如意輪寺
塔尾山 椿花院 如意輪寺といい、本尊は、如意輪観世音菩薩になります。
寺伝によると、延喜年間(901~923)に、日蔵道賢上人により建立されたと伝わります。南北朝時代、 後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願寺とされました。後醍醐天皇は、この地で崩御し、本堂裏山に葬られました(塔尾陵)。
正平2年/貞和3年(1346)には、楠木正行(正成の長男)が、四條畷の戦に際し、如意輪堂に詣で、正面の扉に鏃で辞世の句「かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」を刻んで出陣をしたと伝わります。(楠木正行辞世の扉)
南北朝以後、寺運は衰退し、慶安3年(1650)に鉄牛上人によって本堂が再興され、真言宗から浄土宗に改宗されました。
後醍醐天皇陵は、如意輪寺境内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)に治定されています。通常天皇陵は南面しているものが多いのですが、後醍醐天皇陵は北面しています。これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだとされているようです。『太平記』では、後醍醐天皇は「玉骨ハ縦(たとい)南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したとされています。
北闕門 |
竹林院
山号は常楽山といい、単立寺院(どこの宗派にも属さない寺院)になります。本尊は不動明王、蔵王権現、役行者、弘法大師。大峯山寺の護持院(大峯山寺の維持管理の交替でつとめる五つの寺院)の1つになります。
寺伝によれば、開基は聖徳太子で、弘仁年間(810~824)に空海が常泉寺とし、元中2年/至徳2年(1385)に竹林院と改称されたとされます。神仏分離に伴い明治7年(1874)に廃寺となりましたが、のちに天台宗の寺院として復興され、昭和23年(1948)に現在の単立寺院となりました。庭園の群芳園は、千利休が作庭し、細川幽玄が改修したと伝わります。當麻寺中之坊と慈光院とともに大和三大庭園のひとつとされた回遊式庭園です。また、宿坊竹林院群芳園としても知られています。
桜本坊
金峯山修験本宗別格本山で、大峯山寺の護持院のひとつになります。もとは、金峯山寺の蔵王堂の前にあり、密乗院と称していましたが、明治初年の神仏分離の際に「桜本坊」と改称されました。本尊は、神変大菩薩(役行者)。
寺伝によれば、吉野へ逃れた大海人皇子(後の天武天皇)が、「桜本坊」の前身である日雄(ひのお)離宮にとどまっていた折り、冬の日に桜が咲き誇っている夢を見、役行者の高弟である角乗に夢判断をさせたところ「桜の花は花の王。近々皇位に着くよい知らせ」との答えを得て、その後角乗の言葉通りに皇位につけたことから、その桜の木の下に寺院を建立し角乗を住職としたのが始まりとされます。
修験道の道場として多くの修験者を集めており、春のみ宿坊もあります。
文禄3年(1594)に行われた豊臣秀吉の花見の際には、関白・秀次の宿舎となっています。
役行者(えんのぎょうじゃ)
役行者と俗に呼ばれる役小角(えんのおづぬ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけて実在した人物です。しかし、伝えられる人物像は伝説によるイメージが先行しており、その実像に迫るのは難しくなっています。正史にはわずか数行を留めるだけですが、実在の人物である裏付けとなっています。『続日本記』に、次のような記事が見えます。
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文武天皇三年五月丁丑条
「丁丑。役君小角流于伊豆島。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。世相傳云。小角能役使鬼神。汲水採薪。若不用命。即以咒縛之。」
現代語訳
文武天皇3年5月24日、役君小角(えだちのきみおづぬ)を伊豆大島に配流した。そもそも、小角は葛城山に住み、呪術で称賛されていた。のちに外従五位下の韓国連広足が師と仰いでいたほどであった。ところがその後、ある人が彼の能力を妬み、妖惑のかどで讒言した。それゆえ、彼を遠方に配流したのである。世間は相伝えて、「小角は鬼神を使役することができ、水を汲ませたり、薪を採らせたりした。もし鬼神が彼の命令に従わなければ、彼らを呪縛した」という。 |
小角は、舒明天皇6年(634)に御所市茅原で生まれたと伝えられ、生誕地には小角の創建とされる吉祥草寺が造営されています。
姓は、君です。役君(えだちのきみ)は、三輪氏族に属する地祇系氏族とされ、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族であることから、加茂役君とも呼ばれるそうです。役君は、役民を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏名としたようです。
父親は大角といって、出雲から入り婿として入り、高鴨神社に奉仕していた者であったとされます。
母は、渡都岐比売(とときひめ)、またの名を白専女(しらとうめ)、刀自女(とらめ)といって、物部真鳥の娘であるとする伝承も有るようですが、真偽のほどは定かではありません。
小角は17歳の時に、元興寺で孔雀明王の呪法を学んだとされます。飛鳥時代中頃の651年の事ですので、この元興寺は飛鳥寺のことになります。その後、葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築きました。
伊豆に流刑となった2年後の大宝元年(701)1月に大赦があり、御所市茅原に戻りますが、同年6月7日に箕面の天上ヶ岳にて入寂したと伝わります。
小角の68年間の生涯は、伝説に彩られています。
役行者は、鬼神を呪法で操り、左右に前鬼と後鬼を従えていたとされます。「ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとしました。しかし、葛木山の一言主神は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかったので役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てました。すると、それに耐えかねた一言主神は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になりました。こうして、架橋は沙汰やみになったと言います。」
「役行者は、流刑地の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていました。」富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立とされているそうです。
また、「ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言います。」
これらの伝承は、9世紀初頭に編纂された『日本霊異記』(日本現報善悪霊異記)にも収録され、上巻の28「孔雀王の呪法を修持し不思議な威力を得て現に仙人となりて天に飛ぶ縁」として益々世に知られるようになったようです。
象の小川(きさのおがわ)
喜佐山と三船山の間を流れる小川で、大和の水31選にも選ばれた清流です。喜佐谷川が本来の名前ですが、万葉集にも登場する「象の小川」は、喜佐谷川の古名だと言われています。
「キサ」とは動物の象の古いよみ方だそうです。古代の人々が象を見知っていたかという疑問が湧いてきますが、象牙が飛鳥時代に交易品としてもたらされていたことが、『日本書紀』の天智天皇10年の記事にあり、「象牙(きさのき)」と記されています。
「象」をキサとよむのは、象牙の横断面に橒(きさ)と呼ばれる木目調の文様が見られることに由来するそうです。つまり、喜佐山と三船山の間に存在する谷(喜佐谷)は、橒のように、ギザギザと蛇行していることから、そう呼ばれるようになり、のちに、佳字(カジ・縁起の良い文字)である「喜佐」があてられるようになったと考えられています。
万葉集には、大伴旅人が詠んだ「象の小川」が2首残されています。
昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも (3-316)
我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため (3-332)
高滝
象の小川沿いにある姿の良い滝で、高さ約15mを測ります。滝の様子は、本居宣長も『菅笠日記』に記述を残しています。
『菅笠日記』は、本居宣長が43歳の時、明和9年(1772)3月5日から14日まで10日間、吉野、飛鳥を旅した時の日記です。
吉野山の花見を兼ね、吉野水分神社に参詣し、帰路、飛鳥周辺の史蹟を探索、伊勢本街道を通り、美杉を経て松坂に帰郷しています。高滝が書かれたのは、明和9年(1772)3月9日、旅の5日目に当たります。
・・・川邊をはなれて。左の谷陰にいり。四五丁もゆきて。道のほとりに。桜木の宮と申すあり。御前なる谷川の橋をわたりてまうづ。さて川邊をのぼり。喜佐谷村といふを過て。山路にかゝる。すこしのぼりて。高滝といふ滝あり。よろしき程の滝なるを。一つゞきにはあらで。つぎつぎにきざまれ落るさま。又いとおもしろし。象の小川といふは。此滝のながれにて。今過来し道より。かの桜木の宮のまへをへて。大川におつる川也。・・・
また、この象の小川沿いの道は、源義経が吉野から逃れる際に通ったとされ 、高滝は「義経馬洗いの滝」とも呼ばれるそうです。
葛飾北斎の作品には、高滝の姿に似た滝が「和州吉野義経馬洗滝」として描かれています。
桜木神社
祭神は、大国主命、少彦名命、天武天皇。
大海人皇子が吉野に隠遁していたころ、近江軍の兵に攻められ、傍らの大きな桜の木に身をひそめて危うく難を逃れたと伝わります。のちに壬申の乱で勝利し、天皇として吉野行幸の際には篤くこの宮を敬い、天皇崩御後、ゆかり深い桜木神社へお祀りしたと伝えられています。
また、古くから医薬の神として信仰が篤く、参拝すると疱瘡除けに御利益があり、初代の紀伊藩主大納言徳川頼宣はたびたび病気平癒を祈願し、高取藩主植村氏の崇敬も集めました。
象の小川には「こぬれ橋」と呼ばれる屋形橋が架かっています。桜木神社境内には、山部赤人の歌碑が建っています。
み吉野の象山の際の木(こ)末(ぬれ)にはここだも騒く鳥の声かも(06-0924)
昭和36年頃までは、下流に同様の橋が架かっていました。源頼朝に追われた義経が吉野落ちをする際に、疲れからここでうたた寝をした「うたたねの橋」と言われていましたが、今は記念碑があるのみです。
夢のわだ(いめのわだ)
象の小川が吉野川に流れ落ちる場所を「夢のわだ」と呼びます。
「わだ」と読む古い言葉は、クネクネと曲がりくねっていること表す「曲」と、「海」のふたつがあげられます。主に、夢のわだの説明では、「曲」の方が取られることが多いようです。なぜ、「夢の」と付いているのかは分かりません。離宮の置かれた吉野は、手の届きにくいイメージがあったようにも思えます。
万葉集には、夢のわだを詠んだ歌が二首みえます。
我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵にしありこそ (3-335)
夢のわだ言にしありけりうつつにも見て来るものを思ひし思へば (7-1132)
吉野と吉野宮(吉野離宮)
『記紀』に最初に登場する吉野の宮は、『古事記』応神天皇19年になります。吉野へ行幸した天皇に対し、国栖人が酒と舞(国栖奏の原形)を献じたと記されています。『日本書紀』雄略天皇2年と4年にも吉野行幸の記事があり、「秋津島」の地名起源の説話としても有名です。
これら2天皇の御代の記載は真実性に乏しいとされますが、記録に残されたことには、きっと意味があると思われます。
吉野宮復元ジオラマ
吉野歴史資料館所蔵品
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飛鳥時代には、『日本書紀』では、斉明天皇2年(656)に吉野宮を造営し、斉明5年(659)には、天皇は宮へ行幸し宴を開かれたことが記されています。天智天皇10年(671)、天皇の病状悪化をうけて大海人皇子が吉野へ逃れ、その後壬申の乱への流れが起こるのも、ここ吉野の地でした。天武天皇8年(679)には、天皇と皇后・鸕野讚良皇女が6皇子とともに「吉野会盟」を行いました。皇后であった鸕野讚良皇女は、天武の死後に即位し持統天皇となるわけですが、彼女は在位中31回も吉野へ行幸します(譲位後も含めると32回)。その後、文武天皇の吉野行幸は行われますが、元明天皇の吉野行幸の記事は残されていません。
奈良時代、吉野には「芳野監」という特別行政機関が置かれていました。正確な設置時期は不明ですが、吉野離宮の維持管理が主な目的であったとされており、天平10年(738)以降に廃止されたと考えられます。
これら天皇の吉野行幸には、神仙思想はもとより、水の祭祀・五穀豊穣祈願などとも深い関わりがあるのではないかという説もあります。
宮滝
吉野には、応神・雄略・斉明・持統・文武・元正・聖武らが行幸した離宮が置かれていたとされています。様々な史料や発掘結果などから、これらの宮(離宮)は、奈良県吉野郡吉野町宮滝付近であったと言われています。
宮滝の文字が文献に登場するのは、平安時代に入ってからになり、万葉集には一切出てきません。題詞などに見える「吉野の宮」以外には、「たぎつ河内の大宮ところ」「滝の宮処」「秋津の宮」等が吉野にあった宮をさすと推定されているに過ぎません。宮滝と言う名は「たぎつ川にある宮」の「滝の宮処」から発した地名だとされているようです。
平安時代前期の昌泰元年(898)、宇多上皇が宮滝へ行幸した様子が『日本紀略』『扶桑略記』などに残されています。また、平安時代中期の源頼経の日記『左経記』には、万寿2年(1025)のこととして宮滝訪問が記されています。
吉野宮のあったとされる宮滝は、南東の大台ケ原山から発した吉野川が一番の屈曲を見せる場所で、現在でも風光明媚な観光の名所になっています。
宮滝遺跡
屈曲して流れる吉野川右岸の河岸段丘上にあり、遺跡の範囲は、段丘のやや西寄りに位置します。遺跡は、縄文・弥生を含む複合遺跡となっています。宮滝式と呼ばれる巻貝によって凹線を付けられた特徴ある土器が出土しています。また、5世紀代の須恵器片も出土しています。
宮滝式土器
吉野歴史資料館所蔵品
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飛鳥時代以降の遺構は、4時期に分けられています。第1期は7世紀中頃で、斉明朝にあてられています。遺構は、台地の中央から東に位置し、ほぼ正方位をとる中島を持つ池を中心とした庭園施設・掘立柱建物・長廊状の建物(?)などが確認されています。また、池への給水施設と考えられる長方形の土坑や長さ112cmを超える鍔付土管などが出土しています。池の規模は、東西50m、南北20m、深さ60cm程度で、出土遺物などから第3期まで存続していたと考えられています。
吉野宮復元ジオラマ(苑池)
吉野歴史資料館所蔵品
(画像掲載許可申請済・転用転載禁止) |
第2期は7世紀後半から8世紀初頭で、持統朝にあてられています。範囲は、第1期よりやや西に広がりを見せます。
第3期は8世紀前半の聖武朝にあてられています。遺構は、北で約12度西に傾く方位をとる1辺120~150mの範囲の中に、石敷・石溝・掘立柱塀・建物などが並んでいたと推定されています。平城宮系の文様をもつ軒瓦が出土しており、建て替えもなく存続期間も短いことから、宮や芳野監に関わる可能性も考えられます。平城京二条大路からは、「芳野行幸・・・天平八年七月十五日」と記された木簡も出土しており、『続日本紀』にある聖武天皇の吉野行幸との関連がうかがえます。
第4期は9世紀末から10世紀初頭の礎石建物が確認されています。地鎮に関わると考えられる土器が出土しており、宇多上皇の宮滝行幸に関わるのではないかと推測されています。
宮滝遺跡マップ
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懐風藻(吉野詩)
遊龍門山 葛野王
命駕遊山水 駕を命せて山水に遊び
長忘冠冕情 長く忘る冠冕の情
安得王喬道 安にか王喬が道を得て
控鶴入蓬瀛 鶴の控きて蓬瀛に入らむ
遊吉野 二首 贈正一位太政大臣藤原朝臣史
飛文山水地 文を飛ばす山水の地
命爵薜蘿中 爵を命す薜蘿の中
漆姫控鶴擧 漆姫鶴を控きて擧がり
柘媛接魚通 拓媛魚接きて通ふ
煙光巖上翠 煙光巌の上に翠にして
日影漘前紅 日影漘の前に紅なり
翻知玄圃近 翻りて知る玄圃の近きことを
對翫入松風 對翫す松に入る風
夏身夏色古 夏身夏色古り
秋津秋氣新 秋津秋氣新し
昔者同汾后 昔者聞きつ汾后を
今之見吉賓 今之を見る吉賓を
靈仙駕鶴去 靈仙鶴に駕りて去に
星客乘査返 星客査に乗りて返る
渚性臨流水 渚性流水に臨み
素心開靜仁 素心靜仁に開く
遊吉野宮 二首 從四位下左中辨兼神祇伯中臣朝臣人足
惟山且惟水 惟れ山にして且惟れ水
能智亦能仁 能く智にして亦能く仁
萬代無埃所 萬代埃無き所にして
一朝逢柘民 一朝柘に逢ひし民あり
風波轉入曲 風波轉曲に入り
魚鳥共成倫 魚鳥共に倫を成す
此地卽方丈 此れの地は卽方丈
誰説桃源賓 誰か説はむ桃源の賓
仁山狎鳳閣 仁山鳳閣に狎れ
智水啓龍櫻 智水龍櫻啓く
花鳥堪沈翫 花鳥沈翫に堪へぬ
何人不淹留 何れの人か淹留せざらむ
從駕吉野宮應詔 二首 大伴王
欲尋張騫跡 張騫が跡を尋ねまく欲り
幸逐河源風 幸に逐ふ河源の風
朝雲指南北 朝雲南北を指し
夕霧正西東 夕霧西東を正す
嶺峻絲響急 嶺峻しく絲響急く
谿曠竹鳴融 谿曠く竹鳴融る
將歌造化趣 將に造化の趣を歌はむとして
握素愧不工 素を握りて不工を愧づ
山幽仁趣遠 山幽けくして仁趣遠く
川淨智懷深 川淨けくして智懐深し
欲訪神仙迹 神仙の迹を訪はまく欲り
追從吉野潯 追從す吉野の潯
遊吉野川 大宰大貳正四位下紀朝臣男人
萬丈崇巖削成秀
千尋素濤逆析流
欲訪鍾池越潭跡
留連美稻逢槎洲
扈從吉野宮 大宰大貳正四位下紀朝臣男人
鳳蓋停南岳 鳳蓋南岳に停まりたまひ
追尋智與仁 追ひ尋ね智と仁とを
嘯谷將孫語 谷に嘯きて孫と語らひ
攀藤共許親 藤を攀ぢて許と親ぶ
峰巖夏景變 峰巖夏景變はり
泉石秋光新 泉石秋光新し
此地仙靈宅 此れの地は仙靈の宅
何須姑射倫 何ぞ須ゐむ姑射倫
從駕吉野宮 正五位下圖書頭吉田連宜
神居深亦靜 神居深くして亦靜けく
勝地寂復幽 勝地寂けくして復幽けし
雲卷三舟谷 雲は卷く三舟の谷
霞開八石洲 霞は開く八石の洲
葉黄初逘夏 黄葉たひて初めて夏を逘り
桂白早迎秋 桂白けて早も秋を迎ふ
今日夢淵上 今日夢の淵の上に
遺響千年流 遺響千年に流らふ
和藤原大政遊吉野川之作 正五位下陰陽頭兼皇后宮亮大津連首
地是幽居宅 地は是れ幽居の宅
山惟帝者仁 山は惟れ帝者の仁
潺湲侵石浪 潺湲石を侵す浪
雜沓應琴鱗 雜沓琴に應ふる鱗
靈懷對林野 懐を虚しくして林野に對かひ
陶性在風煙 性を陶ひて風煙に在り
欲知歡宴曲 歡宴の曲知らまく欲りせば
滿酌自忘塵 滿酌自らに塵を忘れたるといふことを
遊吉野川 正三位式部卿藤原朝臣宇合
芝蕙蘭蓀澤 芝蕙蘭蓀の澤
松柏桂椿岑 松柏桂椿の岑
野客初披薛 野客初めて薛を披り
朝隱蹔投簪 朝隱蹔く簪を投ぐ
忘筌陸機海 筌を忘陸機が海
飛繳張衡林 繳を飛ばす張衡が林
清風入阮嘯 清風阮嘯に入り
流水韵嵆琴 流水嵆琴に韵く
天高槎路遠 天高くして槎路遠く
河廻桃源深 河廻りて桃源深し
山中明月夜 山中明月の夜
自得幽居心 自らに得たり幽居の心
遊吉野川 從三位兵部卿兼左右京大夫藤原朝臣萬里
友非干禄友 友は禄干むる友に非ず
賓是飡霞賓 賓は是れ霞を飡ふ賓なり
縱歌臨水智 縱歌して水智に臨み
長嘯樂山仁 長嘯して山仁に樂しぶ
梁前拓吟古 梁の前に拓吟古り
峽上簧聲新 峽の上に簧聲新し
琴樽猶未極 琴樽猶未だ極まらねば
明月照河濱 明月河濱を照らす
遊吉野山 從三位中納言丹墀眞人廣成
山水隨臨賞 山水臨に隨ひて賞で
巖谿逐望新 巖谿望を逐ひて新し
朝看度峰翼 朝に峰に度る翼を看
夕翫躍潭鱗 夕に潭に躍る鱗を翫す
放曠多幽趣 放曠幽趣多く
超然少俗塵 超然俗塵少し
栖心佳野域 心を佳野の域に栖まはしめ
尋問美稻津 尋ね問ふ美稻が津
吉野之作 從三位中納言丹墀眞人廣成
高嶺嵯峨多奇勢 高嶺嵯峨奇勢多く
長河渺漫作廻流 長河渺漫廻流作す
鍾池超澤異凡類 鍾池超澤凡類を異にし
美稻逢仙同洛洲 美稻が仙に逢ひしは洛洲に同じ
從二駕吉野宮 從五位下鑄錢長官高向朝臣諸足
在昔釣魚士 在昔魚を釣りし士
方今留鳳公 方今鳳を留むる公
彈琴與仙戲 琴を彈きて仙と戯ぶれ
投江將神通 江に投りて神と通ふ
柘歌泛寒渚 柘歌寒渚に泛かび
霞景飄秋風 霞景秋風に飄る
誰謂姑射嶺 誰か謂はむ姑射の嶺
駐蹕望仙宮 蹕を駐む望仙宮
奉和藤太政佳野之作 正五位下中務少輔葛井連廣成
物外囂塵遠 物外囂塵に遠く
山中幽隱親 山中幽隱に親ぶ
笛浦棲丹鳳 笛浦丹鳳棲まひ
琴淵躍錦鱗 琴淵錦鱗に躍る
月後楓聲落 月後楓聲落ち
風前松響陳 風前松響陳く
開仁對山路 仁に開き手山路に對かひ
獵智賞河津 智を獵りて河津を賞す
吉野関連の万葉集歌
l 01-0025 み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
l 01-0025 み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
l 01-0026 み吉野の 耳我の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間なくぞ 雨は降るといふ その雪の 時じきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
l 01-0027 淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見
l 01-0036 やすみしし 我が大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激る 瀧の宮処は 見れど飽かぬかも
l 01-0037 見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む
l 01-0038 やすみしし 我が大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 山神の 奉る御調と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり [一云 黄葉かざし] 行き沿ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも
l 01-0039 山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に舟出せすかも
l 01-0052 やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井のま清水
l 01-0070 大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる
l 01-0074 み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜も我が独り寝む
l 01-0075 宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに
l 02-0111 いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く
l 02-0112 いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が念へるごと
l 02-0113 み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく
l 02-0119 吉野川行く瀬の早みしましくも淀むことなくありこせぬかも
l 03-0242 滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに
l 03-0243 大君は千年に座さむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや
l 03-0244 み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに
l 03-0313 み吉野の滝の白波知らねども語りし継げばいにしへ思ほゆ
l 03-0315 み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし さやけくあらし 天地と 長く久しく 万代に 変はらずあらむ 幸しの宮
l 03-0316 昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも
l 03-0332 我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため
l 03-0353 み吉野の高城の山に白雲は行きはばかりてたなびけり見ゆ
l 03-0375 吉野なる菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山蔭にして
l 03-0385 霰降り吉志美が岳をさがしみと草取りかなわ妹が手を取る
l 03-0386 この夕柘のさ枝の流れ来ば梁は打たずて取らずかもあらむ
l 03-0387 いにしへに梁打つ人のなかりせばここにもあらまし柘の枝はも
l 03-0429 山の際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく
l 03-0430 八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ
l 04-0693 かくのみし恋ひやわたらむ秋津野にたなびく雲の過ぐとはなしに *
l 06-0907 瀧の上の 三船の山に 瑞枝さし 繁に生ひたる 栂の木の いや継ぎ継ぎに 万代に かくし知らさむ み吉野の 秋津の宮は 神からか
貴くあるらむ 国からか 見が欲しからむ 山川を 清みさやけみ うべし神代ゆ 定めけらしも
l 06-0908 年のはにかくも見てしかみ吉野の清き河内のたぎつ白波
l 06-0910 神からか見が欲しからむみ吉野の滝の河内は見れど飽かぬかも
l 06-0911 み吉野の秋津の川の万代に絶ゆることなくまたかへり見む
l 06-0912 泊瀬女の造る木綿花み吉野の滝の水沫に咲きにけらずや
l 06-0913 味凝り あやにともしく 鳴る神の 音のみ聞きし み吉野の 真木立つ山ゆ 見下ろせば 川の瀬ごとに 明け来れば 朝霧立ち 夕されば かはづ鳴くなへ 紐解かぬ 旅にしあれば 我のみして 清き川原を 見らくし惜しも
l 06-0914 滝の上の三船の山は畏けど思ひ忘るる時も日もなし
l 06-0915 千鳥泣くみ吉野川の川音のやむ時なしに思ほゆる君
l 06-0916 あかねさす日並べなくに我が恋は吉野の川の霧に立ちつつ
l 06-0920 あしひきの み山もさやに 落ちたぎつ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上辺には 千鳥しば鳴く 下辺には かはづ妻呼ぶ
ももしきの 大宮人も をちこちに 繁にしあれば 見るごとに あやに乏しみ 玉葛 絶ゆることなく 万代に かくしもがもと 天地の 神をぞ祈る 畏くあれども
l 06-0921 万代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮所
l 06-0922 皆人の命も我れもみ吉野の滝の常磐の常ならぬかも
l 06-0923 やすみしし 我ご大君の 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣隠り 川なみの 清き河内ぞ 春へは 花咲きををり 秋されば
霧立ちわたる その山の いやしくしくに この川の 絶ゆることなく ももしきの 大宮人は 常に通はむ
l 06-0924 み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも
l 06-0925 ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く
l 06-0926 やすみしし 我ご大君は み吉野の 秋津の小野の 野の上には 跡見据ゑ置きて み山には 射目立て渡し 朝狩に 獣踏み起し 夕狩に
鳥踏み立て 馬並めて 御狩ぞ立たす 春の茂野に
l 06-0927 あしひきの山にも野にも御狩人さつ矢手挾み騒きてあり見ゆ
l 06-0960 隼人の瀬戸の巌も鮎走る吉野の瀧になほしかずけり
l 06-1005 やすみしし 我が大君の 見したまふ 吉野の宮は 山高み 雲ぞたなびく 川早み 瀬の音ぞ清き 神さびて 見れば貴く よろしなへ
見ればさやけし この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所 やむ時もあらめ
l 06-1006 神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川をよみ
l 07-1103 今しくは見めやと思ひしみ吉野の大川淀を今日見つるかも
l 07-1104 馬並めてみ吉野川を見まく欲りうち越え来てぞ瀧に遊びつる
l 07-1105 音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川六田の淀を今日見つるかも
l 07-1120 み吉野の青根が岳の蘿むしろ誰れか織りけむ経緯なしに
l 07-1130 神さぶる岩根こごしきみ吉野の水分山を見れば悲しも
l 07-1131 皆人の恋ふるみ吉野今日見ればうべも恋ひけり山川清み
l 07-1132 夢のわだ言にしありけりうつつにも見て来るものを思ひし思へば
l 07-1133 すめろきの神の宮人ところづらいやとこしくに我れかへり見む
l 07-1134 吉野川巌と栢と常磐なす我れは通はむ万代までに
l 07-1405 秋津野を人の懸くれば朝撒きし君が思ほえて嘆きはやまず *
l 07-1406 秋津野に朝居る雲の失せゆけば昨日も今日もなき人思ほゆ *
l 09-1713 滝の上の三船の山ゆ秋津辺に来鳴き渡るは誰れ呼子鳥
l 09-1714 落ちたぎち流るる水の岩に触れ淀める淀に月の影見ゆ
l 09-1720 馬並めてうち群れ越え来今日見つる吉野の川をいつかへり見む
l 09-1721 苦しくも暮れゆく日かも吉野川清き川原を見れど飽かなくに
l 09-1722 吉野川川波高み滝の浦を見ずかなりなむ恋しけまくに
l 09-1723 かわづ鳴く六田の川の川柳のねもころ見れど飽かぬ川かも
l 09-1724 見まく欲り来しくもしるく吉野川音のさやけさ見るにともしく
l 09-1725 いにしへの賢しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも
l 09-1736 山高み白木綿花に落ちたぎつ夏身の川門見れど飽かぬかも
l 09-1737 大滝を過ぎて夏身に近づきて清き川瀬を見るがさやけさ
l 10-1831 朝霧にしののに濡れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ
l 10-1868 かはづ鳴く吉野の川の滝の上の馬酔木の花ぞはしに置くなゆめ
l 10-1919 国栖らが春菜摘むらむ司馬の野のしばしば君を思ふこのころ
l 10-2161 み吉野の岩もとさらず鳴くかはづうべも鳴きけり川をさやけみ
l 10-2292 秋津野の尾花刈り添へ秋萩の花を葺かさね君が仮廬に *
l 11-2837 み吉野の水隈が菅を編まなくに刈りのみ刈りて乱りてむとや
l 12-3065 み吉野の秋津の小野に刈る草の思ひ乱れて寝る夜しぞ多き
l 12-3179 留まりにし人を思ふに秋津野に居る白雲のやむ時もなし *
l 13-3230 みてぐらを 奈良より出でて 水蓼 穂積に至り 鳥網張る 坂手を過ぎ 石走る 神なび山に 朝宮に 仕へ奉りて 吉野へと 入ります見れば
いにしへ思ほゆ
l 13-3232 斧取りて 丹生の桧山の 木伐り来て 筏に作り 真楫貫き 礒漕ぎ廻つつ 島伝ひ 見れども飽かず み吉野の 瀧もとどろに 落つる白波
l 13-3231 月は日は変らひぬとも久に経る三諸の山の離宮ところ
l 13-3233 み吉野の瀧もとどろに落つる白波留まりにし妹に見せまく欲しき白波
l 13-3291 み吉野の 真木立つ山に 青く生ふる 山菅の根の ねもころに 我が思ふ君は 大君の 任けのまにまに 鄙離る 国治めにと 群鳥の
朝立ち去なば 後れたる 我れか恋ひむな 旅ならば 君か偲はむ 言はむすべ 為むすべ知らに 延ふ蔦の 行きの 別れのあまた 惜しきものかも
l 13-3293 み吉野の 御金が岳に 間なくぞ 雨は降るといふ 時じくぞ 雪は降るといふ その雨の 間なきがごと その雪の 時じきがごと 間もおちず 我れはぞ恋ふる 妹が直香に
l 13-3294 み雪降る吉野の岳に居る雲の外に見し子に恋ひわたるかも
l 14-3560 ま金ふく丹生のま朱の色に出て言はなくのみぞ我が恋ふらくは
l 16-3839 我が背子が犢鼻にするつぶれ石の吉野の山に氷魚ぞ下がれる
l 18-4098 高御座 天の日継と 天の下 知らしめしける 天皇の 神の命の 畏くも 始めたまひて 貴くも 定めたまへる み吉野の この大宮に
あり通ひ 見したまふらし もののふの 八十伴の男も おのが負へる おのが名負ひて 大君の 任けのまにまに この川の 絶ゆることなく この山の
いや継ぎ継ぎに かくしこそ 仕へまつらめ いや遠長に
l 18-4099 いにしへを思ほすらしも我ご大君吉野の宮をあり通ひ見す
l 18-4100 もののふの八十氏人も吉野川絶ゆることなく仕へつつ見む
l 19-4224 朝霧のたなびく田居に鳴く雁を留め得むかも我が宿の萩
(右の一首の歌、芳野宮に幸しし時に、藤原皇后の作らしたるなり。ただし、年月いまだ審詳つばひらかならず。十月五日、河辺朝臣東人が伝誦せるなりと尓云いふ。)
関連年表
時代区分 |
和暦 |
西暦 |
事 柄 |
- |
応神19 |
- |
応神天皇、吉野行幸。国栖人が酒を贈り、歌舞。 |
雄略 2 |
- |
雄略天皇、吉野行幸、猟遊。 |
飛
鳥
・
藤
原 |
大化元 |
645 |
古人大兄皇子、出家し吉野に隠棲、その後謀反の疑で殺害される。 |
斉明 2 |
656 |
斉明天皇、吉野宮を造営。 |
斉明 5 |
659 |
斉明天皇、吉野宮に行幸。 |
天智10 |
671 |
役行者が大峯山で蔵王権現を感得。その姿を木彫像に刻み、山上(大峯山寺)・山下の吉野山(金峯山寺)に祀り、金峯山寺を開創。
大海人皇子、吉野に隠棲。 |
天武元 |
672 |
壬申の乱 |
天武 8 |
676 |
吉野の会盟 |
持統11 |
697 |
持統天皇、689年からこの年までに31回の吉野行幸。 |
大宝元 |
701 |
文武天皇、吉野離宮行幸。
持統太上天皇、吉野離宮行幸。 |
大宝 2 |
702 |
文武天皇、吉野離宮行幸。 |
奈
良 |
霊亀 2 |
716 |
このころ、吉野監(芳野監)が置かれる |
養老 7 |
723 |
元正天皇、吉野宮行幸 |
神亀元 |
724 |
聖武天皇、吉野宮行幸 |
神亀 2 |
725 |
聖武天皇、吉野離宮行幸 |
天平 8 |
736 |
聖武天皇、吉野離宮行幸 |
平
安 |
貞観元 |
859 |
朝廷より金峯神社に正三位、吉野水分神社・勝手神社に正五位が贈られる。 |
寛平 6 |
894 |
真言宗小野流の祖 理源大師 聖宝が、大峯山の山岳修行を再興。 |
昌泰元 |
898 |
宇多上皇、宮滝行幸。 |
昌泰 3 |
900 |
宇多上皇、金峯山に参詣。 |
延喜 5 |
905 |
宇多上皇、金峯山に参詣。 |
延喜 6 |
906 |
聖宝、金峰山の諸堂や仏像を造立し、吉野川に渡し船を設置。 |
天慶 4 |
941 |
日蔵、笙の窟に参詣中絶息。冥途に行ったが後に蘇生? |
天徳 4 |
960 |
内裏が炎上し、吉野山の桜が紫宸殿前面に植えられる。(左近の桜)
このころまでに「金御嶽」として、金峯山の黄金埋蔵伝説が生まれる。 |
寛弘 4 |
1007 |
藤原道長、金峯山に詣で、経塚を造営。 |
長元元 |
1028 |
金峯山宗徒が朝廷に強訴。
鎌倉時代にかけて「僧兵」の活動が盛んになる。 |
永承 4 |
1049 |
藤原頼道(道長の子)、金峯山に参詣。 |
寛治 2 |
1088 |
藤原師通(道長の曾孫)、金峯山に参詣。 |
寛治 4 |
1090 |
藤原師通、金峯山に参詣。 |
寛治 6 |
1092 |
白河上皇、金峯山に参詣。 |
寛治 7 |
1093 |
蔵王堂焼失。 |
永久 5 |
1117 |
白河法皇、蔵王堂に参詣。 |
保安 2 |
1121 |
白河法皇、蔵王堂に参詣。 |
保延 6 |
1140 |
平忠盛、金峰山に三郎鐘を寄進。このころ西行が寓居。 |
鎌
倉 |
文治元 |
1185 |
源義経、吉野山に潜伏。静御前、捕らえられ鎌倉に送られる。 |
嘉禄 2 |
1226 |
如意輪寺の蔵王権現像(重文)が造られる。 |
建長 3 |
1251 |
水分神社の玉依媛神像(国宝)が造られる。 |
文永 9 |
1272 |
西大寺の叡尊、吉野山で戒律を授け、諸郷の殺生を禁ずる。 |
元弘 2
正慶元 |
1332 |
大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)、吉野に城郭を構築、討幕の兵を挙げる。 |
元弘 3
正慶 2 |
1333 |
鎌倉幕府軍、大塔宮護良親王の籠る蔵王堂を攻撃。親王ら高野山に避難。吉野山、ほぼ全焼。 |
室
町 |
延元元
建武 3 |
1336 |
後醍醐天皇、吉野山に潜幸。吉水院を行在所とし、実城寺(金輪王寺)を皇居とする。
南北朝の対立始まる。 |
延元 3
暦応元 |
1338 |
仁王門(国宝)の金剛力士像(阿形)が造られる |
延元 4
暦応 2 |
1339 |
後醍醐天皇崩御。塔尾山(如意輪寺本堂の裏)に葬られる。
仁王門の金剛力士像(吽形)が造られる。 |
正平 2
貞和 3 |
1347 |
楠木正行、後村上天皇に最後の別れをするため参内し、後醍醐天皇陵に詣でたあと四条畷の戦いへ参陣。 |
正平 3
貞和 4 |
1348 |
高師直が攻め寄せ、後村上天皇ら賀名生(西吉野村)に避難。吉野山ほぼ全焼。 |
元中 9
明徳 4 |
1392 |
後亀山天皇、北朝・後小松天皇に譲位し、南北朝合一。 |
文明 3 |
1471 |
蔵王堂正面の銅燈籠が寄進される。 |
天文 3 |
1534 |
飯貝の本善寺門徒による金峰山討ち入り。三十六坊を焼く。 |
天文 7 |
1538 |
摂津平野の豪商、桜の苗1万本を寄進。 |
天文22 |
1553 |
三条西公条、「吉野詣記」を著す。 |
安
土
桃
山 |
天正14 |
1586 |
蔵王堂、大塔などが焼失。 |
天正20 |
1592 |
このころ、蔵王堂再建(現蔵王堂) |
文禄 3 |
1594 |
豊臣秀吉、徳川家康・前田利家・伊達政宗吉野らを引き連れ、吉野で花見の宴を催す。 |
文禄 4 |
1595 |
秀吉、金峰山寺に寺領寄進の朱印状を与える |
江
戸 |
慶長 9 |
1604 |
豊臣秀頼、水分神社・安禅寺・大橋などを修復。
このころ、庶民の山上参り(大峯山参り)が盛んになる |
慶長18 |
1613 |
幕府、修験道法度を定め、全国の修験者を当山派(真言宗系)本山派(天台宗系)のどちらかに属させる。 |
寛文 7 |
1667 |
陽明学者・熊沢蕃山、吉野山に隠棲。 |
貞享元 |
1684 |
松尾芭蕉、来山。『野ざらし紀行』を署す。 |
元禄元 |
1688 |
松尾芭蕉、再び来山。『笈の小文」を署す。 |
元禄 9 |
1696 |
貝原益軒、来山。『和州巡覧記』を署す。 |
明和 9 |
1772 |
本居宣長、来山。『菅笠日記』を署す。 |
明
治 |
明治 5 |
1872 |
神仏分離政策により修験道が廃止される。 |
明治 7 |
1874 |
金峯山寺が廃され、山下の蔵王堂は金峯神社の口の宮、山上の蔵王堂が奥の宮と呼ばれる。 |
明治19 |
1886 |
山上と山下の蔵王堂が別々に仏寺に復する。 |
明治22 |
1889 |
金峯山寺の名称復帰が許される。 |
明治26 |
1893 |
島崎藤村、来山。『訪西行庵記』を署す。 |
大正 |
大正13 |
1924 |
蔵王堂の解体修理が完了。吉野山が国の史跡及び名勝に指定。 |
昭
和 |
昭和 3 |
1928 |
現在の吉野駅まで鉄道延長。 |
昭和11 |
1936 |
吉野熊野国立公園に指定。 |
昭和23 |
1948 |
金峯山寺、天台宗から独立し、大峯修験宗を立宗。 |
昭和27 |
1952 |
金峯山寺、金峯山修験本宗と改称、総本山となる。 |
昭和59 |
1984 |
蔵王堂の大修理完了。 |
平
成 |
平成16 |
2004 |
吉野・大峯がユネスコ世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録。 |
菅笠日記抜粋
『菅笠日記』は、本居宣長が43歳の時、明和9年(1772)3月5日から14日まで10日間、吉野、飛鳥を旅した時の日記です。
抜粋した部分は、明和9年(1772)3月8日から9日、旅の4日目・5日目に当たります。
・・・いと大きなる銅の鳥居たてり。發心門としるせる額は。弘法大師の手也とぞ。又二町ばかりありて。石の階のうえに。二王のたてる門あり。此わたりにも桜有て。さかりなるもおほく見ゆ。かのみふね山。こゝよりは。むかひにちかく見えたり。まづやどりをとらんとて。蔵王堂にはまゐらですぎゆく。堂はあなたにむかひたれば。かの門は。うしろの方にぞたてりける。・・・
・・・この院(吉水院)は。道より左へいさゝか下りて。又すこしのぼる所。はなれたる一ッの岡にて。めぐりは谷也。後醍醐のみかどの。しばしがほどおはしましゝ所とて。有しまゝにのこれるを。入てみれば。げに物ふりたる殿のうちのたゝずまひ。よのつねの所とは見えず。かけまくはかしこけれど。・・・・
・・・堂のかたはらより西へ。石のはしをすこしくだれば。すなはち実城寺也。本尊のひだりのかたに後醍醐天皇。右に後村上院の。御ゐはいと申物たゝせ給へり。此寺も。前のかぎり蔵王堂のかたにつゞきて。後も左も右も。みなやゝくだれる谷也。されどかのよし水院よりは。やゝ程ひろし。この所は。かりそめながら。五十年あまりの春秋をへて。三代の帝【後醍醐天皇後村上天皇後亀山天皇】のすませ給ひし。御行宮の跡なりと申すは。いかゞあらん。ことたがへるやうなれど。をりをりおはしましなどせし所にてはありぬべし。今は堂も何も。つくりあらためて。そのかみのなごりならねど。なほめでたく。こゝろにくきさま。・・・
・・・勝手の社は。このちかきとし焼ぬるよし。いまはたゞいさゝかなるかり屋におはしますを。をがみて過ゆく。此やしろのとなりに。袖振山とて。こだかき所に。ちひさき森の有しも。同じをりにやけたりとぞ。御影山といふも。このつゞきにて。木しげきもりなり。・・・
・・・宮滝にて。よしのゝ川は。此ふた里のあひだをなん流れたる。西河よりこゝ迄は。一里あまりも有ぬべし。かの国栖なつみなどは。此すこし川上也。しもは上市へも程ちかしとぞ。此わたりも。いにしへ御かり宮有て。おはしましつゝ、せうえうし給ひし所なるべし。宮瀧といふ里の名も。さるよしにやあらん。こゝの川べのいはほ。又いとあやしくめづらか也。かの大滝のあたりなるは。なべてかどなく。なだらかなるを。こゝのは。かどありて。みなするどきが。ひたつゞきにつゞきて。大かた川原は。岩のかぎり也。此岩どもにつきても。例の義経がふることとて。何くれと。えもいはぬこと共を。語りなせども。うるさくて。きゝもとゞめず。此わたり川のさま。さるいはほの間にせまりて。水はいと深かれど。のどやかにながれて。早瀬にはあらず。さて岩より岩へわたせる橋。三丈ばかりもあらんか。宮滝の柴橋といひて。柴してあみたる。渡ればゆるぎて。ならはぬこゝちには。あやふし。又ここにも。かの岩飛するもの有。・・・
・・・川邊をはなれて。左の谷陰にいり。四五丁もゆきて。道のほとりに。桜木の宮と申すあり。御前なる谷川の橋をわたりてまうづ。さて川邊をのぼり。喜佐谷村といふを過て。山路にかゝる。すこしのぼりて。高滝といふ瀧あり。よろしき程の滝なるを。一つゞきにはあらで。つぎつぎにきざまれ落るさま。又いとおもしろし。象の小川といふは。此瀧のながれにて。今過来し道より。かの桜木の宮のまへをへて。大川におつる川也。象山といふも。此わたりのことなるべし。桜いとおほかる。今はなべて青葉なるなかに。おのづから散のこれるも。所々に見ゆ。大かた此よし野のうちにも。ことに桜のおほきは。かのにくき名つきたる所。さては此わたりと見えたり。滝を右の方に見つつ。なほ坂をのぼり行て。あなたへ下る道は。なだらか也。其ほどにも。桜はあまた見ゆ。されどいにしへにくらべば。いづこもいづこも。今はこよなう。すくなくなりたらんとぞ思はるゝ。・・・
・・・如意輪寺にまうづべかりけるを。日暮て残しおきしかば。けさことさらにまうづ。此寺は。勝手の社のまへより。谷へくだりて。むかひの山也。谷川の橋をわたりて。入もて行道。さくら多し。寺は山のはらに。いと物ふりてたてる。堂のかたはらに宝蔵あり。蔵王権現の御像をすゑたり。この御づしのとびらのうらなる絵は。巨勢金岡がかけるといふを見るに。げにいと古く見どころある物也けり。それに。ごだいごのみかどの。御みづからこの絵の心をつくりて。かゝせ給へる御詩とておしたり。わきにこのみかどの御像もおはします。これはた御てづからきざませ給へりとぞ。其外かゝせ給へる物。又御手ならし給ひし御硯やなにやと。とうでゝ見せたり。又楠のまさつらが軍にいでたつとき。矢のさきして。塔のとびらに。「かへらじとかねて思へば梓弓なきかずにいる名をぞとゞむる。といふ哥をゑりおきたるも。此くらにのこれり。みかどの御ためにまめやかなりける人なれば。かの義経などゝはやうかはりて。あはれと見る。又塔尾の御陵と申て。此堂のうしろの山へすこしのぼりて。木深き陰に。かの帝のみさゞきのあるに。まうでゝ見奉れば。こだかくつきたるをかの。木どもおひしげり。つくりめぐらしたる石の御垣も。かたははうちゆがみ。かけそこなはれなど。さびしく物あはれなる所也。・・・