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推古11(603)年冬10月、天皇は豊浦宮から小墾田宮に遷ります。豊浦宮の跡地に豊浦寺が建てられることになります。この移り変わりを物語る遺構が、向原寺境内に存在しています。(遺構は、見学可能です。)
豊浦寺創建時講堂は、南北約20m、東西約40mの基壇の上に建てられた礎石立建物で、南北15m以上、東西30m以上の規模を持ちます。(飛鳥寺講堂とほぼ同規模) |
建物は、北で西に約20度振れる方位を示しています。そして、その建物に先行する遺構が講堂の下層に在ることが確認されました。南北4間以上、東西3間以上の掘立柱建物で、柱の直径が30cmの高床式南北棟建物として復元出来るようです。建物の周りには石列がめぐり、建物の外側に約4m幅のバラス敷が検出され、特殊な建物であったことが容易に想像できます。
バラス敷は、講堂の下層全面から金堂下にも及んでいたようです。また、この遺構時期と思われる6世紀後半の石組遺構や柱列が、回廊や尼房下層からも発見されています。
これらの遺構は、豊浦寺に先行する豊浦宮の可能性が高いと推測できます。また、稲目の向原の家の一端を見せているのかもしれません。
金堂は、東西17m・南北15m(飛鳥寺の約8割の規模)、塔が周囲に石敷きを伴う東西約14m(基壇規模)で南北規模は不明です。この他、回廊や尼坊と推定される遺構が講堂跡の西から検出されています。
これら堂宇の造営年代を推定する手段のひとつとして、軒丸瓦など瓦の年代観が用いられます。