両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



特別回レポート


紀路踏破

―有間皇子追慕の道を行く―


この色の文字はリンクしています。

ショートドラマ 有間と歩こう陽春の紀路
飛鳥咲読

2012年4月14日
レポート担当:tubakiさん



 有間皇子追慕の道を行くと言う副題のついた紀路踏破。帝塚山大学の清水先生が発表された有間皇子邸宅説である、軽の市(橿原神宮東口丈六遺跡付近)を出発点とし、巨勢路を経て和歌山県紀ノ川沿いのJR隅田駅が今回の終着地。(このたびの起点終点については咲読から事務局長の深いお考えをご参照ください。)また、せっかく副題のついた旅だけに、有間皇子ごっこ劇も導入され、楽しくわくわくする旅となりました。劇の模様はシナリオオリジナルVrでゆっくり楽しんでいただくとして、ここからは旅中心のレポといたします。

 紀路はその名前の通り、大和と紀伊を結ぶ幹線道路。難波津が主要な港となるまでは、陸路だけでなく紀ノ川(吉野川)の水運を利用した、海外と繋がる歴史的に重要な「道」でもあった。大和には勿論、沿線にも人・物そして文化が行き来し、様々な影響をもたらしたはずである。その痕跡を少しでも見つけ出せたら面白い旅になる。
*「道」を歩くマニアックな魅力をより追求したい方はまず第12回定例会をのぞかれる事をお勧めします。

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 *上の写真はそう藤本山眺望。
 おそらく、第31回定例会では紀路歩きを意識して眺望された方もおられましょう。
 画面左端に、これから目指す土砂採掘された巨勢山が見えます。(ルート1は左画面半分近くの路)飛鳥学という本ではこの巨勢までを飛鳥学の範囲と定義づけています。
 模倣大文字焼きを設置すれば飛鳥から目視可能な、ある種ヒブリ山になりそうですが?

 それでは出発する事にしよう。その前に、出発に当たって、万葉集(第25回定例会参照)に礼儀を尽くすなら畝傍山を忘れては行けない・・・大阪から帰省する途中、近鉄橿原線から見える畝傍山は、車窓から見えなくなるまで見つめていたいほど、心惹かれる山。帰ってきたと感じられる山。だから畝傍山との別れの気持ちはよくわかる。はっきり見えていたら「行ってきます」と挨拶しておいただろう。

 軽を出発して間もなく、6世紀後半の前方後円墳である五条野丸山古墳周辺を通過。平城京に繋がる直線道路である下ツ道の南端だけあって、橿原神宮からは広くてまっすぐな道だった。そしてここからは少しずつ西に傾いて行く。(この下ツ道の様な正方位直線道路の作道時期を巡る話題も先の第12回定例会資料参照)

 国道169号(地図には中街道と記載)および近鉄吉野線沿いに進むと岡寺駅前の牟佐坐神社の鳥居が見てくる。岡寺の手前から現れた高取川が付きつ離れつ流れている。この川、源流を現檜前辺りに発し、畝傍山の西側を流れ、曽我川、大和川本流に流れ難波に至る。古代軽地域もまた、水陸両用の起点といえる。


古道概略図

 しっとりとした雨の中、4月の桜が鳥居に映えてとても綺麗だった。一向に止まない小雨に「まだ止まないね~」と合い言葉の様に呟きあう参加者。うんざりしながらも、程なく、欽明天皇陵周辺を通過すると見慣れた飛鳥駅。今回はあっさり通過。
 飛鳥駅近くにあるペンション横の小川沿いにある小道の桜並木に癒されていた。このあたりまでは叙情たっぷりの紀路であった。国道を離れ、飛鳥駅すぐ近く、小川沿いの小道から、いよいよ明日香村の真弓丘陵の裾沿いを高取町森にむかって歩いて行く。第26回定例会で歩いた西飛鳥古墳ツアー再びである。


紀路:出口山古墳・森カシ谷遺跡へ              右に行けばここからも束明神古墳へ 

 あのときは、岩屋山古墳から始まり、おかしなほど、これでもかと言うくらいの古墳を訪れた。まさに、マニアックな両槻会ならではの企画。

 残念ながら、初めての長距離散策のうえ、最後の方は熱中症すれすれの状態で覚えてない古墳もあったが、佐田のバラ園をみて、朧げながら(おい!)記憶がよみがえってきた。本当にあんなに詳しく資料もあったのに、「結構忘れてルネ~」と何方かには聞こえない様にお隣さんと呟きあっていた(謝)。でも、出口山古墳から紀路に合流した事はさすがによく記憶していた。特別回で通過したのはその出口山古墳と森カシ谷遺跡。


 紀路(巨勢斜向道路:巨勢路)は沿線の古墳分布から、成立は古墳時代後期以前と考えられており、路線は基本的には自然地形に合わせてあり、既存の道路を整備したといわれている。特に、明日香村から高取町にかけては、この道路を見下ろす丘陵地に、第28回定例会で遠望した檜前遺跡群や今回訪れた森カシ谷遺跡・出口山古墳の様な遺跡が点在している。このような遺跡は元々自然発生的にあった「道」や駅制の成立に伴い、南海道の一区間として幹線道路にふさわしく整備された後、その紀路の管理のために利用された遺跡であったのではと言われている。

 * 紀路って鄙びた道幅も小さい古道というイメージを抱きがち?紀伊水門から繋がるれっきとした主要幹線道路として実際には計画的に整備された場所もある道だったのですね。

森カシ谷遺跡 森カシ谷遺跡西側の紀路(飛鳥方向)

 今回みた、出口山古墳や森カシ谷遺跡などは確かに紀路を見下ろしていた。森カシ谷遺跡は鉄塔さえ建っており、茶色い地肌とともにより意味ありげな様相を呈していた。


 佐田の辺りは、高野街道、伊勢街道への分岐点でもあり、この辺りから葛城山麓や巨勢山が見え始め、開けた、かなり!眺望の良い処です。

 近くには束明神古墳があり『続日本紀』には天平神護元年(765)称徳天皇が紀伊国行幸時、「檀の山陵を過ぎ給ふ時、陪従の百官に詔して悉に下馬さしめ、儀衛其の旗織を巻く、・・・」とあり馬を下りて遙拝(ようはい)したと記しています。


 そして、佐田の民家を通り抜け、古代の池や木樋が見つかった薩摩遺跡のある国道169号線高取バイパス付近を見学。


 この辺りもかなり広々としてますが、ここが紀路だよと、ひっそり無言の道標兼お地蔵様がいらっしゃいます。


 このあと、有間皇子の邸宅跡候補地のひとつでもある、「市尾」へと向かった。

*「市尾説」は残念ながら、飛鳥近郊ではあっても、飛鳥時代の遺跡が少なくその点で有間皇子邸宅説としては根拠が弱いんだそうです。ナルホド。


 市尾墓山古墳は葛城、飛鳥、巨勢を結ぶ県道133・35・120号線が交わる三角形の中にある様に見える。何処から見てもわかる様に誇示して作られた古墳というだけある。今でもちょっとユーモラスな、ランドマーク的存在。ここに来るとちょっと気持ちが大きくなる。事に巨勢谷から歩いてきた旅人は「お~」と叫んだに違いない。そんな声を上げさせたいと願った被葬者はこれから訪れる巨勢寺を建立したとされる巨勢氏の首長だといわれている。 詳細は勿論第26回定例会で。

 市尾にあるもう一つの古墳である市尾宮塚古墳はスルーして、高台・峰寺瓦窯跡へ向かう。

 藤原宮に供給するため意外に早くから計画的に作られた大規模な造瓦工場であったらしい。

 現在の地図を見ても、紀路や葛城からの利便性を考え、また曽我川の水運も利用したのではと想像できるほど、うまいところに遺跡はある。

 奇しくもこの辺り、県道120号線と近鉄線が寄り添っている。
 自然発生的に作られた紀路は現代の鉄道網と大方一致しているのではないかと、より思える場所である。
 この周辺、(薩摩遺跡周辺)は急に開けた印象であり、市尾-葛間の道幅もここだけ何故か広いと以前から思っていた。狭い道が続く中で、車を気持ちよく走らせることのできるほっとする場所だった。思えばあちこちから集まってくる物資運搬に対応するよう、道幅もより整備されてた跡かな?「紀路の名残として、これくらい広かったのかな~」と妄想するのも楽しい。

* 余談ですが、この区間は近鉄電車もすっ飛ばすくらいに直線路です。葛駅を出てすぐ加速走行にはいりますが、高台・峰寺瓦窯跡あたりから減速、市尾墓山古墳前で鑑賞せよと言わんばかりにゆっくりと通過、滑る様に市尾駅へ入ります。そして次の壺阪山駅間までは広々した薩摩遺跡をみるなどして、しばし車窓からも紀路を楽しめます。



 さて、近鉄葛駅周辺の戸毛へとやってきた。この辺りから川沿いに歩くことになるが、どなたかに「これは何川?」と質問された。「そう、曽我川ですよ。」と答えた。眼前の川は水運には無縁な様相に、チトがっかりされたのではと変な気遣いをしたりしながら・・・


巨勢寺跡の近くにある阿吽寺の椿道

         犬養先生の揮毫記念碑
 その昔、御所では「御所流れ」と言う、大洪水を起こした川でもあり、これから訪れる古瀬も別の時期ではあろうが洪水被害にあっている。
 巨勢寺の子院であった阿吽寺の縁起にはそのことが伝えられており、それなりの川ではあったようだ。治水も道の管理には大切な事。紀路沿いにはそこそこに歴史があるに違いない。

 戸毛は越智氏(第20回定例会参照)と関係が深かったようであるが、この町並みは江戸時代に和歌山藩が江戸への道路開設を行ったときから移ってきた人の町で、道が町村をつくったと言えるところ。紀路は江戸時代にも整備され続けていた。

*そうそう、この地のさる医院の先祖は駕篭で嫁にきた。紀路のお姫様みたいなその人は女医になり、かの天誅組「吉村なにがし」の手当をしたと言うことで有名になりました。その大名駕篭のようなものが玄関に威厳たっぷりにおかれています。広い玄関にもびっくりな戸毛の名家です。


『葛駅』の由来となった?『葛村』と言う名前

奈良で育ったあの「さんまさん」は、『葛(クズ)なる変な名前の駅がありまんねん』とよくネタに使ってた。それは偶然にも歴史的由来に基づく見識あるネタだった?のです。実はこの村「葛城村」としたかったのに、グズグズしているうちに、西隣の村に同じ名前をとられてしまい仕方なく『葛村』にしたらしいのです。別に葛の産地とか、吉野の国巣に縁故ある訳ではなかったのでした。
  ちと間抜けな誕生秘話でんな〜!


 ほどなく、古瀬に入り、巨勢寺へと向かう。
 ここはJR和歌山線と近鉄吉野線にはさまれた特異な地形にあるため、とってもデンジャラス!くれぐれもご注意を。



 ここは本当に狭小な谷間の集落である。故にこの巨勢寺の伽藍は塔の北東に講堂・東南に中門を配する変則法隆寺式と言われている。巨勢寺の礎石は今もこれから訪れる正福寺に29個あり、本堂などの基礎に転用されている。

 巨勢寺の話題と言えば、やはり瓦。交通の要衝に陣取っていた地方豪族の巨勢氏。7世紀前半には前身の寺の存在を思わせる飛鳥時代の瓦から、高台・峰寺瓦窯から運ばれたと推測される藤原京式瓦も出土。有名な巨勢寺式瓦はこの藤原京式瓦の影響を受けていると考えられ、真土山以南、同じ紀路沿いの佐野廃寺(さやはいじ)と三栖廃寺(みすはいじ)でも見つかっている。いずれも紀路沿いの寺として、行幸時の宿舎提供へのご褒美?の証が瓦の存在から推測されるそうである。これも対外対策の一環として、紀路沿いの重要な場所に身内氏族の寺院をおき、官主導で援助と称した管理をしていたのであろう。その寺院に乗っかる瓦。その意味ではもの言わぬ勢力分布図そのもの。(今更ですが)

*道と言う視点から主要な「道」の成立時期を考えるには、飛鳥全域の古代寺院の分布や属性、成立時期を調べる事でいろいろな推測ができるようです。いつかは詳しくお勉強しないとね。瓦と道をセットで見る事も時に大切な様に思えてきました。

 紀路に関していえば、ここを訪れる人たちには狭い土地にある大きな瓦葺きの建物や塔はどの様に映ったのであろうか?巨勢寺の縁を求めて続・紀路踏破あるといいな・・
 その他、特異な瓦として、表面に単弁八葉の蓮華文の陰刻された面戸瓦がる。面戸瓦まで意匠化したこだわりの巨勢寺。

「和州葛上郡古瀬村玉椿山図」正福寺蔵
(許可を得て掲載しています。転写禁)

 *ちなみに有間皇子のお墓候補である御坊市の岩内1号墳で見つかった六花文の金具は、この古瀬の地にある水泥南古墳石棺の飾りにも採用されており、また、新羅の武寧王陵の壁塼にも使用が確認されているとか。 ちと、おもしろい。

 雨天のため、巨勢寺の子院といわれている正福寺で昼食。しばし、冷えた体を癒した後に、ゴッコ劇の幕が楽しく開きスタート地点と巨勢寺跡で予定していた二幕を無事に終えると例の人徳パワーが復帰したのかやっとこさ雨があがった。大方の参加者の脚は雨でグチョグチョになっていたが、歩く事に専念できるようになり、にこやかに出発。「正福寺さんありがとう」と住職そして阿弥陀仏にも感謝。
 つらつらと紀路の旅は続くのであった。



 吉野口駅を通過、北今木川が曽我川と合流する奉膳(ぶんぜ)には重要な分岐点を彷彿とさせる笠つきの道標がある。このような道標は大抵は江戸時代のものか?
 吉野口一帯がプチ「ちまた」。左に行けば今木を経て吉野大峰山へ。(ここにも今木と言う地名があります。)右に行けば五条を経て高野山へ。古代より、時に左へ時に右へと歴代の天皇もお通りになった?と思われる分岐点だ。

 巨勢路は、古代より大人数での行幸に歩きやすい路として紀州へ吉野へとまさしくルチーンな王道として近年の鉄道発達まで続いていたのであろう。

*ちなみに、この辺り、紀路沿いにある道標は、飛鳥駅前、高取町森の分岐点、葛駅周辺今中央札の辻、三在分岐点にあるようです。地図やナビが無い時代の大切な道しるべです。


『吉野口駅前』物流悲話にみる歴史の記憶〜

明治29年(1896年)に南和鉄道が開通、吉野口駅は交通上自然的社会的条件に恵まれ、大阪・奈良盆地方面と吉野方面を結ぶ重要な物流の起点終点駅として繁栄を極めました。吉野方面へは馬車や人力車を使ったようで、人力車では平素の30台が花見時には300台にも達したようです。さらに、鉄道建設工事の際温泉も湧き出し、葛温泉と言う旅館もできました。そんな駅前繁盛記も大正元年(1912年)吉野口駅から現六田駅間を吉野軽便鉄道が開設してからは単なる通過駅となり衰退。考えてみれば、交通の要衝として栄え、衰退した古代巨勢氏。この地の持つ宿命の記憶として重なって見えるのは、地元民の感傷でしょうか?



 奉膳をすぎて近鉄吉野線とJR和歌山線がそれぞれの目的地に向かって離れていく分岐点でもある薬水駅周辺。橿原神宮駅から連れ添った近鉄線に別れを告げ、ここからはJR線が旅の友となる。



そして、例の『薬水駅』


確かに、実物は妄想するには十分に立派な石垣。
こちら、事の顛末含め興味ある方は某ブログをご参照ください。(笑)


 そして向かうは紀路の第一の関門、標高約150mの重坂(へいさか)峠。(旧重阪峠はここから南で、現峠は明治から整備された。)

 ここではいつもの方々にかわって、女性先頭集団が誕生。わいわい言いながら、おそらく時速5km以上で歩いた?あまりの早さに事務局長からストップがかかるほど!後方の皆さんに謝。遮るものがない空間を、先頭で風を切って歩くこの爽快感!とにかく速く歩ける!今回の紀路歩きの極意を集約するような体験をし「歩きに自信のない方は先頭を。」の意味を真に理解したのであった。(遅いやん!)次回はみんな先頭を歩こう!


 そして、「テクノパーク」と表示のある峠の頂上に到着。ここで一息つき、皆さん完全に雨具を収納するに至り、Mさん恒例、巻物地図もヤット本格始動。(笑)この峠を越え御所市(ごせし)から南下した国道24号線と合流、五条方面に向かう事になるが、この合流地点は三在とも呼ばれ伊勢街道への分岐点。勿論あの道標のあるところ。右は葛城金剛山エリア、左は西吉野の柿葉広がる丘陵地を臨む眺望の良い風景。「好みです。」(咲読でも「宇智の大野」と呼ばれた古代の狩猟地だったとありましたね。)絶好のロケーションであったに違いない。とにかく狭小の巨勢谷、から重阪峠をこえた先に広がる光景はまるで別世界だったかもしれない。反対から来ると、巨勢はなんと狭いところかと驚いた事だろう。

 JR北宇智から五条までの車窓から見える光景も同様。谷間を抜け、いきなり広がる光景にはカルチャーショックさえ受ける。
 ちなみに右に行けば五条バウム(博物館)左に行けば柿博物館と言う特化した箱モノもある。個人的には五条バウムから眺める西吉野の新緑はいつかまじめに撮りたい光景。皆さんこれから山麓線は特に良いですよ。

 いよいよ、20km地点の体力の限界地点?リタイヤと言う最悪のシナリオへと突入するのか?と予想していた運命の五条駅目指して、旅は続く。
 とは言うものの、心配していた重阪峠越えもわいわい言いながら無事クリアして、反対に益々調子づいている自分にまだ行けるかもと感じていた。が、実際、隊列が開きだしたりしていたので、疲れが出始めた方もおられたのであろう。しかも雨が上がったのは良いが、時折、汗ばむようなお天気にもなり、それはそれで、心配でもあった。(勝手なもんです・・・)

 三在辺りからは地元Pさんの案内などで民家の様なところをチョコチョコ歩いたので、道はさっぱり記憶に無く、けれど味のある道標があったりして面白かった。そして、国道24号線の大和街道を歩いて、休憩予定にあった『カフェド・マンマ』の前にやってきた。ちょっと良さげな茶店。「休んで行きましょう」・「このまま歩きます」と無情にも通過したのであった。

 全員リタイアする事なく問題の五条駅付近を通過し、国道24号線本陣交差点の笠つき道標も経由していよいよ初めての五條新町入り、まちなみ伝承館の休憩地点へ到着。


五條新町通り

 古い歴史的景観漂う町並み、よくポスターに登場する和菓子屋さんの大きな看板。


 そして何といっても伝承館裏の雄大な川。この水運が様々な物や人を運び、この町を発展させ、様々な文化が大和に世界に広がって行ったのだと思うと感慨深い。
 昔、河上邦彦先生はゴムボートで宮滝から紀ノ川河口まで行かれたらしい。河口から橋本・五条までは大船で行けそうな印象だが、其処から上流は川幅が狭くなり、ゴムボートが転覆したくらい流れが急であったとか。紀路を行き来する物資により、乗り物や陸路・川路などのルートが選択され、それに応じて、ここ五条の様な周辺の町は相応の発展をしてきたのであろう。いずれにせよ、この川を見る事は紀路を歩く一番の醍醐味と言えそうだ。(しかし五条も、時代とともに忘れられていく運命を辿ってきたが、京奈和自動車道の開通で新たな流通の可能性が期待されている。時に道は人を翻弄させるものでもある。)

 ちなみにこの川、奈良県側は吉野川、和歌山側は紀ノ川と名前も県境から呼称変更するらしい。山間部の行進の後で観る光景は、やっぱり清々しく大きかった。心もゆったりする感じ。ここから川路をとってみたくなる。皆さんはこの光景に何を感じておられたのでしょうか? 


吉野川

*今回、咲読では有間皇子の変に関わる事実確認を馬と言う観点から推測し、隅田からの川路をとる事になりました。こちらはkmで盛り上がっていましたね。実は1961年~1962年あたりの某所、某紙面で同様の盛り上がりがあったのでした。

 発端は橿原考古学研究所会合の席上、「壬申の乱」の作者である、直木先生の一言から始まりました。

直木先生: 大和、美濃を一昼夜に30里の行程は可能かな?不可能だよな~?
末永先生: う〜ん。人馬一体として馬に乗れたら、たいしたことないけどな~。若い時は我が家のある狭山から堺まで1時間大阪へは2時間、奈良の博物館へもそれくらいで通ってたし・・騎兵隊の友人は真田山から家まで50分できた奴もいた。馬って便利だ。大学に買ってもらって、考古学の古墳の調査使いたいくらい便利なんだよな~。

 てなことから、他に同席しておられた薗田先生も加わり古代の馬の速度・騎兵隊にまで話題が盛り上がり、ついには某紙面にも発表されるまでにいたっています。馬と共存?していた時代ならではでしょうが同じ様な事をやってはりました。検証と思考の行程もよく似ていて余計におもしろい! これから本当に末永
Fさんと呼びましょうか?

 さて、川風に吹かれてリフレッシュした後、最後の難関に向かってまた歩き始めたが、やはり20kmと言う地点。この頃から実際やや疲れや故障を抱える参加者もおられたであろう。(私も体調は問題ありませんでしたが、両足の小ゆびに水泡ができ始めていました。)無言のエールを送りながらなんとか全員でと言う想いで、皆一丸となって歩いていたように思う。いつも通りのスタッフさんの後方支援はありがたい。

 新町通りを後に、歩いて行くと、アーチ橋と直線的な橋の不思議な組み合わせの建造物が見えた。噂に聞く五新鉄道の遺構。この下を流れる川は金剛山からくる寿命川と言うのだそうだ。

 そして最後のリタイヤ可能な、二見駅前もなんと全員で通過!「もう行くしかありませんよ。」と言う事務局長の最後通告。21.4km地点。隊列も長く短く変形しながらも行進は遥か先の真土山に向かって続く。国道24号線(大和街道)の左手に広がる丘陵地を見ながら、またまたおしゃべりでひたすら歩くうち、意外と早く真土山の登山道?へ到着。短距離ながらも標高約150m・高低差50mと言う最後の難関、真土山を登り始めた。山をと言うよりラジウム温泉ホテルの看板を目指したって感じの登山?であったが、事前の予想とは別に、やっぱりおしゃべりしているうちに征服できた!すぐあと、江戸時代の関所?だったかもと言う赤井氏城館跡に立寄りやっとそこで小休憩。その横には、養蜂の巣箱があり、もうすぐ終わる旅を思うせいか、なぜかほのぼのするのだった。


 この後、ちょっとした、農道のようなところを下り(一人では迷いそうな道、よくぞ連れて行って頂きました)川のせせらぎが聞こえ始めたるその先に、目指す石が!「お〜ここですか!」奈良と和歌山の県境でもあると言う、飛び越え石か!・・と感慨に浸る間もなく順番に飛び越えよとの指令。一瞬緊張が走るが、水量もほどほどで、奈良県側からまたぐ先の石には脚をおく丁度よい凹みもあり、失敗せずに無事全員突破し紀伊の国にワープしたのであった。「私信:Yさんの絶妙のシャッターチャンスに感謝。なんか飛び出し注意の子供の看板みたいです。」(笑)


飛び越え石

 この小渓谷を登った先には、一面に広がる菜の花畑。
  「さっきのミツバチはここからも蜜を運んでたのね。」
 しかも水滴がお日様にキラキラ光ってとっても奇麗。がんばって雨の中を歩いたご褒美がしっかり用意されていた。皆さん、達成感を感じながら写真に興じる癒しのひとときであった。


(最後に撮った数少ないレアフォト)

 そして迎えた現代アート?真っ盛りのJR隅田(すだ)駅での本当のフィナーレ。
少数の隅田住民さんの怪訝な眼差しにはおかまいなく、到着を待ちかねていた、斉明天皇ご一行様による、ゴールの駅を法廷にした模擬尋問と処刑を予定通り済ませたのであった。


隅田駅舎の現代アート?

*それにしても、戸惑いがちに始めたこの寸劇。千秋楽らしく、皆さんアドリブ連発、力の入った台詞まわしに、今回の旅の充実ぶりが伺えたのであった。そして、それを一番感じていたのは他ならぬ斉明天皇ではなかったのでは?Mさんのお帰りなさい記念に、風人さんの特別な記念にと、見事紀路踏破したみんなにとっても記念すべき旅であった。

全員紀路踏破に祝と感謝
 みなさん本当にいろいろお疲れさまでした。


オホホホホ…  オホホホホ…  オホホホホ…

おわり




追記
 さてこのように無事に超えた真土山でありましたが、何かすっきりしない思いがこの山に残ってました。真土山については、万葉集でも数首詠まれています。「真土山はまさにやまとびとが憧れる南国紀伊の国への入り口であった」と解説本にも書いてあります。単にそう言う感傷的な山?私が抱く畝傍山への気持ちと同じ?隅田駅から、あれが真土山と教えられたその姿は、なんか飛鳥にあるこんもりとした山のような小さなイメージでしかありませんでした。


 そんな事を何げに思いながら、両槻会から発信されたグーグルの航空写真ルートを眺めていて、気がつきました。(いまさらやろ~遅いよ~ですが)

 紀ノ川河口から水路と陸路が並走していた「道」は、真土山を起点にそれぞれが徐々に別れて行く様にみえます。陸路について改めて地図を平面で見ると、橋本、五条あたりから御所市に抜ける空間は広くみえ、自然に人が行き来し易い葛上斜向道路が誕生したと思えます。この地域が早くから海外と交易を持つことが出来、実力をつけてきたのではと理解できます。それに比べ巨勢路は山越えのイメージがあり、主要道路の裏街道のような印象です。けれど実際、立体的に考えると巨勢路に影響する竜門山塊の山々は次第に西へ低くなりますが、一方の西方、金剛山脈は南へ次第に高さを増しながら金剛山が聳えるに至りますので、葛上斜向道路の方が歩くには険しそうです。飛鳥中心の時代になって以降は「早く」、「歩きやすい道を」と言う点では当然、巨勢路を整備した方が有益で、この道の重要性が再認識できます。

 さて、葛上(かつじょう)斜向道路と紀路の交わる地域は何処なのでしょうか?資料によると、大和二見周辺に見え、五条や二見は実際に開けていた歴史的な場所ですからその辺りで妥当でしょう。でも地図を見ていると現在の国道24号線(下街道、五条街道)は真土山を起点にしている様に見えます。紀ノ川もここから吉野方面に向かって蛇行している様に思います。さらに地図上で周囲を見ると真土山のようなこんもりした印象的な山はこの紀ノ川沿いには背の山以外には無く、紀ノ水門から遡上してやはり眼につく山であり、併行していた陸と川が離れて行く起点が国境でもある真土山に見えるように感じます。ここから川は蛇行を増して行くので、ここから積み荷を降ろして陸路に変更することもあったのではとも思います。また、反対方面から考えるとここから合流して紀ノ水門に向かうと言う点では要衝のような意味を持つと言えたのでは無かったのでしょうか?そしてさらに眼を転じてみると隅田八幡鏡で有名な隅田八幡神社があったり、下兵庫.上兵庫、火打町と言う名前も見えます。妄想を誘う黒駒や犬飼、牧と言うような地名もあります。(実際に黒駒遺跡があるようですが、目立った物は出ていないようですけど。)また、狭い地域に真土山を囲む様に現代の寺が多く存在しています。遥か古い時代の隠された歴史がこの隅田にあるのではと言う妄想がひろがっていき、ここでようやく真土山への理解が深まったのでした。ちなみに真土山は奈良県なんですね。

 江戸時代の関所?もあるくらいですから、本当に山の上に紀路があったかも知れないし、紀路本来の姿として迂回するJR路線が紀路だったかも知れません。詳しい道の探索は専門家におまかせ致しましょう。

 この辺りに有名な古代寺院の存在は無かった様に思います。
 飛鳥からの行幸時、ここから川路をとらないとすればやはり佐野廃寺まで頑張ったんでしょうか?大和発9時15分と言うことはないでしょうから、夜明け前にでればかろうじてと言うところでしょうか?

 いずれにしても、大和からの旅としてこの真土山は一つの区切りにはちがいなく、それを確認してやっと両槻会の長い紀路の旅を終える事が出来たのでした。

レポート担当:tubakiさん

*画像は、事務局が数点追加しています。
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