飛鳥地域北部概略図(クリックで別ウィンドウが開きます)を見ながら、4択の中から該当する遺跡・史跡の地図上の番号をお選びください。
問1 飛鳥時代は、推古天皇が飛鳥地域内の宮に即位した592年から、710年の平城京遷都までの約120年間をさします。さて、飛鳥時代の幕開けとなった推古天皇の宮の一部だと推定される石敷遺構が検出されている場所は何番でしょう。
(飛鳥地域北部概略図番号照合表)
1: 2(雷丘) 2: 4(豊浦寺跡)
3: 13(石神遺跡) 4: 38(飛鳥京跡井戸遺構)
豊浦の向原寺から南にかけては、東側より一段高い地形となっており、豊浦宮・豊浦寺の推定地とされてきました。向原寺の寺域で数度の発掘調査が行われており、7世紀前半に建立された豊浦寺の講堂と推定される建物跡が発見されています。
さらにその下層から、石敷を伴う掘立柱建物跡が検出されました。建物は南北3間以上、東西3間以上であることが分かっています。飛鳥で発掘される宮殿の特徴の一つは、建物の周囲に石敷きを持っていることですが、それに合致する調査結果が出たことになります。

向原寺下層遺構
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このようにして得られた発掘調査の結果は、この地に豊浦宮が造営され、宮が小墾田宮に遷都された後に、豊浦寺が建立されたことを示しているように思います。
向原寺では発掘調査された遺構の一部が公開されています。遺構面が見られるのは、発掘現地説明会を除けば、限られた機会しかありませんので、貴重な存在となっています。
(参考資料:飛鳥時代の宮の変換)
(参考:豊浦宮)
問2 明日香村内では最後の宮となった天武天皇の飛鳥浄御原宮の内郭北正殿とされる遺構が検出されたのは何番でしょう。
(飛鳥地域北部概略図番号照合表)
1: 7(奥山久米寺跡) 2: 28(飛鳥京跡南北基幹排水遺構)
3: 37(飛鳥京跡内郭正殿跡) 4: 39(橘旧寺域遺構)
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3層4期の宮跡が重なって存在するといわれる飛鳥宮跡の最上層にあるこの遺構は、考古学的には第3期Bと呼ばれていますが、斉明天皇の後飛鳥岡本宮を継承し改修した、飛鳥浄御原宮とされています。 |
2005年、2006年と続けて2棟の大型掘立柱建物(東西8間・南北4間の同規模建物)が検出され、石敷遺構を伴ったこれらの建物は、内郭の正殿ではないかと注目を集めました。建物は南北に庇を持つ切妻式の建物で、床束が検出されたことにより、床を持つ建物であることが分かりました。この調査によって、天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮の内郭のほぼ全容が明らかになりました。

内郭南正殿跡(2005.3.) 内郭北正殿跡(2006.3.) |
(参考資料:飛鳥京関連遺構配置図)
(参考資料:飛鳥時代の宮の変換)
(参考:第2回定例会資料 埋もれた古代を訪ねる 飛鳥宮)
(参考:飛鳥浄御原宮)
問3 乙巳の変の舞台の一つでもあった蘇我入鹿邸の一部と推定される、と報じられた遺構が検出された場所は何番でしょう。
(飛鳥地域北部概略図番号照合表)
1: 1(雷丘北方遺跡) 2: 12(平吉遺跡)
3: 16(酒船石) 4: 25(甘樫丘東麓遺跡)

甘樫丘東麓遺跡 |
飛鳥で最も有名な場所の一つ、甘樫丘の東南麓に遺跡はあり、「甘樫丘東麓遺跡」と呼ばれています。2005年から継続した調査が行われており、蘇我入鹿の「谷の宮門」と称された邸宅の一部ではないかと話題を集めました。

甘樫丘東麓遺構図
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2005年の調査では、7世紀の掘立柱建物跡が6棟検出され、2006年からは本格的な発掘調査が始まり、谷を埋め立てる大規模な盛り土、多くの掘立柱建物跡、石垣などが確認されています。起伏のある自然地形だった谷地の一部に、7世紀前半に土を盛って平坦な敷地を造り、石垣を築いていました。
しかし、この石垣は、7世紀中頃から後半に埋め立てられてしまいます。 |
その跡地には、広い平坦な土地が造り出され、建物が建ちました。その建物は三回以上建て替えられていて、活発な土地利用が伺えます。2008年春の調査では、7世紀中頃の土器が出土し、建物を取り壊し整地した時期が特定されました。
これらの発掘調査の成果は、蘇我本宗家の盛衰と時期を同じくしており、乙巳の変前後の飛鳥の歴史を物語っているように思えます。
(参考:飛鳥遊訪文庫 特別寄稿 「甘樫丘東麓遺跡の調査」 奈文研 豊島直博先生)
以下は、4択問題です。
問4 飛鳥寺には国内最古の金銅仏、通称「飛鳥大仏」と呼ばれる釈迦如来坐像があります。2008年4月8日には開眼供養から1400年を迎え、慶讃法要が営まれました。さて、飛鳥寺は過去2度の火災に遭っていますが、この飛鳥大仏は昔も今もその位置を変えていないと言われています。現在、安居院と呼ばれるその場所は、創建当時には次のどの堂宇だったでしょうか。
1:西金堂 2:中金堂 3:東金堂 4:講堂

飛鳥寺伽藍配置 |
飛鳥寺伽藍配置 飛鳥寺は五重塔を中心に、中金堂、東金堂、西金堂からなる一塔三金堂式で、東西約200m、南北約300mもある壮大な伽藍を持った寺院でした。その周りに回廊があり、回廊の外の北側に講堂を設けた伽藍様式であったことが分かっています。
しかし、寺は887年と特に1196年の塔への落雷による火災のため、伽藍の多くを焼失したようです。後は衰退が著しく、江戸時代に再建されたのが中金堂のあった場所に建てられた今にある安居院の前身堂宇になります。 |
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本尊飛鳥大仏(釈迦如来坐像)は、605年(推古13年)天皇の詔により、鞍作鳥仏師に造らせた日本最古の仏像と言われていますが、二度にわたる火災で損傷も激しく修理を重ねてきましたが往時の姿を留めているものは、頭部では額・両眉・両眼・鼻梁、左手の掌の一部、右膝上にはめ込まれる左足裏と足指、右手中指・薬指・人差指だけと言われています。勿論この大仏は中金堂に安置されていました。 |
(飛鳥大仏1400年祭は、「元興寺縁起」所引の「丈六光背銘」に書かれている、推古天皇17年(609)に完成したとする説によります。日本書紀には、推古13年(606)4月に完成したと書かれています。)
(参考:第2回定例会資料 埋もれた古代を訪ねる 飛鳥の遺跡)
(参考:飛鳥寺探検)
(参考:飛鳥寺跡)
問5 2008年3月、藤原宮大極殿院南門跡の発掘調査で、地鎮具として使われたと思われる平瓶が発見されたことは記憶に新しいところです。この平瓶の口部には、飛鳥池遺跡から出土した富本銭とは異なる富本銭9枚が栓のように置かれていました。また、その中には、富本銭を通して浸み込んだと思われる雨水と共に、あるものが9個入れられているのが見つかりました。さて富本銭とは別に、平瓶の中に残っていた9つのものとは次のどれでしょうか。
1:ガラス 2:ヒスイ 3:メノウ 4:スイショウ
藤原京の地鎮祭のことは日本書紀に見える持統5年(691)の「新益京(あらましのみやこ=藤原京)を鎮め祭らしむ」と、持統6年(692)に「浄広肆(じょうこうし)難波王等を遣わして、藤原の宮地を鎮め祭らしむ」の記事が見えますが、今回発掘されたのはその時のいずれかのものだったと考えられています。
地鎮祭は、陰陽道に端を発しています。日本における陰陽道は、風水思想や五行思想を取り入れ、吉凶を占う技術として神道、道教、仏教等にも影響を受けながら独自の学問として発展して行きます。5〜6世紀に伝えられた陰陽道は、天文・遁甲の才能があったとされる天武天皇の頃に大きな画期を迎えます。陰陽道は、律令制の下に置かれ、陰陽寮へと組織化され、急速な発展を遂げて行きます。
9と言う数字は陰陽道にあっては最高の陽の数字です。富本銭が9枚使われたのは、この藤原京が富に栄えるように願い、その平瓶の中に水晶を9つ入れたのは水晶が「心と体に働きかける『気』を集め浄化する」ものと考えられていたところから、共にその最たるものを願って執り行われたのかもしれません。

富本銭レプリカ |
(参考資料 :貨幣に関する日本書紀の記載及び無文銀銭について )
(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 富本銭とアンチモンと飛鳥池遺跡)
(参考:奈文研ニュースNo.28 「藤原宮大極殿院南門出土地鎮具」
−奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ)
問6 高市郡古墳誌に「…石槨の中央に大いなる玄室を有し、前後には何れも東側壁に接し各一個の羨道を有し、もと北方だけ僅に匍匐して内部に潜入し得べき口を開いてあったが、…」と記されていた古墳の本格的発掘調査が行われ、2008年2月の大雪の中で現地見学会が実施された穹窿状の横穴式石室を有する古墳はどれでしょうか。
1:カンジョ古墳 2:牽牛子塚古墳
3:小谷古墳 4:真弓鑵子塚古墳
この日(2008年2月9日)の飛鳥は、珍しく昼前から大雪が降り続く中の「真弓鑵子塚古墳」現地見学会となりました。悪天候にもかかわらず、朝から多勢の考古学ファンが途切れることなく訪れました。
降りしきる雪の中に佇む長蛇の列を見ていると、まるで映画「八甲田山死の彷徨」を想わせる景観を呈し、印象に残る見学会でした。 この「真弓鑵子塚古墳」は、昭和37年にも内部に堆積した土砂が搬出され実測調査が行われていますが、今回はその全貌解明を行うために明日香村教育委員会によって本格的な発掘調査が行われました。見学会ではこの古墳の内部を通り抜けることが出来ましたが、巨石を「持ち送り」と呼ばれるドーム状に積み上げた古墳内部の空間は、石舞台古墳をも凌ぐと思われる広さがあり、積み上げられた巨石が今にも侵入者に迫って来るような威圧感がありました。見学会後も古墳内部の公開が予定されていましたが、保全上の問題もあり、2008年現在のところ公開の目処は立っていないようです。
真弓鑵子塚古墳がある西飛鳥の貝吹山麓にはもう一つの穹窿式石室を伴う鑵子塚である「与楽鑵子塚古墳」がありますが、こちらは未だ本格的な発掘調査は行われていません。 |
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棺台跡 |
この与楽鑵子塚古墳のすぐ近くにある「カンジョ古墳」も穹窿式石室を伴う古墳です。最近の発掘調査で堆積土砂を掘り出したところ、石室の中央部に大王家クラスの精巧な棺台の部分が残っていることが判明しました。
鑵子塚古墳と同様に渡来系豪族の首長墓の特徴を備えながら、高貴な墳墓に見られる稀少な棺台を持つことから、その被葬者が話題になりました。
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上記のこれらの古墳は、巨石をドーム状に積み上げる穹窿式石室と呼ばれる特異な築造工法や、副葬品にミニチュア炊飯具が伴う出土遺物の特徴などから、いずれも、この地域に定着した渡来系豪族の首長墓と考えられているようです。
なお、「牽牛子塚古墳」と「小谷古墳」は、西飛鳥の古墳をめぐる両槻会の第6回定例会の際に回っています。
「牽牛子塚古墳」は、麻布を漆で固めた高度な技法の夾紵棺の破片が出土していることや、二室石室の八角形墳墓であったことから、間人皇女とともに眠る斉明天皇の合葬墓ではないかとされています。
内部に蓋の開いた家型石棺が残されている「小谷古墳」は、墳丘の封土がすっかり失われ、貝吹山から伸びる尾根上に巨大な石室が露出している両袖式横穴石室の終末期古墳です。
(参考:明日香村の文化財10 「真弓鑵子塚古墳」)
(参考:飛鳥遊訪文庫・飛鳥古譚 「真弓鑵子塚古墳見学会」)
問7 次の寺のうち、日本書紀に名前が現れないのはどれでしょうか。
1:檜隈寺 2:大窪寺 3:軽寺 4:安倍寺
「日本書紀」朱鳥元年8月21日に「檜隈寺・軽寺・大窪寺に食封それぞれ百戸を、30年を限り賜った」との記載がありますが、安倍寺の記載はありません。また、檜隈寺・大窪寺・軽寺に関しても、これ以外の記事は、日本書紀には見られません。

安倍寺 |
安倍寺はその跡地が、阿倍山田道の東端・桜井市阿倍にあります。創建者は、孝徳朝の左大臣・安倍倉梯麻呂だとされ、東西に並ぶ金堂・塔を回廊が囲む法隆寺式伽藍配置が推定されています。
出土遺物から、7世紀中頃には建立に着手されていたと考えられ、倉梯麻呂創建説を裏付ける形となっています。 |
その後、東大寺の末寺となり「東大寺要録」にも、安倍寺は別名「崇敬寺」、創建者は安倍倉梯麻呂であると記されています。
鎌倉時代に移転し、現安倍文殊院がその後身だといわれています。安倍文殊院境内には、7世紀中頃に造られた精緻な切石造りの文殊院西古墳や、7世紀の前半の閼伽井(あかい)窟とも呼ばれる文殊院東古墳があり、これらは安倍氏一族の墓だと推定されています。
1の檜隈寺は、明日香村檜前にある於美阿志神社の境内に跡地として残っています。於美阿志神社は、東漢の祖・阿智使主(あちのおみ)を祭神とし、元々西側の低地にあったものが、明治40年に今の高台へと移転されました。

檜隈寺伽藍配置 |
檜隈寺は、阿智使主から続く東漢氏の一端をになう檜隈氏の氏寺だとされていますが、朱鳥元年の書紀の記事以外には正史にも登場せず、詳細は不明です。
檜隈寺伽藍配置図 特異な伽藍配置は、地形の制約を受けたものだという説もあり、7世紀後半に金堂、7世紀末に塔と講堂が建てられたことが出土遺物から推定されています。この2期に分かれる建立の背景には、645年の蘇我氏滅亡、677年の天武天皇からの叱責など、東漢氏にとっての危機的状況があったと思われます。氏寺建立を通し一族の結束を固め、時勢を乗り切ろうとしたとの見方もあるようです。また、飛鳥寺と酷似する瓦の出土もあり、それ以前の前身遺構の存在も推測されます。 |
その後の檜隈寺は、発掘調査から奈良時代までは建物も維持され、平安時代後半には講堂基壇の補修や十三重塔の建立などが行われたことがわかっています。中世には、講堂が倒壊し、その上に小さなお堂が建てられたと推定できるようです。
(参考:本居宣長 「菅笠日記下の巻」 )
(参考:檜隈寺跡 )
2の大窪寺は、橿原市大久保町にある国源寺が法灯を伝えるとされています。

国源寺付近 |
大窪寺も日本書紀の朱鳥元年の記事にその名がみえるだけで、伽藍配置も明らかではありません。塔心礎と伝えられる礎石が国源寺近くに置かれています。
この礎石の南側が発掘調査され、掘立柱穴などが検出されていますが、大窪寺に関連するものかどうかの断定はできないようです。 |
出土している軒瓦に、軽寺式に酷似するもの、山田寺式に酷似するものなどがあり、これらが大窪寺創建に使用されたと推定すれば、7世紀中頃には何らかの堂宇が建立されていた可能性があります。

軽遠望
(五条野丸山古墳より北を望む) |
3の軽寺は、橿原市大軽町・五条野(見瀬)丸山古墳の裏手(北側)の現在の法輪寺周辺にあったとされています。寺域は、北限と思われる柱列の検出や周辺地形との間に数メートルの高低差が認められる点などから、南北は140m以上、東西は65m程の寺域を持っていたと推定されています。この辺りは、下つ道と山田道の交差する辺りで、付近は「軽のちまた」と呼ばれ、古代には賑わった地域であったとされています。が、軽寺もまた、上記の2寺と同じく日本書紀の朱鳥元年の記事にその名がみえるだけで、創建の詳細は不明です。
賀留大臣玄理創建説(法輪寺案内板)や東漢に軽忌寸などの名前が見えることから、渡来系の軽氏の氏寺であったとされています。軽寺式と呼ばれる特異な文様の出土瓦から、7世紀中頃にはなんらかの堂宇が建立されていたと推定されています。また、平安時代には、藤原道長が宿として利用している事から、ある程度の規模を保って後世まで存続していたと思われます。(参考:軽寺跡)
檜隈寺・大窪寺・軽寺は、どれも渡来系氏族の氏寺だとされています。その根拠は様々ですが、朱鳥元年の食封の記事に並列して名が上げられていることがかなりの割合を占めているのかもしれません。また、鎌倉期まで確実に存続し、現在も法灯を継ぐ寺院があるにもかかわらず、何故安倍寺が正史に登場しないのかを考えてみるのも面白いかもしれません。
問8 壬申の乱で、近江方につきながらも、後に許されて大臣にまで出世したのは誰でしょうか。
1:中臣金 2:蘇我赤兄 3:物部麻呂 4:多治比嶋
物部麻呂は、壬申の乱において近江朝の大将・大友皇子に最後まで付き従った一人ですが、なぜか乱後、罪には問われていません。これは、忠誠心を買われたとも、天武側に居た同族(朴井連雄君・エノイノムラジオキミ)の活躍のお陰だとも言われているようですが、真相は謎です。その後、天武5年(676)に新羅へ大使として赴き、天武葬送の際には法官について誅をし、持統3年(689)には、筑紫に派遣され、持統4年(690)の天皇即位の際には、大盾を立てる役を果たしています。その後、文武朝に右大臣、元明朝に左大臣となりますが、平城遷都の折りには、高齢ということもあったのでしょう、旧都の留守役として藤原に残ります。
物部麻呂は、天武13年(684)に他の52氏とともに「朝臣」を賜り、その後に氏名を「石上」に変えたとされています。したがって、日本書紀に登場する「物部連麻呂」と「石上朝臣麻呂」は、同一人物ということになります。(参考資料:物部氏系図)
壬申の乱後の8月25日の処遇で、重罪8人が死罪になっています。
1の中臣金(近江朝右大臣)は刺殺されています。
2の蘇我赤兄(近江朝左大臣)は、子・孫ともども流罪となります。
4の多冶比嶋は、左右大臣に任じられていますが、壬申の乱の折りに近江方についたとの記載はありません。多冶比嶋は、「多冶比真人嶋」とも書かれます。「真人」とは、天武13年に定められた八色の姓のうちの最高位になります。(嶋は、宣化天皇の直系の子孫)
また、氏名の「たじひ」は、「丹比」とも書かれ、日本書紀は主にこの表記を取っていますが、文武天皇以後の正史である続日本紀では、「多冶比真人嶋」と書かれています。
「丹比」の表記は、彼らが河内国丹比郡を本拠地とする氏族であったことが理由とも考えられます。日本書紀と続日本紀に見えるこれらの違いは、それぞれの成立時期における文字への認識の違いによるものだと思えます。(参考資料:物部氏系図)
問9 長屋王が父・高市皇子の供養のために造ったと考えられている寺はどれでしょうか。
1:青木廃寺 2:高市大寺 3:興善寺 4:定林寺
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青木廃寺跡は、奈良県桜井市橋本にあります。出土瓦の中に、岡寺の創建期に使用された瓦と酷似するものが認められることから、遅くとも7世紀末から8世紀初頭には建立されていたとされています。
また、出土した軒平瓦の中に、「延喜六年壇越高階茂生」と瓦当面に逆字の銘文を持つものがあります。これにより延喜6年(906)当時、青木廃寺と高階氏に何らかの繋がりがあったと想定できます。高階氏は、高市皇子と御名部皇女の子である長屋王を祖とする一族が、平安時代(承和11年・844)に臣籍降下した折りに賜った姓です。
出土瓦による創建年代と高階氏との関わりなどの推定から、青木廃寺が持統10年(696)に没した高市皇子の供養の為に長屋王(684〜729)が建立したとも考えられるようです。
(参考資料:飛鳥時代天皇家系図 )
2の高市大寺は、百済大寺を天武2年に高市郡に移し名を改めたとされる寺になりますので、創建年代が古くなり、設問には合いません。
3の興善寺は、香具山の南麓にある寺で、大安寺の道慈律師が開いた香久山寺(香山寺)の後身と言われますが、寺域からは本薬師寺・藤原宮・岡寺などの様式の古瓦が出土し、創建は奈良時代以前に遡るのではないかとされています。付近からは、大型堀立柱建物1棟やそれを囲む塀、竪穴式住居なども見つかっていますが、詳細は不明のようです。
4の定林寺は、創建の詳細は不明ながらも聖徳太子建立46ヶ寺に数えられ、出土瓦からの推定創建年代は、遅くとも7世紀初頭とされていますので、設問の時代には合いません。
問10 山田寺は文献資料から造営過程が知られていますが、その資料とはどれでしょうか。
1:上宮聖徳法王帝説裏書 2:日本国現報善悪霊異記
3:興福寺伽藍並流記資財帳 4:扶桑略記

大和・山田寺跡(南から) |
上宮聖徳法王帝説は、8世紀〜9世紀に成立したと言われる歴史書で、主に聖徳太子関連の系譜などが記載されています。この裏書(本文裏面に別の筆跡)に山田寺の造営過程が記されています。
2の「日本国現報善悪霊異記」は、「日本霊異記」と一般に言われているものの正式名称です。上・中・下の3巻からなる9世紀(平安時代)に編まれた仏教説話集です。
3の「興福寺伽藍並流記資財帳」は、文字通り興福寺の建立次第や寺内に納められている宝物や備品などが記録されたものです。
4の「扶桑略記」は、10世紀(平安時代)に僧皇円によって編纂された編年体の歴史書です。
問11 遣隋使小野妹子がした大失敗とはどれでしょうか。
1:隋使を飛鳥に案内する際の道を間違えた
2:隋帝の国書を紛失した
3:隋帝から天皇に送られた金印をなくした
4:筑紫に上陸した際、隋使とはぐれた
推古15年7月に隋へ渡った小野妹子は、翌年4月に帰朝します。隋使の裴世清らと共に筑紫を経て、6月には難波津に入ります。日本書紀のその時の記事に「私が帰還の時、煬帝が書を私に授けました。ところが百済国を通る時、百済人がこれを掠めとりましたために、これをお届けすることができません」とあります。使者としての任務を果たさなかったとして、流刑に処すべきだという群臣の声に、天皇のお咎めはありませんでした。
これについては、様々な憶測も生まれますが、書紀はただ簡潔に書き留めているに過ぎないように思えます。
問12 次の寺名と法号の組み合わせで間違っているものはどれでしょうか。
1:飛鳥寺-法興寺 2:豊浦寺-建興寺
3:山田寺-道興寺 4:橘寺-菩提寺
山田寺の法号は浄土寺。道興寺は檜隈寺の法号です。
本居宣長の菅笠日記の吉野から飛鳥へ入る辺りの話に、「だうくわうじ」と言う寺が出てきます。この「だうくわうじ」に至るまでの描写が、まさに現在の檜隈寺跡付近の様子に似ています。
宣長が、寺の庵に住まう法師に「ここはどういう寺か」と尋ねるのですが、「宣化天皇の宮の跡に立派な寺があったが燃えてしまった」と言う以外何も分からず、土地の人に聞いてやっと寺名が「道の光」と書くと教えられます。
問7の解説にも書きましたとおり、檜隈寺では中世に倒壊した講堂跡の礎石を利用して造られた仏堂(三間四方)が、中央北よりに存在したことが分かっています。

檜隈寺講堂跡 |
宣長が明和9年(1772)3月10日に見た「だうくわうじ」の「かりそめなるいほり」は、この講堂跡に立っていた3間四方の小さな仏堂の成れの果てだったのではないでしょうか。僧とも呼べないような法師が住まう庵が、檜隈寺の江戸時代の姿だったのかもしれません。 |
また、「大日本地名辞書(吉田東伍著・1907年刊行)」には、「於美阿志《オミアシ》神社 延喜式に列し、今檜前に在り、僧舎を置き之を守る、道興寺と曰ふ。於美阿志は史に使主阿智と云ふにあたる、即檜前忌寸の祖神なり。」ともあります。
道光寺と道興寺の寺名の違いは、宣長が菅笠日記で語ったところの「かたりひがめたる事」「又きゝたがへたるふし」などにあたり、口伝されるうちに変化していったものかもしれません。
(参考資料:本居宣長 「菅笠日記下の巻」)
問13 飛鳥寺の塔心礎の上に、舎利と共に置かれた荘厳具に含まれていないのはどれ
でしょうか。
1:勾玉 2:挂甲 3:馬鈴 4:銅鏡
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飛鳥寺の塔は、1196年(鎌倉時代)に落雷により焼失しています。翌年心礎埋納物は、掘り起こされ再埋納されています。
この時の掘り残しと思われる勾玉、金環、金銅製打出し金具、金銀延板、挂甲、馬具と見られる青銅製鈴や蛇行条鉄器などは、1957年の発掘調査で発見されていますが、銅鏡は発見されていません。(これら出土品は、飛鳥資料館の常設展示でご覧になれます。また、安居院境内には、塔心礎の位置に標が立っています。) |
馬具や武具など古墳の副葬品のような塔埋納物(舎利荘厳具)が確認されているのは、飛鳥地域では飛鳥寺だけになります。(仏具以外の舎利荘厳具の出土は、四天王寺や定林寺では金環、法隆寺では海獣葡萄鏡などがみられます。)
(参考:第10回定例会事務局員発表レポート 心礎と埋納物のお話)
(参考:飛鳥検定解説集・考古編 )
(参考: 飛鳥寺探検)
問14 亀石は、ある史跡のつけたりとして史跡指定されていますが、その史跡とはどれでしょうか。
1:高松塚古墳 2:川原寺 3:石舞台古墳 4:橘寺
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亀石は、橘寺のほぼ真西にあることから、橘寺と一体のものと思われがちですが、実際には川原寺跡の一部として史跡指定を受けています。
現在は、県道によって南北に離されている亀石と川原寺ですが、大字の境界線が亀石付近の里道に沿って設定されているために、亀石の所在地は「大字川原」になっています。 |
永久4年(1116)の弘福寺寺領の申請文書の中に「字亀石垣内」との表記があり、平安時代、亀石の付近は川原寺の寺領とされていたことがわかります。昭和35年の奈良国立文化財研究所による発掘調査の際、この永久4年の史料をもとに亀石が川原寺の寺域境界石だと考えられた関係で、川原寺の一部として史跡指定を受けたと思われます。
この他、亀石が何であるか様々な説があるので、一部ご紹介しておきます。
橘寺の寺域境界を示す標石説、地形的に飛鳥京域を示す標石説、河内野中寺の亀の線刻がある礎石に類似する石説、亀跌(きふ)説などになります。(亀趺は、亀の形をして碑等の台座になっているものを言います。この亀は、龍の子を示しているとも言われています。亀が天地を支えているとする神話は、インドや中国にみえ、亀趺はその上に建つものに権威を持たせるために用いられたようで、中国ではその使用に厳しい身分制限があったようです。)
(参考:飛鳥の石造物 亀石)
問15 飛鳥寺造営の際に百済から瓦工人が渡来しましたが、その人数は日本書紀によると何人でしょうか。
1:1人 2:2人 3:3人 4:4人
崇峻天皇元年(588)に百済から仏舎利が献上され、それに続いて僧と博士・工(たくみ)と呼ばれるそれぞれの分野の専門家をたてまつられたと日本書紀には記載されています。
専門家として、寺工(てらたくみ)・露盤博士・瓦博士・画工(えたくみ)8名の名が上げられ、そのうち瓦博士は、麻奈文奴(まなもんぬ)・陽貴文(ようくいもん)・悛貴文(りょうくいもん)・昔麻帯弥(しゃくまたいみ)の4名になっています。

飛鳥寺創建軒丸瓦
明日香村埋蔵文化財展示室収蔵品
(掲載許可確認済) |
(参考:飛鳥寺探検)
(参考:飛鳥寺跡)
問16 岡寺の創建時の軒平瓦の文様はある果物をモチーフにしていますが、その果物とはどれでしょうか。
1:モモ 2:ブドウ 3:ミカン 4:リンゴ

葡萄唐草文軒平瓦
(瓦歴史資料館) |
岡寺創建時に使用された軒平瓦は、「葡萄唐草文」と言われる文様で、海獣葡萄鏡などに見られる葡萄唐草文よりは、繊細な突線で枝や房が表現されています。上下に区画された軒平瓦の上に線鋸歯文、下に葡萄唐草文を配置する飛鳥でも珍しい文様になります。 |
同種の瓦が出土する大和内の寺院が山間や高台などに立地することから、山岳寺院特有のものだと解釈されるに至っています。この軒平瓦は、統一新羅(669〜935)の影響を受けていると考えられ、岡寺出土のものが我国ではその初見だとされています。
岡寺は、「扶桑略記」「七大寺年表」などの記録から、僧・義淵が建立したとされています。義淵は、草壁皇子と岡宮で一緒に育てられたとも言われ、その縁から持統天皇の勅願を受けて、皇子の菩提を弔うために、岡寺を建てたとされているようですが、詳細は不明です。
創建岡寺は古瓦の出土や礎石の残存から、現岡寺の門前を少し西へ行ったところにある治田神社付近に建立されたと推定されています。創建期は、出土瓦の推定年代と史料などとの突き合せから、7世紀後半から8世紀であろうとされています。
1のモモは、近年では留蓋と呼ばれる屋根先に乗っている意匠瓦で見ることも出来、これらに桃が用いられたのは、桃が豊穣や魔除けなどを意味する縁起物だからと考えられますが、古代の軒平瓦の意匠にはありません。
3のミカン、4のリンゴは、古代日本の軒平瓦の意匠としては存在しないと思います。
問17 高松塚古墳壁画はいつ発見されたでしょうか。
1:昭和58年 2:昭和53年 3:昭和47年 4:昭和45年
昭和47年3月21日午後0時半頃、高松塚古墳の発掘調査をしていた網干善教氏一行は、盗掘口のある南面を掘り進み盗掘口に到達します。中を覗いた網干氏は、壁に何か描かれている事を発見します。最初は、何かの間違いではないかと思ったと回顧しています。それほどの大発見だった訳です。我が国で古墳壁画が最初に発見された瞬間です。発掘に従事していた学生の一人は、当時を振り返って「前日の(20日に掘り進む予定が大雨の為21日に延期となっていた)大雨の凄まじさは、まるで高松塚の被葬者が「開けるな」と言っていたかのようだった」と話しています。
昭和58年は東京ディズニーランド開園の年。昭和53年は藤井寺の三塚古墳から8.8mもの巨大修羅が発見された年。(現在その巨大修羅は近つ飛鳥博物館に展示されています) 昭和45年は日航機よど号のハイジャックや三島由紀夫の割腹自殺があった年です。年月の経つのは速いものです。
(参考:遊訪文庫・高松塚古墳雑考)
問18 高松塚古墳の天井石は4枚で構成されていますが、この天井石は築造時に、どの順番で組まれたのでしょうか。
1:北から南へと順番に組んだ
2:中央を置いて、北と南を組んだ
3:南から北へ順番に組んだ
4:四つ一緒に組んだ

高松塚古墳石室石組模式図 |
天井石4枚の組み方の順番は、天井石に「合い欠き」と呼ばれる組み合わせのための掘り込みが作り出されていることによって分かりました。
石室は、長さ9尺、幅3.5尺と計画的に精巧に作られているにもかかわらず、天井石4枚の内、最後の4枚目だけが小さく薄くなっています。 |
時の工事現場監督は慌てたことでしょう。何故こんな事になったのか分かりませんが、3枚で全部を覆うつもりが寸法不足であったのかも知れませんし、4枚目に何か特別の意味を持たせたのかもしれません。単に設計ミスだったのかもしれません。今後の検討が待たれます。
皆さんも何か思い当たるところがあれば考えてみて下さい。
(参考:遊訪文庫・高松塚古墳雑考)
問19 高松塚古墳の石室には、漆喰が塗られ壁画が描かれていますが、この壁画はいつ描かれたのでしょうか。
1:石室を組み上げてから漆喰を塗って描いた
2:石材に漆喰を塗って壁画を描いてから組み上げた
3:石材に漆喰だけ塗って、組み上げてから壁画を描いた
4:石材に漆喰を塗って、下書きしてから組み上げて壁画を描いた
高松塚古墳は一旦石室を完成させた後、南側の版築を取り除き、南壁を取り外して壁画を描いています。壁画の完成後に南側に墓道を設け木棺が搬入され、再び南壁を取り付け密閉した石室となり、その後丁寧に版築が成されています。
石室の閉塞石である南壁石の中央底辺部から5個のえぐり穴が見つかっています。穴は幅8〜10cm、高さ6〜7cm、幅78cm。ほぼ等間隔に並び、ノミで削ったとみられています。床石にもノミの跡が残っており、これらは南壁石を取り外した痕跡だと考えられました。
壁画を描く際には、予め下絵が用意されていたものと考えられ、下絵を壁面に転写し、下描き、彩色、描き起こしの順で作画したようです。
(参考:遊訪文庫・高松塚古墳雑考)
問20 高松塚古墳の石室には、漆塗木棺が置かれていましたが、どのように置いてあったのでしょうか。
1:床石にそのまま木棺を置いてあった
2:石室にそのまま遺体を置いてあった
3:床石に木製棺台を置いてその上に置いてあった
4:床石に石製棺台を置いてその上に置いてあった
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答えが2でない事は直ぐにお分かり頂いたと思いますが、答えは3です。2007年8月、解体作業中の発掘調査で、床石に棺台の痕跡が発見されました。床石全面に塗られた漆喰に厚みの違う所があるほか、石室中央部で長方形に黒く変色した部分が確認され、木棺のサイズよりも一回り大きいことから、棺台の痕跡と考えられました。 |
棺台の大きさは、長さ217.5cm、幅67.5cmと推定、側壁に付いた傷跡から高さは17cmと推定されました。その棺台の上に、黒漆が幾重にも塗られた木棺が置かれ、荘厳さを演出していたように思われます。
副葬品として盗難を免れた金銅製透飾金具や金銅製円形飾金具、金銅製六花文座金具などが発掘されており、被葬者がいかに高貴な人であったかがうかがわれます。
(参考:遊訪文庫・高松塚古墳雑考)
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