両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第49回定例会
吉野山から宮滝へ


Vol.207(15.1.23.発行)~Vol.211(15.3.20.発行)に掲載





【1】 (15.1.23.発行 Vol.202に掲載)     風人

 本号より、第49回定例会に向けての咲読を始めます。担当は、風人が務めます。よろしくお願いします。

 第49回は、ウォーキング「吉野山から宮滝へ」を実施します。吉野山というと、皆さんは何をイメージされるでしょうか。桜ですか? 南朝悲話でしょうか? あるいは、義経や静御前のエピソードでしょうか? また、役行者を思い起こされる方も居られることでしょう。あるいは、「暮春の月に、吉野の離宮に幸す時に、中納言大伴卿、勅を奉りて作る歌 “昔見し 象の小川を 今見れば いよよさやけく なりにけるかも” 巻3-316」など、行程後半の喜佐谷を流れる古名「象(きさ)の小川」や宮滝を中心にした数多くの万葉歌に思いを馳せる方も居られると思います。今回の定例会では、これらの全てを味わい尽そうと思っています。(笑) 

 私は、飛鳥以外のことは、ほとんど知りません。しかし、皆さん、ご安心ください。第49回定例会には、心強い援軍が有ります。泉南市教委の岡一彦先生が終始随行してくださり、各ポイントでの説明を手助けしてくださいます。また、最後に立ち寄ります吉野歴史資料館では、吉野町教委中東洋行先生がギャラリートークをしてくださいます。話し上手なお二人ですので、心もとない風人の出番は、極めて少なくなることでしょう。私も皆さんも、ほっとしましたね。(笑)

 ウォーキングの総距離は、約8kmです。ただ、これは机上の計測によるものですので、実際にはもう少し増えると思われます。また、観光地としての吉野を離れると、舗装されていない山道を歩くことになります。山ですので、当然ですがアップダウンが有ります。特に如意輪寺を挟んでの区間は急な坂道が続きますので、花の吉野という観光気分で歩かれると思わぬ苦戦を強いられることになりますので、ご注意くださいね。服装や靴にも、注意してご用意ください。特に靴は、ウォーキングシューズ・トレッキングシューズ(推奨)が必要です。

 もちろん、吉野山の喧騒を離れて歩く喜佐谷は、清浄な気が満ちた山中のウォーキングになります。付かず離れず流れる「象の小川」は、時には滝を作り、時には穏やかに流れ、心地よい沢音を聞かせてくれます。ご参加いただければ、この区間のウォーキングは心に残る体験となることでしょう。

 とりわけ、高滝は素晴らしく、見る者に感動を与えてくれることでしょう。下見で撮りました写真を、是非ご覧ください。


高滝

 山道を下り切ろうとするところ、桜木神社があります。象の小川に屋形橋が掛かり、その先に大己貴命・少彦名命、そして天武天皇を祭神とする神社が有ります。古くから医薬の神としての信仰が篤く、江戸時代には病気平癒を祈願したとする記録が多く残るようです。

 案内板によれば、「天武天皇がまだ大海人皇子といわれていたころ、天智天皇の近江の都を去って吉野に身を隠しましたが、あるとき天皇の子、大友皇子の兵に攻められ、かたわらの大きな桜の木に身をひそめて、危うく難を逃れた」という伝説があります。もちろん、事実ではないでしょうが、吉野には多くの天武天皇にまつわる伝承が隠れています。咲読が進むにつれ、そのような話もご紹介して行きたいと思います。

 『日本書紀』斉明2年(656)の条には、次のような記事が有ります。

 於田身嶺、冠以周垣田身山名、此云大務、復於嶺上兩槻樹邊起觀、號爲兩槻宮、亦曰天宮。時好興事、廼使水工穿渠自香山西至石上山、以舟二百隻載石上山石順流控引、於宮東山累石爲垣。時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬餘矣、費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣、山椒埋矣。又謗曰、作石山丘、隨作自破。若據未成之時作此謗乎。又作吉野宮。

 両槻宮や宮の東の丘、また狂心渠の建設に関わる有名な記事です。そして、最後に「また、吉野宮」を作る。」と書かれています。

 両槻会は、この両槻宮から字を借りていますので、縁の有るエピソードであるのですが、同時に建造された吉野宮もまた兄弟宮のような気がします。(笑)

 宮滝に吉野宮が有るとは断言出来ないようなのですが、飛鳥時代の公的な建物群が在ることは確かなようです。その辺りはまた、次号以降に書く予定です。

 話は変わりますが、今回の定例会では貸切バスを利用します。なぜこの様な事になったかと言いますと、宮滝散策には必要不可欠だった宮滝バス停発16:44発のバスが、土曜日に運行しなくなってしまったのです。その前の便は14時台になりますので、時間が足りません。これでは、宮滝に行けなくなってしまいます。素晴らしい景観と歴史が息づく土地ですので、残念でなりません。芋峠を越えて宮滝まで歩いたとしても、帰りの交通機関が無いのです。悲しいですね!

 次号は、もも に入ってもらうことにします。











【2】 (15.2.6.発行 Vol.208に掲載)   もも

 第49回の咲読の2回目です。今号は、もも が横入りします。(^^ゞお付き合いよろしくお願いします。

 前号に事務局長が書いたように吉野と言えば桜。でも、万葉集では吉野の桜について詠まれた歌はありません。歌に桜が好んで詠まれはじめるのは平安時代頃になりますので、それと連動しているのかもしれません。万葉の時代、吉野は山や川(滝)が詠まれることが多かったようです。


万葉集に登場する吉野の地名など(赤点線は第49回散策予定ルート)

 万葉集には「み吉野」をはじめ「吉野川」「吉野山」など「吉野」の文字が入る歌がおよそ60首。吉野地域を詠んだとされる地名や山や川の名としては、六田・千股・妹山・背山・象山(喜佐山)・象の小川(喜佐谷川)・夢のわだ・三船山・菜摘・秋津野・司馬の野・国栖などがあげられ、これらの歌を合わせるとおよそ90首になります。

 「宮滝」という名称が万葉集には登場しないことは、飛鳥遊訪マガジンをお読みの皆さんは既にご存知だと思います。宮滝の呼称は「たぎつ川にある宮・滝の宮処」から発したとされているようです。平安時代中頃の貴族・源経頼の日記『左経記』には「宮滝」という記述が出てくるそうですから、11世紀前半までには、そう呼ばれるようになっていたのかもしれませんね。今号では「宮滝」と呼ばれる以前、万葉の時代の吉野を少しだけ覗いてみようと思います。

 まずは、こちらの歌を。
滝の上の 三船の山に 瑞枝さし 繁に生ひたる 栂の木の いや継ぎ継ぎに 万代に かくし知らさむ み吉野の 秋津の宮は 神からか 貴くあるらむ 国からか 見が欲しくあらむ 山川を 清みさやけみ うべし神代ゆ 定めけらしも (6-907)
 この歌は、養老7年(723)の元正天皇の吉野離宮行幸の際に笠金村が詠んだ歌です。歌に「み吉野の秋津の宮は」とあることから、「秋津の宮」は、吉野離宮を指していると考えて良いと思います。

 そして、笠金村より30年ほど前、持統4年(690)2月の持統天皇の吉野行幸の際に柿本人麻呂が詠んだ歌では、
やすみしし わが大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 舟並めて 朝川渡る 船競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす水激く 滝の宮処は 見れど飽かぬかも (1-36)
 「秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば」とありますので、「秋津」と呼ばれたところがあり、そこに「宮」が作られたと考えることができます。秋津の野辺(秋津野)は吉野川を挟んだ宮滝の南西地域、現在の御園辺りだという説もあります。

 秋津野の地名伝承には、『古事記』にある雄略天皇のアブとトンボの逸話があり、『記紀』には「秋津州(蜻蛉州)」という呼称がでてきます。万葉集で詠まれた「秋津」の中には、吉野だと言い切れない歌も幾つかあり、和歌山にも秋津と呼ばれたところがあるようです。

 さらに言えば、御所市にある秋津遺跡も旧の字(あざ)から取られた名前だそうですし、近隣の八幡神社の境内には第6代考安天皇の「室秋津島宮跡」の碑が立っています。古代史好きの方には、「秋津」は御所市、もしくは葛城地域だと考えられる方が多いかもしれませんね。でも、万葉集の吉野地方の歌にも、「秋津」が登場するのですよ。

 あれこれ考えると、この「あきつ」は、固有名詞ではなく土地賛美のような美称のひとつなんじゃないでしょうか。同じ地名があちらこちらにあることって現在でも多いですよね。

 万葉集に「秋津野」とある歌の中で、原文に「蜻蛉乃宮」と書かれているのは、最初にあげた笠金村の歌だけのようですが、σ(^^)は、この蜻蛉(あきつ)と言う呼称に興味を覚えました。「蜻蛉(あきつ)」は、今のトンボだともカゲロウだとも言われますが、トンボは前進のみで後退しないことから好まれたとする説もありますので、美称でもOKなんじゃない?

 おっと!このまま「秋津」を追い続けると、だんだん吉野から逸れるのでこの辺で止めておきます。吉野にもこういう呼称も出てくるよ・・・というお話でした。(^^ゞ

 次号からは、また風人に担当が戻ります。お楽しみ♪














【3】 (15.2.20.発行 Vol.209に掲載)   風人

 第49回定例会は、吉野そのものが持つ魅力からか、また気軽には行けないコースだったからか申し込みが多く、只今、定員をオーバーしております。現在、キャンセル待ちでの受付となっていますので、ご了承ください。

 さて、その人気の吉野なのですが、両槻会では、過去2回特別回として訪れています。1回は、竜門寺を目指した「神仙境竜門寺を訪ねる」、2回目は「旧道芋峠越宮滝行」、またスタッフのみの壬申の乱ウォーキングで「宮滝から大宇陀へ」、そして「国栖 浄見原神社を訪ねる」を踏破しています。

 今回は竜門寺へは行きませんが、前回定例会のミニ講座で佐々木先生がお話しくださった発掘調査でも名前が出ました久米仙人の修業の場とされるお寺で、竜門岳山中に在る山寺です。このウォーキングは、両槻会としては初めての特別回として実施しました。レポが両槻会HPに有りますので、リンクを飛んで是非ご覧ください。

 神仙境竜門寺を訪ねる

 また、旧道芋峠を越えたのは、2009年12月5日のことでした。この実施日は、旧暦の10月19日にあたり、壬申乱の序章である大海人皇子一行が近江大津宮を吉野に向かって出立した日になります。一行は、19日の夕方に嶋宮に入り、翌20日に宮滝に到着しています。特別回では一日のずれが有ったのですが、当日は冷たい雨が降り続き、
み吉野 耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごとく 隅もおちず 思ひつつぞ 来し その山道を
 という万葉集巻1-25 天武天皇の壬申の乱に関する作歌だとされている歌さながらに大変な行程となりました。しかし、これが当時を追体験しようというこの企画に嵌り、随分思い出深い宮滝行になりました。こちらは、参加していただいた皆さんの感想レポートをHPに掲載しています。ご覧ください。

 旧道芋峠越宮滝行

 さて、皆さんは能楽に「国栖」という演目が有るのをご存知でしょうか。壬申の乱で吉野に隠遁した大海人皇子と国栖人とのエピソードが語られます。謡曲では、近江朝廷から逃げ延びた皇子が国栖にたどり着き、土着の国栖人に助けられ、最後には蔵王権現や天女から政権奪取の予祝を受けるというストーリーになっています。

 演目の中では、数多くのエピソードが語られるのですが、その中に犬に関する話が出てきます。能楽「国栖」では、次のような場面が展開します。「村人は川舟を逆さにしてその中に皇子を隠し、追手の目につかぬようにしたところ、犬が舟を嗅ぎまわり吠えたので、村人はこの犬を打ち殺して皇子の危機を救いました。」以来この地では犬を飼う家がないということです。現在は、そのような事はないかと思いますが、私が行った時には犬の鳴き声は聞こえませんでした。また、国栖の御霊神社には狛犬が置かれていないそうです。

 もう一つ、エピソードを紹介しましょう。国栖には「片腹渕」という場所が有るのですが、大海人皇子の危機を救った国栖人は皇子を付近の岩窟に案内し、粟飯にウグイやカエルや根芹を添えてもてなしました。
 皇子は食べたウグイの片側を水中に投じて勝敗を占ったところ、ウグイは勢いよく泳いで戦勝を予兆したことから、その地を片腹渕と呼ぶようになったとされています。

 さて、ここで少し怪しげな話を付け加えましょう。関西では、「もみない(もむない)」という方言が有るのですが、他地域の方はわかるでしょうか。「不味い、美味しくない」に近い表現です。「うま味が無い」が転訛したものだとするのが、たぶん正しい説明になると思うのですが、以下のようなことを言う人も居ます。

 上に書いた大海人皇子がカエルを食されたという話なのですが、このカエルを方言で「もみ」というのだそうです。皇子は、大変この「もみ」を気に入られて、「もみ」が無いときの食事を悲しまれたことから、美味しくない食事を「もみがない」と表現するようになったとか。少々強引な説ですが、伝承としては面白い話ですので、紹介することにしました。

 中東先生のご寄稿にも書かれていますが、吉野には大海人皇子に関連する伝承が数多く眠っています。政権に追われた人が集う吉野、判官びいきの聖地吉野の面白さの一つかもしれませんね。 















【4】 (15.3.6.発行 Vol.210に掲載)    もも

 第49回定例会「吉野山から宮滝へ」の4回目の咲読になります。今号は、またまた もも が横入りさせて頂きます。風人節を楽しみになさっていた方々、申し訳ありません。(^^ゞ

 吉野地域が詠み込まれた歌では行幸に際しての歌が大半をしめるのですが、その中でも少し趣の違う歌をご紹介したいと思います。

 いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く (2-111)
 ・・・昔を懐かしむ鳥でしょうか、ユズリハの井戸の上から鳴きながら飛んで行きます

 いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我が恋ふるごと (2-112)
 ・・・昔を恋しがるのはホトトギス。私が恋しく思うように鳥もまた鳴いたのでしょう。

 これは、弓削皇子が吉野から額田王に送り、額田王がそれに応じた相聞歌になります。『日本書紀』と照らし合わせると、詠まれたのは持統天皇4年(690)か5年(691)の吉野行幸の時ではないかと考えられるようです。

 ホトトギスは歌にあるように懐古の鳥、ユズリハは新芽とともに古い葉がみな落ちて「譲る」ことがその名の由来になっているそうです。

 弓削皇子は天武天皇の第6皇子、額田王は天武天皇との間に十市皇女をもうけていますので、ともに天武天皇に縁のある人物になります。そして、彼らが歌の中で恋しがって懐かしんでいる先にあるのは・・・。天武天皇の御代ではないでしょうか。

 万葉集に載る額田王の消息の最後と言われる歌が、この次に続きます。

 み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく (2-113)
 ・・・吉野の松の枝の愛しいこと。貴方のお便りを持ってくるなんて。

 吉野から苔のついた松の枝が送られたお礼にと額田王が詠んだ歌とされています。松の枝には、当然歌が結びつけられていたと考えられます。歌はもとよりその送り主の名も残されていませんが、送り主は弓削皇子であったろうと考えられているようです。今の感覚からすると、苔の付いた松の枝なんて!と思うかもしれませんが、この苔は松とともに「長寿」を意味する縁起の良いものなんだそうです。

 弓削皇子の生年は不詳ですが当時20歳前後だろうと思われます。額田王に至っては没年すら不詳ですが、当時60代後半は下らないのではないかと言われます。

 父と同時代を生き、今は老いてしまった女性に息子が送った長寿を祈る歌。いにしえの地から、年老いた我が身にも思いを馳せてくれる若者。吉野の自然に託されたこれらの歌は、周囲のほかの人達には、到底寄せることの出来ない深い思いを抱えた歌なのかもしれません。

 弓削皇子の吉野での歌をもうひとつ。

 滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに (3-242)
 ・・・滝の上の三船山にかかっている雲のように、ずっと(この世に)あろうとは私は思わない。

 山にかかる雲。風に流される雲。湧いては消える雲。自由奔放な雲。弓削皇子の目にはどのように映ったのでしょう。この歌には、「和して奉りし歌」として次の春日王の歌が続いています。

 大君は千年に座さむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや (3-242)
 ・・・大君はずっと健やかでいらしゃるでしょう。白雲も三船山に絶える日などありはしないでしょうから
 
 弓削皇子は病弱だった説もあり、天武天皇の死後は、不遇であったとも言われています。額田王の長寿を祈ったのとは反対に、自身の長寿を願うような気持にはなれなかったのでしょうか。

 第49回定例会は、お陰様で定員数に達しました。今後のお申込みは、キャンセル待ちとなります。ご了承ください。
















【5】 (15.3.20.発行 Vol.211に掲載)    風人

 いよいよ第49回定例会が、明日になりました。咲読も今回が最終回になります。飛鳥地域や飛鳥時代の知識しかない私は、定例会の準備を進める中で様々な事を学びました。吉野の奥深さ、多彩な登場人物やそのエピソードが心に沁み込んできます。時の政権から逃れ、あるいは戦いを挑む人たちが居て、そこに波乱のドラマが生まれました。役小角なども、既存の仏教から脱しようと吉野の地を選んだわけですから、反権力側の人物ともとれるでしょう。吉野の地には、あらゆる人々を受入れる何らかの力が存在しているのかも知れませんね。

 今号では、その中のエピソードの一つに触れたいと思います。「二人静」と言えば、皆さんは何を思い出されるでしょう。花にも「二人静」と呼ばれるものが有ります。また、干菓子や日本酒にもあるようです。中森明菜の「二人静」という歌かもしれませんね。この歌には、「天川伝説殺人事件より」というサブタイトルがついているのですが、これはもちろん奈良県の天川村のことですし、役行者に所縁の深い天河弁財天社があります。たしか、この映画に吉野山も出てきたような淡い記憶が有るのですが、どうだったでしょう。花の二人静については、スタッフの ももが今号の飛鳥話のコーナーで書いていますので、参照してください。


 さて、私が書こうとしているのは、前々号に引き続き謡曲の話になります。謡曲「二人静」は、世阿弥作と伝わり、静御前の霊が菜摘女にのりうつる物語です。勿論、この物語の主人公は、義経の愛妾 静御前です。私は、この舞台を鎌倉だと思っていました。情けないことに、「二人静」というタイトルだけしか知らなかったのでした。

  「しずやしず しずのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
  「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

 このように、源頼朝の前で舞歌った静御前をイメージして、それがこの演目となっているのだと思っていたのです。静御前は、自らの命を賭しても義経への愛を貫こうとしたのでしょうか。敵方の頼朝の前で、このように歌えば、どうなるかは分かっていたと思います。この時、頼朝の妻 北条政子のとりなしが無ければ、静御前の生涯はここで幕を下ろしていたに違いありません。私は、強い情念を感じます。その情念が、この演目を作らせたのではないかと思いました。

 「二人静」の舞台になるのは、今回の定例会で訪れる勝手神社でした。現在、社殿は焼失しており、残念ながら神社跡になってしまっています。

 謡曲「二人静」のあらすじをご紹介します。

 吉野勝手明神の神職は、旧暦正月に神社にお供えする若菜摘みを女に命じました。菜摘女が若菜を摘んでいると、一人の女が現われて、菜摘女に正体は明かさず、神社の人々に「自分に1日経をあげて回向して欲しい」と言伝を頼み、「もし疑う人があれば、菜摘女にとり憑いて名乗って説明する」と言って消え失せました。
 驚いた菜摘女は神社に戻り、事の次第を神職に告げますが、自分でも半信半疑で不思議なことだと言った瞬間、物に憑かれたようになり驚いた神職が尋ねると、判官殿に仕えていた女だと答えます。それが静御前だとわかると、神職は舞を所望し、弔いを約束します。昔の舞装束を取り出し菜摘女が舞い始めると、同じ装束の静御前が現われ昔の思い出を語り、義経の吉野落ちの苦難の様子や、頼朝に召されて舞を所望され舞わされたことを語り、「しずやしず」の歌を歌って女の影に寄り添う如く共に舞います。やがて、回向を頼みつつ、消え去ります。

 菜摘女に憑りついた静御前と、更に魂魄となって現れた静御前。鬼気迫るような恐ろしい場面なのですが、やはり義経への一途な愛のためか、恐ろしさではなく、哀しい定めを感じさせる物語となっています。私は判官贔屓ではないのですが、この物語に流れる情念にひと時心揺れる思いを感じました。

 定例会では話をする時間は無いと思いますが、参加の皆さんには、この物語の舞台を見ていただきたいと思います。長い咲読に、お付き合いありがとうございました。次号より、5月定例会の咲読を開始いたします。お楽しみに。




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