明日香村の古民家
旧島田家住宅 (公益財団法人 古都飛鳥保存財団所蔵写真 転載・転用禁止) |
この建物は、延宝2年(1674)に建築されたものです。19世紀初頭には大規模な改造が加えられました。
元は、明日香村雷に所在しましたが後に移築され、明日香民俗資料館として維持されてきました。2013年頃、地盤沈下や亀裂が入ったことにより、撤去されています。
主屋内部(公益財団法人 古都飛鳥保存財団所蔵写真 転載・転用禁止) |
門屋(公益財団法人 古都飛鳥保存財団所蔵写真 転載・転用禁止)
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喰違四間取の主屋住居部と土間・下倉が在り、住宅地に入る門に取り付く門屋には納屋と厩舎が付設されていました。
明日香民俗資料館(旧島田家)平面図 |
立体図 |
平面図・立体図は、公益財団法人 古都飛鳥保存財団提供資料を許可を得て参考、または使用しています。
江戸時代の明日香村
江戸時代の飛鳥の様子を見ておきたいと思います。飛鳥地域の大部分は、高取藩に属していました。藩主は、前藩主本多政武に世継ぎが無かったため、徳川家譜代の臣であり幕府の大番頭であった植村家政が換わって務めることとなりました。植村家は、明治の廃藩置県を迎えるまで代を重ねました。石高は、2万5千石です。
ただ、飛鳥の川原村は高取藩には属さず、旗本 神保氏領となっていたそうです。また、越村も変遷はあるものの高取藩には属していなかったようです。
領主である植村家は、石高の合計で4~5000石を基準にして大庄屋を設け、その下に庄屋が村ごとに置かれる体制をつくり、農村を支配していました。江戸時代の前半の飛鳥では、岡組と呼ばれる岡村の庄屋を大庄屋としていましたが、後半は八釣組がその役を担っていたようです。また、飛鳥の南部(阿部山・大根田付近から橘・野口辺りまで)は土佐(現高取町)組に組み込まれていました。
文久3年(1863)の八釣組は、24ケ村であったそうです。この大庄屋さんのお屋敷が、以下に紹介する井村家住宅になります。
井村家住宅
屋敷は、明日香村八釣に所在します。築造年代や構造は未詳ですが、寛政4年(1792)また文久3年(1863)には飛鳥地域の村々24ケ村の大庄屋であったことが記録されています。当時、高取藩内には4~5軒の大庄屋が在ったのですが、井村家は、時期によって細川村の藤本家に換わることが有ったものの、長年大庄屋を務めたようです。
江戸後期の岡村の佇まい
世の中が落ち着きを持つようになると、寺社への参詣や霊場巡りなどのために大和を訪れる人が増加してきます。また『大和名所記』『和州巡覧記』『和州名所図会』などの刊行がそれに拍車をかけることになりました。
飛鳥でその中心となったのが岡寺です。「西国巡礼第七番霊場」として、第六番霊場の壺坂寺から、第八番霊場の長谷寺へと向かうルート上にありました。また、吉野から芋峠、竜在峠を越え多武峰を経て飛鳥へ向かう人も増加していきました。
飛鳥地域は決して豊かな村ではなかったようですが、岡村の一角だけは賑わいを見せていたようです。
岡寺門前の記録が残る家
- 天明3年(1785)、二軒の造酒屋があった。善兵衛と伊兵衛。
- 文政13年(1830)、「米屋」(四軒)・「薬屋」(三軒)、「葛屋」・「中屋」・「車屋」(各二軒)、「樽屋」・「横屋」・「傘屋」・「面堂屋」・「醤油屋」・「きぬや」・「まんじゅうや」・「はりまや」・「蕎麦屋」・「色屋」(各一軒)の屋号を冠する家が存在した。 (面堂屋さんは、現在、食堂を経営している「めんどや」に繋がるか?)。
- 江戸後期には、七・八軒の旅籠屋が存在した。
- 天保13年(1842)には、薬屋源太郎・かせや平兵衛・玉木屋清五郎・花屋平四郎・京屋幸助・車屋嘉兵衛・玉家清右衛門がこれを営んでいたが、旅客の獲得をめぐる争論が起こった。
- 嘉永4年(1851)には、「質屋・古手古鉄古道具渡世」を営む家が九軒、同じく「古手古鉄古道具渡世」が八軒、「荷次渡世」が一軒存在した。
『西国三十三所名所図会』には、以下のような文章が掲載されています。
「南ハ多武峰・よしの、西は橘寺へ四丁、壺坂道、北ハはせ・伊勢かいどう、かくのごとく四方ともに名所なれば、此所に宿りて便宜ゆへ旅人多くはここに帯留す。旅舎端麗にして至って賑はし」
飛鳥村の記録に残る家
飛鳥村にも、一軒の宿屋が在りました。掲載文章によると、飛鳥坐神社のすぐ近くであったそうです。
- 嘉永5年(1852)、呉服屋・紺屋が各二軒、宿屋兼鍛冶屋・呉服屋兼醤油屋・質屋・荒物屋・機織屋・多葉粉屋・豆腐屋が各1軒、「御職人」が1軒存在した。
(御職人=おしょくにん・藩に召し抱えられた職人)
『続明日香村史』による
現在の岡の町並み |
旅籠屋 薬屋源太郎家の名残 |
橿原市の古民家
今井町
奈良県橿原市今井町にある、重要伝統的建造物群保存地区を紹介します。
旧上田家住宅内部 |
今井町は、東西600m、南北310mの小さな町ですが、かつて「大和の金は今井に七分」・「今井しんど屋は大金もちや 金の虫干し玄関までも」と言われるほど繁栄した町でした。(しんど屋は山尾家のこと)
現在旧環濠内にある600軒余の民家のうち、約500軒が江戸時代からの伝統様式を残す町家であり、うち8軒が国の重要文化財に、4軒が県の文化財に、5軒が市の文化財にそれぞれ指定されています。 |
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(重要文化財指定建造物 赤=国 緑=県 青=市 各指定 2002年5月時点)
A 旧上田家住宅 |
E 旧常福寺観音堂 |
B 山尾家住宅 |
F 称念寺太鼓楼 |
C 称念寺本堂 |
G 称念寺庫裡・客殿・対面所 |
D 旧高市郡教育博物館 |
P 順明寺表門 |
Q 旧常福寺表門 |
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東西の通りの名前は、北から「北尊坊通り」・「大工町筋」・「中町筋」・「本町筋」・「御堂筋」・「南尊坊通り」
町屋見学に際しての注意
今井まちなみ交流センター「 華甍 」(旧高市郡教育博物館)などに問い合わせ、町家が見学可能かどうか、確認されることをお薦めします。見学には、町家の大部分が今も生活をされている個人の住宅であることを忘れないように、プライバシーの尊重や生活の邪魔にならないような配慮が必要です。気持ち良く見学させていただけるよう、エチケットは守りましょう。
今井の歴史
惣年寄今西家住宅(八つ棟)と復元された環濠 |
今井町は、最盛期には、周囲に環濠土居を築き、戸数1100軒、人口4000人以上を数える財力の豊かな町でした。
大部分の町家は、切妻造・本瓦葺・ツシ(厨子)ニ階で、上屋の軒は低く、軒裏は塗込めにされていて、近世の町家の景観が良く留められています。最も古い町家は惣年寄を務めた今西家で、慶安3年(1650年)の棟札が発見されています。
町割りは6町に分かれ、9つの門から木橋を渡り、外部の道路と連絡していました。9門の内4門は番小屋が設けられ、昼夜出入りを戒めていたようです。
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復元された南門 |
町内の道路は、門を経て内部が見通せないように、ほとんどが屈折しています。見通しや弓矢・鉄砲を射通すことが出来ないようにするためのようです。
今井の地名は、最初に興福寺一乗院の荘園として登場します。(1386年)
室町時代末期になり荘園制度が衰退すると、地元の武士団である十市氏と越智氏が、今井近辺で勢力争いを行います。それに伴って今井は自衛集落としての環濠集落へと変貌して行くことになります。
さらに、興福寺の力が弱まると、浄土真宗が大和に進出して来るのですが、地元の勢力と抗争を繰り返した後、浄土真宗本願寺一門の兵部卿豊寿(今井兵部)が今井に入り、後の称念寺を核とした今井寺内町が形成されることになります。(1530年代)
寺内町とは、中世の終わり頃、浄土真宗本願寺派などの寺院の境内地に築かれた集落で、寺院の四周に堀をめぐらせ、土居を築いているのが特徴です。当時は、裁判や諸公事などで独自に町を運営していました。税制面などの経済的特権が認められて、多くの庶民が移り住みました。
その後、本願寺と織田信長の間に合戦が起こると、今井も石山本願寺や堺にならって、商人や浪人を集め、今井兵部を中心にして武装宗教都市と化して行くことになります。大和が信長によって平定されると(1574)、堺の茶人今井宗久(津田宗久)や明智光秀などの仲介で、信長に降ることになります。これによって町は武装解除されますが、商業都市として存続出来ることになります。
豊臣の時代を迎えると、秀吉に優遇されたこともあり、二代今井兵部のもと、農、商業の振興が盛んになります。「海の堺」「陸の今井」と並び称されるほどに栄える大商業都市となりました。
江戸時代に入り、幕藩体制が整うと、寺内町の存続は認められなくなり、曲折の後、今井は天領となります。しかし、自治特権は大きく、惣年寄と呼ばれる今西家・上田家・尾崎家が町を治めていきます。惣年寄には、死罪を除く司法権、警察権も与えられており、今西家には、今も拷問部屋やお白州が残されています。その特権の背景には、大きな税収による見返りが期待されていたわけです。税は高率で銀納を早くから命じられていました。
また、町民自らが「町掟」を定めてルールを作っていました。(年貢上納・家屋や田地の売買・消防・・・・など、特に消防の規定は厳格であったようです。住宅密集地でありながら、「火事の無い町」を守り続けてきたようです。)
堺・大阪との交流もますます活発になり、今井には大商人が多数生まれます。大名貸・蔵元・掛屋・両替商・米・酒・味噌・油・肥料や嫁入り道具を扱う店もありました。当時発行されていた今井札は、全国で通用したと言われています。
札というのは、江戸初期に諸藩・天領などに兌換を原則として発行された紙幣で、今井では寛永11年(1634)に幕府の許可の下、発行しています。銀一匁と五分の2種類があったようです。
商業都市として発展するにつれ、文化面も華やかな時代を迎えます。茶道・活花・能楽・和歌・俳句など優れた者を出しているようです。町民の持つ財力が豊な文化の気運を作り上げていったのでしょう。
しかし、今井町の繁栄もやがては下降線をたどります。明治維新を迎えると、諸大名がつぶれ、武士の凋落とともに、その貸金が無効になり、今井町は大きな打撃を受けることになりました。昭和に入ってからは、初期鉄道路線から外れることによって、商業地区としての機能は失われ、静かな住宅地として今を迎えるに至りました。
町家
今井まちなみ交流センター「 華甍 」展示復元模型 |
今井町内で大きな町家は、標準として六間取(むまどり)と呼ばれる造りをしています。広い土間を設けて、土間沿いに店の間・中の間・台所の三室を並べ、その上手に店奥・納戸・仏間の三室を取っています。三室が二列に並ぶ構造です。
初期には、納戸は一段高くして、引戸を入れた納戸構えと呼ばれる閉鎖された部屋となっていました。
後の時代になると、納戸はなくなり、仏間とするようになります。仏間は座敷となります。さらに時代がくだると、座敷は2階や別棟に移ることもありました。
国の重要文化財8軒の一階平面概略図
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今西家 |
豊田家 |
河合家 |
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音村家 |
高木家 |
中橋家 |
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黄色は畳敷き
茶色は板敷き
朱色はかまど
灰色は土間
三角は方角を表わしています。
図の下面が道路になります。 |
上田家 |
米谷家 |
注意 間取り図は正確ではありません。
扉、階段、引き戸などは描き表していません。
おおよその部屋割りを表現したものです。
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今井の町家の多くは、切妻の建物なのですが、今西・上田・豊田家などは、家の2面が道路に面していて、入母屋造になっています。
今西家は八ツ棟と呼ばれていますが、豊田家も八ツ棟の一種と考えられます。複雑な大きな屋根の家を八ツ棟と呼んでいて、江戸初期にはかなり建てられていたようです。
今井まちなみ交流センター「 華甍 」展示復元模型 |
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町家の造り
旧米谷家を例として
旧米谷家外観 |
二階屋根が低く、五間取の居住部分で構成されているのが特徴です。
建築は18世紀中頃と考えられています。
屋号は「米忠」といいますが、代々金物商、肥料商を営んでいたようです。
仏間と台所がひと間となっています。
店奥・納戸の幅が一間と狭く、反対に土間が広く取られています。土間の隅を下店として利用していました。
なお、裏庭に土蔵があり、数奇屋風の蔵前座敷が付随しています。
店の間
商品の展示販売や製作・加工をした部屋です。床を一段低くして板張りになっています。正面道路側を開放して商売をしていました。
店奥
店の間の補助的な役割をしていた部屋です。連子格子の窓になっている場合もあり、商品を展示することもあったようです。
中の間 |
中の間(オウエ)
接客用や家族の居間として使用されていました。居住部分の中心的な部屋です。
納戸
現在は、物入れの部屋のことを納戸といいますが、17世紀頃は夫婦の寝室として使われていたようです。
当時は三方を壁で囲んで、金庫室のようにもなっていて、貴重品を入れておく部屋でもありました。時代が新しくなっていくに従って、開放的な部屋へと変わってゆきます。
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台所
家族が食事をしたり、その準備をした部屋です。米谷家では、仏間と一つの部屋になっています。
仏間
仏壇を安置するための部屋です。
19世紀頃から「座敷」として使われるようになりました。仏壇は、その他の部屋にも置かれるようになります。 |
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「店の間」から「中の間」の方向を見た写真です。
奥が裏庭になっていて、蔵前座敷を持つ蔵が建っています。
蔵の前には、井戸があります。 |
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左は、裏庭から居住部分を見たものです。右は、土間北東隅にあるカマドです。
納戸が閉鎖的な部屋であったのが、よくわかります。
土間のカマドの上に付けられている壁は「煙返し」(写真左)と呼ばれるもので、居住部分へ煙が流れ難くしたものです。
「煙返し」で防がれた煙は、天窓や煙抜き(右写真)から外部に逃がされます。
ツシ二階 (土間上部のもの)
ツシ二階は、「小二階」・「表二階」などと呼ばれることもあります。
正面上部の屋根裏を利用した部屋で、土間の上は使用人の部屋でした。
右上の写真は、下店から使用人部屋への梯子です。
階段は無く、梯子を付け外して利用していました。奉公人の脱走防止のためとも言われています。
金物屋又兵衛住宅(今井まちや館)を例として
金物屋又兵衛住宅外観 |
本町筋中央付近にあり、入口が北側道路に面して作られています。
平成10年の台風によって大きな被害を受け、復元工事が行われた住宅です。
1700年頃の建築様式を良くとどめていて、帳台構え、突き止め溝、あげ戸など、
特徴を目で確かめることが出来ます。
東側に土間を設け、隅に下店があります。
居住部分は二列六間取になり、今井町の大型町家の一般的な間取りです。
下店・店の間・店奥・中の間・納戸の上部が、それぞれツシ二階になっています。
上げ戸 |
17世紀の中頃から利用されていたようです。今で言うシャッターのようなものです。
鍵は「猿」と呼ばれる物で、手に入れたものは絶対に放さないという、猿の性質から名付けられたといいます。店の間は板敷きとなっています。
納戸構え (帳台構え)
中の間と納戸の間にあり、床より一段高くした敷居のことです。納戸に入るには跨いで入ることになります。
畳敷きでなかった時代に、内部に敷き詰めた藁などが外部に出ないようにするためとする説もあるようです。
掛け布団は早い時期にあったようですが、敷布団は無く、藁などの上に敷布を敷いていたようです。
時代が進むにつれ、納戸構えはなくなってゆきます。
今井では、商家が多いことから、「納戸構え」を「帳台構え」と呼んでいたそうです。
「敷居の高い家」という言葉の語源かもしれません。
仏間から納戸を経て店奥を見た写真です。 |
台所から中の間を経て店の間を見た写真です。 |
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ツシ二階 (中の間・納戸の上部)左側は物置として利用されていたようですが、右側は(「下店」上部)奉公人部屋として使われていました。上り下りには、階段ではなく、取り外しが簡単な梯子が掛かっていました。
町家の紹介
今西家
今井町の西端にあたり、近くに西口門が開かれていました。
代々惣年寄を務めた家柄で、元は近くに勢力を持つ十市氏の家臣、河合権兵衛清永が
永禄9年(1566)から移り住み、3代目から今西姓を名乗ったそうです。
建物は、慶安3年(1650)の建築で、別名「八ツ棟造り」といわれ、重なった妻の棟数が多いのが特色です。白漆喰の外壁が印象的な建物です。
内部は、西側に広い土間があり、江戸時代には、お白州として使われていました。土間上部北側2階には2室あり、いぶし牢と呼ばれた拷問部屋があります。
いぶし牢 |
店の間 |
写真の店の間、続いて中の間など六間が東側にあり、別に西隅に下店と呼ばれる一間があります。
2階は「ツシ(厨子)二階」と呼ばれものですが(家具や調度品を納める部屋)、畳敷きと板敷きの部屋があったようです
正面の2階右側には、川の字を囲んだ河合氏の定紋を入れ、左側には今西家の旗印を入れています。
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座敷 |
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仏間 |
台所 |
土間 |
納戸 |
中の間 |
店奥 |
店の間 |
土間 |
下店 |
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黄色は畳敷き
茶色は板敷き
朱色はかまど
灰色は土間
三角は方角を表わしています。
図の下部面が道路になります。
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豊田家
御堂筋、称念寺の西向かいにあり、屋号を「紙八」といいます。江戸末期から明治初めに移り住んで来たようです。
それ以前は、牧村家が住んでおり、木材商を営んでいたのですが、大名貸もする有力な商人であったようです。「西の木屋」の屋号を持っていたそうで、2階外壁に、丸に木を表わす家紋が描かれています。
内部は東側が土間と下店になっていて、居住部分は六間が当てられています。
母屋は寛文元年(1662)の建築です。
「駒つなぎ」といって馬や牛をつないだ環です。
( 左 ・ 豊田家の駒つなぎ 右 ・ 今西家の駒つなぎ )
江戸時代の大名貸や蔵元、掛屋などの家に付けられていた金具で、借銭に来た武士が馬をつないだものです。
環の金具の大きさは、その家の身分の高さを示していて、今井では今西家の物が最大です。普通の商家では、牛をつなぐ為のものだけがあります。そのことは、町掟で厳しく定められていました。
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仏間 |
台所 |
土間 |
納戸 |
中の間 |
店奥 |
店の間 |
土間 |
下店 |
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黄色は畳敷き
茶色は板敷き
朱色はかまど
灰色は土間
三角は方角を表わしています。
図の下部面が道路になります。 |
中橋家・上田家
御堂筋の称念寺東向いにある中規模の町家で、豊田家とは称念寺を挟んで相対する位置にあります。
中橋家は、屋号を「米彦」といい、江戸時代は米屋であったようです。後になって、肥料、油、塩なども扱ったそうです。
建築年は分からないものの、延享5年(1748)の絵図に描かれていることから、当時すでに住居を構えていたことがわかります。
白壁に下板壁の外観を見せています。内部は西を下店と土間、東に六間を取っています。写真右側は下店から外を見たものです。
建築当初は平屋建でしたが、後世、正面にツシ二階が増築されています。
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土間 |
台所 |
仏間 |
中の間 |
納戸 |
下店 |
土間 |
店の間 |
店奥 |
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黄色は畳敷き
茶色は、板敷き
朱色はかまど
灰色はドマ
三角は方角、を表わしています。
図の下部面が道路になります。 |
上田家
「壺屋」という屋号を持つ上田家は、大工町筋の南側にあって、西側にも道があり角地に建っています。珍しく、西側に入口を開いていて、道路から半間ほど下がって建っています。
入母屋造りで、18世紀の中頃の建築と思われます。延亨元年(1744)の祈祷札があります。
上田家は、元亀2年(1571)に今井に移住し、17世紀の前半から、今西・尾崎家と共に、惣年寄を務め、中でも司法を担当した家柄でした。そのため、旗指物や火事装束・手錠などが多数残されています。また内部のつくりも、それに適した配慮や装飾がなされています。
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土間 |
台所 |
納戸 |
中の間 |
座敷 |
下店 |
土間 |
店の間 |
店奥 |
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黄色は畳敷き
茶色は、板敷き
朱色はかまど
灰色はドマ
三角は方角を表わしています。
図の下部面が道路になります。 |
音村家
中町筋北側にあり、米谷家とは一軒置いての隣となります。
屋号を「細九」と言って、元は金物商を営んでいたようです。
建物は今井でも古い方で、17世紀後半と推定されています。特徴として音村家は、時代や状況に即して増築されていることです。町家の発展状況を知ることの出来る例として、貴重な存在となっています。
東側に広い土間と下店があり、西に居住部分があります。
六間の奥に六畳二間の角座敷を作り、西に新座敷を増築しています。
仏間は広く取られ、他の居住区の境と半間の食い違いを生んでいます。台所が狭くなり、後年土間側に半間増築されました。
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新座敷 |
座敷 |
土間 |
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仏間 |
台所 |
納戸 |
中の間 |
店奥 |
店の間 |
土間 |
下店 |
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黄色は畳敷き
茶色は板敷き
朱色はかまど
灰色はドマ
三角は方角を表わしています。
図の下部面が道路になります。 |
旧米谷家
中町筋北側に面しています。
音村家・細田家と並び、今井の町並みを良く表わしている地区となっています。
屋号は「米忠」といいますが、金具・肥料を商っていたそうです。建築年代は特定されていませんが、18世紀中頃と考えられているようです。
内部は5間取となっていて、台所と仏間が一部屋になっています。
裏庭に土蔵がありますが、蔵前座敷と呼ばれる数奇屋風の建物が付随しています。この建物は嘉永3年(1850)のものであることが、分かっています。
旧米谷家の「旧」というのは、現在ここが国有の建物となっているためです。
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仏間・台所 |
土間 |
納戸 |
中の間 |
店奥 |
店の間 |
土間 |
下店 |
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黄色は畳敷き
茶色は板敷き
朱色はかまど
灰色はドマ
三角は方角を表わしています。
図の下部面が道路になります。 |
河合家
河合家は屋号を「上品寺屋(じょんぼうじや)」といい、古くから現在に至るまで、酒造業を営んでいます。
中尊坊通りの西端にあり、高木家と近接しています。
建物は東と南が道路に面していて、東側は入母屋造り、西側は切り妻造りになっています。
河合家は、17世紀前半に今井町に移住したようで、18世紀後半にはすでに酒造業を開いていたようです。
一階東側が広い土間となっていて、西側に六間取の居住部分があります。特徴として、2階が高く天井が張られていて、ツシ二階ではなく本二階となっています。当初から主な座敷を二階においていたものと考えられています。
二階は現在も六間取で、土間の上は前寄りにツシ二階がありますが、他は吹き抜けとなっています。
また、杜氏の部屋として、二階建ての納屋が建てられていました。
高い屋根と白漆喰に丸窓の外観が印象的です。
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仏間 |
台所 |
土間 |
納戸 |
中の間 |
店奥 |
店の間 |
土間 |
下店 |
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黄色は畳敷き
茶色は板敷き
朱色はかまど
灰色はドマ
三角は方角を表わしています。
図の下部面が道路になります。 |
高木家
中尊坊通り北側、旧今井町の東端にあります。
屋号を「大東の四条屋」といい、酒造や醤油業を営んでいました。
建物は天保(1818~1843)の頃のものとされています。
二階は一部を除きツシ二階ではなく、天井を張った本二階となっています。一階、二階共に六間取です。
前面の格子戸などは細く、幕末期建築の特徴を表わしています。
また、主屋の西に塀が続き、門が作られており、ここから店奥の裏を通って、突き当たりの中の間に上がれるようになっています。これは、武士用の玄関として用いられていたそうです。
内部は、土間沿いに店の間・売り場・台所となり、上手は店奥・中の間・座敷となっています。
座敷には、長押をつけ、床・棚が付いています。店奥と座敷の縁側から二階へ上がる階段がつけられています。
土間上部の前面寄りは、ツシ二階となっていて、他の部分は吹き抜けになっています。
土間上部ツシニ階 |
箱階段 |
明り取り兼煙抜きの天窓 紐で開閉可能 |
燭台 |
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座敷 |
台所 |
土間 |
中の間 |
売り場 |
門 |
店奥 |
店の間 |
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黄色は畳敷き
茶色は板敷き
朱色はかまど
灰色はドマ
三角は方角を表わしています。
図の下部面が道路になります
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橿原市の農家の事例
森村家住宅 (重要文化財)
森村家住宅は、橿原市新賀町に所在し、耳成山の北西に開けた環濠集落内にある大庄屋の建物です。
大名などを迎えるときに用いた上段の間を備える大規模な住宅で、江戸時代には当時の新賀村の庄屋と新賀組の大庄屋を兼務していました。新賀組は、寛文12年(1672)には10市郡13村から成り立っていました。
森村家は、十市氏の出であるとされます。その十市氏は、大和国中の十市郷から起った土豪で、筒井氏、越智氏、箸尾氏、古市氏と並ぶ大和屈指の国人領主です。史料としては、南北朝時代の貞和3年(1347)に初めて名を刻んでおり、国中の領主として勢力を長く維持していたようです。
森村家住宅は、奈良盆地の大庄屋の屋敷構えを伝える遺構として、平成元年9月に重要文化財に指定されました。
森村家は環濠集落内に在り民家が密集していることや、あまりにも規模が大きいため、全体像を撮影するのは難しくなっています。写真は、北側より母屋(向こう側)と手前の米蔵になります。
県内最大級の民家といわれる同住宅は、表門は間口の大きな長屋門で屋根の片側が大和棟(高塀造)という例の少ない形を示し、西側には共部屋をもつ構造になっています。
主屋は享保17年(1732)の建築願書が残っており、その頃に建築されたのではないかと推測されています。三室三列の九間取と大きく、立派な構造になっています。座敷部分と釜屋が庇状になっているため、大和棟の初期の姿とみられるそうです。
主屋の西に接する内蔵の建築年代は、17世紀にさかのぼると考えられています。外壁の下端は地面まで下げずに床位置までとして、通気性を良くしており、また床は床板に土壁を塗ったうえ板床で仕上げられています。入口の扉は厚く重い造りです。
上段の間となる別座敷は、京都の公家屋敷を移築したと伝えられてきた建物です。平成の修理で長押から、この事実を示す天保14年(1843)の墨書が発見されています。長押の釘隠など各所に公家の好みが認められ、大床を持つ八畳間や、この上手で床、棚、書院を備えた座敷、北隣の休息の間、西の湯殿、建物の南面には縁側が備えられています。上質の材を選んで用い、仕事も優れた貴重な建物だとされます。
吉川(禎)家住宅 (県指定文化財)
橿原市山之坊町に所在します。
元は庄屋だと伝えられており、広い敷地には長屋門、倉、納屋などが造られており、土塀が巡らされています。
元禄年間(1688年~1704年)からの文書を伝え、嘉永年間(1848年~1854年)の書上(上申書)に家屋は元禄16年(1703)の建築と記されています。
大和棟の民家として建築された年代が確定できる古い事例の一つになります。
主屋は、西の半分を喰違四間取に造り、西妻に土蔵と角座敷を付けています。東半分は土間になっていたようです。
吉川(順)家住宅 (県指定文化財)
元は、橿原市中町に所在していましたが、現在奈良県立民俗博物館に併設される大和民族公園内に移築され公開されています。
旧敷地は西側に南北の道が接し、南側に路地を作って南から主屋に通じていました。
主屋は、喰違四間取、屋根は大和棟、周囲に本瓦葺の庇をめぐらしています。
建築時期は明確ではありませんが、先述の吉川禎家より分家をした元禄16年(1703)に建築されたと考えられるようです。
吉川(順)家は、庄屋を務めていたとされています。
大和国中の自作農の典型的な屋敷構えだとされ、屋敷中央に南面して主屋を建て、表か裏に物干し場をとり、表側には長屋門を構えていました。門の両端から奥へ、コの字形に納屋、稲小屋、米蔵、内蔵、離座敷などの建物で取り囲む「囲造り」の構造になっています。
(大和国中=やまとくんなか : 奈良盆地全体をさす場合も有りますが、二上山の二つのピークが見える範囲<田原本町以南の奈良盆地>だとする説も有ります。)
主屋は、間口が6間半、奥行きは約4間で、入母屋造の茅葺になっており、茅葺の周囲に本瓦葺きの庇が付きます。 (写真・参考資料は、泉南市岡先生のご提供による。)
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