両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第44回定例会

帝塚山大学考古学研究所・両槻会共催行事

薫風そよぐ宮都・飛鳥




散策資料

作製:イベントスタッフ
2014年5月17日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
豊浦寺跡 水落遺跡 飛鳥寺跡 入鹿首塚
東垣内遺跡・飛鳥宮ノ下遺跡 飛鳥寺西方遺跡 弥勒石・木の葉井堰 飛鳥京苑池
飛鳥京跡 エビノコ郭(エビノコ大殿) 橘寺 川原寺
天皇家系図 蘇我氏系図 古代寺院伽藍配置図 飛鳥時代の宮殿
宮中枢部の変遷 飛鳥水系マップ 飛鳥寺創建瓦の祖系 軒瓦の各部名称
当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


散策ルート

より大きな地図で 第44回定例会ウォーキング案 を表示
この色の文字はリンクしています。

豊浦寺跡(資料担当:もも)

豊浦寺跡には、現在、浄土真宗本願寺派の向原寺が建てられています。豊浦寺は、飛鳥寺に続いて造営された寺になります。『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』や『日本書紀』、『聖徳太子伝暦』などに、豊浦寺に関わると思われる幾つかの記録が残されています。

『元興寺縁起并流記資財帳』によれば、戊午年(538)に牟久原殿に初めて仏殿が設けられ、これが敏達天皇11年(582)に至って桜井道場と呼ばれ、翌12年には司馬達等の娘善信尼ら3人を住まわせたとされています。また、推古天皇元年(593)には、等由羅宮を等由羅寺としたという記載があります。一方で、『聖徳太子伝暦』には、舒明天皇6年(634)に塔の心柱が建てられたと記されています。

『日本書紀』には、欽明天皇13年(552)10月、百済から献上された金銅仏像・幡蓋・経論などを蘇我稲目が授かって小墾田の家に安置し、また向原の家を寺としたとあり、舒明天皇即位前記(628)に山背大兄皇子が病床の叔父を見舞った折りに豊浦寺に滞在したことや、朱鳥元年(686)12月に天武天皇のための無遮大会を行った六大寺の一つに豊浦寺の名があげられています。
これらの内容を全て鵜呑みにすることはできませんが、蘇我稲目の向原の邸宅が寺(仏殿)に改修され、それが豊浦寺へと発展していったと考えることが出来ます。


 向原寺周辺で行われた数次にわたる発掘調査で、古代寺院などの遺構の存在が明らかになってきました。

 豊浦寺の講堂は、向原寺境内とほぼ重なるように存在し、南北約20m、東西約40mの基壇の上に南北15m以上、東西30m以上の規模を持ちます(飛鳥寺講堂とほぼ同規模)。金堂は、南側の豊浦集落の集会所付近に東西17m・南北15mの規模と推定されています。塔跡は、塔心礎とされる石の存在する付近に石敷をめぐらした基壇の一部が発見されていますが、小規模な調査であったため塔と確定するには、位置や方位などに疑問も残るようです。

 伽藍配置は、四天王寺式と推定されていますが、地形に影響された特異な伽藍配置であった可能性も残されているようです。


豊浦寺講堂下層遺構

 向原寺境内には、宮から寺への移り変わりを物語る遺構が存在しています。豊浦寺講堂跡の下層には、直径約30cmの柱を用いた高床式南北棟建物として復元出来る掘立柱建物跡(南北4間以上、東西3間以上)が検出されています。

 建物の周囲には石列がめぐり、さらにその外側には約4m幅のバラス敷が検出されていることから、講堂下層遺構が宮殿などの特殊な建物跡であることが分かります。

 豊浦寺の創建には、30種類近くの瓦が使用されています。金堂は、主に飛鳥寺と同じ星組の瓦(素弁九葉蓮華文軒丸瓦・素弁十一葉蓮華文軒丸瓦)が飛鳥寺に遅れて使用されています。講堂は船橋廃寺式、塔は特徴のある豊浦寺式軒丸瓦(新羅系)を主体に使用されました。出土瓦の年代観から、金堂は7世紀初頭、塔や講堂はそれぞれ7世紀中頃までには造営が開始されたと考えられます。

左:星組(素弁九葉蓮華文軒丸瓦)   中:船橋廃寺式軒丸瓦   右:豊浦寺式軒丸瓦 
左・中:藤原宮跡資料室展示品  右:明日香村埋蔵文化財室展示品   

 また、豊浦寺の瓦は、寺から遠く離れた場所で生産されていたことが分かっています。主に豊浦寺式軒丸瓦を製作した隼上り窯(京都)で約50km、船橋廃寺式を製作した高丘窯(兵庫)では約80km、末ノ奥窯(岡山)では約180km離れています。古代初期寺院の遠隔地における瓦生産は、豊浦寺から始まったと考えられます。
 
 このほか、豊浦寺の出土瓦からは、古代初期寺院の造営順を知ることが出来ます。飛鳥寺の創建瓦である星組(素弁九葉蓮華文軒丸瓦)は、豊浦寺での使用中に改笵を受けた後、法隆寺(若草伽藍)の創建瓦として使用されたことがそれぞれの寺院跡から出土した瓦の笵傷などにより判明しています。このことは、同じ瓦笵での造瓦が、飛鳥寺、豊浦寺、法隆寺(若草伽藍)の順に行われたことを示しています。このように出土瓦からは、様々な情報を導き出すことができます。


 『万葉集』には、「故郷の豊浦の寺の尼の私房にして宴する歌」として三首の歌が残されています。

  明日香川行き廻る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ (8-1557)
  鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも (8-1558)
  秋萩は盛り過ぐるをいたづらにかざしに挿さず帰りなむとや (8-1559)

 丹比真人国人(757年、橘奈良麻呂の変に連座、伊豆に配流)が、豊浦寺の尼らと詠み交わした歌になります。飛鳥は、奈良時代以降このように「故郷(古里)」として歌にも登場します。
豊浦寺は9世紀末に堂宇は荒廃し、13世紀初頭には塔の四方四仏が橘寺へ移管されるなど、衰退の一途を辿っていったようです。

 向原寺境内には、飛鳥の謎の石造物の一つ「豊浦の文様石」が置かれています。また、近くを通る隧道の天井石に文様のある石が存在しています。文様は何が描かれているのかは定かではありませんが、明日香村文化財顧問の木下正史先生は、須弥山石の台石ではないかと考えられているようです。一石は、向原寺境内で見学が可能ですが、隧道内の天井石は容易に見ることはできません。


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水落遺跡(資料担当:ガッキー)


水落遺跡 漏刻台

 水落遺跡は、斉明天皇6年(660)に、皇太子である中大兄皇子が造った漏刻台の遺跡と考えられています。当時には現代のような時計がなかったため、働いている人の時間は、経験的に決めていました。それが、漏刻台をつくり、正確に時を刻むことから、これまで経験的に決めていた勤務時間も、より正確なものへと変化したといわれています。中大兄皇子は漏刻台を用いて時をはかることにより、人々の管理を目論んだのではないかといわれています。そういったことから、漏刻台の製作は、官僚制度を整える象徴的なことのひとつといえます。

 水落遺跡の調査は、1972年に行われました。1972年の第1次調査では大型基壇建物が発見され、1976年には国指定史跡として登録されています。その後、1981年から史跡整備にともなう発掘調査(第2~6次)により、第1次調査で出てきた建物は、正方形の基壇の中央に堅固な地下構造をもつ総柱建物ということが判明しました。

 四方を濠で囲まれた一辺22.5mのほぼ正方形の区画で、濠には一面に貼り石が施されています。内部からは、先ほど述べました建物跡が確認され、建物跡には礎石があり、各礎石はさらに石列で連結された構造となっています。これらのことから上部に相当精密さを要求されるようなしっかりとした建物(漏刻台)が建てられていたことが考えられています。
 また、基壇内部に漆塗木箱や木樋暗渠、銅管があったことが確認されています。


漏刻イラスト

漏刻台内部の想定図
現地案内版より

 『日本書紀』には、漏刻台を設置した場所や構造について何も書かれておらず、「漏刻をつくった」としか記されていません。なぜ、漏刻台と推定ができるのか。それは、『日本書紀』の記述にある「漏剋」の語から中国系の漏刻台の技術を導入したことが考えられています。漏剋は、漏刻ともいい、容器内の水位を時間の経過とともに変化させることによって、時刻を知る装置のことです。その装置は、それぞれの水槽がサイフォン管で繋がっており、最上段の水槽に水を補給すれば、最下段の人形の居る水槽には、等速度で水がたまる仕組みになっています。最下段の人形がフロートに乗っていて、目盛の時刻を指し示す仕組みになっており、時刻を読み取ることができます。現在、想定されている漏刻は、日本で最初の漏刻台が作られる少し前の7世紀前半(貞観年間(627~649))に、唐の呂才(ろさい)が考案したとされる漏刻の仕組みとも矛盾しないといわれます。その復元模型は飛鳥資料館に展示されています。復元模型は中国の故宮博物院にのこされている清代(1636~1912)の漏刻に基づいて推定復元されています。


水落遺跡 皇極・孝徳朝図
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水落遺跡 天智・天武朝図
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 発掘調査では、水落遺跡の前の段階と、後の段階が検出されています。水落遺跡で漏刻台が造られる以前、皇極・孝徳期には、水落遺跡の南側に四面庇(ひさし)建物が確認されます。そして、次の斉明・天智期には、漏刻台が存在しました。そして、天智・天武期には、漏刻台撤去後に掘立柱建物や四面庇建物が建てられています。このうち四面庇建物は、天武朝の中で水落遺跡・石神遺跡を含めて最大の規模です。では、水落遺跡に漏刻台が作られていた時期以外はどういった性格の建物が建っていたのでしょうか。

 水落遺跡で漏刻台が造られる以前の皇極・孝徳期の四面庇建物は、一説には、倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかのかわべのかりみや)と考えられています。行宮とは、天皇などの仮の宮のことです。『日本書紀』によれば白雉3年(652)9月に難波長柄豊碕宮が完成し、孝徳天皇が遷都します。しかし、その次の年の白雉4年(653)に中大兄皇子が、「倭の京に移りたいと奏上したが許されず、皇祖母尊(皇極天皇)や皇后(間人皇女)、そして、皇弟(大海人皇子)らと共に、倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかのかわらのかりみや)に入った。・・・・・公卿大夫や百官の人々も太子に従って倭に移った。」とあります。その時に登場する倭飛鳥河辺行宮では、ないかと考えられています。

 では、漏刻台のあった次の時代の天智・天武期はどうだったのでしょうか。その為には、この時期の石神遺跡についても少し見ていきたいと思います。この頃の石神遺跡は迎賓館的な役割ではなく、別の役割をもっていたとされます。この時期は、塀によって区画された新たな建物群が建てられています。これらの建物群と一緒に鉄鏃が出土しています。建物群と鉄鏃などの出土品から、天智・天武期の石神遺跡は小墾田兵庫(おはりだのひょうご)という武器庫が広がっていたと推定されています。この時期の石神遺跡が小墾田兵庫とすれば、水落遺跡も同様の役割をもっていたのでしょう。近江に都があった時期には、飛鳥を護る留守司(るすのつかさ)として、水落遺跡が利用されていたのかもしれません。


漏刻に関する日本書紀の記述

『日本書紀』斉明天皇6(660)年5月是月条
「又皇太子初造漏尅。使民知時。」
(また、皇太子が初めて漏剋を造る。民に時を知らしむ。)

『日本書紀』天智天皇10(671)年夏4月丁卯朔辛卯条 (旧暦4月25日<6月10日>)
「置漏剋於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏剋。此漏尅者、天皇爲皇太子時、始親所製造也、云々。」
(漏剋を新しい台に置き、時刻を知らせ、鐘・鼓を打ちとどろかせた。この日初めて漏剋を使用した。この漏剋は、天皇が皇太子であられたとき、御自身で製造されたものである、云々と伝える。)
 

水落遺跡の位置



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飛鳥寺跡(資料担当:織苑)


 『日本書紀』によると、飛鳥寺は用明2(587)年に蘇我馬子の誓願により翌年崇峻元(588)年に造営を開始したという。この時、飛鳥衣縫造祖樹葉の家を取り壊し、飛鳥寺を造営している。

 伽藍配置は一塔三金堂式(飛鳥寺式伽藍配置)で、五重塔を中心に中金堂、東金堂、西金堂、その周りに回廊がめぐり、回廊外の北側に講堂が置かれていた。寺域は、東西約200m、南北約300mの規模を持っている。一塔三金堂式である飛鳥寺は高句麗の清岩里廃寺や定陵寺の影響があると考えられている。しかし、最近では百済の王興寺と似たような伽藍配置をしていることから、王興寺の影響もあるのではないかと言われている。

飛鳥寺中心部分の伽藍配置

 安居院本堂に安置されている本尊飛鳥大仏(銅造釈迦如来坐像)は、推古13(605)年に天皇の詔により、鞍作鳥仏師に造らせた日本最古の仏像と言われている。飛鳥大仏は二度にわたる火災で損傷、修理をされ、往時の姿を留めている箇所は頭部の一部、鼻から上の部分と右手の一部と言われてきた。これに対し、2012年に銅の比率などが調査された結果、造立当初とされる箇所と鎌倉時代以降の補修とされる箇所で際立った差がみられず、飛鳥大仏は造立当時の姿のままである可能性が高いとする説が提示された。しかし、疑義も残り、今尚、議論が続いている。

飛鳥大仏


飛鳥寺Ⅰ型式(花組)
藤原宮跡資料室展示品

飛鳥寺Ⅲ型式(星組)
明日香村埋蔵文化財室展示品

 飛鳥寺の軒丸瓦は蓮子が小さく、蓮弁の先端は切込みを入れて蓮弁が反転している様子をあらわしている(花組という)。蓮弁は百済に見られるものと似ているが、百済の蓮弁は八弁であるのに対し、飛鳥寺は十弁である。他には、蓮弁の先端が角ばって、その先端に小さな珠をつけたものもある(星組という)。このような文様も百済で見ることができる。飛鳥と百済で違いはあるものの、百済の技術集団による指導があったことが考えられる。(飛鳥寺創建瓦の祖形参照)

 飛鳥寺の平瓦の中には須恵器の製作技術に特徴的な同心円文叩き板圧痕を残すものがあり、土器生産者が集められ、瓦博士のもとで瓦製作に携わっていたことが分かる。軒平瓦は、軒先を少し反らせる効果をもたらすために平瓦を二枚重ねにして葺かれており、後の重弧文軒平瓦の祖形と考えられている。

 飛鳥寺の塔心礎周辺からは髪飾り、首飾り、鈴、馬具、金、銀製品などが出土している。建久7(1196)年、落雷による火災で塔が焼けた際に、舎利が取り出され中身の多くを失った。その後、舎利供養具は木箱に収められ、さらに石櫃に埋納された。発掘調査では木箱を納めた石櫃が出土しており、木箱の中には金銅製の舎利容器やガラス玉が納められていた。飛鳥寺と王興寺の塔心礎周辺からの出土品を見ると、よく似たものが出土していたことが分かる。
 参考:飛鳥寺塔心礎の埋納品(奈良文化財研究所公式サイト)

 飛鳥寺木塔の造営は百済の技術者集団の指導を受けている。百済の土木建築技術や舎利容器、荘厳具、供養具の奉安の儀礼が、木塔造営工程の一環として伝授された為、出土品が似ていると思われる。

(参考文献)
1985 『法隆寺展 昭和資材帳への道』 高田良信
1986 『飛鳥寺』 奈良国立文化財研究所飛鳥資料館
1999 『-瓦からみた初期寺院の成立と展開-』 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館
2011 『仏教伝来』 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館
2013 『飛鳥寺2013』 奈良国立文化財研究所飛鳥資料館
2013 『考古学からみた推古朝』 大阪府立近つ飛鳥博物館


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入鹿首塚(資料担当:風人)

 飛鳥寺跡安居院の西門から西に約100mの地点に、一基の五輪塔が立っています。俗に、入鹿首塚と呼ばれるのですが、実際に蘇我入鹿(そがのいるか)の首が埋まっているわけではありません。
蘇我氏系図参照)

 五輪塔というのは、我が国独特のもので、平安時代末期から南北朝時代(1336年~1392年)を中心に江戸時代まで造立された供養塔あるいは供養墓だとされています。このことから、入鹿首塚と呼ばれる五輪塔も、平安末期を遡るものではないと考えられます。

 五輪塔は、下から方形・球形(または三角錐)・三角形・半球形(半月型)・団形(宝珠型)の五つのパーツを積み上げ、地・水・火・風・空を表現するものだと言われているようです。これは、密教では五大(体)を表すものとされ、宇宙の根本を司るものだとされています。

入鹿首塚の伝承
 飛鳥寺の南約600mの地に、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)が在りました。皇極(こうぎょく)天皇が造営したこの宮が、「大化改新(巳乙の変/いっしのへん)」の舞台となります。
俗に、蘇我馬子(そがのうまこ)の子の蝦夷(えみし)や孫である入鹿は、権勢を振るい横暴な所業が多かったとされます。大化元年(645)、打倒蘇我本宗家を目指して、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と中大兄皇子(なかのおおえのみこ=後の天智天皇)の二人が中心となり、飛鳥板蓋宮で入鹿の首を討ち取りました。 
 その真実がどのようなものであったのかは、ここでは省きますが、その切り落とされた入鹿の首が、五輪塔の地まで飛んできました。その首を供養するために、あるいは超人的な入鹿の念を封じるために造立されたのが、この五輪塔だと伝えられました。

 この伝承は、江戸時代にはすでに流布していたようです。明和9年(1772)に飛鳥を訪れた本居宣長が記録を残しています。
『菅笠日記』
「この寺(飛鳥寺)のあたりの田の畔に入鹿が塚とて五輪なる石半ら埋もれて立てり。されどさばかり古き物ともみえず。」

また『菅笠日記』に先立つ宝暦元年(1751)に書かれた記録も存在します。
『飛鳥古跡考』「蘇我入鹿大臣石塔」として、「村ヨリ一町未申ノ方田中に五輪少し残れり、里人もさこそ申侍る」 

入鹿首塚(五輪塚五輪塔)には、以下のような説があります。

1:蘇我入鹿首塚説
2:恵慈・恵聡の墓説 飛鳥寺創建期の渡来僧
3:飛鳥寺再興の尼僧の墓説 江戸時代に復興に尽力した尼僧
4:飛鳥寺西の槻木のモニュメント


入鹿の首が飛来したとの伝承がある地

 三重県松阪市舟戸には、入鹿首塚と称される五輪塔が存在し、入鹿の妻と従者が首を守り、落ち延びたとされる伝承が存在します。


 蘇我氏の本拠地とされる橿原市曽我町付近にも伝承があり、母親の下に首が飛び帰ったと伝えられます。


高見山

舟戸の五輪塔




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東垣内遺跡・飛鳥宮ノ下遺跡(資料担当:両槻会事務局 風人)

東垣内(ひがしかいと)遺跡
 この遺跡では、平成11年(1999)の調査で、7世紀中頃の幅約10m、深さ約1.3mの南北大溝が検出されました。
 溝の規模から、水運に用いられた可能性が高いと考えられます。また、溝の長さは、飛鳥宮ノ下遺跡や奥山廃寺の西側でも同規模の溝が検出されていることから、1km以上であることが確認されています。

 

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飛鳥宮ノ下遺跡
 この遺跡からも、東垣内遺跡とほぼ同様の大規模な溝が検出されています。また、約150m南の飛鳥池工房遺跡から排水とともに流れてきたらしいフイゴの羽口が、7世紀後半の土層から出土ました。
大規模な溝は運河として用いられたと考えられますが、7世紀後半期には飛鳥池遺跡に存在した工房群の排水路として利用されていたことを示しているように思われます。
また、7世紀後半以降は、藤原京を潤す重要な水源であったと思われ、藤原宮造営時には資材搬入などの水運にも大きな役割を果たしました。左図左上の「中の川」と右図右下「中の川」が繋がり、藤原宮運河へ水を供給していました。

 『日本書記』斉明(さいめい)天皇2年(656)の条には、天皇は造営工事を好まれ、水工(みずたくみ)に命じて香山の西から石上山まで水路を掘らせ、舟二百隻に石上山(いそのかみ)の石を積み、流れに沿ってそれを引き、宮の東の山に石を重ねて垣とされた。当時の人々はこれを非難して、く「狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)と呼んだ。
「この狂心渠の工事に費やされる人夫は三万余、垣を造る工事に費やされる人夫は七万余だ。宮殿を作る用材は朽ちただれて、山の頂も埋もれるほどだ。」といった。また、「石の山丘を作れば、作るはしからひとりでにくずれてしまうだろう。」とそしる者もあった。 と書かれています。

 東垣内遺跡や宮ノ下遺跡の大きな溝は、宮の東の丘と考えられる酒舟丘陵(酒船石遺跡周辺)から流れ出している点や、その規模と掘削された時期(7世紀中頃)から、斉明天皇が造った狂心渠である可能性が高いと思われます。

 狂心渠は、現在「中の川」という名称の川が流路をほぼ踏襲して、大官大寺付近から香久山の西を通り米川に合流しています。


飛鳥資料館ロビージオラマ
写真上が南です。


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飛鳥寺西方遺跡(資料担当:風人)


 飛鳥寺の西には、「法興寺槻樹下」や「飛鳥寺西槻下」などと『日本書紀』に書かれる場所があります。一般的には、「槻の木の広場」と書き表されます。

『日本書紀』には、様々な表記でこの場所を示していますが(P20 年表参照)、飛鳥時代の約100年間を通して、広がりを持った空間として確保されていたようです。広さは、飛鳥寺境内の西端から道路を隔てて飛鳥川までの東西約170m、南北約220mの範囲が考えられています。
この場所では、大化改新(乙巳の変)の序曲となる中大兄皇子と中臣鎌足が出会う蹴鞠が行われました。また、大化改新政府は、皇極4年(645)、槻の樹の下で孝徳天皇、皇極前天皇・皇太子中大兄皇子らが、臣下を集めて忠誠を誓わせました。壬申の乱に際しては、近江朝廷側の軍営が置かれました。また、天武・持統朝では、多禰(種子島・たね)人や隼人(はやと)・蝦夷(えみし)らを饗応した記事が頻出します。


飛鳥資料館ロビージオラマより

 「槻」とは欅(ケヤキ)の古名なのですが、名称が変わったのは室町時代だそうです。樹勢が盛んで巨木になること、また大きく枝を広げることが特徴です。一般的には神木は常緑樹が多いのですが、槻の樹は落葉樹であるにもかかわらず神聖な樹木とされ、その幹や枝の下は聖域と考えられたようです。「槻の木」の語源は、「強き木」が転訛したものだとする説があり、また「欅」は「けやけき木」を意味するとされています。現在でもしめ縄の巻かれた欅が多くあります。また、神社の建築材や和太鼓の用材としても利用されているようです。
泊瀬の 斎槻(ゆつき)が下に 隠したる妻 あかねさし 照れる月夜に 人見てむかも
  万葉集 巻11-2353 
天飛ぶや 軽の社の 斎ひ槻 幾代まであらむ 隠り妻ぞも  
  万葉集 巻11-2656 
 斎槻とは、神聖な槻の樹のことを意味します。槻の樹の広場の槻の大木もまた、斎槻であったのでしょう。
 槻の樹の広場は、これまでに度々発掘調査が行われており、飛鳥寺西方遺跡の名称で呼ばれます。これまでの調査では、掘立柱塀や180m以上続く土管暗渠、120m以上続く南北石組溝をはじめとする大小の石組溝、石敷遺構、砂利敷遺構などが確認されています。
 直近の2調査を紹介します。2013年2月2日に発表された調査では、一面の砂利敷遺構と不整形な石敷遺構が検出されました。時期的には、出土遺物から7世紀中頃に敷かれたものだと考えられるようです。
 この調査では、石敷遺構の他に二つの土坑が検出されました。石敷中央付近のものは、径約1.9mの大きさで円形に石が抜き取られており、その中に径約1.5m、深さ約40cmの穴が空けられていました。当初、槻の樹が生えていた所ではないかとの期待も有ったのですが、その痕跡はありませんでした。また、須弥山石の設置場所、幢竿遺構などではないかと考えられましたが、それらを示すものは検出されていません。また、調査区の東からは、時期不明の径約3mの土坑(井戸か?)が検出されています。

 2013年12月14日発表の調査では、柱穴列が検出され、建物または広場を南北に区分する塀だと考えられました。これは、槻樹の広場では初めての建造物の検出例となりました。



『日本書紀』に見る「飛鳥寺の槻の樹の広場」
皇極3年(644)正月 法興寺の槻樹の下 中臣鎌足と中大兄皇子の出会い。
大化元年(645)6月 大槻樹下 群臣を召集めて忠誠を誓わせる。
斉明3年(657)7月 飛鳥寺の西 須弥山石を造り盂蘭盆会を設け、都貨羅人に饗宴を催す。
斉明5年(659)3月 甘樫丘の東の川上 須弥山石を造り、陸奥と越の蝦夷に饗宴を催す。
天武元年(672)6月 飛鳥寺の西の槻の下 近江朝廷軍が軍営を置く。
天武6年(677)2月 飛鳥寺の西の槻の下 多禰島人等に饗宴催す。
天武9年(680)7月 飛鳥寺の西の槻に枝 自ら折れて落ちる。飛鳥寺の僧が亡くなる予兆か。(弘聡)
天武10年(681)9月 飛鳥寺の西の河邊 多禰島の人等に、種々の楽を奏する。
天武11年(682)7月 飛鳥寺の西 隼人等に饗宴を催し、種々の楽を奏する。
持統2年(688)12月 飛鳥寺の西の槻の下 蝦夷の男女213人に饗宴を催す。
持統9年(695)5月 西の槻の下 隼人の相撲を観る。


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弥勒石・木の葉井堰(資料担当:風人)

弥勒石

 石英閃緑岩(飛鳥石)の大きな石に、加工が加えられています。上部が丸く、高さ約2.5m・幅約1m・奥行約80cmを測る大きな石造物です。飛鳥の謎の石造物に数えられますが、これが何であるのかは分かっていません。

 近世からは近在の住民の信仰を集め、親しみを込めて「ミロクさん」と呼ばれています。下半身の病にご利益があるとされ、祠にはたくさんの草鞋が奉納されています。お姿は大きな丸みのある角柱形の石ですが、素朴な彫りで追加工と思われる顔が刻まれています。弥勒石は昔、飛鳥川の川底から掘り出され現在地に運びあげたと伝えられており、いつの頃からか民間信仰の対象となり、引き上げられたと伝わる旧暦8月5日に現在も祭事が行われています。

 信仰とは別に考えると、「木ノ葉井堰」の水門の施設に用いられていた石材とする説が有力なようですが、付近の飛鳥川に架かっていた橋の部材の一部とする説や、古い地割である条理制の境界を示すものとする考えもあるようです。

 また、『飛鳥古跡考』(宝暦元年:1751)には、弥勒石は道場塚と呼ばれていた所に在ったと書かれており、この「道場(人物名)」をめぐる逸話が大変面白い話に繋がってゆきます。
参考:「元興寺の鬼と弥勒石」 (飛鳥検定Ⅱ関連の風人レポート)


木の葉井堰

 この井堰は、飛鳥川の右岸地域に給水する古くからある井堰だと考えられます。流域には、現在地名で明日香村大字飛鳥・雷・奥山・小山・橿原市木之本・下八釣・法花寺町などが挙げられ、広い地域の水稲農業を支えてきたと思われます。(大官大寺付近で「中の川」と合流)

 
また、飛鳥川やや下流の豊浦井堰は、明日香村大字豊浦・橿原市和田・田中・石川を中心とする一帯に給水し、灌漑面積は広大な面積を有します。

 二つの井堰の流域と蘇我氏一族の諸領域が一致することなどを考えると、この二つの井堰が古代より重要なものであったことが分かります。

 飛鳥寺は、飛鳥真神原にあった飛鳥衣縫造(きぬぬいのみやつこ・いぬいのみやつか)の祖 樹葉(このは)の家を壊して創建されたものと伝えられています。「木の葉井堰」の「木の葉」という名は、決して無縁ではないと考えられます。渡来系氏族である彼らの手によって、初代「木の葉井堰」が建造された可能性が考えられるのですが、残念ながら断定するまでには至りません。

 「飛鳥水系マップ」・「水系と蘇我氏の分布」を参照ください。


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飛鳥京苑池(資料担当:ガッキー)

 飛鳥京苑池は、斉明天皇(7世紀中頃)の頃に造られ、天武天皇(7世紀後半)の頃には完成したと考えられる饗宴施設といわれます。もっと簡単にすると、古代の庭園といわれています。『日本書紀』の天武紀に「白錦後苑(しらにしきのみその)」と記される、飛鳥地域における本格的な苑池です。「白錦後苑」といわれるのには、飛鳥京苑池の場所も関係しています。飛鳥京苑池は、飛鳥京跡内郭の北西側に位置します。飛鳥宮の内郭は南を正面にしていたと考えられることから北は「後ろ」になり、宮の後ろにあることから苑池が後苑といわれるのです。


飛鳥京苑池遺構7次調査までの概要図

 飛鳥京苑池は、昔から苑池として認識されていた訳ではなく、平成11年(1999)に行われた発掘調査によって初めて、確認されました。大正5年(1916)、今から90年程前に西田新太郎さんが田んぼの排水路を掘削中に偶然石造物を掘り出しました。掘り出された石造物が、いわゆる「出水の酒船石」と呼ばれる石造物で、現在では流水に関する施設と考えられているものです。

 その時の調査は、和田千吉さんにより紹介されています。それによれば、掘り出した石造物の近くに土器片の他、木の実や丸木などの有機物が出土しており、これまでの飛鳥京苑池の調査成果と似た成果が報告されています。

 石造物は、しばらくして京都市左京区の碧雲荘(へきうんそう)に移されました。碧雲荘とは、野村証券などの野村財閥を築いた実業家である2代目野村徳七氏が造った別荘の1つです。碧雲荘庭園は、大正6年(1916)頃から造営が始まっており、もしかすればその前年に大和で珍しい石造物が出た、ということで次の年に大和から取り寄せたかもしれません。いずれにしても詳しいことは明らかではありませんが、大正13年(1924)にはすでに庭園に設置されていたという記録があり、少なくとも出土してから8年以内に、すでに京都に石造物が持ち込まれていたことがわかります。


出水の酒船石(模造・飛鳥資料館前庭)

 飛鳥京苑池では、史跡の復元整備に向けた調査を行っており、これまでに苑池の範囲の確認なども含めて、8回の発掘調査をしています。過去の調査成果から、苑池の築造時期は、7世紀中葉~後半(飛鳥京跡第Ⅲ期)で、その後改修を受けながらも存続し、その廃絶時期は10世紀頃になると考えられ、藤原、平城遷都後も苑池機能は維持されていたと推定されます。
 苑池は、東西100m、南北280mの大きさをしています。南池と北池の2つに分かれ、その間は渡堤で区切られています。その間は2本の木樋でつながっていました。

 北池は、南北46~54m、東西33~36mの大きさと考えられ、底の深さは約3mと深く、底面が平らになっています。底には有機物が堆積しており、池さらいをしてはいなかったと考えられています。また、水をためる貯水池としての機能を備えていたという説があり、北にとりつく水路は、それらの水を流していたと考えられています。

 南池は、南北約55m、東西約65mの大きさで、平面五角形の形をしています。東岸は、高さ3m以上、西岸は高さ約1.3mと、東西の岸で高低差を意識した構造になっています。南池では、東西約32m、南北約15m、高さ約1.3mの大きさの中島も確認されました。南池全体で有機物の堆積が少なく、池さらいを行い、庭園の池として美しく保たれていたと考えられています。中央の島状の石積みの高さや中島北側の柱からそれほど深く水がたまらない構造(30cm程の高さ)と考えられています。池の底には石が敷き詰められています。これは単に石を置いているのではなく、石を敷くための工法の単位を窺うことができます。石を敷く時も計画的に石を敷いていたのでしょう。

 中島は、盛土と石積みの護岸によって構築されています。護岸の上面には、松の木の根がみつかっており、植栽されていた可能性が高いとされます。また、中島の下にも、石が敷き詰められてます。そのため、一度、計画的に石を敷いたのちに中島をつくったことが推定されています。


南池の石積み

中島北側の柱

南池の中島

 苑池周囲には、鑑賞施設と考えられる、苑池を臨む掘立柱建物が検出されています。飛鳥宮は基本的には正方位で建物を建てています。しかし、苑池南東の建物は正方位をとらずに、建物の方位が苑池の方向を向いています。そのため、高台から苑池を臨むような施設と考えられています。また、また、南池から見られる土器には、坏や皿などの供膳具という当時の金属器や磁器などの高級食器をモデルにした器が多いことからも、南池に鑑賞などの機能であったことをうかがうことができます。


第8次現地説明会 会場看板より

 その他に、飛鳥京苑池には、桃・梅・柿・梨などの種や、花粉が検出されています。それらの果樹が苑池周辺に植えられていたと想定されます。果物だけでなく、海で捕れる魚の骨がまとまってみることができます。ブリやスズキなどの魚があり、これらの骨には、解体・調理痕、被熱痕が認められることから、調理後に食べたあと北池につながる水路などに捨てられたようです。


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飛鳥京跡(資料担当:キノコヘルメット)


飛鳥京跡発掘調査位置 参考図
〈註: SE(井戸)、SB(建物)〉

 飛鳥京跡は明日香村岡にある飛鳥時代の宮殿跡で、中心部分は「伝飛鳥板(いた)蓋宮(ぶきのみや)跡」の名称で国史跡に指定されています。1959年から発掘調査が行われ、「飛鳥京跡」の名で現在も継続して行われています。
 発掘された宮跡に関係する遺構は大きく三期に分けられ、そのうち、上層にあたるⅢ期は前後二時期に分けられることがわかっています。
 Ⅲ期の宮跡の規模は南北約197m、東西約155mの内郭と、東南にある南北約67m、東西約95mのエビノコ郭、これらを囲む外郭が確認されています。外郭は東限のみ見つかっており、近年の調査で北限に関係する遺構も確認されているようです。これら3つの郭は一本柱塀で周囲が区画されていることがわかっています。
 ・Ⅰ期     舒明天皇       飛鳥岡本宮  (630~636)
 ・Ⅱ期     皇極天皇       飛鳥板蓋宮  (643~655)
 ・Ⅲ-A期  斉明天皇       後飛鳥岡本宮 (656~667)
 ・Ⅲ-B期  天武・持統天皇   飛鳥浄御原宮 (672~694)

図2 飛鳥京跡 遺構重層関係 模式図
(規模を表す図ではありません)

 『日本書紀』の飛鳥浄御原宮に関係する記述に、「大極殿」や「外安殿」、「内安殿」、「前殿」、「朝堂」、「西門」、「南門」などの殿舎の名称がみられます。今日の飛鳥京跡に関する研究は、発掘調査成果と文献史料を合わせた殿舎の比定が行われています。


図3 飛鳥京跡Ⅲ期 殿舎の名称


飛鳥京跡Ⅲ期遺構
① 井戸SE6001



 内郭北区画の北東部で一辺約11mの方形井戸が発見されています。井戸区画内には全面石敷きが施され、二重の石組溝が巡っていました。内部構造は、井戸の掘り方が2m以上あるとされています。井戸枠の一部は抜き取られていて、その際に掘られた影響から、掘り方の原形があまり残っていませんでした。井戸枠は最下段のみ残っていて、地表から2.3mの位置で見つかっています。井戸枠内には2~3㎝の川原石が敷き入れられ、さらに下には10~15㎝の礫が混ざっていました。このような礫を次第に大きくする目的は、貯水量を豊かにすることや、濾過装置としての役割を果たしていたようです。井戸枠に使用された木材は桧で、井戸という水分の多い土層の条件から、良好な状態で残っていたそうです。木材は幅23㎝前後、厚さ15㎝前後、長さ175㎝程度のものが四本組んでつくられた「組継ぎ式」と呼ばれる手法が使われていました。宮跡に作られたこの井戸は、全面石敷きで施されている点や内部構造の状況からも、一般の井戸とは異なる性格を持っていたものと思われます。


② 建物SB0301・ SB0501


内郭南正殿跡(SB301)
(発掘現地説明会にて)

 内郭北区画で東西の廊状建物でつながる小殿をもつ大型建物跡2棟(SB0301・0501)が発見されています。規模は南北4間、東西8間で北面と南面に庇をもつと考えられています。


幡竿遺構と池状遺構 南から
(発掘現地説明会にて)

 SB0301の西側では窪みに砂利を丁寧に敷き詰めた池状遺構が見つかっています。SB0301が建てられた当初は左右対称の廊状建物が存在していましたが、Ⅲ-B期になると西側の建物が崩され、池状遺構に造り変えられたと考えられます。SB0301の北側では同一の規格構造を持つ建物SB0501が見つかっています。2棟の建物は、SB0301は南の正殿、SB0501は北の正殿と呼ばれ、「内安殿」もしくは「大安殿」であると考えられています。2棟の異なる点は、SB0301の掘立柱の抜き取り穴に黄褐色の土砂が入っていたのに対し、SB0501には全くみられなかったことです。飛鳥宮は廃絶されると黄褐色の山土で跡地を整地していたようで、土砂が混じっていた事実からもSB0501とSB0301の廃絶時期に差があるのではないかと考える研究者もいます。


内郭中枢建物と関連建物 想像復元図
(2005年3月12日発掘現地説明会発掘成果より再現 作画 風人)


③ 建物SB7910、SB8010

内郭南区画で建物SB7910が発見されています。
SB7910は「前殿」や「外安殿」と考えられる建物で、規模は南北4間、東西7間で、4面の庇がついていました。建物周辺は石敷きが巡り、さらに外側には多量の砂利が敷き詰められていました。北側中央では建物周辺の石敷きとつながる南北方向の石敷きが確認されており、天皇がこの建物に向うための通路と考えられています。建物周辺を石敷き(砂利敷き)にするのは儀式を行う際の安静を保つためや、天皇の安全を確保するためとも考えられています。

 SB8010は内郭の中軸線上の最も南に位置し、「南門」と考えられています。規模は南北2間、東西5間の建物です。南門の周辺にも石敷きが広がっていました。

 SB7910・8010の発掘により内郭の南北幅の確定ができるようになりました。また、中軸線が明らかとなったことで、東西幅の想定ができるようになりました。


④ 2棟の南北棟建物

 内郭南区画の東南隅で、南北10間、東西2間の掘立柱建物が2(SB8505・SB7401)並んで建てられていたことがわかっています。
 2棟の建物は「朝堂」と考えられており、この建物の発見によって、西南隅にも同様の建物が建っていたことが推定できるようになりました。SB7910・8010に加えて、内郭南区画の様相を把握する上で重要な遺構となりました。


SB8505 復元柱列



飛鳥京跡Ⅱ・Ⅰ期の遺構


飛鳥京跡 遺構重層関係 模式図Ⅰ

 発掘調査ではⅢ期の遺構を保護するため、調査は部分的にしか行えず、Ⅱ・Ⅰ期の宮跡の実態はあまり明らかになっていません。
 Ⅱ期遺構については、わずかながら掘建柱塀や回廊状の施設、掘立柱建物、石組溝が発見されています。
 Ⅱ期とⅠ期遺構の異なる点は大規模な造成がおこなわれていることと、遺構の方位が正方位を指しているということです。
 遺構は宮殿を区画する塀と溝がほとんどで、宮殿内部では建物が発見されておらず、不明な点が多いようです。現状でⅡ期遺構の区画規模は東西約90m、南北約198m以上あるそうです。

 飛鳥京跡Ⅰ期については明確な宮跡を示す遺構は発見されていません。Ⅰ期遺構は、北から西へ20度振れていることが特徴で、飛鳥の自然地形に合わせたものと思われます。


Ⅰ期遺構とⅢ期内郭北正殿遺構関係模式図

 Ⅲ期遺構のSB0501が見つかった場所の南西で、一辺1.2mを越える柱穴をもつ柱列(SA0522・0523)が発見され、柱穴には焼土や炭が混入していました。『日本書紀』に舒明天皇の飛鳥岡本宮が焼失するという記述があります。この遺構が宮に関係するものと断定はできませんが、焼失記事との関連が注目されます。


飛鳥京跡イラスト遺構図

<参考文献>
奈良県教育委員会1971『飛鳥京跡Ⅰ』(奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第26冊)
奈良県立橿原考古学研究所1996『飛鳥京跡-第131~134、第131次出土木簡調査概報-』(奈良県遺跡調査概報95 第2分冊
奈良県立橿原考古学研究所2008『飛鳥京跡Ⅲ』(奈良県立橿原考古学研究所調査報告第102冊)
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館2008『宮都飛鳥』(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 特別展図録第70冊)
奈良県立橿原考古学研究所2011『飛鳥京跡Ⅳ』(奈良県立橿原考古学研究所調査報告第108冊)




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エビノコ郭(エビノコ大殿)(資料担当:よっぱ)


明日香村岡地域の宮跡調査は、昭和34年度に開始されました。明日香村役場の東側で行われた昭和46年度第2次調査と昭和49年度第45次調査で、門遺構と考えられる南北建物(SB7402)が検出され、昭和52年度第61次調査では、飛鳥京跡で最大規模の大型建物(SB7701)が検出されました。その後、大型建物の南側で行われた平成2年度第116次調査では、東西方向の掘立柱塀(SA8935)が検出され
るなど周辺の調査も進められ、ここが内郭とは独立した空間であることが判明しました。


 エビノコは、明日香村役場の東側の小字名で、調査地区をエビノコ地区とよんでいたことから、検出された掘立柱塀の区画を「エビノコ郭」、大型建物を「エビノコ大殿」と命名したそうです。

 エビノコ大殿(SB7701)は、桁行9間×梁間5間(29.2m×15.3m)を測り、四面に庇が付けられていたこと、柱はその抜き取り穴などから50cm前後の太い柱を使用していたこと、南面には3箇所に登段をもち、軒内には石敷きを施していたことなどが判明していて、現在では、その調査結果から堀立柱建築で四面庇付き高床式の入母屋造として復元されています。また、エビノコ大殿は、『日本書紀』にみられる「大極殿」である可能性が高いと推定されています。

 現在目視できる大極殿として平城宮第一次大極殿が、平城宮跡に桁行9間×梁間4間(44.0m×19.5m)に復元されています。エビノコ大殿とは、柱間の距離の違い、桁行と梁間の長尺比の違いや礎石建ちの瓦葺きという違いはありますが、エビノコ大殿の29.2m×15.3mという大きさ(桁行で-14.8m、梁間で-4.2m、平面規模で約半分)と比較していただければ、エビノコ大殿の大きさも想像していただけるかと思います。

 エビノコ郭は、エビノコ大殿を中心にして周囲を塀で囲んでおり、その距離は東西約94m、南北約55mに復元されています。また、その敷地内にはバラス敷きが施されていたことが判明しています。エビノコ大殿やエビノコ郭の発見によって、先の第45次調査で検出されていた門遺構(SB7402)がエビノコ郭の西門であることも判明しました。

 エビノコ大殿は南向きに建てられていましたが、エビノコ郭には南門は検出されていませんし、南側の地形から前期難波宮にみられたような大規模な朝堂があったとは考えられないようです。
 エビノコ郭で検出された西門は、その大きさが桁行5間×梁間2間で、内郭南門と同規模に造られています。これは内郭の南塀、エビノコ郭の西塀、飛鳥川の東岸に囲まれた三角の空間が儀式の広場であったためだと考えられ、毎年のように行われた射礼の儀礼はこの広場で行われたと考えられています。
『日本書紀』の天武紀に記されている儀式の記事に「南門」と記されているのは内郭南門を、「西門」と記されているのはエビノコ郭西門を指していると考えられ、「西門(庭)」、「南門」と書き分けられているのは、天皇の出御場所から見た庭の位置を指すのではないかとする説もあります。


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橘寺(資料担当:もも)

 仏頭山の北麓に位置し、県道155号線を挟んだ北には川原寺が所在します。橘寺は、聖徳太子が勝鬘経を講読した際に起きた瑞祥を機に建てられたと伝承されます。正史での初見は、『日本書紀』天武天皇9年(680)にみえる「橘寺の尼房で失火があり十房を焼いた」になり、この頃にはある程度の伽藍が完成していたことが発掘調査からも窺うことが出来ます。また、奈良時代に記されたとされる『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に「橘尼寺」の名が見え、既に奈良時代には、橘寺が推古朝に建立された寺院だと考えられていた様子が記録から窺えます。
 
 奈良時代には、聖徳太子信仰に熱心であった光明皇后と橘寺の善心尼の存在が橘寺の繁栄を築いたようです。ことに善心尼は、造東大寺司への経典の貸し出しや、法華寺阿弥陀堂浄土院の造営への寄附が記録に残っており、当時の橘寺が教学面・経済面でも充実していたことを物語っています。平安時代には、罹災後も国家の援助を受けて復興がなされ、治安3年(1023)には、藤原道長が高野山参詣の途上に立ち寄るなど、貴族らの信仰も深かったようです。 

 罹災・衰退と復興を繰り返した橘寺は、明応6年(1497)の火災によって、伽藍を全て焼失してしまいます。しかし、その後の長年にわたる復興によって近代的な伽藍として整備され、現在まで聖徳太子信仰を護り伝えています。


 伽藍は、東面する一塔一金堂形式(四天王寺式伽藍配置)と考えられていました。しかし、講堂跡の北東外側に西面が揃う凝灰岩の石列が検出されており、これを回廊跡の一部と考え、回廊が金堂と講堂の間で閉じる山田寺式伽藍配置であるとする説もあります。


 北門は、川原寺の南門に合わせ奈良時代に整備され、両門の間には、幅約12.6mの東西道が走っていました。2012年度に行われた橘寺第20次調査により、寺域の東限に関わると推定される南北溝が検出され、調査区周辺に「東門」の小字があることから、東門の位置が推定されています。また、西側に残る小字から、西門の位置が検討されています。現西門の西側からは、鍛冶炉6基と廃棄物を処理する土坑3基などが検出されており、付近に橘寺に附随する金属工房があったと考えられています。

 塔心礎は、基壇上面の下1.2mに据えられており、円形柱座に添柱穴が三ヶ所造り出されています。このような添柱穴を持つ様式は、野中寺や法隆寺(若草伽藍)などのものが知られ、古い様式であると考えられています。
 塔は、復元すると高さ約36mの五重塔と推定されます。
 7世紀の中頃に創建され、創建時の塔内の荘厳には、塼仏が用いられていたと考えられるようです。

 8世紀頃に改修を受け、久安4年(1148)に落雷により焼失したのち、13世紀中頃に三重塔として再建されたようです。鎌倉時代の橘寺の僧・法空が残した『上宮太子拾遺記』によると、再建された三重塔には、豊浦寺塔の四方四仏が移入されたと記されています。
 
 橘寺は、伽藍配置や塔心礎の形状に加え、少量ではあるものの7世紀前半の飛鳥寺式に酷似する瓦が出土していることなどから、遅くとも7世紀半ばには既に造営が開始されていたと考えられます。

聖徳太子関連系図


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川原寺(資料担当:成行)


川原寺の位置

 飛鳥の宮殿跡が展開する岡集落の西方、飛鳥川を挟んだ対岸に川原寺は位置する。
 川原寺は、天智天皇によって建立された寺院の1つで、その地位は極めて高かったとされている。天武14(685)年には、大官大寺、飛鳥寺とならぶ三大寺の1つ、あるいは、翌年には、大官、飛鳥、小墾田、豊浦、坂田などと共に六大寺の1つに数えられ、持統天皇(697~707)のころには、大安寺や飛鳥寺、薬師寺などと共に、四大寺の1つとして数えられていた。しかし、都が藤原京から平城京へと遷るとともに、その地位は急速に低下していった。大安寺、元興寺、薬師寺などの寺が新しい都に移建された時に、なぜか川原寺だけは飛鳥の地に残されたのである。

 平安時代前期に堂塔が火災に遭い、その際に焼損した塑像などを一括して埋めた跡が見つかっている(川原寺裏山遺跡)。その後、延久2(1070)年に再建されて十五大寺の1つに数えられるが、建久2(1191)年の火災によって伽藍は壊滅的な打撃を受け、一部は復興されるものの、再び往年の寺観を取り戻すことはなかった。

 川原寺の創建に関しては、信頼できる史料が乏しく、不明点も多い。発願の理由は、斉明天皇の菩提を弔うためと考えられており、これが正しければ、創建は斉明天皇の死去(661年7月)以降ということになる。ただし、667年3月には近江への遷都が行われているので、それ以前の天智朝前半の創建とみるべきだとされている。

 伽藍の様子は1957、58年の発掘調査で中金堂を中心に南に回廊で囲まれた塔と西金堂があり、北に講堂とそれを囲む三面僧坊などがならぶ、1つの塔と2つの金堂を配する「川原寺式」の伽藍配置だと言うことが明らかになった。川原寺式伽藍配置は大津市の南滋賀廃寺のような天智天皇に関わる寺院でも確認されている。

 現在、川原寺には、南門・中門、回廊の一部の基壇が復元され、建物の礎石や塔心礎なども配置されている。そして、寺院の中心である中金堂の跡には川原寺の法灯を伝える弘福寺の本堂が建ち、その境内には創建時そのままに白瑪瑙の礎石が残されている。

 1958年に行われた塔跡の発掘調査で、12世紀末の焼失後に再建された時の塔心礎や礎石が見つかり、その下から創建当初の心礎が確認されている。その中央に直径1m、深さ6㎝の円形柱座を掘りくぼめており、舎利孔もなく舎利埋納に関連する遺物は一切なかったとされている。だが、創建時の心礎上面にあった基壇土の中から、半裁した無文銀銭と金銅小円板が出土しており、いずれも鎮壇に関連したものだと推測される。


川原寺式軒瓦
藤原宮跡資料室 展示品

 川原寺の瓦は川原寺式軒丸瓦と呼ばれる複弁八葉蓮華文軒丸瓦と四重弧文軒平瓦のセットである。軒丸瓦の複弁は、国内では初めて使用された文様で、また、外区に鋸歯文がめぐるのも初出である。この文様は一般的に初唐様式とされており、豊浦寺や橘寺などでも同じ笵で作られた瓦が出土している。



 川原寺復元模型
飛鳥資料館


飛鳥資料館蔵 川原寺復元模型

(参考文献)
『飛鳥の寺と国分寺 古代日本を発掘する2』 坪井清足1991年
『国際シンポジウム 飛鳥・河原寺裏山遺跡と東アジア資料集』 関西大学文学部考古学研究室国際シンポジウム実行委員会2014年
『日本史リブレット71 飛鳥の宮と寺』 黒崎直2007年
『史跡で読む日本の歴史3 古代国家の形成』 森公章2010年



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天皇家系図



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蘇我氏系図


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古代寺院伽藍配置図

― 参考 ―


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飛鳥時代の宮殿

宮中枢部の変遷


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飛鳥水系マップ


水系と蘇我氏の分布
クリックで拡大します。


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― 飛鳥寺創建瓦の祖系(百済の瓦) ―

弁端切込式
帝塚山大学附属博物館収蔵品

弁端点珠式
帝塚山大学附属博物館収蔵品


軒瓦の各部名称




  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
豊浦寺跡 水落遺跡 飛鳥寺跡 入鹿首塚
東垣内遺跡・飛鳥宮ノ下遺跡 飛鳥寺西方遺跡 弥勒石・木の葉井堰 飛鳥京苑池
飛鳥京跡 エビノコ郭(エビノコ大殿) 橘寺 川原寺
天皇家系図 蘇我氏系図 古代寺院伽藍配置図 飛鳥時代の宮殿
宮中枢部の変遷 飛鳥水系マップ 飛鳥寺創建瓦の祖系 軒瓦の各部名称
当日レポート 飛鳥咲読 両槻会



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