両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第25回定例会


飛鳥と万葉集

事務局作製散策用資料集1
―考古編―

この資料は、第25回定例会:主催講演会「飛鳥と万葉集」の散策用の資料集です。
講師:井上さやか先生にご説明いただく予定の地点を、両槻会事務局が考古学的な視点から資料作成しています。
井上先生のご説明とは直接関係するものではありません。


  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
事前散策ルートマップ 軽の衢 丈六 剣池 豊浦寺 豊浦ヒブリ
甘樫坐神社 平吉遺跡 雷丘 雷内畑遺跡 雷丘東方遺跡 山田道
石神遺跡 散策資料 万葉集編 当日レポート 両槻会


この色の文字はリンクしています。

事前散策ルートマップ


より大きな地図で 両槻会第25回定例会 講演会事前散策ルート を表示
赤マーク:万葉歌碑 緑マーク:解説場所


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軽の衢

 現在の国道169号線丈六交差点付近が、古代においても下ツ道と阿倍山田道の交差する地点となり、衢(ちまた)が形成され、その周辺に市(軽市)があったことが推測されています。
 衢、または日本書紀には「術」とも書かれ、現在では巷・千股・岐とも書きますが、道路が交差する所で、人々の往来も多く賑わいを見せる所を表しています。そのような場所ですから、市が開かれる立地条件にも適うことになります。
古代の市としては、他には海石榴市などが有名ですが、山田道はその両端に市を持つことになります。

 軽は古くから開けた土地のようです。日本書紀の雄略天皇10(466)年には、「軽村に養鳥人をおいた。」との記載があります。また、推古20(612)年、堅塩媛の檜隈大陵への改葬に際して、軽の路上で誄が行われ、他にも、天武天皇10(682)年には軽市で騎馬の検閲が行われた記述があります。

古代における軽の地域は、橿原市大軽町を中心に広い範囲の地域名のようです。第4代懿徳天皇軽曲峡宮(書紀)・軽境岡宮(古事記)、第8代孝元天皇軽境原宮、第15代応神天皇軽島(豊)明宮と3代の宮が置かれた所とされます。

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丈六

 丈六という交差点名は、丈六仏を連想させます。丈六仏をお祀りするほどの寺院が付近に存在した可能性を示唆しているように思われます。

 丈六交差点の西側の東西道路の南北両側は発掘調査が行われており、丈六北遺跡からは、掘立柱・竪穴・井戸などが検出され、遺物としては、須恵器や土師器が出土しています。また、丈六南遺跡からは、礎石が検出され、瓦・土師器・須恵器が出土しています。これらは、遺物の年代観から飛鳥時代の遺構であると考えられるようです。このような発掘調査の成果から、付近に寺院が存在した可能性があり、厩坂寺などがその候補に上がっているようです。
 厩坂寺は、興福寺の前身寺院だとされるお寺です。

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剣池

 現在の名称は「石川池」です。一見すると孝元天皇陵(剣池嶋上陵)の周濠の様に見えますが、孝元天皇の実在性はともかくとして、天皇陵とされる古墳自体が確認されたものではありません。自然丘陵上に造られた円墳2基と前方後円墳1基(中山塚1~3号墳<名称はウィキイによる>が陵内に存在するとされていますので、一つの墳墓とは考えられないようです。よって、池自体も別の目的で、別の時代に築かれたものと考えられます。

日本書紀の応神天皇11(281)年冬10月の条に、「剣池・軽池・鹿垣(かのかき)池・厩坂池を作った。」とあります。付近に4つの灌漑用の池が造られたようです。孝元天皇の在位とされるのは紀元前3世紀頃ですので、池の造営とは約500年の時代差があります。紀元前に周濠のある古墳が造られていよう筈も無いのですが。

剣池は、もう一度書紀に登場します。皇極天皇3 (644) 年6月、「剣池の蓮のなかに、一本の茎から二つのうてなの出ているものがあった。豊浦大臣は、『これは、蘇我臣が栄えるというめでたいしるしだ』とかってに考えて、金泥でそれをえがき、大法興寺の丈六の仏に献上した。」とあります。
歴史の皮肉なのでしょうか、翌年の乙巳の変で蘇我本宗家は滅びてしまいます。

孝元天皇の皇子の彦太忍信命は、武内宿禰(葛城氏・蘇我氏・平群氏・紀氏の祖)の父(または祖父=書紀)とされますが、有力諸豪族が天皇に続く系譜を持ち、蘇我氏と葛城氏が同族であるとする根拠にもなっています。孝元天皇陵(剣池嶋上陵)が、蘇我氏の勢力圏の真中に存在するのも、何かを意味しているのかも知れません。

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豊浦寺

 豊浦寺跡には、現在、浄土真宗本願寺派の向原寺が建てられており、境内の発掘調査から、下層に古代寺院の存在が明らかになっています。境内は、ほぼ古代の豊浦寺の講堂であったと思われます。また金堂は、南側の豊浦集落の集会所付近に建立されていたことが明らかにされています。塔跡は、塔心礎とされる礎石の存在する付近に石敷をめぐらした基壇が発見されていますが、位置や他堂宇との方位の違いがあり、塔と確定するには疑問も残ります。
 豊浦寺は四天王寺式伽藍が推定されていますが、地形に影響された特異な伽藍配置であった可能性も残るのではないかと思われます。


 豊浦寺は、我国の仏教公伝と深く関わる非常に古い歴史を持ちます。欽明13(552)年 10月、百済・聖明王の献上した金銅仏像・幡蓋・経論などを授かった蘇我稲目が、小墾田の家に安置し、また向原の家を寺としたことが書かれています。
 また、元興寺縁起併流記資材帳によれば、戊午年(538)に牟久原殿に初めて仏殿が設けられ、これが敏達11(582)年に至って桜井道場と呼ばれ、15年には桜井寺と改称し、推古元(593)年、等由羅寺へと変わって行ったとされています。
 両記事から、蘇我稲目の向原の邸宅が寺(仏殿)として改修され、それが豊浦寺へと発展していったことが分かります。

 推古11(603)年冬10月、天皇は豊浦宮から小墾田宮に遷ります。豊浦宮の跡地に豊浦寺が建てられることになります。この移り変わりを物語る遺構が、向原寺境内に存在しています。(遺構は、見学可能です。)

 豊浦寺創建時講堂は、南北約20m、東西約40mの基壇の上に建てられた礎石立建物で、南北15m以上、東西30m以上の規模を持ちます。(飛鳥寺講堂とほぼ同規模)

 建物は、北で西に約20度振れる方位を示しています。そして、その建物に先行する遺構が講堂の下層に在ることが確認されました。南北4間以上、東西3間以上の掘立柱建物で、柱の直径が30cmの高床式南北棟建物として復元出来るようです。建物の周りには石列がめぐり、建物の外側に約4m幅のバラス敷が検出され、特殊な建物であったことが容易に想像できます。

 バラス敷は、講堂の下層全面から金堂下にも及んでいたようです。また、この遺構時期と思われる6世紀後半の石組遺構や柱列が、回廊や尼房下層からも発見されています。
 これらの遺構は、豊浦寺に先行する豊浦宮の可能性が高いと推測できます。また、稲目の向原の家の一端を見せているのかもしれません。

 金堂は、東西17m・南北15m(飛鳥寺の約8割の規模)、塔が周囲に石敷きを伴う東西約14m(基壇規模)で南北規模は不明です。この他、回廊や尼坊と推定される遺構が講堂跡の西から検出されています。

 これら堂宇の造営年代を推定する手段のひとつとして、軒丸瓦など瓦の年代観が用いられます。

星組(飛鳥寺出土品)
明日香村埋蔵文化財室展示
船橋廃寺式(参考)
 現・法輪寺
新羅系(豊浦寺出土品)
 明日香村埋蔵文化財室展示品

 豊浦寺創建には、30種類近くの瓦が使用されたと言われています。その中で、主となる瓦当文様は、上の3種類になります。
 金堂は、主に飛鳥寺と同じ星組の瓦(素弁九葉蓮華文軒丸瓦・素弁十一葉蓮華文軒丸瓦など)が飛鳥寺に遅れて使用されていることから、6世紀末から7世紀初頭の間に造営が開始されたと考えられます。
 講堂は船橋廃寺式を主体として、塔は特徴のある新羅系軒丸瓦を主体として、それぞれ7世紀中頃までには造営が開始されたと考えられます。

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豊浦ヒブリ


 和田池の北東岸に小さな竹薮になった丘があります。「火振山」または「摩火振山」と呼ばれているようです。
 飛鳥地域には、「ヒフリヤマ」「火振山」「フグリ山」「張山」「火振塚」やそれが転訛した地名がたくさん存在しています。「ヒフリ」の地名は、飛鳥を取り囲むように点在し、それらの多くは、重要な幹線道路を見下ろすような位置にあります。
 斉明6(660)年に唐・新羅連合軍の攻撃によって百済が滅びた後、百済遺臣の鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の動きが起こります。また、倭国に滞在していた豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請します。我国の実権は中大兄皇子にあり、総数42,000人の大部隊を派遣しますが大敗を喫します。
 天智2(663)年、この大敗を受けて、我国は軍事的な緊張感が高まります。北部九州の水城や防人の配置、また瀬戸内海の沿岸には、山城が次々と築かれます。そして、都は近江に移されることになります。

 また、時代が過ぎて、壬申の乱後の天武政権は、「政の要は軍事なり」との記載もあることなどを考えると、飛鳥にも何らかの防衛上の構想があったことを想定するのは、容易いことのように思えます。
 南の紀路方面には、森カシ谷遺跡など、軍事的な意図を持ったと思われる施設の遺構が発見されています。

 豊浦火振山は、官道「山田道」を間近にする位置にあり、飛鳥の北西端にあります。北から北西に視界が開け、飛鳥の喉元を押さえる重要な位置に存在します。 この豊浦の「火振山」は、飛鳥を取り囲む烽火台ネットワークの一つだったのかも知れません。

 ただ、雨乞いの神事の中に、火振と呼ばれるものがあり、在所の山頂付近で松明を振る神事もあります。「ヒフリ山」の全てが、烽火台であったかどうかは確証が持てないところです。

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甘樫坐神社

 社伝によると、この神社の祭神は大禍津日(おおまがつひ)神、神直日(かむなおび)神・大直日(おおなおび)神、他2座と推古天皇の6柱としています。主祭神は推古天皇となっていますが、推古天皇が祀られるようになったのは、江戸時代からだそうです。推古天皇以外の神名を見ると、詳しくは分かりませんが、この神社で行われる盟神探湯の神事を連想させる神名になっています。

 日本書紀には、応神天皇紀と允恭天皇紀、また誓湯(うけいゆ)として継体天皇紀にも記事があります。盟神探湯は煮えた湯の入った釜に手を入れ「正しき者には火傷なし、偽りし者は大火傷あり」という裁判が行われました。(再現神事が行われた時の配布資料による) 裁判と言って良いかどうかは疑問ですが、神事という形を借りた心理的な尋問方法ではなかったかと思われます。書記にも「ことさらに偽る者は、恐れて、あらかじめ退いてしまって釜の前に進むことがなかった。」と書かれています。
応神天皇9(279)年4月条に、武内宿禰が弟の甘見内宿禰の讒言を受けて殺されそうになり、武内宿禰が潔白を主張したので、天皇は2人に磯城川で探湯をさせたとの記事があります。

 また、允恭天皇4(416)年9月条には、上下の秩序が乱れて、むかしの姓を失ったり、わざと高い氏を名乗る者も出てきたので、それを正すために甘樫丘で盟神探湯を行ったという記事があります。
各自が沐浴斎戒し、木綿の襷をつけて探湯を行い、正しく姓を名乗っている者は何ともなく、詐りの姓を名乗っている者は皆火傷をしたので、後に続く者の中で詐っている者は恐れて先に進めなかったので、正邪がすぐにわかったとあります。この条の註記には、「盟神探湯 あるいは泥を釜に入れて煮沸して、手でかきまわして湯の泥を探り、あるいは斧を真赤に焼いて、掌に置いたりした。(日本書紀注釈)」と書かれています。

 継体天皇24(530)年9月条には、任那人と日本人との訴訟を決することができなかったので、誓湯を行った記事があります。


甘樫坐神社境内 豊浦の立石

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平吉遺跡

平吉遺跡遺構図
 甘樫丘の北西麓部、南から北へ緩やかに傾斜する台地上にあたり、甘樫丘麓として初めて調査された場所になります。

 1977年の奈良文化財研究所による調査で、遺構は6世紀から9世紀に渡るA・B・C・の3期に分類されています。

 A期(6世紀)では、遺跡中ほどに東西約4.6m・ 南北約4.7mの床面に柱穴4個が確認された竪穴住居。B期(7~8世紀)では、掘立柱建物8棟、塀5基・井戸2基・長方形石組炉3基と石列など。
 また、8世紀(奈良時代)の遺構として、池と護岸石列や導水石組溝が検出されており、庭園遺構だとされています。現在、芝生広場にある石組溝などは、この遺構の復元であると思われます。

 C期(9世紀以降)では、木棺墓(冠・石帯・砥石・土器などを副葬する)が検出されています。
  B期の遺構は、さらにⅠ類・Ⅱ類の2期に分類することができるそうです。
Ⅰ類は、遺跡の西側にほぼ一列に並んだ建物群で、北に対して東に約20度触れる方位を持っています。遺跡中ほどに炉跡が3基あることから、上記の掘立柱建物跡は鉄や銅製品の製造に関わっていた工房跡だと考えることも可能かもしれません。また、この遺構の東側にあたる部分には、排水用の護岸かと思われる石列が断続的に検出されたため、この時期、遺跡東側は谷筋に当たっていたと推定されています。

 Ⅱ類は、遺跡中央の東西塀のほかに、西と南にそれぞれ一棟ずつの建物跡と井戸跡のみになります。南の掘立柱建物と井戸は作り替えられているそうです。
 瓦類の出土は、主に豊浦寺と同笵の新羅系軒丸瓦や鬼板などで、谷筋の中央部分からの出土になります。

 遺構の変換や出土遺物などから考えると、北西約200mにある豊浦寺と縁のある施設(瓦窯や鋳造関連の工房)があったと考えるのも面白いと思います。


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雷丘

 雷丘は高さ約20mの丘です。平安時代初期の説話集「日本霊異記」に、雄略天皇の侍者である小子部栖軽に呼びつけられた雷神が雷丘に落ち、その雷神は捕らえられたとあります。また栖軽の死後に墓を建てたとの記述もあります。

 2005年に発掘調査が行われ、雷丘西斜面から雷神伝承と同時期となる5世紀後半の円筒埴輪片約500個が出土しています。雷丘東方遺跡や山田道沿いの調査からも円筒埴輪が出土しており、雷丘には5世紀後半~6世紀前半に丘上に古墳(群)が存在していた可能性があります。
また、西斜面からは、7世紀と推定される小型石室も3基検出されていますが、これらは他の用途の石組ではないかとの見解もあるようです。 

 神聖な丘ともされ、また小墾田宮の近辺でもある丘の斜面に7世紀の古墳があったとは考えにくいように思われるのですが如何でしょうか。

 丘上には、15世紀頃の中世城砦跡が見つかっており、名前だけが知られていた雷城の構造が分かりました。 飛鳥時代の遺構は、この中世城砦が造られた時の大規模な削平によって破壊されたものと思われます。また、本来の雷丘は、東および北に大きかった可能性が示されています。北と東に備えた城砦を造るために急斜面にしたのかも知れません。

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雷内畑遺跡

 この遺跡は、雷丘(城山)と上ノ山の間にある遺跡です。7世紀中頃以降の池の護岸(庭園遺構)や掘立柱遺構が検出されており、池は、その後に石積みと石敷広場に作り替えられているようです。遺跡の時代推定から、皇極天皇の小墾田宮に関わる苑池の一画とも考えられ、雷丘東方遺跡と合わせて興味深い遺跡です。

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雷丘東方遺跡

 雷丘東方遺跡は、これまでの調査で、計画的に配置された奈良時代の倉庫群や礎石建物が検出されており、平城京や難波宮と同じ瓦が出土することから、役所あるいは宮殿であった可能性が高いと指摘されています。 また、「小治田宮」・「小治宮」と書かれた墨書土器のまとまった量の出土は、奈良時代以降の小治田宮がこの地に在った可能性を更に高めています。  

 付近には飛鳥時代の遺構も存在することから、遡って推古天皇の小墾田宮も同地付近に在ったのではないかと推測されます。 

 また、奈良時代の井戸枠が発見されているのですが、木材の年代を測定した結果、758年に伐採された木材であることが判明しました。続日本書紀には、天平宝字4(760)年、淳仁天皇が「小治田宮」に行幸したことが書かれており、井戸や周辺の建物跡は、この時に合わせて整備された小治田宮の付帯施設であると考えられるようです。

 これらの発掘成果によって、従来は豊浦にある古宮土壇付近を小墾田宮としていたのですが、この雷丘東方遺跡を小墾田宮とする説が最有力となりました。
しかしながら、古代の幹線道路の山田道との位置関係など、不明な点も多く残ります。 


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山田道

 古代の大和盆地には、国家によって整備された幾つかの道路がありました。主なものには、横大路という東西の道路と、上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれる等間隔に並んだ南北の三道などがあります。阿倍山田道もまた、そのような官道の一つでした。

 「山田道」は、近鉄橿原神宮前駅東口から東へ伸び、丈六付近で下ツ道と交差し東進した後、桜井市山田付近で丘陵に沿って北東方向に緩やかなカーブを描きながら、安倍寺の東側でほぼ南北の直線道路となります。横大路と交差してから以北は、上ツ道と呼ばれ更に北に伸びます。
山田道沿いには、推古天皇の豊浦宮・小墾田宮といった飛鳥時代初期の宮があり、その先には飛鳥時代以前の歴代天皇の宮殿があった磯城・磐余地域があります。軽・飛鳥・磯城・磐余という古代の重要地点を結ぶ幹線道路が山田道だと言えます。

 山田道が、文献に登場する例としては、まず9世紀初めに書かれた「日本霊異記」が上げられます。上巻の第一話に雄略天皇の時代の話として、山田道らしき道路が登場します。雄略天皇の命令を受けた少子部栖軽が雷神を求めて磐余宮から「阿倍山田の前の道」「豊浦寺の前の道」を通って、「軽の衢」に至ったと書かれています。

 5世紀から6世紀にかけて、磐余は宮地として存在していました。軽もまた応神天皇の宮が置かれるなど、重要な拠点であったようです。その2点間を結ぶ道路として、山田道は古くから、存在していた可能性を示しているのではないでしょうか。

 日本書紀推古16(608)年、聖徳太子の「日出処の天子・・・」の書き出しで始まる書簡で有名な遣隋使に対して、大唐の使者として裴世清が入京します。瀬戸内海を船で難波津に着け、2ヶ月の滞在の後いよいよ飛鳥へ入ることになります。
 同8月の条に「・・この日、飾り馬七十五匹を遣わして、唐の客人を海石榴市の路上に迎え、・・・。」という日本書紀の記述は、海石榴市から小墾田宮へは、歓迎のパレードが行われたことを示しています。

 海石榴市から小墾田宮までは、山田道以外のルートは考えにくく、この期に山田道は整備や改修が行われたのでしょう。
 これを裏付ける発掘調査の成果があります。2002年桜井市教育委員会によるはもので、安倍寺の直ぐ東から小礫や土器片によって舗装され、さらに石組の側溝を伴う道路遺構が検出されました。また、土器片などから7世紀前半の遺構であることが判明しています。

 山田道が発掘調査で見つかった事例をもう一つ紹介します。2007年、奈文研がおこなった石神遺跡第19次調査で、山田道の南側溝と路面が検出された。それ以前の調査結果と合わせて、路面幅は約18m。両側に側溝を持つ立派な道路であったことが分かりました。また、道路は敷葉工法という基底部に木の枝葉を敷き詰めて土を盛る基礎工事を行っており、石神遺跡北方という沼沢地に道路を建設する工夫がなされていました。それだけ重要な道路であったと言えます。これらの遺構は、7世紀中頃のものであるとされました。

 2つの発掘成果は、山田道の遺構ではありますが、両者は時期が同じではありません。安倍寺付近の舗装道路は7世紀前半、石神遺跡の北方は7世紀中頃です。裴世清が通った山田道は、まだ小墾田宮付近では発見されていないことになります。

 詳しくは、飛鳥遊訪マガジンで近江俊秀先生が書いてくださっていますので、ご覧下さい。
両槻会サイト内 「飛鳥のみち 飛鳥へのみち 阿倍・山田道編

山田道ルートマップ

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石神遺跡

 2009年春までの継続調査で、石神遺跡の中枢部では7世紀全般に亘る建物や石敷広場や池・溝などの遺構が検出されています。これらは大きく分けて3時期に区分されると考えられています。

 A期(7世紀前半~中頃)とされる遺構は、大規模な長廊状の建物や四面庇建物、池・井戸や石組溝が配置されていました。これらは斉明朝の饗宴施設と考えるのが有力とされており、須弥山石や石人像もこの時期のものであるとされています。

 B期(7世紀後半)になると、大規模な土地利用の変更が行われます。塀で区分された土地に、掘立柱建物が配置されました。これらは、天武朝の官衙であろうとの見解が示され、小墾田兵庫の可能性も指摘されています。

 C期(藤原京期)になると、再度、建物は方形の区画に再配置されています。出土遺物などや藤原宮東方官衙の建物配置との類似から、同様の官衙であると推定されています。

 2009年の春の第21次調査では、A期に含まれる遺構も検出され、斉明期の饗宴施設が造られる以前に、瓦が使用された建物があったことが分かってきました。
 使用された瓦は、推古朝から舒明朝に分類される物(奧山廃寺式)で、石神遺跡には、より古い時代から重要な仏教関連施設が存在した可能性がクローズアップされてきました。

 石神遺跡の説明を簡略に書くことは大変難しく、重要な遺物だけでも書き切れないほど多数出土しています。石神遺跡の発掘調査は、その規模が確定したことで終了した模様ですが、まだまだ分からないことが多く有ります。今後の調査研究を期待したいと思います。
 石神遺跡については、下記リンク先ページを参照してください。

両槻会サイト内 
 ・遊訪文庫
  「ただ今、飛鳥・藤原修行中-石神遺跡の瓦葺建物- 石神遺跡第21次調査から-」
 ・第18回定例会「飛鳥咲読」
 ・第18回定例会レポート

石神遺跡概略図



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瓦の画像は、明日香村埋蔵文化財展示室に掲載許可を頂いています。
画像及び文章の無断転載・転用は禁止します。

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