8世紀までは機能していたと見られる東西道が検出され、これが寺域の南端であると考えられています。また、塔の北東125mで平安時代に廃絶した井戸跡がみつかり、この付近まで寺の施設が広がっていたと思われます。これらの遺物から、奥山廃寺は7世紀前半に造営が開始され、平安初期までは存続していたと考えられます。

 この他、塔基壇の北側下層から、掘込地業が検出され、現行の奥山廃寺を遡る前身寺院の存在が想定できるようです。

 古くは橿原市の久米寺の前身寺院説や高市大寺説などがありましたが、近年、奥山廃寺北東の井戸跡から「少冶田寺」と読める墨書土器が出土したことに加え、天平勝宝2年(750)の『冶部省牒』にみられる「小冶田禅院」を飛鳥付近に想定できることなどから、小墾田寺である可能性が高いとされています。

 奥山廃寺を小墾田寺と想定した場合、その造営氏族は、寺名から蘇我氏の傍系である小墾田氏だとする説、瓦の同笵関係や瓦窯が置かれた地域との関係から同じく蘇我氏傍系の境部臣摩理勢だとする説などがあります。

 また、小墾田宮との関連から推古天皇に関わる寺であるとする説もあり、これには、奥山廃寺と前後して造営されたと考えられる王家の宮と寺(斑鳩宮と斑鳩寺・百済宮と百済大寺)が隣接して建てられていること、奥山廃寺の金堂規模が7世紀前半代に建立された寺院の中では桁外れの規模を持つ吉備池廃寺を除けば、最大規模になることなどが理由としてあげられるようです。

 推古朝の小墾田宮の所在は今のところ不明ですが、奈良時代の小冶田宮だと言われる雷丘東方遺跡の付近に幾つかの候補地を挙げることができます。ここ奥山廃寺を推古天皇が造営に関わった小墾田寺と考えるのも面白いかもしれません。


小墾田宮所在候補地と古山田道推定地図



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山田道(石神遺跡第19次調査)

2007年の奈良文化財研究所による石神遺跡第19次調査で、阿倍山田道の南側溝と路面が検出されました。それ以前の調査結果(北側溝の検出)と合わせて、路面幅18mの両側に側溝を持つ立派な道路であったことが分かりました(側溝心々距離は21~22m)。出土した土器から、7世紀中頃から藤原京期まで整備されていたと考えられます。

 道路の基底部には、東西約14m・南北7mにわたって、80cm~1mの椎や榊の枝葉を南北方向に向きを揃えて敷き詰め、さらにその上には砂質と粘土質の土を交互に盛る厚さ40cm~50cmの土層が確認され、敷葉工法が用いられたことがわかりました。

 過去に近接する場所でおこなわれた発掘調査では、地中の水分を除去するために大がかりな石組みの暗渠が造られていることも確認されています。
石神遺跡の北方に広がる沼沢地に道路を建設するための様々な工夫がなされていました。それだけ重要な道路であったと言えます。 

 敷葉工法とは、小枝や樹皮と土を交互に積み重ねて、敷き詰めた枝葉に土中の余分な水分を吸い取らせるために用いられます。大陸から韓半島を経て、7世紀頃我が国に伝わった渡来系の土木技術だとされています。狭山池北堤(616年以降)、福岡県太宰府の水城の底辺部(推定7世紀後半)などでも確認されています。


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高松塚古墳

 墳丘の版築は、杵状の搗棒で搗き固めながら積み重ねて築かれています。一層の厚みは3~5cmを測り、墳丘の高さから計算すると版築層は100層以上にも及ぶとされています。

 また、墳丘下半部には、ムシロ目の痕跡もあり、これは版築作業中の斜面の地滑りや盛土の崩落を防いだり、搗棒の先端に土が付かないための工夫だと考えられています。また、土に浸透した雨水の排水にも役立ったのではないかとも考えられています。

 版築は、石室上方70cm(墳頂下約2.3m)のところで硬い白色粘土層に替わります。この層は、石室を包み込むように築かれており、強度は上面の版築層の2倍以上にもなります。

 白色粘土層の版築には、上層部と同様ムシロ目や搗棒の痕跡(径約4cmの窪み)も認められ、高所から下に向かって規則的に搗き作業が行われた様子もうかがえるようです。


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酒船石遺跡

伝飛鳥板蓋宮跡の東方、酒船石がある丘陵一帯に広がる遺跡の総称になります。

丘陵を取り巻くように約700mにも及ぶ砂岩の石垣が検出され、『日本書紀』斉明天皇2年(656)にある「宮の東の山に石を重ねて垣とされた。」と書かれた石垣ではないかとされています。

 石垣の上層部は天理砂岩をブロック状に加工した切石を積み上げ、下層部には、上面を平らに加工した飛鳥石が用いられていました。石垣の基礎部分は、2~10cmの単位で版築が行われており、その高さは、約4.5mに及ぶ箇所もありました。

 丘陵の西側は、表面を綺麗に磨き上げた切石を用いて四重にも築かれており、さらに西側に所在する宮地からの景観を重視したとも考えられます。


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飛鳥の古代寺院の基壇規模(推定を含む)
造営年 寺院名 金堂 塔(一辺)
588年 飛鳥寺 約21×17.5m(中金堂) 約12m
6世紀末~7世紀初頭 豊浦寺 約17×14m 約14m
7世紀前半 奥山廃寺 約23×19m 約12m
639年(百済大寺) 吉備池廃寺 約37×28m 約32m
641年 山田寺 約21.6×18.2m 約12.8m
7世紀末~8世紀初頭 大官大寺 約53×28.5m 約35m


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大陸・韓半島 参考マップ



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東アジア国家変遷表



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  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
蓮台寺 大臣藪 春日神社 吉備池廃寺跡
磐余池 大藤原京左京五条八坊 磐余地名伝承 稚桜神社
御厨子神社 御厨子山妙法寺 天香具山 天香具山の埴土
国見の歌 日向寺跡 法然寺 中の川
大官大寺跡 奥山廃寺跡 山田道 高松塚古墳
酒船石遺跡 塔跡の規模 大陸・韓半島 参考マップ 関連系図
東アジア国家変遷表 関連年表 当日レポート  飛鳥咲読
青木敬先生寄稿 「第41回定例会を前に」 両槻会 -


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