飛鳥咲読
特別回
紀路踏破
―有間皇子追慕の道を行く―
Vol.130(12.3.30.発行)~Vol.131(12.4.13.発行)に掲載
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【1】 Vol.130(12.3.30.発行)に掲載
4月14日に実施します特別回定例会「紀路踏破-有間皇子追慕の道を行く-」について、綴ってみたいと思います。次号と合わせて、2回掲載を予定していますので、よろしくお付き合いください。
また、飛鳥遊訪マガジン第128号の近江俊秀先生による「飛鳥のみち飛鳥への道 その3『番外編 葛城氏と紀路』も、合わせて再読していただければと思います。
「飛鳥のみち 飛鳥への道 その3『番外編 葛城氏と紀路』」(遊訪文庫)
紀路は、大和盆地の南部と紀伊水門を結ぶ全長約80kmの道路で、飛鳥時代以前から重要な幹線道路として機能していました。古墳時代後半には三輪山周辺や磐余地域に諸宮が置かれますが、それらと紀ノ川河口を結ぶ道路としての役割を持っていました。つまり、難波津がメインの外港とされるまで、紀伊水門は諸外国に繋がる玄関であり、紀路は海外と諸宮を結ぶ道であったと考えられます。また、大和にもたらされる塩や海産物、各地域の特産物などもこの紀路を通って大和に運び込まれました。紀ノ川河口に近い和歌山市善明寺には、それらの物資を一時的に保管したと思われる5世紀中頃の「鳴滝倉庫群」が発見されています。
紀ノ川河口から奈良県五條市・下市町などへは、紀ノ川(吉野川)の水運を利用できることが、このルートの利便性を高めたのかも知れません。紀ノ川の水運は近年まで残っており、大和川の亀の瀬と言われるような難所も無いため、奈良県下市町千石橋まで千石船が入っていたそうです。
高取町や明日香村檜前に多くの渡来人が住みつくようになったのも、紀路との関連から考えられるように思います。ひょっとすると、仏教などもこの道を通って入ってきたのかも知れない・・・、そんな妄想が広がって行きます。
紀路の先には、紀温湯(牟婁温湯)があります。飛鳥・奈良時代には、有間皇子や斉明天皇・中大兄皇子、また持統天皇・文武天皇など、皇族・貴族が湯治に出かけています。また、聖武天皇も和歌の浦を訪れる際に、紀路を通ったと思われます。行幸には、数多くの供人が付き従い、多くの万葉歌が詠まれました。その中の一首を紹介します。
神亀元(724)年甲子冬十月紀伊國に幸しし時、従駕の人に贈らむがために、娘子に誂へらえて作る歌一首 (4-543 笠金村)
大君の 行幸のまにま もののふの 八十伴の男と 出でて行きし 愛し夫は 天飛ぶや 軽の道より 玉だすき 畝傍を見つつ あさもよし 紀伊道に入り立ち 真土山 越ゆらむ君は もみち葉の 散り飛ぶ見つつ むつましみ 我は思はず 草枕 旅を宜しと 思ひつつ 君はあるらむと あそそには かつは知れども しかすがに 黙もえあらねば 我が背子が
行きのまにまに 追はむとは 千度思へど たわやめの 我が身にしあれば 道守が 問はむ答へを 言ひ遣らむ すべを知らにと 立ちてつまづく
全体の意味を風人が訳しても仕方がありませんので、それは皆さんにお任せして、ここでは、この旅の順路に注目したいと思います。軽の道を出発して、畝傍山を振り返り見ながら進み、紀路を南下して行くコースが詠み込まれています。そして、特別回においてはゴールになる真土山を越えて行幸が進んで行ったことが読み取れます。私たちもまた、このコースを辿りたいと思っています。
出発地点は軽の地、すなわち現在の橿原神宮前駅東口付近になります。出発すると、しばらくは民家の屋根越しになりますが、畝傍山が後方に見えています。畝傍山が見えなくなる頃、道は明日香村に入り、西飛鳥の古墳群を見ながら高取町を進んで行くことになります。高台・峰寺瓦窯という藤原宮の瓦を製造した大コンビナートに思いを馳せつつ南下を続けると、巨勢寺跡に行きつきます。
巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を 1-54
大宝元(702)年9月、持統太上天皇が紀伊行幸の時、坂門人足の詠んだ一首です。特別回の当日には、椿はどうでしょうか。計画では、椿を愛でながら昼食休憩の予定です。軽の衢からは、約9kmの地点になります。
南下を続けると、重坂峠に掛かります。現在の峠のピークで標高150mほどですが、緩やかな上りがあります。峠を越えると古代には、「宇智の大野」と呼ばれた金剛山の東麓に開けた場所に出てきます。ここは、古代には狩猟の地であったようです。
たまきはる 宇智の大野に 馬並なめて 朝踏ますらむ その草深野 1-4 中皇命
舒明天皇が狩りに出かけられた時、間人皇女がその狩りの様子に思いを馳せて飛鳥の地で詠んだ歌だとされています。
余談ですが、この宇智は別のことでも知られています。数年前までこの付近にあるJR北宇智駅は、近畿唯一のスイッチバックのある駅として知られていたのです。勾配があるために一気に登れない列車が、一旦方向を転じてジグザグに登る要領で進む方式を見ることが出来ました。現在でも、駅構内に一部ですがスイッチバック用の線路が残っています。
五條市に入ると、進行方向が変わり、西に向かって進むことになり、街並みは一変します。特に新町地区は、江戸時代の街並みが良く残っており、整備保存された町家の間を通過します。さらに進むと、しばらくは国道に沿って歩道を歩かねばなりませんが、いよいよ旅の終着地 真土山が見えてきます。参加者の皆さんは、25kmの果てに見る真土山にどのような感慨を持たれるでしょうか。
真土山は、150mほどの標高です。高低差も50mくらいなのですが、25kmを歩いた足には、やはりきつい行程になるのではないかと気がかりです。
真土山 夕越え行きて 廬前の 角太川原に ひとりかも寝む 3-298
詠み人の弁基(春日首老)は、大宝元年辛丑秋九月、太上天皇、紀伊の国に幸いでます時の歌
川のうへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は 1-56
も詠んでおり、真土山の歌も持統太上天皇の行幸の時の歌であると考えられるようです。藤原宮を出発すると、やはりこの辺りで一日の旅は区切りとなるのでしょうか。
私たちの旅も、この辺りで終了となります。今号では、万葉歌を絡めてコースの説明をしました。次回は、特別回前日となりますが、もう一つのテーマになる有間皇子についてお話したいと思います。
【2】 Vol.131(12.4.13.発行)に掲載
特別回に向けての2回目です。いよいよ、「紀路踏破-有間皇子追慕の道を行く-」が明日になりました。参加の皆さんは、メルマガを読んだら、早めに寝てくださいね。距離への不安もあるかと思いますが、まずは元気にスタート地点に立ちましょう。
さて、今回はサブタイトルにしました「有間皇子の変」について、書きたいと思っています。ロングウォーキングの出発点に橿原神宮前駅(軽の衢)を選んだのは、前号で紹介しました万葉歌があるからというだけではありません。帝塚山大学准教授の清水昭博先生の有間皇子邸は軽の地に在ったとする説を受けて、テーマを持ったウォーキングにしようと考えたからです。
ご存じのとおり有間皇子は孝徳天皇の皇子ですが、19歳の時に謀反の罪により刑死しました。蘇我赤兄の密告や皇位継承に絡んだ憶測から中大兄皇子の陰謀説が起こり、有間は悲劇の皇子として知られています。『日本書紀』斉明天皇4(658)年11月条に、一連の経緯が記されていますので、是非お読みいただければと思います。
ここでは、簡単に経過を追ってみることにします。
- 11月 3日:京の留守を預かる蘇我臣赤兄が、斉明天皇の三つの失政を有間皇子に語り、同調した皇子は武力による謀反を決意する。
- 11月 5日:皇子は赤兄の家の楼閣に登り謀議を重ねるが、皇子の脇息の足が折れたため、それを不吉として計画を延期する。しかし、その夜、赤兄は物部朴井連鮪に造宮丁を率いさせて皇子の邸宅である「市経家」を包囲させた。
- 11月 9日:有間皇子は、斉明天皇や中大兄皇子が居る紀温湯に護送され、中大兄皇子の尋問を受けた。
- 11月11日:藤白坂にて絞首された。
従来の説では、有間皇子の邸宅は、生駒市壱分に在ったとされていました。「壱分」と「市経」の地名の類似や、壱分が父孝徳天皇の難波宮と大和を繋ぐ要衝の地であることなどが根拠になっています。しかし、上記の11月5日の時間経過をみると、一日に飛鳥と生駒という直線距離で30kmも離れている両地を行き来することが可能だったのかという疑問が出てきます。有間皇子邸は、飛鳥の近辺に求める方が合理的な解釈が出来るのではないでしょうか。
生駒市壱分以外の候補地としては、高取町市尾、また桜井市阿部周辺に求める説がありますが、清水先生は父である孝徳天皇のお名前が軽皇子であることに着目され、父天皇が亡くなった時に軽の地に在った父の宮を伝領したものと考えられました。軽には「軽市」があり、「経」の字には周辺と言う意味があることから、「市経家」が軽市周辺にあったと考えられています。
風人流に考えてみました。
まず、Googleマップを使って、後飛鳥岡本宮と生駒市壱分の2点間の最短ルートを検索してみました。答えは矢田丘陵越えのコースが得られたのですが、およそ30kmになりました。矢田丘陵を迂回して平群谷を北上すると、33kmを超える値が出ます。どちらにしても、決して近い距離ではありません。徒歩による往復は、ほぼ不可能だと思われます。有間皇子が生駒市壱分⇔飛鳥間を往復した場合は60km、また飛鳥に在った別邸(仮定)から赤兄邸(飛鳥近郊と思われる。山田道沿いか?)を経て生駒市壱分に戻ると考えると30数km、鮪により、その日のうちに飛鳥に連行されたとしたら最大90km、有間が片道であった場合でも60数kmの移動距離になります。武装蜂起しようかという反逆者を捕えたのですから、仲間や支持者が襲ってこないうちに飛鳥の所定の施設に連行するのが当然だと思われますので、やはり尋常な移動距離ではなくなります。
そこで、視点を変えて古代の馬について調べてみました。古代馬は、ポニー(肩までの高さ147cm以下)に分類されるほど小型のものであったと考えられています。日本の在来馬とされる馬は、元はモンゴル高原に発するもので、中国・韓半島を経由して入って来たものだとされるようです。現在8種類の在来種が確認されていますが、平均的な体高は120~135cm程度のようです。御崎馬という宮崎県都井岬に生息する馬は、体高100~120cmに過ぎません。この小さな馬は、どれ程の走力を持っていたのでしょうか。
馬の歩様には、並足(walk)、速歩(trot)、駈足(canter)、襲歩(gallop)と呼ばれる駈け方があるようですが、およそ時速6km、12km、20km、40kmとされるようです。軍事的な資料を見てみると、行軍時の駈け方として、速歩に時折並足を混ぜたような進み方をするとのことですが、そうすると時速は10km強といったことになるのかも知れません。飛鳥⇔生駒市壱分間は約3時間かかることになり、移動だけで最大9時間を要することになります。
走行距離は、純粋な騎馬隊であるのか、歩兵が混じるのかによっても違うと思いますが、人が混じるときには40km程度が最長であるようです。時代は違いますが、豊臣秀吉の中国大返しとして有名な強行軍も40km程度だとのことですから、通常であれば30km程度が妥当な数字のように思います。
では、騎馬だけならどうでしょうか。ここで壬申の乱を思い出しました。天智10(671)年10月19日、大海人皇子は大津宮を離れ、その日の夕方に飛鳥嶋宮に到着しています。上記と同様の方法で、2点間の最短ルートを検索してみました。結果は、67.5kmになりました。ルートも検証してみましたが、古道中ツ道をなぞるような古代のルートに近いものが得られました。大海人皇子は、吉野入りを急いでいましたので、約70kmが一日の移動距離の最大値になるのではないかと考えられます。また、馬術関連のHPでは、80~90km程度ではないかと書かれているものがありましたが、古代馬のような小型のものでは、やはり割り引いて考えないといけないでしょう。
最大移動距離が約70kmとすると、飛鳥⇔生駒市壱分は騎馬のみであればぎりぎり往復は可能ということになりますが、急遽集められた造宮丁の全員が騎馬隊になるということは考えにくいと思われます。そうすると移動距離は、40km以下になると思われますので、片道が限界になるのではないではないでしょうか。
よって、これらのことを「有間皇子の変」の時間経過に当て嵌めると、市経家は生駒市壱分には在り得ないという結論になります。やはり、飛鳥近郊に求めるのが良いのではないでしょうか。考古学的な資料がありませんので断定はできませんが、清水昭博先生の説は説得力があるように思います。
では、有間皇子の護送を考えてみます。軽から紀伊水門まで、およそ80kmになりますので、1日では騎馬でもかなり無理をしなくては到着できない距離になります。紀伊水門から紀温湯までは、およそ90kmですので、これは1日では無理な数字です。また、連日の長距離走行に馬が耐えられるのかどうかも疑問ですので、乗換が必要になるでしょう。
私は乗馬の経験はないのですが、騎乗の疲れはどうなのでしょうか。6日から9日まで、4日間に最大170kmを移動するのは、かなり難しいのではないかと思われます。そこで、紀ノ川に出た時点で川船を使い、紀伊水門へと川を下った可能性があるのではないかと考えました。
また、紀伊水門から紀温湯までも船を使うと考えてみてはどうでしょうか。船の速度はよく分かりませんでしたが、飛鳥宮付近から真土山付近まで25km、川下りで55km。海に出て90kmの航海と考えれば、4日も有れば十分に到着できるのではないでしょうか。
ところで、「磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む(2-141) 」という有間皇子の歌があります。磐代は、和歌山県日高郡南部町だとされますので、この歌を紀温湯への護送の途中に詠んだとすると陸路を採ったことになり、海路説が崩れるように思えます。しかし、紀温湯での尋問の後、刑死の地である藤白坂(和歌山県海南市)までの間に詠んだ歌だと解釈すると、この問題はクリアできるのではないでしょうか。尋問の後、即日、陸路を護送されたのなら3日有りますので、1日30km弱の行軍で済みます。
以上のことから、有間皇子は5日夜に市経家(軽市付近)で捕えられ、即日、飛鳥宮付近の施設に拘束されたと考えます。6日は人馬混じった護送隊で真土山付近まで送致されたものと思われ、宿営の後、7日は川船に乗せられ紀伊水門を経て、8日に海路紀温湯に向かったのではないでしょうか。船中泊となっても、9日には到着できたものと思われます。
私たちは、この仮説にのっとり、特別回では真土山を越えて紀ノ川付近まで歩くことにしました。
真土山 夕越え行きて 廬前の 角太川原に ひとりかも寝む 3-298
この万葉歌も「角太川原」で宿営した様子が伺えますが、私たちの最終到着地点もまたJR隅田駅になります。
まとまりも無く長い咲読風飛鳥話になってしまいましたが、出発地点と最終地点を選んだのには、このような理由があったのだと伝えたかったのです。(^^ゞ
では、全員完歩を目指して出発しましょう。
当日の様子や写真は、レポート・ショートドラマ「有間と歩こう!陽春の紀路」シナリオをご覧下さい。
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