ももと
飛鳥と三十一文字と
もも
万葉集にはド素人の私・ももが、今更一語一句の解説をしても始まらん・・
と言う事で
ももにとってタイムリーな話題に歌を交えながらお話できたらと思っています。
6号から51号までのももと飛鳥と三十一文字は、こちら♪
57号から103号までのももと飛鳥と三十一文字は、こちら♪
107号から201号までのももと飛鳥と三十一文字は、こちら♪
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【1】 「二人静」 (15.3.20.発行 Vol.211に掲載)
3月も下旬になると、σ(^^)の地域でも、あちらこちらで花が咲き始めて、咲いた花や膨らみはじめた蕾を見つけるのが楽しくなります。今年の桜は、そろそろ列島を北上し始める予想のようです。明日の定例会で訪れる吉野は、桜の名所。少しは膨らんだ蕾が見られるかもしれませんね。
さて、万葉集にも多くの花が詠まれていますが、梅や桜や萩のように今と大して変わらない呼び名のものもあれば、桔梗や朝顔のように一種類に特定出来ない花もあります。そんななかで、「これは花のことなんだろうか?」という歌をひとつご紹介したいと思います。
つぎねふ 山背道を 人夫の 馬より行くに 己夫し 徒歩より行けば 見るごとに 音のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と 我が持てる
まそみ鏡に 蜻蛉領巾 負ひ並め持ちて 馬買へ我が背 (13-3314)
山背を徒歩で行く夫の姿を見ているのは辛いから、母の形見の鏡と領巾を手放して馬を買おうと妻が提案している歌と言えばいいでしょうか。「人夫の馬より行くに」とありますから、同じように山背へ向かうなかには、馬に乗っている人も居るんでしょう。
さて、この長歌の何処に花の名があるかと言うと、最初の「つぎねふ」。この言葉は、二句目の山背の枕詞になるのですが、平安時代の『本草和名』や『和妙抄(倭妙類聚集)』に「都岐祢久佐・豆木禰久佐(つきねくさ」というのが載っているのだそうです。この「つきねくさ」がこの歌に出てくる「つぎね」であり、山背に多く自生していたから、「つぎねが生ふ(つぎねふ)」が枕詞として使われるようになったのではないかと、古代の花についての本には書かれていたりします。
ただ、言葉の意味を辞書などで調べると、「つぎねふ」は、山背の枕詞で語義未詳とされていることが多くて、書いてあっても「つぎねふ」の原文が「次峰経」であることから、「次々に続く峰」をあらわすと載っている程度です。
最初から花だと思って調べるか、言葉の意味だけを追うのかで、辿りつく先が違ってきます。
ま、今回は、花の名として取り上げようということなので、花説に一票を投じて、話を進めるんですがね。(^^ゞ
「つぎね」だと言われる「つきねくさ」は、今の「二人静」や「一人静」にあたるとされています。はい、「二人静」。ここで少し明日の定例会に絡んでおきます。(^^ゞ
二人静 |
4枚の葉の間からすっと二本の花穂を出す可憐な姿が、義経の愛妾静御前の霊と菜摘女が2人して舞う様子にたとえ命名されたとされます。一方一人静は、一人舞う静御前に例えられ、「吉野静」の異名を持つそうです。「二人静」は、今号の咲読でもご紹介している謡曲のタイトルですから、この名で呼ばれるようになったのは、謡曲の成立後ということになりますね。二人静は、4月から6月頃にかけて咲く山野草。これからの季節、散策の折りにでも、木立の下を探してみては如何でしょう。
「つぎね」が、二人静であるという確証はありません。でも、今回取り上げた歌には、3首の反歌があって、最後の1首は詠み人が男性になります。文字数の関係でこちらで紹介しきれませんが、労わりあう歌の様子が、寄り添って咲く二人静のふたつの花穂のようで、「つぎね」が古来からそういうたとえられ方をした花であれば良いなと思いました。機会があれば、是非、反歌も一緒に鑑賞してみてください。(^^)
【2】 「お題は桜」 (15.4.3.発行 Vol.212に掲載)
梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや(5-829)
「梅の花が咲いて散った後には、それを継ぐように桜の花が咲きそうになっているじゃないか」という感じでしょうか。今年も梅から桜へと順調に花は移ろっていますね。極々当たり前のことのようですが、当たり前にこそ感謝しなければ・・・と、最近やっと思うようになりました。(^^ゞ
さて、万葉集に出てくる桜については、随分前に一度ご紹介したことがあるので、今回はまた少し違う角度からお話できればと思います。
ま、飛鳥話を書くにあたって、季節柄と言うことで「桜の話は?」とお題が出たんです。はい。^^; お題が出たら、何とかしないといけません。まずは取っ掛かりとして、一番初めにするのが、桜の歌の中から気に入ったものを見つけること(ここが大事(笑))。ということで、最初にあげた歌が、今のσ(^^)のお気に入りのひとつということになります。
桜に関して、また違うお気に入りも見つけました。それは、「サクラ」の語源。語源に関しては、本当に色々説があるようですが、そのなかのひとつに「田の神様の依代」というのがありました。「田神」は「さがみ」と読み、この「さ」と「座(クラ)」が結びついて「サクラ」となったとする説です。生きとし生けるものは勿論、山や川にも神様が存在するとされた古代ですから、桜にも神様がいてもいいかもしれませんね。ということで、この「田の神様の依代」説がσ(^^)のお気に入りに仲間入り。(^^)
田の神様の依代である「サクラ」は、花の付き具合などでその年の稔りが占われ、満開が豊作を意味したんだそうです。つまり、桜の下で花見をするのは、神様へのお礼であり豊作の前祝い。花見には、豊作を約束してくれた満開の花が散るのを惜しむ、できれば止めたいという意味があったとも言われるようです。花見で酔いつぶれている場合ではありませんよ。咲いてくれた桜に感謝しなきゃ!(笑)
そして、満開の桜が散る頃に行われるお祭りもありました。「鎮花祭」と書いて「はなしずめのまつり」と読むそうです。雅でお洒落な名前、勿論これもお気に入り。(^^)
このお祭り、豊作を告げてくれた桜に感謝して行われるんだろうと思っていたら、どうもそうではないようです。ちょうど桜の花が散る頃が疫病の流行る時期に当たるため、疫神を鎮めるために行われるお祭りなんだそうです。言わば、祓い?いや、封じの意味合いの方が濃いのかな?
実際『続日本紀』には、2月から4月にかけての疫病の記録が多く残されているようです。花冷えや花曇りなどの言葉があるように、この時期の気候は不安定です。体調を崩しやすいのは、現代も古代も変わりないってことなんでしょうね。
「鎮花祭」は、延喜式にも残る由緒あるお祭りだそうで、大神神社と狭井神社の二社で行われているそうです。よく似たお祭りに「やすらい祭」があり、こちらは京都の今宮神社などが有名なんだそうです。
皆さんは、満開の夜桜やいつまでも散り舞う桜吹雪を見た時に、得体のしれない不気味な感覚を持ったことはないでしょうか。「桜の下には死体が埋まっている」と書いたのは梶井基次郎ですが、桜は散る際に、邪悪なものを一緒に振り撒くと考えられていた節があるそうです。これは民俗学と呼ばれる範疇になるそうで、学問と言われると腰が引けるのですが、昔々の風習や思考が自分の中にも流れているからか?と思ったりもします。
σ(^^)は、「満開の桜の下には魔物が棲む」と記憶していまして、本当にうろ覚えにも程がある(汗)。何か違うもののフレーズなのかなぁ??
桜花時は過ぎねど見る人の恋ふる盛りと今し散るらむ(10-1855)
「桜花がまだその時期でもないのに散っているのは、慈しんで見てくれる人がいる今がその時と散っているのだろう。」という感じでしょうか。桜の花が、人の思いに応えてくれているような歌です。木にも心があるのかも。きっとそうですね。サクラは神様の依代ですから。(^^)これが、今回のσ(^^)の一番のお気に入りです♪
桜の歌は、万葉集には40首近くあり、「花」と詠まれて桜を意味するものもありますので、皆さんも、是非その中からお好きな歌を見つけてみてください。
【3】 「ヘクソカズラ」 (15.4.17.発行 Vol.213に掲載)
4月も半ばを過ぎ、時期的には藤や躑躅などのお話をするのが普通なんでしょうが、万葉集に登場する花は、綺麗な名前ばっかりじゃないんですよね。前号で桜、前々号では二人静と綺麗どころの花をご紹介しといて、こんなことを言うのも何なんですが、皆さんも、きっと目にしたことのある小さな小さな花をご紹介したいと思います。
花の時期は、まだ少し先。7月頃から9月頃で、少し暑さが感じられる頃に咲くようです。特に保護されたり、育てられたりしている花ではないと思うので、いわゆる雑草の類になるのかもしれません。垣根や公園などの茂み、どちらかというとあまり手入れのされてない野放図な状態の草木に絡まるように広がっています。その草の名は、「ヘクソカズラ」(笑)。
万葉時代は「屎葛(クソカズラ)」と言われたようですが、さらに「へ(屁か?)」まで付いて、なんだかとっても貶められた名前を持つ草です。名の由来は、この草の持つ臭いにあるんだそうですが、早乙女葛とかいう別名もあるんですよね。そっちで呼んであげて欲しいと思うのですが、どちらが印象に残るかと言うと・・・いわずもがな(笑)。
万葉集には一首だけ登場します。これまた、別にヘクソカズラでなくても良いんじゃない?と思うのですが・・・。
さう莢に延ひおほとれる屎葛絶ゆることなく宮仕へせむ (16-3855)
サイカチにまとわりつくヘクソカズラのように、途絶えることなく頑張って宮仕えしよう
「さう莢」は、「そうきょう」と読むようです。サイカチやジャケツイバラなどの説がありますが、どちらも棘を持つようです。そんな棘のある草木にも、しつこくまとわりついて延びるヘクソカズラのように、自身も宮仕えをしていこうという意味になるようです。詠み人は、高宮王。「王」とありますので、皇孫だったようですが、万葉集にこれ以外にもう一首残すだけの詳細不明の人物です。皇族に列してなんとか「王」とは名乗ってはいるもののお勤めを頑張らないといけない微妙な立場の方だったのかな?と、勝手に想像を巡らせてお気の毒がったりしていました。
ですがこの歌、題詞に「数種の物を詠みし歌」とありました。これはモノの名を幾つか詠み込むお遊びの歌で、宴席などで歌の巧みな人物に余興のように突然作歌が振られたりしたようです。
だとすれば、ヘクソカズラが歌に詠まれた意味も何となく分かるような気がします。あえて「屎葛なんて臭い花があるけど、それで歌を詠んでみろよぉ~」と。だから、ここは同じ蔓性植物でも「サナカズラ」や「クズ」ましては美称を伴う「タマカズラ」であっては、ダメなわけです。あくまで、ヘクソカズラでなければ(笑)。
出されたお題をどう詠むか、歌の才能や技量はもとより、うまくまとめて座を盛り上げる機知も求められたんでしょうね。この歌の載る巻16は、そういう類の歌が集められているようです。面白い歌もあるので、ちょっと覗いてみてください。^^
【4】 「いずれ菖蒲杜若」 (15.5.29.発行 Vol.216に掲載)
5月から6月にかけて見頃となる花に菖蒲があります。アヤメ?ショウ
ブ?どちらとも読めるこの文字。皆さんは、どちらで読みました?(笑)さらによく似た花にカキツバタなんていうのもあって、「いずれアヤメかカキツバタ」と言われるように、花姿はよく似ています。前に垂れ下がった花びらの特徴や生育場所などで見分けがつくんだそうです。が・・・イマイチ見分けがつかないσ(^^)は、全部ひっくるめて「ショウブ」で良いかと。(おい)
いずれアヤメかカキツバタ
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アヤメとカキツバタは、万葉集ではきちんと詠み分けられています。「おぉ~!!万葉の人々は、見分けがついたんだ!すごい!」と思っていたら、どうもそうではないようです。
まず、万葉集に詠まれたアヤメは、「菖蒲草」や「安夜女具佐」などと書かれ「アヤメグサ」と読まれてはいますが、今のアヤメの花ではないようです。独特の匂いと刀に似た葉の形状から邪気を払うと考えられ、薬効もあり乾燥した根は漢方薬として用いられる・・・つまり、今も「ショウブ」と呼ばれ、端午の節句に菖蒲湯に使われる植物。サトイモ科になり、花を観賞するアヤメ科のアヤメとは、似て非なるものなのだそうです。
霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ(10-1955)
この歌のように、かづら(邪気を払うために頭に付ける飾り)にするなど、5月の節会に関わると思われる歌が殆どのようです。『続日本紀』には、天平19年(747)5月5日に、「昔、5月5日の節会には菖蒲を縵としていたが、近頃はその風習が行われなくなった。今後は菖蒲の飾りをつけないと宮中にはいってはならぬこととする」という太上天皇(元正太上天皇)の詔があり、節会で菖蒲がかづらに用いられていたことがわかります。・・・って、こんな話は、5月初旬に書くべきでしたね。(汗)
では、カキツバタはというと、こちらは「かきつはた」と濁音こそありませんが、今のカキツバタと同じだろうとされています。
かきつはた衣に摺り付け大夫の着襲ひ猟する月は来にけり(17-3921)
「衣に擦り付け」とあるように、カキツバタの花は染色(摺り染め)に用いられたとされています。カキツバタの名は、この「摺り染めの花」を意味する「書き付け花」が転訛したとも言われるようです。
一方で、
我れのみやかく恋すらむかきつはた丹つらふ妹はいかにかあるらむ(10-1986)
などの恋歌もあります。「丹つらふ」は、頬が照り映えているとか、紅いなどと言うような意味になり、「妹」や「君」などに掛かります。「カキツバタのように美しい」と愛しい人をたとえているんでしょうから、その花姿も愛でられたようです。
ちょっと横道にそれますが、カキツバタは漢字では「杜若」。どうしてこの二文字が「カキツバタ」になるんだろう?と思いませんか。花の名前って結構こういう当て字のようなものが多いですよね。でも、これは単なる当て字ではなくて、その昔、杜若(トジャク)という漢名の植物が、日本ではカキツバタにあたるとされたのだそうです。カキツバタ=トジャクってことですね。ところが、今は杜若(トジャク)は、ヤブミョウガの一種ではないかとされたものの、漢字だけがそのまま使用され続けた結果なんだそうです。
アヤメもカキツバタも、花の時期は終わってしまいました。「いずれアヤメかカキツバタ」と、見比べるのは来年までお預け。でも、これから6月下旬ごろまで見頃が続く花に、同じアヤメ科のハナショウブがあります。現在見られるものは殆どが改良された園芸種だそうですが、万葉集にもハナショウブか?という花の歌が一首あります。
をみなへし佐紀沢に生ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも(4-675)
この一首だけでは、沢に生えているらしいということがわかるだけで、「花かつみ」がハナショウブだという証拠にはならないようです。候補は、他にもヒメシャガやマコモなどがあり、これは謎の花ということになるようです。
【5】 「ひさかたの」 (15.8.7.発行 Vol.221に掲載)
おあつぅーございます。(+_+)
これが、ここ1カ月ほどの挨拶になってしまってます。夏も本番ですから致し方ないとは言え、気温が人間の平熱を超えると言うのは如何なものか?と思います。1日中ずっと満員電車で過ごしているようなもんですよね。皆さん、くれぐれもご自愛くださいマセ。
そんななか、8月の万葉歌を探してみました。でもこれがね!見事にないんです。(>_<) 7月だと、七夕の歌がこれでもか!っていうぐらいあって、9月になると秋の花々を詠んだものが見受けられるんですが、こと8月に拘ると・・・ゼロ。もうこの暑いのに、ネットや本を行き来するばかりで全く成果が出ずに泣きそうです。(T_T)
実際、萩や桔梗なんて秋の花と言われるものも8月には見られますから、初秋の歌を8月の歌と捉えることも出来なくはないんですけどね。ここは「8月に詠まれた」ってことが確実にわかる歌が知りたいじゃないですか。ま、研究者でもないので、そこまで深く追いかける必要もないんですが。つか、研究者ならわかるのかな?わかるんですよね?(誰に聞いてる?(笑))
と、このまま飛鳥話を終わるわけにも行きませんので、この月末にある第51回定例会繋がりで、万葉集中の「ひさかたの天」をご紹介しようと思います。6月末に発行した飛鳥遊訪マガジン218号の特別寄稿で、西田先生も万葉集のお話に触れられていたので、記憶にある方も多いと思います。
西田先生が思い浮かべられたという歌は
ひさかたの天照る月は神代にか出で反るらむ年は経につつ
神秘的な歌ですよね。
「ひさかたの天・久方の天」と詠まれた歌は、万葉集には20首ほどあります。さて、そんな中からσ(^^)が選んだ歌はと言うと・・・
行き行きて逢はぬ妹ゆゑひさかたの天露霜に濡れにけるかも(11-2395)
幾ら行っても逢ってはくれない子だから、天から降りてくる露や霜に濡れてしまった。
片思いの歌でしょうか。「行き行きて」というのが、なんとも身に詰まされます。逢ってはくれないのに頑張って通ってるんですね。もしかしたら、ストーカー?(おいっ!)あと、「天露霜に」というリズムが綺麗だなと思うんです。この「天・あま」は、雨(あま)も掛けてるのかな?と思ったりもしますが、この時代に掛詞はまだなかったのかな?「あまつゆしも・・あまつゆしも・・」と口ずさんでいるだけで、少し涼しくなるような気がしません?
「ひさかたの」は枕詞なので、特に意味はないとも言われています。でも私は、この言葉に「久しぶり」とか「遥か遠く」なんていう時間や距離が離れている感じ、間遠い雰囲気を感じてしまいます。
「ひさかたの」には「天・月・雲・雨」など空に因んだものが続くことが多くて、中には「都」が使われている歌もありました。我が身の思いだけでは距離を縮めることが出来ないもの・・・それが「ひさかたの」という枕詞を生んだように思えてきます。
暑い暑いと言いつつも、明日はもう立秋です。夏から秋へと移ろう季節を逃さないように過ごしたいものですね。
貴方にとっての「ひさかたの天」を飛鳥に探しにいらっしゃいませんか?暮れゆく飛鳥で皆さんとご一緒に過ごせたらと思います。
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