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両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪
飛鳥古譚
四季の飛鳥の観覧記や発掘情報・飛鳥情報の記録
最新記事は、飛鳥時遊録へどうぞ♪
1
「飛鳥の考古学2007」
2
飛鳥に雪が降る・・
3
飛鳥の雪とおんだ祭
4
真弓鑵子塚古墳見学会
5
イメージの古代史
6
梅の古代史
7
甘樫丘東麓遺跡・速報1
8
甘樫丘東麓遺跡・速報2
9
キトラ観覧記
10
歌木簡のお話
11
不比等への荷札木簡
12
幢幡跡見つかる
13
「大和を掘る26」観覧記
14
カンジョ古墳
15
現地説明会を巡る日
16
談山神社四方山話
17
2008年
飛鳥考古学の動向
18
石神遺跡第21次調査
現地説明会レポート
【1】
「飛鳥の考古学2007」
(08.1.18.発行 Vol.6に掲載)
飛鳥地域の発掘調査の成果を紹介する企画展「飛鳥の考古学2007」が飛鳥資料館で開かれています。飛鳥では、毎年20件を超える発掘調査が行われており、その成果が大きく報じられるものもあります。企画展では、高松塚古墳の石室解体作業に伴う発掘調査や七世紀中頃の山田道の発見や甘樫丘東麓遺跡の石垣遺構や建物跡など、興味を掻き立てる7遺跡の成果と出土遺物が紹介されています。
そこで今回は、その見学記を書くことにしました。まず企画展会場に入ると、最初に目に止まるのが高松塚古墳石室の復元です。実物大の石室模型で、調査の成果を基に再現した棺や棺台も納められています。高松塚がお墓であったことを改めて示されたように思いました。
展示室に進むと、目を引くのが高松塚古墳の墳丘断面からはぎ取った土層です。これは、土層観察のため壁状にした場所に合成樹脂を塗り、布をはり付けて直接はぎとったものだということでした。墳丘の上半分(高さ約3メートル、長さ約8メートル・墳丘の頂から石室の約50センチ上まで)が一面に展示され、版築の様子や地震で起きたひび割れの様子などが一目で分かります。また、土の色の違いや木の根の侵入痕なども生々しく感じることが出来ました。高松塚古墳の大きさを実感出来る迫力のある良い展示です。
関連展示では、版築を行う際に使用された筵や突き棒の痕跡なども見学することが出来ました。
現在、次期調査が行われている甘樫丘東麓遺跡も紹介されていました。蘇我蝦夷・入鹿が甘樫丘に造った「上の宮門・谷の宮門」の一部ではないかと注目された遺跡です。遺跡は3回の大規模な造成が行われており、蘇我氏の隆盛と衰退を示しているようにも見えました。展示スペースでは、遺構の写真の他に出土した瓦や鴟尾片なども展示されています。
石神遺跡第19次調査の成果も興味を引きます。展示遺物では、建物の造営に関わる木簡やほぼ完形で出土したノコギリとその複製品が並べて展示されていました。取手は持ちやすいように工夫されているようですが、刃は荒く短いように感じました。
石神遺跡では、七世紀中頃の山田道の変遷や周辺の土地利用も興味を引きます。また「敷葉工法」という造成方法にも注目が集まりました。
しかし、未だ推古天皇の頃の山田道は発見されておらず、今後の調査も楽しみな遺跡です。
高取町の東中谷遺跡には、印象に残る出土遺物がありました。現地説明会の時に初めて知ったのですが、破鏡という故意に割った鏡がありました。恥ずかしい話ですが、私はその時まで破鏡という物の存在を知りませんでした。東中谷遺跡の破鏡は、八花鏡と呼ばれる形式の銅鏡で、草花の模様が描かれているようです。鋭角なハート型をしたその破鏡は、しっかりと記憶に残っていました。
この他、新田部皇子の邸宅かと言われた竹田遺跡、飛鳥寺講堂跡、真弓遺跡群が紹介され、出土遺物が展示されていました。私にはどれも現地説明会で訪れた遺跡でしたので、遺物やパネル写真は、暑さ寒さの記憶や誰と一緒に見学に行ったのかなど、楽しい記憶も共に呼び覚ましてくれることになりました。
全体を通じて、遺構の場所を示す詳細地図が掲示されていないのがやや不満でしたが、貴重な出土品を間近に見るまたとない機会でした。 (風人)
・・・・・・・
「飛鳥の考古学2007」 飛鳥資料館
開催期間:平成20年1月4日(金)~2月3日(日)
*展示遺跡名
甘樫丘東麓遺跡・竹田遺跡・石神遺跡・高松塚古墳・真弓遺跡群・東中谷遺跡
【2】
「飛鳥に雪が降る…」
(08.1.23.発行 Vol.7に掲載)
飽きもせず何度も訪ねる飛鳥ですが、この季節になると、真っ白な雪に包まれた飛鳥古京を見たい思いが募ります。これまで一度だけ、雪景色の飛鳥に、休日に遭遇したことがありますが、そんな機会はめったにありません。
雪の予報が出ると、何とか金曜日の夜に積もってくれないかと、ころころ変わる予報とにらめっこになります。
その、ちと大袈裟な悲願がかなって、奈良に大雪注意報が出ました。ところが、タイミング悪く日曜日の夜から月曜日の未明にかけて降り積もるようです。これはもうお休みをとるしかない。幸い行事日程は入っていないので、雪が休日に積もってくれないなら、太古を休日にするしかないと、ひそかに期しておりました。
雪景色の石舞台
そして1月21日に、ついに雪の飛鳥を巡ることができました。出勤間際まで迷っていましたので、自宅から飛鳥までの時間と融けて行く雪との競争でしたが、棚田や石舞台の雪景色を堪能することができました。
飛鳥の里は、降り積もった雪にすべての音を吸収されてしまったかのように、深い鎮まりの中にありました。日ごろ見慣れた風景も、雪に覆われると、まるで別世界を歩いている雰囲気がありました。
早朝にでかけたネット仲間のyosioさん(橿原市在住)からいただいた画像を拝見していると、その積雪量の差に圧倒されました。やはり飛鳥の雪景色を満喫するには、朝早く出かけることが肝要ですね。お休み決断に迷ったのが少しだけ悔やまれた雪の飛鳥探訪でした。でも、満足です♪ (太古)
関連ページ:
大寒の日の飛鳥に・・待望の雪が降る♪
【3】
「飛鳥の雪とおんだ祭」
(08.2.4.発行 Vol.9に掲載)
雪舞台
今年の飛鳥は、雪がよく降ります。昨日(2月3日)も雪が積もりました。前夜から降り始めた雪は、朝には5cmほどの積雪となりました。 前回1月21日は平日で、雪景色の飛鳥を撮れなかった風人は、会長太古氏の雪景色撮影行に激しい嫉妬を覚えていました。(笑)雪辱に燃えた昨日は、近くに住むネット仲間と共に朝早くから飛鳥めぐりに出かけました。写真の成果は別にして、降り続く雪は、見慣れた飛鳥を別の世界へと変えていました。
夢の跡
昼過ぎには雪も小雨と変わりましたが、それまで雪景色をたっぷりと味わってきました。(本当は、太古会長も途中から一緒でした。(笑))
飛鳥では、おんだ祭が行われました。 飛鳥坐神社のおんだ祭は4大性神事とか言われ、近年とみに奇祭として有名になりました。今年も狭い境内には、小雨の降り続く中、カメラを担いだ人達でいっぱいでした。おんだ祭ですから、本来は五穀豊穣や子孫繁栄を祈る神事のはずです。神事のクライマックスの夫婦和合の所作は、大らかな笑いと共に純粋な再生産を願う祈りでもあったのでしょう。それは、先日行われた男綱・女綱の勧請綱掛神事にも共通するものではないかと思いました。
本殿に拝礼することも無く、繰り広げられる面白おかしい所作を賽銭箱にもたれながら一心不乱にシャッターを押している中高年の方を例年見かけます。何か寂しい思いを感じてしまうのは、私だけなのでしょうか。
中国産食品への不安を感じる昨今、奇祭である部分にだけ注目するのではなく、こんな機会に日本人が本来持っていた食生活のサイクルを考えてみるのも大事なことなのかもしれないですね。 (風人)
【4】
「真弓鑵子塚古墳見学会」
(08.2.15.発行 Vol.10「飛鳥情報」に掲載)
2月9日、真弓鑵子塚古墳見学会は、12年ぶりという大雪の中で行われました。公式発表では、2100人もの見学者があったそうです。実際には、もっとたくさんおられたように感じました。10時開始の予定に、8時半から並ばれていたとのことです。
見学会当日の様子 : 「
大雪降る真弓丘陵 鑵子塚古墳見会の日
」
今回出土した遺物(馬具やベルト金具など約50点)は、2月12日から明日香村埋蔵文化財展示室において公開されました。(現在、真弓鑵子塚古墳石室は
保安及び保全のため封鎖されています。また、民有地につき立ち入りも禁止
となっています。)
(撮影:太古)
*真弓鑵子塚古墳概要
・6世紀半頃の築造と出土土器より推定。
・直径約40m、高さ8mの二段築成の円墳。
・丘陵を大規模に造成し、岩盤を削り出して盛り土をしている。
・石室は、付近で産する飛鳥石を用いたドーム式の横穴式石室で、西側に約2m張り出した片袖式構造。
・石室規模:全長19m以上、玄室長約6.5m、幅約4.4m、
・高さ約4.7m、広さ約28平方メートル。
・床面に幅30cm、深さ7cmの排水溝がある。
・玄室から続く北側には、奥室的な機能を持つ羨道状の施設を有する。
・壁面構成は、巨石を6~7段に積み上げ、3段目から急激な持ち送りとなっ
ている。
・天井石は、巨石3石を架構している。
・羨道部分は、人頭大の閉塞石で塞がれていた。
・墳丘や床面に南海大地震によると思われる亀裂や歪みが認められた。
・出土遺物:土師器、須恵器、銀象嵌刀装具、玉類、金銅製飾金具、
金銅製馬具、鉄 鏃、鉄釘、凝灰岩片 (風人)
パンフ :
明日香村の文化財⑩「真弓鑵子塚古墳」
(PDFファイル)
【5】
「イメージの古代史」
(08.2.24.発行 Vol.11に掲載)
2008年2月9日から飛鳥資料館で始まっている早川和子さんの発掘された古代の復元原画展「絵で見る考古学」は、楽しい企画でした。この原画展は全国巡回中の企画で、飛鳥資料館は3月2日までとなっています。
原画の一枚一枚に本人の制作時のつぶやきのような短いコメントが添えられていて、原画に記された人物のひとりひとりの所作、描かれた構築物の細部の表現を目で追っていると、時間の経つのを忘れてしまいそうです。描かれたすべてが考古的に検証された結果であるとは思えませんが、このあたりの細部は何を根拠にこう表現しているんだろうと考えるだけでも意義がありそうです。
原画の中に書き忘れていたものがあることを出来上がってから気づいたとコメントがあり、はて?、何を書き忘れたのだろうと探すのも、間違い探しのクイズのようで楽しいコメントでした。ただ、書き忘れた内容についてはコメントされていませんでした。見る人が考えてみてくださいというメッセージなのかもしれません。
絵を見ていると、発掘された遺物や遺構からイメージを膨らませてゆく作業って、絵心が全くない太古にとっては結構楽しそうに思えますが、考古学者の意見を聞きながら何度も何度も手直しをするようで、実際は大変な作業だということが分かりました。
発掘調査の現地説明会や見学会で遺物や遺構について説明を受けても、発掘担当者のようにイメージを膨らませるには素人には限界がありますから、考古学関係者の頭の中にあるイメージを具体的な絵として引き出す作業は大切なお仕事のような気がしました。
実際の発掘の現地説明会でもイメージ画が少しでもあると理解の大きな手がかりになりますから、やはり絵の持つ表現力は、ときには万言のテキストや言葉を越えるものがあります。
絵画は見る人のイメージを統括し、固定してしまう負の面を多分に持っていますが、やはり情報の伝達力は大きいとあらためて痛感させられました。
提示されたイメージが議論のベースとなって、様々な異論、疑問が交換されることを、描いた作者は横でほくそ笑みながら楽しんでいるかもしれませんね。
「お、そこに気づいたか。お、そんな見方があるか。ふーん、そこまで言うか…」ってね。
当メルマガに寄稿していただいている飛鳥資料館の杉山先生も、展示会の図録の中で「飛鳥寺」と「キトラ古墳」の解説を書いておられました。 (太古)
【6】
「梅の古代史」
(08.2.24.発行 Vol.11に掲載)
ようやく冬のモノトーンの世界の中に、春の色を灯してくれる梅花のシーズンがやってきました。特に紅梅の花を見ると、来る春の暖かさまで感じられる様な気がします。
飛鳥では、真弓地の窪の紅梅がとりわけ景色を変えてしまうほどに咲き誇るのですが、他にも栗原や棚田展望ロードの白梅も景観と共に忘れられない梅の見所になります。印象的な梅の木としては、飛鳥寺の枝垂れ梅や天空の里とも呼んでいる尾曽の梅の木も心に残ります。両槻会のブログなどでもまたご紹介出来ればと思っています。
梅の木は、非常に日本らしい木のように感じられるのですが、実は奈良時代に中国より入ってきたと言われています。この説によれば、飛鳥時代に梅は無かったことになります。意外と言えば意外な感じがしますね。万葉集にも、奈良時代の歌人がこぞって詠い始めるまでは、登場することはありませんでした。奈良時代の万葉歌人は、梅という新しい題材に飛びついたのかも知れませんね。
ところが一方、弥生時代の遺跡からは、梅の核や自然木が発見されることがあるようです。複数の遺跡からの出土報告がありますから、間違いと言うことはありません。この矛盾をどう考えれば良いのでしょうか。
従来の説によれば、梅は遣唐使によって持ち込まれたとされています。それは当初、観賞用の花の木としてではなく、『烏梅(うばい)』という漢方薬として持ち帰られたのが始まりだとされています。皆さんは、烏梅というのをご存知でしょうか。梅の実を燻製にした物で、熱さましや咳止め口の乾き止め、下痢止めなどに用いられていたようです。風邪に良さそうですね。
民間療法でしょうけど、梅干しの黒焼きと言うのが風邪に効くと言われて、子供の時に飲まされた記憶があります。烏梅に似た物として民間で簡単に用いる方法だったのでしょうか。効果がどうだったかの記憶はありません。皆さんは、経験されたことがありますか。
また、この烏梅は、媒染剤として知られているようです。特に紅花染めに用いられて、染めの定着の作用や発色に関わる媒剤として使われてきたようです。紅花は、色を繊維に定着させるのが難しいとされていますが、烏梅は有効だったようです。化粧品としての紅にも烏梅は必要だったようで、月ヶ瀬梅林の梅は、元々烏梅を生産するための梅林だったとも言われます。
弥生時代から奈良時代になるまでの日本での梅の利用方法は、主に生食として実を利用していたに止まっていたのではないでしょうか。遣唐使が持ち帰った梅の新しい利用方法は、画期的なものだったのでしょう。有効であると共に、新しい物好きの平城京の貴族社会に、瞬く間にブームを巻き起こしたのかも知れません。競って梅を邸宅に植え始め、そしてその花の美しさや歌の題材とすることにも改めて気付いたのかも知れませんね。
このようにして、新しい梅の利用方法は、あっと言う間に日本に定着して行ったのでしょう。花の少ないこの時期、観賞にも適した花は、奈良・平安時代には、素晴いスピードで人々に受け入れられたようです。そのような中で、道真の飛び梅伝説も生まれていったのでしょうね。
飛鳥の里梅を楽しみながら、そんな古代史の一コマを空想してみるのも楽しいかもしれません。 (風人)
【7】
「甘樫丘東麓遺跡(飛鳥藤原第151次調査)現地見学会」 速報1
(08.3.15.発行 Vol.13「飛鳥情報」に掲載)
一昨年より継続的に行われている甘樫丘東麓遺跡で、新たな発掘成果の現地見学会が行われます。
蘇我蝦夷や入鹿の邸宅が在ったとされる甘樫丘の調査ですから、期待が膨らみます。
2008年3月7日撮影(
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)
上の写真には、北半分程度の調査区しか写っていないようです
が、それでもかなりの柱穴が見えています。細長い建物跡の様にも見えますし、塀なのかもしれません。
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所々に石の集積も見えるのですが、石敷きなのか、昨年のような石垣の一部なのか、はっきりとは分かりません。具体的な内容は、報道発表を待たなければいけないのでしょう。楽しみに待ちたいと思います。
蘇我氏は、稲目の代に突如として政治の表舞台に登場してきました。天皇家との婚姻を通じて、稲目、馬子、蝦夷、入鹿と4代にわたり大臣として国政を左右する地位にありました。
専横な悪人のイメージが強いのですが、近年は優秀な政治家と見なす専門家も多くなってきたように思います。その実態は、現在の考古学という手法と文献研究によって、少しずつ明らかになっていくのでしょう。
稲目の小墾田の家・向原の家・軽の曲殿、馬子の石川の宅・槻曲の宅・島の家、蝦夷の豊浦の家・畝傍の家・上の宮門、入鹿の谷の宮門。また同族の倉山田石川麻呂の山田の家などを含めれば、蘇我氏の邸宅は、飛鳥をぐるりと取り囲むように在ります。飛鳥は、蘇我氏を抜きにしては存在しえない地域だと言えるかも知れません。
日本書紀によれば、甘樫丘の邸宅は、城柵を巡らし、門の側には武器庫を設けた物々しい構えでした。しかし、かなりの広さを持つ甘樫丘のどこに蝦夷と入鹿の邸宅が在ったのかは、分かっていません。
甘樫丘東麓には、候補地となる谷筋が幾つか在ります。東麓遺跡の場所もその一つですが、「エベス谷」と呼ばれる小字やその南側の大きな谷地形も重要な候補地の一つのように思えます。
東麓遺跡が注目されるようになったのは、1994年の発掘調査でした。
7世紀中頃の焼け土と、焼け焦げた建築部材や壁土が出土しました。今の駐車場とトイレ付近になります。
大化改新の引き金となった乙巳の変では、飛鳥板蓋宮での入鹿暗殺を聞いた蝦夷は、最期の覚悟を決めて、天皇記・国記・珍宝を焼こうとしました。(国記は取り出され焼けなかったとされています)しかし、実は邸宅が焼けたと言う記載はありません。書紀の行間を考古学が埋めたと言えるのでしょうか。
一昨年・昨年と、再び発掘調査が行われました。調査区は、谷の奥の方にあたります。この調査の結果、この谷地が、7世紀代に大規模な土地造成が行われたことがわかりました。以前には、起伏のある自然地形だった谷地の一部に、7世紀の前半に土を盛って平坦な敷地を造り、石垣を築いていました。この石垣は、南にいくにつれ高さを増しており、敷地の高さや建物の壮大さを際立たせているように思えました。
参考ページ:
甘樫丘東麓遺跡(飛鳥藤原第146次)現地説明会資料
(奈文研サイト内 )
しかし、この石垣は、7世紀中頃から後半に埋め立てられていました。その跡地には、広い平坦な土地が造り出され、建物が建ちました。その建物は三回以上建て替えられていて、活発に土地利用がされたことが伺えます。これらの発掘調査の成果は、蘇我本宗家の盛衰と時期を同じくしており、乙巳の変の前後の飛鳥の歴史を物語っているように思えます。
さらに、7世紀末には谷奥の傾斜地に炉が築かれ、生産活動が行われたことが分かりました。
今回の発掘調査では、また新たな事柄が分かったのでしょうか。それは、蘇我氏ひいては飛鳥の歴史の一端が、解明されるような成果になるでしょうか。見学会にはたくさんの方が訪れるでしょうが、私もその一人になりたいと思っています。 (風人)
【8】
「甘樫丘東麓遺跡(飛鳥藤原第151次調査)現地見学会」 速報2
(08.3.27.発行 Vol.15「飛鳥情報」に掲載)
飛鳥遊訪マガジン13号で速報しました「甘樫丘東麓遺跡」の発掘成果が、報道され始めました。まだ、全容は分かりませんが、速報としてお知らせいたします。
クリックで拡大
甘樫丘東麓遺跡は、蘇我入鹿の「谷の宮門」ではないかと注目される遺跡です。
今回の発掘調査では、7世紀中ごろに取り壊された倉庫や塀の跡が新たに検出されたようです。13号にて、柱列の存在をお知らせしていましたが、やはり塀だったようです。検出された建物跡は、倉庫と推定されているようですが、いずれも規模は小さなものだそうです。
しかし、蘇我氏の盛衰と時を同じくし、甘樫丘の東麓に位置するこの遺跡は、入鹿邸の一部を構成するものである確立は、非常に高いのではないかと思われます。乙巳の変で滅亡した蘇我本宗家の邸宅が、直後に取り壊された可能性は高いのではないかと思われますし、これまでの調査でも同じように、土地利用にはっきりとした転機があったことが伺えます。
継続されたこれまでの発掘調査では、7世紀中ごろ「蘇我氏隆盛」の頃の遺構として、倉庫など建物跡計4棟と塀や石垣が検出されています。今回の調査で、入鹿邸の一部である可能性が一層増したように思われます。
邸宅の中心部が発見されるのが、待ち遠しく思われます。 (風人)
参考ページ :
甘樫丘東麓遺跡現地見学会に参加♪
【9】
「キトラ古墳壁画十二支-子・丑・寅-」の観覧記
(08.5.16.発行 Vol.21に掲載)
春期特別展は、4月18日(金)~6月22日(日)の期間で開催されているのですが、キトラ古墳の壁画特別展示は、5月9日(金)~25日(日)の16日間のみとなっています。
第八回定例会の翌日、河内太古さんと共に、「子・丑・寅」を見学に資料館を訪ねました。11日は、前日が雨であったこともあり、飛鳥はたくさんの方で賑わいを見せていました。携帯からアクセス出来るキトラ展の待ち時間情報も、80分待ちを伝えています。私達は、他の用もあり、夕方5時前に資料館を訪れました。資料館前では30分待ちの案内がありましたが、10分ほども待ったでしょうか。スムーズな流れで展示場に入ることが出来ました。そこから展示ケースまでは、やはり10分ばかり掛かったように思います。夕方近くの観覧が、待つほども無くゆっくり見学できるようです。
両槻会の講演で使わせていただいている飛鳥資料館講堂が、その展示場になっています。会場のほぼ中央に展示ケースが設置されていました。玄武や白虎よりも低い展示ケースでしたので、見やすくなっていました。角度によってはライトで見難い部分もありましたが、展示ケースを周囲から見られるので、比較的ゆっくり見学出来るのがありがたかったです。
今回展示されているのは、獣頭人身十二支像の内、北壁に描かれた「子」・「丑」と東壁北よりの「寅」の三像です。十二支像の中で一番はっきりとしているのが「寅」なのですが、襟・裾・持ち物上部の朱の色と着物が薄いグレーに見えるだけで、ほとんどが下書きされた線刻によって形が分かる程度です。それでも、顔がはっきりしていますので、他のものに比べると、やはり目は「寅」に引き付けられます。
「寅」の顔は、同じキトラ古墳の壁画にある「白虎」と比べると、かなり違った物に見えます。ユーモラスな表情で、うっすらと笑っているようにすら見えています。千数百年間、被葬者の魂を守り続けてきて、やっとその重責から解放されたからなのかも知れませんね。デヘヘヘっと笑っているように感じるのは、私一人なのかも知れませんが、口を開けて人間の物のような歯が見えているからかも知れません。
左目の側の漆喰が剥離しそうなのが気になりました。
朱の残る下着の襟は、どちらを上にしているのかは分かりませんが、上着は緩やかな作りになっていて、私には左前に合わせているように見えました。帯の結び目もやや左側にあります。左手をその結び目のやや下にあてがい、足を少し開き加減で立っています。持ち物は、右手に持っているのですが、私には矛のように見えました。
「子」・「丑」に関しては、頭部がほとんど分かりませんでしたが、身体の部分を見てみると、「寅」と統一されたデザインの下に描かれたことが分かります。
公開された壁画の横には、副葬品であった太刀の復元品が展示されていました。「黒漆塗銀装大刀」長さ約90cm、幅4.4cm、重さ672g。太刀は、ヒノキ製の鞘に黒漆で仕上げられ、柄は鮫皮が巻かれていました。また、銀製の金具が取り付けられ、全体としては、シックな感じの太刀として復元されています。見た印象は、大変シンプルな物でした。片手で持つようになっているようで、握りやすそうな柄です。ただ、実用向きとは思われませんでしたので、儀礼用の物なのでしょうか。
この日は、これで会場を後にしたのですが、春期特別展は他にも充実した展示があります。壁画が公開される前に見学したのですが、獣頭人身十二支について、東アジアでの歴史と最新の調査成果が紹介されています。
主な展示品としては、獣頭人身十二支俑・十二支鏡・金ユ信墓十二支浮き彫り拓本・隼人石拓本・川原寺裏山遺跡出土鳥頭塑像片などなどです。
(金ユ信墓の「ユ」の字は、漢字変換が出来ないためカタカナにしました。)
新羅の金ユ信墓十二支像は、拓本の展示ではありますが、大きさなども分かり、細部もよく分かります。キトラの十二支像と似た雰囲気を感じましたが、甲冑を身にまとい、より守護的な役割を持たされているようにも感じます。それは、後の時代の十二神将に似たものなのかもしれないと、ふと思ったのですが如何なものでしょうか。
隋の時代の長江流域に生まれたという獣頭人身十二支像は、半島を経由して我国にもたらされたのでしょうが、どのような経緯・経路で伝えられたのでしょうか。興味を掻き立てられる展示内容でした。
私が今回最も見たかったのは、実はこれらの展示ではありませんでした。「川原寺裏山遺跡出土鳥頭塑像片」です。迦楼羅(カルラ)像だと言われるもので、川原寺炎上の火に焼かれ、目に入れられたガラスが溶け流れて、あたかも涙を流しているように見える像です。涙を流すカルラ像との対面は、今回が初めてでした。写真で見るたびに、実際に見てみたいと思っていましたが、やっと実現しました。思いが募りすぎていたのか、初対面の印象は若干違う物でしたが、やはりこのカルラは好きです。
取り止めもない観覧記になってしまいましたが、今年のキトラ展は面白かったです。「玄武」・「白虎」の公開ほどの大騒ぎにはなっていない様ですが、私には今回の方が面白く感じました。十二支像は、小さな物です。僅かに14cm。矛の先端まででも17cmだそうです。本物を目にすることは、良いことだと思います。複製品より、何かを感じ取ることが出来るからです。それは時を経た重みなのかも知れないと思いました。
ただ、キトラ古墳や高松塚古墳の壁画保存のあり方には、未だにすっきりしないものを感じてしまいます。彼らが、被葬者の魂と共に、本来の場所で静謐な時を刻めるように願って止みません。 (風人)
【10】
「歌木簡のお話」
(08.5.27.発行 Vol.22「飛鳥情報No.2」に掲載)
紫香楽宮(742年~745年)の跡だとされる滋賀県甲賀市の宮町遺跡で1997年に基幹排水路跡から出土した木簡に、万葉集歌が書かれていた事が新たに分かったというニュースが先週各新聞の一面を飾ったのは皆さんご存知だと思います。
「阿佐可夜(あさかや)」と「流夜真(るやま)」と7文字の判読が可能で、ここから判断して、万葉集に収録された「
安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに
(16-3807)」の歌であるとされました。
木簡は、7.9cmと14cmの二片、幅2.2cmで厚みが1mmしかないことから、出土当時は削り屑だと思われていたのだそうです。調査の結果、本来は二つ繋げた長さ約60cm以上と推定され、儀式や宴・歌会などで詠み上げるのに使った「歌木簡」ではないかと考えられるそうです。
反対側に記されていたのは、「難波津の歌」として有名な仁徳天皇を讃えて王仁(ワニ)が詠んだとされている「
難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
」の歌だということです。「安積山」と「難波津」の2首は、古今集の仮名序に「歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人のはじめにもしける」とありますが、難波津の歌が万葉集などに見えないことから、これは紀貫之の創作ではないかとも言われていたそうです。が、今回の発見で古今集をさかのぼる事150年余、実際にこの2首が存在していた事が判明しました。また、文字表記などの成立やその使用方法など、色々と意味深い木簡になるようです。
歌木簡は、「難波津」の歌で30数例、また一昨年難波宮跡の「はるくさのはじめのとし・・・」などが代表的な出土例としてあげられるようですが、万葉集に記載された歌が木簡として確認されたのは、今回が始めてだということです。
この歌木簡から、紫香楽宮での歌会や曲水宴などを想定される専門家の方もいらっしゃるようです。知識の浅い私には、そこまで理解が及びませんが。
新聞各紙やネットニュースなど、極一部の情報しか得る事ができないのが残念でなりませんが、古代に思いを馳せるには素人も専門家もないですよね。
是非皆さんも色々と想像して楽しんでみて下さい♪ (もも)
【11】
「天皇から不比等へ-荷札木簡」
「藤原不比等」を示すと思われる木簡が藤原宮跡出土物から発見されたと言うニュースは、皆さん既にご存知だと思います。
調査されたのは、第九回定例会「木簡からみた飛鳥」のお話をして頂く奈良文化財研究所・主任研究員の市大樹先生です♪
この木簡は、1979年9月~80年3月に、藤原宮跡の北東にある門の外溝から出土した縦24.1cm、幅2.5cmのもので、赤外線による再調査の結果「右大殿荷八」の五文字が新たに確認できたそうです。同時に出土した木簡に「和銅元年」のものがあること、「右大殿」が右大臣を示すこと、他の文字も見つからず「右大殿」とだけ書かれていることなどから、この木簡は、この時期に右大臣になった藤原不比等に宛てた天皇からの下賜品8個を運び出す際の荷札木簡であろうと推定されました。
不比等の邸宅は、平安時代の文献に宮の東にあったと記録があることや、平城宮北東にある法華寺(不比等の邸宅跡)の存在などから、藤原宮においても東側に存在すると推定されています。木簡が出土した地点から北東方向には、橿原市法花寺町が在ります。現在の小字名にも法花寺・上法花寺・中法花寺があり、法華寺・法花寺と呼ばれる寺が在ったことが推測されます。不比等邸との関連も興味のあるところですね。しかし、残念ながら資料としては全く残っていないそうです。今回の木簡は、宮から荷物を運び出す時の荷札木簡が門を出たところで廃棄されている事から、この方向に不比等邸があった事を補強する貴重な資料と考えられるようです。
木簡は資料に乏しい古代の第一次資料として、とても貴重なものだそうです。たかが木片、されど木片。貴重な木簡のお話を貴方もご一緒に如何ですか?(風人・もも)
第九回定例会、市大樹先生の「木簡からみた飛鳥」公式レポは
こちら
。
事前散策資料は、
こちら
。
【12】
「大極殿南門前で幢幡跡見つかる」
昨年発見された藤原宮大極殿院の南門跡のさらに約30m南から、幢幡(儀式用の旗)を立てた支柱跡が発見されました。穴は、径30cm・深さ50cm程の穴に支柱用の穴2個が3m毎に8基分発見されました。宮などの構造が左右対称とされることから、合計13基の旗が立てられたと推定できるようです。
調査された朝庭部は、1300年前の姿を彷彿とさせるほど良好な状態の礫敷きが検出されたそうで、北側の南門付近も高く造成し礫敷き部には暗渠が設けられるなど排水面での配慮もされていたようです。
続日本紀の大宝元年正月に『大極殿の正門に烏形の幢(はた)を立て、左には日像・青龍・朱雀・を飾った幡、右側には月像・玄武・白虎・の幡を立て』とあることから、天皇が国家的行事を執り行う際に使用されたものだと推定されました。同様の幢幡跡は、平城宮や長岡宮でも見つかっているようですが、位置や本数に差があり、この違いが何をあらわすのかは今後の課題となるようです。
また、昨年の調査で確認された藤原宮造営時の資材運搬用の運河が、今回の調査区下層を南北に走っていることが判明した為に、継続調査の後、現地説明会の開催が予定されているようです。 (文:風人・もも 写真:太古)
【13】
「大和を掘る26」観覧記
(08.8.1.発行 Vol.27に掲載)
2007年度の発掘調査速報展「大和を掘る26」が、橿考研博物館で行われています。今回は、奈良県内で行われた遺跡調査の内、35件の発掘調査による出土遺物や説明パネルの展示になりました。
私の場合、どうしても飛鳥時代の調査結果に目が行ってしまいます。
大雪の中を並んで見た真弓鑵子塚古墳。飛鳥にまた謎を投げかけた島庄の石組溝。檜隈寺跡の小金銅仏の手。これらの前では、どうしても長く足が止まってしまいます。真弓鑵子塚古墳の出土品は、明日香村埋蔵文化財展示室でも見ていたのですが、今回の展示には初めて見る物も多く含まれていました。もちろん、他の展示が面白くないと言うのではありませんよ、念のために。(^^)
今回一番の興味の対象は、「これでいいのか!? 下ツ道」と題された展示です♪「平城京左京三条一坊四坪」(朱雀大路・三条大路・下ツ道)
調査担当は、飛鳥遊訪マガジンでもお馴染みの近江俊秀先生と奥井智子先生です。下ツ道は、大和盆地を南北に走る直線道路です。後には、この下ツ道を拡幅して平城京内には朱雀大路が造られますので、平城京の造営プランは下ツ道を基準にして作成されたことがわかります。それほど重要な幹線道路であったと言えます。
最も面白いのは、この発掘調査によって、下ツ道が造られた時期が、飛鳥時代の前半に遡る可能性が高くなったことです。今までは、中頃とする説が優勢であったようですが、推古天皇の時代にまで遡れる可能性が出てきました。その根拠とされたのは、朱雀大路を造る際に埋め立てられた下ツ道の側溝から、6世紀末から7世紀初頭と位置づけられる完全な形の須恵器杯蓋が一点、出土した事によります。
まず、初めに思ったのは、須恵器一点が道路の年代決定の根拠に成りうるのかという疑問でした。古くなってから捨てられたのかも知れないですから。展示された須恵器を見るまでは、疑いの気持ちも持っていました。
しかし展示品を見ると、この須恵器の杯蓋が使いこまれた物でないことは明らかでした。蓋を形作る時のナデ痕が残っており、ざらざらとした表面のままで発掘されています。使い込めば、どうしてもつるっとした表面になるはずです。また、この須恵器は、精巧なものではありませんでした。ほんの少し陶芸をしていた事がある私が、手捻りで作っていた物のように、いびつな形状をしています。また、焼成過程において燃料の灰と土中の金属成分とが融合して付着する自然釉の塊のような物が見受けられました。ということは、日常的に使われる筈の物であったのに、使い込まれずに捨てられた。つまりは、作られて僅かの間に捨てられた物だと納得できたのでした。やはり、実物を見なければダメだと改めて思ったしだいです。
道路が造られるということは、その必要が生まれていたわけで、土地利用の計画も大規模プロジェクトとして始まったのかも知れません。そしてそれを支える基盤があったことを示しているように思います。それが推古天皇の頃に遡る可能性が高くなったことは、飛鳥時代の初期を考える上で、重要なことであるように私は思いました。
他の遺跡では、纒向の勝山古墳、脇本遺跡などが大きな注目を集めた発掘調査でした。また、京奈和自動車道関連の調査が目立ったように思います。 (風人)
【14】
「カンジョ古墳」
(08.8.15.発行 Vol.28に掲載)
カンジョ古墳石室内
高取町与楽のカンジョ古墳(乾城古墳・6世紀末~7世紀前半)の石室天井の高さが約5.3メートルであることが分かりました。 石舞台古墳の石室の高さが4.7mですから、高さの程が分かります。 古墳所在地は、貝吹山の南麓で、真弓鑵子塚古墳や牽牛子塚古墳のほぼ真西、飛鳥病院のすぐ近くです。
カンジョ古墳は、一辺36m、高さ11mの大規模な二段築成の方墳です。以前から、内部を観察することが出来ました。
今回の発掘調査で石室内にたまった土砂が除去され、天井の正確な高さが分かりました。また奥行きと幅も、それぞれ6m、3.7mと確定しました。
石室の床面には、木棺を乗せる棺台と推測される跡が見つかりました。
棺台跡
棺台跡は床面の中央付近にあり、粘土と炭を交互に重ねて台状に盛り上げ、上面を白い石(長石)の粉で塗り固めていました。半分程度が残っていたようですが、当初は幅1m、長さ2.2mだったと推定されました。
棺台の周辺からは、木棺のものとみられる大型の鉄釘や銀製の指輪やミニチュア炊飯具の一部など、渡来系氏族の古墳に特有の副葬品も出土したようです。
カンジョ古墳石室内は、調査が行われていない限り、いつでも石室外からですが見学できます。
(文:風人 写真:太古)
【15】
「現地説明会を巡る日」
(08.10.3.発行 Vol.32に掲載)
9月27日、飛鳥地域では、興味深い二つの遺跡の発掘調査の成果が披露されました。檜前遺跡群の現地見学会と藤原宮朝堂院朝庭の現地説明会です。両遺跡を見学してきましたので、今回は報告のレポートを書くことにしました。
・檜前遺跡群
見学会が行われた調査区は、檜隈寺跡から南に約200mの地点にあり、檜隈寺跡とは谷を挟んだ別の尾根上にあります。尾根は、キトラ古墳の方向から北西に細長く延びており、検出された建物群は、尾根上部の平坦面に建てられていました。
検出された掘立柱建物は5棟を数え、時期的には7C後半から8C前半(飛鳥時代後半を中心)と推定されました。5棟の建物は、時期差による建て替えが行われたものだと思われ、数棟の建物が連続して存続していたものと推測されます。
最も古い建物の中には、柱穴が90~100cmという大きなものがあり、この建物では床束が検出されていることから、床を持つ5×2間(約10m×3.6m)の建物に復元されます。この建物が最大の規模となります。 同時期の建物としてもう1棟と塀があったようです。第二の時期区分には、間仕切りを持つ建物(断定は出来ないようです)として復元されるものがありました。もう一区分には、やや小さめの柱穴を持つ建物と塀と推測される柱列が検出されています。
これらの建物は、地域性から判断して、渡来系氏族の東漢氏に関連する施設の一部だと推定されました。
今回の調査区では、瓦や建築部材が検出されなかったようで、檜隈寺に直接関わる施設であるとは考えにくいとの見解でした。しかし、現地に立てば檜隈寺を間近に見ることが出来、それを意識した建物であることは間違いのないことのように思えました。時期的にみても、まさに檜隈寺が本格的な寺院として建てられている最中(または創建途上)になります。お寺の造営と何も関連性が無いとは言えないように思えます。例えば、檜隈寺造営に関わった技術者の居宅や監督施設ではないかと妄想が湧きます。
これらの遺構を見学して思ったことは、どうして渡来系の特徴を示す建物(大壁建物やオンドル)ではなかったのかという点でした。
遺構の一番古い時期は、東漢氏にとっては、乙巳の変の後から天武天皇の叱責(天武6年(677)6月、天武天皇から「推古天皇のころより七つの悪逆を犯した」として叱責されます。)までの厳しい時期に当たります。そこに、より我国への同化をアピールする必要もあったのかも知れませんね。逆に、渡来系建物を建てた観覚寺遺跡は、そのような危機感が薄くなっていたのかも知れません。これもまた妄想でしかありませんが。(^^ゞ
一つ気になった遺物がありました。礎石状台石として報告されていますが、建物間にポツンと小さな柱穴と思われる穴を持つ石が置かれていました。関連するような物は他に無く、今のところ全くの謎の出土物です。
礎石状台石
今回の調査区は、細長い規模で発掘調査が行われていましたので、建物の全容が検出されていないのかも知れません。調査が引き続き行われ、東漢氏を含めた古代檜隈の様子が解明されるのを期待したいと思います。
・藤原宮朝堂院朝廷発掘調査現地説明会
発掘調査区は、大極殿院南門の南側になります。宮中心軸の東側が主体となっていました。今年春から始まった調査で、幡を立てたと思われる柱穴8基が検出され、宮中心軸で折り返すと13基の幡が並んでいたと考えられました。平城宮では、大極殿院南門の北側で7基が並べられていましたので、今回、朝庭での幡に関連する柱穴列の発見は、初めてのことになりました。(「
大極殿南門前で幢幡跡見つかる
」)
また、大極殿院南門の東端に当たる場所の南に、三角形を形作る三つの大型の柱穴も検出され、別の様式の幡が掲げられた可能性が指摘されていました。反対の西側にも同様の施設が想定されます。
今までも、朝庭は礫敷であることが推測されてきましたが、今回の調査で実際に広い礫敷広場が確認されました。また、南に低い地形を修正するためか、大極殿院南門の辺りは、一段高く造成されており、緩やかな傾斜を示していました。礫敷広場には、礫や瓦を詰めた暗渠が整備され、排水の設備とされていたようです。
「天皇、大極殿に御しまして朝を受けたまふ。・・・文物の儀、是に備れり」
大宝元年(701)の元日朝賀の儀式で、文武天皇が厳かに大極殿にお出ましになると、前面には四神や太陽を描いた幢幡が、風にはためいていたのでしょう。
この年、大宝律令が施行され、国家の形が整いました。元日朝賀は、そのスタートを切る一大イベントであったのでしょう。大極殿と南門は、その舞台となったところと思われます。天皇を初めとする貴族や官人がその祝賀の儀に参加したものと思われます。今回調査された場所は、まさにその場所になります。
柱穴列検出以後の調査で注目されたのは、運河の検出でした。幅は約4m、深さは約2mの大規模な南北に通る溝です。これまでの調査でも大極殿の北側や前回の大極殿院南門の下層からも検出されており、宮内の総延長は500m以上であったことが分かりました。この運河は、藤原宮を造営する資材を運ぶためのものと考えられます。
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万葉集 巻1-50に「藤原京の役民が作る歌」という長歌があります。この歌には、滋賀県の田上山から膨大な数(宮域だけで、3~4万本説有り)の木材が、水路・陸路を運ばれたことが詠まれています。田上山で切り出された木材は筏に組まれ、宇治川を下り、巨椋池で木津川へと流路を変え、奈良へと向かいます。泉津と呼ばれる場所で一旦上陸し、奈良山を越えた後、再び水運が利用されます。佐保川から大和川に出て、飛鳥川あるいは寺川・米川を通り、運河に接続されたものと思われます。また、資材は木材だけではなく、大量の礎石や瓦の搬入にも用いられたことでしょう。
今回の調査では、この運河から分かれる斜行溝が検出されました。運河と同時期の溝は、幅約2.5~5m、深さ0.6~1mで、運河に取り付いていました。深さの違いから、水位の調整用ではないかとの見方もあるようですが、運河網の存在を指摘する考えもあるようです。
運河からは、土器(完形の須恵器を含む)・瓦・木簡・木製品・漆の付着した布・動物の骨などが出土しました。
また、資材運搬の用が終わった時点で運河は埋め戻され、新たな排水用の溝や暗渠が造られて行く過程が明らかにされました。
上部の調査はもちろんのこと、藤原宮造営に関わる遺構が検出されたことによって、造営過程が明らかになってきたと言えそうです。
少し疑問を感じた点を書いておきます。運河から出土した「牛・馬・犬の骨」は、運搬に利用された動物であるとされましたが、犬が運搬に利用されたとも思えず、また死んだ動物の骨を宮域になる予定の運河に投棄したとするのも、何かすっきりしたい点がありました。食用ということも考えられますが、投棄に関しては、現代人との感覚の違いかもしれませんね。
また、今回の調査では、朱雀大路東側溝という名称で資料に書かれましたし、先行朱雀大路との説明もあったのですが、この表現にも若干の疑問がありました。疑問もまた楽しいものです。徐々にその疑問を解消して行きたいと思っています。
二つの発掘調査地を見学し、勉強したことも楽しいことでしたが、現地で両槻会定例会に参加してくださった多くの方々とお会いでき、ご挨拶を交わせたことも大きな喜びでした。「こんにちは♪檜隈は行かれましたか?」などと笑顔で話せることは、両槻会の目指すことの一つです。もちろん時間もありませんでしたし、特に風人は先生方とのお話もありましたので、失礼をしたこともあったように思います。ごめんなさい。
またこのように、皆さんと飛鳥でお会いしたいと思っております。(^^) (風人)
【16】
「談山神社四方山話」
(08.10.30.発行 Vol.34に掲載)
談山神社は「たんざん」と発音するのが正しい読み方です。桜井市多武峰にある藤原鎌足公を祭神とする神社です。境内を見学するのに拝観料(¥500)が必要な珍しい神社です。中には勿論、賽銭箱もあります。最初は「随分阿漕な」と思うかもしれませんが、いざ中へ入って展示物などを見て回ると、「さもありなん」と思わせるほどの文化財が並べてあります。
藤原氏と関係する苗字が約4000挙げられており「あなたの祖先は藤原氏と縁があるかもしれない」と書かれていると、その中に自分の名前を見つけた人は思わずお賽銭を入れてしまうのも人情かもしれません。さて今回はこの談山神社の創建にまつわる四方山話です。
乙巳の変(いっしのへん)に先立つ3年前、中臣鎌子(後の藤原鎌足)は軽皇子(後の孝徳天皇)から寵妃、車持国子君の娘・与志古娘を貰い受けます。与志古娘はその時、既に6ヶ月の身重であったとされています。その際「生まれてくる子が男子ならば鎌子が、女子なら軽皇子が面倒を見る」といった誓約(うけい)をします。そして生まれてきたのが男子であったので、鎌子の長男として育てられることになります。極めて優秀な子に育ち、人は彼をして「真人」と呼びました。「真人」とは「本当に素晴らしい人」と言う意味です。鎌子も真人を可愛がり、聡明なるがゆえに出家させます。彼は僧として「定恵」と言う法名で呼ばれるようになります。
あるとき鎌子は定恵に「多武峰は中国の五台山に勝るとも劣らない霊妙の地である。私が亡くなったら多武峰に墓を作って欲しい。」と頼みます。定恵は五台山を見るべく、且つ仏教の先端を会得すべく12歳にして遣唐使の一員として渡唐します。唐で10年ほど留学した頃、夢枕に父・鎌子が立ちます。「私はもうこの世のものではなくなった。帰って多武峰に埋葬して欲しい。その地からお前たちの代々を見守ろう。」といったものです。定恵は父の弔いのために五台山にある宝池院の十三重の塔を模写し、それと同じ十三重の塔を作るべく、霊山から霊木を集め船に乗り帰国しようとしますが、船が狭く十二重分しか載りませんでした。仕方なく一重分を置いて帰国します。
帰国後、弟(不比等)に父の埋葬場所を尋ねると、高槻の阿武山古墳に埋めたとのこと、自分の見た夢の内容を不比等に伝え急ぎ父の遺体を移送し、多武峰に再葬します。そして、持ち帰った霊木を以って塔を作りますが、十二重分しかないので十二重の塔しか出来ません。その姿に定恵は不比等と共に嘆いておりましたところ、夜になって雨風が激しくなり、雷鳴が轟きました。その翌朝見てみると、残してきた霊木が塔の傍に運ばれて来ていたのです。これで有難く十三重の塔が出来たということです。 その後、塔の南に三間四面堂が建てられ妙楽寺と命名されますが、これが現在ある講堂となっています。
帰国後の定恵の足取りは、はっきりとはしていません。帰国後直ぐに毒殺されたとか、90まで生きて大往生したとか様々な説があります。面白い逸話として、天智天皇の勅願で、桑実寺の創建を定恵に任せたと言うものがあります。定恵は帰国に際し、桑を持ち帰り養蚕の祖となったと言うものです。桑実寺は滋賀県にあるお寺です。その他にも、定恵創建のお寺が全国各地にあります。注意しながら歩いていると、何処かで定恵に出会えるかもしれませんね。 (TOM)
(注)五台山 :中国山西省にある霊山 仏教では文殊菩薩の聖地とされる。
別称、夏でも涼しいことから清涼山とも言う
【17】
「2008年 飛鳥考古学の動向」
(08.12.30.発行 Vol.39に掲載)
飛鳥遊訪マガジンや両槻会ブログでは、飛鳥に関わる現地説明会やニュースなどのご紹介を出来る限りしてきました。2008年の締めくくりとして、「2008年 飛鳥の考古学の動向」と題し、この一年の主だった動きをリストアップしてみました。中には、両槻会にご縁のある先生方が関わっておられるものもあります。
また、ほんの一部ですが、公開されている発掘調査などの資料ページを月別に再掲してみました。現地説明会の現場へ、当日足を運ぶことはなかなか難しいものです。参加出来なかった方や資料をご覧になれなかった方もたくさんいらっしゃると思います。
年末年始、ほっと一息つかれるときに、気になっていた遺跡の資料など捲られてみてはいかがでしょう。
下記では、皆さんの記憶を喚起しやすいと思い、あえて新聞報道の見出しをリストアップしています。中には、センセーショナルなタイトルとなり、本来の遺跡の意味づけや発表内容にそぐわないタイトルや記事も多かったように思います。アマチュアが接する情報には限りがありますが、しっかりとした目を持ってこれらの報道を見つめて行きたいと思います。
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【2008年 飛鳥の考古学の動向】 (日付は新聞報道日)
2月 8日 真弓鑵子塚古墳 石舞台をしのぐドーム型最大級石室(*)
2月28日 もう一つの蘇我蝦夷邸 清水先生発表
3月18日 藤原京地鎮具関連 富本銭 最古の貨幣別バージョン
3月28日 甘樫丘東麓遺跡 蘇我氏の武器庫か (*)豊島先生担当
4月22日 島庄遺跡石舞台北の石積遺構 馬子邸排水溝?
4月24日 キトラ古墳出土太刀復元 (*) 豊島先生担当
5月16日 キトラ古墳は朱塗りの棺
6月11日 檜隈寺小金銅仏の手
6月23日 不比等を示す木簡 (*) 市先生発表
6月28日 藤原宮幢幡柱穴列 (*)
8月 6日 与楽カンジョ古墳 東漢氏の墓、石舞台超す(*)
9月25日 藤原宮運河跡 (*)
10月17日 石神遺跡最古の万葉歌木簡 (*)
11月25日 飛鳥寺南東道路と石組溝遺構(*)市先生・豊島先生担当
12月10日 高取・薩摩遺跡ため池遺構と出土木簡 (*)
(*=遊訪文庫や両槻会ブログに関連記事があります。)
:::::::::::::::::::::::::::::::::::
【資料編】
奈文研学術情報リポジトリのページは、「本文をダウンロード」をクリックすると、PDFファイルが開きます。
【2月】
明日香村の文化財10 「真弓鑵子塚古墳」
「真弓鑵子塚古墳」の現地見学会配布資料
【3月】
「藤原宮大極殿院南門出土地鎮具」
奈文研ニュースNo.28-奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
「甘樫丘東麓遺跡」の現地見学会
甘樫丘東麓遺跡の調査 -第151次-
-奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
【4月】
「キトラ古墳出土銀装大刀の復元品 」
奈文研ニュースNO.30-奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
【6月】
明日香村の文化財11 「檜隈寺跡」
「檜隈寺跡」(小金銅仏手出土)
「一町西遺跡」 記者発表資料
(平安時代の板絵出土)
【9月】
「飛鳥藤原第153次(藤原宮朝堂院朝庭)発掘調査の現地説明会」
-奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
参考:
第極殿院南門の調査-148次-
-奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
「檜前遺跡群」
明日香村の文化財12 「檜隈遺跡群」
【12月】
「観音寺1区」現地説明会資料
「高取・薩摩遺跡第8次調査」現地説明会資料
「明日香村発掘調査報告会2008」配布資料
(風人・もも)
【18】
「石神遺跡第21次調査現地説明会レポート」
(09.2.20.発行 Vol.44に掲載)
2009年2月12日夕刻から、各報道機関のネットニュースが「迎賓館の門、瓦ぶき?石神遺跡、改築で立派に」などの見出しを付けて、配信され始めました。
石神遺跡は、飛鳥寺の北西に位置して、須弥山石や石人像などが出土したことでも知られ、飛鳥でも継続調査が行われる重要な遺跡の一つです。これまでの調査によって、主に、斉明朝の迎賓館的施設・天武朝・藤原京期の官衙群など、3期の遺構が重層しているとされています。
今回のニュースで目を引いたのは、お寺以外での瓦葺屋根の最初の例になるのではないかと思われる門が検出されたことでした。これまでは、お寺以外に瓦が使われるのは、藤原宮を待たなくてはならないとされてきました。それを半世紀も先駆けることになります。
石神遺構図
飛鳥遊訪マガジンでも、飛鳥発掘情報として注目してきましたので、風人も現地説明会に参加してきました。
今回の調査区では、7世紀前半と後半に2度整地が行われ、合計で8時期に区分される遺構が検出されました。この重複する遺構は、単に一見するだけでは、とても理解が及ばないほど複雑な様相を示していました。現地説明会用に、時期区分された色付テープで建物跡を示してもらっていてさえ、短時間でそれを認識するのは難しいと思いました。担当された研究員さんのご苦労が思いやられます。
参考:
奈良文化財研究所 HPトピックス 現地説明会資料
参考資料の遺構変遷図をご覧になりながら、お読みください。
7世紀前半のII期とされる時期に、石神遺跡の東の端を限る南北塀が造られました。この塀1は、調査区を南北に貫いています。その塀に取り付く掘立柱建物がありました。門かもしれないとされる建物1です。塀1に並行するように、10mほど西に南北塀2があります。
これらの建物が建て替えられるIII期(7世紀中頃)となると、塀1は、若干西にずれて塀4となり、建物1は若干北にずれて、建物2になります。建物2は、東に庇を持つ建物で、総柱建物の一部のように見えますが、塀が取り付いており、門だと判断されました。同時期には、東で塀4に取り付く総柱建物と、西にII期と同じ塀2が南北に区画を造っていました。建物3は、東の柱列を塀と同一にする総柱建物で、珍しい建物です。建物は南北を長軸とするようですから、もう少し南に伸びるのだろうと思われます。門の脇に在る塀にくっついた建物とは、どのような性格の建物なのでしょうか。思い浮かぶ事例が適当ではありませんが、橘寺(現)東門の横に付く倉庫を思い出したのですが、まったく関係無い妄想だと思ってください。(^^ゞ
II期・III期・IV期には、東へ約16mの地点に塀3があります。こちらも南北の掘立柱塀です。この約16mの空間には、施設が検出されず、道路ではないかと判断されました。遺跡北部を東西に走る阿倍・山田道と飛鳥中心部を結ぶための道路ではないかとされました。道路幅は、他の幹線道路幅に近く、重要な道路として造られたように思われます。
さて、IV期(7世紀中頃・斉明朝)になると、塀や建物遺構は無くなり、基壇を持つ門だと思われる跡がありました。検出されたのは、基壇周囲の雨落ち溝だけだったのですが、この溝から瓦が多数出土しました。量的に屋根一面に葺かれていたと仮定するには数量が足りず、棟などの一部に瓦が葺かれていたと推定されています。上部の遺構が削平されているので、断定は出来ないようですが、礎石があった可能性も完全には否定出来ないようです。
この基壇の上に在ったと推測されたのが、今回話題となった瓦葺の迎賓館東門ということになります。出土した瓦には、軒先に使う瓦は無く、棟だけに瓦が葺かれていた可能性が指摘されました。基壇周囲の雨落ち溝には、東に突出した部分があり、基壇に掛かる階段の跡だろうと説明がありました。
V期になると再度整地が行われ、門や道路も無くなります。溝で区切られた建物が数棟建てられています。この時期は、7世紀後半になり、天武朝の官衙群が存在していたものと思われます。
現地説明会に参加して、幾つか疑問に思ったことや考えが及ばなかった点がありました。
1. I・II期は7世紀前半とされたが、建物や塀が正方位を向いており、 小墾田宮や飛鳥寺のような特別な事例に入るのか。
2. 建物1や建物2は、本当に門なのか。柱間が狭すぎないか。塀2との間隔が狭すぎないか。塀2にも門のような入口が在ったのか。
3. 出土瓦は、7世紀前半とされているが、門の遺構は7世紀中頃の斉明朝とされている。瓦の年代まで遡ることはないのか。
4. 斉明朝迎賓館の主要な門だとすると、建物群から北に離れすぎないか。北端に近い場所から迎賓館に入ることになるが、正方位をとる建物群を造った思想と矛盾しないのか。今回の調査区の南に正門があった可能性は無いのか。
石神遺跡からは、第3次調査・第4次調査で、軒丸瓦が出土しています。奧山廃寺式と呼ばれる飛鳥時代前半(おおよそ620~630年代)に作られたとされている瓦です。数量は、64枚を数えます。花谷先生の試算によれば、石神遺跡出土の全軒丸瓦を並べると、単純計算で27.3mになり、飛鳥寺の東金堂の屋根の全長よりも長くなるとのこと。
参考資料:
石神遺跡の瓦
(奈文研紀要2004)
斉明朝の迎賓館が出来る以前に、瓦葺の何らかの施設があった可能性は無いのだろうか。それは、小墾田宮の一部である可能性は無いのだろうか。いろいろな妄想が頭を支配してきたので、現地を後にしました。(笑)
この日は、飛鳥京外郭北部の調査現地説明会も行われ、1600人を超える見学者が飛鳥を訪ねたそうです。風人も、その一人となり、両槻会定例会で顔馴染みの方たちと、一日を楽しく過ごしました。
難解ではありましたが、好奇心を掻き立てられた楽しい現地説明会でした。とんちんかんな質問に、丁寧にご説明くださった先生方に感謝します。ありがとうございました。
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