両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第54回定例会

主催講演会

都城の造営と造瓦



  ヒモマキくん

事務局作成資料

作製:両槻会事務局
2016年1月16日


  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
本薬師寺跡 日高山瓦窯 藤原京朱雀大路跡
藤原京および藤原宮 京域 藤原宮の造営
大官大寺跡 藤原宮所用瓦の生産地 高台(市尾)・峰寺瓦窯
西田中・内山瓦窯 石山国分遺跡 宗吉瓦窯
関連年表 瓦の製作行程模式図 関連万葉歌
藤原宮所用瓦 使用箇所別一覧 藤原宮所用瓦 瓦窯別一覧 事前散策マップ
石田由紀子先生ご寄稿 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


この色の文字はリンクしています。

本薬師寺跡
 近鉄橿原線の畝傍御陵前駅を東へ約500m、橿原市城殿町に所在し国の特別史跡に指定されています。跡地には、巨大な金堂の礎石15個と東西金堂の土壇が残りますが、現在は、夏場に東西塔跡周辺の休耕田を利用して栽培されるホテイアオイの名所としても有名です。

 薬師寺は、天武9年(680)に、皇后の鸕野讚良の病気平癒のために発願されたことが『日本書紀』や平城薬師寺の「東塔檫名」に記されています。

 寺地は、藤原京八条大路に面し、中門と講堂を結ぶ回廊内に南から東西両塔、金堂と並ぶ古代日本初の双塔伽藍になります。この双搭様式は、韓半島を統一した新羅の感恩寺の影響を受けたとする説もあるようです。

 これまでに、金堂や両塔周辺、中門、南面回廊をはじめ、周辺で小規模の発掘調査が幾度か行われています。特に1993年の調査では中門の真下から、幅約5m・側溝心々間が約6mの藤原京西三坊坊間路が検出され、中門及び伽藍中軸線は、検出された坊間路とほぼ一致しました。他にも、寺域南西角では西三坊大路と八条大路の交差点と西三坊大路側溝、そしてその下層からもそれに先行する溝が検出され、本薬師寺は、藤原京の条坊に制約を受けていることが分かりました。

 本薬師寺では、大きく分けて2系統の軒瓦が使用されています。堂宇は、金堂が最初に着手され、その後東塔や中門、南面回廊が建てられますが、西塔は、平城薬師寺の創建瓦を使用していることから、かなり遅れて造営されたと推定されています。

本薬師寺出土軒瓦(奈文研藤原宮跡資料室 展示品)

改笵前の藤原宮所用軒平瓦(本薬師寺で改笵使用される以前)

 本薬師寺の金堂には藤原宮所用の軒平瓦が改笵して使用されており、先にあげた本薬師寺下層の遺構とともに、本薬師寺周辺の発掘調査や研究の成果は、藤原京の造営過程や造瓦活動を考えるうえで重要な位置を占めています。

 『薬師寺縁起』には、養老2年(718)に平城京右京六条二坊の地に伽藍を移したと記されていますが、発掘調査で東僧房北方の井戸から「霊亀二年三月」と書かれた習書木簡が出土していることから、記録よりも早い霊亀2年(716)には平城薬師寺の造営が開始されていたと考えられます。

 藤原の地に残った本薬師寺は、平城薬師寺から瓦の供給を受けて建物の維持管理がされていたことが発掘調査から判明しており、無遮大会が行われた持統2(688)年はもちろんのこと、造営がほぼ終わり僧が住み始めたとされる文武2年(698)にも全ての伽藍が完成していたわけではなく、平城薬師寺と並行して伽藍が整えられたようです。

 平安中期の万寿2年(1025)には、源経頼が本薬師寺に宿泊した記録が彼の日記である『左経記』に残されており、寺院の存在が確かめられます。しかし、70年後の嘉保2年(1095)には、平城薬師寺の僧侶により塔の舎利三粒が掘り出されたことが藤原宗忠の日記『中右記』に記されています。発掘調査により東塔が10世紀前半頃に廃絶していたと推定されていることと考え合わせると、舎利を掘り出す為に平城から僧がわざわざ出向いたのは、この頃には、既に本薬師寺に然るべき寺住の僧が居なかったということになるのかもしれません。

 本薬師寺は、配置は勿論金堂や塔はその規模も平城薬師寺とはほぼ同じだと推定されています。これは、遷都に伴って平城京右京六条二坊に建てられた平城薬師寺が、本薬師寺の姿をできるだけ踏襲しようとした証と言えるかもしれません。しかし、中門の規模や塔心礎の形状が東西逆になっている点など幾つかの違いもみられます。

 本薬師寺の寺域は、藤原京右京八条三坊の四町とされていますが、『薬師寺縁起』に残る奈良時代の記録には、「四坊塔金堂 并 僧坊等院、二坊大衆院 以上本寺」とあり、塔・金堂などの主要伽藍で四町、大衆院(寺院生活を営むための施設)で二町の計六町を所有していたと考えることもでき、跡地周辺の地下には、二町分の付随施設の遺構が眠っているのかもしれません。

平城薬師寺「東塔檫銘」
  維清原宮馭宇
  天皇即位八年庚辰之歳建子之月以
  中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕
  騰仙太上天皇奉遵前緒遂成斯業
  照先皇之弘誓光後帝之玄功道済郡
  生業傳劫式於高躅敢勒貞金
  其銘曰
  巍巍蕩蕩薬師如来大発誓願廣
  運慈哀猗與聖王仰延冥助爰
  餝靈宇荘厳御亭亭寶刹
  寂寂法城福崇億劫慶溢萬
  齢 



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日高山瓦窯

 藤原宮朱雀門の南西約300m、藤原京右京七条一坊東南坪に位置する丘陵の西斜面に藤原宮の瓦を生産するために設けられた瓦窯です。

 昭和35年(1960)の奈良県の調査で窯跡一基(4号窯)が発見されました。
 その後、昭和52年(1977)の磁気探査調査により3~4基の窯跡の存在が確認され、昭和53年(1978)に北西斜面で2基の瓦窯跡(1・2号窯)が検出されています。

 1号窯は、全長4.5m以上、焼成部は長さ3.8m、最大幅1.6mで、奥壁中央に煙出しが1つ設けられていました。地山を削り出した階段を6段持った床面の傾斜が約17度の登窯になります。

 構造は、花崗岩の地山層を平面長形に掘り込み、内側に粘土を版築状に約1m積み上げて整えた上に、厚さにして10~15cmの粘土を塗って仕上げられています。煙道部と奥壁の取り付き部分には、日干煉瓦が使用されていました。

 2号窯は、1号窯の北7mの位置に築かれた全長4.7m、焼成部の最大幅が2.5mの杓子形をした平窯になります。遺構は南半分しか残存していませんでしたが、花崗岩の地山を掘り込んで日干煉瓦を平積みし、窯壁はスサ混じりの粘土を塗って仕上げられていました。構造や平面形は、昭和35年(1960)に確認された3つの煙出しを持つ4号窯に類似するとされています。
 日高山瓦窯で、構造の違う瓦窯が共存していた理由としては、構築された時期の違いや造瓦に携わった工人集団の違いによるものとする説があります。

 大和国内での瓦窯の形態は、初の瓦窯である飛鳥寺瓦窯と同様の登窯を主とし、藤原宮造営時に平窯が出現し、奈良時代には平窯が多く採用されるという大きな流れも考えられることから、日高山瓦窯は、瓦窯形態の過渡期にあたるとも言われています。


日高山瓦窯跡

 日高山瓦窯産の瓦は、主に藤原宮の大垣やそれに取りつく門に使用されており、軒瓦の文様的な新しさや粘土紐技法という当時最新の技法が用いられていました。これらのことから、以前は大和国外の瓦窯よりその操業は遅れると考えられていました。しかし、藤原宮造営のために設けられた運河の下層から、日高山瓦窯を初めとする大和国内産の瓦が出土したことにより、文様や技術の新旧だけで瓦窯の操業開始時期を特定することは出来ないとされました。ここで使用されていた瓦笵の殆どは、他の瓦窯へ移されたことが判明しており、日高山瓦窯は、藤原宮のすぐ南に位置するために、宮中枢部の造営が始まる頃には操業が停止されたと推定されています。

 瓦窯のあった丘陵の北側には、丘陵裾を掘削して掘られた幅約1.2m、幅約50cmの東西に走る素掘り溝や南北に走る柵列(27間・59m以上)とそれに平行する幅50~70cmの素掘り溝、また、その東側からは、内法80cm×90cmの井籠組の枠を持つ井戸跡などが検出されています。

 これらの遺構は、奈良文化財研究所藤原宮跡資料室で日高山瓦窯の瓦工所として再現されています。



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藤原京朱雀大路跡

奈文研藤原宮跡資料室展示パネル

 藤原宮から南北に延びる朱雀大路は、日本で最初に中国の都城制に倣って条坊制を採用し建設された、藤原京のメインストリートです。その幅は約24mで、後の平城京や平安京の朱雀大路(約70m以上)に比べると遥かに狭いものでした。

 藤原京の南には日高山という小高い丘陵がありますが、朱雀大路の建設の際にはこの丘を削って道が造られ、日高山古墳群(5~6世紀)や、それ以降に作られた横穴墓が破壊されていることがわかっています。

 藤原宮の南正門から南に延びる朱雀大路については、昭和51年(1976)、橿原市の市営住宅建設に伴う発掘調査によって、幅約4m、深さ約0.4mの南北大溝2条が検出され、溝中から藤原宮跡と同時期の遺物が出土することもあって、側溝心々間約21mの大路の存在が確かめられました。

 昭和53年(1978)10月4日、藤原宮跡南方のコモ池(別所池)に一部西接して、日高山の北裾に至る全長約200mの地域(橿原市別所町・上飛騨町)が、「藤原京朱雀大路」として国史跡に指定され、当時の道幅を知ることができます。 



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藤原京および藤原宮

 藤原京は、南北約5.2km、東西約5.3kmのほぼ正方形で、その中心に一辺約1km四方の宮域(藤原宮)を造っていました。京域は、東西南北を碁盤の目のように区画しており、十条十坊の街路を成していました。
 これは、中国の周代に記された『周礼(しゅらい)』という書に基づく理想の都城を具現化したものだと考えるのが有力な説となっています。

藤原京条坊図

 藤原宮は、それまでの宮殿と一線を画し、その中心に天皇の宮と官衙を規則正しく配置し、宮外には貴族や官人の宅地を配するという政治的な目的により築かれた都市と言えます。京内の人口は、2~3万人と推定されるようですが、他説も有ることを付け加えておきます。

 藤原宮以前の宮殿は、天皇ごとに一代に数度の遷宮が行われていたのですが、恒久的な使用が考えられた点においても、大きな特徴であると考えられます。
この時代は、古代国家の基本法を飛鳥浄御原令や大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっています。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立を宣するために必要不可欠の事業だったと考えられます。

藤原宮構造図

 藤原宮は、大きく中央・東・西区の3つの区画に分かれています。中央区には大極殿院や朝堂院、朝集殿院といった、政治の中枢となる区画の他、天皇や皇后の住まいである内裏が置かれていました。また、東・西区には行政の実務をおこなう官衙が配置されていました。
 宮の周囲は、瓦葺の塀と外濠で囲まれ、塀と外濠の間には外周帯と呼ばれる空閑地が広がっています。また、宮には出入り口としてそれぞれの辺に三つずつ、合計12の宮城門がありました。
 藤原宮は日本で初めて造られた瓦葺の宮殿で、中央区の大極殿や朝堂、朝集殿および、宮を取り囲む塀や宮城門は瓦葺になっていました。また、これらの主要な建物は礎石建ちで、中国の宮殿建築様式を取り入れたものでした。



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京域

 京域については、「中ツ道」・「下ツ道」・「横大路」・「山田道」を京極とする南北12条・東西8坊を範囲とする説(岸説)が有力でしたが、近年の発掘成果により、この説の京外(条坊道路の延長線にあたる地点)から、道路遺構や道路側溝が多数検出されるようになりました。
 中でも、橿原市土橋町では西京極大路と思われるT字路が検出され、また桜井市上ノ庄では、東京極大路とされる道路と両側溝が発見されました。二つの道路跡から更に京外へ続く道路跡や側溝跡は発見されず、この道路遺構が藤原京の境を限る京極であったとされています。

岸説と大藤原京説の条坊比較図

 このようにして藤原京は、平城京を超える巨大な京域を持っていたことが分かってきました。これを、大藤原京と呼んでいます。

 また、発掘調査により、岸説の大路に大小の幅の違いが確認されたことも大藤原京説が現在有力視される要因の一つになっています。

 岸説では、約132m四方を一町として四町の約265m四方を一坊と考えたのに対して、十六町の約530m四方を一坊とした大藤原京説では、条坊路の呼び名が変わってくることになります。岸説の奇数条坊路が、大藤原京では坊間路・条間路となるのです。

 このような事から混乱を避けるために、現在の条坊呼称は従来の岸説の呼称で大藤原京の条坊を表記するのが一般的になっています。
 しかし、これは便宜上の事情によるもので、当時の住所としては、「小治町」「軽坊」 「林坊」などと呼ばれていた可能性が高いとされます。 



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藤原宮の造営

 『日本書紀』の記述によれば、持統天皇4年(690)10月条「壬申に、高市皇子、藤原の宮地を観す。公卿百寮従なり」に始まる藤原宮造営に関連すると考えられる記事が、目につくようになります。
そして、持統天皇8年(694)12月条「藤原宮に遷り居します」に至り、これをもって藤原京は、4年の歳月を掛けて造営されたと考えられてきました。(藤原京関連年表参照)

 しかし、近年の発掘調査では、藤原宮に先立って敷設された「先行条坊」と、さらに古い時期の「先々行条坊」が発見されました。
 『日本書紀』天武天皇5年(676)、「この年、新城に都を造ろうと思われた。予定地の田畑は公私を問わず耕作されなかったので、大変荒廃した。しかしついに都は造られなかった。」また、天武11年(682)「小紫三野王と宮内官大夫らに命じて新城に遣わし、その地形を見させられた。都を造ろうとするためであった。」とあります。
 つまり、先々行条坊は天武5年の記事、先行条坊は天武11年の記事に当てはまると考えられるようになっています。
 この6年の間に本薬師寺の創建記事が入ることになります。(本薬師寺の項を参照)

 これらのことにより、藤原京は遅くとも天武11年(676)に造営が開始されたと考えられます。また、天武朝の初期には、新しい都の建設が企画され、よって天武天皇は後飛鳥岡本宮を改修して王宮としていた可能性も否定できないかも知れません。

 藤原京の造営には、膨大な資材が必要となります。今回の定例会では、瓦に焦点を当てましたが、木材もまた多大な量が必要となります。これらの資材を建設予定地に運搬するには、運河が必要となったようです。近年の発掘調査では、宮域内から運河の跡が検出されています。


藤原宮内から検出された運河跡と推定ライン

藤原宮大極殿院の調査(飛鳥藤原第186次調査) 現地説明会資料より

 木材は、藤原の宮の役民の作る歌(万葉集巻1-50参照)にあるように、田上山から伐採された檜を、下図のルートで運ばれたとされます。

 田上山は、大津市の南部、現在の栗東市と信楽町に接する田上地区の山地の総称なのだそうですが、400~600mの山々に古代は檜の古木が鬱蒼と生えていたと伝えられます。しかし、藤原京造営やその後の平城京遷都・寺院の造営などに際して、瀬田川、木津川を利用した水運による利便性と山中の木々の良質さから、数万本が伐採されたと言われ、田上山は禿山になったと言われています。


藤原宮使用木材の運搬ルート




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大官大寺跡

 「大官大寺」は、平城京に建てられた「大安寺」の前身寺院です。
 『日本書紀』や『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』によると、その起源は聖徳太子によって建てられた「熊凝精舎」で、田村皇子が病床の聖徳太子を見舞った時、聖徳太子から「熊凝精舎を本格的な寺院にすべき」との言葉を受けて、即位後の舒明天皇11年(639)にこれを移して百済川のほとりに「百済大寺」を建てたとされています。天武天皇2年(673)には、これを高市の地に移して「高市大寺」とし、天武天皇6年(677)には天皇の寺という意味の「大官大寺」と改称したとされています。また、『大安寺縁起』には、文武天皇が「九重塔を建て、金堂を作り立て、並びに丈六像を敬い奉りてこれを造る」と記され、『続日本紀』の大宝元年(701)には、造大安寺、造塔、造丈六の官職が記されていて、文武朝に至っても堂塔の造営が行われていたことが窺えます。その後、「大官大寺」は、平城遷都とともに新都に移転し、「大安寺」と改称されました。

 大官大寺跡の発掘調査については、奈良文化財研究所によって、昭和48年に開始され、翌49年度の調査を第1次調査として、昭和57年度の第9次調査まで10年にわたって行われました。

 大官大寺の伽藍配置は、明治時代の岡本桃里・本沢清三郎の調査記録や残っている土壇の小字名が「講堂」であることなどから、現在の金堂跡を講堂とし、その前面に金堂と塔をおく、法起寺式(昭和14年の大岡実氏の説)や筑紫観世音寺式と想定して発掘調査が開始されました。


現地案内板に加筆

 昭和49年の第1次調査で現在の金堂跡と金堂西側回廊跡、昭和50年の第2次調査で中門跡と南面東回廊跡、昭和51年の第3次調査で南面・東面回廊の一部と回廊東南隅が確認されましたが、昭和52年の第4次調査で塔跡の西側に建物跡がないことが判明しました。そのため、昭和53年の第5次調査で塔跡と東面回廊跡の一部を確認したのち、昭和54年の第6次調査で、現金堂跡のさらに北方を調査して現在の講堂跡が確認されました。そして、昭和56年の第8次調査で北面回廊が確認され、現在の伽藍配置が判明しました。

 寺域については、昭和54年に、中門跡の西側にあった小山池埋め立てに伴う発掘調査で寺域西限の掘立柱塀が確認され、昭和55年の第7次調査で寺域北限の掘立柱塀を、昭和56年の第8次調査で寺域東限の掘立柱塀を確認したことから、大官大寺は、藤原京の東三坊大路・東四坊大路・十条大路・九条条間路に面した東西2町(約266m)・南北3町(約339m)の寺域を持つ寺院であったと推定されました。

 ただし、昭和57年の第9次調査で寺域東北隅を調査していますが、第7次調査や第8次調査で確認した外郭の塀は、東北隅まで及んでいなかったことが判明しています。

 金堂は、基壇が東西53m、南北28.5m、高さが2m以上に復原され、建物平面は、桁行9間、梁間4間の東西45.9m、南北21.0mに復原されます。
基壇周辺からは、焼土や焼けた瓦、焼け落ちて地面に突き刺さった垂木や隅木などが見つかっていて、南面中央部では、垂木の落下痕跡が一列に並んだ状態で発見されました。また、基壇外装に用いられた化粧石は凝灰岩切石で、火災後に抜き取らたようです。

 礎石は、抜取穴に残されていた破片から直径約116cm、高さ約10cmの円柱座を有する径150cm、高さ60cm以上の不整円形と復原されています。岡本桃里の図面などから、明治年間までは塔跡や金堂跡にはほとんどの礎石が残っていたようですが、明治22年の橿原神宮の造営の際にすべて抜き取られたと伝えられており、発掘調査でも、金堂基壇の抜取穴の出土遺物から、それが裏付けられています。
 講堂は、東半部の礎石抜取穴10個所のみが検出されています。それをもとに、想定伽藍中軸線を中心にして西に折り返して想定すると、桁行9間・梁行4間の四面廂付きの建物が復原でき、平面規模は東西45.9m、南北21.0m、あるいは東西44.7m、南北19.8mで、金堂とほぼ同規模であったと推定されています。金堂と講堂の建物心々距離は、約74mです。講堂の基壇は、東西約52m、南北約27m、高さ約60cmと推測され、凝灰岩切石によって化粧されていたようです。

 塔は、基壇が一辺35m、高さ約2mの正方形で、基壇化粧の痕跡はなく、約25度で立ち上がる傾斜面となっていて、基壇外装は未完成だったとされます。礎石抜取穴から塔初重の平面形は、5間四方で一辺15mに復原されています。一辺15mの塔規模は異例で、飛鳥・白鳳期には類例がなく、日本最大の塔として知られる東大寺七重塔(高さ約100m)につぐもので、『大安寺縁起』に記された「九重塔」を裏付けるようです。岡本桃里の「礎石配置図」によると、心礎は東西10尺(約3m)・南北12尺(約3.6m)の巨大なもので、中央に径4尺(約1.2m)の円形柱座が彫り込まれ、さらにその中央には舎利孔が穿たれていたようです。四天柱礎の痕跡は検出されませんでしたが、心礎の大きさから四天柱礎を置く余地がなく、当初から存在しなかったと考えられます。

 中門は、金堂心から南約85.5mに位置し、平面規模は東西23.8m・南北12.6mで、礎石位置から5間3間の巨大な門だったことが分かっています。しかし、塔と同じく基壇外装はなく、焼土の詰まった足場穴が検出され、足場が立てられたままの状態で焼けたと推定されることから、造営途中に火災にあったとされています。金堂と同様に建築部材の落下痕跡も検出され、その痕跡の大きさから尾垂木などの組物の一部とされます。これらの部材の痕跡が柱通り以外のところから検出されたこと、柱数に比べて数量が多いこと、梁間が3間と広いことから、中門は重層構造であったと考えられています。中門に取り付く南面東回廊も焼け落ちた壁など火災にあった痕跡が残されていましたが、基壇外装や雨落溝もなく、完成以前に焼失したと考えられます。

 南門は検出されていません。中門の南方約60mまで調査が行われましたが、南門に関連する遺構はみつからず、7世紀後半の土器を伴う土坑や掘立柱建物が発見されただけでした。そのため、南門は、痕跡をとどめないまでに削平、または流出したか、中門、回廊等が未完成であったことから造営までに至らなかったとも考えられます。

 これらの発掘調査の結果、下層遺構や出土した土器から、造営時期が持統朝を大きく遡らないことが判明し、この寺院跡が、文武朝の大官大寺だとされました。またこの寺院の焼失時は、金堂、講堂は基壇の外装が完成していたこと、塔は建物が完成していたものの基壇外装が未完成であったこと、中門、回廊などは造営途中であったことから、金堂→講堂→塔→中門・回廊の順に造営がすすめられ、完成することなく焼失したことが判明しました。焼失痕から、和銅4年(711)に大官大寺が藤原宮とともに焼亡したとある『扶桑略記』の記事とも一致する結果となっています。さらに、塔跡が東に一基しかなく、その西側には建物痕跡が検出されませんでしたが、同時期の本薬師寺や後身の大安寺が東西双塔であることから、大官大寺も当初の計画は東西両塔であったとも考えられます。

 出土遺物には、隅木先金具(43×33cmに復元)や風鐸の吊金具などがあります。伽藍の大きさに比例して飾金具なども大型に造られたようです。

 創建に使用された軒瓦は大官大寺式と呼ばれ、軒丸瓦の直径が約20cmを測る大きなものになります。軒丸瓦は、複弁蓮華文という前代の文様を引き継いでいますが、中房内の連子が中央の一個を一重にしか廻りません。

 また、軒平瓦の文様も藤原宮式などの前代までの文様(偏行唐草文)とは異なり、中央に中心飾りを置き左右に唐草が展開していく均整唐草文になります。

 大官大寺式のこれらの文様構成は、その後、8世紀の軒瓦の基調となっていくようです。軒平瓦については、平瓦部が、粘土板桶巻づくりのものと粘土紐桶巻づくりのものが出土しています。 (平瓦の製作工程模式図参照)



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藤原宮所用瓦の生産地

 瓦の生産地(瓦窯)は、藤原宮近隣や大和国内だけでなく近江や淡路、讃岐などの遠隔地でも確認されています。大和国内では、北部に安養寺瓦窯、西田中瓦窯、内山瓦窯、南部には日高山瓦窯、三堂山瓦窯、久米瓦窯、高台(市尾)・峰寺瓦窯、牧代瓦窯などが造瓦に関わったと考えられています。

 遠隔地では、近江・石山国分遺跡、淡路・土生寺瓦窯、讃岐・宗吉瓦窯、その他東讃岐や和泉にも生産地があったと推定されています。宮内の中枢部では大和盆地外や日高山瓦窯産の瓦が見られず、大極殿や朝堂院には、高台(市尾)・峰寺瓦窯産、西田中・内山瓦窯産、安養寺瓦窯産の瓦が使用されていることなどから、これらの生産地は、瓦を供給する建物があらかじめ割り振られていたと考えられています。特に、安養寺瓦窯と西田中・内山瓦窯は宮内の中枢建物の瓦生産のために設けられたと推定されています。

 藤原宮式の軒瓦は、軒丸・軒平ともに30種近く確認されており、文様や技術などの違いから大きく二つに分類することが出来、それは生産地とほぼ対応すると考えられ、大和国内で生産された瓦は、新しい技法(粘土紐技法)・文様、遠隔地である讃岐や近江などは旧来の技法(粘土板技法)と古い様相の文様だとおおまかに捉えることが出来るようです。(例外もあり)

 また、出土する瓦には文字(記号)が記されていることがあります(文字瓦)。窯印と呼ばれるこれらの印は、「キ」は日高山瓦窯産、「十」は内山瓦窯産と言う風に藤原宮の造瓦を担った瓦窯が個々に印を持っていたようです。



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高台(市尾)・峰寺瓦窯

 高台・峰寺瓦窯は、藤原宮のために大和国内に設置された瓦窯のひとつで、操業期間が一番長かったと考えられています。ここで生産された瓦は、主に大極殿や朝堂などに用いられました。

 天満神社のある丘陵(通称:国見山・稲荷山)西側の高台瓦窯は、昭和10年代まで登窯が一基残っていたとされていました。
 発掘による調査が行われず長らく詳細不明のままでしたが、2014年度に高取町教育委員会によって行われた学術調査により、一基の窯跡が確認されました。

 窯は、花崗岩の地山を刳り貫き、炉壁は粘土ブロックでアーチ状に構築された全長約6m、幅約1.3mの登窯になります。焚口・燃焼室・焼成室・煙道が確認され、燃焼室から、藤原宮の大極殿所用瓦と同形式の瓦が出土したことから、従来藤原宮所用瓦の生産地であるとされていたことが、考古学的に裏付けられることになりました。

 峰寺瓦窯は、数基の窯跡と窯に関わると思われる焼土、鬼瓦などが発見され、丸・平瓦、面斗瓦、須恵器片などが丘陵の北から東にかけて見つかっています。散見・採取された瓦片などから、瓦窯の範囲は少なくとも南北200mの範囲に及び、付近の小字名などを考慮すると、近鉄吉野線の線路を超えてまだ南にも広がっていた可能性もあるようです。

 高台瓦窯と峰寺瓦窯は、谷を挟んで100mほどしか離れておらず、一つの造瓦所として機能していたと考えられます。また、跡地の300mほど北西には、曽我川が流れており、古代の流路は正確にはわからないものの、一枚10kgに近い藤原期の瓦を、より一度に沢山運搬するために、水運が利用されたかもしれません。

 高台瓦窯は、2014年度の調査を機に、高取町教育委員会によって「市尾瓦窯」と名称が改められましたが、既に多くの研究成果があることから、「高台・峰寺瓦窯」と呼ばれることが多いようです。



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西田中・内山瓦窯

 奈良県大和郡山市西田中町に約250mの距離を置いて所在する瓦窯群になります。

 西田中瓦窯は、昭和6年(1931)に発見されて以来、藤原宮所用瓦の研究成果などからその生産地であったことは知られているものの詳細は不明のままでした。平成16年(2004)の試掘調査を経て、平成19年(2007)までの調査で合計6基の登窯が確認されています。

 平成16年の調査で確認された窯3基のうち、1号窯と2号窯の2基の内部が調査され、窯は地盤層の斜面に沿うようにトンネル状に掘り抜いて構築された地下式有段登窯だと判明しました。焼成室には瓦敷きの階段が設けられ、奥壁側には煙道が掘られていました。壁面は基盤土がそのままの状態で特に造作の痕跡はなかったようです。

 燃焼室は、堆積した炭や灰の上に作業面が設けられており、1号窯で5回以上、3号窯でも3回以上の改修があったことが判明しています。窯の全長は、5.1m~5.5mほどと考えられますが、改修のたびに全長が短くなり、焼成室の傾斜も緩やかになっていくようです。1号窯から3号窯は、約2.5m間隔で造られたうえに灰原や溝を共有していることから、3基で一つのグループとして構築されたと考えられるようです。また、窯の前面からは数個の小さな柱穴が検出されており、簡易な覆屋が設けられたのではないかとされています。

西田中遺跡
 西田中瓦窯跡の西側に隣接する西田中遺跡からは、藤原宮期に属する、桁行が約30mにも及ぶ大型の掘立柱建物が5棟検出されています。

 周囲からは粘土貯蔵用と思われる土坑や粘土が採掘されたと思われる穴、溝なども見つかっていることから、西田中瓦窯に関連する施設だとされています。瓦窯に関連する施設でこれほど大きな建物跡が見つかる事例は少なく、数ある藤原宮の瓦窯の中でも、西田中遺跡の大型掘立柱建物群が初例となるようです。

 内山瓦窯は、平成5年(1993)の試掘調査から平成7年(1995)までの調査で、合計4基の登窯が確認されています。1号窯は内部の調査が行われ、地山を刳り抜いて造った地下式登窯で、天井部の一部は崩落していたものの、かなり良好な状態で残存していたようです。内部は14段~16段の瓦積みの階段を伴い、焼成部の長さは約4mを測ります。煙道部は、垂直に立ち上がり約1.5m分が残存しており、窯の上方には、排水機能を持つ素掘り溝が巡っていました。

 内山瓦窯では、粘土板と粘土紐の2種類の技法が使用されていることが判明し、藤原宮の造瓦において「ひとつの生産地にひとつの技法」という一対一の図式が必ずしも成立するわけではないということを示す事例となっています。
 出土した軒瓦は、西田中瓦窯と同笵品のみであることから、内山瓦窯と西田中瓦窯は、高台(市尾)・峰寺瓦窯と同じように、一つの造瓦所として操業されていたことが裏付けられました 両瓦窯で生産された瓦は、藤原宮の朝堂院で主体的に用いられていることなどから、西田中・内山瓦窯は、宮内の中枢建物の瓦を生産するために設置された瓦窯だと考えられています。



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石山国分遺跡

 石山国分遺跡は、滋賀県大津市の瀬田川西岸の丘陵地に広がる白鳳から平安時代にかけての複合遺跡になります。
 2011年に遺跡地北部で行われた個人住宅建設に伴う発掘調査で、丘陵地の南斜面に約4m間隔で2基の窯が並列して発見され、西から1号窯、2号窯と名付けられました。

 1号窯・2号窯ともに、全長は6.7m、最大幅約1.4m~1.5m、焚口幅0.6mを測り、天井部は、残存していませんでしたが、地山を刳りぬいた有段式の登窯であったと推定されています。燃焼部の階段は高さ約20cmで8段あったと推定されています。1号窯では、階段の角を保護するためか平瓦や丸瓦が置かれていたようです。

 出土した瓦は、丸瓦や平瓦を初め、2号窯からは、藤原宮所用瓦と同笵の軒瓦がほぼ完形で出土し、近江産と推定されていた藤原宮所用瓦と同笵であることが判明しました。出土した瓦の同笵品が藤原宮内の運河埋め立ての整地土から出土していることから、この瓦窯の操業は、宮内の中枢建物の造営が始まるより以前だと考えられます。

 藤原宮の造営に際して、大量の木材が田上山から運び出されたことが『万葉集』に「藤原の役民の歌」として残されていますが、近江で生産された瓦も、これら木材と同じように水運と陸運を駆使して、都まで運ばれたと考えられます。

 調査地の東約50mの斜面でも削平を受けてはいるものの窯の存在が判明し、瓦窯跡としての範囲は広がる可能性が考えられています。



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宗吉瓦窯

 香川県三豊市三野町の丘陵東斜面に所在します。平成3年(1991)の圃場整備に伴う発掘調査で7基の窯と藤原宮所用と同笵軒丸瓦の出土を機に、平成8年(1996)には国史跡に指定されました。その後の発掘調査で、現在まで24基の窯跡と工房と想定される掘立柱建物跡の一部が確認され、古代最大級の瓦窯跡になり、構造などからA群・B群・C群の3つに大別されています。

 最も南にあるC群では、地元の寺院への瓦を焼成していたと考えられ、瓦窯内で一番早く7世紀中頃には操業が開始されたと考えられています。その後、A群とB群はほぼ同時期に増設され、藤原宮の瓦の他、地元の寺院へも瓦を供給していたと推定されています。
 特に平成10年度の調査で確認された17号窯(A群)は、全長13m、最大幅2m、最大高1.4mを測る瓦用の登窯としては国内最大級の規模になります。しかし、17号窯のように大きな窯は一度に大量の瓦を焼成できる一方で、火の回りが不安定で焼きむらによる不良品が多く、後に造られたB群・C群の窯が比較的小規模なのは、良品を大量に作るための工夫・改良されたと考えられています。

 藤原宮から約200kmも離れた讃岐の地が造瓦の地に選ばれたのは、既に造瓦技術を保持していたことや、材料となる粘土や材木の調達の利便性などが挙げられています。また、古代は瓦窯のあった丘陵近くまで湾が入り込んでおり、瀬戸内海の水運を利用して瓦が運搬されたと考えられています。
現在、跡地は宗吉瓦窯跡史跡公園として整備されています。



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関連年表
天皇 和暦 西暦 主な出来事
天武 天武 5 676 新城、予定地の荒廃により造営を断念
天武 9 680 皇后の病気平癒のため誓願をたて、薬師寺建立を発願
天武11 682 三野王と宮内官大夫ら新城の地形を視察
天皇、新城に行幸
天武12 683 天皇、京内を巡行
複都制の詔
天武13 684 天皇、京内を巡行し、宮室の場所を定める
朱鳥元 686 天武天皇崩御
持統 持統 2 688 薬師寺にて無遮大会
持統 4 690 高市皇子、藤原の宮地を視察
天皇、宮地を視察
持統 5 691 新益京にて地鎮祭
新益京の宅地配分を行う
持統 6 692 天皇、新益京の大路を視察
藤原の宮地の地鎮祭を行う
天皇、藤原の宮地を視察
持統 7 693 造京司に造営中に掘り出された屍の供養を命じる
天皇、宮地に行幸
持統 8 694 藤原遷都
持統 9 695 公卿大夫を内裏にて饗応
持統 10 696 公卿百官、南門において大射
文武 文武 2 698 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
大宝元 701 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
天皇、大安殿に出御し祥瑞の報告を受ける
皇親と百官を朝堂にて饗応
大宝 2 702 天皇、大極殿に出御して朝賀を受ける
元明 慶雲元 704 はじめて藤原宮の地所を定める
慶雲 4 707 諸王・諸臣に詔し、遷都のことを審議させる
和銅元 708 和銅元 708 平城遷都の詔
大伴手拍を造営卿に、他の平城京司らも任じる
菅原の民90戸余の移住に際し布・穀を与える
平城宮の地鎮祭を行う
和銅 2 709 天皇、平城京に行幸
造平城京司に造営中に見つかった墳墓の供養を命じる
遷都による人民の動揺を抑えるため、今年の調と祖を免じる
和銅 3 710 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
平城遷都
山階寺を平城京に移し興福寺とする
和銅 4 711 未だ宮の大垣は完成せず 
元正 霊亀元 715 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
霊亀 2 716 大官大寺を平城京に移す
養老 2 718 法興寺(飛鳥寺)・薬師寺を平城京に移す



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瓦の製作行程模式図



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関連万葉歌

壬申の乱平定
 壬申の年の乱の平定まりし以後の歌二首
大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 都と成しつ (19-4260)
 右の一首は、大将軍贈右大臣大伴卿が作。

大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 都と成しつ (19-4261)
 右の件の二首は、天平勝宝四年の二月の二日に聞く。すなはちここに載す。

藤原宮造営
 藤原の宮の役民の作る歌
やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤原が上に 食す国を 見したまはむと みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると 騒く御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 我が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ 図負へる くすしき亀も 新代と 泉の川に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず 筏に作り 泝すらむ いそはく見れば 神ながらにあらし (1-50)
 右は、日本紀には「朱鳥の七年癸巳の秋の八月に藤原の宮地に幸す。 八年甲午の春正月に藤原の宮に幸す。 冬の十二月庚戌の朔の乙卯に藤原の宮に遷る」といふ。

藤原遷都
 藤原の宮に天の下知らしめす天皇の代 高天原廣野姫天皇 元年丁亥の十一年に位を軽太子に譲りたまふ。 尊号太上天皇といふ
 天皇の御製歌
春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣干したり 天の香具山 (1-28)

 大津皇子、死を被りし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首
百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (3-416)
 右、藤原の宮の朱鳥の元年の冬の十月。

 藤原の宮の御井の歌
やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井のま清水 (1-52)
藤原の 大宮仕へ 生れ付くや 娘子がともは 羨しきろかも (1-53)

 明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、志貴皇子の作らす歌
采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く (1‐51)

 長屋王が故郷の歌一首
我が背子が 古家の里の 明日香には 千鳥鳴くなり 妻待ちかねて (3-268)
 右は、今案ふるに、明日香より藤原の宮に遷りし後に、この歌を作るか。

 挽歌
かけまくも あやに畏し 藤原の 都しみみに 人はしも 満ちてあれども 君はしも 多くいませど 行き向ふ 年の緒長く 仕へ来し 君の御門を 天のごと 仰ぎて見つつ 畏けど 思ひ頼みて いつしかも 日足らしまして 望月の 満しけむと 我が思へる 皇子の命は 春されば 植槻が上の 遠つ人 松の下道ゆ 登らして 国見遊ばし 九月の しぐれの秋は 大殿の 砌しみみに 露負ひて 靡ける萩を 玉たすき 懸けて偲はし み雪降る 冬の朝は 刺し柳 根張り梓を 大御手に 取らし賜ひて 遊ばしし 我が大君を 霞立つ 春の日暮らし まそ鏡 見れど飽かねば 万代に かくしもがもと 大船の 頼める時に 泣く我れ 目かも迷へる 大殿を 振り放け見れば 白栲に 飾りまつりて うちひさす 宮の舎人も 栲のほの 麻衣着れば 夢かも うつつかもと 曇り夜の 迷へる間に あさもよし 城上の道ゆ つのさはふ 磐余を見つつ 神葬り 葬りまつれば 行く道の たづきを知らに 思へども 験をなみ 嘆けども 奥処をなみ 大御袖 行き触れし松を 言問はぬ 木にはありとも あらたまの 立つ月ごとに 天の原 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はな 畏くあれども (13-3324)

平城遷都
 和銅三年庚戌の春の二月に、藤原の宮より寧楽の宮に遷る時に、御輿を長屋の原に停め、古郷を廻望て作らす歌 一書には「太上天皇の御製」といふ
飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ (1-78)

 或本、藤原の京より寧楽の宮の遷る時の歌
大君の 命畏み 柔びにし 家を置き こもりくの 泊瀬の川に 舟浮けて 我が行く川の 川隈の 八十隈おちず 万たび かへり見しつつ 玉桙の 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ 朝月夜 さやかに見れば 栲の穂に 夜の霜降り 岩床と 川の水凝り 寒き夜を 息むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 来ませ大君よ 我れも通はむ (1-79)

あをによし奈良の家には万代に我れも通はむ忘ると思ふな (1-80)

 花に寄する
藤原の 古りにし里の 秋萩は 咲きて散りにき 君待ちかねて (10-2289)



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藤原宮所用瓦 使用箇所別一覧(画像は、全て奈良文化財研究所藤原宮資料室展示品)

大極殿所用瓦

6273B-6641E 高台・峰寺瓦窯

6275A-6643C 高台・峰寺瓦窯

朝堂院所用瓦

6281A-6641C 安養寺瓦窯

6281B-6641F 西田中・内山瓦窯

6273B-6641E 高台・峰寺瓦窯
 

朝堂院回廊所用瓦

6233Ba-6642A 高台・峰寺瓦窯

6279Ab(高台・峰寺)-6642C(不明)

6281A-6641C 安養寺瓦窯


藤原宮西面中門・大垣所用瓦

6274Ab-6643A 日高山瓦窯

6281A-6641C 安養寺瓦窯

6278C-6647E 讃岐or阿波

6646E 淡路土生寺瓦窯

6561A 久米瓦窯

6642C(高台・峰寺瓦窯?)

藤原宮東面北門・大垣所用瓦

6274Aa(推定和泉)-6643C(高台・峰寺?)

6279B-6646C 高台・峰寺瓦窯

6275E 日高山瓦窯

6646G 不明

6275A-6643C 高台・峰寺瓦窯

6276C-6647Ca 牧代瓦窯



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藤原宮所用瓦 瓦窯別一覧

6275D-6641C 安養寺瓦窯

6271A-6561A 久米瓦窯

6279B-6646 C 高台・峰寺瓦窯

6273A-6643C 高台・峰寺瓦窯

6281B-6641F 西田中瓦窯

6278B-6647D 香川県宗吉瓦窯

6278D? 近江産(石山国分遺跡瓦窯か?)

6278B? 近江産(石山国分遺跡瓦窯か?)

6274Aa-6647A 和泉産(瓦窯詳細不明)



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事前散策マップ



  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
本薬師寺跡 日高山瓦窯 藤原京朱雀大路跡
藤原京および藤原宮 京域 藤原宮の造営
大官大寺跡 藤原宮所用瓦の生産地 高台(市尾)・峰寺瓦窯
西田中・内山瓦窯 石山国分遺跡 宗吉瓦窯
関連年表 瓦の製作行程模式図 関連万葉歌
藤原宮所用瓦 使用箇所別一覧 藤原宮所用瓦 瓦窯別一覧 事前散策マップ
石田由紀子先生ご寄稿 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


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