両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


【問81〜問100】

問1〜20 問21〜40 問41〜60 問61〜80 問81〜100 飛鳥概略図 解答一覧

解説ページ中の「緑色の文字」は、参考ページにリンクしています。
解説ページ中の
「赤色の文字 」は、正解を表します。



問81   隆盛を誇った蘇我一族も、ついに645年飛鳥板蓋宮にて入鹿が殺害されます。乙巳の変です。入鹿が殺害されたと聞いて、東漢をはじめ蘇我の遺臣達が立ち上がろうとします。中大兄皇子は、蘇我氏と密接な関係を持ち、山背大兄皇子討伐の時も指揮を執ったある人物を説得に向かわせ、彼等の蜂起を断念させています。さてその人物とは次の誰でしょうか。

      1:中臣鎌足   2:阿倍内麻呂  3:巨勢徳陀   4:佐伯子麻呂


飛鳥京遠望

 問題に「山背大兄王討伐に指揮を執った」とあることから、巨勢徳陀と分かります。巨勢徳陀は蘇我氏とは仲が良かったようですが、常にある程度距離を置いていたようです。入鹿が亡くなったことを知ると、すぐさま中大兄皇子に恭順の意を表します。それを買われて蘇我遺臣たちの説得に当たらされたと思われます。
 巨勢徳陀は、この功で阿倍内麻呂亡き後の左大臣の位に付くこととなります。

 中臣鎌足は、事件の張本人で入鹿とは学友ではあったでしょうが、蘇我氏に付く東漢等を説得できる立場にはありません。
 阿倍内麻呂は、娘の小足媛を孝徳天皇の妃として入れ、有間皇子を生んでいることから、大化の改新で左大臣に抜擢された重臣です。彼も、入鹿の父・蝦夷と協議して舒明天皇を推挙した経緯がありますが、今回の役には選ばれませんでした。
 佐伯子麻呂は、乙巳の変の際には刀で先に入鹿を切りつける役を仰せつかった人物ですが、いざ実行の時に怖気付いて身動きできなかったとされ、これを見た中大兄皇子が先に入鹿に切り掛かったとされています。




問82   乙巳の変で蘇我本宗家を滅ぼした中大兄皇子らは、孝徳天皇をして646年新たな政治の方針を打ち出します。改新の詔と呼ばれるもので、その中の第2条に政治の中枢となる首都、畿内、国、郡といった境界を画定しています。それでは、畿内の北の境界とした「近江の狭狭波の合坂山」とは現在次のどの地域のことでしょうか。

      1:大津    2:草津    3:近江八幡    4:米原

 改新の詔には、「およそ畿内とは、東は名墾(名張)の横河より以来(こちら側)、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石(明石)の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山(逢坂山)より以来を、畿内国とす」とあり、現在の大津市にあります。また逢坂山は、蝉丸の歌でも「これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも相坂の関」として有名で東海道とその支流が出合う交通の要所であったことが分かります。




問83   660年、中大兄皇子はそれまで習慣や経験によって決められていた「時刻」というものを、時計を作ることによってより細かく管理する事が出来るようにしました。さて、この中大兄皇子の作った時計は、一般に「ろう刻」と呼ばれていますが、では「ろう刻」とは次のうちどのような時計だったのでしょうか。

      1:火時計   2:日時計   3:砂時計   4:水時計

 「ろう刻」は「漏刻」と書いて水時計を指します。サイホンの原理を使ったもので、当時としてはかなり大掛かりな施設であったと思われます。律令制下においては、陰陽寮に2人の漏刻博士を置き、その下で20人もの時守と呼ばれる役夫が、時を2時間おきに鐘や鼓などで知らせたことが伝わっています。

 今のようにどこを見ても時刻の分かる時代ではなく、この時刻を管理できることが天子の条件でもあったようです。
中大兄皇子の作った漏刻の模型は飛鳥資料館にありますので機会があれば是非見てみて下さい。また遺跡は水落遺跡がこの漏刻のあったところではないかとされています。

(参考資料:漏刻に関する記述
(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 漏刻の不思議




問84   672年、壬申の乱に勝利した大海人皇子(天武天皇)は、その戦いに当たって必勝祈願をし、大願成就した伊勢神宮を顕彰し、それまで途絶えていた斎王制度を復活制度化させます。さて、この制度化された中で、最初に選ばれた斎王とは次の誰でしょうか。

      1:田形皇女   2:大伯皇女  3:十市皇女  4:泊瀬部皇女

 斎王とは皇族の未婚の女性で、神祇官の卜定、天皇の勅定と云う儀式を経て定められ、伊勢の斎宮に天皇の代わりに天照大神に仕える役目をします。この制度は大伯皇女以前にもあったとされますが、制度化されたのは大伯皇女が最初だといわれ、後醍醐天皇で廃止されるまでの660年間に60人以上もの斎王を出すこととなります。

 斎宮跡は、現在近鉄山田線の斎宮駅傍にあって昭和45年より本格的に発掘整備され、斎宮歴史博物館も建設されていて当時の生活振りを偲ぶことができます。斎王は毎日伊勢神宮に参拝するのではなく、年に3回6月9月12月にそれぞれ1回参拝し、それ以外の日は歌を詠んだり絵合わせをしたりして、かなり優雅な生活を送っていたと思われています。

(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 斎王と斎宮と斎宮制度
(参考:斎宮歴史博物館




問85   日本書紀朱鳥元年(686)の記事に、天皇の病を占うと何かが祟っているという結果が出ます。その対策として、即日に尾張国の熱田社に送られた物とは何でしょうか。

      1:八咫鏡   2:草薙の剣   3:八坂瓊曲玉   4:八雲琴

 ヤマタノオロチの尻尾から取り出された「天叢雲の剣」は、東征の際日本武尊が草を薙いで火攻めから逃れた事から「草薙の剣」と呼ばれるようになります。剣を宮簀媛の手許へ留め置いたまま日本武尊が亡くなると、媛は剣を熱田の地にお祀りになりました。

 日本書紀の天智7年(668)に、「沙門道行が草薙の剣を盗み新羅へ逃げたが、途中風雨に遭い道に迷いまた戻った」という記事があり、また「法海寺略由緒」には、「昔、新羅の明信王の子・道行が父の命を受け渡来し、熱田の宝剣を盗もうとしたが、露顕して星崎の浦の土牢に捕らえられた」とあります。後に道行が赦免され法海寺を開いたとされますが、神宝を盗んだのに赦免が早すぎる点などから、天智天皇が草薙の剣を尾張の熱田の地から取り返す為、道行を使ったのではないかとも考えられています。
 
 これらのことは、天智7年(668)〜朱鳥元年(686)の間、草薙の剣は熱田神宮へ戻されず、宮中に置かれていたことを示しているように思われます。
 草薙の剣が、本来あるべき場所ではない朝廷内に長く留め置かれたことが、天武の病の原因と考えられたのでしょう。(参考:飛鳥遊訪文庫 草薙剣盗難事件

 1と3は草薙の剣と共に三種の神器といわれています。1は「皇太神宮儀式帳」「延喜式」「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」や、卜部兼方の「釈日本紀」で大きさなどが検討されています。
 3は、垂仁天皇の時代に丹波国桑田村の足住(あゆき)という名の犬が山の獣を食い殺した際、腹にあったと日本書紀の記事にあります。
 4の八雲琴に関しましては、問67で詳しく説明しておりますのでご覧下さい。




問86   遣隋使の小野妹子は、隋では何と呼ばれていたでしょうか。

      1:吾子籠   2:比羅夫   3:金春秋   4:蘇因高

 日本書紀に、「推古15年(607)秋7月3日、大礼小野臣妹子を大唐(隋)に遣わされた。‥‥中略‥‥16年(608)夏4月、小野妹子は大唐から帰朝した。大唐の国では妹子臣を名づけて、蘇因高とよんだ。(妹=因・子=高)」という記事があります。
大唐の使人裴世清と下客(しもべ)12人が妹子に従って筑紫に到着し、難波で滞在した後、8月3日に海石榴市で飾馬75匹をもって額田部連比羅夫に迎えられています。この後「阿倍・山田道」を通り小墾田宮へ向かったと考えられます。(この海石榴市、阿倍・山田道に関しましては、『飛鳥遊訪マガジン』に寄稿して下さった近江俊秀先生の「飛鳥のみち 飛鳥へのみち」をご参照下さい。)
 12日には客を朝廷に召して、使いの旨を述べさせています。唐の国の進物を庭上に置き、隋の使者裴世清は自ら書を持ち、二度再拝して使いの旨を言上しますが、その書には「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れて、よく意を伝えてくれた。‥‥中略‥‥鴻臚寺の掌客(外国使臣の接待役)裴世清を遣わして送使の意を述べ‥」とありました。
 また、9月の裴世清らの帰国の際に、再び妹子は大使として随行しますが、その時天皇が唐(隋)の君(煬帝)を訪って述べられた中に「大礼蘇因高・大礼雄成らを使いに遣わします」という一文があったと記されてあります。(『隋書』の「倭国伝」には、残念ながらその時の遣隋使の名前は記されてありません。)

 1の倭直吾子籠は、日本書紀において、仁徳天皇から允恭天皇の記事に度々登場する人物です。
 2の比羅夫という名は、裴世清を迎えた額田部連比羅夫や、孝徳3年に誤った工事をした工人の大山位倭漢直荒田井比羅夫、斉明4年に船軍百八十艘を率いて蝦夷を討った阿陪臣 (安倍比羅夫)の記事など、数名の名前で見られます。
 3の金春秋は、後の新羅の武烈王と呼ばれた人で、日本にも人質として来ていた事もあります。唐の蘇定方と百済を滅ぼしています。




問87   日本書紀推古20年の記事に、百済人の味摩之が帰化し、呉で学んだ技能を少年達に習わせたとありますが、その技能とはなんでしょうか。

      1:相撲    2:仏教    3:伎楽舞    4:機織

 「呉楽」ともいわれ呉の国に由来する楽舞です。大きな仮面を付け台詞のない寸劇を演じ、音楽と共に野外を練り歩くという仏教儀式です。
朱鳥元年には新羅の客らの為に川原寺の伎楽(舞人・楽人・衣装など)を筑紫に運んだという記事も見られ、国の保護もあり7・8世紀に盛んに行われましたが、次第に衰え廃絶してしまいます。
 東京国立博物館の法隆寺献納宝物には7世紀に作られたと思われるクスノキ製の面が現存しており、正倉院や東大寺にも8世紀の面が多く残っています。
2007年には、正倉院宝物の「獅子面」の複製品が完成しています。


土舞台顕彰碑
 日本書紀によれば、推古20年(612)、百済から帰化した味摩之を桜井に住まわせ少年を集めて伎楽を習わせました。現在、桜井市谷の丘の上に「土舞台(桜井の地)」として顕彰碑が立っています。「大和名所図絵」などもこの場所を桜井として掲載していますが、別の説も有力です。

 敏達11年(582)、向原殿の寺を桜井道場とし、翌12年(583)に司馬達等の娘・善信尼と他2人を桜井道場に住まわせます。また、この3人の尼僧は崇峻元年(588)百済に留学し、崇峻3年(590)に帰国後、前のように桜井寺(桜井道場)の住持となります。推古元年(593)には豊浦宮を寺とし桜井寺の機能を移すことになり、豊浦寺の歴史が始まりますが、この「桜井」が地名から付けられたのであれば、豊浦付近に「味摩之を住まわせた桜井」があった可能性も充分に考えられます。

 1の相撲は、垂仁7年に当麻蹶速に出雲の野見宿禰を取り組ませたという記事がありますが、この時蹶速は、あばら骨を踏み砕かれ殺されています。
2の仏教は、百済の聖明王より釈迦仏の金銅像・経論などが贈られたと、日本書紀の欽明13年(552)にあります。しかし年代に関しては、「元興寺縁起」や「上宮聖徳法王帝説」では538年と食い違いが見られます。
 4の機織に関しては、応神14年に百済王が縫衣工女を奉ったという記事と、同37年、縫工女の求めに応じ、呉王は縫女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の4人を与えたという記事が見られます。

(参考資料:伎楽について
(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 伎楽について




問88   658年、謀反の罪で絞首刑を賜ったとされる悲劇の皇子の辞世の歌とされるのは、次のうちのどれでしょうか。

      1:天飛ぶや鳥にもがもや都まで送りまをして飛び帰るもの
      2:百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
      3:士(をのこ)やも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして
      4:磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む

万葉集巻2−141 有間皇子
「岩代の浜の松の小枝を引き結んでおこう。もし何事も無く無事であったならば、また帰途に見ることも叶うだろう。」

 斉明4年(658)、有間皇子は謀反の罪で和歌山県海南市辺りの藤白坂で絞首刑となります。古代、旅の安全を祈り、土地の境界で手向けをして地霊を鎮め、草や木の枝を結ぶ風習があったとされます。「磐白」は、丁度その境界地域にあたり、有間皇子に先んじて牟婁の湯へ行幸に出向いた斉明天皇一行も「君が代も我が代も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな(中皇命・1−10)」と言う歌を残しています。

 松の小枝を結んで幸いを祈る習俗は、「たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ(6−1043・大伴家持)」「八千種の花はうつろふ常磐なる松のさ枝を我は結ばな(20−4501・大伴家持)」などにもあります。

 1は、天平2年(730)、大伴旅人が大納言となって都へ戻る際の送別の宴で山上憶良が  詠んだ歌で、憶良と旅人は、互いに九州に任のある間に親交があったようです。(5−876)
 2は、朱鳥元年(686)に謀反の罪で死を賜った大津皇子が邸宅近くの磐余池のほとりで詠んだとされる歌です。(3−416)
 3は、山上憶良の辞世の歌とされています。(6−978)




問89   宴席での物名を詠み込んだ即興歌で有名な長忌寸意吉麻呂が詠んだ歌、「醤酢に蒜搗き合てて鯛願ふ」の下の句は、次のうちのどれでしょうか。

      1:よしといふものぞ鰻捕りめせ
      2:我にな見えそ水葱の羹
      3:吉野の山に氷魚ぞ下がれる
      4:旅にしあれば椎の葉に盛る

  醤酢に蒜搗き合てて鯛願ふ我にな見えそ水葱の羹  (万葉集巻16−3829)
 醤と酢をまぜたものに蒜を和えて鯛を食べたい。水葱の羹(あつもの)なんかは見たくもない。

 長忌寸意吉麻呂は、持統・文武朝の下級官吏であったとされ万葉集に14首を残す以外は、全く未詳の人物です。この歌の題詞には、「酢・醤・蒜・鯛・水葱を詠む歌」と書かれてあり、意吉麻呂の歌には大抵このように、詠み込むお題が列挙されています。
 「さし鍋に湯沸かせ子ども櫟津(イチヒツ)の檜橋より来む狐に浴むさむ(16−3824)」の左注には、「皆で集まって宴をしていると、夜半を過ぎて狐の声が聞こえたので、早速に意吉麻呂を呼び寄せ『さし鍋・雑器・狐の声・河の橋などに掛けて歌を作れ』と言うとすぐさま応えてこの歌を作った」とあり、このように名指しされては即興で歌を詠み場の盛り上げに一役買っていたようです。

(参考資料:戯笑歌の達人 長忌寸意吉麻呂の万葉集歌
(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 戯笑歌の達人・長忌寸意吉麻呂
(参考: 飛鳥遊訪文庫 蓮の葉、芋の葉
(参考: 飛鳥遊訪文庫 Pの飛鳥・食物記2

 1は、「石麻呂に我れ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻(むなぎ)捕りめせ(16−3853)」と、家持が石麻呂と言う痩せた男をからかい詠んだ歌です。ちなみに続いて、「痩す痩すや生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな(痩せていようが元気であればよかろう、万が一でも鰻捕りに川に入れば流されてしまうかもだから)」とも詠んでいます。

 3は、舎人皇子が従者に「意味の通らない歌を作った者には褒美をやる」と言い、大舎人の安倍朝臣子祖父(コホジ)が作って褒美を貰った歌です。
「我が背子が犢鼻(タフサギ)にするつぶれ石の吉野の山に氷魚ぞ下がれる」(16−3839)

 4は、問88の4と共に有間皇子が詠んだ歌です。
「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」(2−142)




問90   十市皇女が亡くなった折りに異母弟・高市皇子が詠んだ歌、「○○○○○立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく」 の初句は次のうちのどれでしょうか。

      1:女郎花   2:山吹の   3:藤袴   4:紫の

山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく 
                          (万葉集巻2−158)
 十市皇女(父:天武天皇・母:額田王・大友皇子妃)が急死した折りに、異母弟・高市皇子が詠んだ歌のうちの1首です。

 「山吹」で黄色、「清水」で泉を連想させ、死者の国「黄泉」を導き出すとも言われています。このとき、十市皇女は30歳前後で高市皇子は25歳前後であったとされています。

 みもろの神の神杉已具耳矣自得見監乍共寝ねぬ夜ぞ多き   (2−156)
 三輪山の山辺真麻木綿短木綿かくのみゆゑに長くと思ひき   (2−157)

 上記2首が同時に詠まれたとされる一連の歌になります。156の「神杉已具耳矣自得見監乍共」の部分は、いまだ定訓とされるものがありませんが、「寝ねぬ夜ぞ多き(眠れない夜が多い)」と言う事から「共寝の可能性」が、157の「短木綿かくのみゆゑに長くと思ひき(あまりに短くてもっと長くと思っていた)」の部分が十市皇女が短命であったことではなく二人の恋愛期間の短さとも捉えられたりして、十市皇女に対する高市皇子の片思い説や相思相愛説などが言われたりもするようです。

(参考資料:飛鳥時代天皇家系図




問91   「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡す 下つ瀬に 打橋渡す・・」と、古代飛鳥川の情景とともに、忍壁皇子の妃・明日香皇女への挽歌を詠んだのは、次のうちのだれでしょうか。

      1:額田王   2:山部赤人   3:高市黒人   4:柿本人麻呂


飛び石
飛ぶ鳥 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡す 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひをゐれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥やせば 川藻のごとく 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へは 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし 敷栲の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いや愛づらしみ 思ほしし 君と時時 出でまして 遊びたまひし 御食向ふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ しかれかも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋づま 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰もる 心もあらず そこ故に 為むすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が大君の 形見にここを     (万葉集巻2−196)

 文武4年(700)に亡くなった明日香皇女(父:天智天皇)への挽歌になります。
「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に・・・下つ瀬に・・」と冒頭の似通った歌があり(2−194)、こちらも人麻呂が川島皇子の死に際して詠んだとされています。




問92   万葉歌人・額田王が詠んだとされる歌は、つぎのうちのどれでしょうか。

      1:紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも
      2:君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く
      3:風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ
      4:天の原振り放け見れば大君の御寿は長く天足らしたり

 万葉集巻4−488(8−1606に重出)の歌になります。
 貴方を恋しく待っていると、簾を秋風が揺らす。(貴方が入ってきたのかと・・。)
「額田王、近江天皇を偲ひて作る歌一首」の題詞があり、額田王が天智天皇を慕って詠んだ歌だと言われています。

 1は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(1−20)」の額田王の歌に応えた大海人皇子の歌です。


鏡女王忍坂墓
 3は、2の額田王の歌に和した歌と言われる鏡女王の歌です(4−489。8−1607に重出)。「例え風でも待つことができるのは羨ましい。」額田王の姉と言われる鏡女王は、額田より先に天智天皇に嫁し、その後鎌足の妻となったとされていますが、彼女の素性も明らかではありません。488の額田王の歌と共に、後世(奈良時代頃?)の作だとする説もあります。

 4は、天智天皇の后・倭姫王が天皇の体調不良の際に、その平癒を祈って詠んだ歌とされています。(2−147)


(参考:飛鳥遊訪文庫 ももと飛鳥と三十一文字と 6




問93   能楽は室町時代に確立した伝統芸能ですが、意外にも、飛鳥を題材とした曲目がいくつかあります。次の曲目のうち、飛鳥(飛鳥地域あるいは飛鳥時代)に関わりのない物はどれでしょうか。

      1: 三山   2: 飛鳥川   3: 采女   4: 国栖

 能楽は、室町時代初期に、観阿弥・世阿弥父子によって確立された伝統芸能です。そのルーツをたどると、奈良時代に大陸から伝わった芸能『散楽』までさかのぼります。
 能は歌舞劇の一種です。ストーリーに沿って謡(歌)、舞、囃子(伴奏)が演じられます。


猿沢の池
 選択肢の中で飛鳥に関係のない曲目は、3の『采女(うねめ)』です。
 奈良市の興福寺の近くにある、猿沢の池が舞台です。ストーリーは次の通りです。
 春日明神に参詣した旅の僧たちは、出会った女に案内されて猿沢の池を訪れます。そこで女は、むかし帝の寵愛が衰えたのを悲しんだ采女が身を投げた場所が猿沢の池で、自分はその采女だと打ち明けます。女が池の中に消えた後、僧が読経を行うと、成仏した采女の霊が現れ、華やかだった宮廷生活の様を謡い舞い、再び池の底へと姿を消したのでした。

桜子塚
 1の『三山(みつやま)』は、大和三山の妻争いをモチーフにした曲目です。
 良忍上人は、耳成山の麓で一人の女と出会います。女は、1人の男性のことで争った2人の女性の確執について語って消えますが、実は彼女こそ争った2人のうちのひとり、桂子の霊でした。

 上人が弔っていると、愛を失って入水した桂子の霊、祟られて狂気する桜子の霊が現れ、生前そのままに争い始めます。しかし、最後は上人の念仏によって共に成仏します。

 2の『飛鳥川(あすかがわ)』は、飛鳥川のほとりで再会する親子の話です。
 都にて母を見失った少年が、再会を祈願する為に吉野へ参詣します。その帰り道、飛鳥川を歩いて渡ろうとして、河畔で田植えをしていた五月女に危ないからと止められます。昨日は渡れたのに、と不審に思う少年に対して、女は古歌を引きつつ、飛鳥川の淵瀬が雨で簡単に変わるために渡る場所も変わるのだと諭します。そんな話をしているうちに、この女が少年の母である事が分かり、喜んでふたりで都へ帰ります。


浄見原神社
(吉野町南国栖)
 4の『国栖(くず)』は、壬申の乱を題材にしています。 
 大友皇子に追われ吉野に逃げ込んだ天武天皇(大海人皇子)が、国栖に住む老夫妻の機知によって助けられるという筋書きとなっています。曲の後半では、天女や蔵王権現が現れて、来るべき天武天皇の治世を祝福します。





問94   大津皇子の悲劇と中将姫伝説をモチーフとして書かれた小説『死者の書』の作者は誰でしょうか。

      1: 井上靖   2:黒岩重吾   3:永井路子  4:折口信夫


中将姫像(当麻寺)
 折口信夫氏は学者(1887〜1953)。民俗学、国文学、国語学など幅広い学問領域で名を残していますが、小説や詩歌の作者としてもよく知られています。
 『死者の書』は1939年に初出の作品。藤原の郎女(中将姫)と大津皇子の魂との交感を描いています。この小説は、2005年に人形アニメーションで映画化されました。監督は川本喜八郎氏です。

 選択肢に挙げた他の方々は全て作家で、それぞれ飛鳥時代を舞台とした小説を書いています。
 1の井上靖氏の作品は『額田女王』、2の黒岩重吾氏の作品は『天の川の太陽』等、3の永井路子氏の作品は『裸足の皇女』等です。





問95   次に挙げる記念日は飛鳥(飛鳥地域あるいは飛鳥時代)に関係あるものです。これらの中で天智天皇と関係のある記念日はどれでしょうか。

      1: チーズの記念日        2:時の記念日
      3:文化財防火デー         4: お香の日

 時の記念日は、6月10日です。天智10年(671)4月25日(新暦では6月10日)、漏刻(水時計)を使い、鐘や鼓で時を知らせた日であることから、記念日となっています。この時計は、天智天皇が皇太子だった斉明天皇6年(660)に初めて造ったものです。
 天智天皇を祭神とする近江神宮(滋賀県大津市)では、毎年6月10日、時の記念日に漏刻祭が行われています。

 1のチーズの記念日(11月11日)は、文武4年(700)10月(新暦では11月)に、チーズの元祖『蘇』に関する日本最古の記録があることから、覚えやすいようにぞろ目にして設定されました。
 3の文化財防火デー(1月26日)は、昭和24年(1649)1月26日、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺金堂が火災に遭い、壁画が焼失した事を契機に設定されました。
 4のお香の日(4月18日)は、お香に関する最古の記録によります。推古天皇3年(595)4月、香木(沈香)が淡路島に漂着したという日本書紀の記録がそれです。この4月と「香」を分解した「一十八日」が由来となっています。

(参考資料:漏剋(漏刻)に関する記述
(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 漏剋(刻)の不思議




問96   日本書紀 天武13年(684年)7月に「壬申、彗星西北に出づ。」という記述が見られます。これは彗星(すいせい)が観測された事を示す記事です。天文学的研究によって、この彗星が、現代でもよく知られているあの彗星であると推定されました。それは次のうちどれでしょうか。

      1: シューメーカー・レビー第9彗星   2: ハレー彗星
      3: ヘール・ボップ彗星           4: 百武彗星

 天武13年(684)7月の彗星の正体については、斉藤国治氏が著書『星の古記録』の中で検討を行っています。具体的には、684年におけるハレー彗星の軌道と、その時地球から見えるハレー彗星の軌跡を計算によって求め、それらのデータが古記録の内容とおおよそ一致していることを証明しています。
 684年7月の彗星に関する古記録の内容が大雑把であることから、あくまでも天武13年(684)7月の彗星がハレー彗星であることは『推定』ですが、ある程度認められた説であるようです。 

 ちなみに、この時のハレー彗星については、中国でも観測記録が残っています。『唐の文明元年(684)7月22日、西方に彗あり。……』(『旧唐書天文志』)という記事です。

 1のシューメーカー・レビー第9彗星は、1994年に木星と衝突して、木星に巨大な衝突痕(地球1個分の大きさの物もありました)を作った彗星です。
 3のヘール・ボップ彗星は、20世紀で最もよく観測された彗星と言われています。最近では1997年に観測されました。
 4の百武彗星は、その名から予想できる通り、日本人の百武氏が発見した彗星です。1996年に観測されました。




問97   日本書紀 推古28年(620年)12月には『天に赤気あり。長さ一丈余り。形、雉の尾に似る。』という記事がありますが、『赤気』の正体は何でしょうか。

      1:月食時の赤い月   2:赤い雲   
      3:赤いオーロラ      4:火星

 オーロラは、太陽風に含まれるプラズマ粒子が、地球の大気と衝突することで生じます。よって、太陽活動が活性化するほど、プラズマ粒子の量が増え、オーロラが発生しやすくなります。
 ただ、太陽活動の大小には計算で求められるような周期性が無いので、日食や月食などの他の天文現象と異なり、計算を使って記録日にオーロラが現れたかどうかは検証できません。

 しかし、古記録における赤気の記述内容(形状等)から、現在では『赤気』の正体は赤いオーロラだとされています。(斉藤氏の著作や、河鰭氏・谷川氏・相馬氏の論文等で明記されています)『赤気』は、具体的には『低緯度オーロラ』といわれるものです。この種のオーロラは、北欧などの高緯度で見られるようなカーテン状のものではなく、空が全体的に赤くなるタイプがほとんどです。まるで夜中に起きた火事のようだとも譬えられます。

 日本史上でオーロラが観測された記録は少ないのですが、不吉なものと考えられていた為か、記録内容は異彩を放っています。観測地としては、飛鳥だけではなく、京都や江戸、長崎でも観測されています。
現在は、本州でオーロラが見られることは滅多にありません。観測地のほとんどが北海道です。
 名古屋大学太陽地球環境研究所が北海道にて低緯度オーロラの観測を行っています。1998年から2004年の間で、20回のオーロラ観測に成功しているそうです。




問98   岡寺三重塔の四隅に、風鐸と共に掛けられている楽器は何でしょうか。

      1: 琴   2: 太鼓   3:笛   4:小鼓

 岡寺の三重宝塔は、もともと旧境内地(今の治田神社境内)にありました。しかし、文明4年(1472)7月大風により倒壊。その後すぐに再建の動きはあったのですが、結局500年以上建てられないままでした。
 復興のきっかけは、昭和59年(1984)の弘法大師1150年御遠忌でした。その記念行事として塔の復興が着手され、昭和61年(1986)ついに再建。
 それから更に15年後の平成13年(2001)には塔の装飾品である扉絵・壁画・琴などが完工し、落慶されました。

 この塔で特徴的なのは、塔の軒先に装飾として青銅製の琴が吊るされている事です。塔の軒下に楽器を吊るすという例はあまり見かけません。岡寺は、所蔵する『両部大経感得図屏風』図中の五重塔に琴が吊るされているのに基づいて、再建した塔に琴を掛けたのだそうです。




問99   飛鳥に関係のある文物が多く展示される橿原考古学研究所附属博物館ですが、その館内放送で、時間を知らせる際に使われるユニークな音は何でしょうか。

      1: 銅鐸の音  2:おんだ祭りの音  3:鐘の音  4:風鐸の音

 橿原考古学研究所は、1938年に創立されて以来、奈良県内の埋蔵文化財の調査研究、その成果の公開、および埋蔵文化財の保護を目的として活動している施設です。
 附属博物館は元々研究所とは別の組織で、1940年に大和国史館としてスタートしましたが、紆余曲折を経て、1974年に研究所付属博物館となります。

 博物館は、近鉄畝傍御陵前駅より徒歩5分の場所にあります。
 常設展『大和の考古学』と春秋2回の特別展、夏には発掘調査成果の速報展『大和を掘る』を開催しています。
 博物館の館内に時刻を知らせる放送はユニークです。
 「復元銅鐸の音が、△時をお知らせします」というアナウンスの後に、銅鐸を叩く音が流れます。 毎時間流れる放送ではありませんので、実際に聞いたことのある人は少ないかもしれません。

(参考:橿原考考古学研究所公式HP
(参考:橿原考古学研究所付属博物館公式HP




問100 飛鳥資料館の前庭には、沢山の石造物の摸刻がありますが、その中で館内でも本物の出土品が見られるのはつぎのどれでしょうか。

      1:亀石   2:須弥山石   3:亀形石造物   4:出水酒船石

 1〜4までのレプリカは全て飛鳥資料館で見る事が出来ますが、館内で本物を見学できるのは、須弥山石だけになります。前庭に置かれた須弥山石のレプリカは、推定復元された4段分組まれていますが、資料館内で見学できる本物は、出土した3段分になります。
それぞれの本物は、亀石は橘寺の西の道端、亀形石造物は酒船石遺跡の北・万葉文化館の南で樹脂加工された状態で見ることが出来ます。また、出水酒船石の本物は、京都にありますが、所在地が国の重要文化財指定を受けているために常時見学することは不可能です。

 飛鳥散策で本物に触れ、その後飛鳥資料館でレプリカの精巧な再現の妙をご覧になるのも良いかもしれません。

(参考:飛鳥資料館公式HP
飛鳥資料館前庭 須弥山石・道祖神像(石人像)レプリカ


問1〜20 問21〜40 問41〜60 問61〜80 問81〜100 飛鳥概略図 解答一覧

解説ページ中の「緑色の文字」は、参考ページにリンクしています。
解説ページ中の
「赤色の文字 」は、正解を表します。

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「漏剋(漏刻)に関する日本書紀の記述」

『日本書紀』天智天皇十年夏四月丁卯朔辛卯条(671年6月10日(旧暦4月25日))

「置漏剋於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏剋。此漏尅者、天皇爲皇太子時、始親所製造也、云々。」
(漏尅を新しき台に置き、始めて(ようやく)時を知らせ鐘鼓を打つ。始めて(ようやく)漏剋を用いる。此の漏剋は、天皇の皇太子にあられた時に、始めて(ようやく)親ら製造りたまふ所のものなり、云々。)


『日本書紀』斉明天皇六年五月是月条(660)

「又皇太子初造漏尅。使民知時。」
(また、皇太子が初めて漏剋を造る。民に時を知らしむ。)



漏剋(漏刻)に関連する万葉集

時守の打ち鳴らす鼓数みみれば時にはなりぬ逢はなくも怪し   巻2−2641

皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寝ねかてぬかも   巻4−607






〔伎楽について〕

 「新撰姓氏録」によると、欽明天皇の時代に呉の国から帰化した智聡によって伎楽の調度一具がもたらされたとあり、「日本書紀」の欽明15年には、楽人の交代の記事が見られる事から、味摩之がやって来る以前から、すでに伎楽のような物が伝わっていたと思われます。

 法隆寺・東大寺・正倉院に多くの伎楽面が残され、また、正倉院には752年の東大寺大仏開眼法要で使用された面や(面の裏などに「東大寺」「天平勝寶四年四月九日」や作者名が墨書されています)、装束・太鼓・幡なども残っているそうです。近年には、わずかな手掛かりを基にこれらの復元が試みられ、当時の華やかな様子をうかがい知る事が出来るようになりました。

 面はクスノキ製の物が古く、キリ製や乾漆で作られた物があります。
乾漆とは「夾紵」(きょうちょ)ともいわれ、木や土で作った型の上に麻布を漆で何枚も張り重ねてゆき、後で型を抜いて出来た物です。


〔伎楽面の紹介〕

治道(ちどう)   :道を清める役目で、目に見えない邪鬼を高い鼻でかぎわけます。治道・迦楼羅→天狗へ

獅子(しし)・獅子児(ししこ) :邪鬼を見つけると噛み付いて退治する役目で、その為に恐ろしい顔をしています。獅子児は子供なので、澄んだ心を持ち邪鬼を払う効果があるとされたようです。→現在の獅子舞へ

呉公(ごこう)・呉女(ごじょ) :呉の国の王・貴人の意味で、扇を持って登場し、笛を吹く仕草をしていたようです。呉女はそのお后、または美しい女の人。

崑崙(こんろん) :呉女にマラフリ舞をして襲い、力士に懲らしめられる役を演じたようです。獣のような耳と牙を持っており、一番大きな仮面です。中国の古い文献には、南方の部族を崑崙、またh崑崙奴と呼んだと書かれてあったり、クルド人ではないかとも考えられているようです。また、ウイグル語で奴隷をクルと言い、タクラマカン砂漠の南には、その名の通りの崑崙山脈(クンルン山脈)があります。 <P32 地図参照>


金剛(こんごう・力士(りきし) :共に恐い顔で、呉女にいい寄る崑崙をこらしめる役割をしたようです。金剛と力士は一組と考えられるようです。

迦楼羅(かるら) :仏法を守護する八部衆(はちぶしゅう)の1人で、蛇を食うといわれ「けらはみ」という所作をします。ルーツはヒンドゥー教の神鳥ガルーダです。ハゲワシの事で、天から幸いを運び忌む物を空へ運び去ってくれます。神の乗り物でもあるそうです。

婆羅門(ばらもん) :インドで最高の位にあるとされる僧侶ですが、伎楽では「襁褓(むつき)洗」というオムツを洗う所作をします。

酔胡王(すいこおう)・酔胡従(すいこじゅう) :胡とは西域の辺りの事で、胡国の酔っ払った王様の事です。「はらめき」という所作をします。王に従って登場する6〜8人の酔胡従は、笑ったり、泣いたり、怒ったりと色んな表情をしています。


〔西域と呼ばれた地域〕


 天山(テンシャン)山脈の南にあるクチャから西へ70kmの所にある、キジル千仏洞(3〜8世紀)の仏教壁画の中に迦楼羅と思われる顔が見られるそうです。
 
 唐の詩人・白居易が、「西涼伎」という文献で、獅子舞が行われた事、クルクル回転する舞踊があると紹介しています。(西涼とは、隋が統一する以前の敦煌あたりの遊牧国家の名前です。)
 
 現在も残るウイグル族で楽しまれている群舞は、葡萄の収穫祭だそうです。また、ギリシャ神話の酒の神・ディオニソスや、その回りの神達の仮面が東方に伝わり伎楽面となったのではないかとも考えられています。