両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


【問41〜問60】

問1〜20 問21〜40 問41〜60 問61〜80 問81〜100 飛鳥概略図 解答一覧

解説ページ中の「緑色の文字」は、参考ページにリンクしています。
解説ページ中の
「赤色の文字 」は、正解を表します。



問41   「天皇」と書かれた木簡が出土した遺跡はどこでしょうか。

      1:飛鳥京跡  2:飛鳥池遺跡  3:石神遺跡  4:酒船石遺跡



飛鳥池遺構(復元)
 飛鳥池遺跡の北地区は、飛鳥寺・東南禅院に関わる木簡が多く出土しています。その中には飛鳥寺の僧の名前の入った木簡に混じって、「天皇聚□弘寅□」という文字の入った木簡が見つかっています。(「□」は判読出来ていない文字を示します。)

 古代には「天皇」という称号はなく、「大王」という称号が使われていたと考えられています。「天皇」という称号が最初に採用されたのは推古朝である、というのが戦前の津田左右吉説で、その説が有力でしたが、1998年に飛鳥池遺跡でこの木簡が発掘され、同時に出土した遺物から天武朝前半のものとされたことから、今では「天皇」という称号は7世紀後半の天武天皇からであるという説が有力になりました。

(参考資料:酒船遺跡・飛鳥池遺跡参考図
(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 木簡の話
(参考:木簡ひろば
(参考: 第9回定例会「木簡から見た飛鳥」 事前散策資料レポート




問42   『日本書紀』の原形となる史書編纂に関わって使われたのではないか、とされる木簡が出土した遺跡はどこでしょうか。

      1:飛鳥京跡  2:飛鳥池遺跡  3:石神遺跡  4:酒船石遺跡

 飛鳥京跡第104次調査では、「辛巳年」=天武10年(681)と書かれた木簡が出土しています。この年は日本書紀の作成が命ぜられた年です。また、「大津皇(子)」「太来(=大伯)」「大友」などの名前や、「伊勢国」「尾張」「近淡(海)」など壬申の乱の舞台となった地名が書かれた木簡が出土していて、飛鳥浄御原宮付属の書記施設で作られた、歴史記録編纂事業の資料群ではないかと考えられています。

 4の酒船石遺跡は亀形石造物、酒船石、そしてその間の地山を削って石垣を築いた跡など「両槻宮」ではないかという説が出るのもうなずけるような遺跡です。しかし、書紀の記事にある「宮の東の山」ではあるのですが、両槻宮という確証はありません。万葉文化館建設のために切り開かれてしまって、当時の状況を掴みにくいものになっていますが、亀形石造物を含む一連の導水施設が見学出来るようになっています。

(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 木簡の話
(参考:木簡ひろば
(参考: 第9回定例会「木簡から見た飛鳥」 事前散策資料レポート




問43   地方からの税物に付けられた荷札木簡には、さまざまな地名が書かれており、飛鳥時代の地方組織のあり方が窺われます。次のうち、大宝律令が成立する前(700年以前)には存在しなかった地方行政組織はどれでしょうか。

      1:国   2:郡   3:里   4:五十戸

 地方行政組織は、大きい順にクニーコホリーサトとなっていました。この漢字表記は、「クニ」は「国」ですが、「コホリ」と「サト」は時代によって表記の仕方が変わっています。
 「コホリ」の表記は、700年までは「評」と書かれていましたが、701年の大宝律令で「郡」となったことが、藤原京からの出土木簡によって明らかになりました。それまでは、「改新の詔」に「初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河」とあり、「郡」が定められたように日本書紀には書かれていることから、いわゆる「郡評論争」という議論が長年続いていたのです。
 「サト」は681年頃までは「サト」が五十戸から成り立っていたため「五十戸」と書かれていました。その後683年頃から717年までは「里」と表記されるようになりました。

(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 木簡の話
(参考:木簡ひろば
(参考: 第9回定例会「木簡から見た飛鳥」 事前散策資料レポート




問44   飛鳥池遺跡から出土した木簡に「桑根白皮」という生薬名が書かれたものがあります。文字通り「桑」の根っこの皮を干して生薬としたものをいうのですが、この「桑」は生薬としてだけでなく様々に利用されてきました。現在でも行われている次の利用法のうち、実際に行われていないものはどれでしょうか。

      1:葉や根をハーブティーにする   2:実を桑酒にする
      3:葉を蚕のエサにする        4:葉を絞って油を採る

 桑=蚕のエサというのが、一般的に思い出される利用法だと思いますが、古くから根を漢方薬として利用してきたのですから、この根っこの皮と葉っぱのハーブティーというのも、高血圧の予防や咳止めとして利用されています。また熟した果実は生食出来ますし、ジャムにして食べることも出来ます。ホワイトリカーに漬けた桑酒は、滋養強壮に良いとされています。

 植物から油を採る場合、ほとんどが種子から取ります。ミントなどを香料として使う時には、葉から「精油」と呼ばれる香り成分を取り出すのですが、桑の葉は香料としての利用はありません。

(参考資料:酒船遺跡・飛鳥池遺跡参考図
(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 木簡の話
(参考:木簡ひろば




問45   飛鳥池遺跡から出土した木簡に「荏子油」と書かれたものがあります。これは「エゴマ」という植物から採る油のことですが、「エゴマ」という植物について正しいものはどれでしょうか。

      1:シソ科で青紫蘇と近い種類である
      2:ゴマ科でゴマの近縁種なので良い油が採れる
      3:エゴノリという海藻の一種である
      4:エゴノキ科の落葉樹で、実から油を採る


エゴマの葉
 エゴマはシソ科シソ属の1年草で東アジア原産、日本でも縄文時代の遺跡から種子の出土例があるほど古くから栽培されている植物です。
 「エゴマ」と「ゴマ」の文字が付いていますが、ゴマはゴマ科なので近縁種ではありません。木簡に書かれた当時は「荏」と呼ばれていたと思われ、「荏子油」は「荏の種子の油」という意味だと思います。「エゴマ」と呼ばれるようになったのは、もっと後のことのようです。胡麻のように油が採れるということと、ハングル語で「エゴマ」を差す「yim」とを合成して作られた名前ではないかとも言われています。採れる油もゴマは「リノール酸」が多く、エゴマは「αリノレン酸」が多いというように、成分に違いがあります。

 エゴノリとエゴノキは名前に「エゴ」という共通の部分があるので、引っかけに出してみたものです。しかし、「エゴマ」は「エゴ+マ」ではなく「エ+ゴマ」なので、共通ではありません。
エゴノリはエゴという呼び名もありますが、北海道から九州に分布する紅藻類、食用になる海藻で、福岡地方ではオキウドと呼ばれています。


エゴノキの花
 エゴノキ科の落葉樹は、ハクウンボクやエゴノキといった高さ3mから10mになるような高木が多く、釣り鐘状の白い花を房状に付けるのが特徴です。エゴノキの実は生の果皮をすり潰して川に流し、魚を麻痺させて捕るのに使われたという話もありますが、魚毒になるサポニンの含有量はそれほど多くないので真偽のほどは不明です。熟すと実はカラカラに乾燥して、中の種はヤマガラの好物です。油を採って灯明にしたという記録はあるようですが、人の食用にはなりません。

(参考資料:酒船遺跡・飛鳥池遺跡参考図
(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 木簡の話
(参考:飛鳥遊訪文庫 古代植物談義その2
(参考:木簡ひろば




問46   飛鳥池遺跡からは現在約8,000点の木簡が出土しています。これら木簡に書かれた製品の内、最も多く見られるのは次の内どれでしょうか。

      1:釘    2:玉    3:刀    4:瓦

 釘に関する木簡は、種類・大きさ・強度・用途など実に沢山のものが具体的な表現で書かれています。
  【例】
     種類 :「卑志釘」「小切釘」
     大きさ:「大釘」「釘三寸□」
     強度 :「難釘」「堅釘」
     用途 :「輦釘大小」「内工釘」

 飛鳥池遺跡と言えば、富本銭や金・銀・玉など貴重な出土品が思い浮かぶと思います。これらの製品も工房で生産されていましたが、木簡に記されている文字を追ってみると、飛鳥池遺跡出土木簡のほんの一握りに過ぎないようです。「金」と書かれたものは手習木簡が一点、「玉」と書かれたものは付札木簡が一点確認されているだけです。

(参考資料:酒船遺跡・飛鳥池遺跡参考図
(参考: 第9回定例会「木簡から見た飛鳥」 事前散策資料レポート




問47   飛鳥池遺跡で出土した富本銭などの銅製品には、他で見られない成分が含まれていました。何でしょうか。

      1:砒素   2:亜鉛   3:アンチモン   4:ビスマス

 富本銭は、708年に発行された和同開珎より古い、日本で最初の貨幣とされています。飛鳥池遺跡の発掘調査からは、約560枚の富本銭が出土しました。
 富本銭が発掘された地層からは、687年を示す「丁亥年」と書かれた木簡が出土していることなどや、『日本書紀』の天武天皇12年(683)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」との記述があることなどから、最古の流通貨幣として鋳造された可能性が高いといえるようです。(今のところ、銀銭が流通していたことは実証されていません。厭勝銭〔えんしょうせん=まじない用に使われる銭〕に止まっていた可能性が高いと思われます。)

 飛鳥池遺跡から出土した富本銭は、アンチモンという物質を平均15%も含む特殊な合金製でした。銅合金の製品は、普通、銅に錫と鉛を加えるわけですが、アンチモンを主成分の一つにしたものは、この飛鳥池工房産の特徴となっているようです。

富本銭レプリカ
アンチモンの割合が大きいと、合金は金色の輝きを強め、また硬度を増すそうです。

 2007年、藤原宮大極殿前の南門跡から出土した地鎮具に納められた9枚の富本銭は、飛鳥池遺跡出土の貨幣と字体が異なる新タイプであり、さらに、9枚中4枚にはアンチモンが含まれておらず、飛鳥池遺跡以外で製作されたと推測されました。

(参考資料:酒船遺跡・飛鳥池遺跡参考図
(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 富本銭とアンチモンと飛鳥池遺跡
(参考資料:貨幣に関する日本書紀の記載及び無文銀銭について
(参考:「藤原宮大極殿院南門出土地鎮具」
              奈文研ニュースNo.28−奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ )




問48   橘寺にある仏像の中で一番古いものはどれでしょうか。

      1:田道間守像            2:聖徳太子勝鬘経講讃像
      3:六臂如意輪観世音菩薩像   4:日羅上人像


往生院(奥)と聖倉殿
 橘寺聖倉殿に安置される日羅上人像は、平安時代初期(貞観時代)の作とされ、国の重要文化財に指定されています。
 日羅は、日本書紀敏達天皇の12年(583)の記事によると、天皇の強い要請で百済より帰国し、任那再興などに献策をしたと伝えられますが、自国の危険を感じた同行来日中の百済使により暗殺されたと書かれます。
 また日羅は、聖徳太子の師僧とも伝えられますが、書紀を見る限りでは、聖徳太子との関係は不明です。また日羅の甲冑乗馬姿の記述はあるのですが、僧であったかどうかを読み取ることは出来ません。どのような経緯で太子の師とされるようになったのかは、書紀を見る限りでは分かりません。
 この像は、もともと地蔵菩薩として祀られていたものを、後世、日羅上人像として祀られるようになったとされています。

 1の田道間守像は、貞観時代に続く藤原時代(寛平6年(894)から寿永4年(1185))の作だとされています。寺名の由来になっている橘を持ち帰った田道間守の像は、本殿(太子殿)に安置されています。田道間守に関する説明は、問49の解説をご覧ください。

 2の聖徳太子勝鬘経講讃像(重要文化財)は、永正12年(1515)の作で、現在の橘寺のご本尊として本殿に祀られています。
 この木造聖徳太子坐像(聖徳太子勝鬘経講讃像)は、聖徳太子35歳のお姿だとされ、聖徳太子が推古天皇に勝鬘経を説くお姿を表したものだとされています。袍の上に袈裟を着し、冤冠を頂いて、左手に麈尾(しゅび)を持つ坐像となっています。

 日本書紀の記述に基づくと、聖徳太子の誕生は敏達3年(574)1月1日になっており、太子が勝鬘経を講讃された推古14年(606)は、満年齢では32歳、数えでは33歳となります。上記の35歳とする記述とは矛盾することになってしまいます。
 「聖徳太子伝暦」という平安時代前期に著された書物があります。寺伝などは、この書物から採られていることが多いようですが、これによると太子の誕生は、敏達元年(572)1月1日となります。この書物では、年齢は数え年で書かれますので、勝鬘経を講讃された推古14年(606)には、太子は35歳ということになります。橘寺の案内書なども、日本書紀の引用ではなく、聖徳太子伝暦に基づいていると思われます。

 ちなみに、創建当時の橘寺のご本尊は、「諸寺縁起集」によれば、救世観音だとされています。

 3の六臂如意輪観世音菩薩像(重要文化財)は、藤原時代(平安時代後期)の作とされています。
 このお像は、橘寺観音堂の本尊で、ほぼ丈六の堂々たる像です。「臂」というのは腕のことで、この像は「半跏の六本の腕を持つ如意輪観音像」ということになります。




問49   橘寺の本堂には田道間守をお祀りしていますが、どなたの命令で「トキジクノカグノミ」を、探し求め持ち帰ってきたのでしょうか。

      1:垂仁天皇   2:仁徳天皇   3:欽明天皇   4:推古天皇

 第11代垂仁天皇の命により、常世の国に不老長寿の妙薬とされる非時香菓(トキジクノカグノミ)を探しに出かけた田道間守が、苦節の末に持ち帰ったときには、既に命じた天皇は亡くなっていて、悲しみのあまり泣き叫んで死んだと伝えられています。
 この田道間守が持ち帰ったとされる非時香菓は蜜柑の原種とされる橘で、その実を蒔くと芽を出したところから橘の地名の由来となったとされています。その由来の地に創建された聖徳太子建立7ヶ寺の一つが橘寺で、田道間守は橘寺にもお祀りされています。

 また、古代、菓子とは果物を指す言葉でしたので、田道間守は、お菓子の神様として祀られています。田道間守の生誕地とされる豊岡市の中嶋神社では、田道間守を祭神とし「橘菓祭」が執り行われているそうです。ひょっとすると、田道間守は「但馬守」だったのかもしれませんね。
 なお、悲しみのあまり泣き叫んで死んだとされる田道間守の墳墓らしきものが、今も垂仁天皇陵の濠の中の小島として、天皇を見守るように浮かんでいます。濠端には「菓祖神田道間守命御塚拝所」と刻まれた標柱と社のようなものが雑草に埋もれ、忘れられたように建っています。
 それにしても「時に年140歳」で崩じたと書紀に記される垂仁天皇は、人の二倍も三倍も生きたように書かれていますから、虚実はともかく、田道間守の帰命を満足げに聞いていたことでしょうね。




問50  現在二面石がある場所には、元々どんな建物があったでしょうか。

      1:金堂   2:講堂   3:経堂    4:鐘楼

 昭和28年から行われた橘寺境内の発掘調査の結果、東を正面に中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ四天王寺式の伽藍配置であったとされていますが、その後、金堂の背後で石列が検出され、金堂と講堂の間で回廊が閉じていた可能性も指摘されています。現在では講堂が回廊の外にある山田寺式伽藍配置の可能性が高くなっています。
 回廊の位置の確証はまだ得られていないようですが、中門が現在の東門付近、塔心礎の残る辺りに五重塔があり、現在の経堂付近が金堂で、本堂とその南側にある二面石付近に講堂が位置していたものと考えられます。

(参考資料:古代初期伽藍配置図
(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 橘寺の伽藍配置と二面石について
(参考:飛鳥の石造物 二面石





問51  聖徳太子のお父さんは、太子15歳の時に即位されました。どなたでしょうか。

      1:欽明天皇   2:敏達天皇   3:用明天皇   4:武烈天皇

 聖徳太子は、第31代用明天皇と欽明天皇の娘・穴穂部間人皇女との間に産まれた皇子です。4択の天皇の即位は、武烈天皇→〇…〇…〇…欽明天皇→敏達天皇→用明天皇の順となります。太子は、母の穴穂部間人皇女、寵妃・膳大郎女とともに、父・用明天皇、伯父・敏達天皇、叔母・推古天皇が眠る河内磯長の里(王陵の谷)に葬られています。

(参考資料 :飛鳥時代天皇家系図
(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 橘寺の伽藍配置と二面石について




問52   聖徳太子は三経義疏を書かれましたが、三経とは、法華経、勝鬘経ともう一つはどれでしょうか。

      1:維摩経   2:涅槃経    3:大日経   4:観音経

 聖徳太子の撰述とされる「三経義疏」は「法華経」「勝鬘経」「維摩経」の3義疏です。義疏とは注釈書のことで、太子によって日本で初めて本格的な三経の注釈が行われたとされています。
 仏教思想や文化による治国を政治の理想とした太子は、推古天皇に勝鬘経の講讃を行ったとき、蓮華が降り積もり、南の山に仏頭が現れて光明を放ち、太子の冠からは日月星の光が輝くという不思議な現象が寺の草創縁起として伝えられています。その事績が今も橘寺の境内や南山に、「蓮華塚」「仏頭山」「三光石」として名をとどめています。
(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 橘寺の伽藍配置と二面石について


蓮華塚
 
三光石





問53   太子信仰(聖徳太子信仰)の過程で、聖徳太子16歳の時の姿とされる『孝養像』が多く作られました。それらの像は、共通してみずらを結い、手にある物を持っています。その『ある物』とは何でしょうか。

      1: 笏   2: 経文   3:香炉   4: 冠

 太子信仰とは、日本仏教の創始者としての聖徳太子を崇敬する信仰です。平安時代、聖徳太子を救世観音の生まれ変わりとする伝説が定着してから信仰は高まっていき、中世以降は観音信仰として一般庶民にまで広がっていきました。

 太子信仰に大きな影響を与えているのが、10世紀に成立した『聖徳太子伝暦』(作者については諸説あり)という書物です。『伝暦』は聖徳太子の伝記ですが、太子に関するありのままの事実を伝えているというよりは、説話や奇談といった話を集大成したような性格の物です。しかし、この書物を基にして後世の太子観が形成されたといっても過言ではありません。

 実際、太子信仰のしるしである太子像の多くが、『伝暦』の内容を元に作られています。南無仏太子像・孝養像・講讃像・摂政像・馬上太子像などの形式があります。

 設問にある孝養像は、太子像の中で一番作例が多い形式です。
 この像は、『聖徳太子伝暦』における16歳の時の記述(父・用明天皇の病気平癒の為に、柄香炉を捧げて祈願した)に基づいて作られました。孝養像の形式としては、みずらを結い、手に柄香炉を持っています。
飛鳥では、飛鳥寺や橘寺で孝養像を拝観することができます。
(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 橘寺の伽藍配置と二面石について




 飛鳥地域北部概略図(クリックで別ウィンドウが開きます)を見ながら、4択の中から該当する番号をお選びください。

問54   藤原鎌足が産湯を使ったと伝えられる井戸跡がある場所は何番でしょうか。
                                 (飛鳥地域北部概略図番号照合表

      1: 10(東大谷日女命神社)    2: 20(鎌足産湯の井戸) 
      3: 21(巻4−513万葉歌碑)   4: 33(川原寺工房遺構)

 天武天皇の夫人となった鎌足の娘である五百重娘は、この辺りに住まいして藤原夫人あるいは大原大刀自とも呼ばれました。そのことは、万葉集 巻2−103・104の歌でも知ることができます。
 鎌足の誕生伝承が正しいとすると、鎌足は大原で推古天皇22年(614)に生まれたことになります。

 ただ、鎌足の生誕地については諸説あるようで、確たるものはありません。平安時代後期の作である「大鏡」は、鎌足の生地を鹿島神宮のある常陸の鹿島であるとしています。この説が重んじられてきたようですが、藤原(中臣)氏の出自を立派なものとするために書きかえられているようにも思えます。


大伴夫人の墓
 小原には、大伴夫人の墓とされる小円墳様の塚がありますが、大伴夫人というのは、大伴久比子(咋子)の娘・智仙娘のことで、中臣御食子との間に鎌足を生んだ人です。
 『藤氏家伝』という書物には、鎌足の長子定恵が亡くなった地として「大原殿」と記しており、また時代は下りますが、奈良時代の藤原四兄弟の一人として知られる武智麻呂の生誕地を「大原の邸」と記しています。

 これらのことから、藤原氏の邸が明日香村大字小原にあったのは間違い無いように思います。
 最近の発掘調査で話題になった竹田遺跡も、鎌足の娘である五百重娘を母に持つ新田部皇子の邸宅跡だと推測されました。小原と八釣は至近な距離にあり、一族の土地であったのかもしれません。そのように考えると、小原が鎌足生誕地である可能性もさらに高くなるようにも思えます。
 飛鳥時代の歴史的地名表記では「大原」と書きますが、現在の地名としては「小原」と書きます。


大原神社

(参考資料: 藤原氏系図 藤原氏系図2
(参考:飛鳥検定解説集・観光編 問64)




問55   允恭天皇の4年、氏姓の乱れを正すために執り行われた盟神探湯神事が祭事として再現されている場所は何番でしょうか。
                                 (飛鳥地域北部概略図番号照合表

      1: 3(甘樫坐神社)    2: 22(弘計神社)
      3: 34(板蓋神社)     4: 43(治田神社)

 古代において行われたと言う一種の裁判とされています。煮えたぎる湯に手を入れて、火傷をしなければ正、火傷をすれば邪であるとする神前の審判で「盟神探湯=くがたち」と呼ばれています。
 日本書紀によれば、『允恭天皇の時代に氏姓制度の混乱を正すため、甘樫の神の前(「味橿丘の辞禍戸サキ(石偏に甲)」うまかしのおかのことのまがえのさき)に諸氏を会して、盟神深湯を行った』と記されています。

 現在、甘樫坐神社境内でこの神事が復元され、毎年4月第1日曜日に執り行われていますが、今では邪を正し爽やかに暮らす神事として盟神深湯が行われています。
 盟神探湯は、泥を釜に入れて煮沸し、手でかき回して湯の泥を探る方法や、あるいは斧を真赤に焼いて掌に置く方法もあったそうです。

(参考:飛鳥検定解説集・民俗編 問92)





問56   飛鳥の謎の石造物として有名な「須弥山石」や「石人像」が出土した地点は何番でしょうか。
                                 (飛鳥地域北部概略図番号照合表

      1: 2(雷丘)             2: 13(石神遺跡)
      3: 36(飛鳥京跡苑池遺構)   4: 41(エビノコ郭遺構)

 石神遺跡は、これまでの調査によって斉明・天武・藤原京時代の3期の遺構が重層していることが分かっています。

石人像・須弥山石出土地付近
 斉明天皇の時代には、整然と並ぶ建物群と石敷をもつ立派な井戸、石敷広場などが検出されており、饗宴の施設と考えられています。石人像(道祖神像)や須弥山石は、この時代に作り置かれたものだと思われます。一連の発掘調査が今日も続けられていますが、これらの石造物が出土した田んぼの小字名を採って周辺一帯を「石神遺跡」と呼んでいます。

 石神遺跡は、天武朝以降、時代を経るにしたがって、より役所的な施設に変わって行きます。

(参考資料:石神遺跡概略図




問57   継続して行われている発掘調査によって、新田部皇子の邸宅跡の可能性が指摘されている竹田遺跡は何番でしょうか。
                                 (飛鳥地域北部概略図番号照合表

      1: 7(奥山久米寺跡)    2: 15(竹田遺跡)
      3: 19(飛鳥坐神社)     4: 27(飛鳥京北限遺構)


竹田遺跡(後ろは飛鳥城跡)
 竹田遺跡は飛鳥寺の北東約400mの距離にあり、小さな丘陵部南側に所在します。南東の大字小原には藤原鎌足公誕生地・大伴夫人之墓などがあります。万葉集巻3−262に、「矢釣山」を詠った歌があり、これは柿本人麻呂が天武天皇と藤原夫人五百重娘との間に生まれた新田部皇子にあてた歌とされています。

このことから、新田部皇子の邸宅が、この竹田遺跡付近に所在した可能性が高いとされました。
 遺跡からは、7世紀後半を中心とした掘立柱建物群や平安時代の掘立柱建物などが確認されました。この内の飛鳥時代の建物群の中には、比較的大形の柱穴をもつ建物があったことから、これらが皇族や高位高官などの邸宅である可能性が考えられています。しかし、未だに主となる建物跡が見つかっておらず、今後の調査に期待が持たれます。

(参考資料:飛鳥時代天皇家系図
(参考:竹田遺跡/明日香村公式サイト 文化財調査報告等)




問58   飛鳥地域でも、花の育成に力を注がれている所が増えてきました。さて、石楠花で有名な場所は何番でしょうか。
                                 (飛鳥地域北部概略図番号照合表

      1: 4 (豊浦寺跡)     2: 35 (川原寺跡)
      3: 40 (橘寺)       4: 44 (岡寺)

 4月末から5月初めにかけて、境内は石楠花で埋められます。新緑と相まって清々しい様相となります。
 岡寺は現在、真言宗豊山派の寺院で、龍蓋寺とも称します。西国三十三箇所第7番札所として知られています。
 創建時期は不明ですが、寺伝によれば、天武天皇の皇子で27歳で亡くなった草壁皇子の住んだ岡宮の跡に、義淵僧正が創建したとされます。寺の西側にある治田神社境内からは、奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されているようです。

 本尊の塑造如意輪観音坐像(奈良時代)は、日本最大(高さ4.6m)の塑像であり、重要文化財に指定されています。また、仁王門(重文・慶長17年(1612)再建)や木心乾漆義淵僧正坐像(国宝・奈良時代・奈良博寄託)が知られています。





問59   では、芙蓉・酔芙蓉で有名な場所は何番でしょうか。
                                 (飛鳥地域北部概略図番号照合表

      1: 19(飛鳥坐神社)    2: 24(飛鳥池遺跡)
      3: 34(板蓋神社)      4: 40(橘寺)

 境内には、およそ200株の酔芙蓉が植えられています。9月の中頃が見頃となりますので、第二回飛鳥検定の実施日には、境内に酔芙蓉がたくさん花をつけているかも知れません。

この問題を借りて、橘寺の考古学的な解説を行います。
 橘寺は現在、天台宗の寺院で、正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称します。本尊は木造聖徳太子坐像(聖徳太子勝鬘経講讃像)で、聖徳太子35歳のお姿だとされます。
(ご本尊に関する説明は、問48の解説をご覧下さい。)

 橘という地名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を捜し求めた田道間守が持ち帰った橘の実(トキジクノカグノミ)を植えたことに由来すると伝えられています。
 聖徳太子誕生の地に建ち、太子建立七ヶ寺の一つとされる橘寺は、太子が父用明天皇(橘豊日天皇)の別宮を寺に改めたものとされます。(欽明天皇の別宮とする説もあります。)
また、聖徳太子が推古天皇に勝鬘経を説かれたとき、様々な吉兆が現れ、天皇がこの地に寺院を建立することを誓願したのが橘寺であると伝えられます。

 しかしながら、日本書紀には橘寺創建の記事は無く、不明な点も数多く残ります。
 橘寺の発掘調査は、昭和28年(1953)から始まり、現在までに21回に及びます。調査の結果、創建当初の伽藍様式は、東面する四天王寺式伽藍配置であると考えられました。

 塔は、地下式の心礎で、基壇の下1.2mにありました。
 塔心礎の心柱穴は、直径約0.8mで、添え柱穴が三ヶ所作り出されていました。このような様式は、野中寺や若草伽藍などのものが知られますが、地下式心礎と共に古い様式であると考えられます。

創建当時の塔は、推定の高さ36mの五重塔として復元が出来るようです。また、塔内の荘厳にはセン仏が用いられていたとされています。


山田寺金堂建築様式図

 金堂は、現在の経堂南西隅を隅とする南北約20m、東西16.7mの土壇が発見されており、金堂跡だと推定されています。鎌倉時代に作られた「諸寺縁起集(護国寺本)」には、「金堂は一間四面、二階」と書かれており、山田寺と同じ様式の金堂であった可能性が高いと思われます。

 講堂は、二面石のすぐ側で凝灰岩の基壇地覆石が発見されており、推定される大きさは、間口38.2m、奥行き20.9mと考えられ、7間×4間の建物に復元されます。現在の本堂は、創建当時の講堂の北半分に位置することになります。

 中門は、現在の東門位置が北東隅となる位置にあり、3間×2間の規模になります。

 回廊に関する発掘調査では、本堂の北東角から東に約3mの位置に地覆石と思われる南北の石列が検出されています。また、講堂の北側で、回廊北西隅と推定される地点が発掘調査をされているのですが、回廊の遺構は発見されませんでした。これらのことは、橘寺が「四天王寺式伽藍配置」ではなく、講堂が回廊外にある「山田寺式伽藍配置」であったことを示しているように思われます。
(参考資料:古代寺院伽藍配置図
 寺伝に書かれるように講堂が奈良時代の建立とすると、回廊外に建てられたとする説を補強するようにも考えられますが、検出された石列遺構が狭い範囲での調査であったため、断定することは出来ないようです。


橘寺から川原寺跡に続く参道
 発掘調査ではこの他に、北門と築地塀も発見されました。2間×3間の八脚門で奈良時代の基壇の上に鎌倉時代の北門が再建されていました。また、築地塀は飛鳥時代の板塀を踏襲して鎌倉時代に造りかえられたと考えられました。
 北門は、飛鳥時代の東西道路に面しており、道路を挟んだ北側にある川原寺南門と対象の位置になります。僧寺としての川原寺と尼寺としての橘寺が、同時期に一対のものとして整備されたことが推測されます。

 橘寺の発掘調査からは、川原寺と同じ様式の軒丸瓦が出土するのですが、伽藍や金堂の建築様式を考えると山田寺の様式を踏襲しているようにも考えられます。(僅かに飛鳥寺の様式を示す瓦も出土していますので、前身となるお寺の存在も推測されます。)
創建時期もこれらの事から、山田寺に近い時期と考えることも出来るように思われます。すなわち飛鳥時代の中期から後半にかけての創建であったと考えられます。

 橘寺は、太子信仰と盛衰を共にしたようですが、室町時代から続く戦乱の中で壊滅的な破壊を受け、永正3年(1506)には多武峰衆徒の焼き討ちにより最後の堂宇も灰燼に帰しました。
 江戸時代初期には、講堂とする建物が復興されているようですが、それも老朽化をきたし、栢森の有志の尽力によって再興され、明治13年に今の姿となる太子殿が完成しています。2007年に大修理が行われ、綺麗になった姿を現しました。

(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 橘寺の伽藍配置と二面石について




問60   奇祭として知られる「おんだ祭」が行われている場所は何番でしょうか。
                                 (飛鳥地域北部概略図番号照合表

      1: 3(甘樫丘坐神社)    2: 19(飛鳥坐神社)
      3: 34(板蓋神社)      4: 10(東大谷日女命神社)

 毎年、2月第1日曜日に、「おんだ祭」と呼ばれる「御田植神事」が行われます。

飛鳥坐神社
 神事は田植えの様子を演じる儀式で、全国各地でも豊作を祈願する神事として行われていますが、飛鳥坐神社の御田植神事が奇祭とされるのは、ひょっとこやおかめの面を着けた村人により、夫婦和合の所作が付加されているためです。境内は、笑い声が起こり、その声が大きければ大きいほど、豊作になるとか、子宝に恵まれるとも言われるようです。

 境内のいたる所に陰陽石が置かれており、子孫繁栄や安産祈願の神社としても知られるのですが、稲渕の男綱や栢森の女綱、また祝戸のマラ石などと共に、素朴な民間信仰から派生したものではないかと思われます。

 飛鳥坐神社の所在地「鳥形山」は、飛鳥神奈備が移された場所であるとされています。延喜式神名帳には「飛鳥坐神社四座」とあり、現在の祭神は事代主神、高皇産霊神、飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈流美乃御魂)、大物主神の四座であるとされますが、異説も多くあるようです。

(参考:飛鳥検定解説集 民俗編 問90)




問1〜20 問21〜40 問41〜60 問61〜80 問81〜100 飛鳥概略図 解答一覧

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「赤色の文字 」は、正解を表します。

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古代寺院伽藍配置図






石神遺跡概略図







酒船遺跡・飛鳥池遺跡参考図